2011年02月10日

●和文解釈入門 第1回

題名を和文露訳としなかったのは、露文和訳と露文解釈の違いを当てはめてみたかったからである。露文解釈というのはロシア語の勉強を始めたその瞬間から始まり、プロであろうと素人であれやっていることだが、露文和訳は文学であれ、技術であれプロでしかやれない。正しい日本語が文字に現れるプロの職業である。和文解釈ならみな頭の中でやっているわけで、厳密な、そして美しいロシア語でなくとも、文法的に正しいロシア語であればよいと考えてこういう題名にした。頭の中のロシア語ではテレパシーができるわけではなく誰にも分からないので、プリントアウトのような形になってしまうのはやむを得ない。形式はいつものように雑文と今年の自分のテーマでもあるロシア語や日本語の類語(類義語)のあとに和文解釈の設問を入れ、読者の回答があれば、回答に私のコメントと答えを書くし、読者の応募がなければ、次回回答を紹介すると言う形にしたい。和文解釈はロシア語の日常会話でも必要だし、プロを目指す初級(年齢を問わず)の方にも必要だと思う。まあしばらくは続けてみよう。
「古語の謎」(白石良夫、中公新書、2010年)の中に、古文辞学の荻生徂徠の主張として「古語の語義・用法を知っただけでは、ほんとうの古語の理解とはいえない。古語を使って詩や文章が書けてはじめて古語が理解できたと言えるのであり、また古人の心を知ったといえるのである」とあり、さらに「英文学者が英語の文章を書けなければおかしいように、漢文を書くことは儒者なら当然のこととされる」という文章が続く。英文学者をロシア語研究者と読み替えても何らおかしくはない。ロシア語の研究をしていてロシア語の文章が書けず、会話ができない人がいれば、それは常識的におかしいと言わざるを得ない。何も通訳やガイドのまねをしろといっているのではない。自分の研究分野、たとえばドストエーフスキーの研究をしているなら、ドストエーフスキーに関してロシア人の研究者とロシア語でやりあえるくらいの語学力がなければ、また実際にそういうやり取りをしなければその研究も進んでいかないのではないかと考えるからである。実際のところはどうなのだろう。ロシア語の研究者は少なくとも自分の研究分野はロシア語で書いたり話したりできるのだろうか。技術通訳を長年した経験から言えばシンポジウムでの発表をロシア語ですることはそんなに難しいことではない。前もって準備できるからだ。難しいのは質疑応答である。その場でのロシア語の質疑応答が自分の得意分野でこなせるかどうかということである。
「長い」を日本語に訳せと言われても、ロシア語では物体の長さについてか、時間の長さかによって訳が違う。使い分けは物体の長さならдлинныйを、時間の長さならдолгийが一般的で、долгийの類語としてдлительный やпродолжительный は書き言葉や演説に、またこの二つは動名詞(хранение, изучение)などとの語結合が多い。длинныйは時間的なものにも使えるが、длинный разговор(長い話)というようなニュアンスである。долгий разговорといえば(話せば長くなるが)と言う意味になる。直接時間の単位に関係したものならдолгие минуты, долгие неделиなどといい、продолжительныйとдлительныйの違いは、それぞれの固有の語結合があるものでしか区別できないが、продолжительныйは音に関してпродолжительные аплодисменты(長く続く拍手)のように用いられ、またпродолжительна болезнь(長患い)も決まった言い方である。длительныйは時間的に長いということでдлительное воздействие(長期にわたる作用)などという。
設問)「イワノフさんがいらっしゃっています」をロシア語にせよ。

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2011年02月11日

●和文解釈入門 第2回

金兎金というのは貴金属店のようだが、この看板を見て金鍍金とひらめいた。鍍金はメッキだから本物の金とメッキの金を見分けると言う意味でいいのではないかと思った次第。
「統一する」というのはобъединить Японию(日本を統一する)のようにобъединитьを普通使うが、内装や色調を統一するという場合はвыдержатьを使う。多くは被動形で使われる場合が多い。例えば、Интерьер выдержан в классическом японском стиле.(内装はクラシック的な日本調で統一されている)とかКабинет, выдержанный в белых тонах(白いトーンで統一した書斎)などと使う。また案というのも契約案というような草案という言う意味ではпроект で、проект контракта(契約案)とかпроект соглашения(協定案)などというが、いくつかある案の中の一つというのであればвариантを使い、компромиссный вариант(妥協案)などとする。промышленностьというのは工業と鉱業を含めたもので、тяжёлая промышленность (= тяжёлая индустрия) 重工業、лёгкая промышленность (= лёгкая индустрия) 軽工業、というが、その同意語のиндустрияのほうがより意味が広く産業と訳して問題ない。индустрия развлечения 娯楽産業、индустрия информации 情報産業、информационно-телекоммуникационная индустрия (ИТИ) IT産業、индустрия туризма 観光産業、спортивная индустрия スポーツ産業、индустрия азарта 賭博産業などと使う。
設問)下の二つの文をロシア語にせよ。
「このバッグを買ったのよ」
「どこで買ったの?」

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2011年02月14日

●和文解釈入門 第3回

和文解釈で一番難しいのは基本的な類語(類義語)や体(完了体と不完了体)の使い分けである。長く露文解釈をやって体の用法が分かったつもりでいても、実際に和文解釈で使ってみて正しくどちらの体を使うのか分からなければ、それは理解したことにはならない。そこでしばらくは体の用法で設問を組み立ててみる。
 あるとき韓国系の商社に誘われて商談の後昼食を先方が用意してくれた。私と一緒に行った部長はそれを後でのお返しが大変であると断った。それはまずいでしょうと一応部長を説得したが聞かない。先方はわが社の飯が食えないのかということで(当時韓国には日本に対する劣等感のようなものがあった)、当然その後のビジネスの話はなくなった。部長も悪気がなく、英語も社内一できる人で対外関係が分からないわけではなかったのだが、韓国風の(東洋風な)義理ということが、日本風の義理と合わなかったのだろう。そのとき最初のモスクワ駐在を終えてすぐだったので、両方の反応がなんとも不思議な気がしたのを覚えている。生まれつきとか、育った環境もあるのだろうが、こういう義理というのが好きではない。
 観光ガイドで身代わりのお札амулет-двойникの説明をすることがある。ご参考まで。成田山の身代わり札の由来は、天保2年大工の辰五郎が仁王門の上棟式で5~6丈の高さの足場から落ちたが怪我一つせず、門鑑が二つに割れていた。旅順攻撃で有名な荘司大尉の身代わり札も真二つに割れていた。だからこのお札が身代わりとなるのですよというとフーンというぐらいで興味を示さないロシア人がほとんどだ。
「どんなスポーツが好きですか?」をКакой спорт вы любите?とすると間違いで、Какой вид спорта вы любите?となる。スポーツの種目を聞いているからである。このほかにвид транспорта(交通機関の種類)などもそうである。抽象名詞だけではなく、два вида крестьянских преступлений(2種類の農民の犯罪)などとも使える。種類という意味ではродも使われる。три рода темы(3種類のテーマ)。родの複数はроды"だが("は力点を示す)、軍関係の兵科という意味では複数はрода"となる。все рода" войск(すべての兵科の部隊)などである。無論、出産という意味では複数形のみのро"дыである。タイプはтипでдва типа любви(二つのタイプの愛)やモデルを使って、две модели развития стран(国の発展の二つのモデル)なども使える。
設問)「1875年彼はウラジオストークに着いた」をロシア語にせよ。

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2011年02月15日

●和文解釈入門 第4回

ドストエーフスキーの「罪と罰」の主人公ラスコーリニコフのモデルと言われ、プーシキンの「スペードの女王」の主人公ゲルマンの雰囲気を漂わせたと言われたのは、工兵大隊所属近衛兵准尉カルル・ランズベルクК. Х. Ландсбергだった。なかなかのハンサムだったが、顔は笑っても目は冷たいままだったとジャーナリストのドロシェービチは書いている。ランズベルクは1879年65歳の金貸しウラーソフおよびその下女(料理女)セミニードヴァ殺害の件で15年のサハリン流刑を申し渡された。当時の権力者トテリェーベン伯爵令嬢との婚約も決まったときに、借りた金の返済をしつこく迫ったウラーソフ(7等官)を殺したわけである。ランズベルクは1875年~76年のコーカンド汗の反乱鎮圧にも参加し、人を支配する側と支配される側に分け、自分は前者に属し、人を殺すことを別に何とも思っていなかったようである。流刑地のサハリンでも成功し、支配者としての生活を送った。
 ベッドにはкровать とпостельがあるが、кроватьはベッドそのもので、постельは寝具спальные принадлежностиも含めての寝床である。ゆえにлежать в постели(ベッドで横になっている)とか、Вам кофе в постель?(コーヒーをベッドまでお持ちしましょうか?)という文では前置詞はвを取る(ただ病人が「床上げする」はподняться (встать) с постелиで、これは動詞の格支配が強いからだろう)。そしてОн умер на своей кровати.(かれは自分のベッドで死んだ)ではнаを取ることが理解されるだろう。
糞も日本語同様いろいろ使い分けがある。排泄物はиспряжнения, экскременты(ともに複数形で用いる)であり、(大)便はкалであり、какаはウンチ(幼児語)、鳥の糞はпомёт、犬などの(道にある)落し物はкучки, кучаで、牛の落し物はблины, лепёшкиという。語結合で見てみると、человеческий кал 人糞、лошадиный кал (испряжнения) 馬糞、собачий кал 犬の糞、птичий кал 鳥の糞、куриный помёт ニワトリの糞、голубиный помёт 鳩の糞、воробьиный помёт 雀の糞、коровий помёт 牛の糞、конский помёт馬の糞、свиные испряжнения 豚の排泄物、собачьи кучки 犬の落し物、котяхи 乾いた糞、коровьи лепёшки(кал) 牛などの落し物、аргал, кизяк 乾いた燃料用の糞、навоз 厩肥、стул 便通、「クソ(ッ)」という卑語ならговно, дерьмоなどである。また便の硬さはконсистенция калаで、下痢便はдрисня(卑語)。
設問)「明日モスクワに出張なんだ」をロシア語にせよ。

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2011年02月16日

●和文解釈入門 第5回

この和文解釈入門を始めたのは、会話で和文をロシア語にするときに、特に時制(現在、過去、未来)などを考えるときに、何かサインとなるものを提示できないものかと考えたからである。このサイン(合図でも目印)があれば、完了体を使うとかという意味である。一通り文法をやってから和露辞典で単語を拾っても、よほど辞典にある例文がぴったりでない限りそれだけではロシア人に通じる文にはならないのが普通である。ロシア語作文でよく使われる現在形の文の動詞に過去なら-л/-лаなどや、未来ならбытьの未来形をつければよいという単純なのではない。かといって我々多くのプロがやっているような何万もの言い回しを、たとえば会話集の語彙などを、書かれているがままに(文法的には疑問に思っても、ロシア語ではそういうのだからと自分を納得させて)、場面ごとにひたすら暗記するというのは、二十歳を過ぎた人の学習法ではないと思う。そこでできるだけ文法に即して(できるだけ理屈抜きに暗記すると言うのは避けるという方法で)、合理的に理詰めに続けてみたい。少しでも和文解釈の参考になれば幸いであるし、これでсухая грамматикаが少しでも興味が持てるようになってもらえればなおさらうれしい。
2001年頃モスクワの地下鉄内で物乞いする人が結構いた。ロシア人は物乞いに寛容で、お金をあげる人も結構いた。あるとき、中年の男の乞食が車内で物乞いを始めた。若い女性が小銭を渡したところ、その金を放り投げて、「こんなカペイカじゃ何も買えない。くれるならもっとましな額をよこせ」とどなった。その女性は真っ赤になって、次の駅で降りた。こういう乞食もいる。ロシアの乞食はほとんどプロと考えてよい。ショ場代をやくざに払って営業しているわけだ。松葉杖をついて物乞いしていた傷痍軍人が時間になると、松葉杖を脇に抱えてスタスタ歩きだしたというのも見た頃がある。営業時間が過ぎたからだろう乞食は売春婦とならんで世界一古い職業だそうだが、ザベーリンによればロシア語の乞食という言葉には、17世紀初め宮廷付きの乞食(歌手)という職業の意味があるという。宗教詩を、節回しをつけて歌いながら喜捨を乞うていた。
地図はкартаだが、市内案内図という意味ではплан городаを使う。地図ではないが地下鉄の路線図などはсхема линий московского метрополитена(モスクワ地下鉄路線図)のようにсхемаを使う。コテはмастерокとкельмаがあり、мастерокはサイドが丸いレンガ積みやモルタル塗用であり、кельмаはサイドが二等辺三角形のようになっているものを指す。
設問)「よくお休みになれましたか?」をロシア語にせよ。

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●和文解釈入門 第6回

19世紀中ごろ日本の開国直後の外国人訪日記を読むと、必ず混浴について書かれており、日本人は裸に羞恥心を覚えないとある。いずれも非常に客観的な書き方であり、だから日本人は野蛮だというのではなく、文化の違いによるのだとしている。シドモア女史の「シドモア日本紀行」では、じろじろ裸を見る異人を日本人は軽蔑するというような記述がある。現代でも人前でじろじろ見つめられれば、見つめる人が無作法だと思うのと同じ感覚であろう。しかし、現代のロシアでもサウナにおいて年配の人達の男女混浴はよく見られるということをロシア人から聞くし、その写真を見せられたこともある。これは本当に心から見たくはなかった。「シベリアと流刑」(ジョージ・ケナンがシベリア流刑の政治囚について調査する前に精読し、非常に役に立ったと述べている)を書いた旅行家で民族学者のセルゲイ・マクシーモフは1861年に今の函館に10日間滞在して、日本人とロシア人の違いについて述べているが、混浴についても当時のロシアでは、モスクワやペテルブルグではないが、田舎に行けばサウナでの混浴は普通に見られる現象で驚くには値しないと述べている。
 「次の」はследующийだが、Свечу переносилив в очередной дом.(ロウソクは次の家にもって行った)というようにочереднойも用いられる。очередная задача = ближайщая задача(緊急課題、喫緊の課題)なども覚えておくとよい。
 ガイドをしていると歩道のデコボコは何のためかよく聞かれる。「目の不自由な人」ためだと言おうとして、ロシア語で何と言うのかしばらく調べていたことがある。слепойというのはロシア人でもやや失礼な感じがあるらしい。どうやらслабовидящие и незрячиеでいいという事が分かった。案外露訳しにくい「目明き」はзрячийである。
設問)次のやり取りをロシア語にせよ。
「だれか助けて」
「今行くぞ」

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2011年02月18日

●和文解釈入門 第7回

発音やイントネーションを除いて、ロシア語をロシア人に習うのはどうかということを書いたが、習ってもいいロシア人がいる。それは日本でガイド試験に受かったロシア人である。今まで私の知るところ3人(女性一人、男性2人)の若いロシア人が合格しているし、今後少しずつ増えて行くだろう。一人についてはたまに電話やメールをもらうが立派な日本語である。こういう人たちは自分たちが日本語で苦労しているから、ロシア語の初級者についても和文解釈の分かりにくいところを日本語で分かりやすい説明してくれる可能性が多いと思う。一方日本の大学でも何人かのロシア人の先生がロシア語を教えているが、それが和文露訳となれば、和文露訳の授業をする上でのロシア語の日常会話の説明(こう言うんですとか、類似表現)はこなせても、ロシア語のニュアンスの差を日本語で説明できるレベルの日本語が出来る人はどのくらいいるのだろうか?和文露訳でこういう先生について学習効果があるのは、自由にロシア語で質問が出来、その解説をロシア語で理解できるロシア語の上級者にならないと無理だろう。
東京遷都について、1868年大久保利通は大阪遷都を提議したが、前島密がひそかに東京に遷都すべきという内容の書簡を大久保に遣わしたと「前島密自叙伝」(日本図書センター、1997年)にある。その主張は、
・蝦夷地開拓を考えると日本の中央に位置する東京が管理面で便利であること。
・大阪は小船用であり、修理の設備も近くにない。東京は大艦巨舶も受け入れ可能であるし、修理のために近くに横須賀がある。
・大阪は道路が狭いが、東京は広い。
・大阪の道を広げるためには巨費を要する。
・大阪に移せば、官邸、学校など新築せざるを得ず、金がかかる。東京であれば、江戸城を活用できるので国費の無駄もない。
・大阪は首都にならなくても衰微しないが、東京は首都にならなければ、人々が離散して寂びれる。
1895年オープンしたレストラン「ノーヴィ・エルミターシュНовый Эрмитаж」のメニューにотец с сыном = холодный поросёнок с ветчиной(父子〔ハム付冷製子豚〕とある。ロシア版親子丼だ。
庭はсадと訳すと思われるか知れないが、садは樹木も生えた道もある、いわゆる庭園である。日本語の庭には広辞苑によれば6つの語義があり、現代で通用するものは庭園と「家の出入口や台所の土間」であり、我々庶民の家の庭と言えば、後者の玄関周りの空間で、植木鉢を置いたり、ちょっと草花でも植えたりしている場所ということになろう。家の周囲にある庭ならдворикであろうし、玄関前ということになればпалисадникが適当という事になる。我が家にсадがあるとロシア人にいえば、どんな豪邸に住んでいるのだろうと思われる可能性が大きい。
設問)「追剥が通行人に「背広を脱げ」と言いました」をロシア語にせよ。

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2011年02月19日

●和文解釈入門 第8回

この和文解釈入門の対象者は、ロシア語を6カ月から8カ月ぐらいまじめに勉強した人(NHKのラジオ講座を最低半年くらいまじめに勉強した人)のレベルからそれ以上を考えている。中級者にとっても復習になるように配慮しているつもりである。一見文法関係の専門用語があるとびっくりする人がいるかもしれないが、一応内容については説明しているし、なにせ日本語である。説明が分かりにくければ具体的にその旨ご指摘いただければ、別途詳しく説明してもよい。
現世の御利益という観点で、仏教とキリスト教などを見てみると、庶民と聖職者など専門家の間には信仰の理解に大きな差があることが分かる。片方は現世利益であり、これには試験に合格するようにとか、安産、厄除けが含まれる。一方仏教やキリスト教の宗旨を見れば、お釈迦様は死や病気の恐怖から解脱する方法を、キリストは天国に至る道を述べているのであり、どうみても現世の御利益とは関係ないようである。ところがお寺で売っているお守りを見るまでもなく、神道・仏教とも庶民にとっては現世利益のみであり、そうでない寺は経営状態が悪くなって寂びれる。またキリスト教でもマリア信仰(ルールド)や、聖ニコラ(革命前のロシア正教など)などの聖人信仰も庶民にとっては現世の御利益を願ってであろう。宗旨に沿ってその宗教を究めようとする専門家は少数派のようである。キリスト教徒で作家の曽根綾子も旧約聖書は勧善懲悪だが、新約聖書は現世の御利益を一切拒否する思想であると述べている。キリスト教は永久の命を約束する宗教であるという。イスラム教は違うのだろうか?
若いころпо болезни とかпо причинеという言い回しを入れた文はなぜかロシア人に見せると直された。理由を尋ねてもこうは言わないというだけである。今にして思えば、これらは文法的には正しいが官僚的で硬い感じがするから、ビジネスレターとか演説などでないとロシア語では使わないのだという事が分かるが、ロシア人にロシア語ではこうは言わないと言われても初級者は困ってしまう。それ以降ロシア人の言う事はあくまでもインフォーマントの意見として自分で露露辞典や参考書なりで調べることにした。素人のロシア人でなぜ使えないのかその理由を文法学者のように説明できる人はいない。いたとしても自分の憶測や思い込みを言ってしまう可能性がある。ロシア人がこう言ったと錦の御旗のように振り回すのではなく、専門家(文法学者)の書いた参考書で勉強することを勧める。
恩赦という意味ではамнистияとпомилованиеがあるが、амнистияは時の最高権力によって発せられたもので、大赦とか特赦とするのがより正しい。「前払い」をавансと訳しても間違いではないが、若干ニュアンスの差が出る。авансはもともと「仮払い」のことであり、ビジネスの前払いは普通предварительная оплатаであり、長いのでпредоплатаとする。厳密に言えばавансというのは契約金額の100%前払いではなく、30%とか一部の前払いであり、契約直後30%前払いで、残りは船積後などという場合の前払いで使われる。
設問)「今御社に向かっているところです」をロシア語にせよ。

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2011年02月20日

●和文解釈入門 第9回

 チェーホフの短編「はねっかえり」Попрыгунья(1892年初出)の主人公のモデルについては、ラーザレフ・グルジーンスキーЛазарев-Грузинскийの書いたものの中に、ソーフィヤ・ペトローヴナ・クフシーンスカヤСофья Петровна Кувшинскаяとある。小説の方の主人公はスラム街の治療に尽くす医者の若奥さん(20歳)で、風景画家リャボーフスキーРябовскийと不倫するというテーマである。この画家がチェーホフの友人の画家レヴィタンと噂されたのでチェーホフも困ってしまった。クフシーンスカヤは当時40位で美人でもなく、かなり変わった人だったという。ワシーリエヴァという女性がクフシーンスカヤと最初に会った時のことをラーザレフ・グルジンスキーにこう述べている。馬に乗ったアマゾンという感じで裸体に部屋着をはおっただけで疾走し去ったという。クフシーンスカヤの夫は警察医で、スラムを担当していた。おかげで1年から1年半ほどレヴィタンはチェーホフに腹を立てていたという。クフシーンスカヤもチェーホフに腹を立てたという。ただ夫婦間に波風は立たなかったようである。クフシーンスカヤはぱっとしない画家だったが、死後彼女の絵の展覧会が行われたが、やありぱっとしなかったようである。クフシーンスカヤは夫やレヴィタンやチェーホフより長生きして、モスクワ郊外の別荘である伝染病患者の世話をして伝染病に感染して亡くなったという。
機能動詞というのは日本語の「する」と同様、目的語の名詞の意味の動作を行うという意味になる動詞である。делать, проводить, производить, выполнять, осуществлять, совершатьがそうであると拙著「アネクドートに学ぶ実践ロシア語文法」(48~53ページ)に書いたことがあるが、他の動詞でもそのような働きをする場合もあるので、何回かに分けて書いておく。
- войти/входить в + 対格 -(~になる)
входить в действие (силу)(実施される), в доверие (милость) к + 与格(信頼を得る), в известность(有名になる), в моду(流行となる), в поговорку (пословицу)(語り草となる), в привычку (обычай)(習慣となる), в славу(有名になる), в соглашение(協定を結ぶ), в употребление(使われるようになる)
- дать/давать -
давать веру(信じる), жизнь(息を吹き込む), задание(課題を与える), занавес(幕を引く), звонок(ベルを鳴らす), имя (название, прозвище)(名づける), нагоняй (взвучку, головомойку)(お目玉をくらわす), обет(誓う), обещание(約束する), ответ(答える), отпор(反撃する), отставку(引退する), пас(パスする、トスする на удар), промах(へまする), разрешение(許可する), распоряжение(指示する), слово(約束する、言質を与える), согласие(同意する), телеграмму(電報を打つ), толчок(刺激を与える)。
- пойти/идти на + 対格 (быть готовым, способным, решаться, соглашаться ~に応じる用意がある) –
идти на верную гибель(決死の思いでゆく), на войну(戦争に行く), на всё(どんなことでもやりかねない), на опасность(危険に赴く), на посадку(着陸する), на признание(認める用意がある), на риск(リスクを覚悟する), на уговоры(説得される用意がある), на уступки(譲歩の用意がある)。
- иметь -
иметь влияние(影響する), намерение(意図する), понятие(理解する), соприкосновение(接触する)がある。
設問)「お飲みものは何になさいますか?」をロシア語にせよ。

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2011年02月22日

●和文解釈入門 第10回

ここに載せた体の用法の表は改訂の上第150回に載せたので、そちらを参照願う。
設問)「何かあったら、いつでもお手伝いしますよ」をロシア語にせよ。

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2011年02月23日

●和文解釈入門 第11回

ここで和文解釈(会話で使う和文露訳)について書いているが、それは自分の経験から来ていて、これからロシア語を深く学びたいと言う人に、ロシア語本来の面白さを伝えたいと言う事と、そういう人たちのために機械的暗記をできるだけ少なくできないかと考えたからでもある。ロシア語をプロとしてやる以上いつかは覚えなければならないのだから、盲目的にあらゆる表現を暗記してゆこうと思い、また効率的に覚えるために自らの批判を封じ、ロシア人がこう言った、こう書いたという事を確認できなければ、類推可能でも新たな表現を使えないという心理に陥ったことが多々あるからだ。ロシア語の表現を何万でも暗記すれば(20年以上ロシア語をやっていればその可能性はある)、帰納的に知らない表現でもこうなるのではないかと類推できるようになるはずだが、自ら心理的にそれを拒否してしまうようになってしまうかもしれない。それを防ぐためと、学習期間の短縮のために中級や上級の文法は存在するのだと私は思っているし、文法のおかげでロシア人に頼らなくてもロシア語をやっていける自信ができてきたように思う。
(機能動詞その2)
- оказать/оказывать -
 оказывать влияние(影響する), внимание(配慮する), гостеприимство(歓待する), давление(圧力をかける), действие(作用する), поддержку(支持する), помощь(援助する)で、принимать ванну(風呂に入る), меры(措置を取る), присягу(誓う), распоряжение(指示する), решение(決定する), смерть(死ぬ), согласие(同意する), сопротивление(抵抗する), сторону(~の側に立つ), тёплый приём(歓迎する), услугу(世話をする), участие(参加する), экзамен(試験する)。
- пользоваться –
пользоваться авторитетом(権威がある), доверием(信頼されている),праом(権利がある), преимуществом(利点がある)、популярностью(人気がある), репутацией(評判がいい), свободой(自由を享受する), успехом(成功する), уважением(尊敬されている)もある。
- поставить/ставить –
ставить диагноз(診断する), оперу(オペラを上演する), опыты(実験する), рекорд(記録を打ち立てる), термометр (градусник)(温度計を脇の下に挟む), фильм(映画を作る)。 - представлять/представить –
представлять ценность(価値がある), секрет(秘密である), трудности(困難である)
設問)「1985年からこの工場で働いています」をロシア語にせよ。

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2011年02月24日

●和文解釈入門 第12回

ソ連時代はすべての公団や企業、ロシアになってからは大きい会社やカザフからの出張者は、командировочное удостоверение(出張証明書)を持っていて、これに日本側の受け入れ先にスタンプと到着日、出発日を書いてもらうことになっている。官僚主義といえばそうだが、日本の会社によっては対外的な社印は部長の許可がいるとか、なかなか押してくれないことがある。そうなるとロシア側としては大いに困る。この出張証明書に日本側のスタンプがないと出張と認められないため、出張費が出ないことになりおおごとである。ところが日本の会社ではそういう慣習がないので(一部の公務員にはあると聞いたが詳しくは知らない)、ピンとこない。そこでホテルのフロントに泣きついてホテルの日本語(日本語だと何が書いてあるかわからないので非常に便利)のスタンプを押してもらったことが何度かある。宿泊したのは間違いないし、到着日と出発日だって確認せよといえば嫌とはいえない。嘘ではないからだ。
復習のために否定の話をしてみよう。存在の否定には生格が来る(Места нет.〔空きなし〕というのは知っていると思う。補語(目的語)を取る動詞で、желатьも補語として基本的には生格を取ると言うのも抽象的なものは生格という考え方がロシア語にはあるからだ。Удачи!〔うまく行くといいですね、Good luck〕、Спокойной ночи!と生格になるのはЖелаю/Желаемが省略されていると考えるとよい。無論желатьでは稀だが、具体的な補語を取る時は(Что вы желаете?ぐらいか)対格を取る。「求める」という意味のпроситьでは30年ぐらい前の参考書では具体的な補語を取る時は対格を、抽象的な補語のときは生格をと書いてあったが、いまはみな対格で統一されつつあるらしい。このようなロシア語の発想を覚えておくとよい。
 現在の動作の否定はというと、個人的な考えだが、新規なものを否定するということで不完了体現在形を使うのが普通である。「分かりません」はЯ не понимаю.という。ところが一歩進めて、不可能の場合はというとЯ не пойму.と完了体未来形が出て来る。これは前回の例示的用法の発想だろう。可能・不可能についてはмочь, смочь, уметьで表すのが普通だろうが、この違いについては別に書くこともあろうし、初級文法書でもある程度は説明しているだろう。Я не пойму.は未来の完了の否定ではなく、「(現在)理解できない」とか、今風に言えば「わけわかんない」ということであり、Я не понимаю.よりは意味が強い。
別の例で示せば、「駅の行き方を教えてください」という場合、新しい事柄だから、Скажите, пожалуйста, как пройти на станцию.と完了体の命令形が出て来る。これをやや丁寧にすると(否定疑問文にすると日本語でも「~していただけないでしょうか」とより丁寧になるのはロシア語と似ている)、Не скажете ли вы, как пройти на станцию?となり、これはНе можете ли вы сказать, как пройти на станцию?と同じ意味である。このことから可能・不可能というのに完了体が関わってくることが分かる。ちなみにНе могли бы вы сказать ~?と仮定法を使えばさらに丁寧な言い方になるが、仮定法についてはいずれ取り上げることがあるかもしれない。
設問)「とうとうズィミナーさんはいらっしゃいませんでしたね」をロシア語にせよ。

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2011年02月25日

●和文解釈入門 第13回

革命前のロシアの作家の稿料(文筆料)というのは低く(20枚で200~300ルーブル)、それも雑誌や新聞が主な収入源であり、本ではなかった。15枚5000部で500ルーブルももらえれば御の字だった。1905年の第一次革命の後、実質的検閲がなくなって、それから何千もの出版社が現れ、本の出版が本格的になり、それからである。チェーホフもこれには間に合わなかった。無論ドストエーフスキーもガルシンもナトソーンも死ぬ時は金に困っていた。子供向けのものは読者の年齢が小さいという事で稿料が最も安く、支払われた版権は50~70ルーブルだった。
この頃本が売れずに出版社も困っているらしい。ただ本の需要はあるわけで、今後は電子書籍に移ってゆくのは当然の成り行きと思われる。それゆえ編集者や出版社の役割はこれまで通り必要だとは思うが、出版所はなくなってゆくだろう。当方も「和露技術用語千」や「和露観光用語集」など出版したいのだが、読者の対象が非常に限られているので売れ行きが芳しくないというのは分かっている。ブログやホームページを使ってタダで紹介すればいいようなものだが、当方は定職があるわけでもないし、家族ともども食っていかなければならないし、それなりに苦労したものをタダでというのにも抵抗がある。予約販売でもいいが、それだと常識的に500部か1000部ぐらい予約注文(前払い)を読者からもらう必要がある。これも難しい。それならシェアウェアとなるが、コピーをどう防ぐか、暗証をどうするかなど難しい。これが簡単にキンドルなどで利用してもらえるようになれば、本の出版も増えて行くと思うのだが。
「人は木から落ちても人だが、議員はサル(去る)」。こういうのはロシア語にならないなとは思いつつも、閑な時たまに露訳を考えることはある。Человек остаётся человеком, если он упадёт с дерева. А депутат, если он провалится на выборах, то останется с носом.まだまだ改良の余地はある。
形容詞の長語尾と短語尾の違いというのは、一般的に長語尾の方が永続的で、短語尾は書き言葉的で、かつその時点ではというニュアンスがあるが、長語尾と短語尾では意味がやや異なる場合もある。Он болен.(彼は病気だ).と Он больной.(彼は病気がちだ「больнойを名詞と理解すると(彼は病人だ)で、いずれも永続的ニュアンスである」のほかに、Он жив.(彼は生きている)とОн живой.(彼は生き生きしている)がある。живойは「生きている」という意味では、名詞の修飾はできるが、述語として単独では使えない。сохранить (оставлять)в живых(生かしておく), остаться (оставлен, оказаться) в живых(生きている), застать отца в живых(父の死に目に間に合う、生きている父に会う)、как живые (живой)(生きているかのように)となる。мёртвыйも「死んだ」という意味では短語尾であり、Он мёртв.(彼は死んだ)となる
 Он погиб от случайной взрыва. を「彼は偶発的な爆発で死んだ」と訳してもよいが、少し考えて、「彼は爆発事故で死んだ」のほうが日本語らしい。
設問)「お帰りになる時は明りを消して下さい」をロシア語にせよ。

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2011年02月26日

●和文解釈入門 第14回

第10回で書いた和文解釈(会話での和文露訳)用の表をもっと使いやすいように訂正したので、興味がある人は参照願う。
今年の自分のテーマは類語(類義語семантически близкие слова)の使い分けだが、ここで紹介している類義語の使い分けで用いている辞書はСловарь синонимов русского языка(ロシア語シノニム辞典), Наука, 1971(2巻)、ロシア基本語活用辞典、現代ロシア語社、1979年、それに4巻本の露露辞典や、最近で初めて13巻まで出版されたアカデミー版露露辞典、Новый объяснительный словарь синонимов русского языка(新釈ロシア語シノニム辞典、3巻), Апресян他, Школа «Языки русской культуры, 1999 – 2003)である。
ソ連が国際単位系(SI、ロシア語ではСИ)を承認したのは、GOST9867-61でだが、実際に広範囲に使用されるようになったのは1970年半ば以降である。そのためロシア語略語辞典(Русский язык, 1983、第3版)の前書きにあるように、初版(1963年)に比べて、第2版(1977年)ではボルト、アンペア、ヘルツ、ワットなどの単位が国際単位系に準じたものに変更されている。つまり従来小文字の斜体で書かれていた単位が、それぞれВ, А, Гц, Вт(それぞれV, A, Hz, W)と書かれるようになったわけである。そのため1970年代初め以前の技術文献では古い書き方の単位があるということを頭に入れておいてほしい。
ロシア語では同じ文や段落では同じ語の繰り返しを避けるのが普通だが、同じ語が一つの文で2回出てくる例を見つけたので紹介する。Японец пользуется свободой настолько, насколько она не стесняет свободы других. Сознавая своё собственное достоинство, он уважает достоинтсво и в других.(日本人は自由が人の自由を束縛しない程度に自由を享受する。自分自身の誇りを意識しながら、人の誇りも尊重する)。свободой... она...свободы, достинство...достоинствоという風に、中に人称代名詞を使ってくどさを避けているののもあるのが分かる。
リストはсписок, перечень, ведомостьを使うが、списокとпереченьは同義と考えてよい。ведомостьはリストの中に説明が詳しく入っているもので、船舶の修理リストなどがそうである。最近使われるものでワインリストがあるが、これはвинная карта (= карта вин)という。これから派生してか、レストランによってはкофейная карта(コーヒーセレクション)、чайная карта(ティーセレクション)、коктейльная карта(カクテルリスト)と乱発気味である。長さはдлинаであるが、くねくねした線(海岸線など)や湖の周囲という意味ではпротяжённостьを使う。Это озеро с протяжённостью береговой линии около 150 км.(これは周囲およそ150 kmの湖である)
設問)「トルストイの〔戦争と平和〕を読んだことがありますか?」をロシア語にせよ。

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●和文解釈入門 第15回

接頭辞по-のついた完了体の動詞で、これまで始発の意味のものを紹介してきたが、по-という接頭辞のついた動詞全部がこの意味だという誤解を持つ人もいるかもしれないので、代表的なものを書いておく。пойти/поехатьは始発で、一つの方向を意味し、行き先が明記されるのが普通である。(始発の意味にはза-という接頭辞をつけたзаходитьのような完了体もあるがзаходить по комнате〔部屋の中を行ったり来たりし出す〕のようにいろいろな方向に使う)。もう一つはпоходить по комнате(ちょっとの時間部屋をうろうろする)で、あと一つは意味的ニュアンスは特になく、体の用法の違いを出すために不完了体(不完了体の方がより多く使われる)から作られたのではないかとしか思えないようなпозвонитьの類である。これら3つは用法も違うということを理解してほしい。
今はコンピューターで楽にできるが、昔愛用していた持ち運び可能なヘルメスの露文タイプでローマ数字を打つ時は、Ⅰ, Ⅱ, Ⅲ, Ⅳ, Ⅴ, Ⅹはそれぞれ1, П, Ш, 1У, У, Хと打ったものだ。この点では英語はIとVとXを組み合わせればよいから英語のタイプライターの方がはるかに楽だった。露文をタイプで清書するときはわざとそのローマ数字の部分だけあけておいて、手間ではあるが英語のタイプで後から打ったこともある。訂正も大変で、ポストイットみたい形をしたチョークが片側に塗ってある紙片があって、打ち間違った字を、タイプの上に手でその紙片を置いて打ち間違った字を打ってそのチョークで埋めるとかしたものだ。昔和文露訳や英文露訳のアルバイトをしたころは、コピー用紙にタイプすると打ち間違えたときに直すのが大変なので、トレーシングペーパーに打ってゆく。これだとタイプを打った直後だと消しゴムで訂正できた。今はそういう事も考えずに済むから楽だ。その代わり和文露訳や英文露訳の仕事は壊滅状態になったけど。肝心の訳文が決まらないのは一緒だが、技術の翻訳の仕事も露文和訳だけになってきたのはさみしい。まあ和文露訳は日本人のロシア語よりもロシア人で日本語に堪能な人に訳させた方が間違いは少ないという事なのだろう。そういう意味で露文和訳の仕事は細々とあるのはありがたい話だが、これもだんだんなくなってゆくのかもしれない。
「違う~(もの)」(間違いの)というのはдругойだと考えていると、ロシア人から変な顔をされるかもしれない。例文で示すと、Я разбила чашку, придётся купить другую.(茶碗を割ってしまったわ。別のを買わないと)ならいいが、Простите, я ошибся, дал вам не тот номер телефона.(ごめんなさい、間違いました。別の電話番号を渡してしまいました)にあるこの「間違いの」というのはロシア語でне тотである。つまりне та запись(違う録音)となる。ちなみに電話番号は、日本語同様телефонでもよい。
爆弾漁業(ドン)は夢野久作の爆弾太平記に戦前日本に併合された朝鮮沿岸で組織的に行われていたことが描かれている。
日本語のウを英語のu、またはロシア語のуでどう表記するかについては、2008年ノーベル物理学賞受賞者の益川氏を2008年10月20日付のタイムでは、TOSHIHIDE MASKAWAと表記している。wiをうぃだけではなく、ヰやゐと書くのも面白い。
設問)「カラマーゾフの兄弟を書いたのはドストエーフスキーです」をロシア語にせよ。

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2011年03月01日

●和文解釈入門 第16回

露文解釈ばかりやっていると、長文でも頭ごなし訳(「私は~と思う」というのを「私が思うには~」というようにできるだけ後戻りしないように訳してゆく訳の仕方)ができ、部分部分を瞬間的に理解できるようになる。そうなるとロシア語の短文からの発想で、こんな短文が和文であっても、これまた瞬間的に露訳できるという錯覚が無意識の出るようになる。ところが実際はそうはいかないのである。長文は短文から成っており、短文がすぐロシア語にならないようでは長文の露訳はできない。和文解釈入門の設問は無論ロシア語をまじめに勉強して半年以上になる初級者も対象にしているが、そのほかにも露文解釈ばかりでできて、ロシア人と会話のできない人も対象である。
第10回の和文解釈(会話における和文露訳)をする上での体の用法の表に命令法や不定法を追加した。今後さらに追加・訂正する可能性がある。
ノーソフНосов のНезнайка на Луне(月の物知らず、1964~65)という児童向けの本にчтобы их не кусали мухи(彼らをハエが刺さないように)という一文がある。蚊や蜂はともかくロシアのハエは刺すのか(何でもありの国だからな)、日本とロシアのハエは違うのかと驚かれる方も多いであろう。мухаというのはハエやハエに似たものを指すのであり、筆者も一度モスクワの植物園で слепень бычий(ウシアブ)に腕を刺され、腫れが一週間ひかなかったことがある。ウシアブというのはイエバエを一回り大きくしたような感じで、目が海老茶色だったことを覚えている。こういうのを言っているのであろう。
「注文する」というのも、状況によりいろいろである。заказать (сделать заказ) のほかに、レストランではспросить ликёр(リキュールを注文する(頼む)とも言えるし、выписать журнал(雑誌を(書面で、メールで、インターネットで)注文する)、予約購読ならподписаться на полное собрание(全集を予約購読する)となる。
設問)出迎えのときに相手に「どうでした空の旅は?」と尋ねるときに、カッコ内の部分をロシア語にせよ。

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2011年03月02日

●和文解釈入門 第17回

гидравлическийというのは訳しにくい形容詞で、まずは「油圧の」と訳せば間違いないのだが、「水圧の」という場合もたまにある。現場での技術通訳では本当は「液圧の」と訳したいのだが、そういう日本語はないから「ハイドロの」する場合もある。例えば次の文はロシア語ではどうってことのない文だが、和訳してみるとちょっと困る。Контроль гидравлическим давлением следует производиться водой.「水圧試験(テスト)は水で行うこと」と訳しても「油圧試験(テスト)を水で行うこと」と訳してもなんかおかしい。仕方がないから「この耐圧試験(テスト)は水で行うこと」と訳したことがある。гидравликаというのは「油圧(水圧)システム、油圧(水圧)装置」と言う意味であり、普通は総称名詞のように単数で使うのが普通である。
(機能動詞その3 「受身的な意味をもつもの」)
- класть/положить -
кластьはНа табак не кладут запрещения.(タバコは禁止されていない)のほかに、вину на + 対格(~に罪を負わす), заплатки (латки)(つぎを当てる、繕う), крест(十字を切る), начало + 与格(始める), конец + 与格(終わらせる), основание(基礎を築く), поклон(頭を下げる), преграду(阻む), фундамент(基礎を築く)などである。
- найти/находить -
находить (своё) выражение(表される), отражение(反映される), подтверждение(確認される)применение(用いられる), поддержку(支持される) сбыт(販売される), удовольствие(満足する), утешение(慰められる)。
- повергнуть/повергать в + 対格 - (受け身の意味の機能動詞)
повергнуть в отчаяние(絶望させる), тревогу(不安にする), в уныние(意気消沈させる)
- подвергнуть/подвергать + 対格 + 与格 –
подвергнуть доклад резкой критике(報告を厳しく批判する)などで、与格のところに、анализу(分析する), действию света(光線に当てる)、наказанию(処罰する), обсуждению(審議に付す)、переработке(書きなおす), операции(手術する),насмешке(笑い物にする), опасности(危険にさらす), сомнению(疑う), штрафу(罰金を科す)。
- подвергнуться/подвергаться + 与格 –
критикеは(批判を受ける)と受け身になる。
- получить/получать -
получить воспитание(しつけを受ける), впечатление(印象を受ける), всеобщее признание(広く認められるようになる), задание(課題を受ける), заказ(注文を受ける), законную силу(法的効力を得る), замечание(叱責を受ける), знания(知識を授かる), известие(知らせを受ける), инфортмацию(情報を受ける), насморк(鼻風邪をひく), образование(教育を受ける), огласку(公表する), ответ(答えてもらう), применение(用いる), повреждение(破損する), поздравления(祝電を受け取る), приказ(命令を受ける), разрешение(許可を受ける), распоряжение(指示を受ける), сведения(知らせを受ける), согласие(同意を受ける), сообщение(知らせを受ける), специальность(専門を身につける), удовольствие(満足する)などである。
- поступить/поступать в + 対格 –
поступить в обработку(加工される), в продажу(販売される), в производство(生産される)
- потепеть/терпеть – (= сталкиваться, испытывать) 「不愉快な事を経験する」
терпеть изменение(変更を被る), крах(破産する、破綻する), крушение(列車事故に遭う), неудачу(失敗する), поражение (敗北する、жестокое поражение大敗する), убытки(損をする), урон(損をする)
設問)「もう6時だ。おいとましないと」をロシア語にせよ。

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2011年03月03日

●和文解釈入門 第18回

「ロシア語基本熟語500」という本を2009年に出したが、出してからこういうことを言うのはどうかとは思うけれども、こういう熟語集は体の用法を理解していないと使いこなせないものである。かといってまえがきに体の用法を簡単に書くという訳にはいかない。そこで遅ればせながら会話で使う簡単な和文露訳についてこの和文解釈入門というコーナーを設けたという次第である。しかしこのコーナーを開設した直接のきっかけは別にある。それまでは体の用法というのはロシア語をやりだしてから3~4年しないと理解が難しいのではないかと自分の経験から考えていた。そうなると興味を持つ人も限られてくるし、文法を敬遠する人が多いというのも承知している。ただ簡単な会話の和文露訳をするにしてもどちらの体を使うかの基準がわかっていないと、文をいくつも理屈抜きで丸暗記せざるを得ず、二十歳を過ぎた人には、仕事でロシア語を使うとかの刺激や動機がない限りロシア語の勉強が続けるのが難しかろうとも感じていた。
比較的最近メーカーのモスクワ駐在員候補生にビジネスロシア語を教える機会があった。若い人で、英語はできるようだったが、ロシア語をやったことがなく、社命で2ヶ月間日本で日本人教師からロシア語のイロハを習い、そのあとモスクワの外国人専門のロシア語学校で6カ月間語学研修を受けたという。モスクワの先生は英語はできず、ロシア漬けの毎日だったとも聞く。こういう風に金槌の人がいきなりプールに突き落とされと、そのまま沈んでしまうか、なんとか泳げるようになるかどちらかだが、その人は優秀な成績で帰国した。その会社では現地社員のロシア人を除けば社内でロシア語のできる人はいないため、ビジネスロシア語を1日5時間11日間教えるように頼まれたわけである。カスタムメイド(そのメーカーの製品を中心にした語彙構成)のビジネス会話を教えるにあたって、子供相手ではないので、ビジネス会話を効率的に覚えてもらうため、体の用法を試しに教えてみたところ、理詰めと言う事もあってよく理解してくれた。ロシア語での自社の製品紹介、商談で使う言い回し、会話以外にも、和文解釈ではない、ビジネスメールでの和文露訳(クレームレターの処理まで)も教えたが、手応えは十分にあったと感じている。また教えた語彙はエクセルにして和露でコーパス(文例を入れた語彙集)を作って、赴任まで復習しますと言っていた。
 こういう例があるので、まじめに半年か8カ月ロシア語をやれば、体の用法を日本語でも理詰めに説明すれば、理屈抜きで暗記するというよりは会話の上達に効果があるのではないかと考え、このコーナーを立ち上げたわけである。そうすれば当初考えていたより関心を持ってくれる方々もより広範囲になり、このコーナーによってロシア語の文法に興味を持ってくれる人も増えるだろうという期待もある。これまで何人かの方々からの反響もあり、それには本当に感謝しているが、反響がなくなった時点でやめればいいという気持ちもある。自分で設問を出して解答を示すという一人相撲をする意味はないし、必要とされないものを続けていくつもりもないので、どこまで続くか取り敢えずやってみようと思う。
 ちなみにまじめに半年か8カ月ロシア語をやるというのは、例えばNHKのラジオ講座のテキストを暗記し、1/3ぐらいでも頭に残っているということである。丸暗記するなと言っておいて、暗記させるのかと言う人もいるかもしれないが、体の用法も含めてロシア語に疑問を持つためには、そして説明を理解するためにもロシア語に関して頭が空っぽでは困るのであって、ベースになる用例をある程度覚えていないと体の用法どころではないという事はご理解いただけるだろう。英語だって中学校の教科書ぐらいを暗記していれば、日常会話で困ることはないというではないか。ロシア語も同じである。ただそれ以上にロシア語の力をつけたいと考えるなら、なぜそうなるのかということを突き詰めて考える必要がある、つまりそのためには文法をしっかりやる必要があるのだと私は思う。
設問)「猛犬注意、立ち入るべからず」をロシア語にせよ。

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2011年03月04日

●和文解釈入門 第19回

さとう市販されているロシア語の文法書というのは主として露文解釈用のような気がする。まんべんなくロシア語について説明しているのは当然だが、和文解釈(会話のための和文露訳)という観点で見てみると、ロシア語と日本語は全く違う言語だとはいえ、似ている点もあるし(他動詞が補語〔対格~を〕を取るとか)、会話ではあまり使わない文法事項(形動詞、副動詞などは使用がかなり限られている)というのも載せてある。だから和文解釈で文法をというと、その内容の膨大さから時間の無駄ですぐに役(訳)に立たないからと嫌がる学習者が多いのも理解できる。無論名詞・形容詞・代名詞の格変化や動詞の活用は理屈抜きに丸暗記するというのは論をまたない。しかし、会話用の和文露訳用にやるなら、必要な文法事項を優先的にメリハリをつけてやればいいのである。一通り文法事項(初級文法書に載っている程度)をこなした後、数量表現、運動の動詞(定動詞不定動詞、接頭辞のついた運動の動詞)、体の用法、類語の使い分けを徹底的にやって理解しないと、なんでこうなるのか分からず何かすっきりしないという感じがいつまでも残るものである。集中的にやる気なら今はいい参考書(お薦めの参考書については別のコーナー「間違いやすいロシア語の最終回〔23〕や露学階梯の最初のほうに書いた)もあるから1~2年でものになるだろう。私がこれらに取り組んだ70年代中ごろでも、探せば、「ロシア語動詞の体の用法」(Рассудова、磯谷孝訳編、吾妻書房、1975年)やVerbs of motion in Russian> Muravyova, Русский язык, 1975などがあったし、何度も読まないと理解できなかったとはいえ、これらなどで勉強したものだ。そのあとで形動詞や副動詞などをやればよい。
ビジネスで通訳をしているとロシア側から日本のことをСтрана восходящего солнца(日出ずる国)という表現をしてくる人がいる。これは聖徳太子の有名な言葉だが、西洋には多分ペリー提督の日本遠征記にあるland of the rising sunから広く知られるようになったと思われる。しかし最近ではСтрана корня солнца(日の本)という表現も見るようになった。これは作家ピリニャークПильнякが1926年訪日した時の印象記の題名が由来のようである。これを「太陽の根の国」と訳すと、古事記や日本書紀では根の国と言うのは地下の国とか死者の国と言う意味なので、お日さまと対蹠的でまずかろうと思う。
設問)「ショッピングセンターの行き方(車での)を教えてください」を、動詞を変えて3つの文にしてロシア語で作れ。

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2011年03月09日

●和文解釈入門 第20回

これまで紹介した類語の使い分けというのは、思い出した時点で書いているようなもので、その中に基本語は含まれていない。和文解釈(会話での和文露訳)には体の用法や運動の動詞だけでなく、基本語の類語の使い分けも重要だと述べたが、ピンとこない方もいると思う。そこで試しにлежать, класть/положить, ставить/поставитьという基本語の使い分けについて書いて見よう。лежатьは何かの表面に水平方向にあるという意味だが、そのほかにも(~の中にある)находиться внутри чего-либоという意味もある。露文解釈ではどうってことはないが、和文露訳ではこの点をよく理解していないと、単純な文で躓く。「ノートは引き出しに入っている」というのは、Тетради лежат в ящике письменного стола.となる。лежатьなど知らなくてもбытьで十分という人もいるかもしれないが、この点が分かっていないと、「小銭を機械的にポケットに入れた」が訳せなくなる。これはЯ машинально положил мелочь в карман.であり、класть/положить には помещать внутри чего-либоという意味があるからである。
「置く」は垂直方向であればставить/поставитьで、水平方向であればкласть/положитьとなると初級で習うはずだ。それでは「皿を置く」はどうなるのだろう?ставить тарелкуが正解である。「靴を靴箱に入れる」は当然ставить/поставить обувь в обувной шкафだが、класть/положить обувьというのも例は少ないがあることはある。ロシア人も迷うのだろう。我々のような古い世代は皿は例外だとか、皿もよく考えれば垂直におかれるものだと屁理屈をこねて覚えたものだが、こういう風に例外や無理やりの暗記を続けると我々古い世代の通訳のように何十万もの文例をその場面その場面で覚えなくてはならなくなる。そういう手間を省くのが文法であり、参考書のはずだ。中級者や上級者にとっても文法や参考書を馬鹿にせず精進し続けることが結局はロシア語上達への早道であることが分かる。ставить/поставитьというのは、底がある物体や支持面積、支持する点がある物体のときに用いられる。
もうひとつ、「目覚まし時計を枕の下に置く」はどうなるだろう?これはкласть будильник под подушкуという。класть/положитьはこのように普通に置く状態でないように置くときにも使われるし、紙や布のように形を変えるものにも使える。класть пальто на стул(オーバーをイスにかける)。無論垂直方向ставить/поставитьや水平方向にкласть/положить置くというのは基本的な理解としては正しい。Не надо класть велосипед на землю, поставь его у крыльца. (自転車を地面に(横に)置いてはいけない。玄関脇に立てかけろ)とか、Положи цветы на стол, я сейчас поставлю их в воду.(花をテーブルに置いて。すぐに水に挿すから)など違いが分かりやすい。
設問)「ご担当は何ですか?」をロシア語にせよ。

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2011年04月28日

●和文解釈入門 第21回

「~するつもりです、~します」と言う構文をロシア語にする場合、この構文の日本語には、願望(~したいхотеть, хотеться сделать нечто)、決意(決心быть готовым прилагать усилия чтобы сделать это)、意図(予定намерение)が、バラバラか、あるいはこれらの意味が混じり合っていると思われる。第10回に挙げた表では分かりにくいと思うので、どういう動詞が使えるか、どのようなロシア語の用法の選択肢があるか試しに書いて見よう。
1) 確実な予想
 普通「これから~します」という意味(願望の意味がないとき)では、完了体未来形を使うのが普通である。これは確実な予想や意志を意味する。また確実な予想というのは話者がそう考えているだけで、主観的なものだということを覚えておけばよい。「このようなアドバイスをあなたにいたします」は、Я дам вам такой совет.であって、Я буду давать вам такой совет.とは言わない。даватьのように不完了体動詞であっても過程(進行形)の意味では使えないというものは完了体を使うしかない。
 この時気をつけないといけない用法がある。現在から未来への移行を示すような意味合いの動詞である。例えばビジネスレターで多用される「~をご案内〔連絡〕申し上げます」をロシア語にするときに、Сообщим (Сообщу) Вам, чтоと完了体の未来形を用いがちであるが、これは間違いであり、一人称現在形を使う。「約束する」、「連絡する」という(заклинаю, запрещаю, каюсь, молю, назначаю, обвиняю, обещаю, освобождаю, предлагаю, предписываю, признаюсь, приказываю, провозглашаю, прошу, прощаю, радуюсь, рекомендую, советую, ставлю~を人に据える, умоляю)のように、後に続く文の示す行為の遂行となる動詞を遂行的動詞(перформативные глаголы)といい、「~ということを遂行する」という意味である。つまりこの動詞の現在形一人称は「約束しつつある」とか、「知らせつつある」という経過(過程)を示しているわけではなく、続く内容について約束する(約束を破ればそれなりの罰を受ける)とか「~という内容をお知らせする」と言う意味であり、「2012年展示会に参加することをご案内申し上げます」Сообщаем Вам, что мы будем участвовать в выставке в 2012 г.は、まさにこの言葉によって連絡(他の動詞なら約束、命令などの)行為を遂行することを意味する。だから、この完了体未来形は「追って連絡申し上げます」Об этом сообщим дополнительно.など、今ではなく後で連絡する(未来に行為を行う)という意味でしか使えない。この他にも「伝える」という意味のシノニム(同義語を含む類義語)のうちоповещать, осведомлятьを除く、информирую, извещаю, уведомляю, докладываю, доношу, заявляю, объявляю, предупеждаюにもこの用法がある。
2) 予定
 願望の意味ではないときに、ビジネスなどで特に自分の意思に関係するかどうかは別にしての予定という場合は、30ぐらいある動詞(運動の動詞が多い。精しくは第10回の表を参照)の現在形を使う。一種の時制の転用である。この動詞を暗記しておけば、「~するつもりです」という文が出てきたときに、この動詞が使えれば使うし、使えないのなら、他を当たるのが効率的である。完了体未来形に比べれば、この用法はスケジュールに載っているという感じなので実現の確度はより高いと言える。
「明日歴史の試験を受けるんです」Завтра я сдаю экзамен по истории.(力点はю)
 過程の意味で使える不完了体の動詞は、潜在的にこの用法があると思える。かなり使う場面が限定されるが、はっきりとこの用法が使える動詞もある。
「ワインは何になさいますか?」Какое вино вы пьёте?
〔レストランなどで酒を勧められたときに、この答えは「恐れ入りますが、私は酒をたしなみませんので」Спасибо, я не пью.など〕
「女性の皆さんのために乾杯」Я пью за вас, женщин!
「〔アナウンスなどで〕本列車は2分停車いたします」Поезд стоит две минуты!
(このстоятьはбыть на ногах в вертикадбном положении, не двигаясь с места〔立っている〕という状態の意味ではなくて、не двигаться〔動かない〕という動作を示している)
「両親がびっくり仰天したことに、彼は大学をやめると宣言した」К ужасу родителй он заявил, что бросает институт.
3) буду, будетなどのбытьの未来形 + 不完了体
 相手の意向を聞く疑問文や、~しないという決意表明(否定的意図)の意味の否定文なら、この構文を考えるべきだ。この構文は口語用法だが、和文解釈(会話における和文露訳)は標準語と口語が主体であるゆえ、大いに使えるので覚えておくとよい。この構文で使える動詞は無接頭辞の単純動詞(пить, строитьなど)や接頭辞のついた運動の動詞が主体だと思えばよい)
「今晩何をなさるおつもりですか?」Что вы будете делать сегодня вечером?
「何をお召し上がりになりますか?」Что вы будете есть?
「何をお飲みなりますか?」Что вы будете пить?
〔この返事は省略しないで言うと、Я выпью пива./Я выпью рюмку вина.と完了体выпить + 部分生格(+ 対格〔容器〕)が出てくるのが普通〕
「お座りになりますか?〔電車、バスの中で〕」Вы будете садиться?
「何をご注文になさいますか?」Что вы хотите заказать?
「何をお飲みになりますか?」Что вы хотите выпить?
 このような用法では一般的にхотеть + 完了体不定形が文体的にニュートラルとされ、бытьの未来形 + 不完了体は口語的とされる。またサービス業の人が客に対しては、желать + 完了体不定形を使うのが一般的で、これは商人的文体とされる。
「お昼をお部屋のほうに注文なさいますか?」Желаете ли вы заказать обед в номер?
「ご朝食には何をお召し上がりになりますか?」Что вы желаете на завтрак?
「許して下さい、二度としませんから」Простите (Извините) меня, я никогда больше не буду так делать.〔もっと簡単に「もうしませんから」ならБольше не буду.〕
「奴を背負う〔手で運ぶ〕のはごめんこうむる」Я его нести не буду.
 このほかに「(もし)~するなら」とか「~するとき」という場合にも使え、бытьの未来形 + 定動詞も使用可能である。
a)「出かけるときは、ガスを消して下さい」Когда вы будете уходить, выключите газ.
b)「左に曲がれば、駅が見えますよ」Если вы повернёте налево, то увидите станцию.
c) 「貯水池のそばを車で通る時に、一休みするのに素晴らしい場所を教えてあげますよ」Когда мы будем ехать мимо водохранилища, я покажу вам прекрасное место для отдыха.
 a)は同時性の構文とか条件提示の不完了体とかいわれるもので、同時性と言っても、主節(上の文ではвыключитеがそうである)の動作まで従属節(この場合はкогда, если以下)は、動作を待っている、待たされる、ないしはいつ動作が起こるか不明なわけである。二つの動作の間に間が空くか、次の動作がいつか不確定な状況であれば過程を示す不完了体が出てくるのは自然である。こういう不確定な状況でкогдаやеслиの後に完了体を使うと、完了体は動作を完結させようとするために、ポンポンと間をおかないような(これからすぐガスを消して、家を出るというような)動作となる感じがして、この和文とは意味が違って来る。この構文の主節にтоが来ないことに注意。ただb)のように主節と従属節との間に明確な前後関係(従属節の動作の後に主節の動作が来る)があれば、если + 完了体, то + 完了体を使う。この構文については第13回の設問の回答でも説明したのでそれも併せて参照願う。
 平叙文で使う場合は、この構文は経過、過程、継続や着手の不完了体動詞だが、運動の動詞、動作が一気に終わる動詞を使うような文ではこの構文は避ける。
「止まれ、撃つぞ」Стой! Стрелять буду!
〔будуがあるので動作まである程度間があることが分かる〕
 しかし、「明日家に手紙を書きます」というのを、
Завтра я буду писать письмо домой.(書くつもりです)
Завтора я напишу письмо домой.(書きます)
と日本語で訳し分けたにしろ、言っている意味は同じだということがわかるだろう。このように動作が開始して終わるという意味を持つ動詞はどちらの体を使ってもいい場合が多い。「彼に電話します」Я ему позвоню.と Я буду ему звонить.の差は後者が口語的というくらいである。
4) собираться, намереваться, намерен, думать, планироватьという類義語を使う場合。
 この類義語は後に不定形を取るので、具体的1回の行為には完了体を、繰り返しには不完了体を使うと覚えておけばよい。この中ではсобиратьсяが使える範囲が広いので、この動詞を使う事を勧める。намеренとнамереватьсяは同義語だが、намеренは現在形でよく使われ、намереватьсяは過去形で使われる場合が多いようだ。これはнамеренだとбытьの過去形を付け加えるのが面倒だという事があるのかもしれない。намереватьсяはнамеравал(а,и)ся(сь)とすればいいだけで楽だからだろう。намерен/намереватьсяはсобиратьсяと違って、重要な決定を下す場面で使われ(留学するつもりだなど)、「散歩するつもりだ」などというどうでもいい場合には使われない。думатьは自発的な個人の決定に使われ、主語は機関ではなく、人間(個人)である。「そこに行くつもりだが、行けるかどうか分からない」Думаю поехать туда, но не знаю, получится ли.という文のように、думатьは最終的に決定が下されないときにでも使える。намерен/намереватьсяはこの意味では使えない。それゆえдуматьはこの意味(意向)では否定文と相性がよくない。дажеやиなど強調の意味の助詞と一緒に使うなどの強意の否定文で使えるのみである。планироватьは長期にわたる予定に使われ、計画に関係する。「休暇は冬に行くつもりです」Я планирую уйти в отпуск зимой.この他に同じ意味でнамылиться(俗語的用法)やрасполагаться(廃用、つまり19世紀の小説を読むには理解しておいた方がよいという事)がある。
 完了体のсобратьсяはсобиратьсяと違いニュアンスが出てきて、「前は~するつもりはなかったが、今は~するつもりである」という意味と、「長い事~するつもりだったが、ついにした」という意味がある。前者の例は、Реветь, что ли, собралась!(わんわん泣くつもりかい)というのは「それまで泣くつもりがなかったのに、急に泣く気になる」というニュアンスである。А я как раз собрался (собирался) вам звонить!(ちょうどお電話差し上げようと思っていました)は両方の体が使えるが、それでもニュアンスの差はある。 後者の意味の例文は、Извиинте, что только сейчас собрался вам позвонить, был очень занят.(申し訳ありません。ようやく今お電話できました。忙しかったので)」だが、否定の»не собрался (не собралась, не собралось, не собрались)»では「~しようとしていたが、しなかった」という意味である。Он так и не собрался купить новый телевизор.(彼は新しいテレビを買おうとしていたが、結局買わなかった)であり、完了体未来形を否定するとНикак не соберусь пришить пуговицу – уже неделю собираюсь.(もう1週間ボタンを縫い付けようとしているんだけど、だめだ〔できない〕)と不可能の意味が出る。また、намереваться に対応する完了体ではないが、意味が近い完了体であるвознамериться + 不定形は = начать иметь намерение「~する気になり始める」という意味で、ニュアンスが入る。
 上記についても含めて、この「和文解釈入門」は現代ロシア語を対象にしており、19世紀や20世紀初め以前の文学などの文例については対象としていないので悪しからず。
設問「象は鼻が長い」をロシア語にせよ。

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2011年05月01日

●和文解釈入門 第22回

 善(よいこと)という日本語は、広辞苑を引くと、絶対的な善と、相対的な具体的状況による善という意味があり、倫理や道徳的なものは前者であり、善は急げなどは後者に当たる。現代ロシア語のдоброは前者であり、благо, добрые делаは後者である。ゆえに「彼にとって善」をдобро для негоとは言えず、благо для негоとなるし、В этом случае благо будет мешьшее зло.(この場合はより少ない悪が善である)となる。モスクワの監獄医でヒューマニストであるガースФ.П. Гааз(1780~1853)のモットーはСпешите делать добро.だったが、これは文字通り「絶対的善をなすのを躊躇するな」ということであって、日本語の「善は急げ」は多くの場合Куй железо, пока горячо.でいいはず。またпосвятить добрым делам(よいことに捧げる)とも言える。зло(悪)にはこのような区別はない。ちなみにблагаと複数形で用いられるとблага цивилизации(文明の恵み)のように、「恵み」という意味になる。善悪を人間の性質という風にとらえると、善はблагодетельであり、Добродетель торжествует, а порок наказан.(善は勝ち、悪は罰せられる)となる。このдобродетель = положительное нравственное качествоであり、その反対はпорогである。なたдобродетельにはчеловека; высокая нравственность, моральная чистотаという意味もあり、これは徳、品性と訳される。
духとдушаの区別も難しい。духは精神や士気という意味であり、個人的な感情とは直接かかわりがない。ただподъём духа(士気の高揚)に若干個人的な色どりが見られるだけである。душаは心や魂という風に覚えておけばよい。つまりдушаはより個人的なものと理解すべきだ。Душа болит за него.(彼のために心が痛む)とかДуша отлетела от тела.(魂が肉体を抜け出た)などと使う。力(気力)がみなぎるという意味ではС утра полон сил, а к вечеру еле ноги таскаешь.(朝は力がみなぎっているが、夕方にはようやく足を引きずるぐらいだ)というようにсилыと複数形を用いる。肉体的な力физические силыや精神的な力душевные силыもそうである。また心にはдушаとсердцеがあるが、前者は個性であり、内なる我、生死にかかわるような重要な本質的部分で、もともとある感情であり、肉体телоと対峙する。だから「本当のところは眠りたかった」をВ душе он хотел спать.とするのは、в душеには「表面上はともかく本当の気持ちは」という意味であるが、眠りたいと言う気持ちが心の本質(内なる我)のようになってしまいおかしいとされる。またдушаはнаを取るのが普通でна душеとなるが、この文ではна самом делеとでもするしかない。一方сердцеはハートであり、対人関係において感情という意味合いをもち、特に愛情と結びつき、голова, ум(理性)と対峙する。だからНа сердце было полно сомнений.という文は成り立たないことになる。сомнения(疑い、疑念)は感情ではないからである。同様にпонимание(理解)などとも一緒に使えない。これにはна душеを用いる必要がある。Седрце болит за него.(彼の事で心(ハート)が痛む)とも言えるが、この場合はдушаと違い、愛情が絡んでくるからである。
設問)「ムラヴィヨーヴァさんは東京でガイド通訳をしています」をロシア語にせよ。

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2011年05月02日

●和文解釈入門 第23回

причинаには「原因」と「理由」という二つ意味がある。「原因」の場合は後に生格がついて、例えばпричина пожара(火事の原因)となり、「理由」の場合は для + 生格、ないしは不定形で、причина для сомнений(疑う理由)、Есть причина отказаться.(断る理由があるんだ)などという。ただпо причинеは例外で、すぐ後に生格がついて「~の理由で」という意味になる。по причине плохой погоды(悪天候で)。причинаとповодは「理由」という意味では、似てはいても非なる言葉である。причинаは本質的な理由を指すが、поводは外面的な、間接的な理由(表向きの理由)であり、おおむね「きっかけ、口実」などという風に訳せる。「まあ例えば、第一次世界大戦のきっかけとなったのはサラエボでのオーストリア大公の殺害である。しかしその原因はその殺害ではなく、帝国主義大国の先鋭化した競争だったのである」Так например, повод к первой мировой войне явилось убийство австрийского эрцгерцог в Сараево. Но известно, что причиной её было не это убийство, а обострившееся соперничество империалистических держав.
 口実には他にпредлогも使うが、これは口実подводと嘘の口実вымшленная причинаという意味がある。отговоркаは断る口実で、嘘の口実でもある。また根拠はоснование, резонで веская причинаという意味である。このように類語(シノニム)を調べると、その単語に対する理解が深まることが分かる。
「イワノフさんがいらっしゃっています」と「イワノフさんがお見えになりました」はロシア語で同じ文Господин Иванов приехал.と訳せる。「イワノフさんがいらしてました」はГосподин Иванов приезжал.となり、Господин Иванов приехал и уехал.と同義である。ちなみにприехал и уехалは完了体過去の順次的用法(アオリストの典型的用法とされる) + 結果の存続(去って、ここにはいない)である。ただこのような完了体過去形と不完了体過去形の意味の違いがみられる動詞と言うのは、反意語のある動詞群открыть/закрыть, поднять/опустить, встать/сесть, войти/выйти, взять/вернуть, дать/забрать, включить/выключить, терять/найти, принести/унести, прийти/уйтиなどで、これもおおむねこのような用法があるということで、文脈によって意味が違ってくる場合もあるという事を頭に入れておこう。言葉は生き物なのだから。ただ通訳した経験で言えば、このような体の用法の違いは反意語のある動詞群では確率的に非常に高いと言える。体の用法でまず覚えなければならないのは、完了体と不完了体の基本的使い方の違いである。完了体は新しいことや、具体的1回の動作を示し、不完了体は繰り返しや刺身のつまのような添え物のような動作を示すと取りあえず覚えよう。
設問)「あの人もう着いてるといいけど」をロシア語にせよ。(これは設問としてもかなり難しい部類だと思う)

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2011年05月03日

●和文解釈入門 第24回

ロシアでは方言が日本同様テレビの発達のおかげで消えつつある。ウラジオですら、少なくとも我々外国人にはモスクワと同じように聞こえる。私が両都市の言葉の違いで気がついたのは、Ага!(そう)はモスクワではアハー(このハーはхаではなくбухгалтерのхгаの音)と発音されるが、ウラジオではアガーагаと言っていたぐらいか。オデッサはウクライナにあるとはいうものの、そして街にはウクライナ語の看板があふれているとはいえ、昔からロシア全体の笑いの都であり、使われている言葉はロシア語である。ただ独特の方言があるという。ドロシェーヴィチВлас Дорошевичという19世紀末から20世紀初めの有名なジャーナリストがこれについて書いたものがあり、動詞には何でも иметь をつけ (Я имею гулять.)、つかないのはденьги だけだ (В Одессе все «имеют», кроме денег.)とか、格変化、動詞の変化も無視。Туда и сюда なぞと言った日には馬鹿にされ、тудою и сюдоюというんだとかとある。その当時のオデッサ語と言われるのは、
за = о, по, чем(Расскажите за него. 彼の事を話して下さい)
иметь счастье = иметь возможность
один в Одессе = оригинальный, лучший
где = куда Где он уехал?(彼はどこに去ったのか?)
設問)「荷物の一部は全部自分で持っていかなくてもいいように(宅配で)送ってもよい」をロシア語にせよ。これは観光ガイドでよく使われる表現でもある。

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2011年05月04日

●和文解釈入門 第25回

工場には前置詞としてнаがつくのは、17世紀や18世紀の頃の工場は回りになにもない開けた場所で作業したからだ聞いたことがある。旅行家で作家でもあったセルゲイ・マクシーモフの19世紀半ばに出版された「シベリアと流刑」の中で、東シベリアの工場について同じページにна заводе とв заводеが入り混じって出て来るし、в плавильную фабрикуという表現にも出くわす。これから考えると19世紀ごろまでвもнаも工場という単語にはどちらでもよかったということになる。無論現在ではнаを使わないと間違いとなるのは言うまでもない。
фабрикаというのはダーリДальによれば、Фабриками зовут такие заводы, где огонь (накалка, плавка, варка) не занимает первое место.(加熱、溶解、溶接など火を使うのがメインではない工場)ということになる。
2010年の「ユーラシア研究」11月号に技術ロシア語の類語の使い分けについてエッセー「一つが二つ、二つが一つ」を書いたのだが、紙面の関係上「工場」について露文を載せることが出来なかった。そこで、ここに参考のため書いておく。
(завод)
авиасборочный завод航空機組立工場、авиационный завод航空機工場、авиационный и танкостроительный завод航空機および戦車製造工場、автомобильный завод (= автозавод)自動車工場、авторемонтный завод自動車修理工場、автосборочные заводы自動車組立工場、алюминиевый заводアルミ工場、артиллерийский завод工廠、вагоностроительный завод車両製造工場、весовой завод秤工場、винокуренный завод酒造工場(蒸留酒の)、водочный заводウオッカ酒造、военной завод軍需工場、газовый заводガス工場、гвоздильный завод製造工場、завод автотракторного оборудованияトラクター機器工場、завод для рафинирования цинка亜鉛精製工場、завод по переработке птицы на мясокомбинате肉コンビナート鶏肉加工工場、завод по обогащению уранаウラン濃縮工場、завод по регенерации ядерного горючего核燃料再利用工場、завод мотоциклов (= мотоциклетный завод)オートバイ工場、завод с полным металлургическим циклом (доменное, стале-плавильное и прокатное производство)高炉一貫工場(高炉生産、製鋼および圧延)、завод электроаппаратуры電気製品工場、кирпичный заводレンガ工場、конксохимический заводコークス化学工場、комбикормовый завод 配合飼料工場компрессорный заводコンプレッサー工場、коньячый заводブランディー酒造、кроватный заводベッド工場、ледоделательный завод製氷工場、лесопильный завод製材工場、ликёрный заводリキュール酒造、ликёроводочный заводリキュールウオッカ酒造、литейный завод鋳物工場、маргариновый заводマーガリン工場、машиностроительный завод機械製造工場、медноплавильный завод銅精錬工場、металлургический завод冶金工場、моторный заводモーター工場、мыловаренный завод石鹸工場、оборонный завод国防関係の工場、опытный завод для производства углеродных нанотрубок диаметром до 10 нанометров с производительностью 1 т/год年産1トンの径10ナノメートル以下の炭素ナノチューブ製造実験プラント、оружейный завод武器工場、паровозовагоноремонтный завод機関車車両修理工場、патронно-дроболитейный завод弾薬工場、пивоваренный заводビール工場、пороховой завод火薬工場、приблорный завод計器工場、сахарный завод製糖工場、сборочный завод組立工場、смоляно-дегтярный завод樹脂タール工場、солеваренный завод製塩工場、стеклянный заводガラス工場、судостроительный завод造船所、телевизионный заводテレビ工場、тепловозостроительный завод気動車製造工場、тракторный заводトラクター工場、трубочный завод製管工場、турбинный заводタービン工場、фордовский заводフォードの工場、шинный заводタイヤ工場、шпалопропиточный завод枕木防腐処理工場、электроаппаратный завод電気機器工場、электромашиностроительный завод電機機械製造工場、электролизный завод電解工場
設問)「明日発つのとリェーナは電話した」をロシア語にせよ。

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2011年05月05日

●和文解釈入門 第26回

体当たりというと日本の神風特攻隊が有名だが、第一次世界大戦中の「1914年航空史上初めて体当たりを敢行したのは有名なロシア人飛行士ピョートル・ニェースチェロフだった」В 1914 году впервые в истории авиации применил таран знаменитый русский летчик Петр Нестеров.とある。ロシア語で飛行機の体あたりはвоздушный таранと言い、プロペラ又は翼で敵機を攻撃するというもので、第二次世界大戦の体あたり一番乗りはピョートル・ハリトーノフで1941年6月27日レニングラード近郊だったという。ソ連航空機の体当たりは日本と違い命令されてではなく、パラシュートで脱出できるとふんで敢行するか、あるいはただ撃墜されるよりは、それこそ祖国のためということでパイロット自身が判断して敢行した。日露戦争に従軍した一般庶民の茂沢祐作(1881~1949年)の従軍日記(「ある歩兵の日露戦争従軍日記」、草思社、2005年)に、ロシア人の中にもズボンと長靴のみの裸で、爆裂弾を抱いて突っ込んだものがあり、すぐ突き殺されたがその勇敢さには驚いたとある。また日本人でも大岡昇平の「レイテ戦記」(大岡昇平全集第8巻、中央公論社、1973年)の中に、特攻を命じられても敵艦に爆弾を落とし、ゆうゆうと基地に何度か帰還した日本兵のことが書いてある。上官は何も言えなかったろう。ただ神風特攻隊のように100%死ねということを上司として命じるのは人間のすることではない。
(фабрика)
брикетная фабрикаブリケット工場、валенковаляная фабрикаフェルト工場、игрушечная фабрика玩具工場、ковровая фабрика絨毯工場、колбасная фабрикаソーセージ工場、кондитерская фабрика菓子工場、консервная фабрика缶詰工場、мебельная фабрика家具工場、мукомольная фабрика製粉工場、ножевая фабрикаナイフ工場、обогатительная фабрика選鉱工場、обойная фабрика壁紙工場、обувная фабрика製靴工場、папиросная фабрика口付きタバコ工場、парфюмерная фабрика香水工場、писчебумажная фабрика筆記用紙工場、пробковая фабрикаコルク工場、прядильная фабрика紡績工場、прядильно-ткацкая фабрика紡績織物工場、расфасовочная фабрика計量・包装工場、сахарная и ромокуренная фабрика製糖工場およびラム酒酒造、спичечная фабрикаマッチ工場、суконная фабрикаラシャ工場、суконно-валяльная фабрикаラシャ・フェルト工場、табачная фабрикаタバコ工場、ткацкая фабрика織物工場、трикотажно-платочная фабрикаメリヤス・ハンカチーフ工場、фабрика кожанных изделий皮革製品工場、фабрика-кухня調理工場、фабрика по производству чулочно-носочных изделийストッキング・靴下製造工場。
設問)「時間があったら今日家に寄ってくださいね」をロシア語にせよ。

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2011年05月07日

●和文解釈入門 第27回

露文解釈はその名の通り、まず露文ありきで、ある程度文脈に応じて和文の時制をつけてゆけばよいが、和文解釈となると、それほど簡単ではない。「彼は来たОн приехал」、「彼は来て(い)たОн приезжал」、「彼は来ているОн приехал」、「彼は車で移動中だ(移動している)Он едет на машине」、「彼は座っているон сидит」などある。この中で最後の二つの過程と状態を示すものが、日本語でも現在形、ロシア語で不完了体現在形を使うから、似ていると思うが、ロシア語では案外過程(進行形)で使えない動詞がある。「誤解ですВы заблужадетесь.」や「勘違いされていますよВы ошибаетесь.」は過程を示しているのではなく、前者 (обманыватьсяも同様である)は状態を、後者は現在形なのに結果の現存という機能を持つ。どうしてロシア語で誤解が状態かと言うと、заблуждение(誤解)は何度も繰り返されるものではなく、一度起こればそれが長く続くという考え方かららしい。ошибатьсяは不完了体現在形でВы ошибаетесь (поступаете неправильно, клевещете на меня).〔違います(間違った行動をされています、私の事を中傷しておられます〕と、不完了体であるのに〔すでに考えの間違いは犯された、間違った行動はなされている、すでに中傷という事実はある〕という完了体の結果の存続の機能があるのである。そのためこの動詞については完了体と不完了体は互換性があるといえる。Вы ошибаетесь.もВы ошиблись.も意味的には同じということになり、ошибиться/ошибатьсяが不定形で用いられた場合も同じである。ただ現実的には完了体はВы ошиблись номером (дверью)〔番号(ドア)をお間違えです〕と言う風に使うのが多いようだ。こう言う動詞群を仮に評価伝達の動詞интерпретационные глаголыとでもいおうか、そういうグループの動詞がある。この動詞自体は具体的な動作の意味はないが、他の具体的な動作の評価を伝達する性質がある。この動詞群は過程(進行形)の意味では用いない。поступать правильно (неправильно), мешать, содействовать, выручать, потворствовать, попустительствовать, терять лицо, ронять достоинтсво, нарушать правила, преступать закон, совершать преступление, грешить, искупать, соблазнять, ошибаться, заблуждаться, преувеличивать, преуменьшать, выигрывать, проигрывать, оплошать, сплоховать, опростоволоситься, обманывать, врать, клеветать, кривить душой, лишать, угрожать.これらの動詞は否定文でもよく使われるという特徴を持つ。いわゆる評価伝達の動詞は、日本語でも現在形で書かれるので、よほど深読みする傾向がない限り、不完了体現在形で露訳すると思うが、念のため書いておく。
техникаとтехнологияは似ているところもあるが、違う面もある。техникаは道具や生産手段や、技術の総称であり、一般的な技術という意味で、技術史история техникиとか先端技術передовая техникаなどという。そのほかに工学という学問も意味し、ロケット工学реактивная техникаなどそうである。そのほかに機器類(военная техника軍事機器)という機械の総称でもあるし、テクニック(совокурность профессиональных приёмов)という意味もある。технологияは製造工程における加工の総称であり、технология судостроения造船技術などそうであるし、そのほかにも工程や製法способ изготовленияという意味もある。例えば日本語の個々の具体的な技術はтехнологияで通用する。
設問)「会議は2011年8月20日から8月13日になった」をロシア語にせよ。

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2011年05月09日

●和文解釈入門 第28回

勘違いしている人がいるかもしれないので投稿について書いておく。回答は点数をつけるものではなく、その結果学習者のロシア語がよくなればよいわけで、回答は、自分の頭だけでも、辞書を引いても、ネットを利用しても、ロシア人に聞いたって構わないのである。実際の通訳やガイドでも、どうしてもわからない語彙はロシア人にその内容を説明して聞くこともあるし、翻訳に至っては言わずもがなである。何らかの回答を出すのに全力を尽くすという姿勢が大事なのである。初級者だって和露辞典を使って回答を投稿してくれてもかまわないし、かえってそういう意欲のある人を歓迎するし、そういう人は伸びる。また回答でなくとも、設問に関係するか否かは別にしてロシア語に関する質問でも構わないのである。
この和文解釈入門は初心者で半年ぐらいまじめにロシア語を勉強した人以上の人を対象にしているが、個人的には一度ロシア語勉強して、何らかの原因で挫折してロシア人と会話できるまでに至らなかった人たちを何とかしたいというのがこれを立ち上げた趣旨である。常識的にそういうたちの数の方が、これからロシア語を始めようとする人より数ははるかに多いはずである。そうすることで不人気と言われるロシア語の人気を少しでも回復させたいというのが私の真意でもある。語学は暗記というけれど、無論これを否定はしないが、年も重ねて来ると丸暗記というのは非常につらいし、ほぼ不可能である。そのときにできるだけ理屈で会話用の和文露訳と言う意味で和文解釈入門を立ち上げたわけである。学習者と一対一で向き合って、学習者のレべルに合わせて教えることができれば、それに越したことはないが、不特定多数の人に対してはそうもいかない。数少ない回答者の投稿から判断して、後もう少しで会話が出来るとか、会話はできるが、自信がないか、あるいはかなりの上級者ではないかという比較的高レベルの方が投稿されているという現実は否めない。しかしそういう人たちだけを対象にしているわけではけっしてない。一人でもこのコーナーがきっかけとなって挨拶程度ではなく、ロシア人と実のある会話が出来るようになればと願っている。
ドストエーフスキーは「悪霊Бесы」で革命家を揶揄しているとしてソ連時代出版が奨励されなかった。ソ連時代に出た完全版全集(全30巻35冊)でも第25巻だけ部数が異様に少ないということもある。そのため私はこの第25巻をそろえるために、不要な残りの巻を10冊ぐらいよけいに古本屋で買った思い出がある。買う時に躊躇したのはお金ではなくて、何冊もと言うと本が重いのでどうしようかと考えたのを覚えている。これは90年代初めの話で、当時モスクワでは文芸書の古本は1冊100円くらいだったから、私がお金持ちだったと言う事ではない。90年代は古本が安かった時代で、その時に買いあさったおかげで、今ロシア語の本を辞書も含めて1700冊ぐらい持っている。その頃は1回の出張で多い時は50~60冊買って、超過料金はカレンダーをアエロフロートのお姉さんに渡して勘弁してもらったのを思い出す。いつか(何十年後かはべつにして)読むかもしれないと思っていたがようやく700冊を読んだばかり道遠しである。これは1日多くても70ページくらいしか読めないからであり、通訳やガイドで使えるような語彙や表現を見つけたらエクセルで和露語彙集にインプットしたりするから時間がかかるということもある。このコーナーやこれまでの著書に用いた例文はこの語彙集のおかげでもある。項目は7万を超えた。一つの項目に単語一つというのもあるが、いくつも例文がある項目もある。毎日少しずつ増えているし、見直してよくないものは削っている。10万項目になったら整理しようと思っている。後10年くらいでできるだろうか?
話がそれたが、買うので精力を使い果たしたのか、その第25巻目以降はまだ読んでいない。もっとも主な著作は24巻までにほとんど載っているけれど。ロシア語でドストエーフスキーを読んだ感じでは推理小説を読むようで内容を追うだけなら読みにくいとは思わない。かえってロシア的雰囲気の濃厚なブーニンなどのほうが外国人には理解が難しいと思う。ただドストエーフスキーにロシア的がものが少ないという事は、人間とは何かという普遍的な主題が多いという事で日本にもファンが多いのはうなづける。
設問)「アリョーシャ、映画に行こうよ」をロシア語にせよ。

Posted by SATOH at 06:24 | Comments [4]

●和文解釈入門 第29回

あるとき温泉の注意書きの「入浴の前に、かかり湯(かけ湯)をしてください」をПеред купанием сначала подмойтесь.と訳したら、20年くらい日本に住んでいるロシア人女性から、подмойтесьをпомойтесьに直された。помытьсяはвымытьсяと同義語で、вымыть себя, очиститься мытьём от грязи, пыли и т. п.ということで「全身を洗う」と言う意味になる。無論全身を前もって洗ってから入浴した方がいいのかもしれないが、それでは注意書きとは意味が違うし、熱い湯に入る前に身体を湯に慣らすことで、身体の負担を減らして身体の具合が悪くなるのを防ぐ意味もあると指摘したら、びっくりしていた。подмытьсяはподмыть себе нижние части тела (промежность, ягодицы и т. п.(下半身〔股間、お尻ほか〕を洗う)であり、全く正しいし、この意味でピリニャークも使っていたはずだ。ところが女性に対してこの語を使うと「ビデを使う」と言う意味と誤解されやすいという事も分かった。それで、後から考えてПеред купанием сначала плесните на себя тёплой водой.としたらどうかと考える次第。無論温泉などの現場で訳す時はпомытьсяと訳してもいいかもしれない。
ロシア人に露訳した文をチェックさせると、日本語で難しい本も読める、パソコンの漢字入力も楽々できるというような人(そういうロシア人はほとんどいないだろう)は別にして、ロシア語やロシア文化との整合性ばかり見ていて、肝心の日本語や日本(大衆)文化との整合性は分からないから無視してしまう。ただ大半はスペルや文法、語彙の選択のミスなどの指摘で、なるほどと中級者でもロシア人のいうことをそのまま信じてしまう。ロシア人にロシア語をチェックしてもらう時は、和文解釈ではあくまで和文がメインなので、何年日本に住もうと日本の習慣や日本語に通じていないロシア人に対しては、あくまでもインフォーマントとして接するという考え方も頭の片隅に置いてもよいかもしれない。
初心者にロシア語を教えるときにはアーカニエаканьеという言葉を使うかどうかは別にして、力点のないоはаに近く発音すると教える。коронаなどはカローナと発音される。これは英語にもあることだからそれほど驚くことではないのに、これでやる気をなくす人もいる。身近な例を挙げれば、車のカローラなどもそうである。これはCorolla(花冠)と英語では書く。
家電はэлектробытовая техникаでこの場合のтехникаは機械の総称で「機械類」という意味である。では白物家電(家事家電、生活家電)は何というかと言うと、бытовые (электро)приборыで、含むのはутюг, холодильник, пылесос, полотёр〔電気床磨き機〕, стиральная машина で、テレビは含まない。テレビを含むものはオーディオ家電(カラーテレビ、ラジオ、テープレコーダー、ステレオ、ウォーキートーキー (цветные телевизоры, радиоприемники, магнитофоны, стереофонические установки, портативные приемопередатчики)といい、これはбытовые радиоэлектронные приборыである。
設問)「こんな巨大な蚊は一度も見たことがない」をロシア語にせよ。

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2011年05月28日

●和文解釈入門(お詫び)

どうも回答が来ないと思っていたら、当方で第29回に設問を入れるのを忘れていたのに今気がつきました。ご容赦ください。回答をお待ちします。

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2011年05月30日

●和文解釈入門 第30回

今回は不完了体の特徴が特によくあらわれるとされている過去に的を絞って体の用法を整理してみた。通訳するときに一見簡単な表現ほど訳しにくい場合も多い。日本語の「~していました(~していた)」は状態、過程、繰り返し・反復の意味だから、不完了体の過去形を使うのだというのは分かるだろう。しかし会話で日本語の文末に多いのは「~しました(~した)」であり、これがすべて不完了体過去形で済むなら通訳も楽だが、そうはいかない。いくら動詞の意味を覚えても、体の用法が分かっていないと使えないというのはそこのところである。「~しました」はもちろんロシア語には訳せるが、すべて文脈によるのであり、通訳するときには瞬時にその文脈を読み取ってどちらの体を使うかを決めなければならない。「~しました」でも、動作の完了(たった今終了した)やアオリスト(現在とは直接関係のない出来事を示す。分かりやすく言えば、過去の目印〔昨日、1990年とか、3年前とか〕があるときや、〔~してから~した〕と過去の動作が連続するときで、これらを順次的用法と言う)は完了体過去形を使う。
その他の「~しました」では不完了体の過去形を使うのだが、これが案外分かりにくい。この用法はロシア語の文法用語では、「事実(動作)の名指しобщефактическое (обобщённо-фактическое) значение」と呼ばれ、これはいわば過去の出来事の有無の確認であり、その中には経験(第29回の回答参照)という用法も含まれている。これは1回(一度もないなら、精確にいえば0回)の経験と何回もの経験の用法に分かれる。前者はОн читал «Братья Карамазовы» ещё в молодости.(若いころにもうカラマーゾフの兄弟を彼は読んだ〔ことがある〕)で、後者はОн читал этот рассказ много раз.(かれはこの短編小説を何度も読んだ〔ことがある〕)などと使う。前者には「若いころに」という過去の目印らしきものがあるが、漠然としており、この程度なら不完了体を使えるという事である。
事実の名指しという用法は全部で3つあり、他の二つは、それこそ「過去の出来事の有無」を示す用法で、На стене справа когда-то висела картина.(壁の右側にはかつて絵がかかっていた)〔発話の時点では絵はかかっていない〕とНа стене справа висела картина.(壁の右側に絵がかかっていた)〔発話の時点では絵はかっていたかも知れないし、かかっていなかったかもしれない〕という過去にはあった(否定文なら過去にはなかった)という用法であり、もう一つは、第23回本文で紹介した反意語のある動詞群で、Кто открывал окно?(だれが窓を開けてたの?)〔発話の時点では窓は閉まっている〕で、ちなみに同じ動詞群の完了体過去形では、Кто открыл окно?(誰が窓を開けたの?)〔発話の時点では窓は開いている〕がある。
前に出題した「書いた」は、動作だけの記述(確認)だけなら不完了体を、書いた内容まで踏み込むなら完了体をという考え方もできる。過去における体の用法は、不完了体が確認的であり、完了体は告知的・物語的と覚えるようにしよう。そうすれば体の用法で迷った時にどちらを選べばよいかが分かりやすい。会社や工場見学でロシア人がよく聞く「彼ら〔前のグループなど〕は来ましたか?」という文はОни посещал?と不完了体過去形を使う。これは事実の確認をしているということになる。前に説明したГосподин Иванов приезжал.(イワノフさんが来ていた)は Господин Иванов приехал и уехал.と同じことで、приехал и уехалは完了体過去形の順次的用法であり、これはアオリストの典型でもある。アオリストも現在とは無関係の過去の出来事を扱うから、不完了体過去形の事実の確認とどう区別すればよいかという疑問もわくだろう。不完了体過去形は事実の確認という事で、主語と動詞しかないことが多いし、具体的な過去を示す目印もないのが普通である。要するに動作があったかどうかが重要だという事であり、アオリストでは具体的な過去を示す目印(昨日とか、1850年とかの年号、1週間前など)がついて具体性を示すような文言がついてくるのが普通で、不完了体にはこの具体的な過去の印というのはつかないと覚えよう。
通訳する日本語の内容が瞬時に人の姿でイメージできるように訓練をしておけば、上記のうちいずれかの体を選べるようになれるはずである。ロシア語ならともかく、日本語を聞いてイメージするのはそれほど難しくはないはずである。少しはお役に立てただろうか?第10回の表や第21回の本文も若干手直ししたので興味ある方は見てほしい。今後も手を入れるつもりである。
もっともどちらの体を使ってもあまり意味もニュアンスも変わらないものも少しはある。また間違っても確率5割だから、運を天に任せてと言う考え方もできるが、それだと一生外国人のロシア語から抜け出せないし、ロシア人がロシア語を使うときのニュアンスの違いも分からないままで一生終わってしまう事になる。せっかくかなりのところまでロシア語をやってきたのなら、それほど難しくはない体の用法をマスターしないのはもったいない話であると思う。
設問)「僕は彼女の手を握った」をロシア語にせよ。

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2011年06月05日

●和文解釈入門 第31回

時事ロシア語の語彙は露和辞典や和露辞典に載っていないことがおおい。しかし、グローバル化、またテレビやインターネットのおかげで世界が狭くなり、どんな事柄かが写真や動画ですぐに見ることが出来るため語義も明確になりやすく、共通の考え方(英語中心と言えるかもしれないが)が広まっている現在、直訳できるものや、英語を崩したりすることで比較的簡単に訳が見つかる場合が多い。しかし、美しい、賢い、重要なというような基本単語は、その民族の文化的根幹に関わるゆえに、各民族の間で内容にぶれがあることがある。красивый, умный, важныйという形容詞は少なめの程度を示す副詞「ちょっと、ほんの少し、やや」немного, слегка, чуть-чуть, несколько, отчастиとはいっしょに使えない。日本語ではやや美しい(重要な、賢い)と使えるが、なぜロシア語では使えないのだろう。これは日本語のこれらの形容詞が美しいを例にとれば、容器のようなもので、否定を別にすれば中に10%から50%、100%まで容れることができるが、ロシア語のこれらの形容詞は、初めから容器の50%以上が満たされているからだとシノニムの辞典は説明している。だからнемного красивый (важный, умный)はロシア語としておかしいとされる。весьмаやоченьはочень красивый, весьма важныйと語結合することができるのはこれらをつけることによって容器の90%ぐらいを示すことになるからである。日本語のやや美しいを示すには、не очень (красивый)を使うか、他の形容詞милый, привлекательный, симпатичныйなどを使えということなのだろう。動詞でもраспоясаться(手がつけられなくなる)などもсовсем, вовсе, окончательно, совершенно, уж, очень, такとは自由に結びつくが、немногоとは一緒に使えないというのは上記と同じ理由によるからだろう。
この点プロも含めて学習者は常に初心に立ち返って、基本的語の語義を確認するようにしないと、その理解に致命的な誤りが生じる場合がないとも言えない。こういうのは露文解釈だけやっていては理解できないであろう。露文解釈では基本的に語結合を組み立てる必要はない。解釈しようとするロシア語はすでに(書いたものや音という形で)出来上がっているからである。私が大学ではロシア語を習ったときは、このようなことは教わった記憶がないが、日進月歩の世の中だし、それ以降30年以上も経っているのだから、ロシア語の専門の大学や語学校では常識として教えているのかもしれない。独学の方用に一応書いておく。
「(人が)やせている」のはどう訳すのだろう。ニュートラルなのはхудойでОн худой некрасивый мужчина.(彼はやせた醜男だ)ともОна худая красивая девушка.(彼女はやせた美しい娘だ)とも言えるからである。悪い意味で「やせている」は、тощие женщины(やせぎすの〔やせこけた〕女たち)でтощийにはзлой(意地悪な)というニュアンスが含まれている。この他にもマイナスのイメージがあるものにはисхудальная мать(やせ衰えた母)、костлявый старик(骨ばった老人)、сухой старик(ひからびた老人)などがある。тонкая брюнетка(やせた髪の黒い女性)というのは骨が細いというニュアンスがあり、тонкие пальцы (руки)(やせた指(手)という風にも使える。いい意味で「やせている」には、худощавый человек(スマートな、ほっそりした人)、поджарые загорелые ребята(引き締まった日に焼けた子供たち)でподжарыйは普通女性には使わない。こう言う類語の違いを間違って使うと非常に失礼な場合になることもある(外国人だから許されるという事もあるだろうけど)ということはお分かりだろう。
ではその反対の「(人が)太っている」にもいくつかシノニム(同義語を含む類義語)があり、толстыйはややマイナスイメージで、日本語の「太っている」に相当する。полныйは女性に対してよく使われ、イメージ的にはニュートラルであり、強いて訳せば日本語の「ふくよかな、太めの」に相当しполная дама(ふくよかな〔太め〕の御婦人)、пухлыйは赤ちゃんによく使う形容詞でпухлый младенец(丸々とした、ふっくらした赤ん坊)、тучныйはマイナスイメージで、メタボ、つまり「でぶった、でぶでぶの」тучный господин(メタボの(でぶった)お方)、жирныеはさらに進んで、「ぶくぶくした、ぶよぶよの」жирные руки(ブヨブヨの手)という感じである。
設問)「どうして砂浜に行かないのですか?」をロシア語にせよ。

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2011年06月07日

●和文解釈入門 第32回

このコーナーを定期的に閲覧している人が日本全国に何人もいるとは思えないが、その数人の人に対して、あるいは偶然見てくれた人でロシア語の関心のある人に一言申し上げたい。ひょっとしてその中には設問に対して100%正解であるという自信がなければ恥をかくのが嫌だから投稿しないという人もいるかもしれない。そうだとすればとても奇妙な考え方である。なにも本名での投稿をお願いしているわけではない。自信がなくとも気楽に投稿してもらえれば、自分の弱点が分かり、答えが間違ったものほど、また他の人の目に触れたものほど次は間違えなくなる。ようは正解を覚えてしまえばいいわけで、丸暗記より、理詰めの方が覚えやすいというだけである。投稿する際に第1回からさかのぼって読み通す必要もない。とりあえずまだ回答のないもの(最新の設問)からやって見た方が面白いと思う。投稿がだれかに先を越されても、どしどし投稿してほしい。正答は一つではないし、私の回答自体納得のいかない場合もあるかもしれない。回答の投稿を一つに制限しているわけではないし、第1回や第2回分についてだって自分なりの回答があるなら出してもらえれば、正しいかどうかチェックする。バンドルネームだって、自信があるときはAで、あやふやなときはBと使い分けてもらってもかまわない。他の人の使ったバンドルネームだけ避けてもらえればいいのである。
こう書いたのは、設問を出題するのも学習者のためというよりは、自分のためである。いろいろな回答が寄せられれば自分の回答を見つめ直すよい機会になるからである。それに人には変な事を教えられないから自分のロシア語の知識を整理して、典拠もはっきりさせてから書くことにしているので自分にとっても非常にいい勉強になっているし、自分のロシア語の勉強の励みになっているので、気がねなく投稿してほしい。別に人助けのためにやっているわけではないし、自分のロシア語がそういうレベルでもないことは理解している。出題はいきあたりばったりのように見えるかもしれないが、一応は第10回に書いた表に沿ってはいる。この表は未完成なので、今のところ頻繁に訂正しているし、設問の回答との関連付けも出題後書き加えるようにしている。表に沿っていないものは、一見簡単そうだが通訳するときに悩んだものや使えそうなものを書いている。その出題の順番がアトランダムなのは、当初から出題はある程度気が向いたもの、その時点で面白いと思ったもの、学習効果が出そうなものを優先している。またよく市販の参考書で、練習問題をその項目毎、例えば名詞の格変化(単数)、完了体(過去)など分けて説明したすぐ後に出題しているのを見るが、そうなると学習者はその範囲だけに回答のテーマを絞ることができる。これはいい面と悪い面があり、復習するにはいいのだろうが、実際の通訳、ガイドでは文法事項の何が出てくるのか分からないのがあたりまえである。それで私の出題も、実戦に合わせて行き当たりばったり方式にした。趣旨を御了解願う。
хотетьとхотетьсяはどう違うかと聞かれれば、хотетьсяの方がやや丁寧な感じがするとずっと思ってきた。シノニムの辞典で調べると、「彼は絵画を習いたかった」と言う文をОн хотел учиться живописи. とЕму хотелось учиться живописи.と訳した場合、хотетьの場合は現実的に絵を学びたいという希望に焦点があり、それを実現しようという意志も感じられる。一方хотетьсяは、そういう希望が感じられるが、だれの(何の)影響でそういう希望が出てきたのかが分からない。つまり本人の意志かどうかが分からないということである。できれば希望はひとりでに実現してくれたらいいなという感じであり、それゆえこの希望が現実的なものか、あるいはそれを実現するために続けて行こうという本人の意志があるとは思えないということになる。хотетьсяのほうには意味上の主語が主格ではなく与格で出てくるのも、主体性が感じられないという気がする。また意志がはっきり出ないということから、遠慮しているというニュアンスが出て、これが丁寧さにつながっているのだろうと考える。この系列の動詞работаться, спаться, думатьсяなども同様である。
ついでにхотетьсяの特殊な用法について知らない人も多いと思うので書いておく。それは方向の副詞(куда, к кому) と共に使われた時は必ずпо-という接頭辞のある運動の動詞を用いるという事である。つまりМне хочется пойти в кино.(映画に行きたいのです)となり、そうでないкакに対応する場合はМне хочется идти пешком.(歩いていきたいのです)のようにидтиになるということである。またхотетьсяは直接補語を取ることもできる。補語に行き先が来た場合、例えばЕму хотелось домой.(彼は家に帰りたかった)やМне хотелось на воздух.(外に出たかった)という場合はхотеться = хотеть попасть куда-либо(行きたい)であり、具象名詞が来れば、Ей хотелось конфетку (сладкого, пива, чаю с вареньем)〔彼女はチョコ菓子(甘いもの、ビール、ジャムのついた紅茶)が食べたかった〕では、хотеться = хотеть использовать объект, съесть или выпить(ものを利用したい、食べたい、ないしは飲みたい)となり、具象名詞は対格か部分生格となる。補語が抽象名詞なら生格を取り、Актёрам хотелось большей свободы.(役者たちはもっと自由が欲しかった)〔большейはоに力点〕とかМне хочется мира в семье.(家庭の平和が欲しい)というようにхотеться = хотеть приобрести или иметь объект(ものを得たい、ないしは持ちたい)という意味になる。無論Хочу домой.(家に帰りたい)というのも可能である。
設問)(目の前にある神社の説明で)「この神社の創建は400年前です」をロシア語にせよ。

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2011年06月08日

●和文解釈入門 第33回

いくら語彙を増やしても、基本的な体の用法や被動形過去短語尾の使い方が分からないと、いつまでも挨拶程度のロシア語のままであり、実用的な会話ができない。前回は工場案内や観光案内でもよく使われる被動形過去短語尾の結果の存続について出題した。これに関連して、被動形動詞過去の短語尾と完了体過去形の違いについて書いたものを見つけたので紹介しよう。РозентальはСпоравочник по русскому языку Практическая стилистика, ОНИКС, 2008(ロシア語参考書実用文体論)の中で、「私は指示を与えた」の二つの文Мною дано указание.とЯ дал указание.を挙げて、Я дал указание.に比べてМною дано указание.は文学や実務的発話で用いられ、断定を避け、より表現を和らげる形であると書いている。
またニュースなどでよく目にするМною был подписан указ.と過去形のбылを入れれば、動作が発話以前に終了したことを意味するだけで、実際はともかく、話者の意識の上では「たった今~した」という意味はなくなり、たんに「私が政令に署名した」ということになる。被動形過去短語尾については5月に出た「ユーラシア研究」第44号に「観光ロシア語」と題して観光でよく使われる表現を2ページほどのエッセーに書いたので、ご興味のある向きはご一読を。
「模様」には普通はузорを使うが、これは細い線、滑らかなラインの繰り返し、調和が取れており、表面全体に及ぶ、ロシア文化的なものを指す。узор на крыльях бабочки(蝶の翅の模様)、русские узоры(ロシア的模様)で、ガラスについた霜はморозный орнамент (узоры) на стекле(ガラスの霜模様)とорнаментも使える。орнаментは幾何学的、動植物のパターン化・繰り返し、くっきりとしたリズムのある、または各民族の文化による模様で、ロシア的な模様はузорである。греческий (египетский) орнамент(ギリシャ的(エジプト的)模様)、растительный (животный) орнамент(植物(動物)的模様)、лепной орнамент(塑像の模様)。常に複数形で使われるразводыは大きめの模様で、境目がはっきりしない模様で、черный с лиловыми разводами(紫の模様が入った黒の)などと使う。рисунокはузорの同義語で、рисунок концентрических кругов(同心円の模様)といい、他にгеометрические фигуры(幾何学模様)、唐草模様はарабескиといい、手の込んだ模様は口語でвычурыという。
果物はфруктыだが、これは木になる(低木性のキイチゴも含めて)もので、ягодаはイチゴ類であり(キイチゴなどの低木性や草本性のも含む)、厳密に言えば両者は意味が重なる。日本語の液果(漿果)は、ナッツ類と対応するもので、木本性や草本性を問わない。英語のberryにはイチゴ類という意味と液果という意味がある。イチゴ、バナナ、トマト、ブドウはみなberryである。ягодаには総称的な意味もあるが、通常はягодыと複数形で使い、イチゴなどの実が複数あることを示す。лестницаには「階段」と「梯子」という意味がある。ставить лестницу к стенке(梯子を壁に立てかける)やкласть лестницу на землю(梯子を地面に置く)、спускаться по леснице(階段を下りる)である。この頃テレビや動物園でも人気のヘビクイワシを訳すと一見орёл-змееядとなりそうだが、正しくは(птица-)секретарьであり、орёл-змееяд (= карачун) ハラジロワシである。これなど学名を調べれば分かる。
設問)「どうしてそれを知っているのですか?」をロシア語にせよ。

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●和文解釈入門 第34回

初めて書いたロシア語の参考書は「アネクドートに学ぶ実践ロシア語会話」であり、思いのほか売れたらしく、出版社では第2版を出すことにしたが、お客様からの要望という事で、力点を打つことになった。それまでは打っていなかったわけである。別に力点を打つぐらいは何でもないのでオーケーして、それ以後の参考書や会話集にも力点を入れているが、馬鹿げた話である。力点を入れて少しでも得をするのは読者ではなく、著者なのである。校正もいれたら4、5回原稿を読み直すことになるので、忘れかけた力点の復習になるからだ。ネットなどでも「アネクドートに学ぶ実践ロシア語会話」の初版に力点が打っていないのはとんでもないと書いた人がいたが、趣味でロシア語をやるならともかく、プロを目指すなら、力点ぐらい辞書を引いて自分でコツコツ入れて、単語のスペルと力点を覚えるようにしないと、せっかく語彙を覚えるチャンスを失うばかりだ。いかに楽に(効率的にと読み替えてほしい)勉強するかというのは決して悪いことではないが、語学をやる上で重要なのはいかに多く、深くかつ広範囲に語彙を覚えるかであり、そのために辞書を引くのが役立つはずである。特にやる必要もない著者だけが力点の復習をして何になるというのだろう?力点が打ってあれば、力点が何度も目に入り自動的に覚えられるというならそれでいいが、分かるまで何度も辞書を引いた方が覚える確率が高いと思うがどうだろう。上級を目指すなら露露辞典を引けるように勉強すべきだし、それならなおさら露和辞典を引く練習を積み重ねるべきである。語学に王道なしである。そうはいうものの力点付けに加担した身にとっては、世の中の流れに抗すべきもない。露文の振り仮名付けについては中級ぐらいの学習者から読みにくいという声も聞くが、力点を外せという声は聞こえてこない。それで一応ここで問題提起をしておく。
старый другとстарший другの違いは、前者は古くからの友人で、後者は年上の友人。твёрдый сплавをлёгкий сплав(軽合金)から判断して勝手に硬合金と訳すと笑われる。これは超硬合金と訳す。плоскостьは平面という意味ならпрямая на плоскости(平面上の直線)のように前置詞はнаを取るが、точка зрения, сфераという意味なら、вを取る。искать всё-таки в иных плоскостях(それでも別な考え方を探す)。ちなみに複数形では生格以降語尾に力点が来る。前置格ではя。
設問)「ここは滑りやすいから、転ばないように注意してください」をロシア語にせよ。

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2011年06月09日

●和訳解釈入門 第35回

ロシア語の勉強が挨拶程度で終わってしまって続かない大きな理由は、暗記の比重が高いことである。当初から名詞・形容詞・代名詞の格変化、動詞の活用と絶対に暗記しなければならないものが続き、文法も初級程度でやめてしまうから、プロになっているような人は暗記の能力が高いか、根気が続くか、はたまたロシア人のいる環境におかれて嫌でもやらざるを得ない状況に追い込まれて生き残った人たちである。そういう人たちは少数派だ。多くは脱落してしまう。話は飛ぶが、今子供の間で将棋がブームであり、中国でも日本の将棋が学校の成績(特に数学)がよくなると取り入れているところが出てきたという。一方ゲームセンターには若者の姿は見ずに年寄りばかりだという。これは簡単なように見えても奥が深いもの(チェスは指し手の変化が10の120乗だが、将棋は相手から取った駒が使えるので10の220乗になるという)に若い人でもあこがれる事を示していて、ゲームは飽きるのが早いのだろう。ロシア語も奥が深いが、上達への道筋はあるのである。それが文法であり、その面白さを少しでも紹介したいと思ってこのコーナーを立ち上げたわけである。だからロシア語を勉強する若い人も丸暗記ばかりではなく、文法の面白さを感じてもらえればロシア語学習者の数も少しは増えるのではと考えた次第である。
 大学の先生などは初級や中級の下ぐらいの参考書を書く人は多いが、中級の上や上級の下クラスの、実際の通訳やガイドなどプロが使えるものを書いた先生は、磯谷孝、城田俊、原求作、中沢敦夫の各先生方など数えるほどである。それも例文から判断して和文解釈ではなく露文解釈中心のようである。ロシア語の参考書を書いて金儲けをしようとする人は皆無だろうし、また売れないから出版社が参考書の出版について二の足を踏むというのも分かる。それならインターネットの時代だから、ブログやサイトで書いてくれればいいと思うのだが、多分日本の大学の先生と言うのは、教えること以外の雑務が非常に多いのだろうと思う。それで人を当てにしてはいけないと思い、恥ずかしながら自分でやって見ることにした。重要なのは書いたものに対する責任の所在だと思っているので、本名で書いている。さとうと平仮名にしているのは、佐藤好明で検索すると、海洋大学の元教授だとか、それ以外にも同姓同名однофамильцы и тёзкиが結構いることで、そういう人たちに迷惑をかけてはいけないと思い平仮名にしたわけである。佐藤は日本で一番多い姓なので、姓の役割を果たしていない。そういう事なのでご理解願いたい。間違いもあると思うが、納得のゆく説明が得られれば、お詫びして訂正するつもりであり、誤記や分かりにくいと後で分かったものは、その都度訂正している。
ロシア語のконцертにはコンサートという意味のほかに、バレー、演芸(つまり落語、漫才、ショー)の公演という意味がある。Я зарабатываю концертами.と言えば必ずしも音楽家ばかりとは限らず、「私は舞台で稼ぐ」と訳しても文脈から正しいことだってありうる。資産も固定資産などはнедивижимое имуществоのようにимуществоが普通だが、海外資産はавуарыで、個人資産はличное состояние, личные средтсваなどという。「疑う」という動詞も和露辞典ではсомневатьсяとподозреватьが挙げられているが、この二つはロシア語では同義語ではない。用法が違うのである。сомневатьсяは「自信がない」というのが根底にあり、Она сомневается, что ее знаний достаточно, чтобы говорить на русском языке.(ロシア語で話すには自分の知識が十分か彼女は自信がない〔疑わしい〕)ということであり、подозреватьは「有罪であると考える」ということで、Его подозревают, что он заказал убийцу.(彼が殺し屋を雇ったと疑われている)ということである。「計算」もвычисления(複数)が一般的で、その同義語はрасчётだが、数学的、技術的計算という意味合いである。выкладки(複数形)も同義語である。подсчёты(複数)は合計(総計)という意味である。
設問)「ある若者、後に死体で発見されるのだが、彼は殺人をしたことを1年半前に自白している」をロシア語にせよ。これは今までの出題の中では一番難しいと思う。

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●和文解釈入門 第36回

ロシア語をやって数年たってロシア人との意思疎通も問題なくなった頃、日常会話でちょっとした疑問が浮かんだ。毎日お客さんに言っている「おかけくださいСадитесь!」がどうして不完了体を使うのだろうということである。参考書では不完了体の命令法の用法で着手は不完了体を使うとあった。しかし動作は完了を意味している。これは体の用法の例外かとも思ったが、それでは例外だらけだ。このようにして場面場面に応じて、日本語やこれまで一通り習った文法と発想が違うなと思ったものは丸暗記するようにした。動詞の活用や名詞の格変化、慣用句や諺などそのまま丸暗記しなければならないのは分かるにせよ、迂遠な方法である。なんとか合理的に覚える近道はないかと考え、時に触れていろいろな文法に関する参考書を読み、自分でも考えてなんとか体の用法については自分にとってそれなりに結論が出たと思う。この40年間で半分くらいは丸暗記で覚えたが、残りは文法中心にしたので、少しは暗記の負担が減ったろうと思う。丸暗記が悪いわけではないが、それだけでは続かないだろうし、ロシア語のやる気を継続するためには、実用志向(ロシア人と実用的な会話が出来るようなという意味で)の教え方を工夫すべきと考え、それをたたき台としてこのコーナーで紹介しているわけである。
数量というのはколичествоだがчислоも使える。同じように使われる場合も多いのだが、違いは、前者ははっきりと数値に表しにくいものも来るということである。количество энергии (информации, знаний) エネルギー量(情報量、知識量)などで、一方後者はчисло оборотов(回転数)のように精確な数量といった意味合いが強い。ただчисло (количество) пассажиров(旅客数)などのように同じように使われる場合もある。количествоの方が数えられる数量という意味では(この意味では両者とも単数のみで使われる)使われる頻度がこの意味では多いようである。
設問)「紅茶のお代わりいたしましょうか?」をロシア語にせよ。

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●和文解釈入門 第37回

もしこの和文解釈入門がロシア語の初学者(年齢を問わず)が、ロシア人とロシア語を書いたり話したりしようという気持ちに少しでもなり、ロシア語の勉強を続けていこうという意欲が少しでも湧けば、このコーナーの目的は達せられたことになる。本来ならばNHKのテキストの和訳をロシア語にするという勉強をすれば一番ロシア語がうまくなるはずだが、それではテキストのロシア語と違った訳が出てきた場合(往々にしてそうだろうが)、無理やりテキストの答えを丸暗記となる。無論正しいのだが、勉強というのはなぜ違うのかというのが分からないと、丸暗記だけで続けるのは二十歳を過ぎた大人にはしんどいし、本来の勉強とは呼べない。和文露訳に回答が一つだけというのはあり得ないからである。また違った訳について解説をしてくれる人がそばにいなければやる気が続かないだろう。仮に親切なロシア人がいたとして、言語学の素人であれば、どうしてそれではだめなのか、文法的、あるいは類語の使い分けなど説明できるような人はいないだろうし、いたとしても、ロシア語に対する意見と知識を混同してしまわないかその危惧がある。仮にロシア語の言語学を修めた人だとしてその説明をロシア語で聞き取れる人は上級者であって、初級者には無理だ。これは日本語についての違いをロシア人に説明するという事を考えれば分かるだろう。
 この和文解釈入門もロシア語文法の専門家からみれば、随分トンチンカンだなと思う説明もあると思う。批判やコメントを寄せていただければ、前向きに対処するつもりだが、ただ目的とするところは、露文解釈における文法の説明ではなく、如何に会話で和文をロシア語にするとき、どの単語を選べばよいのか単語の選択の幅を提示する試みであるという事をご理解願いたい。体系的に書ければいいのだが、なにせ初めての試みなのでそうはなっていない。逆に読者のみなさまの回答が大いに勉強になっているし、励みにもなっている。
 「操縦」という意味の「運転」は車の場合вождение машиныだが、飛行機や宇宙船はуправление самолётомやуправление космическим кораблёмとなる。「機械の運転」だとэксплуатация, работаとなる。よい文章を見つけたので前回のコンサートを補足する。концертと言えば無論「コンサート」と訳すが、このロシア語の意味はこればかりではない。バレーの公演という意味もあるし、寄席などの公演もそうだ、例えば、Они просметрели шесть концертов Вольфа Григорьевича Мессинга.(彼らはメッシングの6つの公演を見た)という文もある。このメッシングというのはソ連で最初に有名になったテレパシー演者телепатで、最初の頃はソ連政府も反宗教運動に利用したが、大衆の間にメッシングの人気が高まると、彼以外のいわゆる霊能者に対しては公演を許さないようになった。これが変わったのは1980年大中ごろのゴルバチョフ以降で、カシュピローフスキーКашпировскийがテレビを通じてお茶の間の視聴者に催眠術をかけて大いに問題になった。
設問)「ご予定は?」をロシア語にせよ。

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2011年06月13日

●和文解釈入門 第38回

「あなた」という言葉は愛妻が御亭主を呼ぶ時以外は、何か女学校の女の先生が生徒に対して使っているような、外人の日本語のような感じがして個人的には大いに耳ざわりである。谷崎潤一郎の「文章読本」に「敬語の動詞や助動詞があるときは、それらを受ける主格は略したほうがよい、否、略すための敬語である」と述べ、これは「元来主格たるべき御方の御名を口にするのが勿体ないところから起こったとも思える」と書いている。だから主格、所有格、目的格の名詞、代名詞を省くのだと言う。だから「ご質問についてお答え申し上げます」というのが自然で、「私はあなたの質問に答える」というのは外人の日本語だが、受験英語ばかりやっていると外人のみならず、このような日本語を書く日本人もいるだろう。ここまで極端でなくとも、通訳していて我ながら変な日本語だなと思うこともしばしばあるから、自戒せねばと思うこのごろである。
日本語でごく簡単に書かれている事柄をロシア語にするのは案外難しい。動詞の体と類語の使い分けが出来ていないと、つまり基本が出来ていないと無理な話だ。それができれば時事ロシア語などは、インターネットがある現在、単語を探すのは似たような出来事の記事を探せばよいから楽だと言える。ある程度文法は学んだとはいえ、ロシア語をやり始めてから40年、今も勉強を続け、場合場合の表現をそれこそ何万通りも覚えてきたわけで、それでプロとしてやっているわけである。
こんな赤ちゃんが言葉を覚えるような迂遠なやり方ではなく、赤ちゃんのような柔軟で吸収力の強い脳を持っているなら別だが、成人になったぐらいから(あるいはそれ以降)ロシア語をマスターするにはもっと効率のいい方法があるはずだとずっと考えてきた。私は大学でロシア語を専攻した後、在学中から慣用句(これは理屈もほとんどないので覚えざるを得ない)とか諺を中心に10年ほど勉強した。かたわら小さなソ連中国貿易の専門商社に入ったので、仕事上船舶や鉄鋼、機械の専門用語も英語、日本語、ロシア語と覚えなくてはならなかった。卒業して5年ぐらい経ってから体の用法の重要性を認識し、参考書を読んできたが、仕事上ロシア語で困ることはないものの、ロシア人の使うロシア語と自分のでは随分違うなと感じてきた。ロシア人がこちらに合わせて分かりやすいロシア語で話してくれるのが分かるのである。一方ロシア人同士の会話は口語や俗語を使っていることもあり、こちらには分からない。それでアネクドート(小話)の勉強を始めた次第である。これはロシア人との宴会で通訳させられてオチがなかなか分からなかったからでもある。
当時ソ連ではアネクドートの出版など思いもよらないときで、日本にいるときに東京のナウカでニューヨークやテルアビブで出版されたものを売っていたのを買って使った。地下鉄の構内で半ば違法でアネクドートを売り出したのが80年代後半ぐらいだったと思う。こういうアネクドートの勉強を15年くらい続けたのだが、今振り返って見ると時間はかかったが非常に効果があったなと思う。口語辞典や俗語辞典がなかったので最初は手探りだったが、この10年前ぐらいからそういう辞書も手に入るようになったので意味もだいぶ分かるようになったからである。生きたロシア語を学ぶには非常によい教材だと思うし、今ならインターネットで簡単に、しかも大量に知ることができるからトライする価値はあると思う。
設問)「たった今彼と電話で話したばかりだ」をロシア語にせよ。

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2011年06月14日

●和文解釈入門 第39回

最近は投稿が増えてきたので出題のペースが上がってきており、非常に結構なことだと思う。やる気というのは出題者も投稿者も長くは続かないと思うからだ。できるときに集中的にやっておけばよいし、例文というのはまとめてできるだけ多く紹介してもらえれば、コピーしておいて、後で読者が時間のあるときに(仮に1年後でも5年後でも、10年後でも)、やればいいと思う。私は例文を小出しにするつもりはない。それなら設問も10ぐらいまとめて出せばいいじゃないかと思う人もいるかもしれないが、それでは投稿者も出題者(回答者)も設問に集中できないと思う。設問には一応出題のポイントがあり、それをばらばらのテーマで説明されても、読む方も出題する方も頭が混乱するばかりである。1回に一つなら区切りがついて覚えやすいだろう。百回は続けたいし、ネタは200回分はある。設問を作るのは投稿者が回答するよりは簡単である。早ければ2分ぐらいでできる。ただある程度の種類の回答を予測して解説を書かねばならないので、これに少し時間がかかる。しかしこれが私にとって自分のロシア語の知識を整理する上で非常によい勉強になっている。誰でも恥はかきたくない。特に出題者は。このコーナーの例文をロシア人が見ようと、ロシア語の専門家が見ようと間違いを書くわけにはいかないからだ。そうはいっても出題者の特典はある。自分の自信がないのは出さないという特典である。前にも書いたが、出題するよりは投稿(回答)するのが大変だと思うのはその点である。ただ、回答したり、質問したりするのは今がいいと思う。私も若くはないし、やる気がどこまで続くか分からないからだ。ロシアンぴろしきは不滅であっても、半年後、1年後にこの和文解釈入門というコーナーがあるという保証はない。
革命前はロシアの上流社会には動詞にも敬語にあたるものがあった。жаловать(下しおかれる)、изволить(かたじけなくも~される、もったいなくも~される〔命令形で使う〕)、очастливить(~してくださる)、почивать(お休みになる〔眠る〕)、сметь (Не смею и думать этого.〔滅相もございません〕)、соблаговодить(~なさる)、удостоить(なさる)、удостоиться(光栄に浴す)で、かろうじて残っているのはдать себе труда, желать, кушать/скушать, трудить/утрудить себяぐらいであろう。Кушайте!(お召し上がりください)は不完了体命令法の着手の用法で、この動詞は一人称では普通使わない。子供に対して使えばКушай(те)!「召し上がれ」といった感じで、使う人の愛想のよさが感じられる。
 скоростнойと言う形容詞は「高速の」という意味だが、少し変わっている。陸海空のエンジンのある乗り物に使うのだが、短語尾はないし、比較級はない、しかもоченьと一緒に使わないという制約がある。ксероксというのはコピー(機)の事で、ペルシャの王様クセルクセス大王Ксерксとはなんの関係ない(Кирはキュロス)。これは英語のゼロックスXeroxを、字面の通り発音したからだと言われている。ほかにコピーそのものをксерокопияというロシア人もいる。
設問)「車の運転が出来ますか?」をロシア語にせよ。

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2011年06月15日

●和文解釈入門 第40回

ロシア語の文を見て、正しいかどうかとか、ロシア語では普通はこうは言わないと述べるのは、ロシア語の会話がかなりできる日本人(ないしはロシア人)にとってはやさしいことである。しかし学習者が今後誤りをしないために、なぜそうは言わないのかという問いに答えられないのなら、いくらロシア語のうまい日本人であっても、学習者にとってはロシア語のインフォーマントに過ぎないことになる。無論初級の段階では名詞の格変化とか、動詞の活用など丸暗記しなければならないものもあるし、それに半年ぐらいかかるのは理解できる。ただその後も語彙や例文の丸暗記を続けて行くのかという事である。二十歳を過ぎた学習者でそういう事を続けられる人は限られるだろう。私のように仕事で技術ロシア語を覚えざるを得ない職場にいたというのは例外の部類だと思う。だから初級者は露露辞典を使えるレベル(私のいう中級レベル)にできるだけ早く達するように語彙を増やすことが先決である。露露辞典は国語辞典と同様、説明に使われている語彙は基本語彙である。そのため説明が隔靴掻痒になることもあるが、記載の例文なども露和辞典と組み合わせて使えば、ロシア語で考える力がつき、これが露文解釈の力をアップさせる原動力となる。通訳やガイドといってもロシア語で話しているばかりではない。ロシア語を聴き取る力も重要であり、聞き取りの練習のほかに語彙の豊富さが重要であるのは論をまたない。
ロシア語の出題をするときには設問には、できるだけ文法的な理詰めの回答が必要であると考えている。できるだけこれは例外だから(丸暗記せよ)というのを限りなく少なくしたいものである。完了体と不完了体の用法の区別にせよ、こうは言わないという答えでは学習者は納得しないし、またそこで納得したらロシア語の学習力も伸びないという事はおわかりだろう。
Я прошу (Мы просим)とЯ попрошу (Мы попросим)の違いを、後者は未来時制で使うので、日常会話では使わないと考える人がいるかもしれない。попроситьはПопросите, пожалуйста, г-жу Максимову.(マクシーモヴァさんをお願いします)と電話や受付で使うぐらいと思っている人もいるだろう。例文を挙げるとЯ прошу вас помочь мне подготовиться к экзаменам.(試験の準備をするので助けてください)とか、Я попрошу вас действовать строго по инструкции.(指示に厳密に従って行動するようお願いします)があるが、前者はお願いベースであり、後者は丁寧であっても命令である。日常でпопроситьをよく使うのは、警察官がПопрошу документы.(身分証を拝見)や駅員がПопрошу билеты.(切符を拝見)で、これらの場合はпоказать, предъявитьが省略されているとはいえ、お願いではなく、見せなかった場合は署や、駅の事務所に任意かどうかは別にして同行を求められるという意味で命令である。一方Прошу!は部屋などに案内される場合に使われるが、あくまでお願いベースであり、行かなくてもかまわない。предложитьも文脈で判断しなければならないことがある。Пассажирам предлагается покинуть самолёт.というのは「乗客に提案している」わけではない。「乗客に飛行機から離れるよう指示が出た」という意味で命令である。
設問)「間違っているかもしれないが、家畜の中で鶏より愚かなものはない」をロシア語にせよ。

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●和文解釈入門 第41回

ТРКИというロシア語の能力をロシア側がチェックしてくれる試験があると聞く。この試験は受けたこともないし、詳しくはないが、試験問題を見た感じで言うと、できるだけロシア人になりきって、ロシア語そのものをロシア人のように自然に使えると言う事を目指しているようだ。つまりロシア人の発想をロシア語を通じてものにせよというのが究極の目的ではないかと思う。ロシア語を学習する上で、こういう試験というのは非常に励みになるのだろうが、我々の母語は日本語であり、常にロシア語と日本語、ロシア文化(特に大衆文化)と日本文化の違いが何であるかというのが頭になければならない。ТРКИでは日本語の重要性がスポンと抜け落ちているような気がする。ロシア語の発想というと聞こえはいいが、通訳をしないで済む人、ロシア人との意思疎通だけに専念すればいい人はこれでいいだろう。細かい日本語の訳語の吟味は不要で、ある程度感覚だけでやりとりすればいいからだ。勉強の負担も半分くらい減る。
ただ、通訳やガイドを目指すためにロシア語を勉強するというのは、ある意味でロシアと日本の文化の違いを学ぶのだという事を忘れてはならない。つまり、ロシア語を勉強してロシア人になるのを目指している訳ではないからだ。ロシア語と日本語は文化の違いもあって、訳がぴったりと合わないことも多い。通訳やガイドはこの違いをできるだけ埋めるように努力し、両民族の架け橋になるのだという意識が重要である。たとえば、「正座する」をロシア語でопуститься на пяткиと訳しても、どういう文化的背景からこの言葉が来ているのまでは分からない。常に日露の言葉と文化、習慣の違いを頭に入れておく必要があるし、日本人だから日本の文化に精通しているわけではないので、ロシア人と接するのであれば日露の文化(特に大衆文化)、習慣について学ぶという不断の努力が必要である。
設問)「お宅のお子さんたち部屋中駆け回っていますよ」をロシア語にせよ。

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2011年06月17日

●和文解釈入門 第42回

形容詞の最上級で語幹に-ейший-, -айший-のつくものは最上級の強意であるという参考書の説明もあるが、これらの訳について、中級者でも誤解をしている向きがありそうなので書いておく。силиьнейший шахматист в миреは「世界最強のチェス選手」となり、これが本来の意味での最上級суперлативである。これ以上強い選手は世界にいないからだ。しかし、сильнейший ход、строжайший запрет、глупейшая историяはどうだろう。これは仮に名付けて強意最上級элатив (элятив)という非常に強いレベルだが、最高級ではないという意味である。だから、сильнейший ход = исключительно сильный ходということであり、訳はそれぞれ「強力な一手」、「厳格極まりない(甚だしく厳格な)禁止」、「おろか極まりない(甚だしく愚かな)出来事」となる。ちなみに日本語の「極まりない、きわめて、この上なく」は最上級のようだが、「甚だしい」であり、偶然だと思うが意味が似ている。もう一つは、これも仮に名付けて比較最上級компаративといい、他の何かと比較が考慮されている場合である。Он бывал и в худшем состоянии.(彼はもっと悪い気分のときもあった)。これらの二つの用法はどんな形容詞でも現れるわけではなく、上記の他に程度を示すвысокий, длинный, богатый, лёгкийなどの形容詞に見られる。見分け方は簡単で、богатейший человек мира(世界一の金持ち〔最上級〕)とбогатейший человек(甚だしいお金持ち〔強意最上級〕のように、真の最上級は世界のとか、日本のとか限定詞があることが分かる。口語では誇張の表現にこのような最上級が出やすい。これを訳すときに自動的に「世界一」、とか「一番~である」と安易に訳しては誤訳になる可能性もあるという事を知っておいてほしい。
ロシア語もある意味で厳密な言語で、最上級を用いるのは地球でとか、世界でとか、日本でとつけても、本当に世界一、日本一かどうかは調べるのが簡単ではない。記録はすぐ破られるからだ。それでодин (одна, одно) из + 最上級というような表現をよく見ることになる。この訳し方だが、одна из крупнейших городских сетейを「市内最大のチェーンの一つ」と訳しても悪くはないが、「市内最大級のチェーン」とした方がすっきりすると思う。みんながみんな「~級」と訳せるわけではないが、こういう訳もできるという参考に書いておく。この他に「市内有数のチェーン」とも訳せる。通訳の現場では訳は時間の制約もあって自動的にせざるを得ないが、閑な時に他の日本語では他に適訳はないのか、露和辞典の訳に拘束されず、露露辞典の定義から文脈に応じた自然な訳を考えてみるのも私など年寄りのボケ防止になるのではないかと考える今日この頃である。
設問)「一カ月にわたって委員会は事故の原因を調べた」をロシア語にせよ。

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2011年06月18日

●和文解釈入門 第43回

これまで銀閣寺は名ばかりで銀はなく、これは当時の幕府にとっては金がかかり過ぎるからとか、銀箔はすぐに空気中の硫黄と化合(硫化)して黒ずむというのを昔の人も知っていたはずだから、銀箔を貼るというのは初めから考えていなかったはずだとかという説を読んだことがある。ところがテレビでNHKを見ていたら、銀閣は黒漆に白土を塗り、その上にミョウバンквасцыを塗ってキラキラさせたいたのではないかという仮説に関する番組が放映されていた。このように定説というのは変わる可能性があるので、日本のできごとについては、新聞やテレビでよく注意を払っておく必要が通訳やガイド志望者には必要である。
 ロシア語の授業でロシア人のインフォーマントと日本人講師の組み合わせがベストだと思っている人がいるかもしれない。ロシア人に適切な例文を提供してもらう事を期待するわけだ。ただ講師がどういう例文を欲しているかについて互いの意思疎通が完璧に近くうまくいかないと、ロシア人を発音やイントネーションだけに使うというもったいないことになってしまう。100%意志疎通が出来る程度のロシア語の語学力を持つ人なら、敢えてロシア人のインフォーマントを使う必要はないのではないかという理屈も出てくる。意志疎通が95%でも、プロとして必要に迫られて会話の和文露訳をした事がない人は、あらゆるとまでは言わないまでも、多くの事例についてロシア語が出てこない。授業で使うべき会話で使える例文のストックが貧弱だからだ。ロシア留学も1~2年程度なら自分の言いたい事(用足し)をする程度である。通訳志望なら普通もう2~3年は通訳の修行する必要がある。まして人に教えるには類語の使い分けや体の用法など理論面で完全に理解していなければならず、会話面での切磋琢磨もまた必要となるからそう簡単ではない。
 それにいくらロシア人でも適切な例文というのがすぐ頭に浮かぶというとは思えない。そういう例文というのは結構探すのが難しいというのは骨身にしみついて知っている。いろいろな分野の本や雑誌などを読んでも、いい例文は1年や2年ではそんなに集まらない。有名作家の文は著者特有の文体が多く、実はありふれているようで、外国人が会話で役に立ちそうという文が一番見つけるのが難しい。日本同様ロシアでも文章にはできるだけ個性を出せということが作文でも言われているからで、逆に素人でもジャーナリストでも変に格言などをひねったりして気取った文章を書くことが多いので、それらはほぼ使えないのが現状である。いい例文というのはその語義の意味を適切に示すのはもちろん、標準用法で使えるぎりぎりの線まで示すことが出来る例文である。
アキレス腱は医学用語ではахилловое сухожилиеだが、強者の弱点という意味では、ахилессова пятаという。「行列」は並ぶものはочередьだが、祭礼などの移動する行列はшествие. процессия, ход (крестный ход 正教の十字架行進)という。また縦列はколоннаで、横列はшеренга, рядでその場を動かないものである。Я велел колонне остановиться, а сам скорым шагом, почти бегом , направился по середине улицы к шеренге солдат.(私は縦隊に止まれと命令して、自分が早足で、ほとんど駆けて、通りの中央の兵士の横隊に向かった)などという。шпалерыは道の両サイドの木立とか人の列を指す。ガイドはэкскурсовод は博物館や展示会ので、гидは観光案内のを指す。牙はклыки, бивни(ともに2本が普通なので複数形で使うのが多い)があるが、клыкはもともと犬歯と牙という二つの意味があり、猪、象、セイウチの牙を指す。бивеньは犬歯と門歯резецが前に発達した牙で、猪、象、セイウチ、マンモスのを指す。
設問)「仕事を時々家に持ち帰るんです」をロシア語にせよ。

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2011年06月19日

●和文解釈入門 第44回

「サクラが咲いている」ほどではないにしろ、ロシア語の作文で不完了体現在形の状態、繰り返し、習慣を使って作れるものというのは、初級者でも語彙さえ分かれば作れるのだから、あまり出題する意味はないように思う。それで少しでも実戦で使えるようなものをいろいろなバリエーションで出題するように心がけている次第である。
コントロールをконтрольと訳すのは、必ずしも適切でない場合もある。管理や点検という意味ならいいが、例えば「外国演奏家の入国管理」はконтроль над въездом в страну инстранных исполнителейとなるし、「品質管理」はконтроль качества (за качеством)となる。контрольというのは監視してのチェック(何か異常が起きないか管理・点検し、起きたら正常に戻す)、モニタリングмониторинг(状態のチェック)、ないしは同じ制御でも抑制という意味の制御なので、正否(順調かどうか)のチェックという意味ではпроверка(点検、チェック)に近い。ただпроверкаには監視して(つまり長期にわたって)という意味はない。だからпроверка контрольрых работは筆記試験の採点(添削)となり、これにконтрольは使えない。また操作を含む制御という意味ならуправление + 造格を使う必要がある。управление автомобилем(自動車の操縦)でも分かるようにуправлениеは意のままにするという意味のコントロールで、дистанционное управление(遠隔操作)、управление системойシステムのコントロール(制御)などである。ただこの頃は英語の影響かконтроль системыというのもビジネス(金融)用語では見る。この場合モニタリングという意味でのコントロールの意味合いが強いのだと理解している。
「犠牲にする」という意味ではжертвовать/пожертвовать + 造格とпоступиться/поступаться + 造格があるが、жертвоватьの方が大切なものを犠牲にするという意味合いが強い。Я всем пожертвовал ради тебя.(お前のためにすべてを俺は犠牲にしたのだ)などと使う。骨はкостьだが、傘の骨はзонт со сломанной спицей(骨が壊れた傘)のようにспицаを使う。
設問)「研究所は地下鉄で1時間のところにある」をロシア語にせよ。

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2011年06月21日

●和文解釈入門 第45回

 実際のプロになるには諺пословицы и поговоркиや故事成句(名言)крылатые словаもある程度押さえておいた方がよい。実際に通訳の現場で自分が使う諺は10もないと思うが、聞いて分かるのは多いに越したことはない。露和辞典にも解説はあるが、ロシア語の諺に相当するような日本語のことわざを付している例は少ない。ないのならよく使うものは自分なりに訳をつけておく必要がある。諺に関しては「諺で読み解くロシアの人と社会」(栗原成朗、ユーラシアブックレット、東洋書店)が手頃だが、標題の通り、外国由来の諺(健全な精神は健全なる身体に宿るВ здоровом теле - здоровый дух.など)は入っていない。通訳やガイドはロシア本来の諺しか使いませんというわけにはいかないのだから、個人的にはСловарь русских пословиц и поговорок(ロシア諺辞典), В. П. Жуков, Русский язык, 1991 を勧める。これは収録してある諺の項目が1200で、ロシア語の日常で使われる諺を収めたものでは一番詳しいと思う。一通り目を通し、「故事・俗信」ことわざ大辞典」(尚学図書編集、小学館、1982年、約43,000項目)を使って自分で訳語をつけ、自分の和露の語彙集(コーパス)に入れてある。故事成句(名言)についてはКрылатые слова(故事成句), Н.С. и М.Г. Ашукины, Художественная литература, 1987(1500項目)がよいと思う。これも自分なりの訳をつけてコーパスに入れてあるから、何かあれば取り出せる。
 ロシア人も日本人も同じ人間とは言え、ロシア語の諺の意味は分かるのに、対応する日本語の諺がない場合がいくつかあることに気がついた。露和辞典で和訳ではなく解説してあるというのも、全部が全部でないにしろ理由がうなづける。例えばЖенский ум лучше всяких дум.である。日本では「女の浅知恵」の類の諺はたくさんあるが、女性の賢さを誉める諺は見当たらない。これも御先祖さまの民族性の違いからだろう。
ロシアも日本も使う数字はアラビア数字だが、筆記体では少し違うものもある。7では縦の線に横棒が入るし、4では右側の横の線が縦の線から右に出ない。ロシア人に知り合いがいたら書いてもらうとよい。
助数詞はロシア語では日本語ほど使わないが、крыло(飛行機の機), машина(飛行機の機), сабля(騎), хвост(魚の尾), штука(個、匹), штык(兵)は本でもよく見る。例を挙げると、16 боевых крыльев(戦闘機16機)、с двумя эскадрильями (8 машин)〔二つの飛行大隊(8機)とともに〕、Были выдвинуты казачьи корпуса общей численностью в 14 400 штыков, 10 600 сабель, при 53 орудиях(総数兵14,400、10,600騎、砲53のコサック部隊が前進した)、Сколько счёом? Двадцать три хвоста(「何匹だ?」「23尾」)、500 штук собак(500匹の犬)などである。もっともこのごろの日本では何でも「~個」一本やりのようだから、日本語でも助数詞が廃れつつあるというっても過言ではないように思う。
設問)見舞いの言葉である「(早く)元気になってください」をロシア語にせよ。

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●和文解釈入門 第46回

ここでは完了体の未来形と書いているが、同じ内容を完了体の現在形とか完了体の現在未来形などと書く人もいる。Я не пойму.(理解できない)と書けば、このコーナーでは未来形の現在の用法だし、完了体の現在形というなら無論現在の用法である。現在未来形では現在の用法となる。一方、Я уеду в Москву через год.(私は1年後モスクワに行く)なら、未来形の未来の用法であり、現在形の未来の用法であり、現在未来形の未来の用法となる。用語の問題ということであって、学習者にとって本質は変わらない。
事故はнесчастный случайで、交通事故はДТП (дорожно-транспортное происшествие〔警察官などが現場で使う書き言葉〕)やавтодорожное происшествиеという。Погиб в ДТП.(交通事故死〔した〕)など。また多くの犠牲者を出した「大事故」はкрушениеとкатастрофаがあり、どちらも一応使えるが、前者は鉄道事故関係(脱線、衝突など)で使われるのが多く、後者はそういう制限はない。航空機や船舶の事故は後者が使われる可能性が多い。また名詞との語結合も違っている。крушение поездаと生格が後につくのと、катастрофа с поездомのようにс + 造格である。ただ形容詞で「鉄道の」というのはжелезнодорожная катастрофаとだけいい、крушениеにはつかない。крушение自体がほぼ鉄道事故(爆発や火災の事故には使わない)という意味で冗語になるのを防ぐ意味合いからかもしれない。
復習のためидти/пойтиの未来形の用法の違いをよく示した例文を見つけたので、紹介する。Я пойду в аптеку. До аптеки я буду идти 15 минут.(薬局まで行って来る。薬局までは歩いて15分だ)。このようにいきなりбуду идтиとは使えないことが分かる。
設問)「がんばれ、助けが来るぞ」をロシア語にせよ。

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2011年06月22日

●和文解釈入門 第47回

 これまで挙げた類語の使い分けはほとんどが思いつきで書いているようなもので、基本語はほとんどない。基本語をやろうとするとやはり片手間ではいかず、書くのにある程度スペースもいるからだ。ある程度頭の中でまとまったら、順次(つまり順番はバラバラ)に紹介する。
「地名」はгеографическое название だが、географическое имяともいう。ただ後者はいかにも学術用語のようで硬い感じがする。「題名」や「タイトル(表題)」はназвание, заглавие, заголовокが類義語だが、用法は少し違う。название, заглавиеは本などの文学作品(音楽作品についてはあまり使わない)のタイトル(表題)という意味だが、названиеに書名(作品の内容に関係のない書名でもよい)だが、заглавиеは作品名(作品の内容を簡潔に表した)という意味もあるが、「各章の題名」という意味でも使える。だからУ сценария ещё нет названия.(この脚本には題名がない)という文章ではзаглавиеは普通使えない。заголовокは新聞の記事、写真のキャプション、スローガンのようなタイトルや題名に使い、文学作品の書名という意味には用いない。
設問)「感電する確率を下げるためのさまざまな防護措置が取られていない」をロシア語にせよ。

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2011年06月23日

●和文解釈入門 第48回

このような和文解釈入門を書くと言うのは、自分の体の用法についての知識を整理することにもなるし、投稿者の皆さんから回答をもらうと、いろいろな考え方があるなと自分にとっても非常に参考になる。こういう投稿者からの反応や回答というのは参考書では学べないもので自分にとって新たな(しかもタダの)勉強の手段だと思っている。Учиться, учиться, ещё раз учиться!(一に勉強、二に勉強、三四がなくて五に勉強)というのはレーニンが言ったか、好んだ文句とされる。レーニンは好きではないが、この文句は好きだ。意識的に間違ったことを書くつもりはないが、もし間違いがあってそれを理詰めに指摘していただければ、誤りを認めるのに吝かではないし、また一つ賢くなれるというものだ。
「新聞の第一面に」はна первой странице газетыでも, на первой полосе газетыでもどちらでもいいが、полосаには新聞のстолбец(段組の欄)という意味もあるので注意が必要である。「皮膚にできた腫れ」というのはволдырьでだいたい間に合う。пузырьというのは水ぶくれだけを指す。子供のおもちゃのコマはволчок, юла, кубарьとあるが、現代で使うのはволчокである。
設問)「前年同期比2%の伸びが見られる」をロシア語にせよ。

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2011年06月24日

●和文解釈入門 第49回

完了体は新規の事柄を示すために、その動詞本来の意味のほかにいろいろなニュアンスがつきやすい。不完了体はといえば、刺身のつまのようではあるが、動詞本来の意味がちらついている。ここのところが体の使い分けの勘どころだと思っている。
肉厚は英語のwall thicknessで、パイプの管壁の厚みтолщина стенкиであり、鉄鋼用語としては常識のためか鉄鋼関係の辞書にも出ていないことがある。маркаという単語は昔鉄鋼関係の仕事ではмарка стали(鋼種、ただ技術者はグレードsteel gradeと英語を使っていたが)というので覚えた。この単語は切手という意味のほかに、сорт, типという意味がある。しかし、使い方にはコツ(骨)がある。車種というのはвиды автомобилейで、これは乗用車、トラックなど用途別を指すが、марки автомобилейといえばトヨタ、ホンダなどメーカー名を指し、その中にさらに車名модели автомобилейがあるといった具合である。日本語の「車のグレード」はスタンダード、デラックス、ハイデラックス、カスタムの別のことであり、ロシア語ではклассであろう。
設問)「日本製の液晶テレビのどこが違うのか?」をロシア語にせよ。

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2011年06月25日

●和文解釈入門 第50回

最近読んだ本の中にあった言葉を紹介しよう。「ロシア語での読み書き、それに話すことですら、あらゆるロシア人(の言うこと)をすっかり理解するというのとはわけが違う」Читать, писать и даже говорить по-русски – совсем не то, что вполне понимать всякого русского.
中心といえばцентрと思うかもしれないが、物理学で使う用語は別にして、他にもсерединаという言葉があり、この方がよく使う。参考のために両者の使い分けを書いておく。центрは一次元の物体(ひもやロープ)には使えない。二次元でも人工的な道路や橋などしか使えず、川など自然のものには使えない。しかもこの場合の中心は道路であれば幅方向(専門用語では横手方向、つまり長方形なら短い長さのほうの)の中心ということであり、серединаは人工的なものでも自然なものにでも使う事が出来、幅方向ないしは長さ方向(専門用語では長手方向)の中ほどという意味である。三次元のものでは、中空のものやガス状のものの立体的中心はцентрであり、中味の詰まったものの中心はсерединаである。さらに中空のもの(部屋など)の場合は床の中ほどと言う意味になる。центрは地理的中心など重要なものの中心と言う意味であって、центр Москвы(モスクワの中心)などと使うし、середина は重要でないようなもの、стоять в середине очереди(行列の中ほどに並ぶ)などと使う。両方とも海や湖などの水域には使えないので、その時はв центральной (средней) части Охотского моря(オホーツク海の中ほどに)などとする。центрには空間的な意味のほかに、センター(建物)という意味もある。抽象的な意味ではсредоточиеを使い、средоточие русского образования(ロシアの教育の中心)などとする。
設問)「すてんと滑って転んでしまったの」をロシア語にせよ。

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2011年06月27日

●和文解釈入門 第51回

ロシア語を習い出して、まず「新ロシア語文典」(И. М. Пулькина, Е.Б.Захава-Некрасова、稲垣兼一、初瀬和彦共訳、吾妻書房、1972年)をやった。ただ自発的な勉強としては、外国人に理解不能な慣用句をまずやろうと思い、「生きたロシア語慣用句」(河島みどり、吾妻書房、1972年)を暗記した。この後慣用句辞典Фразеологический словарь русского языка, Молотков, Русский язык, 1986 や英露慣用句辞典Кунин, Русский язык, 1982を読破した。この後語結合の辞典や諺、故事成句の勉強に進む。商社勤めしてから仕事の関係上技術ロシア語(造船、鉄鋼、機械)をやらざるを得なくなった。また接待で頻出する小話が分からないので、その種の本を集め、読みだす。その関係からворы в законеに興味を持ちだし、ロシアの犯罪に興味が広がる。同時に小話を聞いたり、テレビなどを見て、ロシア史をやらねばと思い、Соловьев, Ключевскийの全集を読みだす。出張で行ったハバロフスクで暇になったので、市内のベリョースカという外貨店でドクトル・ジバゴを買い、これに感激してロシア文学もやらなければと思い、主要な作家は全部読破することを決意して、これまで700冊は読破した。この頃はロシアと日本の関わりというテーマでも読んでいるし、革命前のロシアを扱った本を読むのが好きである。最近読んだРечи немых (повседневная жизнь русского крестьянства в XX веке, Бердинских, Ломаносов, 2011は20世紀の初めに生まれた農民の聞き書きであり、そのメロディーにあふれたロシア語は新聞や雑誌の変に気取った文体とは全く違うもので驚くほど新鮮に感じられる。ロシアでは革命のために庶民文化の断絶があり、このようなロシア語はよほど田舎に出張したときでないと聞くことはない。内容も革命直後から集団化、第2次世界大戦などでロシアの農民がなめた辛酸を平明に淡々とあるいはユーモラスに語っているのが特徴であり、一読を勧める。
GOSTの鋼種記号についても何かの役に立つかもしれないので書いておく。鋼сталь (steel)というのは鉄と炭素の合金であり炭素の含有量が2%以下で、鉄以外に炭素のみ含むものを炭素鋼(普通鋼)углеродистая стальといい、それ以外を合金鋼(特殊鋼)легированная стальという。炭素の含有量が2%以上であれば、鋳鉄чугунないし鋳物である。鋼種記号の最初の2桁の数字は炭素含有率0.01%であり、その後含有元素を示す記号が来る。さらにその後含有平均値(又は近似値)を%で表す数字が来る。文字の後に数字がない場合その元素が多く含まれていることを示す。キルド鋼はсп (= спокойная сталь、脱酸を十分したもので鋼塊中に空隙(孔)がほとんどない)で、リムド鋼はкп (= кипящиая сталь)、セミキルド鋼はпс (= полуспокойная сталь) となる。記号と元素記号の関係を次に示す。Г (Mn), С (Si), Х (Cr), Н (Ni), М (Mo), Т (Ti), Б (Nb), Л (Be), Д (Cu), П (P), К (Co), В (W), Ф (V), Ю (Al), Р (B)。鋼種Ст3спというのは炭素鋼углеродистаястальでспокойная стальキルド鋼(脱酸の十分したものkilled steel)であることを示し、45X1は炭素0.45%のクロム鋼(クロム含有量0.01%)、15ГСは炭素0.15%ケイ素マンガン鋼(マンガンの含有量が多い)となる。
設問)「偏った食生活が結局のところさまざまな疾患の原因となる」をロシア語にせよ。

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2011年06月28日

●和文解釈入門 第52回

投稿のスピードを競っても意味はない。ただ匿名とはいえ投稿するのにもある程度勇気はいるわけで、投稿するつもりはないが回答と解説だけがほしいと思う人も何人か(つまり投稿者の2~3倍くらいは)いると思う。また今は時間的に余裕がないが、できたときにロシア語勉強したいと思う人もいるだろう。和文露訳に終わりはないというものの、ある程度パターン化はできるはずである。一応100回か多くて200回を目標にできるだけ早くその文例を提示せれば私の役割は終わりかなと思っている。そういう面で常連の投稿者のasukaさんやコーシュカさんには感謝の気持ちでいっぱいである。こういう人たちがいないとこのコーナーは成り立たない。一人相撲をしても意味はないからである。常連の人ばかりの回答となると、この二人ばかりにプレッシャーがかかって、義務的なものになると二人にお気の毒な気もする。それでたまに他の方も投稿してくれるような、そんな気楽な雰囲気になってもらえれば100回、200回も夢ではないというような気がする。このコーナーを通じて一人でも少しは和文露訳で役に立った、自分の考えをロシア人に伝えることができたと感じることができるならこれに過ぎる喜びはない。
 慣用句はфразеологизмで、故事成句(名言)はкрылатые словаという。諺にはпоговоркаとпословицаがあるが、пословицаが諺全体であるのに対し、поговоркаは諺の中の一部を切り取ったようなものであることが多く、教訓的な意味合いはない。日本語の例でいえば、「成せば成る、成さねば成らぬ何事も、成らぬは人の成さぬなりけり」という諺全体の「成せば成る」という部分だけを切り取ったものという風に理解している。故事成句と諺の違いは前者には典拠があり、後者にはないということである。原付は原動機付自転車の略だが、ロシア語では50 ccのバイクмопедと、電動自転車мотовелосипедに分けているようだ。スクーターはмотороллер, скутерの二つの言い方がある。中古車はподержанная машинаだが、б/у машина = машина в бывшем употрбеленииともいう。発音はベーウーマシーナで、б.у. машина, машина Б/Уという表記も見かける。
設問)「私がお宅に伺ったほうがいいでしょう。そこで落ち着いて万事話し合いましょう」をロシア語にせよ。

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2011年06月29日

●和文解釈入門 第53回

ロシア語を話すことと書くことは別であり、ロシア語を書くと言っても学習者はメール、それもせいぜいペンパルへのメールやビジネスメールなどを書けるようになることを望むぐらいである。ロシア語が話せればロシア語を書けると思うのであれば、日本語を話せれば日本語がまともに書けるのかということを頭に思い描けば十分であり、数ある日本語のサイトを見れば十分納得されるはずである。無駄に長文の和文露訳の勉強をするよりも、とりあえず会話で使えるロシア語の短文が使えるような勉強をすれば、自然なロシア語でロシア人とメールのやり取りができるようになるのである。ロシア語の短文が書けなくて長文は書けないが、その逆はあり得ない。これがこの和文解釈入門を始めた趣旨でもある。もっとも長文だとチェックが出題者にとっても厄介だし、投稿者以外でも読み比べるのが大変だということもある。
 シノニムсинонимというのは同義語という意味のほかに類義語という意味もある。それでголод(飢餓)とаппетит(食欲)がシノニムという我々素人から見れば変だなと思えるものもある。確かにともに「食べたい」という点が共通しているが、これだけで類義語と呼べるのか、いや呼べるということらしい。同義語というのは文意を変えずに置き換えることが出来る語ということであろう。普通は文体が異なるとか、部分的に意味は重なるという語の事を指すのだろう。だからこの和文解釈入門では重要な類義語の使い分けという時の類義語(類語)は、семантически близкие словаを用いている。квазисинонимという言葉を使う人もいる。
設問「問題は未解決のままである」をロシア語にせよ。

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2011年06月30日

●和文解釈入門 第54回

里見弴の「文章の話」を読んでいたら、「やさしいことはむずかしい」、「やさしいことのむずかしさを知ることはむずかしい」と書いてあった。ロシア語もその通りでこのコーナーの設問も一見やさしそうで、ロシア語にはなかなかできないものもある。それでいてできるだけ会話で応用できるものを出しているつもりだ。
 罠はловушкаだが、これは総称語ではあるが、一応鳥や獣を対象とする。一方самоловというのは自動的にかかる罠だが、主に魚に使う。капканはトラバサミのようなものを指す。一方「罠にかかった」というときにはловушка, капканも使えるが、Он попал в провокацию агента КГБ.(彼はKGBのエージェントの罠にかかった)というようにпровокацияも使える。これを「挑発(扇動)に乗った」と訳すと文脈によっては誤訳になる場合がある。
設問)「彼女は朝起きると、湯を沸かし、顔を洗って、朝食を作る」をロシア語にせよ。

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2011年07月01日

●和文解釈入門 第55回

物事の核心に触れたがる人は知識欲汪盛だが、物事を白黒だけで判断しようとする、つまり結論を追うのに忙しく、物事には灰色のゾーンというものが概して多いのだということを忘れがちである。でもこういうタイプはロシア語に関しても講師を質問攻めにするが、そういう質問に懇切丁寧に答えるいい講師に巡り合えれば伸びる。問題意識を持つとのいうのはそう簡単なことではないからだ。ここでいう問題意識は社会的なということではなく、もっと単純に、物事に対しどんな疑問でもそのままにしておかないという気持ちの持ちようである。
完了体と不完了体と形が同じ動詞двувидовые глаголыがいくつかあるが、私のコレクションでは今のところ380ほどある。-оватьや-евать型の動詞が多いが、多くは書き言葉で使われるものである。比較的使われるものは、拙著「アネクドートに学ぶロシア語文法」136ページに書いておいた。間違えてはいけないのは、これらは完了体と不完了体の形が同じというだけで、用法は別々である。和文解釈では体の用法をあまり考えなくても使えると喜ぶ人もいるかもしれないが、使う文脈によりどちらの体かは分かるのである。こういう動詞でも-сяがつけば不完了体だけで使われるという動詞も多い。例えばиспользоватьもそうで、использоватьсяは不完了体しかない。つまり受け身の意味で使われる時はこういう形の-ся動詞は不完了体となると考えてもよい。この他に逆に完了体しかない動詞、不完了体しかない動詞と言うのもある。それぞれ同書の117ページと111ページに書いておいた。
設問)「失敗と間違いはだれにでもありうる」をロシア語にせよ。

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2011年07月02日

●和文解釈入門 第56回

副動詞は露文解釈においては形動詞とともに絶対覚えておかなければならないものである。また作り方が比較的簡単であるので、会話でも使ってみたいと思う人も多いだろう。副動詞は先だって完了した動作を表すのが基本だが、文脈によって原因、状件、付帯的状況、譲歩などの意味になるため、特に会話では意味が取りにくいということもあり、相手の事を考えると(たどたどしいロシア語の会話にいきなり副動詞が入って来ては相手のロシア人もびっくりするだろう)、また副動詞自体が書き言葉なので、会話では自分から使用するのは控えるべきだと思う。
技術用語で防水など防~という用語がいくつかある。これは-защищённыйや –непроницаемыйをつければだいたいなんとかなる。「防水カメラ」はводонепроницаемый фотоаппартであり、「生活防水の時計」はбрызгонепроницаемые часыで、「防湿防塵ライト」влагопылезащищённый светильник、「防爆仕様の電話」はвзрывобезопасный телефонный аппарат、「火花放電防止仕様工具」はискробезопасный инстурментである。「気密の」という意味での「空気を通さない層」はвоздухонепроницаемый слойであり、「気密ヘルメット」はгерметический шлемという。ただ同じ気密でもвоздухонепроницамыйは布地などによく使われるので注意が必要。防水性водонепроницаемостьというのは水の流入や浸透を防ぐ性質ということだが、その反対の漏水防止はどういうかというと、гидроизоляцияという。例えば、Вода бесполезно уходит в землю, потому что каналы часто прокладывают без гидроизоляции.(水路はよく漏水防止をせずに敷設されるので水は無駄に地中に逃げて行く)などと使う。
「戦前の東京」という意味ではдовоенная Токиоとпредвоенная Токиоと両方使えるが、後者が戦争直前の東京というニュアンスがある。「計測する」は三次元(高さ、長さ、幅)や温度、圧力などにはизмерить/измерятьが広く使われる。смерить/смерятьはこの口語体で、замерить/замерятьは技術関係の専門用語である。промерить/промерятьは深さや厚さを計るときに使われる。
設問)「お電話がありましたが、お名前はおっしゃいませんでした」をロシア語にせよ。

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2011年07月04日

●和文解釈入門 第57回

 この和文解釈入門は自分のためにやっているのだということを何度か申し上げたが、思いもよらぬ回答をいただくとやってよかったと心から思う。前々回の設問で毎朝という反復・習慣の意味で副動詞を使った回答が寄せられたが、これなどは自分の発想にはないものである。そういう回答を寄せてくれた投稿者に感謝するとともに、これを正解としていいものだろうかという疑問が、完了体副動詞の性格を考えたときに回答の当初からわいてきた。そのときは頭の中でЗакончив работу, он отдыхает.というような文が浮かんだから一応よしとしたのである。これは「仕事を終えて〔今〕彼は休んでいる」という意味で、反復ではないことが明らかだが、副動詞が副詞化していたら反復・習慣でも使えるかもしれないと感じたからである。完了体副動詞は不完了体動詞とも共に使われるが、状態の動詞сидеть, лежать, стоятьや発話や感情の動詞と一緒の場合が多い。Он сидит (сидел, будет сидеть), нахмурившись.(彼はむっつりとした顔をして座っている(座っていた、座る)では、むっつりとした顔になった顔のままで座っているのであって、繰り返しむっつりしたりしているわけではない。またСтарик долго ходил задумавшись.(老人は考え込んで長いこと歩きまわっていた)では、部屋の中か外かは知らないが、老人は考え込んだまま行ったり来たりしていたわけで、考え込むのを何回か中断したというわけではないはずだ。不完了体と完了体副動詞が使われる時は、その不完了体はсидеть развалясь(手足を伸ばしてゆったりと座る), говорить насупясь(無愛想な顔をして話す), читать пригорюнясь(悲嘆にくれて読む)などとその完了体副動詞が副詞化されたものに近い(近いのであって完全に副詞化されたという意味ではない)。しかし副詞化した不完了体副動詞由来の副詞句にはничтоже сумнясь (сумняшеся)(いささかの疑いもなく)、невзирая на лица(だれかれなしに、相手の地位に関わらず)、лёжа(横になったままで)、стоя(立ったままで)、сидя(座ったままで)やнесолоно хлебавши(当てが外れて)などで、完了体副動詞由来のものはзасучив рукава(せっせと)、спустя рукава(いい加減に)、сложа руки сидеть(手をこまねいて)などがあるが、вставを副詞と考えるのは無理だと思うし、百歩譲って副詞であったとしても反復の意味はないだろう。副動詞はその動詞の基本的な語義(体の用法も含めて)をなくしてはいないのだと思う。文法的に副動詞が反復・習慣で使えるかどうかは文法学者が判断することだし、仮に副動詞が反復・繰り返しと使われる例が見つかったとしても、私のレベルで重要なのは自分が完了体副動詞を反復・繰り返しの意味に使うか否かであり、その答えは否である。完了体が副動詞とはいえ反復・繰り返しと結びつくのは無理があると思う。一応こういう理由なので回答者の皆様やこのコーナーをご覧の皆様にお詫びして訂正する。
装飾や飾りという意味にではукрашение интерьера(インテリアの装飾)というようにукрашениеが一般的で、建築関係ではдекорを使う。декорацияというのは舞台装置という意味で、うわべの飾りという意味もある。語形が似た言葉でизморосьは霧雨で、изморозьは樹氷である。
設問)「何をお召し上がりになりますか?」
「おまかせします」をロシア語にせよ。

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2011年07月07日

●和文解釈入門 第58回

体の用法で完了体過去形の順次性という用法を繰り返し紹介してきたが、言葉は生き物であり、次々と動作が行われているものがすべて完了体過去形だけで繰り返されるというわけではない。動作が次々と完了(終了)していく場合はそうだが、一つの動作がすぐ完了して、次の動作は時間がかかるという場合もある。そういう場合は完了体過去形の後に、不完了体(現在形ないしは過去形)が来るわけである。例えば、Посмотри, - сказал вдруг Аркадий, - сухой клёновый (кленовый) лист оторвался и падает на землю; его движения совершенно сходны с полётом бабочки.(〔ご覧、乾いた楓の一枚の葉が取れて地面に落ちてゆこうとしている。その動きは蝶の舞そのものだ〕と、突然アルカーヂーは言った)。これはトゥルゲーネフの「父と子Отцы и дети」にある文(1862年)で、すぐ後で飾り過ぎたロシア語だとバザーロフが反論しているものの一部分である。ただ美しいロシア語には違いないし、他にこれ以上いいと思われる会話文も例として浮かばないので紹介することにした。この他に不完了体が先に来て、完了体が来るという用法もある。いずれにせよ不完了体は瞬間ではなくある程度時間がかかる動作や状態に用いられるという事を頭に入れておくとよい。
設問)「クリームケーキでもいかがですか?」をロシア語にせよ。

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●和文解釈入門 第59回

同時通訳というのはアポロの月着陸で有名になったが、宇宙飛行士が実際に業務で話すロシア語というのはどんなものなのだろう?例えば、宇宙飛行士の業務上の会話にはЗапитай ПСМ в ПГО АЗСом на ППС-10.(モジュールの計器貨物室のアラーム盤に電力を供給しろ。そのためには電力供給システムの10番パネルの自動トリップをオンにしろ)とか、Есть ГСО-3, ТК в ЛСК.(姿勢制御システム用意のサインがあれば、放射座標系の貨物宇宙船の姿勢制御維持を意味する)とか、略語が続出する。元宇宙飛行士のバトゥーリンЮрий Батуринの「ロシア宇宙飛行士の日常生活」Повседневная жизнь российских космонавтов, Молодая гвардия, 2011によれば、宇宙飛行士候補生は数年をかけて膨大な量の宇宙関係略式ロシア語を覚えるざるを得ないという。この略語は3文字以内で、正確な業務を遂行するためにはこういう専門用語の略語の知識が不可欠だと述べている。面白いのはロシア人のジャーナリストがしばしば宇宙飛行士を取材するのだが、いくら普通のロシア語を話そうと宇宙飛行士が努めても、正確に状況を伝えようとすればするほど、このような略語ロシア語がかなり頻繁に顔を出すのは避けられない。略語が数百という程度のレベルではないのでまず理解不能であり、インタビュー記事が実際に宇宙飛行士が話した通りなのかは保証の限りではないと書いている。ロシア人同士でこうなのだから、宇宙での作業を通訳するのは、同時通訳も含めて、よほど前もって作業内容を知らされていないとまず不可能だというような気がしてきた。
 国際宇宙ステーション内ではアメリカ人宇宙飛行士はロシア人宇宙飛行士に対してロシア語で質問し、ロシア人側は英語で答えるという。これは米露親善ということではなくて、相手の外国語で質問し、答えを相手の外国語ですれば構文が簡単明確になるからということであるとバトゥーリンは書いている。
設問)「仕事場まで近いんです。車でたった20分くらいです」をロシア語にせよ。

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2011年07月08日

●和文解釈入門 第60回

メーカーや商社の人で貿易関係の人は英語がうまい。そのため技術用語のロシア語も英語由来だと勝手に考える人がいるのは大いに困る。最新式のものは英語から入ったものもあるから、英語が分かればロシア語も類推できるものもなくはないが、ロシア語の技術関係の基本用語は英語とは無縁のものが多い。ポンプはнасосといい、помпаは一般的ではない。応力(ものを破壊しようとするとそれに対してこわれまいと抵抗して働く力)はнапряжениеといい、これはロシア語では電圧も意味する。英語ではstressであり、ロシア語のстрессは文字通りストレスという意味になる。
和文露訳という観点からロシア語の学習を考えると、分野毎の基本的な日本語の語彙を徹底的にロシア語に換える練習をするべきだ。例えば、「水」について、日本語の水とロシア語のвода について意味と差異について、露和辞典でもよいが、できれば語結合辞典などを活用して派生する形容詞、名詞(水素なども)も含めて徹底的に覚える。その過程でロシア語の自己研鑽(自修)の方法を学び、なんとか露露辞典を使えるまでに持ってゆくというのが最終的な目標となる。同時に、一通り文法を覚えたら、日本人には分かりにくい運動の動詞や体の用法をマスターする。これが理解できていないで、自分でロシア文を作ろうとすると、日本語のテニヲハや敬語を無視したいわゆる外国人の日本語のようになってしまう。
設問〔女店員が買い物客に、「次の方、どうぞ」〕をロシア語にせよ。

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2011年07月09日

●和文解釈入門 第61回

私の亡き父は戦争中千島列島の飛行場で鐘馗(陸軍二式単座戦闘機、迎撃機)の整備兵をしており、航空隊に配給された固形日本酒(寒天に原酒をしみこませたものらしい)を食べた話などしてくれたことがある。日本酒は16~18度ぐらいで、世界で一番強い醸造酒と言われているが、2年ほど前に24度という日本酒の原酒を飲んだ。醸造酒でもこのぐらいにはなるという事らしいので、父が食べた寒天もこういうものだったのかもしれない。父は戦後捕虜としてソ連軍の収容所に入れられ、バイカル湖の護岸工事などをした。皮肉なことに戦争中は戦死者が1名だった父の部隊の2/3は収容所で飢えと寒さのために死んだという。2年ぐらいで病気になって無事帰国できたのは元来健康なたちでもあり本当に運が良かったからである。私が初めてモスクワ駐在になったときもモスクワ見物を勧めたが頑として首を縦には振らなかった。死んでも行くものかという気持らしかった。それでも収容所の外で作業をしていた時などロシアのおばさんがたから食料を分けてもらい、おかげで生き延びたとよく話してくれた。そのおばさん(たいていは戦争未亡人だった)がたの婿に来ないかという話もあり、うんといっていたら今の私はなかったことになる。私は函館で生まれたが、父は函館から汽車で1時間ぐらいの木古内の人で、姓は岩手山といい、11番目の子だった。二代前は南部藩の足軽の家だったらしい。父は北海道生まれでセンチのことをサンチといい、ストーブをストーフと言っていた。何となくロシア語のように聞こえるのに最近気がついた。
設問)「仕事の前に体操をします」をロシア語にせよ。

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2011年07月11日

●和文解釈入門 第62回

ロシア語を聞いて分かるというのは大切だが、そればかりやっても意味はない。例えばリスニングは1年で千時間もやれば十分であろう。ただこれは特に根拠はない。英語のリスニング1,000時間マラソン(アルク社)をモスクワ駐在のときにやってみて、うたい文句通りに全て聞きとれるのようにはならなかったが、それでも聞く英語に対するコンプレックスはなくなったのでロシア語もそうだろうといういい加減な理由である。ロシア語を、それも毎回毎回必死に聞き取ろうとするのは疲れるだけだ。無理に聞き取ろうとはせずに、BGMを流す要領で通勤通学の合間に聞くようにする。ここでのコツは何度も言うが、意識しないでただロシア語の音を聞いていればいいのである。1年経てば無意識でも何となく30%ぐらいは単語を聞きとれるようになると思う。これはスペルが推測できるだろうという事で、意味は別に覚えなければならないのは言うまでもない。前後関係で類推できる単語というのはそれほど多くはないし、それに頼ろうとするのは不確実だ。つまり意識を集中すれば、その確率は高まるわけで、通訳するときはそれこそ全身これ耳という感じだから、練習のときに張り切り過ぎても実戦ではあまり効果はないと思う。それ以降は露文読解に力を入れる。リスニングで単語のスペルをほぼ聞きとれるような人は、そういう訓練を必要としない高いレベルの人であり、語彙を増やすためなら本や雑誌を読むことを勧める。その方が語彙習得で効率的だと思う。耳で聞くものより活字の方が辞書でスペルをチェックできるから頭に残りやすいと言える。またインターネットのサイトは玉石混交なので個人的には勧めない。本や雑誌なら編集者がロシア語のチェックを一通りしているはずなのでそれほど変なロシア語はないと思うからだ。
設問)「車は動きかけたが、彼は車を止めた」をロシア語にせよ。

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2011年07月12日

●和文解釈入門 第63回

ロシア人とロシア語の会話をしているように見せかけたいのなら、ロシア人に立て続けに質問し続けることである。これならボロは出ない。相手の言う事を聴きながら当意即妙の相槌を入れられればそれは本当にロシア語が出来るということになる。つまりシンポジウムの通訳は事前に用意してあるなら原稿の棒読みであるから楽なようだが、いくら事前にお願いしても、たまに原稿と違う事や順番を変えて言う講師がいる。そうなると原稿を見ないで通訳した方がはるかにましということになる。だから技術通訳で難しいのはシンポジウムそのものというよりは、その後の質疑応答の通訳である。慣れない通訳は質問を紙に書いてもらって、回答は後日などとお茶をごまかそうとするが、質疑応答の時間が限られていればともかく、主催者が気を利かして十分時間を取っていたら悲劇的展開となる。
設問)〔「禁煙は難しくない。私自身20回くらいやめたよ」とマーク・トウェインは語った〕をロシア語にせよ。

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2011年07月13日

●和文解釈入門 第64回

江戸時代の日本では銀の方が金より高く評価された。それが江戸時代を通じて大量の金が海外へ流出した大きな原因である。これは日本人の渋好みと関係があるのかもしれない。我々は日光や金閣寺よりも桂離宮や銀閣のほうを好むのと関係がありはしまいか。
地下水もロシア語では二つある。広義の意味の地下水はподземные водыで、これはпочвенные воды(土壌水), грунтовые воды(表層地下水), межпластовые напорные воды (артезианские воды深層地下水)に分かれる。狭義の地下水は表層地下水のことである。また地下水の水位はгоризонт грунтовых водという。
「作る」でラブレンチェフの和露辞典に出ていないものを挙げる。составить предложение, список, таблицу(文を、リストを、表を作る)で、сделать предложениеは「見積もり(オファー)を作る」となる。
「構造」というのはстроение, построение, структураを使い、строениеはстроение мозга(脳の構造)のように、生物学的、物理学的なものに使うが、построениеはпостроение характера(性格の構造、構成)など数学、言語や芸術の分野で使う。структураはструктура металла(金属の構造)など、科学、経済、社会的組織(機関)の構造として使われる。
設問)「いつでも連絡の取れるようにしておいてください」をロシア語にせよ。

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2011年07月14日

●和文解釈入門 第65回

まえに防水について書いたが、書き忘れたこともあるので補足する。непромокаемыйも「防水の」という意味で使い、непромокаемые куртки(防水ジャケット)などというが、от влагиということで、влагаはводаと必ずしも同じではない。влагаは水気、水分と訳し、イメージ的にはものの表面にうっすらとつく水という感じで、プールや水たまりの水の塊という意味ではないし、水蒸気の湿気という意味でもない。непромокаемыйはこれが侵入するのを防ぐという意味で、防水ジャケットというのもゴム引きпрорезиненные курткиとか、ナイロン製капроновые (нейлоновые) курткиなどを意味するし、непромокаемые часыというのは革命前の新聞広告にも出てくるが、完全防水(潜水しても大丈夫)というのではなく、生活防水(雨に濡れても大丈夫)という程度である。
「指示」はуказаниеだが、「助言、教示、指摘」と意味が広い。一方распоряжениеは会社などで上司の指示(命令)という意味でよく使い、предписаниеは公的な指示か、医者からの指示(処方)である。спасательは救助隊員(救助船という意味もある)、つまりプロである。一方спасительは「命の恩人」であり、大文字にすれば救世主(キリスト)である。
設問)「彼は朝一番に新聞に目を通し、その後朝ごはんを食べていた」をロシア語にせよ。

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2011年07月15日

●和文解釈入門 第66回

рабочийとработникの違いをよく理解していない人もいるかもしれないので書いておく。рабочийというのはнаёмный работникであって、「雇いの労働者」であり、работникはработник почты(郵便局の職員)というように、どこかの企業、役所に常勤として勤めている人である。だからработник умственного труда(知的職業の人)とかработник физического труда(肉体労働の職業の人)という分け方もできる。一方рабочийには肉体労働者というイメージもあり、рабочие и служащие(肉体労働者と事務職の人)というような表現もある。このслужащийはслужба(事務系の仕事、軍務)から来た言葉である。他に、служительといって、学校の用務員、動物園の飼育員などを指す言葉もある。
設問)「意味不明のところをもう一度読み上げるようにして下さいとのことです」をロシア語にせよ。

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2011年07月16日

●和文解釈入門 第67回

通訳やガイド関係の数少ない入門書、参考書とか講座内容を見ると、医学や観光の語彙に特化したものや、通訳やガイドの心構えや、もっと具体的なメモのとり方とか、ガイドの立ち位置とかを親切に教えてくれるようなものが多い。それはそれで結構な話で役に立つことは間違いないが、その前提は一般のロシア人の言う事はすべて分かるし、普通の日本人の言う事はすべてロシア語にできるという人が相手ということのようである。ロシア語にはガイド(通訳案内士)試験というのがあり、国家資格試験でもあるので、これがロシア語上達の目安になると思われるが、自分の経験から言って、この試験に合格したからと言って、またプロの通訳を5年や10年くらい漫然とやったとしても、露文解釈は別にしてこういう前提をクリアできるレベルに立てるとは到底思えない。ガイド試験に受かったというレベルは日本語で言いたいことは一応言えるし、ロシアに行っても日常生活では特に不自由はないし、仕事上でロシア語を使うにも特に問題はないが、それでも自分の話すロシア語とロシア人の話すロシア語とは随分違うということがはっきりと分かるレベルであると思う。どう違うかというと、自分の話すロシア語がまだまだ外国人のロシア語だなと感じるレベルということになる。外国人のロシア語で悪いことはないが、ロシア人の話す何か一番肝心なニュアンスを理解しそこねているのではという不安が、常につきまとっているような感じを受ける。普通のロシア人の話すロシア語と何が違うのかというと、個人的な意見だが、体の用法、語結合、類語の使い分け、それとロシアの庶民文化の理解である。これは単に語彙を増やせば克服できるという問題ではない。きちんと意識して自分なりに勉強する必要がある。体の用法については1970年代半ば以降磯谷孝先生や原求作先生の参考書なども出回って来ているから勉強の手立てはそれなりにある。だから通訳やガイドを目指す人にはできるだけ早く体の用法や類語の使い分けの重要性について理解してもらった方がよいという意味で、このコーナーを立ち上げた理由の一つでもある。少しでも役に立ってもらえることを願っている。
設問)「私たちは同じ建物に住んでいたが、階は違っていた」をロシア語にせよ。

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2011年07月17日

●和文解釈入門 第68回

черезとсквозьの違いは、Ради тебя я готов переплыть через океан, пройти сквозь огонь и джунгли.(お前のためなら大海原を泳ぎ渡り、火もジャングルも超えていく覚悟だ)という文でも分かるように、сквозьの方が意味は強い。海は泳ぎ渡れるかもしれないが、火の中は無理だろう。ただ海と言っても大洋だし、火といっても火くぐりや火渡りなどはテレビでも見るから、説得力がないかもしれないなとは思う。ロシア語難語辞典Словарь трудностей русского языка, Розеньталь/Теленкова, Русский язык, 1981の解説によればсквозьとчерезは空間、環境を越えて通過する、浸透する、見えるという意味ではシノニムだが、сквозьにはより多くの努力をするという付加的なニュアンスがつくことがあると書いてあるので念のため。
鉄鋼用語で真円度(パイプの端面がいかに円に近いか)というのがあるが、これはロシア語ではкруглостьではなく、овальность(直訳すれば楕円の程度)である。発想の違いであろう。日本語でも技術用語というのはこれが同じ日本語かと思うほどに違う。鋼の非金属介在物というのは鉄鋼用語ではありふれたものだが、一般人にはまずわからないだろう。介在物というのは異物(混入物)であり、普通のロシア語ならпримесьだが、専門用語では鋼の非金属介在物はнеметаллические включения сталиとなる。また、同じ「差」でもразностьは引き算の差であり、разницаは性質などの差である。公差という日本語を知らない日本人もいるかもしれないが、技術用語では一般的なものである。これは許容誤差のことで、ロシア語ではдопуск, допустимое отклонениеといい、допустимое отклонение по диаметру(径の公差)などと使う。ちなみに技術用語では直径とは言わず径という。端も普通はкрайだが、技術用語ではкромкаを使い、торецは端面である。菌株というのはштаммだが、日本人の専門家は「きんかぶ」と言っていた。これは菌種と紛らわしいからだろう。私立を「わたくしりつ」、市立を「いちりつ」と言ったり、バケガク(化学)の方じゃないカガク(科学)の方だと言ったりというようなものだ。
設問)「この世界的に有名な場所の名称を記した道路標識がまったくないことにびっくりしないでくださいよ」をロシア語にせよ。

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2011年07月18日

●和文解釈入門 第69回

体の用法がある程度分かってくると、会話だけでなく露文解釈のときもニュアンスが細かく伝わってくるような気がしてくる。自分が覚えた体の用法と違うと、ロシア人のくせにまともなロシア語も書けないのかというような不遜な事を考えたり、ひょっとして知らない用法かとか、わざと体の用法を変えることによって無礼な感じを文体で出しているのではとか、一見ありきたりのどうでもよいようなロシア語の文章が推理小説のように面白くなってゆくかもしれない。もっともサイトやブログを見る限り日本人だってまともな日本語を書ける人はそれほど多いとは思えないから、一般のロシア人だってそれほど意識してロシア語を使いこなしていないような気もするが。
茶というのは簡単な単語だが、日本語に訳す時に、日本にいるのなら、ロシア人観光客にはзелёный чайとし、逆にчайを日本語にするときには紅茶と訳すべきだ。効率というのは技術用語ではкпд (коэффициент полезного действия)といい、略語のままカーペーデーと発音する。アコーディオン(手風琴)のаккордеонは鍵盤式で、гармоника, гармонь というのはボタン式と鍵盤式の総称である。その中でボタン式のものはバンドネオンという。革命前にはоднорядка, тальянка, ливенкаと言うのが流行った。баянは全く独自の鍵盤配列を持った民族楽器である。ハーモニカはгубная гармоника, губная гармошкаというのはご存じの通り。
ласкаをイタチと訳している辞書もあるが、学名で見ると違う。イイズナといって日本の食肉獣で最小の種とされ、日本でも東北や北海道に棲む。昔信州に飯綱使いというのがいて管狐を操ったというが、この管狐はイイズナに関係あるのかもしれない。ただ公式には管狐はオコジョ(エゾイタチ)горностайの別名ということになっている。オコジョの冬毛は白く換毛し、ロシア皇帝、貴族のガウンの裏地に用いられ権力の象徴でもあった。英語では冬毛のオコジョをermineアーミンといい、白テンと訳すのは誤りである。ニホンイタチはイイズナより一回り大きい。だからласкаをイタチと訳すと、ロシア人にとっては小さいという印象があるが、日本人にはそのような印象は特にない。
設問)「佐藤は他の電話に出ております。どちらさまでしょうか?」をロシア語にせよ。

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2011年07月19日

●和文解釈入門 第70回

19世紀のモスクワのクレムリンの前にオホートヌィリャートОхотный рядという市場があった。中でも名前の通り肉の市場が大きかった。当時冷蔵庫もなく、不潔であり、ドブネズミも多かった。その辺の猫なんか逆に食い殺されかねず、困っていたが、ある人がネズミ捕り用のフォックステリアをプレゼントした。これが働きものであっという間にネズミは駆除されたという。カザフスタンのアルマトゥイに駐在していた頃カザフスタン東部の都市アクチュービンスクの近くのクロム鉱山に出張することがよくあった。1996年の冬でカザフの経済もあまり芳しくなく、ホテルも鉱山経営のが一つあるきりで、客も少なかった。あるときカザフ人の部下と一緒にホテルの食堂で昼食を食べていた。客は他にはロシア人女性の技師が二人。当時は観光客が来るようなところではなかった。私の座っているところから料理が出てくる廊下が見える。廊下には黒っぽい影が見え、猫がいるのかなと思い、料理を食べていたら、部下が肘でつっつく。「佐藤さん、佐藤さん、ドブネズミкрысаがいる」と小声で言う。とその瞬間、天地を引き裂くような、魂消るような悲鳴のあとに、なんとそのロシア人の女性の一人はテーブルの上に飛び乗って、もう一人はイスの上でフォークとナイフを振りまわしているではないか。そこをドタドタと一見猫ぐらいの大きさに見えたドブネズミが駆けていった。とんだくの一だ。人間というのは必死になると神業みたいな真似ができるなと感心した次第。鼠がいなくなったのでそのまま食事は続けた。宿泊代も食事代も工場持ちなので強くも言えず、別段腹も痛くならなかったからそのまま交渉を続けてアルマトゥイに戻った。
歪みも訳しにくい言葉で、空間の歪みはкривизнаで、変形という意味ならдеформация、経済の歪みならперекосыとなる。幕といっても芝居の第一幕の幕は、действиеでпьеса в 4-х действиях(4幕物の戯曲)などと言うが、バレーやオペラではактを使う。
設問)「野菜を袋に入れてください」をロシア語にせよ。

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2011年07月20日

●和文解釈入門 第71回

в связиの力点はиにあると書いたが、「~に関連して」というような理由を説明する場合はそうだが、Залог успеха в тесной связи прмышленности и сельского хохяйства.(成功の証は工業と農業の密接なつながりにある)というような「結合」という意味ではяに力点が来る。
技術関係からロシア語を始めると、用語はともかくとして構文は不完了体の現在形で済む場合が多いので、完了体の使用が多い生の会話とのギャップに悩むことになる。一方文学から入ると、ロシア語の多様な構文を勉強することにより露文解釈は上達するが、日本語をロシア語にするという発想や経験がないために和文解釈は一向に上達しない。こういう人にとってロシア語は所与のもの(ロシア文学のロシア語はある意味構文的語彙的に間違いのない絶対的なもの)だからである。しかし19世紀のロシア文学を現代の会話に活かそうとすると、古めかしい表現とそうでないものを峻別する別の知識が必要になることは言うまでもない。また回りからもあれだけ露文が読めるのだから、会話もできて当たり前と見られてしまうというジレンマもある。いずれにせよ自分の不得手の分野を克服するように勉強をするように頭を切り替えないとロシア語はそれ以上上達しない。このコーナーの第10回の表は、ある程度どの部分が自分の弱点なのかを知るための道しるべとして作って見た。参考にされたい。
設問)「灯りをつけたまま寝た」をロシア語にせよ。

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2011年07月21日

●和文解釈入門 第72回

谷崎潤一郎の「文章読本」(中公文庫、1975年)を読んでいたら、「文法的に正確なのが、必ずしも名文ではない。だから文法に囚われるな」という文が目に入った。ははあ、これを金科玉条としてロシア語の翻訳家の卵などが文法軽視をする大元かと思ったが、よく読むと、「日本語には明確な文法がありませんから、従ってそれを習得するのが甚だ困難なわけであります」とある。この本の初版は1934年であり、本書の中には谷崎自身の英訳もあって、「英文法における歴史的現在 Historical present」なる文章もあるから、よほど英語の文法には詳しかったのだろうと思う。日本語に明確な文法があるかないかは別にして、文法とは日本語の文法を指しているのであって、英語(外国語)ではないという事が分かる。本書には同義語を数多く知ることの重要さにも触れており、一読に値する。「数を数えるのに「一つ」「二つ」と言わないで、「一個」「二個」という風な言い方をするのも、田舎の人に限っているように思われます」と書いてあるが、今の日本語を聞いたら谷崎は何と言うだろう。
本書の中で職人の言葉に学べというところがあり、「うちのり」という言葉が出ていた。多分若い人はこう言う日本語を知らないだろう。これは内法と書き、造船関係でもたまに使うが、ロシア語にすればразмер отверстия в свету(穴の内法寸法)などといって、容器などの厚みを含まない寸法である。厚みを含むのは外法(そとのり)という。英語でもin the clearはロシア語в свету同様「うちのりで」という意味である。この他に取り合いというのがあって、部材связь(英語ならmember)の組み合わせや接続の仕方をいうが、100%の自信はないがпривязкаが使えるような気がする。
P.S. プーシュキンの詩Евгений Онегинの中に、
Как уст румяных без улыбки, 笑わぬ深紅の唇に似て、
Без грамматической ошибки  文法の誤りのなき
Я русской речи не люблю.   ロシア語は好かぬ。
 私は詩はレールモントフの方が好きだ。
設問)「次から次へと質問が浴びせかけられる」をロシア語にせよ。

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2011年07月22日

●和文解釈入門 第73回

セルゲーイ・マクシーモフСергей Максимовはロシアの旅行家で民俗学者でもあった。1860年にシベリアを旅し、1861年に函館(当時の箱館)にも10日ほど立ち寄っている。日本に赴く旅の途上ボルガ川で船に乗るのだが、От компании «Самолёт» отходил пароход «Телеграф».(船会社サマリョートから蒸気船「テレグラフ」が出航した)という文が目に入った。当時電信は発明されていたから、船名のテレグラフはともかく、船会社の名前がСамолётというのには驚いた。1860年には飛行機は発明されていない。どこからこの船会社は名前を取ったのだろう?考えられるのは、空飛ぶ絨毯ковёр-самолётである。このぐらい早いと言いたかったのだろう。
設問)「降りますか?」
「いえ、次の次で降ります」という会話をロシア語にせよ。

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2011年07月23日

●和文解釈入門 第74回

技術通訳の実際というのをご存じない方も多いと思うので簡単に書いておく。双方の出席者紹介の後に、訪問者側の会社説明があり、その後受入側のメーカーのプレゼンがあるのが普通で、このときに会社概要、ビデオ、製品紹介がある。無論面談の趣旨が何かによってその順番が変わるのが普通である。この資料(カタログなど)を事前に通訳がもらえる場合もあるし、もらえない場合もある。もらえない場合が多い。だからこういう通訳を臨機応変にできるかどうかで通訳の力量が試されるわけで、広く浅くの勉強が必要とされるわけである。その後、工場の設備や機器による生産の流れが、図を使って紹介され、工場見学となる。この後は質疑応答や技術交渉となる場合が多い。途中昼食や休憩が入るので、雑談の通訳もこなさないとならないことになる。
技術用語でпроверкаとповеркаの違いが分からない人も多いと思うので書いておく。проверкаというのは検査、点検など広く使われるが、поверкаは計測器で測る検査を指すのが普通である。
設問)「昨日はどこにも行かなかったわ」をロシア語にせよ。

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2011年07月24日

●和文解釈入門 第75回

2008年11月6日付読売新聞朝刊によるとサイコロの目の出る確率は目の数や配置などから重心が乱れ、偏った出方をするとの入曾精密の斉藤清和社長の話である。同社は人工衛星の部品やレーシングカーのエンジンの製作をしている。斉藤社長の話では2の目が最も出にくいとのことで、同社は世界一フェアなチタン製のサイコロ(1辺12㍉)を作って売り出しているというのはそういうことがあるからであるという。
司会者と言っても、テレビ、ラジオ、コンサート、会議、大衆芸能のはведущийだが、サーカス、大衆芸能、コンサートなどで面白おかしく司会をする人はконферансьеという。加工もобработка(加工業обрабатывающая промышленность、「もの作り」の露訳をこれに充てるロシア人の日本研究家японистもいる)ですべてよさそうなものだが、мясоперерабатывающая компания(食肉加工会社)というのもある。加工はобработкаが一般的で広い意味を持つが、переработкаはобработка сырья в полуфабрикат, готовую продукциюということで、原料を半製品ないしは製品に加工することである。他に石油精製とか消化(胃腸などのでのほかに、比喩的な意味でも使う)という意味がある。逆にпочтовый ящикは「(郵便)ポスト、郵便受け、新聞受け、私書箱」の3つ(郵便受けも新聞受けも普通は区別しない)の意味がある。しかも日本語のポストには郵便受の意味もあるからややこしい。
設問)「彼はやってきて、面白い話をし始めたものだ」をロシア語にせよ。

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2011年07月25日

●和文解釈入門 第76回

トロイの発見で有名なシュリーマンは外国語を15マスターしたといわれている。その勉強法は、非常に多く音読すること、決して翻訳しないこと、毎日一時間をあてること、常に興味ある対象について作文を書くこと、これを教師の指導によって訂正すること、前日直されたものを暗記して、つぎの時間に暗誦することだと述べている。この中で「常に興味ある対象について作文を書くこと、これを教師の指導によって訂正すること」が一番会話の上達に効果がありそうだし、ロシア語を教える大学や学校でも生徒にこういうやり方をしたら非常に効率的な勉強法だと思うが、それに対応できる先生は少ないだろうし、手間もかかるし、多人数の生徒には対応しきれまい。せいぜいのところロシア語にした作文をロシア人に直してもらうぐらいだろう。それだとできた作文のロシア語がなぜだめなのかということを、元の日本語とのニュアンスとの違いも含めて日本語で事細かく文法も含めて説明できず、いわゆる正解だけがあって、間違いもこうはロシア語では言わないという一点張りのような気がする。問題なのは答えのロシア文がいわゆる正解に近いかというよりは(それも重要であはあるが)、原文の日本語をどのくらい文法的に正しく、また語結合や、類語の使い分けも勘案し、文化的な違いなどの説明も含めてロシア語に反映させているかどうかということであり、これは日本語とロシア語両方に双方の文化も含めて精通していないとできないはずだ。独立したロシア語の文としては正しくとも、肝心の日本語の原文から見れば露訳が間違っているという事は大いにありうる。無論作文の内容は生徒が本当に興味を持っている事柄であり、気まぐれな問いにつきあうという事ではない。
設問)会議の後で「そのままお待ちください」のカッコの中をロシア語にせよ。

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2011年07月26日

●和文解釈入門 第77回

正確な名称は知らないが「強意代行動詞」と呼んでもよさそうなのがロシア語にはある。意味は「激しく~やる」(つまり「激しく~する」の俗語)という意味をもつ。вломитьは「思いっきり殴る、ズバズバ言う、ジャンジャン飲む」という意味である。дутьは「突っ走る、ジャンジャン飲む」という意味で、жаритьは「突っ走る、じゃんじゃん飲む、〔外国語などを〕ペラペラしゃべる、ジャンジャン演奏する」, задуватьは「ジャンジャン演奏する」、закатать/закатыватьはぶん殴るという意味で使う。лупитьは「どつく、じゃんじゃん撃つ、バカスカ食べる、ジャンジャン降る、ぼる」という意味がある。нажариватьは「ジャンジャン演奏する」という意味で、наяриватьは「ジャンジャン演奏する、バカスカ食う、ペラペラしゃべる、激しくセックスする」という意味がある。отхватывать, отжариватьは「ジャンジャン踊る」という意味であり、поглощатьは「がつがつ食べる、ぐいぐい飲む、むさぼり読む」という意味があり、садить(何度も激しくする)、хватитьは「一気に(ぐいと)飲む、思いっきり殴る、いきなり歌う、いきなり踊りだす、走り出す」という意味であり、чесатьは「突っ走る、〔外国語などを〕ペラペラしゃべる、車で突っ走る、バカスカ殴る、ジャンジャン歌う・演奏する」という意味であり、шпаритьは(他に「ジャンジャン飲む、ジャンジャン演奏する、ペラペラしゃべる)がある。
設問)「探していたものをついに見つけた」をロシア語にせよ。

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2011年07月27日

●和文解釈入門 第78回

映画やテレビ、ビデオの聞きとりの勉強というのは毎日3時間ぐらい1年ぐらいは必要だと個人的には思うが、それ以上は語彙を覚えるという点では効率が悪いと考える。この聞き取りの勉強というのは何度も言うが、BGM感覚で通勤通学で聞き流すという意味で、真剣に3時間も聞きとれという事ではない。第一そんなことを毎日はできはしまい。重要なことは音に慣れるということである。効率が悪いというのはスペルがほとんど完全には聞き取れないからだ。だからといって新聞やネットのニュースと言えば時事ロシア語ばかりで、これも語彙的には偏ってしまう。やはり小説やエッセー、歴史などいろいろな分野の本を読むに如くはないと思う。私は必要に迫られない限りほとんどロシアの新聞を読んだことがない。同じ覚えるなら美しいロシア語の方がいいし、面白そうな話題となると本の方がまとまっていて文章も洗練されているのが多いように思うからだ。ニュースもモスクワやアルマトゥイ(カザフスタン)に駐在していたときは、これも給料の内と思い見ていたが、聞きとりというなら会社でロシア人と話をするので特に必要はなかった。聞き取りの練習は今も仕事で通訳やガイドでロシア人と話すくらいだ。ロシア語でのメールのやり取りもウラジオの日本研究家とロシアの知り合いとごくたまにするくらいである。だから語彙を増やすのはもっぱら本に頼るという事になる。今ロシア語で読んでいるのは、20世紀の農民の聞き書き、19世紀の旅(ロシアの悪路)、第一次世界大戦中のロシアの市民生活といったものである。この中から会話で使えそうな表現をせっせとエクセルの和露の語彙集にインプットしている。
設問)「ナターシャに電話してきます」をロシア語にせよ。

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2011年07月28日

●和文解釈入門 第79回

単語を覚えるときに、例えば手品をфокусと覚えるだけでは効率が悪い。数字を使っての手品фокус с цифрамиとか、手品をするделать/сделать фокусというように句動詞や後に続く前置詞と一緒に覚えるべきだ。そうすれば効率よく語彙が増えて行くし、会話にも応用できることになる。
「予約する」という意味ではбронировать(完了体・不完了体同形でзабронироватьという完了体形もある), записаться/записыватьсяがあるが、前者は飛行機やホテルの予約に用いられ、後者は自分の名をリストに入れてもらうという意味で、病院、美容院などの予約、公営住宅入居のリストに入れてもらうなどという意味で使う。
製品はизделие(я)が普通で、продукцияは総称名詞、продукт(ы)でもよいが、この語は食料品という意味で使うのが普通である。поделкаは手作りの品という意味である。
設問)「あなたが席を外していたときに(どこかにいらしてたときに)我々は両替しました」をロシア語にせよ。

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2011年07月29日

●和文解釈入門 第80回

「マクシーモフさんは席を外しています」は、Г-н Максимов вышел.無論Г-на Максимова нет на месте.でもいいが、いくつか運動の動詞の完了体を使い分けるとすればどうなるだろう?そのニュアンスの違いは、вышелは昼食、外出、ушёлは会社にはその日はもう戻らない、帰宅、ないしは出張か何かで長期に戻ってこないという感じ、отошёлはトイレや他の部署に行って席を外しているという、つまり会社内にいるというニュアンスで、пошёлはいないというよりはどこかに出発したということで、普通は行き先 (на заводなど) とともに用いられる。Я пошёл.というのは行き先なしで使う例で、この動詞としては少し変わった用法ではある。これはЯ пойду.と同義で、「行ってきます」という意味だが、日本語と違い挨拶ではなく、秘書や同僚に出かけることを伝えるという意味がある。
отойти/подойтиはロシア人はよく使うが、この使い方をあまり知らない人も多いと思うので書いておく。Я отошел от остановки шагов на двадцать.(20歩ぐらい停留所から離れた)、Он отъехал от Москвы.(モスクワの近くに出かけた)で、両方とも連絡の取れるくらい近くにいると言うニュアンスである。もっというと目に入るとか声が聞こえる距離ぐらいという感じである。同じことはподойтиにも言える。Мы подъехали к Москве.(モスクワに近づいた)。отойти/отъехатьは前置詞のотを取るがкも来る。подойтиにはкが来る。подойти к окну, чтобы открыть его(窓を開けるために窓に近づく)と、отойти к окну, чтобы не мешать танцующим парам(踊っているペアの邪魔をしないために窓の方に離れる)。
設問)「イスを元のあった場所に返して下さい」をロシア語にせよ。

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2011年07月30日

●和文解釈入門 第81回

すべての動詞が体のペアになるものではないし、なっているものでもどちらかの体の方がよく使われるという事が多い。両方の体が等しく使われるのはсказать/говорить, написать/писать, взять/братьという日常でよく使われる動詞ぐらいではないか。そうなると不完了体がよく使われる時の、そのペアの完了体の役割というのは、ある特別なニュアンスをもったものとなる。例えば、надеятьсяの完了体понадеяться(必ずしも体のペアとは呼べないかもしれないが)は、по-のつく完了体で、このように不完了体のほうが普通に使われるグループでは、надеятьсяが最善を期待するというのが本義のため、понадеятьсяはこれとは異なる、つまり期待したがだめだったというニュアンスの文で使われる。Мы понадеялись тогда, что конфилкт не будет расширяться.(我々はそのときは紛争は拡大しないと期待していたのですが)
設問)「奴を捕まえろ」をロシア語にせよ。

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2011年07月31日

●和文解釈入門 第82回

キリスト教が日本で普及していない理由(キリスト教各派を合わせて信者数200万人程度)は、キリスト教のような一神教において当然と見なされる他の宗教を排撃するという考え方が日本人のそれとなじまないという事や、先祖を大切にする日本人にとって、ザビエルが主張したキリスト教に改宗しなかった先祖は地獄に堕ちる、つまりキリスト教に改宗した者だけが救われるという考え方についていけなかったという事ではないかと思われる。
道の「カーブ、曲がり」という意味ではповоротが一番普通であり、лукаやизлучинаも使えるが、これらは川に使うのが多い。петляはкрутой проворот(急カーブ)のことで、серпантинはつづら折り(山道で急カーブが連続するところ)であり、коленоは一つの曲がりから次の曲がりまでの区間от одного поворота до другогоを指す。виражというのはオートレース場などの傾斜のついたカーブの事である。
設問)「列車は23時ちょうどに7番ホームから発車します」とアナウンスが聞こえてきた。このカッコ内の和文をロシア語にせよ。

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2011年08月01日

●和文解釈入門 第83回

科学はнаукаだが、学問としては日本では大まかに、自然科学、人文科学、社会科学に分ける。日本語の自然科学は狭義では数学、物理学、天文学、化学、生物学、地学を指し、広義では農学、医学、工学を含む。人文科学(文化科学)は狭義には哲学、言語、文芸、歴史などを指し、広義にはこれに政治学、経済学を含める。社会科学は政治学、法学、経済学、社会学、歴史、文化人類学などを指す。また科学自体を基礎科学と応用科学と分ける場合もある。ロシアでは科学をестественные науки(自然科学), гуманитарные науки(人文科学), технические науки(工学系科学)と三分割しているようだ。ロシア語の自然科学も物理学、化学、生物学などを指す。гуманитарные наукиはобщественные наукиと同義語で、ロシア語では哲学、経済学、社会学、心理学、文献・言語学、法学などを指す。一方технические наукиというのは工学系の学問で、力学、建築、電気工学、無線工学、宇宙工学、生物工学、造船、材料学、機械工学、情報工学、システム工学、原子力工学を指す。数学は自然科学ではなく、基礎科学に入るとされる。私がいいたいのは、гуманитерные наукиを人文科学と訳しても、ロシア語では社会科学と同じとなり、訳にずれが起こる場合があり、文脈をよく吟味しないと間違いとなる可能性もある。このように訳語が1対1で対応しない場合や、包含される場合もある。ゆえに見た目で判断するのではなく、必ず露露辞典でチェックするという習慣をつけた方がよいということである。
文系の人はгуманитарийと言えばいいが、理系の人は理学系と工学系では訳語が違い、前者はестествовед, естественник (естествоиспытатель, натуралистとすれば、自然科学系の学者、研究者という意味)で、後者はтехникとでもすればよい。
ポスターはплакатが選挙ポスターや宣伝ポスターの意味で使える。афишаは劇などの催しもののポスターを指す。霧はтуманだが、透けて見えるような靄、霞、早霧はдымкаであり、маревоは逃げ水、мутьは悪天候の時の霧、мглаは濃霧である。
設問)「奥への方へどうぞ」をロシア語にせよ。

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2011年08月02日

●和文解釈入門 第84回

シンポジウム自体の通訳はそれほど難しくない。前もって準備できるからである。難しいのは後のその場での臨機応変の対処を要求される質疑応答である。この通訳ができれば通訳もトップクラスと言える。1、2年ロシアに留学したとしても、得られる会話力はせいぜい日常会話や自分の得意分野をロシア語で伝えられることぐらいであろう。このレベルではロシア語初級者(生徒)にロシア語会話を教えることは無理だ。自分の言いたいことがロシア語で伝えられるということと、生徒に露文和訳を教えるというのとは違う。できるだけ深く、広くロシア語、ロシア文化、ロシア庶民の文化を知らなければ、特に会話における和文露訳を教えることはできないと思う。和文解釈においてはこちらから生徒にロシア語の表現を押し付けるのではなく、理想的には生徒がロシア語で表現したい事を教えてあげるということである。そのため会話の教師は通訳やガイドを10年ぐらい経験を積んだ人で、分かりやすく生徒に教えることが出来る人でないと会話の教師は勤まらないと思う。もっともロシア語がいくら上手に話せても、教えることができるということではない。教えるというのもこれはこれでнавык(技能、スキル)だからだ。
基本的な動詞というのも徹底的に勉強する必要がある。быватьにも三人称を主語にして「~はよくある」という意味のほかに、主語は三人称に限らず「何度か参加する、何度か来る」という意味もある。побыватьは「ある期間過ごすために訪問する」とか、「ある期間参加する」という意味があるが、побытьには「ある期間滞在する」という意味しかない。「募集」も雇用という意味なら、набор персонала人員募集であり、国債の募集ならразмещение государственных облигацийで、署名の募集はсбор подписей、党員の募集はвербовка новых членов партииとなる。
設問)「ポケットに針とかピンが残っていたらえらいことだ」をロシア語にせよ。

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2011年08月03日

●和文解釈入門 第85回

方言にはговорとдиалектがあり、同義語である。наречиеはもっと大きい区分であり、プスコフ方言はпсковский диалектといい、южновеликорусское наречие南部大ロシア方言などと使う。カーテンという意味ではзанавескаが普通だが、薄手の生地(高級品も安手のものもある)で、窓全体にも、窓の一部を覆うものにも、窓以外にも使える。штораというのは窓用のカーテン、すだれ、ブラインドで上下や横に開けるものを言う。гардинаは薄手の生地の窓全体を覆うカーテンである。портьераはドア用の厚手のカーテンで、драпри (драпировка) はあまり使われないが、厚手の生地のカーテンである。занавесьは窓、ドア、部屋の仕切りなどに用いられるカーテンで、занавесは部屋の仕切り、ドア用のカーテン、舞台の幕などを指す。завесаは抽象的に意味でよく使われ、帳(とばり)という訳ができる。
谷は一般的にはдолинаだが、ущельеは山国にある川の浸食作用でできたいわゆる峡谷である。падьは東シベリア、極東の峡谷で、суходолは涸れ谷である。оврагというのは谷底に平野があるような切り立った崖の雨の浸食作用でできた谷間であり、буеракとも言う。ложбинаやлощинаは広くて長いоврагでもっと斜面が緩やかな谷間。логはさらに谷間の浅いもの。балкаは広くて長いоврагで斜面に草や灌木の生えている谷間。распадок (мелкая ложбина) は浅い谷間である。
設問)「頭痛は治った」をロシア語にせよ。

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2011年08月04日

●和文解釈入門 第86回

メッシングはポーランド系のユダヤ人でソ連時代の有名なテレパシー術師телепатだった。1950年代の初めにカザンで若い女が真夜中に橋から突き落とされて殺されるという事件が起きた。昔の恋人が犯人として拘留され、裁判となったが、彼は犯行を否定した。メッシングは裁判を傍聴していて、明らかに犯人からと思われる思考を捉えた。メッシングは自首するようにテレパシーで促したが、ふんぎりがつかないようだった。そこで出口とよく間違われるつきあたりの喫煙室に手書きでВЫХОДА НЕТ...と書いた。これは「出口ではない(「出口なし、八方ふさがり」という意味にも取れる)」という意味で、ロシアでは地下鉄の車両のドアで「ここからは出られません」という意味でВЫХОДА НЕТというのがあるし、地下鉄の出口ВХОД В ГОРОДと書いたドアの隣にНЕТ ВХОДА(ここからは出れません)といういう看板がかかっている(日本とは発想の違いか)。ちなみに最後の多重点(...)はメッシングが付け加えたものである。これを見た犯人は耐えきれなくなって自供したという伝説がある。このときメッシングの伝記を書いた作者は英国では出口をWAY OUT (米国ではEXIT)というが、地下鉄では自殺を防ぐために、Way in another side (Выход с другой стороны) と変えたと書いているが、本当だろうか?この作者は米国に移住してからメッシングの伝記を書いたのである程度は海外の事情に通じていると思われるのだが。
設問)「右に行って、それから花屋さん(のところ)を左に曲がってください」をロシア語にせよ。

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2011年08月05日

●和文解釈入門 第87回

начинать/начать, кончать/кончить, продолжатьの後に続く動詞の不定形は不完了体が来る。これは「始める」という動詞はこれから続いていくという事を前提にしているからだろうし、「終える」という動詞はこれまで続いていたものを終了させるという意味合いからだろう。「続ける」も同様である。「続ける」という意味では完了体のпродолжитьは不定形を取らない。これはпродолжатьの完了体形というよりは「再開する」とでも訳した方がいい動詞である。午前中に会議をして、昼食でいったん休憩となり、午後から続ける時に、日本語では、「始めましょう」という場合もあるが、ロシア語ではПродолжим.というのが普通である。無論会議の途中で、議事を一旦中断した場合などはПродолжаем.でもいいのかもしれない。つまりпродолжитьというのは、継続ではなく、一旦切れてからの再開という意味である。
設問)「嵐が近づいてきた。船は港へと急いだ」をロシア語にせよ。

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2011年08月06日

●和文解釈入門 第88回

日本語の「支流」には本流に注ぎ込む流れという意味と、本流から分かれ出た川という二つの意味があるが、前者はロシア語ではпритокで、後者はпроток, рукавである。протокには二つの湖を結ぶ川という意味もある。
単位の複数生格がどうなるのかと疑問に思われる向きもあるかもしれないので、よく使う単位について最新のアカデミー版露露辞典(Oの途中まで〔第14巻まで〕日本に入荷している)に基づき書いておく。アンペアамперはамперで、ボルトвольтはвольт(вольтовは廃用)、ワットваттはваттとваттовの両方がある。オームにはомとомовの二つがある。
設問)「自動販売機にコインを入れ、ボタンを押し、券を受け取った」をロシア語にせよ。

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2011年08月07日

●和文解釈入門 第89回

時事ロシア語が人気のようでNHKのテキストやユーラシア研究という専門誌まで載っている。結構なことだは思うが、どうして本文に対して和訳と語義だけで終わりなのだろう。露文解釈の勉強だけだと言わんばかりである。なぜこういう事を言うかというと、体の用法も含めての文法的な説明や類義語の使い分けなどの解説がないと、和文露訳では使えないと思うからである。全ての文が「サクラが咲いている(いた)」のような現在や過去時制の不完了体で終わる文とか、「バラは赤い」というような名詞や形容詞を入れ変えればできるという文というのはあり得ない話であろう。会話のための和文露訳につかえるような一工夫を望む次第である。
設問)「全てはジッパーかマジックテープでとめてある」をロシア語にせよ。

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2011年08月08日

●和文解釈入門 第90回

日本語が無意識のうちにロシア語に訳せるようになることを目指してロシア語を学んでいる学習者も多いと思う。かつては私もそうだったが、ロシア語を始めてから数年経ってあきらめた。こういういわゆるロシア語と日本語のバイリンガルというのは幼時にモスクワや樺太に住んでいた日本人、ないしは幼いころ日本に住んでいたロシア人とか、片親がロシア人であるとかいう特殊な状況にあった人以外は無理だと思う。日常会話を除けばバイリンガルでもロシア語が出やすい場面、日本語が出やすい場面というのは違うはずだし、自分の言葉ではなく他人の言葉を通訳するには訓練が必要なはずである。もっともその訓練たるや我々に比べはるかに楽であろうけど。絶対音感を育むとか、プロとしての芸事を習い始めるのも6歳からというのもそういうことによる。バイリンガルの欠点というのは自己完結型で、その秘芸を人に教えることが出来ないことにある。本人がなぜバイリンガルになれたか、自然にとしか言いようがないだろう。私はロシア語を初めて40年になるが、挨拶や、一部のフレーズが無意識にロシア語で出ることはあるが、体の用法などは意識して使っている。普通ロシア語を学び始めるのは二十歳前後からで十分大人になってからである。そういう人たちには半年ほどは丸暗記はやむを得ないにせよ、それを過ぎたら文法も含めて理詰めの勉強法を教える必要がある。それが運動の動詞、体の用法、類義語の使い分けである。そうでないと挨拶や決まり文句から先には進めない。つまりロシア人と会話が出来ないからロシア語を続けようという意欲がわかないという悪循環に陥る事になる。
設問)「事態を何とかしようと彼らは市長に訴えた」をロシア語にせよ。

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2011年08月09日

●和文解釈入門 第91回

衣服は男なので(こういう言い訳は私の世代ではまだ許されると思うし、個人的に衣服自体に関心がないので)日本語自体があまり分からないが、分かる範囲で書いて見る。もっと詳しい人がいれば訂正願う。背広の上は男ものをпиджакと言い、女性用はжакет(日本語でもジャケットといえばこの意味らしい)という。ズボンはбрюкиだが、これはスーツのズボンを指し、женские брюкиならスラックス(無論男性用のスラックスもある)である。штаныはズボン下(股引、ステテコ)という意味もあるが、ダブダブのズボンという意味もある。штанинаズボンやズボン下の片足で、спускать ноги в штаниныは「ズボン(下)に足を通す」という意味である。パジャマはпижамаだが、イメージとしてはトレーニングウエア(上下)で、寝台列車でロシア人がよく着ている。最もこの頃はпижамаはいわゆるパジャマになったという話もある。このトレーニングウェアの上のような上着はкурткаといい、特にイメージがわかない時の上着を訳す時に使える。室内着はблузаで男女とも着る。女性ならブラウス(блузкаでもよい)と訳せる。セーターは女性用は一般的にкофтаであり、джемперは男物のVネックセーター、女性用の短い袖のプルオーバーを指し、свитерはタートルネック、ないしは、とっくりセーター(カシミア、毛糸製)で、водолазкаもタートルネック、とっくりセーター(木綿、化繊製)を指す。пуловерは主として男物の襟明き丸首セーターである。カーディガンは女性用はтрикотажный, вязаный жакетで、男ものはблузаであり、трикотажный, вязаный жилетやбезрукавкаはベストである。трикотажныйとвязаныйの違いは、ともにニット(メリヤス)製だが、前者が機械編みで、後者が手編みということである。
設問)「新幹線は20分おきに出ている」をロシア語にせよ。

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2011年08月12日

●和文解釈入門 第92回

関口存男(つぎお)〔1894~1958〕は姫路の人で、「標準独逸文法」の著者として有名である。関口の評伝ともいえる「ことばの哲学」(池内紀〔おさむ〕、青土社、2010年)を読んだ。ドイツ語に興味がなくとも関口文法については皆知っている。内田百閒との確執(いわゆる1933年の法政騒動)については百閒の随筆に描かれている通りだが、ドイツ語のプロである関口と百閒では、百閒のほうが分が悪い。百閒本人も書いている通りドイツ人とドイツ語でまともに話もできずにドイツ語の主任教授だったというし、また当時借金取りから逃れるため休講も多かったという。関口はペラペラ式メトーデという長い文章をそのまま暗記するというoral teachingを、14歳で陸軍地方幼年学校のとき初めて買って読んだドストエーフスキーの「罪と罰」のドイツ語訳(レクラム文庫)で目覚めたという。シュリーマンの勉強法に近い。20代末か30代初めには後に3万枚88巻に及ぶ膨大な文例の蒐集を開始し、それが後に書いたドイツ語参考書執筆の基になったという。関口の口癖は「第一多読、第二多読、第三多読」であったというが、これは多読兼精読であろう。そうでないと文例は集まらない。和文独訳についても「独作文教程」があり、読者のどうやったら作文がうまくなるかという質問に対しても、「独文を日本語にお直しなさい。そして忘れたころに、その日本語を元の独文に直して御覧なさい。これを逆文と申します」と書いている。なるほどとは思うが、これだと元の文と同じでない場合はすべて間違いとなるのか、どうなのかという疑問がわくし、独習の限界があるような気がする。しかし、一般の独習者に対して、このように親切なアドバイスをしたのは(関口は「基礎ドイツ語」誌の編集に長く携わった)、ロシア語では「現代ロシア語」誌の故染谷茂先生ぐらいだろう。
ロシア語の翻訳者でも自伝を書いた人はいるが、勉強法を書いた人はいない。米川正夫の自伝「鈍・根・才」も私小説風ではあるが、ロシア語そのものをどう学ぶかにについては記載がない。その点関口は違う。彼の長文暗記主義についてはできる人が少なかろうとおもうので評価しないが、そういう勉強自体を否定するものではない。私が勧めるのは文法を理詰めに理解した上での短文の暗記であり、それと関口のやったのと似た和露の語彙集作成である。関口は手書きとタイプライターだが、今ならコンピューターだから楽なものである。私も会社に入って語彙集を作り始めた時は手書きで、バインダー式のファイルに量が増えたらアルファベット順(始めたころは露和でやって、後に和露に変えた)に追加していったことを思い出す。
設問)「空色は藍色と緑色の中間です」をロシア語にせよ。

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2011年08月13日

●和文解釈入門 第93回

露文解釈の勉強にはできるだけ多く語彙を覚えるのが必要だが、和文解釈の場合は、量よりも質が重要である。会話で使われる頻度の高い語彙とその語義の理解の深さが問われるのである。だからよく使う、いわゆる基本語彙を露露辞典で徹底的に引くようにするとよい。何か新しい発見が必ずあるはずだ。また口語表現も重要であり、これはこれまでのロシア語の参考書では軽視されてきた分野でもあるが、これは研究社、岩波、コンサイスの露和では難しかろう。専門の露露の口語辞典を買う必要がある。どんものがあるかについては「ランポポー」を参照願う。
 アトリエは芸術家(画家、彫刻家など)のはмастерская, студияといい、ательеはほとんどこの意味では使われない。ательеというのは個人の注文を受ける街の裁縫屋さん・靴屋さん(縫製をする)をいい、時計や金物の修理屋さんはмастерскаяという。写真屋さんはфотостудия, фотоателье, фотосалонなどという。
 ポスターでも選挙ポスターはпредвыборные плакатыといい、映画のポスターはкиноафишаである。つまりコンサートなどの催し事についてはафишаを用い、標語などはплакатを使う。「巣穴」はнораは出入口がたくさんあるもので、アナウサギ、狐、クロテンなどのものを、логово (логовище)は虎や熊のを、берлогаは熊のを指す。
設問)「切手が曲がって貼ってある」をロシア語にせよ。

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2011年08月15日

●和文解釈入門 第94回

類語の使い分けについてたとえで言うと、これが分からないと砂浜や浅瀬で泳いでいる分にはいいが、そうでなければ羅針盤を持たずに大海に乗り出すというのに似ている。
夫の事を「主人」というが、ロシア語でもхозяинをその意味で使う事がある。ただ俗語なので、日本語であれば「亭主」とか「連れ合い」、「旦那」あるいは「旦つく」という感じだろう。同じく日本語の俗語で「うちの」といえば夫の事を指すが、ロシア語でもмойだけでその意味を出すことが出来る。
状況や事情を露訳するときに、обстановкаやусловия(複数で使うのが普通)やобстоятельства(複数で使うのが普通)を思い浮かべるが、簡単な使い分けの目印を挙げておく。обстановкаは雰囲気的なもの、社会・政治的な状況に使われる。単独では軍事用語として戦況 (боевая обстановка) という意味になり、他にもледовая обстановка(氷結状況)、погодная обстановка(天候状態)、промысловая обстановка(漁の状況)、навигационная обстановка(航海の状況)など決まった言い方がある。условияは外的なもの、物質的なもので、長期的、常にあるという状況に、обстоятельстваは外的なもので一時的、具体的な状況に使う。состояниеはположениеと同義で「状態」という意味である。(全般的な)状況という場合にはположение дел, состояние делという使い方をする。Каково состояние дел в прибрежной торговле между СССР и Японией?(日ソ沿岸貿易の状況はどうですか?)。обстоновка на заводе(工場の状況)というのは工場の雰囲気についてであり、состояние работы(仕事の状況)は全般的な状況のことである。
на самом деле とв самом делеの使い分けが混乱している人も多いと思う。на самом деле (= в действительности)で、「本当は、実際は」という意味で、На самом деле это не так.(本当は違う)のように使い、в самом деле (= действительно)はсовершенно правильно(全くその通りです)という意味に使われる場合が多い。
設問)「不審物や持ち主の分からない荷物を見つけた場合は、ただちに警察にお届け願います」をロシア語にせよ。

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2011年08月18日

●和文解釈入門 第95回

薄田泣菫(1877~1945)は詩人だが茶話(ちゃばなし)という新聞のコラムでも有名である。板垣退助は人からもらったサモワールが気に入って、ただ使い方が分からなかったらしく、トイレの手洗い用にして客を驚かせたとある。もっとも客の方でもなかなか結構な手洗器ぐらいに思ったのかもしれない。ロシア文学も含めて世界の文学にも造詣が深く、それは英語に強かったからであろう。句読点について日本語と英語で書いているのが面白かったので挙げておく。日本語の方は、「ふたえにまげてくびにかけるじゅず」というもので、二重に曲げ手首に、二重に曲げて首にと両方に解釈できる。英語の方はMrs. Fiske says Miss Anglin is the greatest actress in the world.は Mrs. Fiske, says Miss Anglin, is the greatest actress in the world.とも読める。ロシア語は格変化があるから難しいが、例えば、Сталин говорит, Громыко – один из великих государственных деятелей.と Сталин, говорит Громыко, – один из великих государственных деятелей. 姓が変化しないものは、このような遊びが出来るかもしれない。ちなみにこの英文も露文も歴史的現在であるし、日本語の訳でも「~と言っている」とすれば歴史的現在である。
英語で一番長い単語はsmilesであるというのは、学習雑誌の付録か何かで覚えたが、泣菫によるとbeleagueredだという。beとredの間が1リーグ(3マイル)あるからというのは知らなかった。そういえば、ロシア語だってфамилияという副詞はфаとяの間が何マイルもある。
設問)「手術は脳のすぐ近くで行われる」をロシア語にせよ。

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2011年08月21日

●和文解釈入門 第96回

外人ロシア語というのがあって、мояをяの代わりに使うなどだが、この起源はセルゲーイ・マクシーモフСергей Максимовという旅行家によれば中露貿易に関わりがあるという。1861年彼が茶の取引で有名なロシアと中国の国境の町キャフタКяхтаを訪れたときに、Моя тиби подожди буду. (Я вас буду ждать.お待ちします)とかЦа пиху хычи? (Чай пить вы хотите?お茶を飲みませんか?)というロシア語交じりの言葉を符牒として中露間の茶の取引に使っていたという。これをロシア人は符牒условный языкと見、中国人はロシア語と見なしていたというから面白い。当時の清はロシア人に中国語を学ばせないために、自国の商人でロシアとの取引をしたいものにはロシア語の習得を義務付け、カルガンКалган(現張家口Zhangjiakou)という町に語学所を置き、そこのいわゆるロシア語の読み書きの試験に合格しないとロシア人との商売はさせないという決まりだったという。ところがその語学所のロシア語がピジンロシア語だったわけである。合格してもマイマチンМаймачин(現モンゴル領)というキャフタの近くの町で1年くらいは語学の実習をする必要があったという。当時中露の代表的な貿易は中国からは紅茶、ロシアからはラシャなどの織物で、ロシア語で南京木綿のことをナンカнанкаといい、これは名の通り中国からロシアに入ったものだが、19世紀半ばにはロシア製のナンカが中国に逆輸入されていたことが分かる。当時ロシアの庶民も紅茶を日に2~3度飲むという習慣が根付いており、紅茶の取引のためにロシア側もこの奇妙なピジンロシア語を習得せざるを得なかったという。無論これだけではないと思うが有力な説ではある。
設問)「22人入社」をロシア語にせよ。

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2011年08月25日

●和文解釈入門 第97回

「赤軍記者グロースマン」(アントニー・ビーヴァー、川上洸訳、白水社、2007年)は後に作家として有名となったグロースマン(1905~1964)の独ソ戦従軍について書かれたもので、独ソ戦の全体がよく分かる好著である。この中に発砲率理論というのが注に出ていて、第二次世界大戦中米軍の兵員の発砲率は15~25%であり、つまり75~85%は戦闘中に敵に対して銃を発砲しなかったとある。普通の人が人を殺すというのはそう簡単ではないことが分かる。かといって弾だけ撃ってごまかすというわけには実戦ではいかなったろう。弾を無駄にして、もし接近戦になって弾切れだったらどうしようという恐怖感を考えずにはいられないからだと推測する。ソ連軍でも60%の兵は弾を戦闘中にまったく撃たず、上層部では戦闘の後、小銃を上官に部下が弾を撃ったかどうかチェックさせたという。この発砲率はシュミレーション訓練により、つまりゲーム感覚を取り入れた訓練によりベトナム戦争以降では米軍においては95%に伸びたという。コンピューターゲームの殺人ゲームなどで訓練すれば、心理的な負担なしに簡単に人を殺せるようになるという事なのだろうか?ついでにいうと日本軍でもそうだが、ソ連軍でも部下に憎まれた上官は後ろから(つまり部下から)撃たれるということも大いにあり得たという。
設問)「機械試験の結果の報告をご案内申し上げます」をロシア語にせよ。

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2011年08月26日

●和文解釈入門 第98回

不完了体と完了体ではどちらが丁寧かとか、どちらが乱暴な言い方かと考えるのは時間の無駄である。一義的にどちらがとはいえないからだ。つまり不完了体を使うべきところで完了体を使えば、あるいは完了体を使うべきところで不完了体を使えば、いずれにせよ作法に外れたという感じが出るから、粗野な感じや意外な感じが出る。故新田實教授は晩年本人曰く、暇つぶしにソルジェーニツィンを読んでおられたが、ソルジェニーツィンの作品には語法に外れた文が多いとおっしゃっていた。ソルジェニーツィンの文章は擬古体というのか、自分でも昔の語彙を集めて辞書を作っていたくらいだから、かなりしつこい文章だと思う。それに比べれば同じ収容所の経験があるシャラーモフШаламовの方が簡潔で読みやすい。ソルジェニーツィンも、シャラーモフの文章のうまさを知ってか収容所列島の共著者にと頼んだらしいがシャラーモフは断ったという。ソルジェニーツィンもあくの強そうな人だから(お金にかなり執着していたということがNHKの小林和夫氏の著作でも分かる)嫌がったのかもしれない。作品と作家は別だと思えばよい。
体についてはどの動詞にも基本的に体のペアが存在するが、使う頻度はсказать/говоритьのように完了体と不完了体の使われる頻度が同じくらい多いというものは案外少ないように思う。不完了体が多く使われる動詞(звонить, знакомиться)も多い。和文解釈で使う動詞にもこういう事が影響する場合も多い。
設問)「敵か味方か?」をロシア語にせよ。

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2011年08月27日

●和文解釈入門 第99回

語感を鍛えるために露文解釈の勉強をロシア文学でやると、有名な作家はトルストイ、ドストエーフスキーとほとんど19世紀の作家であり、チェーホフとて亡くなったのは1904年だから19世紀の作家と言える。この語彙を暗記して会話や現代文に使おうとすると古めかしいと言われる場合も出てくるし、個性の強い作家の語彙は日常会話では使えないことが多い。「説明する」объяснить, пояснитьという意味でизъяснить, толковатьを使うとか、「組織」という意味でорганизацияの代わりにобществоを使うとか、「に向かって~と言う」と言う意味のобратитьсяの代わりにотнестисьを使うなどである。ここまで細かく勉強するのがいいかどうかは個人の考え次第だが、書き言葉と思っていたら廃語だったということもあるので、気長に類語の使い分けを学んでもいいかもしれない。
設問)「когда-тоはハイフンを入れて書く」をロシア語にせよ。

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2011年08月28日

●和文解釈入門 第100回

ここに書いた体の用法に関する表は改訂して第150回に載せてあるので、恐縮だがそちらをご覧願う。
設問)「彼は目が細くて一重だ」をロシア語にせよ。これは難しいかもしれない。

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2011年08月29日

●和文解釈入門 第101回

「流刑の詩人マンデリシュターム」(ナジェージュダ・マンデリシュターム、木村浩・川崎隆司訳、新潮社、1980年)を読んだ。これは詩人の妻の回想録であり、女性としてコルィマー収容所を生き抜いたギンズブルグ(1906~1977)の「明るい夜 暗い昼」(中田甫訳、集英社文庫、1990年、3巻)という自伝の筆致に比べればやや精彩を欠くように思われるが、ロシアソ連文学に興味のある人については必読の書かもしれない。またマンデリシュタームの詩作がどのようにでき上がってゆくのかについて非常に興味深いことが書かれてある。まず言葉になっていない音楽的な語句が詩人の頭の中に幻聴の形で現れ、それがやがて言葉という形に生まれ変わる、つまり詩は作られる前に存在しているというのである。
設問)「お勘定はお済ですか?」をロシア語にせよ。

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2011年08月30日

●和文解釈入門 第102回

露文解釈では類語の使い分けを特に気にする必要はない。文脈で判断できるからだ。つまり本などに書かれているまともな露文は編集者によりロシア語として正しいかどうかの基本的チェックを受けているはずだからである。ところが和文解釈では、類語の使い分けが出来ないと、一目見ただけでロシア人から相手にされないという事も起こりうる。
одинаковый とравныйの違いは、равныйは大きさ、力、程度が同じという事で、одинаковыйと違い、具体的な質や長所など示すことが出来ない。глаза одинакового цвета(同じ色の目)、носить с кем-либо одиноковую одежду(~と同じ服を着ている)、два одинаковых дома(同じ家2軒)、очень одинаковые люди (явления)(まったく同じ人たち〔まったく同じ現象〕)などである。
「取り替える」というのはзаменить, сменитьだが、同質のものを新しいものに替えるという意味では、сменить, переменить, поменять, обменятьを使う。例えば、обменять (поменять) паспорт (пропуск) на новый(パスポート〔入場許可証〕を更新する〔切り替える〕)などである。подставитьというのはподставить число в буквенное алгебраическое выражение(数字を代数式に代入する)というように、同質のものでないもの、例えばシノニムを「置き換える」という意味で使う。ちなみにвыражениеは式は式でも数式であり、формулаは公式(化学式、数式)であり、もっと意味が広い。
設問)「私は名前を覚えるのが苦手だ」をロシア語にせよ。

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2011年08月31日

●和文解釈入門 第103回

この5~6年前に比べると自分のロシア語の実力が格段に上がったと思う。それは何冊かロシア語関係の本を書いて自分なりにロシア語に対する考え方を整理できたこと、昔のよい参考書を読み返した事、あらたな良い参考書にめぐり合ったことなどが挙げられる。歳を取っても勉強を続ければそれだけ得られるものはあると思う。もっとも80点の人が90点に実力を上げるのは、95点の人がそれ以上を目指すのに比べれば楽だということもかもしれない。上を目指せば限りがない。それと聞き取りの反射能力とかは若い時に比べれば落ちているのかもしれないが、それを経験が補ってくれているのか、図々しくなってきたのか、より無神経になったのか、はたまた回りが敬老の精神を発してくれているのかは分からないけれども。まあ善意に解釈すればよいと思っている。
Архангельские былины «Погребение Святогора», Григорьев А.Д., 1910 от сказителя В.П. Аникееваの一部を紹介する。発音どおりに書かれたбылинаである。

Он ф третей зашол: Олёшенька Попович же,
И фсе тут три богатыря от сна встали же,
Они встали, со Святогором поздоровались;
Они пили напитоки сладкия
И закусывали ясвами сахарными,
- Мы куда же теперь,браццы, будем путь держать,
Будем путь мы держать да куда ехати? –
- Мы поедём в роздольицо шырокоё
И ф том же роздольи ко синю морю
設問)「目覚ましを朝6時にセットした」をロシア語にせよ。

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2011年09月01日

●和文解釈入門 第104回

歴史的(劇的)現在という用法は不完了体の動詞であればすべて可能だと考えるのは間違いである。знать, ведатьにはこの用法はない。またこれらの動詞は現在形で予定を示すこともできない。*Идёт и знает, что снег уже смят.というのも、*Завтра он знает (ведает), что дома его нието не ждёт.という文も文法的に間違いである。こういう風にзнать (ведать)で歴史的現在が使えないという事は、日常会話に多く使われる歴史的現在が、あるエピソードを語るために使われるのが多いので、動詞は1回の動作を行うという意味のものが多くなるという事であろう。それ以外ではある程度時間の継続を示す動詞(これこそ不完了体の動詞の用法そのものといった感じである)ぐらいであろう。歴史的(劇的)現在は書記言語に現れるのが比較的遅い、つまり庶民の日常表現として現れるものだからだとイェスペルセンも「文法の原理」(安藤貞雄訳、岩波文庫、2006年)で述べている。ロシア語でもアネクドートのみならず、日常会話で多用されるのでこの用法は一応心得ておいた方がよい。
設問)「毎日毎日暖かくなってゆく」をロシア語にせよ。

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2011年09月02日

●和文解釈入門 第105回

黒田龍之助先生は言語学者であるのみならず、その「外国語の水曜日」(現代書館、2000年)には、大学で長年ロシア語を教えた経験から得た非常に貴重な事柄が書かれており、大いに参考になる。いくつか抜粋すると、「外国語の教師の場合、たとえその人がどんなに立派な学者であっても、会話が出来なければ学生は絶対に納得しない」、「会話が出来るコツは、一つは基本的な例文を1万(!)くらい暗唱する。もう一つは、文法を学習する」(1万と書いた根拠は特にないようである。文法を学習するのは語彙の習得を能率的に簡略にするためとある)、「外国語の実力は総合的なものである。読めるだけれども話せないというのは本来おかしい(無論、話せても読めないというのもおかしいということになる)」、「ネイティブ利用法として、一つは、文法に関する質問は絶対にしない。二つ目は、発音や作文を直してもらう事」とある。
設問)「今日は何曜日ですか?」をロシア語にせよ。

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2011年09月03日

●和文解釈入門 第106回

コーシカさんよりロシア語の語彙を探せるサイトを教えてもらったので、皆様にもおすそ分けする。http://ruscorpora.ru/index.html というサイトで、単語の用例を調べることが出来る。語結合を調べるときにも威力を発揮するのではなかろうか。
和文露訳というと主語 + 自動詞、主語 + 目的語 + 他動詞と言うような構文から入ろうとする考えもあろう。ただこういうのは日本語にもある(「私は本を読む」など)し、ロシア語は語順が比較的自由なので(無論よく使うニュートラルなものを教えていくのだろうけれど)、それよりも日本人には分かりにくい運動の動詞、体の用法を徹底的に教えた方が、語句を丸暗記させるよりも、会話なのでの応用力がつくし、なによりも学習で飽きが来ないと思う。暗記中心では若い人ですら疲れるし、勉強が続かないのではないか。
テントはпалаткаだが、ロシア語のтентはズック製の庇(日除け、雨よけ)やコンバーティブルタイプのスポーツカーの幌を意味する。ちなみに庇はнавесである。шатёрは布、革、枝でできたテントで、布や枝や葉でできた庇という意味もあるし、16~18世紀の四角形か八角形の建物で上に十字(それなら教会)や風見鶏などのある建物を指す。首はшеяでподвешен на шею(首にかけられた)などというが、斬首はотсечение головыである。またビンの首はгорлышкоという。
設問)「二人の女の子はめいめい1本ずつボールペンを買った」をロシア語にせよ。

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2011年09月04日

●和文解釈入門 第107回

必要と思う語彙を全て暗記することはできない。歳を取ればとるほど暗記がつらくなる。度忘れということもある。それで私が勧めるのは、無理に暗記するのではなく、忘れても、自分の引き出しというか、そこを見れば思い出せるという語彙集を一つ作ればいいという事である。そこにロシア語関係の自分にとって新たな知見を全部詰め込むわけである。露和辞典は便利だが、使いこなしたと言っても、完全に自分個人向けではない。自分には不要と思われる語彙が多く載っていて肝心な語彙や用法を見つけ出すのに時間がかかるからだ。そこで何度もお勧めしているエクセルでの和露語彙集作成を勧める。最初の語彙集を作ったのは仕事で必要に迫られたからで、それは入社間もなくで、露和の船舶・鉄鋼用語集だった。その後20年経ってから会社で通訳していて日本語では一見簡単な言い回しがロシア語にするのが難しいのに気がついた。そこで和露でそのような語彙集を、小説などの会話の部分から拾ったりして、今では7万5千項目のコレクションとなったのである。和露にしたのは、通訳するときに和文露訳のほうが露文和訳よりはるかに難しいと考えるからである。動詞や句はできるだけ短文として、それに丁寧な和訳をつけるのがコツである。語結合が分かるような短い露文の文例を入れることにより、語彙のスペルを覚えるし、和訳すればそれがそのまま露文和訳の訓練になる。それとできるだけ典拠(出典)を入れるようにすることである。典拠を入れておくのは、あとでスペルミスかどうかのチェックができることと、露露辞典などの例文の引用などのように、文脈を理解するために無理に長く書かずに済むし、短文だから暗記に向いている。あまりないかもしれないが、何年も経ってどういう文脈でこの例文が使われているのか調べたいときにも重宝する。もちろんロシア人との会話で知った表現とか、街を歩いて見つけた看板の表現などは典拠も書けないのは当然である。
そういう語彙集の作例を挙げると、Симоновという作家の4巻目の85ページの文例にсжал губы – в колечко.を見つけたら、そこに赤く下線を引き、見出しは「唇」とし、次の欄にсжал губы – в колечко(唇を丸くとんがらせた)と訳し、その次の欄は典拠としてСимоновと書き、その次は4-85とする。そうすれば後でСимоновだけでもいろいろな文例が抽出可能である。сжалが出だしなのに小文字なのは、сжаで検索する場合、エクセルでは大文字、小文字が判別できないようなのでわざとこうしている。ロシア語のように曲用(名詞などの活用変化)がある語彙では、語幹で検索する癖をつければよい。そうすれば何回目かで行き当たる。自分の経験から言えば、この語彙数(項目数)も1万ぐらいになれば、単なる語彙集ではなく、和露辞典として効果が実感できるし、岩波露和辞典の編集をされた故飯田規和先生の話では5万ぐらいの語彙があればかなり使えるとのことで、ロシア語と言っても使う語彙は個々人で違う。世界にただ一つの自分専用の辞書を作るのだと思えばやる気も出る。
設問)「バイクと車ではどちらが早いか?もし両方ともいいものだったら」をロシア語にせよ。

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2011年09月05日

●和文解釈入門 第108回

金、もの、書類を「(郵便などで)送る」はотправить, послать, отослать, выслатьなどがあるが、выслатьは手紙や電報を送るには使えない。つまりメールを送るときでも使えないと考えてよい。「耕す」はобработать, возделатьが総称で、пахатьは犂やトラクターで耕すことをさし、焼畑には使えないことが分かる。поднять, распахатьはпахатьのシノニムだが、処女地や長く放置された畑を耕すという意味である。「条件」はусловие だが、作業条件(いわゆるモードmode)はрежим работыが技術関係ではよく使われる。「人や交通機関が到着する」というのは、使う交通機関によってприйти, приплыть, прилететьだが、приехать/приезжатьを使えば交通機関を問わない。ехать(陸上ないしは水上では使えるが、飛行機では使えない)と違って、飛行機でも船でも使える。しかし貨物грузыや郵便物почтовое отпралвениеが到着するというのは、прибыть/прибывать, поступить/поступатьしか使えない。Во Владивосток грузы прибыли с опозданием.(貨物は遅れてウラジオに到着した)という文でも分かるように、бытьと違い、прибытьはгдеではなく、кудаを取る。прибытьは人や交通機関が主語でも使えるし、到着という意味では公式訪問などの文でも使える万能な動詞でもある。ただ公式発表などの硬い表現で使うという事を頭に入れておいた方がよい。
設問)「男の方がお二人お見えです」をロシア語にせよ。

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2011年09月06日

●和文解釈入門 第109回

自分が幸せだと思うのは、まず頭痛の経験がほとんどない、つまり頭痛持ちではないことである。長い人生で多分10回ぐらいだろう。それも空気の悪い部屋に長くいたとか、眼鏡の度が合わなかったときぐらいだ。持病もない。胃が痛んだのも多分食中毒気味のときに2、3度あったぐらいで、生まれてから胃薬も飲んだことはない。20代の頃は通訳する直前など神経性の下痢で、ほぼ毎日下痢止めを飲んだが、さすがにこの頃は神経も年相応にぼけてきたからか、好きな納豆やヨーグルトのおかげかほとんど飲むことはない。多くの人が苦しんでいる腰痛もないといえる。重いものを持ったり、長く歩いたりしたときに2カ月に1度ぐらい少し痛むくらいだ。それも1枚タオルを当てたり、塗り薬で2日程度で治るぐらいだ。肩こりもない。1度家族旅行で台湾に行ったときに、非常に痛いが利くという台湾式マッサージを受けたことがある。回りで妻と娘がすごい声で悲鳴を上げていた時も、身体に乗られている感じはするが痛みは感じなかった。マッサージ師も通じる日本語で、あなたはマッサージが要らない身体だと言ってくれた。だからガイドの時も温泉でマッサージの方には目がいかないのでお客さんから気の利かないガイドだと思われているかもしれない。マッサージもある意味中毒のようなもので、マッサージを受けている人で、マッサージを卒業したという話は聞かない。母は56歳で肝臓癌で死に、父は膵臓癌でこれはほぼ寿命の76歳で死んだ。善玉コレステロールも少なく、家系から言えば特に長生きの方ではない。でも平均寿命ぐらいは生き、痛みのない生活を送りたいものだと考え、酒は2年前にやめた。きっかけは血圧が検診で上が150になったからで、酒をやめたら徐々に130ぐらいに減って今に至っている。月1回ぐらい付き合いでは飲むが、それはいちいち断りを言うのが面倒だからだ。タバコは日に3箱喫っていたが30年前にやめた。これは自分でもえらいと思っている。
設問)「2006年日本中の10歳以上の男女14,400人にアンケートは配られた」をロシア語にせよ。

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2011年09月07日

●和文解釈入門 第110回

初めに入社したのは小さな商社で造船関係の通訳見習いの様な事をさせられた。そのとき現場で通訳のミスから右舷と左舷の水密ドアを間違ってつけてしまい、100万円の損を出したという話を聞いた。兆とか億というのは想像外だが、100万円というのは個人で想像できるうちで最高の金額である。それでこういう技術通訳やビジネスの通訳には一層慎重になったことを覚えている。外務省で国家的な通訳も、ビジネスで何億ドルの商談をしている通訳もいると思うが、通訳の緊張感は変わらないと思う次第。
 昔小松政夫の「しらけどり音頭」というのを懐かしのメロディーかなんかでやっていて、別に面白いと思ったわけではないが、Тихий ангел пролетел.という古いロシア語の言い回しを思い出した。これは座に沈黙が続いた(座が白けた)ときに言うセリフで、さまぁーずなら「何か言えよ」の類である。古い言い回しなので、現代ロシア語ならさしずめ、Медведь сдох (где-то)!とかМилиционер (мент) родился!というのだろう。
設問)「守りは難攻不落の要塞と呼べる代物ではなかった」をロシア語にせよ。

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2011年09月08日

●和文解釈入門 第111回

телеательеというのは辞書を引けば「テレビの修理店」とある。これは日本にはない。テレビが壊れたら(まず壊れることはないが)、販売してくれたところか、メーカーに連絡するのが一般的だ。ところが、ソ連時代のテレビは買ってすぐ何回か壊れる。ひどいのになると火を噴いたりした。何回か修理して(鍛えて)ようやくまともになるというのが、住宅や家電に対するソ連人の考え方だった。体の用法や類語の使い分けも同じで、説明を聞いたり読んだりすればなるほどと思うが、実際に会話で使おうとすると、又どちらの体を使えばいいのか分からなくなる。用法を深読みしたり、読みが浅かったりの繰り返しである。用法が日本語で書いてあるといっても自分で何回も会話で使ってみないとものにはならない。しかも体の用法の参考書だって露文解釈についてであって、和文露訳用ではないから頭の中でひっくり返す作業が必要である。分からなくなったらまた基本に戻る、この繰り返しをすることで、ソ連のテレビのように、顔から火が出るような思いをする回数が減る。だから恥をかくことを恐れない。そうすればロシア語はうまくなる。恥をかくことでは赤恥を何度もかいたから言うわけではないが、黒帯どころか赤帯である。恥をかくのに黒帯どころか、赤帯になるのも覚悟するくらいでないとロシア語はうまくはならないと思う。自分の頭の中だけで分かったつもりになっても、本当に理解したと言えるのは初心者が分かるように説明できて初めてその用法をマスターしたと言えるのではないかという気がする。それがこのコーナーを始めたいくつかのきっかけの一つである。やってみて、逆に教えられることが多いというか、ロシア語の学習のアプローチの仕方はいろいろあるのだなと痛感する毎日である。
設問)「遊びにおいでと言われているんだよ」をロシア語にせよ。

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2011年09月09日

●和文解釈入門 第112回

余計な言葉は言わないに越したことはないが、通訳していると急には思い出せない単語を思い出す間を稼ぐために、埋め草的言辞(冗語)слово-заполнитель, словесный мусорと言うのが必要になる場合もある。通訳していてすぐに単語が浮かばないときは、1秒でも2秒でも考える時間が欲しい。それで常日頃からчто касается ..., とかкак сказать, などのあまり意味のない言葉を入れる癖がつく。
「仕切り」はперегородкаで、переборкаは船舶用語では船内各室仕切りである隔壁 bulkheadの事を指すが、загородкаは天井まで達しない仕切りを言い、барьерはオフィスなどの人の背丈より低い仕切りを指す。отделениеは船舶の機関室МО (машинное отделение)などの意味もあるが、財布の中の仕切りотделение бумажникаと言う意味もある。
設問)「彼のものだったものはすべて、今やあなたのものです」をロシア語にせよ。

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2011年09月10日

●和文解釈入門 第113回

繰り返しに不完了体現在形を使うというのは、現在の1点が含まれてさえいれば現在時制を使うからだという。この点について考えてみた。今午後2時だとして、毎朝9時に通勤するという文を考えると、朝9時はとうに過ぎているから過去であって現在ではない。しかし現在というのは厳密に言えば今この瞬間(時間の軸の今現在の1点)を指し、それは未来に向かって常に動いている。だから後19時間経てば午前9時になり、つまり繰り返しに現在の1点が必ず含まれるという前提が達成されることになる。だから過去の繰り返しでは現在時制を用いないのである。未来の繰り返しはどうだろう?未来のいつかという事がはっきりしていない以上、主語が存在するかどうか(それまでに死ぬかもしれないし、なくなるかもしれない)未確定であり、未確定である以上必ず現在の1点が含まれるということにはならないから、これにも現在時制は使えないことになる。
 日本語の「~している」という構文は、始発の意味に現在まで継続しているという意味が加わった、いわゆる現在完了である。だから「彼は読んでいる」という文は、「彼は読んで、その状態が続いている」という意味だから、Он читает.となる。それでは「来ている」はどうだろう?「彼は来て、その状態が続いている」ということだが、これは完了(結果の存続)という意味で、Он идёт.とはならない。これだと「かれは来る(予定)」か「来るところ(来つつある)〔過程、現在進行形〕」である。だから「彼は来ている」ならОн пришёл. (Он приехал.)と訳さないと正しくないことになる。日本語の「~している」というのは「始発ないし完了 + 継続」という意味なので、日本語を聞いたときに動作をイメージ化できないと正しいロシア語にはならないことが分かる。「着く」、「行く」、「話す」、「言う」、「買う」、「書く」という基本的な動詞についても、「(今)書いている」と「(とっくに)書いている」では前者はЯ пишу.であり、後者はЯ (уже) написал.となる。「行くよ」や「行くところだ」も意志や予定(いずれも動作はまだ始まっていない)であり、ロシア語ではそれぞれЯ пойду.やЯ иду.に訳し分けなければならない。簡単な表現でもどちらの体を選ぶかは体の用法をよく理解していないとできないことになる。
設問)「踊れない日本女性というのは稀だ」をロシア語にせよ。

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2011年09月11日

●和文解釈入門 第114回

自分が健康オタクというか健康が趣味であることは前に書いた。だからこの4年ほど健康診断で評価がD(5段階で最悪に近い)というのはまことに心外である。健康診断の評価を上げるために頑張るというのは邪道のような気もするが、趣味は趣味なのでやめられない。今年医者にはLDLコレステロール142(60 -119が適正範囲)とやや高いというが、前年より29も改善している。血圧は134~84で、毎日測っているが上が108~138の間で誤差範囲のものであろう。下は85以下である。医者は私に、それでも卵1個は多い、卵黄を抜くか、2日に1個にせよとか、野菜ジュースではなく、本物の野菜を多く取るようにせよなどという。それができないから野菜ジュースを使うのであり、こういうのは藪である。医者は野菜ジュース嫌いの人が多いのはなぜだろう。塩分少なめのだってあるのに。野菜ジュース(17種の野菜が入っている)を飲まない限り1日30種類の食物など摂れはしまい。こういう先生のほうが医者の不養生というかぶくぶく太っているのはおかしいが、問題は先生のことではなく地球より重い私の命である。藪をつついてもどうにもならない。この半年ほど並みの女性には絶対できないと思うお菓子断ちダイエットをやっている。元来吹雪(薄皮饅頭のような餡が外に顔を出している和菓子)、煎餅やチョコが大好きだったが、東日本大地震を契機に(被災者も大変だ、それに比べればこのくらいという名目で)これらを一切やめてしまった。だいたい人から強制されるのは大嫌いである。医者から酒やタバコをやめろといわれるくらいならそのとっくの前に自分でやめるというのが私の考え方である。おかげで体重は77キロから69キロに減って快調だがその検診の結果がDである。
2011年9月11日付のタイム誌を読んでいたら、卵、全乳、コーヒー、チョコの復権とある。いずれもポリフェノールが含まれており、認知症、パーキンソン氏病、タイプ2型の糖尿病にも効果が高いという。これらの取り過ぎは無論体に害があるが、害の方に比重を置いての解説が多かったように思う。卵(卵黄)はコレステロールのもとであり、牛乳も摂っても栄養にならない、つまり牛乳を飲むと下痢する人は乳糖不耐症で、日本人の半分ぐらいはそうだという。こう人は勧めても牛乳は飲まないが、チェダーチーズなどの硬いチーズなら大丈夫らしい。タイム誌によれば、卵が1日1個、全乳(つまり乳飲料ではない)なら1日500 cc、ダークチョコなら週に900~1,300 g(ないしは赤ワイン1日グラス2杯)、赤肉red meatは週500グラム以内なら体重は増えないとある。コーヒーの量は書いてなくて、飲み過ぎはイライラするとあるだけだった。もっとも欧米人対象だから日本人にそのままあてはまるかどうか分からないが、自分のダイエットの参考にはなる。それとナッツ類(無論塩分抜き)を勧めていたので、これまで止めていたピーナッツ、アーモンド、クルミ(いずれも塩分抜きのもの)を6個ぐらいずつ昨日から摂っている。特にクルミにはコレステロールを下げるomega-3脂肪が含まれているので、これこそ今の私には一番必要なものだ。脂肪も身体に悪いのはトランス脂肪(マーガリンなど)なので、要は量の問題だが、ウクライナ人のように塩漬け脂身салоは塩も含まれているし、身体にいいはずはないと思う。あれもこれもと私は健康オタクではあるが、ビタミン剤とかサプリメントは飲まない。利くか利かないというよりも余計なお金を払うのが嫌だからだ。毎日納豆、ご飯、味噌汁、牛乳、果実のジュース、生卵、うの花、バナナ、心太、野菜ジュース、ヨーグルト、ブルーベリージャムは欠かさない。ケチだからアスレチックセンターにも通う気はない。家の近くの川岸を歩けばタダだ。長寿ホルモン(オルニチン)が今人気だが、これだってカロリーを減らせば体内で多く出てくるというではないか。もっとも私の目標は我が血筋の最高値である父の亨年76を越え、男性平均寿命の79歳まで生きるである。その年まで身体に痛みもなく、後は娘たちに迷惑をかけることなく、寝たきりにならずころっと逝くという風になるための健康オタクでもある。努力してそうならなかったとしても、それはもはや私のせいではない。
食べ物以外にタイム誌では運動は体重73キロの人なら週に150分の運動が必要であり、速歩なら1日20分でよいと書いている。私は最近2時間のだらだら歩き(ないしはサイクリング)を1時間の速歩(少し股を広げて歩く感じで私にとっては速歩だが、普通の人にはウォーキング)に代えて毎日やっている。速歩はダイエットにはいいような気がする。身長は168センチで、大学に入る前の体重は58キロ、卒業時が68キロであり、書いたものによれば私の適正体重は58~63キロである。BMIも24と検診のときの25.2より下がった。腹囲も85から83に減ったが、BMIと腹囲については長生きという面から考えると男性なら26と90ぐらいの方がよいのではないかというのを読んだ。ブルースリーも早死にしたが、彼は体脂肪率5%以下だったし、そうなら体が保たないだろう。コレステロールだって細胞を作るのには必要だ。彼の死因も麻薬とかいろいろ言われているが、脂肪が少なすぎると普通の風邪薬でも利き方が普通の人とは違うと言われている。しかし体脂肪5%というような人は、健康のためというよりはナルシストで自分の体に彫刻をしているようなものだから、せっせとプロテインを飲んだりして、その体型の維持に努めるのだろう。体操や野球の選手だって健康のためにやっているのではなかろう。プロとして結果を残すためだろうから、それと同じで、ある意味生きがいなのだから話は別だ。
設問)「残念ながら訪露は2週間延期せざるをえません」をロシア語にせよ。

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2011年09月12日

●和文解釈入門 第115回

 北原白秋(1885~1942)が1925年に鉄道省主宰の樺太観光団に参加した顛末を書いた「フレップ・トリップ」(岩波文庫、2007年)を読んだ。特に前半の文体が非常に明るく感じられる。本人も「私の話法は現在格で進める。この方が楽だからである」と書いている。つまり意識的に歴史的現在で書いているのである。歴史的現在で書かれている小説、紀行文は限りがないが、このように作者が文体の違いを意識して書かれているのは類を見ない。また豊原のロシア人街についても触れている。表題のフレップ・トリップは解説の山本太郎によればアカフサスグリкрасная смородинаとクロフサスグリчёрная сиородина、ないしはナナカマドрябинаであろうという。白秋はこれらでブドウ酒をつくるとしているが、山本はナナカマドでは作れないと書いている。普通はその通りだが、ウラヂーミルВладимирというモスクワ近くの都市のナナカマドは糖度が高く、これで酒が作れるというのはロシアでは有名な話である。フサスグリの酒もあるが、この場合はナナカマドなら低木なので、北海道のハスカップのようなのかもしれない。
「考え直す」と言う日本語には、「もう一度じっくり考える」と言う意味と、「考えを改める」と言う二つの意味がある。передумать, перерешитьは「前の考えを拒否して、別の考えを受け入れる」と言う意味であり、раздумать, отдуматьは「前の考えを拒否する」と言う意味である。「引っ越す」はпереселиться, переехатьが普通だが、перейтиは同じ集落、市内に引っ越すというニュアンスがある。
設問)「5分ほど待とう。もし電車が来なかったら、歩こう」をロシア語にせよ。

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2011年09月13日

●和文解釈入門 第116回

на + 対格(時間を示す〔数詞 + 名詞〕)で予定を示す時に、全部の動詞や名詞が使えるわけではない。参考までに使える動詞や名詞などを挙げる。動詞は基本的に完了体を用いる。動詞はвзять под защиту, зайти, затемниться, затянуться, лечь, оставить, остаться, прекратиться. приехать, присесть, спуститься, уехать, улететь, хватать, хватитьなどで、副詞・形容詞はдостаточно, достаточный、名詞はзапас, план, погода, провиант, прогноз, программа, работаなどである。動詞が他動詞なら被動形過去でも使える。不完了体が使えるとしたら、繰り返し、否定、歴史的現在の用法である。Он улетел на целый день.(彼は丸1日の予定で飛行機で発った)、Левитан уходил на неделю, на две из дому.(レヴィタンは1、2週間家を空けることがあった)、Ваня шёл впереди, а Биденко – на шаг сзади, ни на секунду не спуская с мальчика глаз.(ワーニャが前を歩き、ビジェンコが1歩後ろを、少年から一瞬も目を離さずに歩いた)。この場合否定文で完了体を用いても問題はない。これはниやодинとともに完了体を用いて否定の強調する場合に完了体が使われるからである。
「隙間」はпромежутокでпромежуток между стеной и шкафом(壁と箪笥の隙間)などと使い、もっと狭い、ぴったりに近いものとものと隙間はзазорといい、割れ目や自然に開いた細長い孔(隙間)はщельという。内部にある空隙はпорыと複数を使うのが普通である。「もの」はпредметとвещьがあるが、前者は具体的なもの、ないしは抽象的なもの(状況や事実など)で、「こと」とも訳せる場合もある。後者は具体的なものであって、かつ人が使うものであり、抽象的な意味ではあまり使わない。「身体、体」は訳語としてорганизмとтелоが考えられるが、организмは肉体的精神的性質の総体であり、телоはорганизмが外形として現れたものである。だからпопасть внутрь тела человека(人体の中に入る)と言うし、части телаは体の各部(手足など)と外側であり、「薬は体によって摂取される」はЛекарство осваивается организомом.であって、теломだとおかしいことになる。なぜならтелоは体の外側という意味だからである。それゆえОрганизм человека содержит воды около 65%.(人体のおよそ65%は水から成る)という表現もある。
設問)「彼女は字が読めなかった」をロシア語にせよ。

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2011年09月14日

●和文解釈入門 第117回

маленькийには絶対的な大きさの標準として人間(の身長)が使われ、相対的なものとしては同じようなグループの中において大小を見るとシノニム辞典にある。холодныйも基本的には室温(これは体温では表現できないからだろう)より温度が低いということであり、тёплыйは体温に近い温度、горячийは体温よりかなり高い(水の沸点近い)というのが基本的にあるという。室温は技術用語では摂氏20度ぐらいと考えてよい。тёплая водаは「ぬるい湯」と訳すか、「温かい(ぬるめの)水」とするかいろいろあるだろうが、тёплая вода в реке(川の温かい水)とтёплая вода в ванне(風呂のぬるめの湯)では当然日本語では訳が異なってくるが、ロシア語の基本的な意味を理解していれば訳には困らない。初級者ではやむを得ないが、露和辞典というのは、代表的な和訳を挙げているのであり、文脈によっては訳を変えた方がよいと思われる場合も多々ある。その時に露露辞典を引けば理解しやすい場合もある。だから中級者以上では露露辞典を使えるようになればロシア語のレベルを大幅に上げる道が開かれたということになる。
「宇宙飛行士」のкосмонавтはソ連やロシアので(秋山豊寛、菊池涼子はこの名称で呼ばれるのだろう)、астронавтは欧米や米国、日本のであり、中国人宇宙飛行士はтайконавт (юйханъюань)、マレーシア宇宙飛行士はангкасаванである。この他にзвездолётчик, космолётчик, звездоплавательはSFに出てくる宇宙飛行士である。「作品」はпроизведениеだが、口語では絵画、彫刻、文学作品、楽曲などをработа, вещьという。「車のレーサー」はгонщикやавтогонщикでよいが、F1やラリー、ボブスレーではпилотを使い、пилоты «Формула-1» F1レーサーなどという。シンバルはтарелкиであって、цимбалыは弦楽器を意味し、2本の撥で演奏する。
設問)「鋼の炭素の含有量は何パーセントにする必要があるか?」をロシア語にせよ。

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2011年09月15日

●和文解釈入門 第118回

наглый(図々しい、厚かましい)とнахальный(いけ図々しい、恥知らずな)の違いは、後者の方は否定的ニュアンスが強いが、その違いをシノニム辞典では、後者は相手の目の直視прямой взгляд в глазаということにあり、ロシアでも相手の目を見つめるというのは失礼なことなのだという事が分かる。この頃は戦後のアメリカの影響か、相手の目を見て話せなどというが、相手からじっと見つめられるのも(相手がよほど異性の美形ならともかく)気色悪いものだと感じるのは年寄りのひがみか。ブランコは子供が遊ぶのはкачелиだが、体操用のブランコやサーカスの空中ブランコはтрапецияでкрутиться на трапеции(体操のブランコで回転する)などという。ちなみにтурникは体操用の鉄棒である。
設問)「壊れた冷蔵庫は戸棚になっている」をロシア語にせよ。

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2011年09月16日

●和文解釈入門 第119回

歴史的現在(劇的現在)は過去をあたかも現在眼前で起こっているようにありありと示す表現法だが、このありありとというニュアンスを除いても完了体過去形との意味の差はあるとБондаркоは言う。歴史的現在の用法に沿って述べると、
1. 動作の順次性
К машинисту поезда метро вырывается террорист, достаёт гранат и кричит: «Срочно в Копенгаген! Иначе возрву!
Машинист объявляет:
- Осторожно! Дверь закрывается . Следующая станция Копенгаген!
(地下鉄の車両の機関士のところにテロリストが乱入し、手榴弾を取りだして、こう叫んだ。「すぐにコペンハーゲンに行け、さもないと吹っ飛ばすぞ」)
 機関士はこうアナウンスをしました。「ご注意ください。ドアが閉まります。次の停車駅はコペンハーゲンです」
 これはアネクドートにある表現で、Бондаркоは例を挙げていないので私が別に選んだものである。これらの動詞はすべて完了体過去形вырвался, достал, крикнул, объявилで示すことができる。
2. 多回体動詞を一回体動詞のように使う。
前記のкричитはкрикнулという一回体のように過去の一回の具体的動作を示している。мигать/мигнуть, толкать/толкнуть, махать/махнуть, трогать/ тронуть, мелькать/мелькнутьなどもそうである。この用法では完了体過去形との意味の差は、不完了体は不完了体の意識が残っているために、1回の瞬間的という意味が完了体過去形ほど明瞭ではなく、過程としてのニュアンスが出るが、部分的とはいえ完了体過去形のような働きをしているのは事実であるという。
3. 動作の到来
Неожиданно из-за отдалённого кустарника выползает большая широколицая луна.(不意に遠く離れた茂みの向こうから大きな、でかい顔のような月がのろのろと出た)
 ここでも不完了体は歴史的現在という用法では、本来の体の用法(過程の意味)を一部残していると言えるという。Бондаркоはнейтрализация видовых различий(体の違いの中立化)と呼んでいる。
 日本語にも歴史的現在はあるが、どうもスラブ語内部でも、例えば、ポーランド語やウクライナ語、ロシア語との間で歴史的現在の用法が完全に同じではないようであるし、ましてや日本語とでは、無条件に現在で訳していいのかという疑問も当然出てくる。訳す時のこのニュアンスの差について、ロシア人でも日本人でもロシア語文法の専門家が、我々実務の専門家に、特に日本語をロシア語に訳す時にどう対処すべきかの具体的なヒントを御教示いただきたいものだと考える次第である。それまでは上記のБондаркоの指摘を頭に入れておくしかない。
このほかにも完了体過去形で示された文がすべて歴史的現在で表せるわけではないとБондаркоが述べている。意味の同じ例として、Вдруг поезд остановился.(突然汽車が停車した)とВдруг поезд останавливается.(と突然汽車が停車する)の二つの文を挙げ、過去を眼前にありありとというニュアンスを取ってしまえば、意味的には同じであるという。果たしてそうか?1番目の文は文脈によって結果の存続(現存)ないしはアオリストと二つの解釈が可能である。もっと言えば特になにも文脈が示されていなければ結果の存続と取るのが普通であろう。二番目の文を完了体過去形に直せば、1番目と同じ文にはなるが、歴史的現在というの過去の出来事を述べるのであり、それは現在とは何の関係もないのだから意味はアオリストしかありえない。つまり部分的に意味が重なるところがあるというだけである。意味から考えて歴史的現在には結果の現存という事はあり得ないはずだ。
Бондаркоは上記の二つの文と対照的な、意味が異なる例として、Вдруг зазвонил телефон.(突然電話が鳴りだした)とВдруг звонит телефон.(と突然電話が鳴る)を挙げ、前者の動詞には始発の意味があるが、後者にはないゆえに意味的に置き換えることはできないと述べている。それはзазвонитьに対応する不完了体は露和辞典にもあるようにзвонить(звонитьから見ればпозвонитьと考えるのが一般的)だから、一般的に体として対応していても、歴史的現在では使えないという解釈が成り立つわけだ。
設問)「宇宙飛行士は不測の事態に対処しなければならない」をロシア語にせよ。

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2011年09月17日

●和文解釈入門 第120回

今回は歴史的現在の文体の特徴についてをインターネットで見つけた2010年の報告57とある全露科学技術情報研究所のПадучева Е.В.女史の論文「物語の条件における体・時制形態の解釈によせて:歴史的現在」を基に書いて見る。*印がついたものはロシア語として正しくない文を意味し、※は私の見解である。
1. 歴史的現在はвотと結びつくが、過去形では結びつかない。これは遠いものと近いものという遠近関係で説明できるという。歴史的現在は過去を心理的に近くするが、過去形で書くと、状況と話相手の間に距離が生まれる。
Вот едет могучий Олег со двора.(ほら強大なオリェークが宮廷から出立する〔出立した〕)
2. 歴史的現在はтолько чтоと一緒には使えない。
Только что кончился математический съезд.(たった今数学の大会が終わった)
Кончается математический съезд.(数学の大会は〔もうすぐ〕終わる)
※これは歴史的過去がアオリストのように現在から切り離した過去を、あたかも現在であるかのように観察するという事から理解できる。
3. 完了体過去形の動作に続く動作を歴史的現在で表現できるが、過去形ではできない。
Он схватил меня за руку и тянет.(彼は私の手をつかんで引っ張った)
*Он схватил меня за руку и тянул.
Он схватил меня за руку и потянул (стал тянуть)
※これは完了体過去形の順次的用法という事で説明できる。
4. 歴史的現在には始発の意味があるが、不完了体過去形にはない。
Неожиданно из-за отдалённого кустарника выползает луна.(いきなり遠く離れた茂みの向こうから月が這い出てきた)
Неожиданно из-за отдалённого кустарника выползла луна.
*Неожиданно из-за отдалённого кустарника выползала луна.
歴史的現在はнеожиданно, внезапно, моментально, вдругとも、完了体のように結びつくが、不完了体の動詞は歴史的現在以外の用法では結びつかない。
5. 反意語の対のある動詞における解釈
Захожу я к приятелю.(〔過去の観察の時点で〕私は友人のところにいる)
Я зашёл к приятелю.(「〔過去の観察の時点で〕私は友人のところにいる」というアオリスト的な解釈も可能だし、「私は友人のところに寄って、いまそこにいる」という結果の現存としての解釈も可能である)
я заходил к приятелю (и ушёл.)(私は友人のところに寄って、それから帰った)
※不完了体過去形の事実の名指し
 歴史的現在で過去に転移するのは発話の時点ではなく、観察の時点である。
6. 過去を示す副詞と歴史的現在
Иду вчера по Кузнецкому, вдруг сзади раздаётся свисток.(昨日クズニェーツキー通りを歩いるとね、急に後ろから笛が鳴るんだよ)
Поднимасюсь недавно по лестнице в гостинице «Красное».(つい先日クラースナヤホテルの階段を上るとね)
Прихожу вчера в контору за справкой. Швейцар отворяет дверь.(夜事務所に証明書を取りに行くとね。門番がドアを開けてくれるってわけさ)
 このように歴史的現在はナレーション的に用いられるので、一人称での使用が多いが、三人称の場合もある。
Встречается вчера президент с премьер-министром.(昨晩大統領は首相と会談)
7. 歴史的現在が使えないか、使いにくい文脈
Приезжаю я в прошлом году в Нью-Йорк.(昨年私はニューヨークへ行った)
*Иду я в прошлом году по Кузнецкому.
※無論私はモスクワの住人という設定での話である。昨日とかつい最近なら歴史的現在は使えるが、モスクワ市内という手近な場所というありふれた場所を昨年というのは心理的にどうかということと、遠く離れたニューヨークならそう行けるところではないしこれなら昨年と考えても心理的におかしくないという心理的距離によるものだろう。
設問)「前の車を追い抜いた」をロシア語にせよ。

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2011年09月18日

●和文解釈入門 第121回

БондаркоのТеория морфологических категорий и аспектологические исследования(形態的範疇理論および体の研究), Языки славянских культур, 2005によれば歴史的現在という用法は18世紀末までは完了体未来形で行われ、それ以降は衰退し、その後不完了体現在形が用いられ現在に至っているという。私などは完了体未来形が過去で使われるのは時制の転用(転移)と簡単に片づけていたが、これは過去の名残だということになる。А.А. Потебняの用いた有名な例文、「足で蹴って壊した」という文は、普通に考えればПнул ногой – изломал.と完了体過去形の順次的用法である。ところが完了体未来形を用いてПнёт ногой – изломал.とすれば、より生き生きとした表現になるという。これは歴史的現在があたかも眼前で行為が行われているかのように表現するの謂なので生き生きととらえられると考えれば納得がゆく。このように先行する動作には完了体未来形が使われるというのが時制の転用での説明である。現在の時制の反復・習慣の用法でも、完了体未来形が先行する動作を示し、かつ平板な文章にを生き生きしたものに変えると言われている。Когда хлор улетучится, я наливаю раствор в банку.(塩素が蒸発したら、溶液を瓶に〔いつも〕注ぎます)。この他に生き生きとした感じを出すために、完了体未来形が過去で使われる例としてよく見られるのは、какと共に使われるものである。Замер его голосок, и с ним в одно мгновение точно всё умерло... Зато через минуту все как вскочет, словно бешеные, и ладошами плещут и кричат.(彼のか細い声が消え、それとともに一瞬で全てが死に絶えたようだった。その代わり、そのあとすぐにすべてが急に湧き上がり、気違いのように〔人々が〕手を鳴らしたり、叫び出したりした)。これらはいわゆる歴史的現在の用法で、вскочетは単数の完了体未来形、その後の動詞は複数の不完了体の現在形である。
 Поживём – увидим.(その時はその時)というような諺は、一つの事例を取り上げて全体を代表させるという例示的意味の完了体未来形と見るか、歴史的現在の古い用法の名残と見るかだが、この歴史的現在の用法が発展して例示的意味を持つことにより、完了体未来形の成文法に生き生きした表現という生産性を与えたといえないこともない。
 このような歴史的現在という用法は我々外国人は会話では使いにくい。ある程度これが自然に出るようになればロシア語かなり上達したと言えるだろう。しかし露文解釈においてはこの用法を頭に入れておけばすぐにでもかなり役に立つと思う。
設問)「わざわざお見えになったのですか?」をロシア語にせよ。

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2011年09月19日

●和文解釈入門 第122回

自分で会話集を書いたときに、露文を見て、なぜこういう和訳になるのかちょっと分からないだろうなと思われるものもあるのに気がついたが、紙面の都合上説明は書けなかった。例えば、Удачи!(幸運を祈ります)やСпокой ночи!(お休みなさい)である。これらはжелатьという生格を取る動詞が省略されているから生格なのである。もっというと動詞によっては抽象的補語には生格を、具体的なものは対格をと分けるものもある。普通は理屈抜きで丸暗記する。しかしなぜそうなるかには大抵理由があるはずだ。理由が分かれば頭に残りやすい。私がもっと文法を勉強したらと主張するのも、できるだけ丸暗記の負担を減らし、能率的にたくさん語彙を覚えてほしいと願うからである。
大衆食堂はзакусочнаяが普通で、これより小さいもの(酒類は提供可)はзабегаловкаといい、マクドナルドとか蕎麦屋とかラーメン屋の類である。буфетはビュッフェで、駅や劇場の中のサンドイッチやジュースなどを提供するところを指す。кафетерийはセルフサービスのレストランといったところ。カメラマンといっても、報道関係ならфоторепортёрであり、写真家(芸術写真集を出すような)はфотохудожникといい、映画のカメラマンはоператорで、テレビのカメラマンはтелеоператорとなる。
設問)「何か飲むものある?」をロシア語にせよ。

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2011年09月20日

●和文解釈入門 第123回

このコーナーでは会話における和文露訳において、主として完了体と不完了体をどう使い分けるのかそのたたき台として自分なりの考えを提示している。多くの先人の業績を自分なりに解釈したものだが、自分では会得したつもりでも、他の学習者が実践の場で使おうとしたときにどちらの体を使うべきか曖昧さが出てくるのはやむを得ないと思う。これは個々人で工夫してもらうしかないが、体の用法を真剣に突き詰めて考えてゆけば、私のように細々と具体的な用法を書かずとも、もっと統合した考えで、体が使えるようになるかもしれない。あるいは何かの用法上の目印で新しい発見があるかもしれない。
設問の短文自体が文脈から切り離されているという、ある意味では現実離れしたしたものであり、露露辞典にあるように段落に近い大きさで例文を作れば、より文脈の持つ意味が明確になるのは間違いない。しかし、そうしないのは、設問のポイント(本質)が曖昧になる可能性がある、設問を作るのも、回答するのも、はたまた投稿するのも億劫になる、それと回答を暗記用に使えなくなるといった理由である。逆に文脈と切り離されているとことは、体の用法の解釈を広げ、その解釈をする前提を確実に理解する助けになると信じている。ただ設問において私が正解だと称するものに惑わされる必要はない。私が設問を一般的な文脈で理解すると称するのは、ある意味これが人工的な文脈であり、色々な解釈が可能であるため、あくまで私が現時点でそう思うというだけのことである。できるだけ場面別に説明しようとしているが限りがある。またそう解釈する理由を人には説明できるが、絶対的ではないし、学習者それぞれが納得してくれることを期待しているのでもない。私の体の用法に対する考えも(多分いい意味で)変わってゆくだろう。ロシア人との会話という実践の場では話すのは、特定の文脈におけるその学習者個人なのだから、その時々の文脈における自分に合う用法上の目印というのを自得せざるを得ないのであり、このコーナーがその参考になることを願っている。もし体の運用について何かいいアイデアが浮かんだらこの場でなくともどこかで発表してもらえれば、それは私にとっても後進の人達に取っても本当に有益なことになるに違いない。それがたたき台と書いた理由でもある。
体の用法以外にも、会話における和文露訳は意識して日本語からロシア語への語彙を会得しないとできるようにはならない。ロシア語の語彙の意味が日本語ですぐ分かると言っても、単語や語句が1対1で対応していればの話で、類語語の存在を忘れている。だから会話における和文露訳はそういう方面で十分な経験がないと教えられるはずがないと思う。
設問)「彼には欠点も多いが、長所はそれに勝る」をロシア語にせよ。

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2011年09月21日

●和文解釈入門 第124回

露文解釈なら体の用法を十分理解していなくても、何となく意味は分かるし、直接お金を貰うわけでもないからそれでいいが、露文和訳となるとプロだということもあり、体の用法をきちんと理解していないと、文のニュアンス(文体の差とか、方言であるとか、非標準的用法をわざと使っているなどの)が十分に汲み取れない。それにロシア語の特に会話の部分は自分である程度長い期間ロシア人と接して日常的に使っていなければ、体の用法や類語の使い分けの違いを感覚的に会得できない。しかし子供ではないから感覚的だけで100%正しく体の用法を使いこなせる自信があるならいいが、普通は理論的裏付けが大人には必要である。そうでないと応用が利かない。ましてやロシア語で分からないことがあっても自分で調べようとせず、安易に何でも最後にはロシア人に頼ろうという姿勢ではいつまでたってもロシア語は上達しない。体の用法や類語の用法の違いなど露露辞典や参考書を使って自分で調べ、理解して納得するという努力が不可欠である。
ロシア語で発想できるようにすることがロシア語上達の道だと考えている人がいるが、そうではない。二十歳すぎくらいからロシア語をやってバイリンガルにはなれないと思う。どうしても母語の日本語との兼ね合いと言う事を考えざるを得ないからだ。ロシア語で話す場合、比較的短いフレーズならちょっと慣れればロシア語がすぐ出てくるが、長いものとなるとどうしても日本語からの翻訳となる。だから日本語が母語として確立しているという事を長所と考えて、常に日本語とロシア語を対比して、どちらからでも日露双方の語彙が出て来るように訓練すべきだ。これはロシア人にはできない芸当だろう。
прекрасныйはочень хороший, очень красивыйと言う意味なので、оченьと一緒には用いない。使える程度を示す副詞はпростоとか、後は絶対的な尺度を示すнесомненно, безусловноなどである。очень, весьмаは比較級とは用いず、比較級で程度を高める副詞を使うとすれば、намного, гораздоだということを知っている人は多いはずだ。намного (гораздо) лучше (хуже)となる。медикаментыは複数だけの名詞で、訳はその通り医薬品である。つまり薬を硬く言った表現で、лекарствоと同義であり、同じ単語を繰り返したくないときに使える。средствоも薬だが、この単語は手段という意味もあり、多義なので薬というときにはлекарствоのほうが多く使われる。それと他にпрепаратという言葉は製剤という意味で、調合された薬剤(つまり漢方薬などは入らない)、таблетированные препараты(錠剤)などのような使われ方をする。
設問)「二つのうちからましな方を選ばないと」をロシア語にせよ。

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2011年09月22日

●和文解釈入門 第125回

少しでも自分の日本語の文章をよくしようと、そのヒントをもらうため「文章作法」の類の本をこの1年ほど読んでいる。三島由紀夫の「文章読本」の中に、別に我々読者に勧めているわけではないが、三島自身が文章を書くときには、「二、三行ごとに同じ言葉が出ないように注意しています」とか、「文章のリズムを自由に変えるため、過去形の続く文に適度の現在形の挿入は必要である、過去形の多いところをいくつかの現在形に直すことがある」など、三島の文章に対するプロ意識がうかがわれて興味深い。前者は病気と書いたら、次はやまいと書くと具体例まで挙げている。これなどロシア語ではその通りであるし、後者も私の年来の疑問である「ロシア語の歴史的現在の用法をそのまま日本語の歴史的現在で訳していいのか」に対する部分的な答えとも言える。谷崎潤一郎も英語の歴史的現在について触れており、北原白秋も意識して歴史的現在を用いたことは前に触れた。文章作法の類を書いた人は多いので、歴史的現在という観点からそれらをこれから読んでこの疑問に関する何かのヒントを得たいと考えている次第である。
若いころはロシア人にロシア語を直してもらうと、心から感謝してすぐ使ってみたものだが、いろいろなロシア人がいろいろな説明をしてくれるような場合に多々遭遇すると、どれが正しいのか分からなくなる。どれも正しいのかもしれないし、文体(俗語とか口語とかの)の違いもあるのかもしれない。日本人だからあらゆる状況ですべてまともな日本語を使えるわけではないし、文法的な説明ができるものではないと同じ事がロシア人にも当てはまる。技術用語ならその分野の用語辞典、一般的な日本語の語彙なら国語学者の書いた本や辞書が規範であるのと同様、ロシア語なら文法関係のロシア語学者の書いた参考書に拠ることにした。前に書いた磯谷孝先生、城田俊先生、原求作先生、中沢敦夫先生、宇多文雄先生他の著作は言うまでもなく、В.В. Виноградов, Д.Э. Розенталь, Л.С. Муравьева, М.В. Всеволодова, О.П. Рассудова, С.Н. Мерзен, С.Л. Пятецкая, Н.А. Лобанова, Э.И. Амиантова, А.В. Бондарко, Ю.Д. Апресян, Е.В. Паудчева先生他の著作が私にとって文法の規範ということになる。だから普通のロシア人の言っていることがおかしいと思えば、これら先生方の本を見て判断することにしている。
設問)「この機械は前後左右上下に動く」をロシア語にせよ。

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2011年09月23日

●和文解釈入門 第126回

ロシア語の文法には二つある。日本語に似ているところとそうでないものである。ロシア語と日本語は系統が全く違う言語だが、同じ人間が話す言葉故、少ないとはいえ、日本語と似たもの、例えば、他動詞の用法や、完了体の存続の用法などがロシア語の文法にも見られる。だから文法を勉強するときには日本語にはまったくない名詞や形容詞などの格変化(曲用)とか動詞の活用、体の用法など、理解しにくいものに的をにしぼって徹底的に勉強するのが上達へのコツである。
設問)「もうタバコは喫わないと約束します」をロシア語にせよ。

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2011年09月24日

●和文解釈入門 第127回

ロシア語を上達するコツは多くの分野のロシア語の文章を多読すべきだが、たまには基本的な語彙の意味を、露露辞典やシノニム辞典でその細かいニュアンスを確認することである。露和辞典の見出し語、特に基本語は多くの文脈で使えるよう共通する要素を抽出して訳出していると思われる。ロシア語と日本語はまったく違う言語だし、文化も異なるため文脈によっては露和辞典の訳がぴったり合う事の方が少ない。それゆえ具体的な会話でよく出て来るもので、その訳がピンとこないものについては、露露辞典やシノニム辞典で、用法やその細かいニュアンスを確認する必要がある。さもないと基本的な単語でミスをすることになりかねない。
「ピックアップ」はレコードならзвукоснимательだが、車の方ならпикапとなる。
設問)「勘弁したいのは山々ですが、いたしかねます」をロシア語にせよ。

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2011年09月25日

●和文解釈入門 第128回

類義語のニュアンスの違いというのは、主唱者という意味でинициаторはニュートラルだが、зачинщикは悪いニュアンス(首謀者)となり、застрельщикはよいニュアンス(提唱者、発起人)となる。よく知られている動詞датьは「与える」という意味ではニュートラルだが、всучитьは悪いニュアンスで、賄賂などを「つかます」という感じであり、вручитьはややプラスのイメージで賞状などを「手渡す」という意味で使われる。「蛇行する」はзмеитьсяだが、蛇行が上から見て8の字を描くように見えるほど大きく蛇行する場合はпетлятьを用い、В этом месте река петляет.(この場所で川は大きく蛇行している)となる。гололёдとголодедицаは口語では凍結した路面(アイスバーン)を指すが、ロシアの気候予報士метеорологиは前者を電線や木の枝の凍結したものであり、後者のみが凍結した路面だと言っている。
設問)「彼は(今から)3日前についた」と「彼はその3日前に着いた」をそれぞれロシア語にせよ。

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2011年09月26日

●和文解釈入門 第129回

丸谷才一の「文章読本」の中に、「日本語はほとんど述語動詞がおしまいにゆく」、「たった、あった、行ったという文章の終わりが皆そろうのが直訳風の文章の欠点」であり、これの対処法として、「たとえば、過去の事を述べる場合にもところどころ現在形をまぜるのはすこぶる有効な手だろう。日本語には元々欧文ふうの厳密な意味での時制の習慣はないのだから、これで一向差支えない(場合が多い)し、情景はむしろいっそう鮮明にさえなるかもしれない」、「日本語には論理性が不足しているので、近代西欧語のうち何か一つを一応勉強すること」とある。日本語が時制や論理性を欠く言語だとは思わないし、そうだというのであればそれはそういう日本語の話し手や書き手の問題であると思うが、「文章のリズムを自由に変えるために過去形の続く文に適度の現在形の挿入は必要である」と三島由紀夫と同じことを言っているのは参考になる。日本語では過去時制において文の調子を整えるために「~した」と言う文末を続けずに、「~である」というような現在時制をはさんだ方が文章としては耳に響きがよいということである。つまりロシア語で過去の時制だから、日本語でも自動的に過去時制に訳すというのは悪文になる可能性があるわけで、文の調子も考える必要があるということだろう。日本語の時制はある程度は文脈で分かるものだからであろうから、それに屋上屋を架すのはくどいというのもあるのかもしれない。翻訳の上で何か一つ参考になったような気がする。逆に言えばロシア語の歴史的現在をそのまま日本語の現在で訳す必要はないわけで、文脈で生き生きとした感じが出せれば過去の時制で訳してもよいという事で、日本語として不自然かどうかが重要だということになる。丸谷はさらに続けて「である」づくめも止め、「〔なのに〕、〔だけれど〕、〔~のだから〕を活用すべきであり、体言止、文語体、口語的口調の混用だって効果があるかもしれない」と言っている。同じ観点からであろう。
今読んでいる木村毅の「小説研究十六講」(恒文社、1980年)は松本清張が小説家を志すに当たって重宝したというものだが、その中に偶然中村白葉による罪と罰の翻訳が人物・性格・心理の例として1ページほど挙げられていた。試しに12行ある文の文末を見てみると、「~た」ばかりである。確かにこれでは機関銃のようで芸がない。露文は過去時制なのだろうが、完了形も不完了形も、быть動詞もあるようなのだからおかしいように思う。山本夏彦が「本来、血沸き肉踊る大河ドラマであるはずのロシアの大作を、無味乾燥で晦渋な文章にしたのは岩波お抱えの米川正夫以下の翻訳者が「文法的に正しくありたいあまり、日本語のリズムを失ったからだ」と批判しているのも分かるような気がする。この山本がロシア語を知っているというのではなく、多分文末の調子などから判断したものだろう。私はロシアソ連文学の翻訳は読むつもりはないが、みなさんがお読みなるときや露文和訳するときに心の隅に留めておいてもいいかもしれない。
設問)「立ち話も何ですから、おかけ下さい」をロシア語にせよ。

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2011年09月27日

●和文解釈入門 第130回

受験英語で時制の一致を学ぶと自然とロシア語でもそうなのではないかと、中級者でも露文和訳のときに思う人もいよう。この点ロシア語は日本語と同じく時制の一致はない。例えば、Они ждали, когда перестанет дождь.(彼らは雨がやむのを待っていた)となる。когдаの代わりにпокаを入れても意味は変わらない。「~するまで」はпока ...не(完了体の動詞)と覚えている人もいるかもしれないが、主節にждатьやпройтиという動詞のある場合はнеをつけないのが普通である。
ロシア語を勉強していると、だんだん受け身の勉強(~をやれと言われる勉強)から自主的な勉強に移ってくる。そのときに参考書に答えがないような、あまりにも初歩的過ぎるようで聞くのがためらわれるような何らかの疑問が湧いてくるはずだ。もし湧いてこないというのであれば、そういう人は語学に向いていないと思う。なんらかの疑問があれば、頭のどこかで常に考えているわけで、あるとき答えが分かった時にAHA (Ага!)という瞬間を体験できる。こういう瞬間を多く経験すればロシア語を続ける刺激にもなるし、体の用法だってマスターできるようになる。
設問)「被害者は赤で横断した」をロシア語にせよ。

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2011年09月28日

●和文解釈入門 第131回

степеньはв/доと一緒になると、機能的副詞句とでも言えるような、形容詞の程度を示す副詞句になる。в достатоной степени (= достаточно), в значительно степен (= значительно), до (в) изветсной (некоторой) степени(ある程度)。他に、このような働きをするものに「~образом」がある。паллиативными образом(一時しのぎに), коренным образом(根本的に、徹底的に)などである。またмераもпо крайней мере(少なくとも)などと使える。формаにも似たような働きがある。в связном и последовательной форме(理路整然と一貫して)、в косвенной форме(間接的に、間接的な形で)など。最近はключを副詞句のようにしたものも見かける。в юмористическом ключе(ユーモラスに)などである。манерもそうだが、これは主語にはならず、на западный манер(西洋風に)とかна манер русских песен(ロシアの歌風に)の形を取る。по манеру + 生格は古い形であり、またкаким манером, таким манеромと造格になるのはこの二つぐらいで、古い用法としてはживым манером(手早く)があるくらいである。一方、似た語にманераがあるが、これは主語となり、後に不完了体不定形を従えて、манера говорить(話ぶり)とするか、複数形で使われることが多い。またманераはнабойная доскаのことで布や紙に模様を写す型染め用のステンシルである。一般的にステンシルというのは型板、型紙を指し、трафаретとшаблонはこの意味では同義語である。
設問)「実験はうまくゆくと考えてもらって結構です」をロシア語にせよ。

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2011年09月29日

●和文解釈入門 第132回

プロはこのコーナーの設問を見て1~2秒で答えか、少なくとも使う構文が頭に浮かぶはずである。語彙が頭に浮かばなければ、説明で切り抜けるしかない。そういう場合5分とか1時間後に最適な訳が頭に浮かぶことがあるが、通訳するにはもう手遅れである。だからプロを目指す人はこの短文の答えが瞬間に頭に浮かぶよう訓練した方がよい。ビジネスの場面で日本人の話す日本語は長いものが多く、結論がすぐには分からないことが多い。それで通訳の現場ではその長文を短く切って、短文にするために、メモや頭ごなし訳などの自分なりの工夫をすることになる。そういう意味でこのコーナーの設問は実践的と言える。
記事はстатья(学術論文という意味もある)だが、これは社説などの記事で、スポーツ記事はспортивная хроникаとなる。хроникаというのは雑誌、新聞などの日常的な短い記事や、テレビやラジオの短いニュースを指す。ヘルメットは工場や工事現場、警察官、現代の軍隊のはкаскаで、兜や昔の軍隊のヘルメットはшлемである。ではバイクのヘルメットはというとмотошлем (мотоциклетный шлем)といい、アメフトなどのはзащитный шлемという。очевидецもсвидетель「証人・目撃者」という意味では同義語だが、前者の方がより重要な事件の証人という意味合いを持つ。пощёчинаとоплеухаは同義語で「ビンタ」(平手で頬を打つこと)という意味だが、оплеухаは強く激しいビンタである。
設問)「何を根拠にあの会社があきらめると思っているのですか?」ロシア語にせよ。

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2011年09月30日

●和文解釈入門 第133回

設問を作るときは、ロシア語か日本語かは別にして、動詞句が浮かび、それを訳してみる。それが自分の和露の語彙集(すでに75,000項目を越えた)にあれば、その文例を使う。なければ使わず、別のを考える。私の語彙集の文例はソ連ロシア文学(エッセー、歴史、記録文学など)や通訳の現場でロシア人から聞いたものなどからこの40年間に拾ったものである。だからこのコーナーの設問に対する私の回答は、自分の想像で作ったものではないので正しいと自信を持って言える。投稿される回答に対する私のコメントは、正答、意味は分かる、間違いの三つに分けている。意味は分かるというのは、文脈によってはとか、ロシア人はこうは言わないだろうし、自分もこういうロシア語は使わないが文法的には正しいものという意味である。日本語で言えば、「私には子供がいる」と「私は子供を持っている」というような感じか。間違いというのは語法的(文法的ないしは語結合の)誤りで、分かる範囲で間違いを指摘している。すべて私の判断ではあるが、この指摘がおかしいと思うときは、遠慮なく連絡願いたい。私の指摘が間違っていれば、当然その旨訂正して、お詫びする。
可能性や能力というのはмочьやуметьを使わなくても表現できる。「ロシア語が話せますか?」をВы можете говорить по-русски?やВы умеете говорить по-русски?とする必要はない。Вы говорите по-русски?が普通である。このように不完了体を用いて表現できる。「彼は全部で500 kg持ち上げられる」もОн поднимает в сумме 500 кг.となる。これに完了体未来形を用いることもでき、Он поднимет в сумме 500 кг.となる。和訳は変わらないが、ニュアンスの違いは不完了体の方は彼が500 kg挙げた事があるという知識に裏付けされているが、完了体の方はその日彼の姿を見た印象で大丈夫挙げられるなという感じであり、例示的用法と呼ばれるものである。
設問)「彼は見かけほど単純ではないという気がしてきた」をロシア語にせよ。

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2011年10月01日

●和文解釈入門 第134回

日本人でロシア語の体の用法を間違わない人がいたとしたら、幼少時代をロシアで暮らしたバイリンガルだけであろう。早くても二十歳前後からロシア語を始めた人で、理詰めで説明できないが、感覚的に体の用法を80%ぐらいは正しく言えるという人はたまにいるだろう。こういう人は残りの20%がこのコーナーの例文のどれなのか分かれば、それを読んでそこだけ理詰めに理解すればほぼ100%間違えなくなる。また100%間違うという人はいないだろうが、いたとしたら、それはそれで、逆の発想をすれば100%正解となるわけだから簡単である。普通は50%、50%で、山をかけると外れるという最悪のパターンである。こういう人は第100回の表を読めば、少しは当たる確率が上がるかもしれない。この表もほぼ毎日手を入れてあるので、100回当時とは違ってきている。
酒を相手に注ぐ時や、車をバックさせるときなど、そのくらいでいいです〔OK〕と返事する場合があるが、これにはдостаточноという意味で、口語ではХорош.を使う。口語辞典では力点は後ろのoでも、前のoでも正しいことになっているが、個人的には後ろの方をよく聞くような気がする。
設問)「今もあなたは間違っているという考えに変わりはありません」をロシア語にせよ。

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2011年10月02日

●和文解釈入門 第135回

 ロシア語の会話がうまくなるには、ある程度ロシア語の作文をせざるを得ない場に身を置くことが大切である。それも自分の不得意な分野のものをやっておけばあとで話題が広がるし、如いては通訳やガイドの勉強にもなる。問題は露訳の種はその辺にごろごろ転がってはいるが、できた露文が正しいか、正しくないならどこがおかしいのが徹底的に見てもらわないとうまくはならない。作った露文に対して正解を示してもらうだけでは、あまり意味はないのである。和文露訳の答えが一つということはあまりない。作った露文がロシア語でそう言わないにしろ、どこを直せば通じるようになるのか、文法の誤りなのか、語結合がおかしいのかなど具体的に指摘してもらう必要がある。学習者がその点を自覚しさえすれば質問もより具体的となって、それが自身のロシア語能力のさらなる向上となって現れるのである。このコーナーの設問も、できるだけ通訳やガイドの現場でよく使われる表現を、それもできるだけ応用できるものを出題しているつもりである。こういう機会を利用してもらうに越したことはないが、匿名とはいえ投稿するには勇気がいるのかもしれない。それであれば回答例と解説だけでもいつか役に立つ事を願っている。
完了体は新規の事柄を示すために、その動詞本来の意味のほかにいろいろなニュアンスがつきやすい。不完了体はといえば、刺身のつまのようではあるが、動詞本来の意味が端然としてある。ここのところが体の使い分けの勘どころだと思っている。
設問)「なかったことにしましょう」をロシア語にせよ。

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2011年10月03日

●和文解釈入門 第136回

類義語の使い分けの勉強には露露辞典を引くのがよい。そのためにはロシア語の語義説明を理解できるという事が前提となる。国語辞典と同様露露辞典の語義解説のロシア語は基本的なロシア語で書かれているから、初級者はこのロシア語を読めるように勉強すれば、露文解釈の基礎の勉強となる。つまり読んで分かる(聞いて分かる)語彙пассивный запас словがつけばしめたものである。
 斜面で一般的な言葉はсклонで、山や丘の斜面。скатとсклонは同義語だが、скатは屋根にも使える。откосもсклонと同義語だが、道路の傾斜という意味もある。отлогостиは緩やかな斜面を指す。косогорは山、丘、谷の斜面である。
「人に~というレッテルを貼る」というのは慣用句でприклеить (прикрепить, навесить) ярлык + 与格(人)とするが、レッテルそのものはэтикеткаであり、薬の瓶などに貼ってあるものは(аптечная) сигнатуркаという。座席もсидениеが普通だが、宇宙船のシートはложементという。
設問)「彼は自転車を引いて歩いている」をロシア語にせよ。

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2011年10月04日

●和文解釈入門 第137回

鐘には捕虜の鐘пленные колокола、流刑の鐘ссыльные колоколаというのがあるが、失寵の鐘лыковые (опальные) колоколаというのもある。лыкоは菩提樹などの靭皮(内側の丈夫な皮)をいい、一揆の知らせなどを告げたという理由で鐘に恨みをもったツァーリが、(罪もない)鐘を打ち砕き、その後лыкоで縛りあげ、追放した鐘を言う。有名なのはドミートリー王子の暗殺を鐘が告げたことで怒ったボリース・ゴドゥノーフБорис Годунов(1552?~1605)の例がある。この事件は後に偽ドミートリー1世、2世、偽ピョートルなど100人余りの僭称者を生み、ロシア大乱の原因の一つとなった。飛行機や戦車を記念碑にする国だから、鐘がそのツァーリの願いを叶えなかったりしたら、鐘もそういう運命を辿ったのであろう。こういう鐘の流刑はさすがに18世紀の初めには見られなくなった。
すね(はぎ)というのは膝からくるぶしのところまでを指すが、それに近いロシア語のголень(голяшкаは口語)はчасть ноги от колена до ступни(膝から足まで)で、ступняというのは「くるぶしから下の足や足の裏」だから少し違う。
設問)「注文はお決まりですか?」をロシア語にせよ。

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2011年10月05日

●和文解釈入門 第138回

チンプンカンプンはВсё то, о чём в докладах сказано, для нас - китайская грамота.(報告書の中で言われたことはすべて我が国にとってチンプンカンプンだ)とか、Мамы не понимают в географии.(お母さん方は地理はチンプンカンプンだ)、Они ничего знать не знают и ведеть не ведают.(彼らは何も知らない → 彼らにとってはチンプンカンプンだ)と言える。言い回しとしては、тарабарская грамота (= китайская грамота), тарабарщина, дремучий (тёмный) лес что, ни бэ ни мэ, не иметь понятия о чём, ни бум-бум, волапюк(人工語の一つ)だが、専門用語や術語がチンプンカンプンだというときにはптичий языкを使うのが普通である。
設問)レストランなどで使われる「ローストビーフは終わりました」をロシア語にせよ。

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2011年10月06日

●和文解釈入門 第139回

とても清潔好きな人にハウスダストのアレルギーがあって、発症の原因はこの人がクーラーも掃除をしないとクーラー自体が埃をばらまいているということをテレビで知り、掃除を始めたところ、運悪く積もり積もった埃が頭の上に落ちてきてからだという事をテレビの番組で知った。それほど劇的ではないが、私にもハウスダストのアレルギーはある。たまに市販の薬を飲むくらいだから大したことはないが、この発症の原因については思い当たることがある。多分40年ぐらい前だろうかチェーホフとドストエーフスキーの全集などのソ連の本ををナウカ経由買いだした。当時1冊4000円くらいした。給料が12万円ぐらいの4000円だから決心が大変だったろうと思うかもしれないが、当時は独身だし他に趣味もなかったのであっけらかんとしたものだった。みな立派なハードカバーの本だが、梅雨を過ぎてからある欠点に気がついた。必要もないのだろう、カビ除け処理をしていないのである。そのためカビの綿毛というのか羽毛というのかにおおわれてしまった。ティッシュでふくと緑色である。青カビだったらペニシリンの原料になるのかもなと思ったりもしたが気持ちが悪いので、当時市販のカビ防止剤というの噴霧したりしたがまったく効き目はない。そのうち何年か経ってカビにとっても栄養がなくなったのかカビは生えなくなった。今の私のカビ対策は、上の棚の本にはほこり除けと湿気取りのために古新聞紙を載せ、半年にいっぺんくらい取り替えるぐらいであるが、効果のほどは気休め程度である。だから古い本を読むときは外に出て外側の埃を拭き取ってから、何回か本をバンバンと開けたり閉じたりする。面倒でいちいちマスクなどしないからだいぶ埃を浴びているのだろう。カビを好物にするものにダニがある。この糞とダニの死がいがハウスダストの主原因であるため、これがアレルギーの発症の原因だろうと思う。家にロシア語の本は辞書も含めて1700冊くらいある。その7割は20年前に安い時に(1冊100円くらい)でモスクワなどの古本屋で買ったものである。虫干しすればよいのだろうが、する気も起きない。
つい最近もその40年前に買ったドストエーフスキーの第4巻「死の家の記録」を、これは20年前に呼んだが中身をすっかり忘れてしまっていたのに気づき、ロシアのヤクザや囚人を調べる必要があって読み返した。間の悪い時に、同じような本はまとめて読もうと思って、ソルジェニーツィンの「収容所列島」も読み出した。これは大昔に邦訳で読んだが、これもロシア語で読んだことはないので、30年くらい前に買ってあったのを思い出して読み出したのである。無論2冊とも外で十分はたいてから読みだしたのだが、いまだに鼻がムズムズする。薬は飲みたくないのだが、1年前に期限切れの鼻水止めを飲んだ。普段薬を飲まないのでよく利く。ドストエーフスキーが特に良くない。しかし昔と違って辞書もそろっていることもあってソルジェニーツィンを読むのにも特に難儀はしないが、くしゃみと鼻水が困る。
設問)「家族を取るか、愛人を取るか、どっちを取るかを選べ」をロシア語にせよ。

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2011年10月07日

●和文解釈入門 第140回

このコーナーでは「ロシア人ならこういうであろう」と思われるものを私個人の見解として正解とし、それ以外を「文法的には正しいがロシア人はまずこうは言わないと思われるもの」、「語結合などところどころおかしいが意味は通じると思われるもの」に分けている。ただ文法的、語結合、文体がおかしいものは分かる範囲でその都度指摘するようにしている。試験をしているわけではないのだからそれだって正解の可能性はあるし、現実にロシア人との会話では切羽詰まれば私も使うかもしれないなと思うときもある。設問は短文であるとはいえ、正解が一つというのはよほど単純な文以外あり得ないので、ここでできるだけ多くの回答例を参考にして、自分の語彙を増やすチャンスととらえてくれればよいと思う。ロシア人のように話せることを目標にする人もいるかもしれないが、ロシア語を国際語(一応国連共通語であるから)と考えれば、日本人的ロシア語があってもよいし、意味が明確に伝わるなら、そのほうをロシア人が喜んでくれるかもしれない。文法的に正しく、語結合も気をつけていても、発想がロシア人と違うし、逆にそれがプラスである、つまり話を聞くロシア人のほうでも新鮮な日本人的発想を知ることになるからプラスであると考えればよいと思う。日本的な文化をロシア人の発想で説明したら、それはそれでいいのかもしれないが、そういうことを普通のロシア人が期待しているわけではないはずだ。
設問)「母は娘がアイロンをつけっぱなしにしたのでガミガミ叱った」をロシア語にせよ。

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2011年10月08日

●和文解釈入門 第141回

NHKのロシア語テキストや各社のロシア語参考書の練習問題を見ると正解が一つであるかのような錯覚を抱く。正解のバリエーションは無限とは言わなくともいくつかは(少なくとも二つや三つは)ありうる。正解が一つなのは紙面や文脈の関係でそうなるのであって、考えられるいろいろな回答のうちどれが文法的語法的に正しくて、どれが明らかに間違っているか指摘してもらえれば初級者は随分やる気も出ようし、会話にも取り入れられると思う。それが本コーナーを実験的に立ち上げた理由の一つでもある。
設問)「セメントや板も、変なところに置いたものはすべて盗まれる」をロシア語にせよ。

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2011年10月09日

●和文解釈入門 第142回

- Берёте?
- Беру.
という会話は市場や店でよく聞く。брать = приобретать за деньги, покупатьは口語で「買う」という意味だが、これは説明されなくとも雰囲気で分かる。しかし、語義はともかく、不完了体現在形なのだから、「取っている、買っている」ならともかく、どうして「買います(か)」という未来(ほんの少し先の未来とはいえ)を示すことが出来るのだろうという疑問がすぐにではなくともいつか浮かべばロシア語がものになる可能性がある。この動詞が特殊なのか、はたまた他の不完了体の動詞でも現在形ならこういう予定の意味で使えるのだろうか?この動詞については、自分もこの言い回しを店やで使えるが、暗記して終わりという人が多いだろうと思う。さらにВозьмёте? Возьму.と完了体を使ったらいけないのだろうかなど疑問は増すばかりだが、自然に答えが出てくることはない。親切なロシア人が答えを教えてくれるかもしれないが、本当にそうなのかは誰にもわからない。これはбратьなどの動詞は不完了体現在形で確実な予定を示すことが出来るからである。詳しくは第100回参照。このように文法を勉強すると言うのは語彙を増やす能率を高めるのに役立つし、応用が利く場合が多い。文法(特に体の用法)をやるというのは、決して回り道ではなく、大いなる近道なのである。
ついでに質問があったのでберитеとвозьмитеの違いについて書いておく。お店などではберитеを耳にする事が多いと思う。これは、買い物をするときに買い物客がものを手に取るか、品物に目をやったときに、売り手(売り子)が、Берите!(買ってください)と声をかけるわけである。これは売り手の意識の中に、関心があるからお客がその店に入るわけで、それなら買ってくれるのは当然という気持ちがあるから着手の意味が出てくるわけである。ところがВозьмите!というのは、家族からとか、売り手の方から買ってと提案する場合に聞かれる。これは売り手から買い手に対する新たな提案であり、買い手が買おうという気持ちがあるかどうかということとは関係ないものである。例えば絵葉書を買おうと、絵葉書の飾ってある店に入ったのに、人形をどうぞとい売り子から勧められるような場合である。市場Рынокに行けば、Берём! Берём!という言葉をよく聞くが、これは人称の転用で、買い物客の気持ちになりきるのと同時に、売り手として買ってもらって当然という気持ちが出て、「買おうよ、買おうよ(日本語では買った、買ったと一見時制の転用のような言い方をするが)」と言っているわけである。このような場合完了体でВозьмём!というのを聞いたことはない。市場に来た以上買い物客はものを買うものだという意識が売り手にあるからである。ここのところを完全にマスターすれば、不定法でも応用できるし、不完了体というのがその場の雰囲気に逆らわない(無標の)用法だということが体感できるはずである。またбериの訳については、「持ってけ(ぇ)」の方がより意味が近いと個人的には思う。客がねぎっていると、売り手が最終的な値段を言って、「持ってけ、泥棒」というのを日本の魚市場などでも聞くことがあるが、それに近いと考える。
設問)「彼女は未婚だが彼氏はいる」をロシア語にせよ。

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2011年10月10日

●和文解釈入門 第143回

ロシア語には「いただきます」に当たる表現はないが、ロシア人に説明する場合どうなるだろう?これは私ならЯ буду есть.とする。逆に日本語にはПриятного аппетита!(強いて訳せば「おいしそうですね」とか、食事をしている友人への別れの挨拶なら「お先に」だろう)にあたる表現はない。生格が来ているのは次にжелаю/желаемという生格を取る動詞(一般にロシア語の動詞には願望には生格が来ることが多い)が省略されていると考えられるため。この表現はフランス語由来 bon appetit(お腹一杯召し上がれ)であろう。желатьは本来は補語が抽象的なものが主体なので生格を取るが、具体的なものについては対格を取る場合もある。これは生格というものに抽象的なものを、対格が具体的なものをというロシア語の動詞(欲求を意味するпроситьなど)の本来の使い方から来ている。またжелатьは最近хотетьの代わりに使われるようになってきているが、これはソ連崩壊後、接客(サービス)に対する意識の変化もあるのかもしれない。動詞 (просить) のように、これが廃れてきているものもある。
 否定生格というと、なんでも他動詞を否定すれば生格となると考えるのは間違いである。基本は抽象的なものは否定形において生格が、具体的なものは対格が来る。現実的には具体的なものでも生格が来る場合が多いが、Я не люблю её жену.(彼の奥さんを私は好きではない)はженыとはならない。
出世主義者はкарьеристだが、他にМолчалинやФамусовも意味が似ている。ともにГрибоедовのГоре от умаの登場人物だが、使うニュアンスはかなり違う。Молчалинの信条はУмеренность и аккуратность(ほどほどと几帳面)であり、上司の前ではへつらい、謙虚である。余計なことは口にしない慎重さを持っている。一方Фамусовは上にはへつらい、部下にはふんぞり返るという、あまり昇進が望めそうもない小役人タイプである。
設問)「諸君が任務を遂行したという報告を直に受けるために明日同じころに来る」をロシア語にせよ。

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2011年10月11日

●和文解釈入門 第144回

首はшеяで、чрезвычайно полный, почти совсем без шеи(とてつもなく太っていて、ほとんどまったく首がない〔猪首である〕)と使うが、「お前の首に高値がついている」という場合はТвоя голова в цене.であり、首狩り族もохотники за головамиとなる。ただ食器や瓶の首はгорлышкоという。「ホバリングする」や「静止飛行をする」はвисетьだけで、Вертолёт висит на одном месте минут пять.(ヘリコプターは5分ほど同じところで静止飛行をしている)とし、висеть в воздухеの方は比ゆ的に「宙に浮いている」という意味で使う。Многие из этих принципов висели (повисали) в воздухе.(これら原則の多くが宙に浮いていた)となる。
設問)「よそ見していて乗り過ごしてしまいました」をロシア語にせよ。

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2011年10月12日

●和文解釈入門 第145回

体の用法の違いを簡単に述べるならば、一般向けの参考書においては、完了体は新規の事柄(有標性маркированность)について用い、不完了体はそうではない事柄(無標性немаркированность)や、そこから発生する繰り返し(習慣)に用いるとある。しかし通訳やガイドで実際に和文露訳をする場面では、時制によって、また動詞群によって体の使い分けをせざるを得ず、体の使い分けが非常に分かりにくい。自分の経験から言うと、実践面では体の使い分けを、完了体中心ではなく、不完了体を中心に据えてみてはどうだろう。つまり不完了体を線路(レール)の上を走る(止まらない)電車だと考えるのである。電車はレールから外れないことになっているから、真理について不完了体現在形を使うというのも真理という線路の上を走るからだし、繰り返しは、線路の上を往復するからであり、過程(進行形)は今まさに線路の上を走っていることを意味しているということになる。そこから、線路を外れずに行動するのが当たり前という空気を読む、いわば回りの雰囲気に合わせて動作するという着手の意味も出てくる。また線路がある以上、これから先にも線路が敷設されているのだから、そのまま線路の上を走り続けると言う意味で確実な予定という意味も生まれてくる。予定があればそれを守ろうとするわけで、時間厳守という観念から切迫感や線路から外れてはいけないということで義務の観念も派生してくるはずだ。義務の観念があれば、不完了体を否定するときに、義務の否定で、禁止という観念が出てくるのは論理的である。また線路があるという考えを否定するわけだから不要性という考え方も出てくるのではないだろうか。線路だけ(あるいは線路の上の電車だけ)を考えに入れるので、つまり駅などを考えに入れないので、過去の動作は通過した線路のどこか後の方ににある(行われた)わけであり、その場所が具体的にどこか分からないわけだから、それが動作の名指しということになる。
完了体について言えば、線路から脱線するとか、線路を抜きにして動作を考えるということになり、線路がないのだから動作の可能性は広がるわけで、そこから可能性(否定すれば不可能)が出てくるし、可能性というのは「何かあったら~する」ということだから例示的用法となる。線路がないのなら(あるいは駅を想定に入れてよいのなら、立ち止まってよいのなら)、具体的に動作の起こった場所を特定できるわけで、それがアオリストとなる。線路があってもなくても、立ち止まって状況確認したとすればそれが結果の現存につながる。これが今の段階での私の「不完了体線路説(レール説改め)」であり、今後これを発展させることができるかもしれない。ともかく実践的な体の使い分けを考える上で一つのアプローチではないかと思う次第。
設問)「まあ、すみません。お手紙を読むつもりはなかったのです。ついうっかり開けてしまいました」をロシア語にせよ。

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2011年10月13日

●和文解釈入門 第146回

前回で不完了体線路説(レール説改め)を唱えたが、これは過去の出来事を眼前で起こっているかのようにまざまざと描くという歴史的現在にも当てはまる。つまり線路を仮想のものと考えるのである。目には見えるが実体がないというようなものだ。実体がないのだから、用法は一見不完了体ではあるが中身は完了体と同じという事になる。
初学者のためにсмотретьとвидетьの違いを書いておく。前者は「視線を向ける」ということで、対象が見えていることを必ずしも意味しない。一方後者は視線を向けることを意識しないが、対象は目に捉えているという意味である。だから、Глаза смотрят, но не видят.(見れども見えず)とか、И она смотрела на него и не видела.(彼女は彼の方を見ているようで見ていなかった)などは、「視線を向ける」と「見て気がつく」の違いであり、他にもЯ просто глазел, но не видел.(私はただ見てはいましたが、気がつきませんでした)がある。また目に対象をとらえていても本質的な意味では理解していないという意味で、Он очень много видел, но почти ничего не "увидел".(彼はとても多くのものを見ていたが、ほとんど何も見つけることができなかった)というのもある。слушатьとслышатьの違いも同様である。
設問)「どこを怪我なさったのですか?」
「胸と肩と顔です」をロシア語にせよ。

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2011年10月14日

●和文解釈入門 第147回

ロシア文学に興味ある人のためにこれから何を読むべきかについて、「19世紀ロシアの作家と社会」、R. ヒングリー、川端香男里訳、中公文庫、1984年が参考になりそうなので紹介する。本書は1825年から1904年のロシア文学について作家及び社会を扱ったものである。ソ連時代に出版されたものとしてはソ連国内でこのようなものは出版できなかったからというだけでなく出色の出来である。ただソ連崩壊後Энциклопедический словарь росийской жизни и истории(ロシアの生活・歴史百科), Беловинский Л.В., ОЛМА-ПРЕСС, 2003(6000項目)なども出てきているので、ロシアの実社会を知る上でその重要性は薄れてきてはいるが、文学という面に限れば一読の価値はある。本書は1977年版の翻訳である。著者はアレクサンドル2世の治世の時代にロシアソ連文学の精華が生まれたとしており、具体的にはそれは1856年から1880年の期間で、13の長編小説(レフ・トルストイの「戦争と平和」、「アンナ・カレーニナ」、ドストエーフスキーの「罪と罰」、「白痴」、「悪霊」、「カラマーゾフの兄弟」、ゴンチャローフの「オブローモフ」、トゥルゲーネフの「ルージン」、「貴族の巣」、「その前夜」、「父と子」、「煙」、「処女地」)を挙げ、このほかにその前に出たプーシュキンの「エヴゲーニー・オニェーギン」、レールモントフの「現代の英雄」、ゴーゴリの「死せる魂」の3作を挙げている。この後に出たレフ・トルストイの「復活」、ソログープの「小悪魔」、ベールィの「ペテルブルグ」、ショーロホフの「静かなドン」、パステルナークの「ドクトルジバゴ」、ゴーリキーの「フォマー・ゴルジェーエフ」や「アルターモノフ家の事業」、ピーセムスキーの「千人の農奴」、ゴンチャローフの「断崖」、レスコーフの「僧院の人々」、サルトィコーフ・シシェドリーンの「ゴロヴリョーフ家の人々」はいい作品であるにせよ、上の13作に比べればそれほど評価しないという。個人的にはトゥルゲーネフのロシア語は美しく、ロシア語の勉強にはなると思うが、今日的な意味のある作品とすれば、トゥルゲーネフを入れるなら、「ドクトルジバゴ」、「僧院の人々」、「静かなドン」、「小悪魔」を入れた方がよいという気がしないではない。ソ連時代の作家が二人だけとさびしい限りだが、個人的にはプリスターフキンПриставкинの「黄金を帯びた黒雲が一夜を共にしたНочевала тучка золотая」もいい作品だと思う。
 短編ではチェーホフが断然トップであり、戯曲(劇作品と訳している)では、チェーホフとオストローフスキーを挙げ、その他の作家の個々の作品ではグリボイェードフの「知恵の悲しみ」、ゴーゴリの「検察官」、トゥルゲーネフの「村の一月」、レフ・トルストイの「闇の力」、ゴーリキーの「どん底」を挙げている。回想録ではゲルツェンの「過去と思索」、ゴーリキーの「幼年時代」、「人々の中で」、「私の大学」、「回想」、レフ・トルストイの「幼年時代」、「少年時代」、「青年時代」、ドストエーフスキーの「死の家の記録」、アクサーコフの「家族の記録」と「孫バグローフの少年時代」、詩ではネクラーソフの「ロシアは誰に住みよいか」、チュッチェフ、フェート、マイコーフを挙げている。いずれにせよこれからロシア文学を本格的に読もうとする人にとっての一つの指針であることには違いない。
 それといつもひっかかるのは「貴族の巣」дворянское гнездоという題名である。確かに直訳すればそうだろうが、泥棒の巣でもないのだから、いい加減、正しい訳語である「貴族の屋敷」とでもするべきではないか?それと「静かなドン」も、日本語らしい七五調のリズムを考えるなら「静かなるドン」の方が響きがよいと思う。
設問)「取りあえず火曜という事に、でも時間はさらに詰めましょう」をロシア語にせよ。

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2011年10月15日

●和文解釈入門 第148回

いくら長年連れ添った夫婦でも侵してはならぬ領分というのが多々ある。我が山の神は料理であれば、いくらでも侵してもかまわぬと宣(のたま)が、いくらなんでも何十年厳然とその領域は存在するわけで、勝手にお言葉に甘えるわけにはいくまい。口は出すが手は出さずを謙虚に長年守っている(たまに食器は洗う)。誤解のないように言っておくが料理が出来ないわけではない。モスクワへの単身赴任のときでも1週間に1回は米を炊き、小分けにして後は冷凍していた(妻の指示のもと)し、週に2度は味はともかく栄養満点の野菜スープを作ったりしていたから、ジャガイモの皮もむけるし(皮むき器を使うが)、玉ねぎも、人参も切れる。家にいると朝昼は食べるものが決まっているので、家内から毎日かようなお言葉を賜る。
妻「今日ノ夕飯ハドウシマセフ?」
僕「任ス」
妻「任ス任スッテ、何モ考エテナイジャナイノ。(豆腐ノ料理)ハ如何デス?」
僕「ヨキニハカラヘ」
カッコ内は毎日変わる。カヤウニ晩飯ニツイテハ余ハ不完了体ノ人ナリ。
設問)「お待たせして申し訳ありません」
「待ったなんてとんでもありません。私も来たばかりです」をロシア語にせよ。

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2011年10月16日

●和文解釈入門 第149回

「不完了体路線・線路説(レール説改め)」に新たな展開があったので追記する。бытьの未来形 + 不完了体不定形で「~するつもりである」の意味の用法は未来時制における着手と考えればよい。路線や線路を例に使うなら、駅からある路線の電車に乗り、あとは身を任せて目的駅まで行くという事になる。この用法は口語的用法で標準的にはсобираться 他 + 不定形を使う、つまりどの不完了体動詞でも使えるというわけではない。これは駅というのはどこにあるわけではないが、駅に行きさえすれば路線は最低一つはある。完了体未来形で意志を示せる場合があるが、それなどは車を使うようなものだろう。車は道路がなければ走れないという制約はあるというものの、自宅から目的地まで基本的に自由に行けるという点が電車などとは大いに違うから体の用法もこれに似ていると言える。この他にも、この不完了体の用法は電車の後方に線路を見るのではなく、いくつかの既に存在する路線を見て、そのうちの一つに乗り換えると考えてもよい。高村光太郎の詩に「僕の前に道はない。僕の後に道はできる」というのがあるが、新たに線路を敷設するというならそれは完了体の考えで、不完了体においては、路線は路線でもあくまで既存の路線ということになる。
 タイム誌で中国の愛国主義復活についての記事を読んでいたらCCPというのがやたらに出てくる。暑さで頭が朦朧としているのかと思い読み返してみたら、前の方にChinese Communist Party(中国共産党)とあるではないか。СССРの亡霊かとか、C (caresは心配事、苦労の種という意味)一つないだけで随分違うな(経済がうまくいっているな)などと考えてしまった。
 Шила (шило) в мешке не утаишь.という諺を一見すると意味が似ているからといって、直訳して「嚢中の錐」と訳すと誤訳になる。嚢中の錐は才能のある人はたちまち外に現れるということだから意味が違う。この諺は日本語の「隠れたるより現るるはなし」のように悪事露見という意味で使われることが多い。ちなみに嚢中の錐はВидна птица по полёту.とか、Золото и в грязи блестит.となる。「これは序の口」をЭто еще цветочки, а ягодки впереди.と訳しても間違いではないが、ロシア語の諺はもっとひどいことが起こるという意味なので、そういう意味でない時にはЭто ещё преддверие.などと訳し分ける必要がある。諺は取り扱いが難しく、形は似ていても日本語とロシア語では用法が違う事が多々あるので露露辞典や、できればロシア語の諺辞典で意味と用例をチェックしておく必要がある。
 スケジュールはграфикだが、расписаниеは時間と場所、行う事の手順をかいたもので、これをスケジュールと訳してもよいが、時間割、時刻表といったところである。
設問)「何が書いてあるのか分からない」をロシア語にせよ。

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2011年10月17日

●和文解釈入門 第150回

このコーナーのナビゲーション用の体の使い分けの表については第177回を参照ください。
設問)「男には家事の事など分からない」をロシア語にせよ。

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2011年10月18日

●和文解釈入門 第151回

ロシアの宇宙飛行士は案外ゲンをかつぐようである。これは未知の危険に直面せざるを得ない職業として当然のことなのかもしれない。出発前には必ず「砂漠の白い太陽Белое солнце пустыни」という映画を見るのがしきたりになっているという。これは1969年の映画だが、当時最初は内容的にお蔵入りとなった。それで監督のレオーノフは出発前の宇宙飛行士の気分を高揚させようとして、この映画を小数の宇宙飛行士たちに見せたところ評判がよく、その噂はブレジネフのところまで届いた。ブレジネフもこの映画を見て気に入り、全国上映が許されたというものである。一度見た宇宙飛行士の中には2回見るのは嫌だという人もいるのは当然で、あるときこの映画を見なかった宇宙飛行士の出発が取りやめになったことがある。それからは必ず出発前に上映され、宇宙飛行士は何度でも見るという。
 ロケットに乗り込む前、宇宙服を着てから、宇宙飛行士たちはバスでロケットのところまでゆくのだが、その短い時間(5分くらいか)に一度バスから出て、バスの後輪におしっこをかけるという。これをна колесоという。これはガガーリンが始めたことで、彼のロケットには飛行時間が短い(108分)こともあってトイレがなかったからだとも言われている。これがしきたりとなったわけだ。大して面倒なことでなければしきたりを変えないという気持ちは分かる。宇宙飛行士もロケットに乗りこんでから宇宙船のトイレАСУ (ассенизационное устройство)に行けるのは6時間後というから分からないわけでもない。
軌道はорбитаで間違いではないが、これは天体、電子、宇宙船のように何かの回りを回るという前提がある。ところが日本語の軌道には宇宙船のтраектория сближения接近軌道のように空間を移動する点あるいは物体の線という意味もある。これはтраекторияといい、分かりやすい例で言えば弾道もそうであり、この軌跡は空間でなく平面上にある。
設問)「ナースチャは他の誰よりも日本語が出来たし、それほど正確ではないとはいえ、ぶっつけ本番で通訳することが出来た」をロシア語にせよ。

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2011年10月19日

●和文解釈入門 第152回

通訳、翻訳、ガイドといろいろなロシア語の仕事をしてきて、それなりに面白いと思う事はあるが、ロシア語をやって本当によかったと思うのは、生のロシア人といろいろな雑談をするときである。お互いの生い立ちを聞いたり話したり、いろいろな物事に対して意見交換ができるというのは自分の知識の幅を広げることになる。また読書尚友というのは書物を読むことによって、昔の賢人を友とすることであるが、ロシア語の本は一部の文学書を除きほとんど和訳されていないし、古今東西いろいろな考え方を知るチャンスでもある。ロシアの技術は宇宙関係などでアメリカより進んでいるものもあると言えるかもしれない。日本はどうしても欧米に目を向けがちで、バランスを取るためにもロシアに目を向けるのも必要だと思う。特にロシアは国が広く多民族国家であるので、今後の世界を占う上で、ロシアでの民族関係というのは、日本のような単一民族国家で外国人労働者の受け入れとか、外国人との付き合い方など大いに学ぶ余地があると思う。
期待というとнадеждаと思うかもしれないが、これはよいことがあると信じることであり、何かいいことがあるかもしれないとワクワクするような気持предвкушениеではない。ожиданиеにもнадеждаという意味もあるが、ほかに予想という意味もあるので使い方に注意したい。色はцветだが、цветやкраскиは自然の色であり、колерは画家、ペンキ屋の用語、окраскаは動物、鳥、昆虫の色を指す。
設問)「彼は妻に先立たれた」をロシア語にせよ。

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●和文解釈入門 第152回(訂正)

ぼけてきたのか設問に回答を書くというへまをしてしまいました。設問を変えたのでご容赦ください。

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2011年10月20日

●和文解釈入門 第153回

自分の和文露訳の実力がどのくらいか、どの程度までロシア人に通じるかはできるだけ長い文章を書いて、日本語の分かる本のプロ(作家や編集者)であるロシア人に見てもらえばよい。そこで、ユーラシア・ブックレットに「ロシア人と日本観光案内」を書いたが、その中に「ロシア人観光客のよくする質問」というページがありこれを膨らまして、まず日本語で原稿を書き、それをロシア語に直して見た。本コーナーの設問は短文での和文露訳となっているが、実際に通訳する場合には、短文だけというのはほとんどありえないわけで、文と文をつなぐ接続詞などの用法の勉強が必要となる。自分が人にそういう事を教える実力があるかの試金石にもなるという意味で出来上がったのが「ロシア人の疑問」という原稿であるが、諸般の事情のため出版の見通しは立っていない。内容は、(A. 日本の基本情報: 1. 役立つ豆知識 2. 呼びかけ 3. 人口 4. 地理 5. 神話 6. 歴史 7. 日本人の宗教心 8. 神社 9. 宗教 10. 気候 11. 日本語 12. 権力と天皇 13. 地震 14. 台風 15. 軍事力; B. 日常生活: 1. 挨拶 2. 家族 3. 結婚式 4. 葬式 5. 和食 6. 食べ物 7. 酒 8. 漢字 9. 動物 10. 花粉症 11. 交通機関 12. 安全 13. 住宅事情 14. 公共サービス 15. 街路で; C. 旅行: 1. 東京 2. 京都 3. 奈良 4. 日光 5. 富士山 6. 花見 7. 着物 8. 日本のお土産 9. お守り 10. 野外のリクリエーション 11. 禍福 12. 温泉 13. 独特の食材 14. 珍味 15. 風変わりな日本; D. 文化・社会: 1. 縁起と迷信 2. スポーツ 3. 教育 4. 隠れた名所 5. 茶の湯 6. 日本人気質 7. アメリカ人、ロシア人 8. 禅 9. 幸福観 10. 女性の地位 11. 結婚 12. 医療制度 13. 政治 14. 夫婦関係 15. 映画; E. ビジネス・経済: 1. 名刺交換 2. 産業 3. 根回し 4. 稟議 5. ロシアとの経済格差 6. 給与・年金 7. 富豪と乞食 8. 今後の景気 9. 不動産 10. 外国人への応対 11. 労働条件 12. 余暇 13. 日本の外国人 14. 課税率 15. ビジネスの風習)の75項目であり、それに3つぐらいの問いとその答えがあるから、全部で200以上の問答があることになる。いずれもガイドや通訳の現場で実際にロシア人から質問されたものである。
2週間ほど前にウラジオ在住のメル友のヒサムヂーノフХисамтудиновさんから、最近「東京横浜のロシア人」という原稿を仕上げたが、念のため日本の人や建物、地理などの名称なども含めてチェックしてほしいというメールが来た。同氏は極東連邦大学教授、史学博士、元国立極東技術大学日本学・朝鮮学講座主任(профессор Дальневосточного федерального университета, доктор исторических наук, бывший заведующий кафедрой японоведения и корееведения Дальневосточного государственного технического университета)であり、日本語にも堪能で、日本語で文献を読むぐらいの人ではあるが、日本の習慣についてもいろいろ具体的に聞きたいことがあるという。こういう依頼なのでいい機会だと思い引き受けることにして、交換条件としてこの「ロシア人の疑問」のロシア語の部分のチェックをお願いしたところ快諾を得た。
同氏には、本書の目的が日本人による和文露訳の学習用参考書であるため、意味や論旨が明快であるか、文法的に正しいか、語法(特に体の用法)が正しいかを中心に添削してもらい、美しいロシア語であるとか、プロのロシア人作家(同氏もそうだが)の私ならこう書くというふうなロシア語での意訳は不要であることをくれぐれも念を押しておいた。そのためロシア人からみればぎこちのないロシア語かもしれないが、日本語の原文を書いた本人がロシア語にしているため的外れの誤訳はないはずであるし、和文露訳を勉強する日本人学習者にとっても露訳のプロセスが文と文が対応しているので分かりやすいはずだと自負している。
幸い、一番心配していた体の用法は5か所ほどしか朱が入れて(訂正が)なく(ミスタイプなどはいっぱい見つかったし、若干よけいな接続詞は削られたりした)、本にすれば200ページぐらいの小冊子でその半分がロシア語という事を考えれば、日本人としてはいい方かなと思う次第である。原稿を書いたのが1年半前なのでその間に私の体の使い分けについて見る目も長足の進歩を遂げた(!?)ということかもしれない。彼が添削で指摘したのは、1~9までの数字は数字で書かずодин, четыреなど文字で書くという事と、接続詞にはさまれた前置詞は後の方では省略しないということである。例えば и для Артемьева и Синцоваではなく、и для Артемьева и для Синцоваと書けということである。また「2回~する」のдва раза はдваждыと直された。参考のために彼が朱を入れたところを次に示す。このサイトでは朱で表示できないので[]に代えた。最初のはрекомендоватьが完了体・不完了体同形なのでどちらでもいいやと思っていたら直された。完了体のつもりなら、はっきりと完了体で示せということらしい。スペルミスが多いのはお恥ずかしいかぎりである。
問)どんな日本のお土産がお勧めですか? Какие японские сувениры вы рекомендуете купить?
答)私なら招き猫と達磨を勧めます。招き猫にはいろいろあって、右手を挙げているのは金運を招き、左手は万客到来、両手ならどちらもとなります。また黒猫は厄除けです。達磨はインド人の禅宗の創始者で、むっつりとした顔をした赤い像で、目の代わりに白い丸がある。ダルマは福を招きます。ダルマの気を引くために、目を一つ入れ、念願成就のあかつきにはもう一つの目を書き入れます。
Я бы [по]рекомендовал вам купить манящую кошку и дхарму. Эти кошки бывают разные. Одни поднимают [правую лапу], что, говорят, зазывает в дом денежную удачу. А другие – лев[ую], много посетител[е]й. [Если подняты обе лапы, это и к удаче и гостям]. Чёрная манящая кошка – это талисман от несчастья. Дхарма происходит от индийского основателя дзэн-буддизма. А это для нас простая красная статуэтка с хмурым выражением и с белым[и] окружностями вместо глаз. Дхарма приносит сча[с]тье. Чтобы его заинтересовать, на лице Дхарма рисуют сначала один глаз, и лишь после того, как Дхарма исполнит желание, ему подрисовывают второй.
 ちなみに、ヒサムヂーノフさんの原稿に私が朱を入れたところを示す。
На него ответил флагман японского флота броненосец Дзюй-Дзе-кан[Адзума-кан (Стон Уол был переименован в Адзума-кан, а еще существовал Рюдзё-кан)], который не так давно принадлежал американскому флоту южан и носил название «Stone Wall». これは明治の初めに日本の政府が保有していた軍艦についての記述である。彼はこの本の中に私の原稿の日本人気質に関するものを引用して紹介してくれた。私の本が出る見込みがない以上、幻の引用に終わりそうである。ちなみに同氏には、「北海道函館のロシア人――余白のメモРусские в Хакодате, или заметки на полях」(極東大学出版部、2008年、ウラジオストーク)、「ロシア的長崎――稲佐での最後の停泊Русский Нагасаки или последний причал в Инасе」(極東大学出版部、2009年、ウラジオストーク)、「ロシア的日本 Русская Япония」(Вече, 2010, Москва)他の著書があり、日本のロシア人も含めて外国のロシア人が研究テーマのようである。ホームページは、http://khisamutdinov.ru/forum/などであり、ご興味ある方はどうぞ。
設問)「悪い方のじゅうたんの色は何色だったか?」をロシア語にせよ。

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2011年10月21日

●和文解釈入門 第154回

ロシア語の文法では体の用法など日本語の文法と発想が違う、つまり我々日本人にとって理解しにくいものを徹底的に覚えるのが重要である。語彙についても同様で、類語の違いを覚えるのは当然だが、その他の、例えば、動詞でも接頭辞за-のつく動詞群は意味上で9つに分類されるとあるが、その中で直接補語(目的語)に場所を取り、その表面をもの(造格)で占めるという動詞群がある。Мастер замазал щели в окне замазкой.(親方は窓の隙間を塗りつぶした)などとなるから補語の取り方が日本語とはだいぶ違う。同じグループのзаваритьも溶接するという基本的な意味のほかに、溶接で塞ぐ、つまり補修溶接するという意味である。この動詞群にはзабить, забросить, забрызгать, завалить, заварить, завесить, завязать, заклеить, закрасить, закопать, закрыть, залить, замазать, заполнить, заправить, засадить, заселить, засеять, заставить, застроить, засыпать, зашить, заштукатуритьがある。
設問)「これは飛行の115秒に起こる」をロシア語にせよ。

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2011年10月22日

●和文解釈入門 第155回

前々回で紹介したヒサムヂーノフ氏の著書はナウカ、日ソ図書、Ozonで発注可能である。ご興味のある方はどうぞ。
和文露訳をするときには体の用法のほかに類語の使い分けが必要なことは何度か述べた。同じ類語の使い分けと言っても、理由を示す前置詞(句)の使い方を覚えるというのは、今風のゲーム感覚で言うと自分の武器が増えるのと同じである。これまでは名詞とともにその語結合を丸暗記とせざるを得なかったが、それでは芸がない。シノニムの辞典に沿ってその使い分けについて書いて見よう。из + 生格は制御可能な感情や意識的行動を示す名詞と共に使われる。「同情から、思いやりで」という意味でиз сочувствия, из состраданияなどという。一方от + 生格は感情の制御が不可能な名詞が後に来て、жёлтые от никотина пальцы(ニコチンで黄色く染まった指)などという。これはпроисходить от + 生格という由来を示す用法とも関係あるのかもしれない。жалость「憐み」はиз (от) жалостиとどちらでも使えるが、この名詞自身、感情が制御可能とも不可能とも言えないからだろう。これに似ているのがс + 生格だが、一時的にコントロールできなくなるとか衝動的な原因というニュアンスがある。с похмелья(二日酔いで)、с голоду(飢えて)、с непривычки(不慣れなせいで)、с испугу(びっくりして)などである。из-за + 生格は知っている人も多いだろうが、好ましくないこと、想定外のこと、それと目的を示す名詞が来る。Я всю жизнь работал из-за денег.(一生金のために働いた)という場合、このиз-за денег(金のために)というのは金を悪いものと考えているというよりは、この場合目的と理解するのである。по + 与格は動作や状態が内的な原因であるもので、по ошибке(間違って)とかпо случайности(偶然に)とかПо слабости здоровья он не смог служить в армии.(虚弱だったせいで彼は軍隊勤務が出来なかった)がなどである。за + 造格は原因に拒否や欠乏が来る。за ненадобностью(不必要なので)、за неимением лучшего(ましなものがなかったので、もっといいものがなかったので)などである。благодаря + 与格も知っている人が多いと思うが、元の動詞の意味が反映していて肯定的な原因を意味するが、最近のマスコミの記事などを見るとよくない原因にも使われだしているが、外国人である我々が真似をする必要はないと思う。по причине + 生格は特にニュアンスなく一般的な原因に使われるが、ぬらりひょんのような感じでつかまえどころがない。そのため官庁用語でよく見かける。日本人がこれを使って文を作ってロシア人に見せると大概他の前置詞(句)に直される。多分ニュアンスに乏しいから嫌われるのだろう。それとレーマ(テーマとレーマの項参照。新しい情報を示す)に使われるので、それを理解していないと使いこなせないのかもしれない。вследствие + 生格は客観的な原因を示すために、人間の動機には使われない。それと原因が先に来て結果が後に来るという時間的順序を厳守する表現である。в результате + 生格は原因と結果に密接な関係があり、総括的、本質的な原因に用いられる。ввиду + 生格は人間の意思には無関係の非常に重要な決定に関し用いられる。в силу + 生格は不可避というニュアンスがあり、具体的な原因ではなく、徴候などを意味する。
設問)「否定も肯定もせず彼は聞き返した」をロシア語にせよ。

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2011年10月23日

●和文解釈入門 第156回

和文露訳で使える表現の続きで、よく使われる「~のために」という前置詞(句)の類語の使い分けについても類語辞典の解説に添って書いてみる。для + 生格が一般的だが、意識的行動、直接的結果というニュアンスなのでそれを覚えておくとよい。ради + 生格は「他の人のため」というニュアンスが強く、低俗なものには使わず、また直接的なものという感じではない。на + 対格は仕事(работать, работа)と強く結びつき、意識的であり、報酬というニュアンスがある。そのため技術関係でよく見る。за + 対格は「戦う」воевать, сражатьсяやотдать жизнь(命をささげる)という動詞と結びつきやすく、радиと意味が近いが、直接的というニュアンスがある。во имя + 生格はこれもрадиと意味が近いが、自らを犠牲にしてというニュアンスが強く、用いられる対象はグローバルなものであって、во имя будущего поколения (родины)〔未来の世代(祖国)のために〕などであり、総括的なニュアンスがある。そのためво имя человечества(人類のために)の代わりにдляを使うと非常におかしい感じがすることになる。на благо + 生格やво благо + 生格は客観的に利益があるというニュアンスである。さらに加えてво благоは遠い将来の見通しというニュアンスもある。в пользу + 生格は個人(集団、企業、国など)の金銭(物質)的利益のためにというニュアンスで使われる。得られる利益は直接的なもので低俗なものではない。
設問)「彼の設備の(設備を運転する)テクニックはまだまだだ」をロシア語にせよ。

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2011年10月24日

●和文解釈入門 第157回

最近「物言わぬ者たちの言葉(20世紀のロシア農民の日常生活)Речи немых, повседенвная жизнь русского крестьянства в XX веке, Бердинских, ЛоманосовЪ, 2011」という本を読んだ。20世紀初頭からコルホーズ、第二次大戦を生き抜いた農民たちの生活の聞き書きである。食べるものがなくなりツクシпестикиを食べたとか、コルホーズでは給料が支払われず労働日を記入してわずかの現物支給を受けるだけだったとか、国内パスポート(国外パスポートなど論外)も与えられず、移動の自由もなかったことがよく分かる。語り口は非常に平明、且穏やかであり、それだけにその苦難は胸を打つ。この平易な口語の文章はロシア語の初級クラスの読解にはとても良い教材だと思う。Мать работала в колхозе, утором уходила и вечером приходила. Конечно, к матери прибежим когда на поле, поможем.(母はコルホーズで働いた。朝出かけ夜戻ってきた。もちろん(母が)畑にいる時は母のところに駆け寄って、助けたものだ)このような短い文章でも最初には経過、その後繰り返しの意味の不完了体が来て、最後の文は完了体未来形の例示的用法(時制の転用)であり、一見難しそうだが、会話ではよく見られる構文であり、最初に説明を受ければ初級者でも会話で使える構文である。他に、Пришёл, а мать уже на печи сидит.(帰ると、母はもうペチカに座っていた)のсидитは歴史的現在で、これなども口語ではよく使うから初級でも教えておいた方がよいと思うが、初級の参考書に歴史的現在を扱ったものはないし、中級以降のものでもそれほど詳しいわけではない。まるで日本語にもある用法だからそれに準じればよいとでも言っているようである。決してそういうものではない。歴史的現在からアオリスト(完了体過去形)への置き換えなどは初級で教えるべきである。これだって考えようでは、体のペアが同義であることを前提にするなら体のペアと言えないことはない。
 ロシア語という事を別にすれば、この系統では「囁きと密告」(上下2巻)、オーランド・ファイジズ、染谷徹訳、白水社、2011年も必読である。モスクワ、ぺテルブルグ、ペルミのメモリアル協会の協力を得て1000人以上についてオーラル・ヒストリーの手法を用いて聴取しまとめあげたものである。ソビエト政権に再三再四迫害を受けたのにもかかわらず、愛国者であり続けることに自分のアイディンティティーを見出した人が多いのは驚きでもあり、悲劇でもある。
設問)「彼は二つの仕事を掛け持ちしていた」をロシア語にせよ。

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2011年10月25日

●和文解釈入門 第158回

動作を否定するときには一般には不完了体が用いられる。これを「不完了体ライン説(路線・線路説とは言いにくいので再度改めて)」で考えてみると、不完了体はその動詞の語義だけが際立つ一つのラインだと考えると、その動詞の動作を否定するということは、その動作の持つさまざまなニュアンスというような枝葉ではなく、その動詞の本質的な語義の否定することになるわけだから不完了体を使うのだと考えるわけである。完了体というのはどこでも行ける車道や歩道、田舎道のようなもので、動作そのもののほかに可能性などいろいろなニュアンスがついて回る。ところがこういうニュアンスのつかないライン(その動詞の持つ本質的語義)だけというような単なる動作の否定となれば、不完了体を取らざるを得なくなるわけである。だから完了体の動詞を否定すれば不可能という意味が出てくることになる。
無接頭辞単純動詞(гулять, жить, играть, пить, читатьなど)は、綴りの構造の単純さからみて言葉の起源では一番古いと言えるだろうし、不完了体だけのような気がする。原始人も古代の人も新しいことをするというのは、前例のないことだけに危険を意味するから、相手に対して「~しろ」という命令形は、実用的な必要性や、この状況下ではこうするのが当然だからこうせよということから始まったのではないだろうか。古代においては会話をする範囲はきわめて狭く、みな知り合いだから、することについては暗黙の内に了解していて、必要なのは始めよという合図だけだったのではないだろうか。そうなると不完了体命令法の着手の用法も、用法的には最も古いような気がする。だから初めは不完了体しかなく(また体の意識もなかったであろう)、その後、これにいろいろなニュアンスをつけるために完了体というような概念に発展したのではないかと推測する。
ハム(アマチュア無線愛好家)のことをкоротковолновикというが、ロシアのハムは短波しか扱えないのではなく、もともと世界中でハムが認められたときに当時ほとんど使われていなかった短波をハムに割り当てたため、ロシアでもこの名称が残った次第である。
勝者と敗者というのもロシア語では発想が違う。победители(負かした者)とпобеждённые(負かされた者)という。釣りの餌はнаживка, нажива, насадкаが使える。наживкаは稀に獣を取る時のえさに使われる。なおживецは生き餌のことである。棚はполкаで、一枚の板が普通である。これがэтажеркаとなると、陳列棚のように中に棚がいくつかついているラックである。開放型の戸棚はстеллажといい、戸棚はшкафである。
設問)「趣味と実益を兼ねるのは素晴らしい」をロシア語にせよ。

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2011年10月26日

●和文解釈入門 第159回

前の回の設問で用いた故事成句を個人的に和露の形式で1500ぐらい、諺は1000ぐらいすでに粗原稿の形で手元にあり、これに少し手を入れて(量はかなり減らす必要がある)いつでも出版可能だが、これも需要と供給の関係もあって出そうもない。部数500部くらいでこういう出版に興味のある個々人が少額投資(一口2000円とか)というか個人投資でもしてくれれば、先に書いた「ロシア人の疑問」も併せて可能性がないこともない。そのうち電子書籍が普及してきてそれに入れてもらえればと思ったりもするが、夢のまた夢である。この他にもロシア語基本熟語500の続編とか、「ロシア奇譚」、「ロシア語類語の使い分け集」などアイデアだけではなく、原稿そのものがほぼできているものもある。こういうものが和文露訳用に実用面で非常に役立つとは思うが、現状を見る限り出版の実現は難しかろう。
日本語でも消毒と殺菌の違いについてはよく知らなかったので、自分なりに調べた。殺菌は菌を殺すことだが対象や程度を含まない概念で1割の菌を殺しても殺菌である。消毒はその対象物を害のない程度まで減らすことをいう。そのため厳密には滅菌(無菌性保証レベル、つまり微生物の生存確率100万分の1以下にすること)とか、除菌(対象物から菌を除いて減らすこと、これも対象物や程度を含まない概念)、抗菌(菌の増殖を阻止すること、これも対象物や程度を含まない概念)が使われる。ロシア語のстерилизацияは高温、科学物質や濾過により100%対象物を滅ぼすことであり、滅菌と訳した方がよいかもしれない。дезинфекцияは100%ではないので殺菌とか消毒という訳になるのだろう。無論これは厳密に言えばであり、日常的にはどちらも消毒、殺菌と訳して問題はなさそうだ。
высокая температураもповышенная температураも高温と訳してしまうが、意味するところは少し違う。摂氏1800度は高温だが、鋼の溶解温度は1480度(炭素鋼の場合)だから、その場合はповышенная температураとなる。повышенныйというのは何かの基準があって、それよりも高いということである。низкийとпониженныйにも同じことが言える。
 検討はрассмотрениеだがразбор полётаのразборは(宇宙)飛行の検討会となり、検討会のようなものである。汗をかくというのはпотетьだが、「壁が汗をかいている」というのは、стены дают сыростьという。
設問)「みなさん何人でいらっしゃったのですか?」をロシア語にせよ。

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2011年10月27日

●和文解釈入門 第160回

完了体の動詞は動作の完了を示し、不完了体はそれ以外という風に理解しているロシア語の学習者は非常に多いわけで、「すわりなさい」をロシア語にするとСадитесь!と不完了体命令形が来ることに戸惑いを覚える人も多いはずだ。「すわりなさい」だって動作の完了を要求していることに変わりはない。Я улетаю в Киев завтра.(明日キエフに飛行機で発ちます)だって、動作は完了を示しているが不完了体を用いている。これらはいずれも不完了体なのに完了を示しているが、用法の例外ということにして丸暗記してしまえということになってしまう。動詞の体を意識すると、こういういわゆる例外とやらは非常に多いことにすぐ気がつくだろう。その上まともなロシア語の会話をしようとすると、いやでもなんらかの動詞を使わねばならず、使う以上は完了体か不完了体かどちらかを選ばなければならないのは理の当然だ。エイヤといい加減に決めてしまっても正解の確率は50%であるが、毎回毎回この調子ではロシア語で話すという気力も失せる。
そこで正しい体の用法を理解する必要があるのだが、一般向けの参考書においてこれまでは、完了体は新規の事柄(有標性маркированность)について用い、不完了体はそうではない事柄(無標性немаркированность)や、そこから発生する繰り返し(習慣)に用いるとしている。しかし通訳やガイドで実際に和文露訳をする場面では、時制によって、法(命令法や不定法)によって、また動詞群によって体の使い分けをせざるを得ず、体の使い分けが非常に分かりにくい。このコーナーを立ち上げた理由については、このような分かりにくいとされる体の用法について、ロシア語の会話をする上で何か実用的ですぐに役立つものを指針という形でまとめたいという気持ちがあったからである。
その他にも、やはり不人気なロシア語を何とかしたいという気持ちもある。北方領土の問題もあり、ロシア自体が不人気であるのと、勉強を始めても、格変化や動詞の活用で挫折してしまってそれ以上には進まず、ロシア人との会話が出来ないからやる気も起きないという事が大きいと思う。それで新たにロシア語を学ぼうという人よりも、これまでロシア語をやったが挫折した人というのが圧倒的に多いはずである。引退して趣味にロシア語をと考える人もいないわけではあるまい。そういう人にまた初めからабвでもあるまいし、知的興味という点から考えると、一見分かりにく体の用法だって、推理小説のように学んでいけば、翻訳では味わえないロシア人の著者のその文に込めたニュアンスというものが分かるはずである。こういうロシア語の都市鉱山というか潜在的鉱脈的な人たちのほかに、露文解釈はかなりできるが、会話が不得手だという人に的を絞って、このコーナーでそういう人たちにセカンドチャンスを与えようとトライしているのである。一人でも多くの人がロシア語のもついろいろな魅力に目覚めてほしいと思う。
設問)「さっさと(部屋に行って)勉強しなさいね」という子供へのお母さんの言葉をロシア語にせよ。

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2011年10月28日

●和文解釈入門 第161回

露文解釈で体の用法が正しく理解できても、和文露訳で正しく体の運用が出来なければ体の用法をマスターしたとはいえないし、ロシア人との会話などの実践面では役に立たない。言葉は生きものだから、使えなければ意味がない。このコーナーではロシア語の会話という実践面での体の用法をマスターするのための一つとして、第150回の表や類語などの工夫をしている。体の用法を覚えるために、毎日最低1~2時間この表や私の勧める参考書に基づいて真剣にロシア語の勉強するつもりがあるなら、一からロシア語を学ぶ人でも5年ぐらいで今の私のレベル(技術関係やアネクドートなどの私個人の興味の対象を除けば)に達することができるし、中級クラスの人(ガイド試験を受けるくらいの実力のあるぐらいの人という意味)なら2~3年でそのレベルになると思う。体の用法のキーポイントは過去時制のアオリストと未来時制の例示的用法である。結果の現存や同じアオリストでも動詞の続く順次的用法というのは説明を読むだけで分かりやすいが、動詞が一つだけのアオリストや例示的用法をマスターすれば、後はそれほど難しいものではない。会話で和文露訳をする際に体の用法で困らなくなれば、後は自分にとって必要な語彙(類語を含めて)を覚えるだけとなる。
このコーナーの設問の日本語文は、ロシア語を知らない人が見ても分かるように、一見非常に簡単なものである。それゆえ傍から見ればこういうのが簡単にロシア語にできないはずはないと思われるかもしれない。しかし簡単なものほどロシア語にしにくいものなのである。体の用法を完全に理解していないと、偶然その言い回しを覚えていない限り、まず露訳はできないと思う。「サクラが咲いている」とか「バラは赤い」というような単語だけ覚えていれば、楽々語彙を入れ替えることができるというような文とはわけが違うのである。それに本コーナーの設問は応用が利くように工夫しているつもりなので、仕組みが分かり、ある程度語彙力がつけばかなりの数の文章が一瞬で露訳できるはずである。そうなればプロの通訳やガイドとして通用できるようになる。
設問)「御社の出張の日当はどのくらいですか?」をロシア語にせよ。

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2011年10月29日

●和文解釈入門 第162回

前の回で体の用法の中ではアオリストが難しいと書いた。同じアオリストでも過去の時制で動詞が二つ以上次々と出てくる順次的用法は分かりやすいし、その逆に厳密に言えば不完了体過去形の事実の名指しであるアオリスト的用法の中には分かりにくいものもある。この日本人には分かりにくいという体の用法の用例を見つけたので紹介する。ラスードヴァ先生が著書「ロシア語動詞 体の用法」の中でロシア語を学習する多くの外国人にとっての躓きの石として А. А. Спагисの論文「非ロシア人を含むクラスにおける動詞の体の実際的学習について」において、外国人学生が犯す次のような体の用法の誤りを引用している。共に完了体過去形が正しいとしている。
× Товарищ добивался больших успехов.(友人は大成功をおさめた)
× А. С. Пушкин правдиво изображал образ Пугачёва.(プーシュキンはプガチョーフのイメージを真に迫って描いた)
 不完了体を用いた外国人学生は、「ここでは持続的で、時間的に引き延ばされた動作が問題になっているからだ」と答えたという。ロシア人は母国語としてロシア語を習得しているので、例えば日本人がこれらの二つの文で不完了体の動詞を使ったとしても、なぜだめなのかロシア人は説明できないだろう。こうは言わないの一点張りかもしれない、そこで自分なりに解釈すると、最初の文では、достигатьと違い、добиватьсяは過程の意味でも使えるが、そういう文脈(過程を示す副詞、後に動詞の不定形を取るとか、意味として「困難を排してだれかと話をしようとする」という場合)が必要である。Рабочие бастовали уже третью неделю. Они добивались повышения зарплаты.(労働者たちはもうストをして3週間目だ。かれらは賃上げを目指していた)などである。露露辞典を見ると完了体しか来ない例として、добиться признания(苦労して人に知られるようになる), добиться известности(苦労して知られるようになる)を挙げ、不完了体も来る例としてдобиваться успехов в работе (спорте)〔仕事(スポーツ)で努力して成功する〕を挙げているが、不完了体のは反復・習慣の用法だろう。上記の例文のように過去の具体的な行為(友人が大成功した)という文脈では、反復や習慣はありえないから、結果の現存とかアオリストと理解するのが普通で、いずれにせよ完了体過去形が来る。2番目の文は「作品を書いた」と同じ発想で、その作品が残っている、つまり結果の現存と考えて完了体過去形を取る。こういう体の用法は日本人が自然に分かるものではない。理屈をきちんと学ぶ必要があり、そうでないとこのような文ではどちらの体を使わねばならないのか永久に分からないことになる。
設問)「また食べる前に手を洗っていないわね」をロシア語にせよ。これもお母さんが子供に対して小言を言っているという文脈でとらえてほしい。

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2011年10月30日

●和文解釈入門 第163回

最近2冊よい会話集を買った。一つはРечевой этикет и обороты диалогической речи , П. С. Тумаркин Восток – Запад, 2008で、もう一つは「男と女のロシア語会話術」(マフニョワ・ダリア、TLS出版社、2010年)である。トゥマールキンさんは1985年頃鉄鋼関係のシンポジウムの通訳で何度かモスクワで会ったことがある。岩波露和にも編者の一人として名が出ている名通訳であり、名翻訳者でもあり、日本人の仕草についての著書もある。この会話集は会話のための表現だけをいろいろ集めており、他の会話集にはない警告・おどし、喧嘩、非常事態があるのが特徴である。ただそれに目を奪われることなく、全体を見てみると著者の日本語の理解の深さがよく見てとれる。対話形式を入れてくれるともっとよかったと思う。マフニョワさんのは、逆に対話形式であり、副題に「学校では教えてくれない」とか「オトナのための」とあるように、セックスについても避けることもなく、現代の大人の常識がまじめな筆致で書かれており、コラムも含めて好感が持てる。会話集ではないが、「ロシア語手紙の書き方」(新田實・アキーシナ、ナウカ、1979年)も男女の恋愛をテーマに手紙の交換という形式だが、時代は変わったという事がよく分かる。マフニョワさんの会話集は暗記すると即戦力になる。ダイエットでも具体的な目標、たとえばこの服が着られるようにやせるのだとかがあれば、成功する確率は非常に高くなる。だから異性のロシア人と親しくなるという目標を立てれば暗記にも熱が入ろうというものである。それとマフニョワさんの本には紙面の関係と学習者のレベルを考えて、ごくわすかとは言え普通の会話集では書かないような文法事項も少し載せている。完了体と不完了体については、「ロシア語の動詞は、多くは完了体と不完了体のペアで成り立っています。完了体とは1回限りの動作や、その開始と終了がはっきりと意識できる場合です。不完了体とは、進行・継続・反復する動作、もしくはその動作そのものなどを示す場合です」とあり、初級のロシア語の文法書の体の説明よりもはるかに簡にして要を得た説明だと思う。ただこれで和文露訳の役に立つかというと抽象的過ぎて分からないだろう。ただ体の用法を意識して本書の例文を見れば、なかなか勉強になる。普通はなかなか勉強できないна тыでの用例に慣れるとか、можно + 文で許可を示す口語的用法〔例えばМожно я буду капризничать?(甘えてもいい?)〕や、「もしよければ」をесли можноではなく、если ты не противを使うとか、「色が白いね」とか「足が長いね」というのは単にУ тебя кожа белая.やУ тебя ноги длинные.ではなく、誉め言葉なのだからУ тебя красивая белая кожа.やУ тебя красивые длинные ноги.となるというのもためになる。口げんかの項目にНе бей меня!(殴らないで)というのがあるのにはさすがに実用的だと思った次第。本の背表紙に目がハートのミーシュカが描かれているのだが、初めは一つ目小僧が6人いるのかと思っていた。ただ両書とも会話集のため表現の丸暗記を前提としており、ロシア語の表現には丸暗記しなければならないものもあるとはいえ、厳密的な意味で構文が応用できるようには書かれていないのはやむを得ないとは思う。
設問)友達の部屋に入る時などの「お邪魔?」をロシア語にせよ。

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2011年10月31日

●和文解釈入門 第164回

私はこのコーナーの設問をほぼ正しく回答できる自信がある。自分が作ったものだから当たり前だが、第150回の表を見ることもない。たまに体の用法で疑問が湧けばその関係の参考書をみることがあるぐらいだ。40年ロシア人と付き合い、ロシア語をやっているから、設問に似た表現は目にしたり、耳にしたりしているので似たようなロシア語ないしは構文がイメージとしてすぐ浮かぶのである。確認のため自分作った語彙集や参考書を見ることはある。だけどここに至るまでに40年かかっているから当然と言えば当然の話である。ロシア語の体の用法をマスターするためにこのような長い年月が学習者に必要だろうか?10年だって多いだろう。私はモスクワに10年、カザフのアルマトゥイに2年駐在し、駐在していない時も年の1/3はソ連やロシアに出張していた。このようにロシア人と仕事で長く頻繁に接することのできる人は稀だろうし、仕事以外でロシア人と定期的に会話やメールをできる環境にある人も多くはあるまい。だからこの表が学習者にとって体の用法をマスターするきっかけになればと願っている。常に体の用法を意識していれば、いつか分かったという瞬間が来る。悟りを開いたようなものだ。初めはその悟りは偽りのもので、後で使うときに迷うというかうまく自分の中で説明がつかないことが多い。このコーナーの設問で試してみれば本当に分かったかどうかがすぐ分かる。集中する期間にもよるが1~2年で体の用法の実践的な面での悟りは開けるものだと思う。悟りが本物かどうかは、つまり体の奥義を会得したかどうかはロシア語の本、それも会話の多い現代小説(隠語や俗語の少ないものがよい)、ドキュメンタリー、エッセーなどアトランダムに1~2ページほど精読してみて、全ての動詞の体の用法の説明が自分なりにつき、日本語の新聞や小説も同様に1~2ページを読んで、その動詞をロシア語にするとき具体的な動詞は浮かばなくとも、どちらの体を使うか、どの時制や法(命令法や不定法など)で訳すべきかがわかったと思う時点である。そうなれば免許皆伝ということになる。仮にぬか喜びであっても、誰に迷惑をかけるわけでもないし、よい趣味というか生きがいにはなるはずだ。ロシア語でも日本語でも小説や会話、映画などの別の楽しみ方ができること請け合いである。
 いきなり免許皆伝というのはどうもと考えるのが普通だろうから、体の用法では日本語の感覚と随分違うなという用法、例えば結果の現存、アオリスト、アオリスト的用法、例示的用法、歴史的現在などが分かったと思ったら黒帯とする。だから、完了には完了体を使うとか、繰り返しや真理、過程に不完了体を使うというようなすぐに体の用法として理解できるものは黒帯の対象にはならないことになる。この黒帯かどうかを認定するのは私ではない。学習者自身ということになる。自分のロシア語の実力を一番よく知り、己に対して一番厳しいのは自分自身だからだ。黒帯だとか奥義を究めるだとか硬く考えなくともゲーム感覚で各用法をクリアしていくと考えるのが現代的かもしれない。
設問)「犬は飼い主に甘えている」をロシア語にせよ。

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2011年11月01日

●和文解釈入門 第165回

歴史的現在を初学者に教えることに難色を示す方もいるかもしれないが、生徒に対して知的好奇心を如何に呼び起こすというのも大事であり、歴史的現在が日常会話で多用されることや日本語にも似た用法があることを伝えれば、ただ語彙の暗記の授業よりは面白いのではないかと考える次第である。ピョートル1世は少年の頃兵隊ごっこに夢中になり、потешные роты(兵隊ごっこ中隊とでも訳すのか)を創設し、各中隊300名ほどの少年兵士を擁していた。大砲の発射練習をしたときに、着弾距離が分からないために火薬の量などをどうすればよいか分からない。偶然当時の外交官ドルゴルーキーが居合わせ、外国にはастролябияという測角儀の一種があり、それによって距離も測れるという事を知った。ピョートルは早速注文したが、ドルゴルーキーが手に入れて帰国したのは2年後だった。すぐに使ってみようと思うが使い方を知る者がいない。それで当時ドイツ人居住区に住んでいたオランダ人フランツ・チンメルマンというのが知っているというので習う事にした。ところが当時16歳のピョートルは算数(数学というよりは)の基礎(加減乗除)を知らなかった。それでそこから算数を学びこの測角儀も使いこなせるようになったという。ピョートルは天才で直情径行型であるとはいえ、分からないことは分からないとして尋ねる素直さがあった。こういう風に何でも自分の興味が何かはっきり分かっていればロシア語も上達するのは早いがそういう人はほとんどいない。それでもロシア語を学ぶ人にロシア語に興味を持たせるようなそういう秘密のボタンというものがあるような気がする。その一つの可能性として、人があまり知らないような歴史的過去で興味を持たせるようにしてはどうかと考える次第である。
設問)「さっきの人だれ?」をロシア語にせよ。

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2011年11月02日

●和文解釈入門 第166回

第21回の完了体のсобратьсяのところにミスを発見したので下記のように訂正し、追加する。完了体のсобратьсяは不完了体のсобиратьсяと違い、完了体ゆえにニュアンスが出てきて、「前は~するつもりはなかったが、今は~するつもりである」という意味と、「長い事~するつもりだったが、ついにした」という意味がある。前者の例は、Реветь, что ли, собралась!(わんわん泣く気になったのかい)というのは「それまで泣くつもりがなかったのに、急に(話を聞いて)泣く気になる」というニュアンスである。А я как раз собрался (собирался) вам звонить!(ちょうどお電話差し上げようと思っていました)は両方の体が使えるが、それでもニュアンスの差はある。後者の意味の例文は、Извиинте, что только сейчас собрался вам позвонить, был очень занят.(申し訳ありません。ようやく今お電話できました。忙しかったので)」である。もちろん、Она сделала, как собиралась.(しようと思っていたことを彼女はした)としてもよい。ところが否定の»не собрался (не собралась, не собралось, не собрались)»では「~しようとしていたが、しなかった」という意味である。Он так и не собрался купить новый телевизор.(彼は新しいテレビを買おうとしていたが、結局買わなかった)であり、完了体未来形を否定するとНикак не соберусь пришить пуговицу – уже неделю собираюсь.(もう1週間ボタンを縫い付けようとしているんだけど、だめだ〔できない〕)と不可能の意味が出る。また、厳密に言えばнамереваться に対応する完了体ではないが、意味が近い完了体であるвознамериться + 不定形は = начать иметь намерение「~する気になり始める」という意味で、これもニュアンスが入る。
 スタンプにはштамп、штепель、печатьがあるが、штампは会社名や組織名だけのスタンプで、штемпельは図柄や文字の入った記念スタンプであり、штепель с переводной календарной датойは日付スタンプの事である。печатьは記号だけのいわゆる印で、道具だけではなく押した印影оттискも指す。またгаситься штемпелемといえば消印が押されるという意味だし、гашёная марка 消印のある切手ということになる。
設問)「気分転換に散歩しましょうか?」をロシア語にせよ。

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2011年11月03日

●和文解釈入門 第167回

ロシア人で一番日本語の上手な人たちというのは、私が思うにはガイド試験に合格した人たちである。すでに3~4人の方が合格していると聞く。このような人たちは本を読まない日本人よりよほど書くのも話すのも日本語がしっかりしているし、知る限り英語も堪能なようだ。そういう人でもこのコーナーの設問の露訳が全問正解できるとは限らない。設問は概ね平易なよく使われる日本語であって、直訳的日本語ではない。ロシア語でも日本語で簡単な言い回しほど訳すのが難しいし、いわゆる日本語の難しさとして挙げられる「は」と「が」、「ある」と「いる」、敬語や漢字の使い分けや読みのほかに、日本語にも現在完了や歴史的現在があり、、さらにと普通(辞書)形の現在形は予定の意味でも使う。例えば、普通形の「読む」の「彼は明日本を読む」は予定と解すのが普通だろう。
 ロープはканатで、тросは船舶用語で一般的にはワイヤロープを指す。アルバムはальбомで、写真やレコードのアルバムもこれでよいが、ロシア語には画帳という意味がある。日本語のアルバムにはこの意味はない。「同じ」というのはодинаковыйだが、「皆の願いは同じだった」とか「皆の願いが一つになった」というのはЖелание у всех сделалось общим.となる。
 Как дела?(どうですか御商売の方は?)と聞かれて、Не жалуюсь.という返事を聞くと、ニュアンスとして、「不平をいうほどではない」という感じで、文句を言うほど悪いわけではないと思いがちだが、これはВсё в порядке.という意味で、日本語の「文句なし」に近い表現である。さらにЯ не могу жаловаться.ともいえる。これを「文句を言う筋合いはありません」と訳してもよいが、意味は、Нет оснований жаловаться.(不平を言うなんてばちがあたる)ということで、文字通りГрешно было бы жаловаться.という表現もある。「まあまあです」はНормально.でよいが、悪い場合は、Дела как сажа бела.(最悪)と答える。
設問)「彼は息子をモスクワに留学させた」をロシア語にせよ。

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2011年11月04日

●和文解釈入門 第168回

設問への解答は一つでもそれ以上でも構わない。それに応じてコメントをつけるようにしている。ただ基本的に体の用法についての出題が多いので、体と言えば基本的に不完了体か完了体かどちらかが正解となる(一応そのように設問の構成を考えている)。両方の体が使える場合は回答で使う文脈をできるだけ説明するようにしている。両方の体を二つ以上の文に分けて回答すれば、この投稿者はこの設問の体の用法に自信がないと判断せざるをえないわけで、そうなると体の用法の正解率は何も考えなくても50%だから、その設問につき体の用法を理解していますねとは書けないわけである。自信があるならあるほうだけを、あるいは自信はこちらの体が70%ぐらいと書いてくれてもよい。むろん書かなくてもよいが、和文露訳の際、迷うとはいえ瞬間的にどちらかに決める練習を積まなければいけない。実戦では通訳でも翻訳でも二つ同時には使えないのだからである。
どういうふうに読むべきロシア語の本を選んでいるかというと、まあ好きな本を気が向くままにということになる。ユーモア作家Севела, Веллер, Жванецкийが好きだし。他にМолодая гвардия社の「~の日常生活Повседневная жизнь」というシリーズはロシア関係だけで40冊ぐらい出ているが、これを読むことにしている。これはロシアだけでなく、欧米や日本のある分野の日常生活ということで、「ロシア大統領の日常生活」とか「ロシア宇宙飛行士の日常生活」などで語彙を増やすにはもってこいである。それと19世紀末から20世紀初頭までのモスクワの庶民生活やロシアの犯罪が個人的に大好きなテーマなので、これに関するものは読むようにしている。
この他は天の声を聞くようにしている。天の声というと神がかっているのではと警戒されそうだが、最近の例を引くと、邦訳で「ロシアとジャポニズム」という本を読んでいたら、ベールィの「ペテルブルグ」がジャポニズムを扱っていると書いてあった。その直後に読んだロシア文学史の本には、ロシアソ連文学の代表作は19世紀半ばのトルストイ、ドストエーフスキー、ちょっと遅れてチェーホフぐらい、ベールィの「ペテルブルグ」もよい本だが、やや劣ると書いてあった。ベールィについては象徴派の詩人・作家であり、その自伝3部作は読んだが、象徴派ということで分かりにくいのだと勝手に思い込んでいて、本は「銀の鳩」、「モスクワ」、「ペテルブルグ」と持っているが、読んだことはなかった。それでこれは天の声であろうと思い「ペテルブルグ」を読んだ。しかし、会話の部分を除けば、彼の自伝の方が面白かったように思う。個人の好みだろう。
シーモノフの人間的側面についても、スターリンに可愛がられたが、スターリンの死後、改心してブルガーコフの「巨匠とマルガリータ」、マンデリシュタム他の出版に助力したというのを「囁きと密告」で読んで、代表作の「死者と生者」を読むことにした。この本は当たりで、文学的価値は「ペテルブルグ」より落ちるのかもしれないが、個人的には読みやすく、面白かったし、特に会話の部分が和文露訳に大いに役立っているのを評価する。本はソ連崩壊前後に古本屋で1冊100円くらいで売っていたから、その時買った本が今私の宝である。文学作品もいつか読むこともあろうと思い買っておいたのが1400冊ぐらい、辞書は440種(冊数はもっと多い)ぐらいある。700冊は読んだが、後700冊はある。というわけで「ペテルブルグ」もシーモノフの本も20年くらい読まずに放っておいたことになる。買っても相性が悪い本というのはあるもので、В. Максимов, Платонов, Федин, Пелевинなどのは本は持っているが、まだ読んでいない。強制されて読んでいるわけではないので10ページ読んで面白くなければ読まないことにしているということもある。いずれは読むことになるのだろうけども、文学の専門家になるつもりもないし、ただ楽しみで読んでいるので、読んで文字通り面白いもの、ロシアやソ連の日常的庶民生活の知識が増えるもの、会話で使える言い回しが多いものが優先となるのはやむを得ないと自分では思っている。
設問)「彼女は元気な時の彼を知っていた」をロシア語にせよ。

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2011年11月05日

●和文解釈入門 第169回

設問は短文ということもあって文脈自体がないと同然のため、体の用法がつかみにくい。だから逆に投稿者の側としては、今回は完了体を使っているが、それはこういう文脈を想定して使っているのだという意思表示ができれば、投稿する際にそれを書くか書かないかは別にして、それだけ体の用法に対する理解も確かなものになるはずだ。そういう意識がなくて設問の日本語の感覚だけでなんとなく完了体にしたり、不完了体にしたりして和文露訳をしても、実戦はゲームではないのだから、この文脈ではこの体をという確信が持てなければいつまでたっても外国人の話すロシア語のままということになる。
大学を出てから小さな商社に入って2、3年経って、ソ連向けに作業船を建造していたある造船所で通訳見習いをしていた頃、造船技師から「ブームのヒショウって何だ」と聞かれた。ヒヒョウとは飛翔という事だと分かったが、浚渫船に飛翔という組み合わせがよく分からない。技術条件の和訳がおかしいらしい。それで原文に当たって見ることにした。そのロシア語はвылет стрелыである。стрелаはブームboomでクレーンなどの腕に当たる部分である。露英船舶辞典を引くと、вылетは旋回半径のことで、訳した人は技術関連の辞書も引かないような素人のようだった。造船所の外国船建造の部署は書類は英語だけで作るわけで、当時現場では通訳の合間に技術書類の英文露訳をこなさねばならず、露英や英露の船舶用語辞典、技術辞典が会社にもあったし、自費でも購入していた。和露の技術辞典というのもあったが、量が少なく訳も正確さを欠いていて使いものにならなかった。当時ロシア人の技術者でドイツ語を知っている人は結構いたが、英語となるとあまりいなかったし、それもあってか契約の段階で英露の書類提出となっていた。技術関係は英語を知らないと訳せないのである。しかも現場の叩き揚げの職人は英語が出来ない。それで日本語、英語、ロシア語の船舶用語(船殻〔船体のこと〕、機関、電気、コンピューター用語)を覚えざるを得なかった。ギャレー(英語のgalleyから来ている)というのは船内の厨房だがロシア語ではкамбузと言って、кухняではない。この船舶用語には悩まされた。英露や露英の船舶用語辞典で調べ、さらに日本の船舶用語辞典(これは和英・英和でも引けるように成っている)と2回重い辞書を引かなければならなかった。そのため結局自分で語彙集を3カ国語で作り、それが今の自分の和露の語彙集のもとになっている。この20年くらい船舶関係の通訳をしたことがないので、無駄な事をしたようにも思うが、船舶もプラントなので、船体(船殻)用語以外の機関や電気、コンピューター用語は他にも使えるので勉強してよかったと思っている。何が役に立つか分からないし、現場で若いころ技師や職人に現場の用語を親切に教えてもらったようには、今の若い人にそういう機会が与えられないという事を考えれば幸運だったというしかない。
設問)「父は息子を後継にと考えていた」をロシア語にせよ。

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2011年11月06日

●和文解釈入門 第170回

ロシア語の意味が感覚的に分かるようになるというのを目指すのだという方もいるかもしれない。素人はそれでいいかもしれないが、プロの通訳や翻訳者はロシア語から正しい日本語へ、日本語から正しいロシア語に訳してお金をもらっているわけで、両方の国の言葉がかなり高いレベルで理解できるようにしなければならないのは当然である。そのためには必ずしもそのときには完璧に訳せなくても、的確な訳語とそのニュアンスを習得するよう常に努力する義務はあるはずだ。そのためにも体の用法をマスターする必要があるといえる。
露文和訳はロシア語のできる(?!)日本人がやり、和文露訳は日本語のできる(?!)ロシア人にやらせれば安心と考えている翻訳会社も多いと思うが、露文和訳であれ、和文露訳であれ、両方の言語に高いレベルで精通していないと翻訳や通訳はできないはずだという当たり前のことが通らないのはおかしいと思う。
できるだけ自分のロシア語をバイリンガルのレベルに高めるために、これまでしてきたことは、
1. アネクドートには政治小話ばかりではなく、いろいろなジャンルがあり、各ジャンルのアネクドートの由来について調べてまとめあげたこと、考えオチやダジャレなどもロシアでは人気のあること、ロシア語のダジャレも漢字を使えば和訳できるものもあるし、あるいはまったく別の小話に化けることもあることを「アネクドートに学ぶ実践ロシア語文法」で示すことができた。
2. アネクドートが露文解釈や文法の解説に使えることを「黒帯研究会」、「新帯研」の添削指導によってその効果を実証しようと努めた。
3. ロシアの大衆文化を理解するのは、アネクドートから入るのが近道であることを「ロシア小話アネクドート」、「ロシアのジョーク集」で示そうとした。
4. ロシア語で一番難しいと思われる体の用法の理解に基づき、不完了体ライン説を軸にして、時制(過去、現在、未来)、命令法、不定法の用法をさらに細かく分けることで、ある程度、会話における和文露訳の用法をまとめ、実際に添削指導を通じて、会話における和文露訳の習得に短文が有効かつ効果があることを実証しようとしている。
成果は如何?
設問)「これは数ページ前に触れてある」をロシア語にせよ。

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2011年11月07日

●和文解釈入門 第171回

распознать её миссию(彼女の使命を理解する)という語句を見て、распознатьを「見てとる」ぐらいの意味だなと思えば(確認のために露和や露露を引く人もいるだろうが)、露文解釈ならこれで終わりである。ところが和文解釈に活かそうと思うと、露露を引いてопределить, узнать по каким-либо признакамというところまで読み、何らかの特徴を見て知るのだな、つまり類義語の使い分けを確実にする必要がある。この動詞を会話で使うためには、узнатьなどとの違いというのを、常に頭の中では気にかける必要が出てくるわけである。これはロシア語だけではなく、日本語にも及ぶ。なにせ和文解釈だからだ。日本人だから日本語はすべて類義語のニュアンスにいたるまで人に講釈できるほどできると考えるのはおかしいわけで、それができる人というのは国語辞典の編纂者を除き、そういるものではない。だから広辞苑(電子辞書だが)は手放せないし、英和辞典、露露、露和とともに日常的に非常によく使う。
設問)「タバコの吸い殻のポイ捨て禁止」をロシア語にせよ。

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2011年11月08日

●和文解釈入門 第172回

「ロシア語が話せる」というのは目標を低く設定すればするほど可能である。挨拶やホテルにトラブルなくチェックインできる(予約してあれば、名前を言えば会話の必要は特にないはずだが)というのも、それはそれでロシア語がペラペラだという解釈もできる。これは思いつきで書いているのではない。あるロシア人が彼の友人で日本語がぺらぺらな人の事を話してくれたが、彼が思うペラペラというのは、日本のホテルにチェックインできるレベルだったのだ。そこまでいかなくても、自分の趣味や自分の言いたい事を話せるというのがぺらぺらだというのなら、1年か2年まじめにロシア語を学べば達成できるレベルである。ところが見知らぬ人の言うことを正確に通訳できるというのは、ロシア語をプロで20年やっても、30年やっても、あるいは40年やってもできるという保証はない。どんな趣味の人か、どんな話題をするのかまったく分からないからだ。いきなり日本語で仲間内のジョークでもされた日にはどうしようもないという気にもなる。だから取りあえずどの辺に「ロシア語が話せる」という目標を置くかによって勉強の仕方も変わる。この辺をよく考え、目標が具体的であればあるほどその実現の可能性は高くなり、それによって自ずから勉強の方法も決まってくるというものである。
体の用法の参考書を読んでなるほどと思い、分かったような気になるが、いざ会話でロシア語を話そうとするときにどちらの体を使ったものか迷うという事が多々ある。そういう場合、体の用法をマスターしたかどうか調べるのは簡単である。試しにどんな露文でもいいから一節(文脈が分かるぐらい)読んでみて、その中にある動詞がどの体の用法を使っているのかその動詞の体の用法が分かることと、日本語の新聞や小説(会話の多いものがよい)の一節を仮にロシア語に訳すとして、動詞の具体的なイメージがわかなくても、どの体を使えばいいか分かったのなら、体の用法を理解したことになる。また体の用法を自分なりに理解したと思うのと、それを他人に伝えるというのは別物である。真に理解するという事は、他人にも説明して理解してもらうだけの確信がなければ、本当に理解したことにはならないと思う。自分がこのコーナーを続けているのも、自分が本当に体の用法を理解したのかの実証実験でもある。人が分かってくれなければ、本当に体の用法を理解したとはいえないからだ。そのためロシア語の例文を多用することにしている。
設問)「遅れますからと電話してください」をロシア語にせよ。

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2011年11月09日

●和文解釈入門 第173回

過去を示すのであればどんな文脈でも歴史的現在が使えるのかというと、完了体過去形の結果の残存は現在と直接つながる故、使えないことが分かる。同じ完了体過去形のアオリストならどうだろう。一見すべて使えそうだが、歴史的現在というのは、「過去の出来事を眼前にあたかも現在そうであるかのようにありありと再現する」という用法のため、Падучева Е.А.が指摘しているように、心理的距離(第120回本文参照)のあるものは使えないとしている。歴史的現在とは、フォークロア的なものから発達したものであり、民衆的な用法、ナレーション的用法であり、私の考えではこの用法の上記のような定義と矛盾するような用法、例えば、統計的データを羅列するような文章では使えないと思う。日本語の歴史的現在(見かけが似ているからこう呼んでよいのかは分からないが)では、語調を整えるという大義名分があれば、このような用法の制限はない。
 さらに、私の考えでは、歴史的現在というのは見かけが不完了体現在形による現在時制の過程や状態と似ている。だから文脈的にどちらか分からないときは、歴史的現在ではなく、現在時制の過程や状態と理解される可能性が高いので、使えないか使いにくいはずだ。Бондаркоは歴史的現在に転換できない例としてНаконец он опомнился.(ついに彼の意識が戻った)を挙げている。これを歴史的現在の意味で不完了体現在形の*Наконец он опоминается.にはできないという。Бондарко曰く、どうしても歴史的現在を使いたいというのなら、Наконец он приходит в себя.というように別の動詞句を使う必要があるという。私が思うには、опоминатьсяはОн постепенно опоминается.(彼は徐々に意識を取り戻している)のように過程でも使うので、Наконец он опоминается.は「ついにかれは意識を取り戻しつつある」という意味に取られる可能性があるが、приходитьはпри-という接頭辞のついた運動の動詞であり、そのため過程では使われないのが明らかだからであろう。
ただ原求作先生の「ロシア語の体の用法」137ページに、приходитьは過程では用いられないが、приходить в себяなど抽象的な意味で使われている時には、начинать приходить в себяなどで過程を表しうると書いてある。これは語義の体の用法に対する影響の問題であって、体そのものとは関係ないとも書いてあるからこの場合とは違うと考えられる。ただ似たような文例で、Я начинаю думать ...は以降の過程(~と考え始めつつある)というよりは、「もうそういう考えになった」というニュアンスであるから、これを過程と考えるのはどうかなという気もする。例えば、「シンプルなものはごまかせない」という、このコーナーの標語にもピッタリとしそうな化粧品のCMがある。「シンプルなものはごまかせないと考え始める」と一見言えそうだが、考えるときに、「シンプルな」、「ものは」、「ごまかせない」と、歩いていて景色が変わるようには我々の頭でとらえているわけではない。ロシア語のначинаю думать, что ...というのは「シンプルなものはごまかせない」で一つの考えであって、細切れの「シンプルな」とか「ものは」とか「ごまかせない」では考えとしての意味を成さない。考えというものは、あるいはある考えを考えるという事は、考えをひとまとまりで考えるということであり、せいぜいのところ、その考えに対して確信を持ち始めるということだと思う。イメージと思考は別物なのだ。
設問)「グズグズ手間取るのだけはやめてくださいね。さもないと私たち汽車に乗り遅れますよ」をロシア語にせよ。

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2011年11月10日

●和文解釈入門 第174回

メル友のヒサムヂーノフさんが私の原稿「ロシア人の疑問」のロシア語の部分をチェックしてくれたことは前に書いた。お返しに私の方も「長崎の稲佐のお松(レストラン〔ボルガ〕の経営者)について(これは偶然手元に資料があったので答えられた)」とか、「長崎弁と標準語はどのくらい違うのか(これは長崎弁をよく知らないので答えられない)」、「オペラ蝶々夫人について普通の日本人はどう考えているのか(オペラは普通の日本人は見ないぐらいの返事)」とか、かなり専門的な質問の返事を書いたりしている。その他にも、私の原稿の中に「リンゴの蜜」について書いたものがある。彼曰く説明はわかるのだが、リンゴの蜜自体見たことはないと書いてきた。リンゴのフジは中国産のがウラジオなどにも入ってきているが、蜜の入ったものは全体が甘い(蜜のところは甘くない)とはいえ、腐りやすいから果物屋が嫌うのかもしれないから出回らないのかもしれないなと考えた次第。一応リンゴの蜜の正体を科学的に説明すればソルビトールсорбитだが、まあこう説明もしてもね。それとも、彼は男で、しかも学者だから知らないのかしらんとも考える次第。リンゴの蜜なんて文化とはいえないかもしれないが、リンゴを買うときには一応考慮に入れる。これだって日本の庶民の常識であるといえないこともない。仮に日本研究家であるロシア人が知らないのなら、こういうような文化のニッチを埋める作業も必要ではなかろうか?
ソ連時代の辞典の大きな問題は、イデオロギーに毒されている、庶民文化の軽視、ユートピア的発想(犯罪など現実の無視)などが挙げられるが、ソ連の露露辞典に準じて作られていた当時の日本の露和辞典作成にもそれが少なからず反映されている。例文も19世紀ロシア文学に偏重しており、露文解釈をする上では問題ないのかもしれないが、和文解釈をする上では、口語、俗語表現が十分に採られていないため、利用するに際して、廃語と常用語の区別をどうするかなど大きな問題だと思う。今後露和辞典を作ることがあれば(需要がないから国からの援助がない限り無理だろうが)、口語を中心とした語彙の採取、類語の使い分けについての細かい注釈などを入れてもらいたいものだ。
ところがこの頃のロシアで出るロシア語の辞典はイデオロギーの行き過ぎに配慮して、強い愛国心は感じられるものの(当然と言えば当然だが)、冷静にロシアやソ連の過去について叙述されているものが増えている。黒田龍之介先生の勧める「Россия. Большой лингвостраглведческий словарь」, Прохоров, АСТ-ПРЕСС, 2009を今1日10ページずつ読んでいるが、ロシア式のサウナや身近なパン、ポピュラーだった映画などや、そこに由来する故事成句の解説なども含めて分かりやすく説明しており、ロシア語学習者には必読だと思う。ただロシア人からの視点なので、われわれ日本人が知りたい、靴のサイズなどの換算表の類はないらしいのがやや不満と言えば不満である。もっとも読み始めたばかりだから悪口は早すぎるのかもしれない。しかし、ロシア語中級レベルの人で何かロシア語で読むものがないか探している人には、本書を大いに勧める。ただ価格が1万円ぐらいと高いが、図版も多くページも600ページを超えるからそんな悪い買い物だとは思わない。何冊かまとめてロシア語の本を買うよりははるかに幅広い内容を取り扱っていて、記述もバランスのとれている本書が座右の書になることは疑いない。この他に、かなり古くなったとはいえ、また解説が英語だが、The Russina's World, Life and language, Genevra Gerhart, Harcourt Brace Jovanovich, Inc, 1974がソ連の庶民文化を知るにはベストだ。日本人でこのような現代ロシアの庶民文化について本を書く人はいないものか?衣服や身の回りの細かいこともあるのでロシアで長く暮らし、ロシアの現実をよく知る女性の方がより適任と言えるだろう。こういう本が「ロシア・ソ連を知る辞典」で足りないロシアの庶民文化について知る機会を増やしてくれるものと信じている。
設問)「スープを室温までさまして下さい」
「牛乳を体温までさまして、赤ちゃんにあげてください」という二つの文をロシア語にせよ。どっちか一つにしようかと思ったが、室温とか体温とかというのを出題するのも面白いかもしれない。

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2011年11月11日

●和文解釈入門 第175回

最近大きな勘違いをしていたことに気がついた。Роман «Братия Карамазовы» был написан в 1878 - 1880 гг. и печатался в журнале "Русский вестник" в 1879 - 1880 гг.(長編「カラマーゾフの兄弟」は1878~80年に書かれ、「ロシア報知」に1879~80年の間載った)という文で、был написанとなっている。これを能動文に直せば、(Достоевский) написал роман «Братия Карамазовы».となる。この能動文を完了体過去の結果の現存と思っていたのである。ところが受け身の文でбыл написанとなっているからには、これはアオリスト(アオリストには過去の動作について総括的に、また完結した出来事として述べるという意味であるが、「過去における繰り返しのきかない唯一の行為」という意味でここでは使っている)である。ラスードヴァ先生の「ロシア語動詞 体の用法」には「創作者としての資格духовное авторство」という用法として、過去における事件の発生(とその報告)という用法(私がいうところのアオリスト)の中の一つの用法として挙げている。しかし、Доктор Живагоの解説でНаписан в 1946 – 1956 гг.(1946~57年に書かれた)という文は結果の現存であろうから、能動文にしたПастернак написал «Доктор Живаго» в 1946 – 1956 гг.も結果の現存であろう。だから「書いた」や「描いた」がすべて創作者の資格(アオリスト)の用法だとはいえないと思う。ついでにバレーの「白鳥の湖」の解説の出だしには、(Балет) Написан в 1876 г., впервые поставлен В. Рейзингером в феврале 1877 г. в Большом театре.(1876年に書かれ、レイジンゲルによって1877年2月に初めてボリショイ劇場で上演された)とある。これらは結果の現存の用法もあるというのが私の考えである。それに、「作品を書いた、描いた」という文の解釈は結果の現存かアオリストかは露文解釈のときには重要かもしれないが、和文露訳ではнаписал(а, о, и)を使えばよいからこれまではあまり深く考えて来なかった。結論として、結果の現存という用法もないことはないが、やはりここはアオリストと考えるのが自然のような気がする。それゆえ第15回の回答のヨシダさんにはお詫びして訂正する。
部分否定(必ずしも~ではない)というと не всегда, не обязательно, не очень, не слишком, не совсемが思い出される。Надя его не очень любила.(ナーヂャは彼の事をそれほど好きではなかった)という例のほかに、部分否定の例としてОстальные чувства не обязательно проявляют внешне.(その他の感情は必ずしも外に現れない)を挙げておく。
「負ける」は、「競争(ゲーム)に負ける」はпроиграть соревнованиеとかпроиграть в конкуренцииを使う。「劣る」という意味ではОн проиграл Сталину по многим параметрам.(彼は多くの点でスターリンに劣った)とかЯпония значительно уступает по объёму инвестиций США.(日本は投資量において米国に著しく劣る)と言い、уступитьも使える。「(感情に)負けるな、屈するな」と言いたければ、Не поддавайте страху.(恐怖に負けないでください)、Не поддавайтесь на этот шантаж.(この脅しに負けるな)、Не поддавайтесь печали.(悲しみに負けないでください)というようにподдатьсяが使える。
設問)「彼は今によくなる」をロシア語にせよ。(病院でのお見舞いのときなど家族への慰めの言葉として)

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2011年11月12日

●和文解釈入門 第176回

米国の言語学者サピア(1884~1939)の「言語」(安藤貞雄訳、岩波文庫、1998年)を読んだ。原書は1921年に出版されたものである。ヨーロッパ系の言語(ロシア語も含む)のみならず中国語やアメリカのインディアン諸語を縦横に引用して言語とは何かについて書かれており、特に第二部の「こども」が非常に参考になる。その中に「体(アスペクト)」についての記述があるのでここに紹介する。「体(アスペクト)というのはスラブ語の文法から借りた術語で、連続性の観点から、行為の経過、その性質を示す」とあり、英語のcry(アスペクト的には不定としている)の例に挙げて、次のように体の用法の種類を挙げている。be crying(継続的), cry out(瞬時的), burst into tears(始動的), keep crying(持続的), start in crying(持続的・始動的), cry now and then(反復的), cry out every now and then (cry in fits and starts)(瞬時的・反復的)、〔ここで足りなくなったと感じたのか、別の動詞で補充している〕、to put an coat(瞬時的), to wear coat(結果的)として、「以上の例が示すように、アスペクト(体)は、英語では整合的に練り上げられた文法形式の集合によるよりも、むしろ、あらゆる種類の慣用的言い回しで表現される。多くの言語では、アスペクト(体)は、時制よりもはるかに重要的な形式的意義を持っているが、初学者はこれを時制と混同しがちである」と結んでいる。「泣く」という動詞はплакать/наплакать/заплакать/проплакатьぐらいは浮かぶが、この動詞はロシア語では体の用法の実例を示すものとしてはあまり良くないような気がする。
設問)「母はこの2年の間に10歳も老けた」をロシア語にせよ。

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2011年11月13日

●和文解釈入門 第177回

このコーナーのナビゲーション用の表は第233回本文を参照願います。

設問)「御乗客の皆様は搭乗口の方へお進みください」をロシア語にせよ。

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2011年11月14日

●和文解釈入門 第178回

40年ロシア語をやっていると、露和辞典にもいい和訳がない(乃至は載っていない)語句と言うのがあるように思える。いくつか例を挙げると、в свою очередь, раньше времени, в очередной разなどである。в свою очередьは大学のときに故高崎経済大学学長の岡本正巳先生から「(それ)は(それ)で」と教わった。これは英語のin turnと同じ発想であり、тоже, в ответと言う意味である。Он наблюдал за ребятами и видел, что они в свою очередь наблюдают за ним.(彼は連中を観察し、連中は連中で彼を観察していることに気づいた)。その他は自分で和訳がひらめいたものである。раньше времениは、「あせって、早まって」などと訳せる。Не надо её волновать раньше времени.(早まって彼女を不安がらせる必要はない)。в очередной разは「また、次に」と訳せる。Троицкий собор недавно в очередной раз отреставрирован.(トロイツキー大寺院はまた修復された)とかВ очередной раз нырнув в щель рядом с полковномком-артиллеристом, Синцов улыбнулся, несмотря на серьёзность положения.(次に砲兵大佐と並んで隙間に潜り込んだときに、事態の深刻さにもかかわらずシンツォーフはほほ笑んだ)
ロシア語の中級以上の参考書の内容を100%覚えるというのは不可能に近い。私がやっているのは参考になった項目や分かりにくい内容をページ数とともに、後ろや前の見開きに書きこむことである。こういう自分なりの索引を作っておけば、忘れたときなどすぐ肝心の個所が分かり、内容も取り出せ、記憶に残りやすくなる。覚えるところはすぐ覚えるが、相性の悪いものもあるもので、そういうのはいつになってもこの索引のお世話になることになる。しかし、参考書の数が多くなると、どこにその肝心の索引を書きこんだかがわからなくなる。それで、何度も書いたが、エクセルで和露の語彙集の中に例文として放り込めるものは放り込んでおくのである。そこに自分なりの目印(相対時制など)を書いておけば後で検索がきく。
設問)「この近くに住んでいるんです」をロシア語にせよ。

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2011年11月15日

●和文解釈入門 第179回

被動形短語尾についてはアカデミー文法でもそんなに詳しくは書いていない。せいぜい動作主体の造格がなければ、動作というよりは状態の意味が強いというぐらいである。例を挙げると、В 1985 г. композитором П.К. Щедриным написан по рассказу балет.(1985年作曲家シシェドリーンによってその短編ついてのバレーが書かれた)とКлуб постороен.(そのクラブは建てられている)。第175回で被動形短語尾にはアオリストと結果の現存があるという事を書き、その区別はアオリストにはбытьの過去形がついていて、結果の現存にはつかないとも書いた、ところが、そうなると、ある百科事典で見たДоктор Живагоの解説の (Роман) Написан в 1946 – 1956 гг.(1946~57年に書かれた)という文は結果の現存であろうから、能動文にしたПастернак написал «Доктор Живаго» в 1946 – 1956 гг.も結果の現存であろう。だから「書いた」や「描いた」がすべて創作者の資格(アオリスト)の用法だとはいえないと思う。ついでにバレーの「白鳥の湖」の解説の出だしには、(Балет) Написан в 1876 г., впервые поставлен В. Рейзингером в феврале 1877 г. в Большом театре.(1876年に書かれ、レイジンゲルによって1877年2月に初めてボリショイ劇場で上演された)とある。しかし、これだけあからさまに過去の目印である1946年~56年とか1876年という語句が来ているのに、結果の現存というのはおかしいとも感じる。これらはアオリストの用法のはずだ。この他にも(Поэма) В СССР издана в 1987 г(〔物語詩〕は1987年に出版された)という文もある。ただ上記の3つの文は作品が今に残っているから結果の現存と考えてよい。
問題なのは、ヴォルクターВоркута市に関する記述で、Строительство шахт началось только в 1931 г. В 1934 г. выдан на-гора (то есть на поверхность земли) первый промышленный уголь.(立て坑の建設は1931年にようやく始まった。1934年に最初の産業用石炭が出炭された)では、明らかに順次的用法、つまりなアオリスト的なものであり、まさかその最初の石炭がまだ現在残っているという事ではないだろう。これは最初の出炭という記憶が今に至るまで残っている(結果の現存)というふうに理解するしかない。私が考える被動形過去の典型的なアオリストは、ガガーリンに関する記述で、В 1960 г. был зачислен в отряд космонавтов.(1960年宇宙飛行士の部隊に編入された)である。
 бытьの過去形 + 被動形過去はアオリストないしは、現在に至らない過去のある時点までの継続や状態を示すと考えてもよい。この用法では起点のみを示すことができる。例えば、Одна концелярия была создана в июле 1713 года.(ある官房は1713年7月に設立されている)
設問)「この辺はとても物騒です」をロシア語にせよ。

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2011年11月16日

●和文解釈入門 第180回

英語とロシア語は同じインドヨーロッパ語族だから似ているとはいえ、体の用法というのはスラブ語独自のものであるとイェスペルセンも具体的な例を挙げて説明していることは第176回に紹介しておいた。英語では体の用法を慣用句でカバーしているわけである。むろん慣用句を多数覚えるというのも大変だが、しかし、それはある意味で機械的作業と言える。体の用法の理解というのはその本質を理解することであり、機械的に単語を覚えるのとはわけが違い、難しい。ロシア語の学者でも体の用法の重要さを指摘している人は少ないように思われる。指摘している人でも、それはあくまで露文解釈の観点からであって、通訳やガイドの経験がほとんどないからか、和文露訳のそれではない。イェスペルセンは教養のない農民でも25,000ぐらいの母国語の語彙はもっていると述べている。一概にデンマーク語や英語と比較できないけれども、同じ論法でいけば、ロシア語だって辞書1冊とは言わないまでも、その1/4ぐらいの語彙を覚えないとロシア語を最低限理解したとはいえないことになる。英語は初歩の文法と語彙をある程度覚えたら、その後、慣用句を大量に覚えればそれでマスターという事になるのかもしれないが、ロシア語ではそうはいかない。露文解釈はまだそこに、普通は正しいロシア語が書かれているから体の用法を特に気にしなくても訳せるかもしれないが、和文露訳では体の本質を理解しないと、1万か2万の語彙を覚えても、結局はロシア語がよく分からない、朦朧とした状態が続くことになる。しかもその語彙がたんに覚えるだけでなく、使えるようになるまでには何年かかることか。それゆえロシア語をマスターするためには、初級の段階で体の用法の本質を理解する重要性が理解されるはずだ。体の用法さえマスターすれば、後は類語と語彙を機械的に増やして行くだけでよい。
ロシア語の住民名で、モスクワや東京などは露和辞典にも載っているからいいが、他の都市ではどういうのか想像はつくもののはっきりとは分からない。それで何年か前から自分でエクセルに読んだ小説の中に都市の住民名が出て来るものは別にリストアップすることにした。しかし、私のコレクションは外国の都市名も入れているとはいえ、179と大した数ではない。最近黒田龍之助先生の「ロシア語の余白」(現代書館、2010年)を読んだら、Русский названия жителей, словарь-справочник, И.Л. Городецкая/Е.А. Левашов, Астрель/АСТ, 2003という辞書のあることが紹介されていた。早速ナウカに注文し、購入した。これはロシアの都市の住民名を用例と共に約14,000収録している。これまでロシア語関係の辞書は320種集めたが、これは知らなかった。いろいろな辞書があるものである。黒田先生は言語学者でもあり、ロシア語についてはオーソドックスなアプローチで、初心者にロシア語をどう教えるかということのエキスパートだが、私は、一度(あるいは一度ならず)ロシア語を諦めた人たちにロシア語会話で実際にロシア人と会話するにはどうしたらよいかを文法を軸に趣味としての再学習を勧めるという立場である。一度ロシア語を諦めた人は都市鉱山のようなもので、その埋蔵量というか可能性は非常に大きいと思う。私のコーナーはこういう人たちに、ロシア語を趣味や生きがいにしてもらおうという試みの一つである。
設問)「前を失礼します」をロシア語にせよ。

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2011年11月17日

●和文解釈入門 第181回

イェスペルセンの「文法の原理」(安藤貞雄訳、岩波文庫、2006年、3巻)は名著で、例文は英語が多いが、ロシア語のも少しはある。ただその中には若干納得のいかない説明もある。例えば、Дом нов.とДом новый.の違いで前者は「家が新しい」であり、後者は「新しい家」と説明している。こういう訳も間違いとは言えないが普通ではない。前者は形容詞の短語尾だから、一時的な質を表すのが普通であり、家のようなものに、つまり新築だと言えるのは一日二日ということはありえず、2~3年は新築と言えるかもしれないものに短語尾を使うのはどうかなという気がするし、私なら使わない。後者こそ「家は新しい」と解釈するのが普通で、詩か何かで語順を変えるのならともかく、新しい家ならНовый дом.となるのが普通だろう。
またThere is a boy.という構文を説明して、ロシア語ではБыл мальчик.と主語と繋辞 (be動詞など)は倒置(語順を反対にする)にすることにより「~がある」という存在の意味になると説明している。確かにБыл мальчик.が語順的にはノーマルだが、Мальчик был.だって文法的には正しく、意味に変わりはないはずだ。「~がある」という存在の意味は過去や未来時制においてはбыть動詞によるのであるというのは初級文法である。本書は名著ではあるし、時制など非常に参考になる記述があるが、ロシア語の理解は表面的なものだけで、無理やこじつけがあるように思われる。それと訳注にロシア語ではчетыре годаだが5以上からはгодовが使われると今時初級者でも間違えないようなことを書いているのは如何なものだろう?ロシア語のできる人に見せなかったのだろうか?
設問)「自動車の生産にはロボットが使われている」をロシア語にせよ。

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2011年11月18日

●和文解釈入門 第182回

 もともとアオリスト相というのは動作が単純で列挙的、瞬間的という意味だが、私が使っているアオリストの意味は、過去の動作について総括的に、また完結した出来事として述べるということであり、「過去における繰り返しのきかない唯一の行為」で、ある動作がある過去の一つの時点で事件が発生(その報告)するという、また現在と関係のない過去の具体的動作を示していると、このコーナーでは理解してほしい。私の言う典型的なアオリストの文と言うのは、Восстание произошло в Петербурге 14 декабря 1825 г.(反乱は1825年12月14日ペテルブルグで起こった)である。
過去のある時点から現在までの継続の意味は不完了体現在形で示すことができると第11回の回答で述べた。復習すると、С 1995 г. святой Георгий снова избражается на гербе Москвы.(1995年から聖ゲオルギーは再びモスクワの紋章に描かれている)などであるが、これは繰り返し(何度も何度も)という意味にも取れるかもしれない。その他に現在から未来への継続という意味でも不完了体現在形が使え、用法的には予定の意味である。今現在2011年として、С 20 января 2012 года запрещается курение в общежитиях.(2012年1月20日から寮での喫煙は禁止する)などは動詞によっては可能である。過去のある時点からある時点までの継続はふつう不完了体の過去形で示される。Храм существовал с 15 до 19 века.(寺院は15世紀から19世紀まで存在した)。
また過去の特定のある時点から開始したということはアオリストで示すことができる。В крупных размерах выпуск медных монет начал осуществляться с 1705 г.(大規模に銅貨の発行が行われ始めたのは1705年〔から〕である)。このような用例は始めたことが現在まで継続していないか、話し手がそれに関心がないということを意味する。またбытьの過去形 + 被動形過去はアオリストないしは、現在に至らない過去のある時点までの継続や状態を示すと考えてもよい。この用法では起点のみを示すことができる。例えば、Одна канцелярия была создана в июле 1713 года.(ある官房は1713年7月に設立された)。
бытьの過去形 + 被動形短語尾で思い出したが、Роман И. Ильфа и Е. Петрова, входящий дилогию «Двенадцать стульев» и «Золотой телёнок». Романы были написаны соответственно в 1927 – 1928 и в 1930 – 1931 гг.(2部作「12脚のイス」と「黄金の子牛」に入るイーリフとペトローフの長編小説。それぞれ1927~28年および1930~31年に書かれた)という文で、どうしてнаписаныの前にбылиが入るのだろう。この作品は現存するから、なければ結果の現存になるのにそうなっていない。たんにその年代に書かれたという意味のアオリストなのだろうか?そうかもしれないが、私の考えでは最初の文でその小説ということがすでに触れてある。だから不完了体過去形のような刺身のつまのような用法、つまり動作自体に文のアクセントがなくて(作品が現存する以上、書かれたという事は理の当然だから)、書かれた年代に文のアクセントが来るから、былиを入れたのではないかと推測する。
設問)「風がとても強くて屋根の瓦も飛ばされた」をロシア語にせよ。

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2011年11月19日

●和文解釈入門 第183回

 ロシア語に入った日本語というのはあまりないが、今でもロシアでよく見る単語にивасиがある。これは商品名をсельдь-ивасиといい、マイワシのことである。評論家蔵原惟人(1902~91)は1930年非公式にソ連を訪問しているが、その「ソヴェート旅行記」の中で。イワシという名は沿海州由来(つまり日本人が漁業を通じて伝えた)だろうと述べている。ちなみに、それ以外の種類のイワシであるカタクチイワシはанчоусで、ウルメイワシはсельдь-круглобрюшкаである。ちなみに蔵原は同書で柿は日本から南カフカーズへ入ったもので「カキ」と呼ばれていたとある。それが本当だったかどうかは知らないが、柿はロシア語では今やхурмаである。
 猛暑をロシア語にするとжараとзнойが頭に浮かぶが、знойというのはイメージとして乾燥、陽炎、農村、開けた場所というのがあり、日本のように湿度が高いところのものはжараである。жарは猛暑と言う意味では廃用である。
 Лидерство сохраняет сеть «Евразиа». Доля рынка компании увеличивается.という文があったとして、このкомпанииをどう訳すかである。「〔ユーラシア〕チェーンが首位を保っている。同社のマーケットシェアは伸びている」と「同社」とするのも和訳のコツである。
層にはслойとпластがあるが、基本的にпласт = плотный слойということで地層などの堆積層に使われる。слойの方はверхние слои атмосфера(大気の上層)やвсе слои населения(住民のすべての層)という使われ方をする。толщаは厚い層のことで、толща воды水の厚い層などという。なお厚さはтолщинаだが、層の厚さにはмощностьを使うので注意の事。多層構造の多層をмногослойная структураとすると、層と層がぴったりとくっついている感じがする。だから立体駐車場をмногоуровневая парковкаとするのは、これは階層がたくさんあり、層と層との間に空間があるということで、層がぴったりくっついていない場合はこちらが使えると思う。他にмногоуровневая структура рестранного маркета(レストランマーケットの多層構造)などとマーケティング用語では使う。многоярусная структура(五重塔など)や многоплановая структураなども似た和訳で使えそうだ。
設問)「その映画の出演者はニコライ・チェルカーソフ、アンドレイ・アブリコーソフ、ニコライ・オフロープコフ他だった」をロシア語にせよ。

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2011年11月20日

●和文解釈入門 第184回

山本夏彦の「私の岩波物語」(文春文庫、1997年)に哲学叢書や翻訳文学の影響で日本語がだめになったというところがある。哲学叢書は訳語の定義を徹底すると、新たに用語を作らざるを得ないと考えたのか、定立、措定など一般的な日本語ではない言葉を使ったことが日本語を悪くしたということらしい。ドイツ語原文では分かりやすい言葉で哲学を説いているのに、日本語では難しく言うことがあたかも高邁な説を言うという誤解が行われており、これが博士論文などの日本語にも反映されているのかもしれない。定義を明確にするために哲学用語を新たに作るという安易な方法が日本語を毒したと言えないこともない。
翻訳文学については、奴隷的逐語訳という言葉を使い、大正年間はトルストイの翻訳の、昭和に入ってはドストエーフスキーの翻訳の影響があるという。つまり訳者である米川正夫、原久一郎、中村白葉は原文に忠実なあまり、また文法的に正しくありたいあまり、日本語のリズムを失ったとある。しかし、ロシア語も知らない人がどうしてこう言い切れるのか理解できない。誤訳についても「カラマーゾフ兄弟の翻訳をめぐって」(大島一矩、米陽出版社、2008年)で詳細に比較検討しているからこういう人が云うなら話は別だ。文法に関する理解が現在より進んでいなかった当時、誤訳がないとは言い切れないはずだ。ロシア語が分からないなら、単に日本語として読みにくいと書けばよい。
ただ、暮らしの手帖の編集者の花森安治の述べたという「英和辞典に出ている言葉は日本語だと思うな」というのは、大いに参考になる意見である。辞書の訳はあくまで参考であり、それに基づいて文脈による日本語らしい日本語を書くのは当然であり、それには日本語の文章修行が必要である。辞書の編纂者だって全ての文脈に即した訳語を提供できるはずもないし、語義をできるだけ分かりやすい日本語で伝えることに努めているのは当然である。文章修業というのは、語学以前というか、あるいは平行して個々人が勉強しなければならないものである。
 文章の達人とも言える丸谷才一の「文章読本」(中公文庫、1980年)にも、「美文というのは多義性、つまり曖昧ということが情緒を生む」、「たとえば、過去のことを述べる場合にもところどころ現在形を混ぜるのはすこぶる有効な手だろう。日本語にはもともと欧文ふうの厳密な時制の習慣はないのだから、これでいっこう差支えない場合が多いし、情景はむしろいっそう鮮明にさへなるかもしれない」とか、「〔だった〕、〔あった〕、〔行った〕と文章の終わりの音がみなそろう直訳風の文章の欠点」、「〔である〕づくめを止める」と述べ、体言止め、文語体、口語的口調の混用だって効果もあるかもしれないと述べているのは日本語の文章を書く上で大いに参考になる。
話がややそれたので元に戻すと、山本の言わんとすることは分かる。この3氏の翻訳を読んだことがないので、この3氏に対しての批判は避けるが、トルストイやドストエーフスキーは著作集のそれぞれ20巻ずつぐらいは原書で読んだが、結構読みやすかった記憶がある。それを活かしきっていないのなら、それは翻訳の問題だと言える。もっとも読みだしたのはロシア語を始めてから20年ぐらいしてだから、大して自慢にもならない。名作というのは難解だから読むのではなく、名作そのものが読者を惹きつけるのだと思う。Платонов, Пелевинを読むのを最初の10ページぐらいで自分が飽きるのは、文体の好みもあるのだろうが、トルストイやドストエーフスキーなどと比べると作品自体のレベルが落ちるのだろうと思っている。
設問)「何年生まれですか?」をロシア語にせよ。

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2011年11月21日

●和文解釈入門 第185回

「たった今」とか「~したばかり、~したての、~ほやほや」というのは、только что погашенные пожары(たった今消し止めた火事)、только что купленная вещь(たった今買ったばかりのもの)、только что изготовленный(作りたての、できたばかりの)、только что отпечатанный журнал(刷りたてほやほやの雑誌)などと言えるが、свеже- + 被動形(能動形)過去形からでも作れる。свежевыстиранное бельё(洗いたての洗濯物)、свежезаваренный кофе(いれたてのコーヒー)、свеженаезженные дороги(車がたくさん通りだしたばかりの道)、свежестроганные блоки(かんなで削ったばかりのブロック)、свежесрезанные(切りたての)、」свежеотрубленная голова(斬ったばかりの首)、свежемороженый тунец(急速冷凍マグロ)、свежескошенная трава(刈ったばかりの草)、свеженапиленные доски(のこぎりで切ったばかりの板)、свежевскопанная земля(掘り起こしたばかりの土)、свежевырытые могилы(掘り返したばかりの墓)、свежевыкопанныя траншея(掘ったばかりの塹壕)、свеженадоенное молоко(しぼりたてのミルク)、свежевзятый подследственный(収監されたばかりの被告)、свежевыпавший снег(降りたての雪)、свежеарестованный(逮捕されたばかりの人)、свежеосаждённая двуокись марганца(沈殿したての二酸化マンガン)、свежевыстроенный домик(たて終わったばかりの小さな家)、свежеиспеченные пирожки(焼きたてのパイ)、свежевыловленные живые раки(取りたての生きたザリガニ)、свежепогибшие(死んだばかりの人)、свежеструганный столб(削りたての柱)、свеженарезанные стебли(切ったばかりの茎)、свежеприклеенное воззвание(貼ったばかりのアピール)、свежепросольные огурцы(浅漬けのキュウリ)、この他に、новоиспечённый профессор(できたてホカホカの教授)、нововышедшие из-под его карандаша стихи(できたての彼の手になる詩)という言い方もある。
設問)「友情は別にして、処置は取らないといけない」をロシア語にせよ。

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2011年11月22日

●和文解釈入門 第186回

同時通訳と言っても露文和訳なら、分野を限定して、語彙を増やすことと聞きとりの練習をすることである程度は可能かもしれないが、和文露訳となるとまずほぼ完ぺきにロシア語が話せるという事が前提となる。大人になってからロシア語を始めた外国人に果たして同時通訳でそういうことが本当に可能なのだろうか?これは瞬時に体や類語の使い分けを決めなくてはならないことを意味する。無論同時通訳をやる前に、事前にテーマの勉強はするだろう。テーマを離れた同時通訳にはならないのが普通だし、使う文体は公的なビジネス的なものだということなのだろうが、かなり難しいと思う。事前に何の準備もせずにこれが出来る人はロシア語を究めたということになるのだろうが、自分はまだとうていそういうところまでは行っていない。
「斬る」はрезатьでもいいのだろうが、Тот ударил его ножом (мечом).(その人はナイフ〔刀〕で彼を切った〔斬りつけた〕)という表現のほうをよく見る。これだとナイフをもって体当たりとか突くなど何でも使えそうだ。また日本語も人の場合は「切る」よりも「斬る」のほうが刃物で相手を傷つけるという感じが出るように思う。рубитьだと「思いっきり」というニュアンスで、斬り落とすに近い感じである。
設問)「だってそれは今に始まったことではない」をロシア語にせよ。

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2011年11月23日

●和文解釈入門 第187回

この頃はあまりお金もないので日本語の本も買わない。それにロシア語の本が2000冊ぐらいあるし、数えたことはないが日本語の本もある。これ以上本を置く余裕は狭い我が家にはないので、要らない本は図書館の「誰でも持っていってください」というコーナーにもってゆくことにしている。そうなると日本関係の一般的な資料調べに便利なのは図書館である。私の住んでいる東京都葛飾区の図書館はインターネットで予約ができるし(まあ特に驚くことでもないとは思うが)、ない本は都内なら都内の図書館から借りだしてくれるサービスもある。村山春樹の本は15年ぐらい前に出たのならともかく、最新版では1年以上待たされそうだ。だから私の借りるような本は偶然かどうか知らないないが、貸出順位1位のものばかりだ。つまり人気のない本とか、閉架や保存庫にあるものばかりだ。その人気のない本にもたまには鉛筆で書き込みがあるのを見ることがある。ここを読めということらしい。余計なお世話だ。どうも学生が試験の課題図書として借り出したらしい。それで無料で借りていることもあって(区民税は納めているが、多分それほど多額ではないので)、鉛筆で線を引いているところや書いてあるものは消しゴムで消すようにしている。ところが、けっこう力を込めて線を引いているものが多い。これはこの場所のコピーを取るつもりだったのかもしれない。消しゴムで消すのにもけっこう力がいるのに気がついた。
設問)「次の青森行きはいつですか?」をロシア語にせよ。

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2011年11月24日

●和文解釈入門 第188回

会話で自然に使えるような、語結合もすべてそろっているような例文を文学作品の中から見つけのは難しい。それに文学は一般的に平板的な表現や使い古された表現を嫌う。しかし私が会話用に求めているのは、それこそ使い古された、平板で違和感のない日常的表現なのだ。
「火を起こす」はразвести (разжечь) огонь(разложить огоньは古い言い回し)だが、「こするか火打ち式で火を起こす」はдобыть огонь трением или высеканием искрыという。「涙を流す」は一見проливать (лить) слёзыでよいようだが、これはдолго плакатьと言う意味なので、「さめざめと泣く」などの訳を考える必要がある。駅のプラットホームにはплатформаとперронの二つの訳が 考えられるが、перронは旅客列車が止まるプラットホームを指す。платформаは貨物列車用にも使える。ダムはплотинаで、小さいダムをзапрудаという。日本語の発音に似たдамбаは堤防や土手を指す。плохойとнехорошийはシノニムだが、нехорошийの方が悪い程度がそれほど強くはなく、道徳的な性質、素行、関係などで用いられる。日本語の「よくない」と感じが似ている。худойはне говоря худого слова(余計なことは言わずに、さっさと), быть на худом счету(評判が悪い)という表現を除いて現代では俗語としてしか使われない。
設問)「この単語をどう発音するのか辞書を引かなくては」をロシア語にせよ。

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2011年11月25日

●和文解釈入門 第189回

〔訂正とお詫び〕
第186回で設問)「だってそれは今に始まったことではない」の答えをЭто ведь не теперь начиналось.としましたが、これは私の勘違いで Это ведь не теперь началось.が正しい。結果の現存の用法です。MIさん、ラーポチカさん、メイさんには深くお詫びするとともに該当のみなさんへの回答部分を訂正しました。これは定型表現です。私のように間違って覚えてしまうと後まで祟ってかかなくてもよい恥をかくという好例です。

単語を覚えるときにできるだけぴったりの訳語を覚えるのは当然だが、なかなかぴったりのが見つからない。それで本義(本質的な意味)を覚えることになる。無論訳語は文脈によって変わるのだが、会話で使うのは挨拶などの定型表現клишеや自由表現といっても慣用表現が多い。時間のあるときにそういうぴったりとした訳を見つけて暗記しておけば、この状況ではこうと後で通訳する時の負担が少なくなる。露和辞典だけではなく国語辞典が手放せない理由でもある。
帽子はデパートなどにある表示(つまり一般的に言う場合)ではголовной уборだが、ロシア人はつばがある帽子шляпаか、つばなしшапкаか、あるいは野球帽のようなкепкаを分けて考えるようである。防寒用の毛皮の帽子ならшапкаと考えるのが普通である。シルクハットはкотелокとか шляпа-цилиндрという。カウボーイ(テンガロンハット)ハットはковбойская шляпаとかковбойкаという。前回出た強盗に関連して、盗難кражаも、車の盗難(自動車泥棒)はугон машиныといい、これは家畜泥棒угон скотаの類推であろうと思われる。つまり盗むものが交通手段の場合にはугонが使われるということである。これから派生して、угон самолётаというと飛行機のハイジャックとなる。
設問)「彼は雷に打たれて死んだ」をロシア語にせよ。

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2011年11月26日

●和文解釈入門 第190回

80年代家族とともにモスクワに駐在して気がついたのは、アスパラспаржаや生姜имбирьが手に入らないことである。近く(Проспект мира)に植物園の分館があり、休日に行ったら、竹のように生い茂っていたアスパラを見つけた。当時アスパラというのは植物園で見るものだったのである。生姜も和風料理には不可欠なもので、モスクワで見かけなかったのでヨーロッパに出るときなど必ず買い求めたものだ。пряникというのはジンジャーブレッドみたいなもので、革命前の製造法などを見ると生姜が入っているが、革命後は生姜なくなったのであろう、風味だけ生姜まがいのまま、有名なトゥーラТулаのものですら未だに生姜が入っていないようだ。まあ無しで済むならというか、ないのが伝統になったのだろう。ところが1999年2度目のモスクワ駐在のときはスーパーにアスパラも生姜も出回っていた。隔世の感がある。
設問)「学部事務局に試験が何日になったか聞いてください」をロシア語にせよ。

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2011年11月27日

●和文解釈入門 第191回

前にプロになるためには何万の語彙や表現を覚えなければならないと書いたが、しかしそういう役に立つ表現というのは通訳やガイドの現場でロシア人とのやり取りの中で覚えることが多いので、勉強する気のある、できる人はますますうまくなって行き、中級者の人でもプロ志望者には以前と違いそのような機会がないような気がする。その現場に立つにはある程度プロとしてやれる実力がなければならず、まるで悪循環である。そういうこともあって、このコーナーはプロを目指す人の入門編として、ガイドや通訳でよく使う表現もできるだけ取り入れるようしている。その中には一見簡単だが会話集などには載っていないものもいくつかあるはずである。勉強はやみくもに暗記すればいいというものでなく、要は自分にあった学習法と、どんな通訳やガイドでも使う一般語彙(そうはいっても会話集にあるものや参考書にあるものとは違うかもしれない)、それと自分の仕事や専門(あるいは好きな分野)に必要な語彙というものがあるので、そういうのを集中して覚えればよい。その一つとしてご利用いただければ幸いである。
 露文解釈は単語の意味が一つぐらい取れなくとも、文脈によっては理解できるが、和文露訳となると体の用法や基本的な類語が分かっていないと和露辞典だけで露訳するのは無理だと思う。和露辞典のロシア語を見ていると、シソーラスтезаурусのように、類語の羅列だけで使い分けの説明がないから、読む人は皆同義語で、同じように使えると思ってしまう。そういう場合もあるかもしれないが、まったく同じ同義語というのはないわけで、同じように見えても用法が文体的、状況的に違うのもあるし、多義語では中の意味の一つが同じだというのもある。これからも自分が会得したシノニムのうち説明しやすいものを選んで書いていくようにしたい。
設問)「参考のためご意見をお聞かせ願います」をロシア語にせよ。

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2011年11月28日

●和文解釈入門 第192回

革命前の小説などにたまにボトヴィーニヤботвиньяというスープが出てくる。キュウリ、氷、白身魚の入った夏の料理である。2000年ごろ二度目のモスクワ駐在のときに駐在事務所と同じビルのレストランで食べたが名は同じもののたんなるキャベツスープだった。まあこういう料理の伝統は富農や中農が革命で絶滅したので、それと共に滅びたのであろうし、作り方を知っていた人も材料がないのだから作りようがなかったから正統派のものは伝わらなかったのだろう。сбитеньは蜜湯などと訳し、各種の香草や蜂蜜を水に入れ温めたもので、18世紀初頭に紅茶が流行るまで庶民の飲み物だった。これを私が初めて飲んだのは1985年ごろクレムリン近くの軽食レストランでである。今でもロシア料理店で飲ませてくれるところもあるようだ。結構おいしいものだが、レストランによって味が全く違う。
設問)〔ドアにノック。「お入りください」〕をロシア語にせよ。

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2011年11月29日

●和文解釈入門 第193回

清水幾太郎(1907~1988)の「私の文章作法」の中に文章の書ける人(文章に縁のある人)と書けない人(縁のない人)とあって、文章の書ける人とというのは、文字や言葉や文章に相当好き嫌いのある人とある。次いで文章修業というのは自分の好きな文体の所有者の文章を徹底的に真似ることである。かなり英語ができる日本人でも、また一般のロシア人でも、ことロシア語となると、このような文章修業とこのコーナーで出題しているような作文の勉強は違うという事を認識していない人が多い。だから外国語であるロシア語で作文しても、文法や語法が間違っているのを直してもらうのは当然だが、文章が下手だからこう直したらいいというのは、直すロシア人がよほどロシア語の文章の達人でも御免蒙った方がよい。文章修業と作文の勉強を取り違えているのである。我々は日本語でもロシア語でも実用文で平明達意の文を書けることを目指すが、ロシア語の学習者として、とりあえずは文法や語法にできるだけ間違いがなく、白を黒と言わないようにということを心がける。基礎ができないでいきなり応用とはいかないからだ。基礎も応用もごっちゃにして説明しているロシア人の先生もいるように見受けるが、この二つは別物であり、応用の、いわゆる文章修業というものは人から手を取り足を取りして習うものではない。文章というのは人によって好みが違うし、よい文章にもいろいろなものがあるからだ。
 設問)「壁は緑色に塗られている」をロシア語にせよ。

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2011年11月30日

●和文解釈入門 第194回

「ロシア語の体の用法」(原求作、水声社、1996年)は名著だが、その123ページのПриезжайте в Осаку.(大阪にお越しください)という命令形は、「過程を表現できない動詞ですから、当然動作への着手も表現できない、ということになるのですが、命令形で使われる場合は例外、ということになります」とある。приходи(те)だって、Приходите и приводите друзей, если вам так хочется познакомиться с нашим заводом.(当社の工場をそんなに見たいとおっしゃるなら、いらしてください、ご友人もご一緒に)などと使う。これも着手の用法から派生した促しという用法である。これは動作の時間と回数の制約がない「いつか」という意味の着手と考えてもよいような勧誘的意味合いを持つ動作の要請で、相手を拘束しないような動作の時に用いられる。さらに、Белые братья – Наливайという歌の歌詞にНаливай, выпивай, кайф поймай, и еще раз...(注げよ、飲めよ、ハイになれ、そしてもう一度)のвыпивайは多回体だから過程の意味は表すことができないが、この場合明らかに着手の用法である。過程と着手の用法は関係ないのではないかというのが私の考えである。
 приезжай(те)という命令形はприезажатьという不完了体だけでなく、完了体のприехатьの命令形でもある。Приезжайте в Осаку.は通常の会話の文脈から考えると明らかに不完了体の命令形で着手の用法だが、そのため用例としてはあまり適切とはいえない。
それと同書に「普通の状況では不完了体の命令形が使われるのが当たり前であるような動詞というのは、おのずと決まっています。以下のような表現は、そのまま、丸暗記しておけばよろしい。Входите. Проходите. Приезжайте. Приходите. Раздевайтесь. Садитесь.」と書いてある。むろんこれに反対するものではないが、露文解釈の専門家やロシア語の会話は原則としてしないという人であればこれでよいかもしれないが、通訳やガイドといった和文露訳の専門家のみならず、ロシア語の会話に興味があるような人に対してはこのようなアプローチはよくない。着手の用法は不完了体の基本的な意味でもあるので深く理解していないと、命令形といえば完了体しか出てこなくなるというような弊害を生むことになる。
本書とは関係がないが、思い出したのでついでに書いておく。при-という接頭辞のつく動詞は過程を示すことができないから、そこから派生すると考えられる予定の意味では使えないと考えられるが、L. MuravyovaのVerbs of motion, Русский язык, 1975の184ページにприходит, уходит, выходит = собирается прийти, уйти, выйтиとあり、
- Вечером у нас будет весело.(夜は楽しくなるわ)
- Кто-нибудь приходит к вам?(誰かお宅にいらっしゃるの?)という例を挙げている。
設問)「スーズダリはロシア有数の古い都市で、1024年から知られている」をロシア語にせよ。

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2011年12月01日

●和文解釈入門 第195回

この頃テレビで交通事故や地震の遺族の談話を聞くと、「故人も今頃は天国から声援を送っているかもしれません」とか、「いつか天国での再会を云々」というのを耳にする。私の子供のころは「故人もさぞやあの世で云々」だったように記憶している。古代の神道では死者は山や海や森の彼方に去るぐらいで、具体的なあの世観というのはなかったというのを読んだことがある。死んだ直後の霊は荒魂(あらたま)であり、そのため鎮める必要があり、それがだんだんと和魂になり、33回忌を経て先祖と一体化するという説は近代のものらしい。仏教では本来は解脱だが、全部の宗派ではないにしろ一般的にはこれも死ねば西方浄土に向かうという風に受け止められている。現代の日本人の死生観は、桜葬などの樹木葬が増えていることを見ても、墓などのあまり重きを置かないが、それでも死ねば極楽ではなく天国に行って、そこで先祖や先に亡くなった親族と再会できるということらしい。それから先はどうなるのだろう。スウェンデンボルグの云うように霊界があって、死後そこで自分を高めるための修行をして生まれ変わるなどあるのだろうか?まあ証明できないことを考えても仕方がないのかもしれない。
設問)「街は車であふれている」をロシア語にせよ。

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2011年12月03日

●和文解釈入門 第197回

19世紀から20世紀初めのロシア語は現代ロシア語と比べて、それほど変わっていないと言われるが、それでも単語そのものの意味が少しずれてきているものもある。заряは19世紀では夕焼けと朝焼けの両方の意味があったが、現代語では朝焼けの意味が一般的である。
あまり文法書に載っていない基本単語の用法を挙げてみる。ждатьは副動詞とはならない(代わりにожидая, дожидаясьを用いる)し、後に不定形が来ない。знатьの後にも不定形が来ない。любитьの後にはчтобы, когдаは来るが、что, какは来ない。обожатьには命令形がない。слышатьも命令の意味では使わない。слышьというのは俗語で、「あのね、聞いてる、だってよ」という意味である。мочьには命令形がないのでуметьの命令形(сумейと完了体にすることが多い)を使う。Сумей догнать.(追いつけることが出来るようにせよ)となる。またмочьには未来形がないので、в состоянии + 不定形を使い、Банк будет в состоянии погасить задолженность через год.(その銀行は1年後に負債を返済することが出来るとしている)となることは拙著「アネクドートに学ぶ実践ロシア語文法」で触れた。俗語のне могиは女性が痴漢に「ダメ、やめてよ!」という感じで使うне смейと同じ意味で、非常に強い禁止である。このсмейはсметьが不定形であって、суметьではないことに注意。разныйは短語尾では使わない。предметは物主代名詞とは語結合をしない。だからмой предметとは言わない。どうしてもというのならпредмет моего исследования(私の研究対象)とでもするしかない。
設問)「ポケットから時計が掏られた」をロシア語にせよ。

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2011年12月04日

●和文解釈入門 第198回

 体の用法の参考書は例文を見る限り、露文解釈の観点で書いていると思われるので、時制の説明もロシア文が中心であるのも当然である。ただロシア語と日本語は系統が全く違う言語であり、しかも一見して時制が少しずれているのではないかと感じられる表現もいくつかある。例えば結果の存続(「~いらしています」などに完了体の過去形を使う)とか、経験(「~したことがある」に不完了体過去形を使う)などがあり、そのため会話用の和文露訳をする上で、日本語を中心に考えて、ロシア語ではどうなるかという文法的説明が学習者のために必要だと考えた次第である。
 露文解釈は体の用法を特に気にしなくても文脈によっては意味が理解できるし、訳文である和文では特に意味の違いを分けなくても日本語の表現が変わらない場合も多い。露文解釈だけをロシア語の勉強の中心に据えていると、いざロシア語の会話となったときに体の用法に無頓着になりがちである。またプロが行う露文和訳となれば、体の用法を完璧に理解していないとロシア語のニュアンスを理解できないことになる。城田先生によれば文芸書の和訳でも体の用法を無視した誤訳も散見されると言うから素人に限ったことではないかもしれない。会話で体の用法を和文露訳で使う場合、発想を変えて、これまで紹介したように日本語を中心に考えて、用法を整理して覚えれば案外簡単なものであると分かる。
「記念碑」はпамятникとмемориалが考えられるが、памятникは死後の個人を想定していて、生前に銅像を建てると、それはскульптурное изобрежение(彫像), бюст(胸像)という単語を使う必要がある。мемориалは個人には使えず、集団か抽象的なもの(栄光など)で、しかも壮大なというニュアンスがある。サインは書類の署名はподписьで、アイドルなどからもらうのはавтографである。
設問)「湖は南北およそ1200キロと細長く、平均の幅は320キロで、周囲およそ7000キロである」をロシア語にせよ。

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2011年12月05日

●和文解釈入門 第199回

ロシア語でyouを丁寧に表現すればвыである。これはフランス語から来たものだが、その基のラテン語においてローマ皇帝がvos(フランス語のvous)と丁寧語で呼びかけられたいがために、自分の事をnos(フランス語のnous)と呼んだことが、いわゆるимператорское мы(朕)という表現の始まりとされる。
 この他にa-で終わる名詞はインドヨーロッパ語族では元来女性単性形の集合詞だったという事も最近知った。ロシア語だけではないのである。
 テレビのリモコンはпультと言い、これはпульт дистанционного управленияを略した言い方である。塹壕はтраншеяは防御施設の全てのトーチカをつなぐ狭くて深い交通壕であり、окопは塹壕は塹壕でもタコツボ(個人用)などの散兵壕や、掩壕(兵馬を敵弾から守るためのもの)も含む。絞りはカメラのはдиафрагмаで、金属加工ではвытяжка、材料の延性の減面率(断面減少率)のことを相対絞りотносительно сужениеなどという。痰はмокротаで二番目のoに力点が来るが、湿り気のほうはаに力点が来る。
設問)「試験を行うのは国家委員会です」をロシア語にせよ。

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2011年12月06日

●和文解釈入門 第200回

2011年9月14日付の読売新聞に「情報化社会では誰も考えようとはしない」とあった。ニュースなども新聞やテレビを見る時間すらないか、そういう気持ちが元々ないのか知らないが、ネットの箇条書きになっている見出しを読んで終わりということらしい。だからマスコミも如何に簡潔に分かりやすくというのを競っているようである。地震やテロが起きたというような場合はそれでいいだろうが、なぜ起きたのか、またその影響を考えてみるためには、いろいろな識者の見解というのは無視できないはずだ。それも2、3行ではなく、いろいろな人の見解をじっくり読むという習慣をつける必要がある。読書も修行である。こういうのは子供じゃないのだから個人の考え次第である。ロシア語も同じことで、努力を続けさえすれば徐々に難しいと思われた本も読めるようになる。自然にロシア語の本が読めるようになるという事はない。
設問)「彼女はたった今ここにいたよ」をロシア語にせよ。

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2011年12月07日

●和文解釈入門 第201回

和文露訳で正しい答えを提示するのは簡単だが、回答者の作文を見て、それが間違っていれば、どこが違うのか、語法的(文法的、語結合的)にどう違うかを具体的に教えて、正解への道筋を示してやらないと、同じ誤りを繰り返すことになる。それに数学と違い、ロシア語の和文露訳の答えは味絶対に正しいという回答はあまりない。文脈というか、そのときの状況にもよるし、複数ある場合もある。「人の患いは人の師となることを好むにあり」というが、教えたいというのであれば、精神的なものも当然ではあるが、それ以前に生徒が求めているもの、つまり、いかにすればロシア語が話せるようになるか、ロシア語で自分の考えをロシア人に伝えることが出来るようになるかを考えて、それに応えるように自分のレベルを高めるよう不断の努力が必要である。生徒の方も自分の日本語での思考を磨き上げるために、日本語の本をたくさん読む必要がある。通訳をしていると、毎回日本語で何を言っているのかさっぱり分からないいい年をした大人も世の中にけっこういるなと気づかされることが多いからだ。
設問)「汽車は遅れを取り戻してきている」をロシア語にせよ。

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2011年12月08日

●和文解釈入門 第202回

ロシア語では朝出かけるときに挨拶として「行ってきます」とは言わないが、この文字通りの意味をロシア語でいうとすると、Я пошёл.である。ロシア人は実際に出発することを他の人に知らせるために使うのであって、これはロシア語では挨拶言葉ではない。
故障は1回ないしはいくつかの別々の故障が頭にある時はнеисправность, неисправности, неполадка, неполадкиを使い、при неисправности (-тях), при неполадке (-ах)(故障の際は)などというが、停電、断水、遅配など故障が続けて起きるような場合は、перебоиとперебойを複数形で使う。перебои в доставке(遅配)、перебои со светом(停電)、перебои в подаче электроэнергии(停電)、перебои в подаче воды(断水)、などという。сбой = перебой в движении, работе, действииであり、電気のショート、電線の破断とか、コンピューターなどでの不具合を指し、сбой в системах(システムの不具合)などという。
「人の外見」のうち、внешний видは身だしなみ、容姿をいい、внешностьは見かけ(人の本質とは違うというニュアンス)、наружностьは努力しなくても付与されたという意味の外見という意味である。обликは外見のみならずその人の本質も含めた姿かたちという感じで、肯定的な意味で使われることが多い。動物の外見はэкстерьерという。
設問)「長いこと追いつこうとして、ついに追いついた」をロシア語にせよ。

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2011年12月09日

●和文解釈入門 第203回

露文解釈で意味だけ分かればいいのだというのであれば、露和辞典でだけで十分である。しかし文章を吟味して味わいたい、昧読したい、ニュアンスもすべて理解したいというのであれば、またそういう意味でドストエーフスキーなどの19世紀の文学書を読みたいのであれば、ダーリДальの辞典も必要だ。現代文学ならダーリは不要かもしれないが、逆に口語辞典や俗語辞典がないと会話の部分は正確に理解できないだろう。ソルジェニーツィンは故新田實先生も文章が語法から外れているところが多いと指摘されていたし、ロシア人のロシア語文法学者もソルジェニーツィンの例文を挙げてこれは通常こうはいいませんと書いていた。「収容所列島」は隠語辞典があれば、ソルジェニーツィンの中ではドキュメンタリータッチだし読みやすいほうだが、「赤い車輪Красное колесо」となると、擬古文を自分の文体にしているようで、ダーリの辞典のほかに、彼が自分で編んだ辞書Русский словарь языкового расширения, Наука, 1990があった方がいいかもしれない。彼の著書にはそれだけあっても分からない単語というのがたまに出てくるし、文体がくどい感じがするので文章自体はあまり好きではない。昔邦訳で読んだので特にロシア語で読みたいという気も起きない。「200年後Двести лет спустя」はロシアのユダヤ人について書かれたものだが、邦訳もなく(あるのかもしれないが読んだことがないので)必要性があるから読んだぐらいだ。だからソルジェニーツィンはロシア・ソ連文学を原語で読むという(邦訳で読まない)私にとって例外である。
最近ある必要があって「収容所列島」を読みだした。読んでいるうちにКто ж у истока – курица или яйцо? люди иди система?(鶏が先か卵が先か、元々は何なのか?人か体制か?)という文に行きあたった。これは第40回の設問で出した活動体名詞はкто(厳密に言えばчтоで受ける場合も散見される)で受けるという事に対して、この文の鶏は活動体としても、卵はどうなのかとか、活動体である鶏が先に来ているからктоで受けているのかなどといろいろ疑問がわく。これについてはソ連時代のアネクドートに、
- Что было раньше - курица или яйцо?  「鶏が前か、卵が前か?」
- Раньше было всё!          「前には何でもあった」
とあり、これはчтоで受けている。このような文を前にすると、ソルジェニーツィンとてもктоかчтоかどちらにするか多少は迷ったのかもしれないなと思うと少し楽しくなる。
設問)「この家は築何年ですか?」をロシア語にせよ。

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2011年12月10日

●和文解釈入門 第204回

辞書を引かないとロシア語はうまくならない。辞書を引くのが面倒だと言うのは理解できるが、語彙を覚えるための一つの手段と割り切ってやるしかない。露露辞典をできるだけこまめに引くようにすれば、思わぬ発見があることもある。それを自分用に記録しておけば後で役立つこともあろう。

 同僚にはтоварищ по работе, коллега (по работе), сослуживецがあり、仕事仲間という意味だが、товарищは最近使わないようである。коллегаは同僚は同僚でも、知的労働者というニュアンスがあり、同じ会社の人でなくとも、同じ分野の職種の人であれば使える。御者はкучер, возницаが普通だが、昔の辻馬車の御者はизвозчикであり、повозочный, ездовойは軍、軍の衛生部隊の御者を指し、каюрは犬ぞり、トナカイぞりの御者を指す。возчикは荷馬車の御者である。

設問)「待ちぼうけかと思ったわ」をロシア語にせよ。

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2011年12月11日

●和文解釈入門 第205回

「(これから)~します」をロシア語にしようとして未来時制を使おうとすると、完了体未来形を使うべきか、быть の未来形 + 不完了体不定形を使うべきか迷う。第21回本文でもこのテーマについて書いたが、別の角度から選ぶ基準というものはないか考えてみたい。磯谷孝先生の「演習ロシア語動詞の体」(吾妻書房、1977年)を読み直していたら、そのものズバリではないが、быть の未来形+ 不完了体不定形が使えない不完了体動詞の基準らしきものが書いてあったので、ご参考までに私なりに理解し、それを次のようにまとめてみた。不完了体未来形が絶対に使えないものもあるが、優先順序でいえば完了体がよく使われるというものを挙げておく。
a) 不完了現在形で予定を示すことができる動詞群
 「(これから)昼食を2時に取るんだ」いう場合、Я обедаю в два часа.とするのが普通であり、実現の可能性が一番高い。無論不完了体だから「いつも昼食は2時に取る」という風にも取れないことはないが。そこは文脈次第である。頻度は少ないが、Я буду обедать в два часа.も間違いではない。訳は「2時に昼食を取るつもりだ」というふうに意向を示すことになる。さらにЯ пообедаю в два часа.なら、和訳は同じでも、食べ終わるという動作の完了の意味が強くなるか、奴は遊びに行くが、俺は昼食を取るというような新規の事柄というニュアンスが出てくる。こういう動詞群は和文露訳の場合は文脈によるのは当然だが、不完了体現在形を使えばスケジュールに沿ってという感じがして、ビジネス関係などでは多用されるが、使える動詞は限られている詳しくは第177回本文参照のこと。
b) 定動詞
 ехать, идти, лететьなどで、「ペテルブルグへ飛びます〔行きます〕」を何の脈絡もなく(いきなり)×Я буду лететь (ехать, идти) в Петербург.とは言えず、新規の事柄だからЯ полечу (поеду, пойду) в Петербург.と言わなければならない。無論不完了体現在形の予定の用法で、Я лечу (еду, иду) в Петербург.とも言える。しかし、従属文の中のように刺身のつまというか、意味の重心が来ないような文では不完了体未来形も使える。
Когда мы будем ехать мимо водохранилища, я покажу вам прекрасное место для отдыха.(貯水池のそばを通る時に、休むのにすごくいい場所を教えてあげる)
c) 限界を語義に持つ動詞群
кончать, начинать
 これらは完了体命令形が来るのが普通だが、刺身のつまのような用法で、Я буду кончать работу.(仕事を終えます)と言えないことはない。Будем начинать!(始めましょう)というのは、Давайте начнём (начинать)と同じ意味だが、雰囲気的にそうするのが当然という動作の着手というならНачинаем!というのが普通だ。С чего начнём? (= С чего начать?)〔何から始めようか?〕と完了体未来形が来るのは、新規の提案だからである。
d) 持続的動作過程を表すことのできない動詞群
 приезжать, приводить, привозить, приносить, приходитьなどの他にも第177回の表の現在時制のところに過程を表現でいない動詞群を紹介しているので、それも参考になるかもしれない。ただこれらは繰り返しの意味では不完了体未来形を取る。
e) その完了体が繰り返しのきかない1回の動作、意志的・非目的志向的動作を示す動詞群
 видеть, выздоравливать, вылечиваться (лечиться), поправляться, простужаться, погибать, рождаться, умирать, упадатьなど。
f) その完了体が瞬間的に成立する動作を表す動詞群
 брать, давать, изобретать, находить, получатьなど。
※ получатьにはТы будешь сегодня получать стипендию?(お前今日奨学金受け取るつもりか?)という文のように目的志向の意味があるときには、不完了体未来形が使える。
g) その完了体が状態の変化・発生を示す動詞群
 освобождаться, превращаться, становитьсяなど。
h) 無意識にもたらされる否定的結果を表す動詞群
 лишаться, ломать, разбивать, терять, уронятьなど。

上記の不完了体はбытьの未来形とともに不定形は、新規の事柄を示すためにいきなりは使えないし、いかなる文脈においても使えないものもある。逆に考えれば、使えるのは、
1) 動作の有無の確認
Я буду читать.(読みます)
 このように動作に完成がないときや動作がいつ終わるか不明という場合に使う。
2) 継続
Он будет долго уговаривать её.(彼は彼女を長いこと説得することになる)
3) 刺身のつまのような用法(反復や所要時間などを示す用法)
Когда будете приходить на занятия, приносите с собой книги.(授業に来る時は、〔毎回〕本を持って来てください)
Это очень удобный поезд. На нём мы будем ехать до Петербурга всего 6 часов.(これは非常に便利な汽車だ。ペテルブルグまでたった6時間で行くんだ)
- Завтрв я поеду в Москву.「明日モスクに行くんだ」
- На чём вы будете ехать?「何に乗ってで行くんだい?」
- На автобусе.「バスでさ」
4) 順次的用法ではない場合
Когда будете уходить, погасите свет.(帰る時は灯りを消して下さい)
 完了体未来形が続くと、動作が続けて起こるような(順次的)ニュアンスなので、そうではない時間を拘束しないような場合に不完了体未来形が従属節に出てくる。
5) 否定的意図
Я сейчас уйду и не буду мешать вам.(すぐに失礼します。お邪魔をするつもりはありませんから)
6) 着手(ここから予定や目的意識を持つ動作の意味が出てくる)
着手というのは、雰囲気的にこうなるのが自然であるという動作にも用いられるという事を覚えておこう。例えばレストランなどでЧто вы будете заказывать?(御注文はいかがなさいますか?)というのもレストランに入ったら食べ物を注文するのが自然であり、この文は着手を示していることは分かるだろう。
 両方の体が使えるような場合もあるが、ニュアンスの差は存在する。「明日電話申し上げます」という文は、Завтра я вам позвоню.やЗавтра я буду звонить вам.と露訳できる。強いて両者の違いを言えば、完了体未来形は動作実現の強い意志を示し、不完了体未来形は目的志向型(~するつもりである)ということだが、不完了体未来形が口語的だという他にはあまり違いは感じられない。ただ動作の完成時点を限定(期限を明示)する場合には、Я позвоню вам пораньше.(ちょっと早く電話します)と完了体未来形を使う。
まとめとして考えるならば、一般的に気持ちの上で完了体未来形のほうは不完了体未来形に比べて、すぐ行動に移すというニュアンスがあり、動作や行為のきっかけや出だし、ないしはこれまでの動作や行為の流れを変えるような動作や行為を示す。不完了体未来形は動作に一拍置くか期限が明示されないという感じであり、これまでの動作や行為(いわば線路)の延長上にあると思われるような動作や行為を示す。延長上にあると確信できれば、使える動詞の数は限られているが不完了体現在形を使うといういうことになる。
設問)彼はウェートレスから勘定書きをもらって支払を始めた。
「だけど俺も出したほうがいいかもな」
「次の昼食はあなたのおごりですよ」の3つの文すべてをロシア語にせよ。

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2011年12月12日

●和文解釈入門 第206回

ロシア語難語辞典Словарь трудностей русского языка, Розенталь/Теленкова, Русский язык, 1981に基づき、「~の後で」という意味のпосле + 生格とс + 造格の違いについて書いて見る。「母の死後状況は変わった」の露訳として、Положение изменилось после смерти матери.とПоложение изменилось со смертью матери.の違いは、前者が母の死後ある程度の時間が経過したという可能性があるのに対して、後者は母の死の直後というニュアンスである。
鮭は普通はシロザケкетаのことで、ベニザケはнеркаで、べニマスともいう。ヒメマスはその陸封型。ギンザケはкижучで、キングサーモン(マスノスケ)はчавычаである。これらの鮭は太平洋産だが、大西洋の鮭であるタイセイヨウサケ(アトランティックサーモン)はлосось (сёмга, благородный лосось, атлантический лосось)という。水産会社の人によればベニザケが一番おいしいということだったので、ロシアでのお土産は一時неркаの缶詰だったことがある。しかしシロザケとベニザケの違いは後者がオレンジ色が濃いぐらいで、味の方はよく分からなかった。ちなみに寿司ネタのサーモンはサーモントラウトのことでニジマスрадужная форельの商品名である。これは海洋性のサケ科の魚にはアニサキスанисакисなどの寄生虫がいて生食するのは危険だから、陸で養殖した(つまり寄生虫がつかないように管理した)同じサケ科の魚を生食用に使うためである。アニサキスを殺すにはマイナス20度で24時間以上の冷凍、ないしは摂氏60度で数分加熱処理すればよいということなので、サケにルイべという料理があるわけもよく分かる。サケマス科の魚でマスは一般的に陸で一生を終える魚を言い、カラフトマスгорбушаは例外である。イクラはカラフトマスのイクラが一番おいしいという話をマガダンでロシア人から聞いたことがある。カラフトマスの肉の方はサハリンでは、猫またぎならぬ犬またぎで味はまずいとサハリンの人は言っていたが、缶詰で食べる限りよく分からない。これは果たして得な性分なのか損な性分なのか?ちなみに彼の地の犬はカラフトマスなぞには見向きもせず、食べるのはサケの頭を少しかじるぐらいだとか。ヒグマなどもサケの遡上のシーズンで川にサケがたくさんいるときは頭だけを食べて後は捨てていたから同じようなことかもしれない。そういうおいしい目に遭ったことはないので分からないのである。
設問)「経験者の言う事を聞け」をロシア語にせよ。

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2011年12月13日

●和文解釈入門 第207回

20年の時を経てドストエーフスキーの死の家の記録を再度ロシア語で読んだ。20年前には印をつけたのは5、6か所ぐらいだったが、今でも1ページに2、3か所つける。進歩したのだろうが、ちょっと情けない気もする。もっとも印をつける中身がずいぶん進歩したのだと思いたい。当時は内容を追うのに精いっぱいだったし。150年以上前の本だが、この表現は会話に使える(ひょっとしたら哲学的な)というつもりで語彙集にも入れてみた。牢内の動物(犬や鷲など)のくだりが昔は何とも思わなかったが、いま読み返すと描写が淡々としているとはいえ胸に迫るものがある。この調子でチェーホフの短編や同じドストエーフスキーのカラマーゾフの兄弟などを読み返せば新たな興趣や共感も浮かぶのかもしれないが、まだ他に読むものがいっぱいあるのでそうはいかない。後10年も経ったらどうだろう?
設問)「われらは別の道を行く」をロシア語にせよ。

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2011年12月14日

●和文解釈入門 第208回

歴史的過去の用法の一つに劇的過去настоящее сценическоеというのがあり、アカデミー文法ではнастоящее комментирующее(注釈的現在とでも訳すのか)と歴史的現在とは別の項目を立てている。これは脚本のト書きのようにこれから起こる出来事を不完了体現在形で記述するもので、物語をかいつまんで紹介したり、その絵画が何を表しているのかの説明とか、文学作品の中で出来事を時間の流れに沿って描写するときなどに使われる。この用法は歴史的現在と違い、過去の出来事をあたかも目前にあるかのようにするというような状況設定は必要ない。実際の作者が全てを見通していて、ある種の筋書きという線路の上を走るようなものだから不完了体現在形が使われるのだろう。例えば「Москва слезам не верит(原題はМосква слезам не верит, ей дело подавай.「泣き言は言わずにさっさとやれ」という諺から来ていると思われる)」という有名な映画の粗筋紹介では、Действие фильма происходит в 50 – 70 –е гг. ХХ в. Три подруги приезжают в Москву из провинции.(映画の舞台は1950年~70年代。女友達3人が田舎からモスクワにやってくる)と、別段シーンが目の前に浮かんでくるという感じではないが、立派な劇的現在の用法である。
 ロシア語百科Русский язык, энциклопедия, Филин, Советская энциклопедия, 1979で現在時制の説明を読んでいたら、歴史的現在には過去のみならず未来をも不完了体現在形で示す用法があるとして、Через месяц я кончаю институт и начинаю работать в школе.(1ヶ月後大学を卒業して、学校で働き始める)という文を挙げていた。専門家ではないから何とも言えないが、これは不完了体現在の予定の用法にすぎないように思われる。これをわざわざ歴史的現在と呼ぶ必要があるのか非常に疑問だ。
設問)「彼は上司とそりが合わない」をロシア語にせよ。

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2011年12月15日

●和文解釈入門 第209回

「待ちぼうけかと思ったわ」の私の回答(第204回)をА я вас уже не ждала.としたが、これはシーモノフСимоновの長編「生者と死者Живые и мёртвые」にある一節である。ただそれに納得のいかない人もいるかもしれないので、別の面から解説する。レーピンРепинにНе ждалиという有名な絵がある。これは1884年から1886年にかけて製作されたもので、ナロードニキの流刑囚が思いがけずに家族に戻った場面を描いている。この絵の題名からне ждалиという表現は思いがけない出来事について話す時に使われるようになった。絵はネットですぐ検索できるから見てほしいが、それを見ればこの絵の題名が「来るとは家族のだれも思っていなかった」という意味になることがよく分かるだろう。
 日ソ図書のホームページに「ロシア語類義語語義・用法解説辞典(動詞・名詞・形容詞・副詞)」スレサーエヴァ、3780円とあるが、これが私のいう類義語辞典の一つである。ご参考までにお知らせする。
設問)「そのゴルフクラブは炭素繊維製だ」をロシア語にせよ。

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2011年12月16日

●和文解釈入門 第210回

大学を出てからある商社に勤め始めて1年後、名古屋の知多(ソ連のではなく)でソ連向け浮きドック建造の通訳見習いを1カ月ほど出張するよう会社から命じられた。そこで日本語の本はすぐ読んでしまうので、その頃すでに買い始めていたゴーゴリ全集から「検察官」の原書を暇つぶしに持っていくことにした。休みの日に読み始めたが1ページで20回か30回辞書を引く。これでは無理だとあきらめた。それからは技術ロシア語(船舶や鉄鋼)、ビジネスロシア語、諺、慣用句の勉強に専念することにしてロシアソ連文学を読むのはやめにしてしまった。そのころソ連通商代表部とも仕事上付き合いがあり、担当のロシア人の家族ともたまに会う。ところが5、6歳の子の言うロシア語がさっぱり分からない。大学を出て商社に入ったが、仕事上のロシア語の会話は専門用語以外まったく問題なかったのにである。今考えれば、子供の頭というのは自分の世界中心に回っており、それを理解するのは日本の子供の日本語だって難しいと思うのだが、そのときはとてもショックだった。それで初めてのモスクワ駐在(1983~88年)のときに、テレビの子供番組Спокойной ночи, малышиを毎晩見た。そういえば大学受験でリスニングの試験があると聞き、高校3年の春からNHKの基礎英語を聞くだけずっと聞いていたが大学のリスニング試験はそれで通った。だめなら恥も外聞もかまわず一番優しいものに的を絞ればいいのである。女房はモスクワ駐在のときにで私がテレビの子供番組をつけるのは、その頃小さかった娘のためだとばかり思っていたようだ。大学でロシア語を専攻した亭主がまさか会話の勉強にとは夢にも思わないだろう。さにあらずである。
設問)「ロシア人は1月13日から14日にかけての真夜中に旧正月を祝う」をロシア語にせよ。

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2011年12月17日

●和文解釈入門 第211回

1983年から1988年までモスクワに第1回目の駐在をした。当時子供向けの番組でオズの魔法使いの翻案のようなものをやっていて、それが面白かったので、その原作Волшебник измрудного города, Волковを買ってきて読み始めた。これなら面白いし、はかがゆく。前回も書いたが大学でロシア語を専攻して、ロシア文学が読めなかった私である。自慢ではないが在学中にガイド試験には受かっていたのでロシア語には自信があったつもりがこの体たらくである。しかし、語学の上達にはそんなことにはかまってられない。現状を打破していかにうまくなるかである。うまくなれば仕事にも役立つ。それで必死でいろいろな絵本を読み続けた。2年ぐらいで絵本も卒業し、ついに駐在3年目にしてパルノーフЕ. Парновの歴史小説3部作「マリア・メディチの長持Ларец Марии Медичи」、「シバ神の第三の目Третий глаз Шивы」、「マルタ騎士団の錫杖Мальтискицй жезлを、辞書を引き引き読めるところまでになった。この本のおかげでмедвежатникというのが俗語で金庫破りだと知った。当時露和辞典には載っていなかったように思う。
面白いのは家にアルバイトで手伝いに来ていたロシア人のアパート管理人の奥さんがこの本を貸してくれとと言ってきたことである。映画化もされたから有名な本らしかったが、かような犯罪小説は普通の本屋では人気が高くすぐ売れるので庶民にはまず手に入らない。外国人向けのベリョースカ(外貨専門店で本屋もあった)なら売っていた。1カ月ぐらいして返しに来たのだが、「佐藤さんは外人なのによくこんな難しい本を読めますね」と真顔で言ったのには本当にびっくりした。私にすれば簡単にではなく、辞書を引き引き読んでいるのだが、日本で言えばミステリーの文庫本みたいなものでロシア人にすれば単なる娯楽本ではないか。読書好きといわれるロシア人にとっても読書術というのがあって、だれでも黒帯や師範というわけでもないのだなと実感した次第である。そのころ彼女はエレベーター管理士の試験勉強中だと旦那さんから聞いた。まあまじめで感じの好い人だった。この旦那さんには私の(会社の)車の洗車を頼んでいたが、夫婦共働きが普通なので、資格を取ってもっといい仕事について家計を助けようとその奥さんは考えていたのだろう。そういう意味で向上心の強い女性だったわけである。
設問)「飛行服の形には宇宙飛行士のコメントと希望が考慮されている」をロシア語にせよ。

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2011年12月18日

●和文解釈入門 第212回

ロシア語の勉強にと思って、ロシア文学の原文とその訳文を使おうと思う人もいるかもしれない。カラマーゾフの兄弟の露文とその邦訳を手に入れて、邦訳を見ながら露文を文章ごとにチェックするというやりかたである。しかし、気をつけないといけないのは、ロシア語にも日本語にもそれぞれ文章にはリズムというものがあり、そのリズムを壊さないように意訳をせざるを得ない個所だって多々あると思うからである。そうなるとどうしてこのロシア語の語句が日本語でこうなるのか、なかなかすっきりとは理解できないことがある。場合によっては時制だって変わっているかもしれない。そこが露文和訳と露文解釈の違いである。和文露訳と和文解釈も同じことで、日本語で書いたものを縦のものを横にするようにはロシア語にできない場合が多いし、訳者のロシア人が日本の庶民的な文化や常識を知らないと、ロシアの常識に合わせてしまう可能性だってある。ロシア語の会話で活用しようとして、ロシア語の原文を勉強するのであれば、結局自分で読まなければいけない。そうすればその語彙が使われている背景なども文脈などもよく分かり、会話のときにもあまり変な訳はしなくなるはずだ。
「~の方向で」はпо направлению к + 与格、ないしはв направлении + 生格でよいが、на напрвлненииは軍事用語で「方面で」という意味である。на берлинском направлениииベルリン方面でということで、この方面の意味のнаправление = участок фронта, ориентированный на какой-либо стратегический пунктという意味である。
設問)「手術が遅れるぞ」をロシア語にせよ。

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2011年12月19日

●和文解釈入門 第213回

39歳のとき(この時すでに最初の5年間のモスクワ駐在を終えていた)にハバロフスクに出張した時、飛行機の関係で1週間ホテル待機となった。仕方がないので、ベリョースカ(外貨店)Берёзкаでパステルナークのドクトルジバゴを見つけ、することもないので、ホテルに帰ってから持っていた露和辞典で読み始めたところ、面白くなり、途中で辞書を引くのをやめて二日ほどで読み終わりった。ここでようやくロシア文学の面白さに目覚め、今に至るまで700冊以上は読んだことになる。この中の語彙や表現を会話に役立てようと思い、エクセルに和露語彙集として書き抜いているので、1日40~50ページくらいと遅読である。それでもその語彙集が8万項目を越えた。目指せ10万項目である。ようするに自前の和露辞典を作っていることになる。人には役に立たないかもしれないが、自分専用なので技術関係も、一般向けも区別はない。結構面倒で根気のいる作業だが40年近く続けている事になる。もっともエクセルにインプットしだしたのはこの13年ほどである。語彙をエクセルにインプットする過程で少しはスペルを覚えるという利点もある。文例は一つの項目でゼロのときもあるが、6つや7つというものもある。すべて和訳し、それもベストの和訳するように心がけているので、それが露文和訳の練習にも、日本語の勉強にもなっていると思うし、そのおかげで通訳していても日本語が出てきやすいような気がする。むろん活用を考慮して、語幹だけで引くようにすればロシア語からの検索も可能であるし、できるだけ引用する作者やその本のページも入れるようにしているので、その作者ごとに並べ替えも可能であるし、スペルや訳がおかしいなと思えば、面倒だが原資料をチェックし直すことも可能である。
設問)「最近の出来事について一言申し上げます」をロシア語にせよ。

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2011年12月20日

●和文解釈入門 第214回

ナウーモフНаумовという人との書いた「ピョートル大帝とその股肱の臣の日常生活Повседневная жизнь Петра Великого и его сподвижников, Молодая гвардия, 2010」という本の中に面白い記述を見つけたので、かいつまんで書いて見る。ピョートル大帝には最初の妻エウドキーヤとの間にアレクセーイ皇太子(1690~1718)と娘がいる。アレクセーイは後に父への謀反のかどでピョートルの面前で拷問を受け、死刑執行の朝謎の死を遂げた。死因は死刑を恐れるあまりの脳卒中とも言われている.一方二番目の妻エカチェリーナ(1684~1727、後の女帝エカチェリーナ1世)の間には12人の子ができだが、成人したのはアンナ(1708~28)とエリザヴェータ(1709~61/62)後の女帝エリザヴェータ・ペトローヴナ)の二人の娘だけである。二人は年子погодокだった。アンナはピョートル似で、やせて背も高く、知的好奇心が強く、頭の回転も速かった。ピョートルも世継にと考えた男の子が次々と早死にするので、ピョートルもいずれは彼女に国を任せたいという意向もあったようだ。若くして亡くなったのは惜しまれる。
 当時のロシアの上流階級では幼い娘にはハレの席では天使の白い羽根крылышкиをつけた衣装をつけさせた。成人になるとこの羽根を折る儀式が行われたという。最も成人といっても、もう嫁に出してもいい年ごろとみなすということだから13歳ぐらいのようである。1721年アンナの婿候補であるカルル・フリードリヒ・ホルシュテイン・ゴットループ(時のスウェーデン王カルル12世の甥で、ピョートルはスウェーデンと対トルコ同盟を結びたいと考えていた)がペテルブルグに来た時、アンナとエリザヴェータも宴席に出た。服装は同じだったがエリザヴェータの背には天使の羽根があり、アンナは最近この羽根が折られ、ひもで結んであったとカルルは書いている。エリザヴェータの羽根はピョートルにより1721年9月11日に折る儀式が執り行われた。アンナはカルルより賢く、博識であり、まじめだったので、カルルとしては何となく煙たく思い、個人的には妹のエリザヴェータ(ぽっちゃりして生き生きしていた)の方が気にいったのだが、彼は将来の国王としての立場をよく理解していたから、不満を口にせず、1725年アンナと結婚することになった。二人の間にできたのが後のピョートル3世であり、この人がエカチェリーナ2世の夫で、彼女に王位を追われ殺された。もう一人有名な方のアンナは女帝として有名なアンナ・イワーノヴナ(1693~1740)である。父はピョートルの異父兄で、ピョートルの共同統治者となったイワン5世(1666~96)であり、実権は姉のソフィア(1657~1704)が握った。
設問)「はたから見れば同じことが起こっているかのように見えたかもしれないが、そうではなかった」をロシア語にせよ。

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2011年12月21日

●和文解釈入門 第215回

победитьには1人称単数形はないが、1人称複数形はある。これについて作家のシーモノフは冗談めかして、戦争からこの動詞は発生したのかもしれないと述べている。喧嘩はともかく、戦争は1対1ではしないものだからである。戦争で思い出したが、умеретьはумер при исполнении служебных обязанностей в действующей армии(正規軍における職務遂行中戦死)ともいうので、自然死以外にも、それ以外の死も含めて死一般について使える。
「~の前日に(~の前の日に)」にはв канун + 生格とнакануне + 生格があるが、前者は祝日や重要な日の前日にということであり、後者はそういうニュアンスはない。かさぶたはструпだが、硬くなったものはкоркаといい、膿んだかさぶたはкоростаという。
Рука руку моет (и белы бывают).は「持ちつ持たれつ、相身互い」という意味で、本来悪い意味で用いるが、現在では時によりけりであるとメル友のヒサムヂーノフさんは言っていた。長寿にはдолгожительствоとдолголетие(многолетие は古語)があるが、долгожительство はдолгожитель (= человек в возрасте 90 лет и старше)は長寿者であることを指し、долголетие (= долгая жизнь)ということなので、人間のことを言う時は前者の方がよいだろう。
設問)「二つの機能を兼ねるのは物理的に無理だった」をロシア語にせよ。

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2011年12月22日

●和文解釈入門 第216回

ロシア語の文法書や小説などを読んで体の用法をマスターできたと思っても、実際に会話やレターで使ってみないと本当にマスターできたどうかは分からない。もっというとそれでも分からないことが多い。体の用法を間違えても、それを指摘してくれるロシア人はまずいないからだ。日本語を勉強しているロシア人の日本語がおかしくても、ある程度意味が分かるのなら、また関係のない話なら、いちいち目くじらを立てるようなことはしないのと同じである。だからロシア人同士の会話に耳を澄ましたり、ロシア語の小説で、自分なりにチェックしてみることになる。それにロシア人自身の話すロシア語でも体の用法が間違っているだろうと思う事もある。これは日本人の中にも日本語の微妙なニュアンスの使い方に鈍感な人がいるのと同じことである。相手に理解してもらうというよりは自分の話を聞いてもらうというタイプに多い。そうなると自分の体の用法が正しいかどうかチェックしてもらう場が必要なはずだが、ロシア語の学校では例文を挙げて体の用法を教えてはくれるだろうが、ロシア語作文の時間で、生徒の体の用法の間違いを先生がいちいち直してくれる講座があるのかどうかは寡聞にして知らない。
体の用法は実際に使ってみて、その間違いを指摘してもらわないとうまくならない。また体の用法は文脈(コンテキスト)によっても違ってくる。ロシア文だけでは元の和文がどういう文脈で使われているかによって使われる体が異なる場合も多々ある。無論ロシア人はそのロシア文の体の用法が正しいかどうかは判断できるし、頼めば直してもくれるだろう。しかし、それはそのロシア語が元の和文を正しく反映しているという前提の下でしかない。和文露訳では和文が主体故、ロシア人にできたロシア文だけ見せても体が正しく使われているかどうかは、そのロシア人が日本語を文法も含めてマスターしているならともかく(ガイド試験に受かっているロシア人なら話は別だが)、判断できないのだ。このコーナーはそういう意味で、自分が体の用法を正しく理解しているのか知る一つのチャンスだと考えて活用してもらえればよいと思っている。もっともいつまでこちらの気力が続くかは保証の限りではないが、続く間は利用してもらえれば何かいいこともあるだろう。
設問)「その川は世界の十大河川に入る」をロシア語にせよ。

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2011年12月23日

●和文解釈入門 第217回

技術関係やビジネスのロシア語でよく使うознакомитьсяは、何となく意味が分かるような分からないような単語だが、ロシア人ビジネスマンはどう言うつもりで使っているのだろう?よく書類に上司らしい人がОзнакомлёнとタイプされた所にサインしてある書類を見ることがある。これは「承認した」という意味ではなく、「読んで理解した」とい言う意味であり、会社などでは回覧済(回覧の欄に判をついた)と訳せる場合もある。
主催者はустроительとорганизаторが和訳として考えられるが、устроительは期間限定のもの、例えばустроитель выставки (поездки, бала, аукциона)〔展示会(旅行、舞踏会、オークション)の主催者・幹事〕を指す。だから多くの場面においてустроительの方がふさわしいような気がする。「跡」はследだが、涙の跡のように、液体や塗料の流れた跡はпотёкиという。カットは卓球などカットされた球はрезаныйを使い、映画のカットはкинокадр, монтажный кадрといい、髪型のカットはТакую стрижку носили десять лет назад.(こんなカットは20年前だよ)などという。
設問)「もうその気がなくなった」をロシア語にせよ。

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2011年12月24日

●和文解釈入門 第218回

どの分野のロシア語の単語がむずかしいのだろう?政治や経済だろうか?しかし対応する日本語自体の意味が分かれば、そのロシア語は通常訳語は一つである。対応する訳語が一つしかないなら(1対1なら)機械的に覚えればいいから簡単だと言える。技術用語にしても基本語は少しは厄介かもしれないが、基本的には意味は一つだから覚えるのは簡単である。難しい言葉と言うのは多義語である。どの状況でどの語彙が出てくるのか、文脈を見極めるのに修練が要るからだ。しかもそれは露文和訳であって、それなら露和辞典や露露辞典とにらめっこすればほぼ解決できる。ところが会話での和文露訳なら、今度は日本語の多義語も相手にせざるを得ない場合もある。日本語のどの語彙がどのロシア語の語彙に合うのか、類義語中から選択しなければならないからもっとややこしい。
日本人が不得手なロシア語の用法は体の他に、複数・単数もあるが宇多文雄先生の「ロシア語文法便覧」(東洋書店、2009年)などを理解すれば、あとは実戦で鍛えるだけであるから問題そのものは解決したと言える。最大の問題は私の見るところ、類語の使い分けである。ロシア語、日本語のそれぞれに類語がある場合もあるし、多義語が相手という事もある。例えば第23回でпричинаには原因と理由という意味があると説明した。一方日本語の理由には根拠と口実という意味がある。だから数学の集合の解ように、互いの語のオーバーラップする部分を如何に訳出するかが通訳の腕の見せ所という事になる。причинаのように意味が違うと結びつく前置詞が変わったり、あるいは文脈によってはその日本語に対して別の類語を持ってきたり、日本語は名詞1語なのに、ロシア語では句動詞にしたり、名詞句、形容詞句にしたりということが現実に起こる。和文露訳でも露文和訳でも双方の言語に精通していないと正確な訳ができないというのはそういう意味である。
設問)「外科の治療を受けたことがおありになりますか?」をロシア語にせよ。

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2011年12月25日

●和文解釈入門 第219回

ロシアで一番多いと思われる名字はイワノフだが、力点には二つの可能性がある。イワノーフとイワーノフである。後者は貴族由来であり、数の上では少ない。イワーノフで有名なのは「民衆の前へのキリストの出現Явление Христа народу」を書いた画家やチェーホフの戯曲の題名「イワーノフ」である。この題名をイワノーフと発音すると、平民というニュアンスになってしまい、ひょっとするとチェーホフの意図とは主人公の設定自体が違ってくるのかもしれない。だからロシア人でイワノフというのを見つけたら、イワノーフと発音した方が当たる確率は高いように思われる。山﨑さんという取引先の人に「やまざき」さんと呼びかけたら、すぐに「やまさき」ですと返された。大阪方面に多い名字らしい。病院の待合室で佐藤さんと呼ばれても、すぐに反応しない私なんかとはわけが違う。そういう人の方のが普通のようだ。私なんぞは名字に誇りなど持てないのだから。そうはいっても名字はロシア語でも日本語でも正確に発音するに如くはない。
 Люди должны голосовать за идею, а не за Иванова, Петрова, Сидорова.という文をある通訳は、「人々はイワノフとか、ペトロフとか、シードロフにではなく、思想に賛成投票を投じなければならない」と訳して、あとで失笑を買ったという。Каждый Иванов, Петров, Сидоровは英語ならevery Tom, Dick and Harryということで、強いて直訳すれば、「どこの佐藤とか、鈴木とか、田中とか)〔どこのだれ(馬の骨)〕と言う意味だからである。この場合イワノーフと発音しないとなおさら意味が通らないと思う。
設問)病院の診察室で、「上半身裸になってください」をロシア語にせよ。

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2011年12月26日

●和文解釈入門 第220回

個人的に断片的に覚えたものではあるが、あまり知られていないと思われるロシア語の単語の用法について書いて見る。
比較級がない形容詞はвозможный(比較級が一般的ではない), гигантский, исполинский, мыслимый, невысокий, неглупый, неподъёмный, непокрытый, неутешительный, низенький, оголённый(比較級が一般的ではない), подобный, постижимый, потенциальный, присущий, скоростной, сходный。
短語尾のない形容詞はбезволосый, маленький, непредвиденный, низенький, скоростной。
長語尾のない形容詞はневелик。
оченьとは結びつかない形容詞 скоростной。
対応の不完了体のない完了体動詞はвспылить, засмеять, напророчить. пригрозить, припозднться, расквитаться, силиться, торжествовать。
対応の完了体のない不完了体動詞はбахвалиться, бренчать, брюзжать, вертеться, винить, восторгаться, враждовать, вращаться, выглядеть, глумиться, грозить, грозитьсся, грызть, докучать, дребезжать, заблуждаться, заклинать, издеваться, измываться, капризнчать, конфликтовать, корить, кружить, кружиться, крутиться, крыть, ломаться, обожать, пилиить, повествовать, подмывать, позвякивать, поносить, порицать, почитать, преследовать, привередничать, притерпеться, прорицать, пророчествовать, сдаваться(思われるという意味で), терпеться (неとともに), уважать, угрожать, хаять, хулить, чтить, шелестеть, шуршать。
1人称単数肯定文では使われない動詞はкичиться。
命令形のない動詞 はвидеть, превозмочь, прождать, спустить(許すという意味で)。
受動相で使わない動詞はзасмеять, заставлять, понуждать, советовать, спустить(許すという意味で)。
ся-動詞の受け身の意味がない動詞はзнать, считать。
副動詞がないか、使わない動詞はждать, писать, превозмочь。
設問)「知っていて言わなかったのか?」をロシア語にせよ。

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2011年12月27日

●和文解釈入門 第221回

体の用法においてどちらの体を使った方が、その文脈でより適切かということはあるが、それほど絶対的なものではないこともある。その動詞を使う人の意識の問題もあるからだ。その人の当然と思う意識が、回りの人の意識と異なれば、その体の用法が礼を失していると受けとめられることもありし、わざとそういう効果を狙う事も可能である。第二次世界大戦直後にできた歌に「聖戦Священная война」というのがあって、その出だしは、Вставай, страна огромная; Вставай на смерный бой.(決起せよ、広大なる国、決起せよ、決死の戦に)と不完了体命令形が来ているのは、作詞者に決起して当然という意識があるからである。つまり、この動作、ないしはこの動詞を使うのが当然であるとか、自然に出てくるという感覚があるときに、つまり動作が自然体であるというような感覚のいうときに不完了体を用いる。今までは体の用法の学習において、新規の事柄や動作のときに完了体を用いるという完了体主体の指導法だったように思える。私は視点を変えて、完了体のみならず、不完了体の用法の意味に光を当てて、より多面的にアプローチをした方が、体の用法を体得しやすいと考える。
そう口で言うのは簡単だが、実際に使いこなせないと体の用法を会得したとか、その用法を悟ったとは言えないし、悟った思っても、その検証に、また自分なりに納得するのに時間がかかる。その当然とか、自然と言うのがロシア人の感覚と未だ一体化していないとか、その感覚が違うと考える人もいるかもしれない。個人的にはロシア人の感覚も日本人の感覚も本質的には同じだと思うが、その感覚の現れ方がやや違うということはあるかもしれない。ロシア語をやる以上ロシア人のそれに合わせるしかない。第117回の表は細かく作ってあるし、その利用は体の用法を勉強したいという人の好きなように使ってもらって構わないが、私としては、体の用法について大きく本質的なものを俯瞰してとらえ、そのいくつかの頂(体にはいくつかの用法があるが、山体としては一つである)に到達したときに、自分なりにその用法を悟ったと感じた時の検証用として使ってもらえればよいと思う。分かったと思った瞬間から、やっぱりわかっていなかったという別の山の頂が見えてくる。しかし、トライを続けてゆけばいつか分かる時が来る。体の用法を参考書で理解するというのは、例えて言えば外から山を仰ぎ見るだけのことで、山は登ってみなければ、体の用法は使ってみなければ分からないのである。
設問)「ルーシという民族の起源についての論争は、18世紀にミーレルとロモノーソフの間で始まり、現在に至るまで続いている」をロシア語にせよ。

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2011年12月28日

●和文解釈入門 第222回

「~のついた、~がついている」という意味ではкниги с закладками(しおりの入った本)というように前置詞с + 造格を使うのが普通であるが、支え、台、裏地などしっかりついている場合はна + 前置格を使う。сапоги на маленькой каблуке小さな踵の長靴とか、занавеска на кольцах(リングのついたカーテン)などと言う。подушечки пальцевというのは指の腹(指紋側)のことだが、мягкая рука с подушечками на пальцахとすると「指がふっくらとした柔らかい手」となり、сとнаの使い分けにこの作者(シーモノフ)なりに考えていることが分かる。つまり指に指の腹がクッションのようについているかのような感じがする。ダニはклещだが、比ゆ的に言う場合は、пиявки капиталистического строя(資本主義体制のダニ)という具合にヒルを使う。
акклиматизироваться в новых условиях(新しい〔気候〕状況に慣れる)であって、адаптировться в новым услових (к новым условиям)となるのは、к + 与格のほうが積極的に慣れようとするというニュアンスなのに、в + 前置格はそういう意味はないからである。
集中はконцентрация(他に濃縮、濃度、集結という意味がある)だが、意識の集中はнарпяжение памятиという。
設問)「ちょっとよろしいでしょうか。私、残ったほうがいいですか?」
「いいですよ、残りなさい」を(二つの文を)ロシア語にせよ。

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2011年12月29日

●和文解釈入門 第223回

「司会者」はテレビやショーの場合もведущий, ведущаяだが、司会者がサーカスの司会のように面白おかしくショーを進めていく場合や日本のバラエティー番組の司会者などもконферансьеという。

 「断崖」や「絶壁」はобрывだが、кручаはもっと高い断崖を、ярや крутоярは岸の断崖絶壁を指す。

 テンプレートшаблонは型紙のようなもので、工場ではチェック用に使う。темплетは機械試験用に切り出した試験片を言う。またステンシル(製品に番号などを入れるための型抜き板)はтрафаретという。

 ロシアのпельмениは水餃子だがуши-пельмени (cauliflower ears) というと耳介血腫、俗称柔道耳、ギョウザ耳という柔道、レスリング選手などの練習でつぶれた耳をいう。пельмениはシベリアの民族から入ってきた料理でコミ語やウドムルト語でパン生地の耳ということだから関係ないこともない。甲は足の甲はподъёмないしはтыл стопыでВ подъёме жмут туфели.(靴は甲のところがきつい)などといい、手の甲はтыл ладони (руки)またはтыльная сторона руки (ладони)という。

設問)「患者は術後10日目に退院した」をロシア語にせよ。

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2011年12月30日

●和文解釈入門 第224回

交通機関など移動手段を示すには造格にするか、на + 前置格にするが、машинаはна машинеであって、造格にしないと教えられた。ところが、シーモノフというソ連時代かなり有名だった作家の「生者と死者」という長編の中でセルピーリン将軍が自分の父親を車でモスクワに呼び寄せる場面で、Чего же машиной не поехал?(何でまた車で行かなかったんだ?)という場面がある。ちなみにここで完了体過去形が来ているのは来るのを予定していたのに来なかったという期待外れの意味を示す。さらに医学系の会話集で、Больной доставлен в приёмное отделение (в отделение неотложной помощи) машиной скорой помощи.(患者は救急車で受付(救急科)に運び込まれた)という文も見つけた。こういう文を見つけたからмашинойと造格でも使えると言うつもりはない。こういうのは例外であって、我々外国人が使うべきではないという事はよく理解しているつもりだが、ただこの40年で初めて、しかも続けてこういう例を見つけたのでご参考まで挙げておく。

 車がスリップするに相当するロシア語で、буксоватьはタイヤなどが空回りして、その場から進まないことを示し、заноситьは車などが走行中にあらぬ方向を向くことであり、идти юзомは車輪が空回りして、地面や線路などをそのまますべることを指す。セットはテニスのならсет、バレーボールならпартия、工具などの用途が決まっているもののセットはнаборやкомплектで、運動の1セットはподходで、映画のセットはстудийные павильоныとなる。病気でположение больногоというのは病状ではなく、ベッドに寝たきりпассивное положениеであるとか、体中にチューブをつけられて身動きできない状態вынужденное положениеということで、активное положение больногоというのは、一人で自由に出歩ける患者の状態を指す。一方 состояние больногоが病状のことである。

設問)「シカは呼びかけに応えて私たちに近寄り、撫でさせてくれた」をロシア語にせよ。

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2011年12月31日

●和文解釈入門 第225回

体の用法の使い分けというものはロシア人が無意識に行っているわけで、それを知ることにより、ロシア人個人もそうだが、ロシア民族(もっというとロシア語を母語とする人たち)のその場での意識や心理状態を解明できるというところにある。言葉は意識の表れであり、体の用法を究めることにより、ロシア語の楽しさをもっと理解し、ロシア人そのものにもっと興味を持てるのではないかと思う。実際の会話ではイントネーションなども重要であはるが、それが伝わらないような場合、ロシア文学や、普通のロシア人との会話の何気ない一言だって、別の面からロシア人の全体的な意識(あるいは無意識)の表れを知ることができるようになると思う。

 уметьというのは現代ロシア語では練習してできるようになる動作を示すから後に不完了体の動詞の不定形を取るのが普通である。しかし、この完了体のсуметьはудаться, смочьと同義であり、状況的可能性を示す。Я не сумею.はЯ не смогу.と同義で、能力的にできないのではなく、なんらかの状況下では「できない」という意味である。ちなみにне уметьはЯ не умею покупать вещи.(僕は買い物下手なんだ)のように使い、「買い物ができない」という意味ではない。

 「生まれ変わり」はпереселение душだと「魂の入れ替え」で、переход духаも転生という感じであり、перерождениеは比ゆ的に、つまり精神的に別人になることであり、реинкарнация (意味はперевоплощение)は欧米の映画の題名から来ているようで、最近はこれが一般的のようだ。

 群れには、стадо(動物の群れ), табун(馬の群れ), косяк(牝馬と子馬の群れ)があり、человеческие отары(人の群れ)、гурт(牛、羊、カモなど家畜の群れ)、стая акул(鮫の群れ)で、鳥の群れはстая, станица(渡り鳥の群れ), косяк(渡り鳥で角度を持って群れる鳥の群れ)となる。またстадо, табунは鳥の群れにも使える。魚の群れと言えばстая, косяк(産卵期)で、рой пчёл(蜂の群れ)のように空中に飛ぶ昆虫や鳥の群れはройである。稀にрои облаков(雲の群れ飛ぶ姿)という表現もある。

設問)「悪性細胞(ガン細胞)があるかどうか注意して(見て)ください」をロシア語にせよ。

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2012年01月01日

●和文解釈入門 第226回

С Новым годом!
松浦(まつら)静山(1760~1841)の随筆「甲子夜話」を読んでいたら、その第67巻に、「何にと問うに。曰く。ここに白犬来る。射てあたらずと。隣人、白犬走る過ぎるに遭う」とか「この年、老侯二十二歳。当代御継続八年前とす」というような文に気がついた。いずれも歴史的現在である。この用法が出てくるのは「曰く」というような会話の文や、文の末尾の単調さを防ぐためではないかと思う。江戸時代の日本語の書き言葉にも歴史的現在が出てくるのを見るのはなんとなくうれしい。

 この甲子夜話の第56巻にレサノット(1804年長崎に来航したロシア使節レザーノフのこと)が長崎で遊女と拳戯(藤八拳のようなもの)をやって楽しみ、レザーノフは遊女にたくさんプレゼントをあげたとある。この遊女は長崎奉行が気を利かしたのか、それともロシア側の要望なのかは定かではない。静山はロシアの動向にも注意を払っており、いくつか挿話が出てくる。そういう意味で一廉の人物はやはり違う。
設問)「ロシアの文化的伝統において銀は、その重要性と価値において金に次いで常に第2位だった」をロシア語にせよ。

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2012年01月02日

●和文解釈入門 第227回

その人が体の用法をマスターしているかどうかは、その人に5分でも10分でもロシア人と日常会話をさせてみるとよい。会話のキャッチボールがロシア人からみて違和感なく続くならマスターしているとみてよい。しかしあくまでも会話のキャッチボールであって、質問するだけで、後はロシア人の話を聞くだけというのをキャッチボールとは呼ばない。露文を読んで、その露文についていくら体の用法について講釈できても、体の用法が正しく書いたり話したりできないのでは、畳の上の水練と同じことで実戦には役に立たないし、体の用法を理解しているとは言えない。

 会話における和文露訳というものは、露訳したロシア語が日本の庶民文化をよく知らないロシア人から見て違和感がないものを目指すというのではなく、文法的に語法的に正しければ少々ぎこちなさがあってもよいと思う。純日本的なことがをロシア語に完全に置き換えられるものではないからだ。日本的表現を理解するにはそれなりの努力が外国人にも要求されるのは当然のことである。会話の和文露訳を露訳の正確さだけに重きを置くのが正しいはずがない。和文の持つ意味を露訳がどのくらい反映しているかが重要なのである。そこが小説などの和文露訳と会話とのそれとの違いである。だから安易にいつもロシア人に頼っていてはロシア語はいつまでも上達しない。

設問)「僕が来てからもう1時間だ」をロシア語にせよ。

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2012年01月03日

●和文解釈入門 第228回

このコーナーは投稿者から回答があればその翌朝回答し、同時に新しい設問を出している。毎日回答があれば、設問も毎日となり、それを負担に思ったり、奇異に思う人もいるだろう。しかし、ロシア語の会話をマスターしようと思えば一時期(一年くらいは)集中的に勉強することが必要である。しかし毎日1時間10年でも、20年でもコンスタントに勉強を続けられる人は意志もさることながら、そういう環境にも恵まれる必要がある。出題形式を短文で、このような会話用の和文露訳にしているのは、添削に便利だし、出題のポイントが分かりやすい、また説明もしやすいということもあるが、投稿者にとっても続けられやすいと思うからである。

 設問を見ても、1~2秒で語彙や構文が浮かばなければ、実戦には使えないということはロシア語の素人でも分かるだろう。スペルのチェックや、度忘れした単語やどうしてもわからない単語を調べてもせいぜい5分ぐらいだろうからだ。ただ分からなければ、人間は調べようとするはずで、どこがわからないのか、それが分かれば(方向性が与えられれば)、また新たな勉強の方針が立つといういうものである。そういう頭の体操を毎日続けることで、どういう環境でも、仮に環境が変わっても、ロシア語の勉強を続ける癖がつくと思う。勉強に終わりはないが、自分の会話を実戦レベルにレベルアップすることは、ロシア語を職業に活かしたいなら絶対に必要であるし、それは早ければ早いほどよいとだれしも思うはずだ。それなら、このコーナーに限る必要はないが、1年ぐらいは騙されたと思って集中的にロシア語をやるべきだ。

 それと会話も含めてロシア語の根幹にあるものが体の用法であり、これさえ間違わなければ、ロシア人との会話に違和感をもたれないし、後は語彙(類語の違いもあるが)を機械的に覚えていけばいい。そういう暗記は通勤の時間でもできるから楽なはずである。しかし体の用法の本質は短期間でも腰を据えてやらなければ分からないと思う。通勤のついでにというわけにはいかないと思う。やり方次第では1週間でも、1カ月ででも体の用法のの本質は分かるだろう。そうなるとあとはただ本当に理解したかどうかの検証が残るだけだ。その検証に第177回(近く改訂の予定)を使ってくれてもかまわない。体の用法を会得したかの検証にはよい例文が大量に必要だからだ。

設問)「これが今できるぎりぎりのところだ」をロシア語にせよ。

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2012年01月04日

●和文解釈入門 第229回

前回このコーナーの設問に1~2秒で回答できないと実戦では使えないと書いたが、それはプロのガイドや通訳が1日でこなす通訳量を考えればその万分の一にすぎないという事からである。ただプロの通訳やガイドはむろんこのようなコーナーで勉強する必要はないレベルの人だから、参加するとすればせいぜい腕試しとか、好奇心からだろう。しかしこのコーナーを覗く人で、設問の意図(ポイント)が分かり、その上で全て即答できる人は少ないだろうし、正答しようとすれば1時間とか、それ以上かかる場合もあるかもしれない。ただその過程で得られるものは極めて大切なものである。それは個々の人によって違う。その過程で新しい発見もあるだろうし、自分の不得意な点に気づくかもしれない。何よりも勉強の楽しさが分かってくるし、ロシア語のレベルも確実に上がるのは間違いない。勉強が楽しいのは、勉強したことが実戦で使え、即戦力になるからである。これはどんな優秀な教師にでもできないことだと思う。

 投稿された回答で、ミスやこうは言わないだろうというのは見た瞬間に分かる。しかし、こういう回答はおかしいと思うので、私の回答を丸暗記してくださいというのでは人に納得してもらえないだろう。正答でないというならその根拠を示す必要がある。全ての投稿に対して、根拠あるコメントができているとはとても思えないが、そうすべく努力はしている。投稿者の回答へのコメントを書く過程で、体の用法も含めて文法の復習にもなり、これまで全く気付いていなかった点の指摘(それが無意識のものであっても)など、投稿は参考書ではけっして得ることのできない、私にとってロシア語の勉強を続ける上での貴重なヒントの宝庫でもある。

 ロシア語の初級を終えると、次のステップにどう入ってよいか分からない人も多いだろう。皆が皆学校の中級コースに行けるものでもないし、そこでの勉強法が自分にあったものであるとは限らない。初級を終えた人や、途中で挫折した人が、このコーナーで体の用法を通じて少しでもロシア語そのものの面白さに気づき、そのロシア語を続けるための助走の一つにでもなってもらえればよいと思う。勉強方法は各人で違う。自分に適した方法は子供じゃないのだから自分で見つけるしかない。それに与えられたものをこなすだけというのは大人の勉強ではない。自分が自分のためにその課題を見つけるしかない。

 私の設問には必ずポイントがある。それは必ずしも動詞の体とは限らない。もし正解が分かったら、それが設問の意図(ポイント)に沿っているか、その意図は何かというのも考えてみるのも一興であろう。

設問)「ゴキブリは伝染病を媒介する」をロシア語にせよ。

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2012年01月05日

●和文解釈入門 第230回

自分では人に対して好き嫌いは特にない方だと思うが、長く生きているとサラリーマン生活の中でどうしても合わないなと思う上司が二人いた。その中の一人は1年ぐらい一緒で、その後その人は他の会社に転職したが、1985年私がモスクワ駐在のときに空港にお客さんを出迎えたときに、偶然出会った。何といっても元の上司なので、こちらから声をかけたら、第一声は、「元気かい、田中君」だった。私の苗字はありふれたもので、別にわざと違う名字で呼びかけたとは思わないが、この人の頭の中では、昔の部下で、最もありふれた名字の奴とインプットされていたのだろう。それがたまたま違っていたというだけかもしれない。子供のころ北海道の函館で佐藤斎藤馬の糞と言われたことを思い出した。

 50年前の函館はまだ馬車が行き来していて、その落とし物も多かった。3月風の強い時は乾いた馬糞が空を舞い、冬のざらめ雪というのは、馬糞の色が混ざって、本当のざらめと区別がつかないくらいだった。つまりそのくらい多いものということで、他の佐藤さんや斎藤さんに含むところはないが、一応前もってお詫びしておく。ちなみにロシア語では1979年の映画Тот самый Мюнхгаузенの中のセリフに、(ドイツではミューレルという名字は名字がないのと同じだ)В Германии иметь фимилию Мюллер - всё равно что не иметь никакой.というセリフがあり、Мюллерの代わりにИвановで置き換えても使えるから佐藤でもよいかもしれない。

設問)「血沈が正常の2倍だ」をロシア語にせよ。

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2012年01月06日

●和文解釈入門 第231回

ロシアに駐在していた時日本からのお客さんからロシアのお土産に何を買ったらよいかよく聞かれた。前にベニザケの缶詰を紹介したので、他のものを書いて見る。キャビアとか有名なものは別にすれば、緑色のコハクというのが売っている。本当を言えば緑色のコハクなぞ存在しないが、薄いコハク色のコハクの裏側を黒く塗って、目の錯覚で緑色に見せているのである。10年前は2000円くらいで売っていた。ロシアに行かれたら一度見てみるのもよい。昆虫が入っているコハクというのを売っているが、これはその辺の虫に溶かしたコハクをかけただけのもので、決して大昔のものではない。何千万年前とかというのいわゆる松脂の中で虫が化石となったものは、花粉と蝿の脚だけが入ったものはものはもっているが、完全な本物は博物館は別にして、そう簡単には手に入るものではない。

 пуховой платокというオレンブルグ名産の羊の短い方の毛(柔毛)だけで編んだショールなども軽くて女性向けのお土産によい。カシミアに似ているという。あとはタラの肝печёнка трескиというものは、味がアンコウの肝に似ていると通の人は言っていた。一度アンコウの肝を食べたが、一度ぐらいではどうなのか分からない。これも安いから話しの種に買ってみたらどうだろう。ロシア人の話では、タラの肝をまな板の上において、まな板を傾け、油を出して食べた方がおいしいと言っていた。килькаキーリカというニシン科の小魚の油漬けを缶詰にしたものがロシアで売っているが、これはおいしい。これも安いからお土産に買う事を勧める。

設問)「否定も肯定もせず彼は聞き返した」をロシア語にせよ。

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2012年01月07日

●和文解釈入門 第232回

ウラジオ在住のメル友ヒサムヂーノフ教授からの最近のメールに、昔ロシア人の同僚からуважаемыйというのはレストランのボーイへの呼びかけだから、手紙などではмногоуважаемыйとかглубокоуважаемыйを使うべきだと言われたことがあると冗談めかして書いてきた。教授はこれには無論ロシア人の中にも当然、異論もあるとも書いている。彼はタタール人で10歳までは訛りのあるロシア語を話していたが、今や何冊も「日本のロシア人」関係のロシア語の著作をものしているタタール語とロシア語のバイリンガルであり、日本語も自由に読み書きでき、しかもハワイ大学にも招聘されるくらいで英語も堪能である。それでも論文などのロシア語の原稿はロシア人の同僚に見てもらうという。バイリンガルであってもロシア語にはどこか外国人としての冷めた目で接しているように見えるので私にはそれが非常にありがたい。普通のロシア人には気がつかないような、あるいは説明できないような事柄でも、彼はよく理解してくれるし、ロシア人の意見も聞き、客観的な説明しようと努力してくれる。

 話がそれたが、口語では皮肉でуважать = любить, предпочитать, иметь пристрастие к чему-либоという意味である。だから犯罪小説や探偵小説の会話の文を読むと、уважаемыйは名前の知らない人に対して、「そこのお方」と訳せる場合もあるし、手元の隠語辞典ではуважаемый = гомосексуалистと書いてある。それで、それまでは教授のメールには起首の部分(拝啓)をуважаемыйかдорогойか気分によって書いていたが、この頃はдорогойで統一している。

設問)「今テーブルの上を片付けます」をロシア語にせよ。

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2012年01月08日

●和文解釈入門 第233回

このコーナーの体の用法に関する表については第300回を参照のこと。

設問)「レーニンが生きていたら、こんなことにはならなかったろう」をロシア語にせよ。

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2012年01月09日

●和文解釈入門 第234回

この40年ロシア語をやって得得した体の用法の要諦は、不完了体は自然体(自然の感情の発露)という事である。その検証用にと思い、第233回の表を作って見たわけである。私のこれまでのロシア語の勉強法は初級・中級の勉強をし、慣用句・諺・熟語をおさえ、仕事で使う技術ロシア語や観光ロシア語をするために文例を集め、その暗記に努めた。今にして思えば、当時これしかロシア語をマスターする道はなかったとは思うが、非常に効率が悪い。20年、30年と時間がかかり過ぎるのだ。

 会話を実戦レベルまでできるだけ早く挙げることができれば、仕事にも使えるし、ロシア人と話もでき、何よりもモチベーションができる。だから一番難しい体の用法を初級の文法を終えた時点で、ロシア語と日本語の時制の対比をしながら徹底的にマスターさせれば(その過程で体の用法に関連した例文を覚えさせる)、語彙の暗記などは一人でできるものである。ロシア語を習得する上で、自分は日本人だから日本語は完璧であり、ロシア語と日本語を別々に考える人が多いようだが、頭の中で遅速の別はあるにせよ、常に日本語からロシア語、ロシア語から日本語へと解釈しているわけである。常に二つの言語の違い、特に時制の現れ方の違いに留意する必要がある。

 体の用法を会得する一案として、第233回の表の文例にある日本語の部分について、どちらの体でどの時制を使うのかをまず自分だけで考えて、次にある露訳を見て正解かどうかみるのである。これを繰り返せば、短期間(1週間とか1カ月とか)で体の用法の本質が分かると思う。問題は理解したかどうかの検証である。それには(本人が納得するまで)1年ぐらいはかかるだろうが、時間的に見れば非常に短いと言えるし、そうなれば根をつめてやらなくても気軽にやればよい。

 ロシア人が外国人のロシア語を聞いて、まずおかしいと思うのは体の用法である。これはラスードヴァ先生の参考書にもあるし、我が国でロシア語を教えるロシア人の先生方の話でもそうである。語彙を増やせば何とかロシア語の話は分かってもらえるが、体の用法だけは自分で意識して勉強しなければ一生不十分な理解のままである。

 例えば一からロシア語を初めた人が、初級の文法を終えたとしよう。つまりNHKのラジオ講座を半年一生懸命聞いて本文を全部暗記したとして、その人に和露辞典を与えて、このコーナーの短文の和文露訳をさせたとする。基本的には主語は主格であり、動詞、直接補語(普通は対格で日本語の「~を」に対応する)、間接補語(与格で、普通は日本語の「~に」に対応する)、場所の副詞句(方向なら対格、所在なら前置格)、時間の副詞句で作れるはずだ。ところがロシア人が分かるような文は簡単には作れない。無論類義語についての記述が和露辞典にほぼないということも大きな問題だが、それ以前の問題、体の用法を理解していないから、どの体、どの時制を使えばよいのかが分からないのである。もっと問題なのは誰も教えてくれないから体の用法の重要性が分からないということである。

 ロシア語の本質は体の用法であり、これをマスターすれば、日本語の小説や新聞などを読んでいても、ロシア語にしようとする場合、語彙は分からなくても、ここはどの体を使うべきかが分かるようになる。そうなれば後は語彙を増やすだけでロシア語はマスターできることになる。体の用法の本質が分からないままに語彙だけ覚えても、それは枝葉であって、いつまでもロシア人から変なガイジンロシア語を話すと思われるばかりであり、いくら通訳しても日本語のニュアンスも完全には伝わらないし、ロシア語のニュアンスも完全には分からないままで一生終わることになる。それではロシア語をやった甲斐がないと思う。
 だれか初級者か中級者で、この表を使って体の用法の奥義を会得して、私のこの説を証明してくれるような奇特な人はいないものかと切に願う次第である。

設問)「自分のすることをしたら帰れ」をロシア語にせよ。

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2012年01月10日

●和文解釈入門 第235回

若いころ何で覚えたか忘れたが、「あに(豈)図らんや、弟知らんや」という文句が気にいって長く口癖となったものである。私にも弟がいるからだ。矢沢永一の「えらい人はみな変わってはる」(新潮社、2002年)を読んでいたら、山口孤剣の百傑伝を紹介し、東洋一の井上哲次郎先生と題して、その抜粋が載っていた。いくつか面白い表現があるのでご紹介する。「豈図らんや、弟思わんや、拝聴するに及んで吾人いたずら狐につままれた如く感じたりき。先生の云う所初めより終わりまで悉く大英百科全書決闘の条の口写しにて....口に交番がないとはいえ、よくもこんなことが云われたもの也。呆れが礼に来るとはかかることを云うなるべし。....これで二十年の東洋哲学研究とは、片腹どころか両腹痛く、千金丹でももらいたくなる也」とある。いかな有名人でも手抜きをすると死んだあとも残るような、そんな何を書かれるか分からないということか。

設問)「何かあったとしても食っていける」をロシア語にせよ。

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2012年01月11日

●和文解釈入門 第236回

イェスペルセンの「言語」(上)、三宅鴻訳、岩波文庫を読んだことがある。比較言語学の歴史から始まっているが、特に第二部の「こども」が面白い。ニ言語使用(バイリンガル)についても、ニ言語のどちらも完全にはまずもって習得しない」、「言葉の微妙な点までマスターしない」と批判的であり、子供が自国語を覚えるのはなぜ上手かについても、子供自身の適応性と周囲の子供に接する態度を挙げ、特に「母親は子供に接する機会が多く、言語と場面が常にぴったりと一致し、互いに例証し合う」、「言語は子供に直接感激があり、子供の興味を引くことばかり、また何度も言葉を使おうとすることが、そのまま子供の一番大事な望みを満たすことにつながるからである」としている。しかしこれは成人になってから外国語を覚えようとする人には関係のない話でもある。

 女児が男児よりも言葉の発達が早いのは、「言語において重要なのは回りの他人に合わせることであり、これは女児の得意とするところである。男児はよく、人と全く同じようにすることを嫌がるからだ」と述べているのは、大学などの女子学生、男子学生と置き換えても通じそうだ。不完了体と完了体の違いに似ているなとも感じる次第。

設問)「血はすぐ止まる方ですか?」をロシア語にせよ。

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2012年01月12日

●和文解釈入門 第237回

参考書はその学習レベルによって理解度が違う。だからいいと言われる参考書は、一生ロシア語の勉強を続けるつもりなら、今は手に負えないと思っても、今のうちに買っておいた方がよい。絶版になる可能性が大きいからだ。仮にならなくても値が上がって手が届かなくなる可能性がある。1年後、5年後、10年後、20年後になって、長年抱いていたロシア語の疑問がその参考書によって氷解するということも大いにありうる。私も昨年やったシノニムの辞典は30年前に買ったもので、それを端から端まで読み、大いに啓発された。類語の重要性に納得がいったのである。辞書は引くものかもしれないが、用例が充実しているなら学習辞典として端から端まで読めばよいというのが私の考えである。用例を見ないと文法的な説明が理解できない、ないしは納得できないことが多々あるからだ。思うに用例というのは使える限界を示してくれるのがよい用例であり、そういう良い用例というのは案外少ないものだ。

 第233回の回答でレーニンをИльичとしたが、これは年配の人を敬意を持っていう場合に父称だけで呼びかける場合があり、特にИльичは普通は尊敬をこめたニュアンスでレーニンを意味する。これに関連したアネクドートで、
- Товарищ Брежнев!(ブレジネフ同志!)
- К чему эти церемонии? Зовите меня просто – Ильич!(どうしてそんなに堅苦しいのだね?私のことはただイリイーチとだけ呼んでくれたまえ)
ブレジネフの父称もイリイーチであるという言葉の遊びであり、勲章好きで知られたブレジネフにとって、残るはレーニンにとって代わることだという野心を諷している。Зовитеと不完了体命令形が来ているのも、自然体(自然の感情の発露で)でイリイーチと呼んでほしいという当人の気持ちがにじみ出ていることになる。

設問)(いざとなったら)「国が代わりに決定してくれるという期待が彼らにはある」をロシア語にせよ。

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2012年01月13日

●和文解釈入門 第238回

完了体未来形の例示的表現というのは、不規則な繰り返し乃至は似たように起こるであろう事柄を例示的に一つ挙げるか、またはそれを強調して示す(生き生きとした表現になる)という用法である。つまり起こるかもしれないし、起こらないかもしれないということで、「必要なら~する」という表現は例示的表現のように見える。例えば(必要なら4時間の間隔をあけてもう一度注射をして下さい)При необходиимости инъекцию повторите с интервалом в 4 часа.などである。しかし不完了体現在形が来る場合もある。(必要なら輸血しなさい)В случае необходимости делайте переливание крови.これは必要なら何度でもという規則的な繰り返しを念頭に置いているからであり、表現的には平板なものとなる。もっというと何度も起こるという確信があるときに使われると考えてよい。日本語の字面だけ見てではなく、動作の本質をイメージできるようになれば、つまり頭の中でそのシーンを思い浮かべる練習をすれば、こういうイメージだからこの体を使うのだという事が分かると思う。

 無接頭辞単純動詞(гулять, жить, играть, пить, читатьなど)は対応の完了体が接頭辞のつくものの場合(прочитать, написатьなど)は補語が絶対に必要だが、無接頭辞単純動詞は必ずしも補語を必要としないし、意味や使われる範囲も対応する完了体と比べて広い。

 否定文の場合は可算名詞が否定されときは複数生格が普通である。医療関係でいえば、(X線写真では病変は認められない)На рентгенограмме патологических изменений не обнаружено.などと言う。また疑問文でも有無を聞くときは、あるかどうか、複数か単数かわからないので念のためという事なのか知らないが複数形を使う。(麻酔の後に合併症を発症しましたか?)Были ли осложнения после наркоза?

設問)「これにはもう驚かなくなった」をロシア語にせよ。

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2012年01月14日

●和文解釈入門 第239回

кровотечениеは出血で、内出血そのものはвнутреннее кровотечениеというものの、кровоизлияниеは溢血で、身体の組織内などに起こる、点状または斑状の内出血のことである。ロシア語ではこのように二つを明確に分けている。ただ日本語では出血という言葉が多用されるから露訳のときに注意が必要である。例えば皮下出血はподкожное кровоизлияниеであり、点状出血はточечное (петехиальное) кровоизлияниеとなる。大量出血はмассивное кровотечениеだが、同じ大量出血でも体の組織内(溢血)ならмассивное кровоизлияниеとなる。ちなみに打撲による青あざはсинякで、医学用語ではкровоподтёк(斑状出血)というが、これも溢血の一種である。このように出血の内容によりロシア語を変える必要がある。потеря крови, кровопотеряも失血と訳すと、日本語の場合は危篤状態を指すので、文脈によっては血液損失と訳した方がよい場合も多い。

 賞状はпохвальная грамотаとも、почётная грамотаとも訳せるが、前者は学業のであり、後者は仕事においてである。スタイルは容姿(体形)ならфигуркаであり、беречь (блюсти) фигуру(容姿を維持する、保つ)と使い、文体ならстильで、芸術家の外側に現れるものというならманераである。体形はкомплекция = телосложение(体格)ということで、комплекция человека(人間の体形)、природная комплексия(生まれつきの体型)というが、運動で培った体形と言うなら、поддерживать свое здоровье и физическую форму(自分の健康と体形を維持する)というように(физическая) формаを使う。

 瓶はбутылкаだが、香水瓶や薬の瓶はфлаконという。切りくずには二つあって、стружкаは木や金属の表面加工のときできたカンナくず、石鹸、おろし金ですった野菜などを指し、опилки(複数形で用いる)は鋸やヤスリの切かす、切りくず(木または金属)を指し、стальные опилки(鉄粉)、сухие опилки(おがくず)などという。ビジネスでよく使うスペックspec, specificationsは仕様書のことで、техническое описаниеが一番よいと思う。спецификацияというのは、設計書類の中で製品の材質や数量などを表の形にしたものだからだ。イヤリングはсерьгиでこれは耳に穴をあけるタイプ、あけないではさむだけならклипсы(通常は複数で使うが、単数形はклипс, клипсаの二つある。医学用語のクリップという意味でもある)という。止血帯は(кровоостанавливающий) жгутが普通だが、турникетは布製乃至は皮製で締めつけ用の棒(ねじって締めつける)がついているものである。

 объявитьというのは伝えるсообщитьという意味だが、公式にということで、アナウンスするなどと訳される。Посадка объявлена?(搭乗案内はアナウンスされましたか?)などと使う。

設問)「栽培植物は土壌の侵食を防ぐ」をロシア語にせよ。

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2012年01月15日

●和文解釈入門 第240回

私も仕事としてロシアの駐在員候補生にロシア語を教えることもある。一からのときもあるし、半年ほどロシアの語学学校で勉強した後の人がブラッシュアップの目的で来るときもある。私のやり方が他の先生方と違うと思うのは、その企業の会社案内を取り寄せ、直接その駐在員候補の人にロシアでの仕事の内容を聞き、それに沿って、電話の会話から、面談、はてはクレーム処理に使うロシア語を、会話を中心に徹底的に教えるというものである。

 今年は駐在員候補だけでなく、仕事でロシア語を覚えない人やロシア人と会話したいという人向けに、一からロシア語を始めて会話で自分の言いたい事を言えるレベルにする方法を中心に教えたいと思っている。一から始めても私のやり方でまじめに1日2~3時間ロシア語漬けでやるなら1年から1年半できるようになるし、それ自体は大したことではない。2,3時間というと、とてもとてもという方も多いと思うが、私の言う2~3時間というのは、通勤通学の時間と昼休みの時間も入れてである。ただ30分ぐらいは机の上での勉強は例文をチェックする意味で必要である。これなら特に時間のやりくりをしないでもできるはずだ。

 初心者で難しいのはその人にあった学習計画を立てることと、それに合った例文を集めることである。立場や境遇、考えと人それぞれだから、学習方法もいろいろである。私なら個人の性格に合わせて、学習計画と例文をそろえることができるし、文法的な説明もする。無論ただではできないから、一番いいのは会社の人事部とか総務を説得して会社の金で私を雇うか、グループで雇うということになる。ご予算に応じてそれは可能である。勉強は基本的にメールでのやりとりで、週1回か2回のスクーリングというのが現実的であろう。

 実戦レベルになるのでもかかるのは2年から3年といったところだろう。私が言う実戦レベルというのは、会社の仕事上で鉄鋼、機械、プラント、観光、医療、漁業など狭い分野一つぐらいなら通訳可能になるという意味である。技術通訳もプロならいろいろの職種の用語を覚えなければならないし、しかも一つの業種で深く広く覚えなければならないからからそう簡単ではないが、一つの会社専属での通訳、ないしは営業で使うロシア語というのはいわゆる私の言う実戦レベルであって、一から始めてもやる気と適切な語学指導があれば2~3年でできるようになる。

 会話の勉強というとロシア人の先生をと素人は考える。自分の売りを書いて見よう。

1. 私も一からロシア語を始めてロシア語が話せるようになり、商社で営業も経験し、駐在経験もモスクワなど12年あるし、今は技術通訳と観光ガイドをしている。たまに駐在員候補生にビジネスロシア語を教えることもある。つまりどうやったらロシア語を話せるようになるか熟知しているという事になるし、ロシア語会話をマスターした経験者でもある。ロシア人は私たちの日本語同様、自然にロシア語を覚えたのであって、どうやったら成人の日本人がロシア語を一から話せるようになるのかその方法を彼らは知らない。
2. 語学をマスターするには、初級文法を覚えながら、自分が必要とするよい例文を短期間に大量に覚えるのに限る。例文をある程度覚えないとそれ以降の文法(体の用法など)が頭に入らない。私には会話集、熟語集、ビジネスロシア語、観光ロシア語など12冊の著書もあるし、自分の和露語彙集は8万2千項目を超え、良い例文に事欠かない。その一端はこのコーナーでも紹介しているから確認することができる。
3. ロシアの風習やロシア語に関する疑問を日本語で納得いくまで説明ができる。
4. その企業の会社案内や個人の要望に沿って、これまでのロシアビジネスでの経験を活かして例文をアレンジし、カスタムメイドで即戦力のロシア語の人材を育てることが可能である。

 ご希望の方は私のサイトLAMPOPO(ランポポー)の「メール」から連絡可能である。

 そうはいってもロシア語学習に向かない人というのはいる。せめて1年半ぐらいでも毎日2~3時間のロシア語の勉強が続けられない人だ。今回の話はそれ以外の人向けである。

 ロシア人の先生が必要になるのは、自分が曲がりなりにも話せるようになって、そのロシア語がどの程度通じるかチェックしたいときである。

設問)「トマス・ムーアの「夕べの鐘」(という詩)は何度も曲がつけられた」をロシア語にせよ。

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2012年01月16日

●和文解釈入門 第241回

医療関係のロシア語の例文を整理していて気がついたのは、技術ロシア語と同様、命令形は完了体、平叙文は不完了体現在形が非常に多いという事である。語彙は専門用語が多く、例えば十二指腸球部の陰影欠損дефект наполенения в луковицы двенадцатиперстной кишкиなどと日常用語とはかけ離れたものをかなりの量覚えなければならないが、体の用法については完了体は完了を、不完了体は繰り返し、動作の一般化という理解で事足りると言ってよい。だから医療関係や技術関係の翻訳・通訳ばかりやるとロシア語の映画やテレビ、小説の、特に会話の部分のニュアンスが分かりにくくなるし、何よりも簡単な日常会話でどちらの体を使えばいいか分からないままに終わってしまう危険性がある。

 これは露文解釈だけでロシア語の勉強をした場合も同じである。体の用法について説明はできるかもしれないが、会話で使った経験がないから、いざロシア人と会話となると、あり余る用例が邪魔をして適切なものを、その中から取り出せないということになる。ロシア語の会話では言い訳は通用しない。問われるのは実際に会話ができるか、会話で正しく体の用法が使えるかということなのである。恥をかくことも大いに必要なのである。恥を恐れていては体の用法も、しいてはロシア語もマスターできるはずがない。

 それで思い出したが、歳をとると、物忘れが激しくなる。これは健忘症もあるかもしれないが、むしろ、引き出しにものを詰め込み過ぎると整理されていないとものを取りだすのが難しくなるのと同じである。いわば、教養が邪魔するのである。

設問)「電気機器はアース(接地)済であることを確認下さい」をロシア語にせよ。

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2012年01月17日

●和文解釈入門 第242回

 呼称で先生と呼ばれたいか、さんづけでよいかだが、個人的には学校で教えているわけでもないので、呼び捨てでさえなければ、「さん」でもミスターでも、パン(ポーランド風)でも何でもよいと思っている。人によっては先生とだけは呼んでくれるな、それほどえらくないからだとか、逆に「先生と呼ばれるほど馬鹿じゃなし」を標榜している人もいると聞く。ある会合では大学の先生方が多いのだが、民主化ということらしく全員さんづけということになっていて、先生といいかけて、いちいち「さん」に直すらしい。民主化の押しつけのようで、先生と呼ばれるのに慣れた人にとっては、それもストレスだろうなと思った次第。

 本を出すことになると編集者との付き合いが始まる。すると編集者は例外もあるのだろうが、著者のことを呼びかけるときに先生と呼ぶ。これは別に著者を尊敬しているわけでもなく(かといって馬鹿にしているわけではないだろうが)、本を書く人には大学の教授や大家(おおやではなく「たいか」)というのも多々おられるわけで、中にはさんづけするとご機嫌斜めになる方もおられるし、いちいち区別するのも面倒だからではないかと推測する。だから私も編集者からはさとう先生である。これをいちいち先生と呼ぶのを止めてくださいというのも気障だし、第一ひとに向かってああせよ、こうせよと指示するのは、相手がよほど失礼な場合(呼び捨てされた場合など)を除き、どうかな(そんな権利などこっちにもないしね)という気持ちである。だから私には呼び捨て以外あって、普通に敬称と呼べるものであれば、さんでも先生でも相手が好きなように呼んでもらって構わないと思っている。単なる呼びかけ(敵意はないよ)という意味の記号だと思っているからである。自然体という事で、いわば不完了体的発想である。

設問)「220Vから110Vへのアダプターはどこで売っていますか?」をロシア語にせよ。

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2012年01月18日

●和文解釈入門 第243回

このコーナーを始めて特に感じるのはフィードバック(feedback) обратная связьの有難さである。特にいろいろ感想も含めて、疑問などを書いてくれる投稿者の回答やコメントのおかげで、第233回の表なども作れたわけであり、そのおかげで自分の考えがかなり整理できたと思う。そういう意味で投稿者の皆さんには心から感謝しているという気持ちを伝えたい。設問への回答はしないが、コメントに対する疑問とか、ロシア語に関する疑問を持っている人もいるだろう。回答しない方にもロシア語に関することならどんな質問でも受けるし、分かる限りお答えするので、遠慮せず投稿願う。前にも書いたが、世の中すべてGive and takeであり、投稿者からの質問に応えることで、そういう発想もあったのかとか、やはり自分と同じように考える人もいるのだなとか、これからの自分の勉強のヒントをただで得ることができると思うからである。

 露文タイプの練習するときに各キーにロシア文字を貼りつけるという人も多いと思う。そういうシールもモスクワなどでは売っているが、使うのは勧めない。貼ってあると覚えないからだ。それよりもキー配列をタイプアップしてプリントアウトしたものをコンピューターのそばにおき、単語や短文を打つ練習をした方が覚えるのが早い。タイプは英文も露文も両手の五本指で打つが、私はブラインドタッチはできないし、またその必要もない。結局覚えるのに至らなかったが不自由していない。知り合いにロシア語でメールするときも、いくつか単語を打っては直し、文を見直すことがしばしばで、頭の中でロシア語の文章が整理されている人は別だろうが、ブラインドタッチを覚えなくとも十分間に合うのだ。これから露文タイプをしようとする人に、一つヒントを上げよう。ロシア語のエスと英語のcのキー配列は同じである。これだけでも覚える負担が1/33減ったことになる。それとタイプの練習の時にでたらめに打つのではなく、машинаとかчеловекといったように単語で練習するとよい。語彙も覚えられて一石二鳥である。ウィンドウズXPでロシア語が打てるように設定してあれば(私のホームページ「ランポポー」のトップページにその設定の仕方が記載してある)、ワードやエクセルで和文や英文から露文タイプに切り替えるにはAlt + Shiftキーを押せばよいし、もう一度押せば元に戻る。英文と和文の切り替えは、キーボードの左上の半角/全角キーを押せば切り替わる。

設問)「我が国のチームは延長戦でスペインチームに負けた」をロシア語にせよ。

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2012年01月19日

●和文解釈入門 第244回

休暇は個人がバラバラに取るのはотпускであり、学校の夏休みや冬休みはканикулыである。だからканикулыは一斉に取る休み(一斉休暇)に使える。例えば(議会休暇)парламентские каникулы、(クリスマス休暇)рожденственские каникулы、(復活祭の休暇)пасхальные каникулыである。
 ледоходはдвижение тающего льда по течению рекиなので、流氷と訳すのは問題である。流氷は河口から海を流れるもので、これはдрейфующий лёдであり、ледоходは解氷である。流行はмодаであり、мода на мускулы(ムキムキマン流行)というが、ファッションではなく一時的に勃発的に起こる流行は、たとえば(密造酒の流行)всплеск самогоноваренияなどとと言う。リーダーは(党指導者たち)партийные лидерыなどはлидерでよいが、動物や鳥の群れのリーダーはвожак(先導者が原意で、人間に使う場合は大衆指導者という意味もある)である。лидерにはヤクザの組長という意味もある。

 証明書は、身分証明書、全権委任書、権利関係はудостоверениеといい、出生、婚姻、死亡、健康状態、学歴関係はсвидетельствоという。それ以外の証明書はсправка о местожительстве(居住証明書)などで、俗語ではкорочкаという。対立はпротивостояниеで、これは立場の違いという感じであるが、конфронтацияとなると同じ対立でも、思想や社会体制の対立で和解できないような対立である。

 в середине は時間的にも場所的に等間隔のところにあるということで、(昼の中ごろに戻って)вернувшись в середине дняとなる。на середине + 生格はостановитьсяやпроисходитьという動詞と共に用いられ、「途中で、中途半端に」という意味であり、(今となっては中途半端にやめることはできない)Теперь уже нельзя остановиться на середине.のように使う。伝説にはлегенда、предание、поверьеがあるが、преданиеは言い伝え、口碑ということであり、поверьеは迷信に基づいた言い伝えということである。

設問)「彼は私たちの(大学の)3年で教えていた」をロシア語にせよ。

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2012年01月20日

●和文解釈入門 第245回

最近「現代ロシア語頻度辞典Частотный словарь современного русского языка, Ляшевская, Шаров, Азбуковник, 2009」というのを買った。この種の辞書はこれまでもいくつかあったが、これは1950年から2007年までの文学、ニュース、学術文献などありとあらゆる9200万の現代ロシア語の用語例から5万語 + 3000固有名詞・略語の頻度を調べ、その頻度を調査したものである。こういう辞書を読んでもロシア語の勉強にはならないが、ロシア語を教えるときに、どういう単語を優先的に教えるべきかを判断する上で科学的根拠を与えてくれる。例えばнаписатьとписатьではписатьのほうが、個人的な経験から用例が多いような気がするが、そういう感じだけでは如何ともしがたいし、説得力もないから使えない。しかしこの辞典を見ると、написатьが100万の文例で336.2回(294位)、писатьが444.3回(213位)と確かにписатьが多いことが分かる。

 頻度の1番から2万番までのリストもあって、堂々のトップはиで、2位はв、3位はнеで、на, я, быть, он, с, что, а, по, это, она, этот, к, но, они. мы, как, из, у, который と続く。яが5位に食い込んでいるが、日本語ではありえないことである。日本語は一人称を示す言葉が非常に多いし、省略されることがロシア語よりは多いからだ。ロシア語ではя以外では書き言葉の「筆者автор этих строк, автор этой книги, пишущий эти строки」や「мы朕とか学術論文の筆者」ぐらいだろう。
しかも文学とそれ以外の評論に大まかに分け、1950年代から60年代、1970年代から80年代、90年代から2000年代の3つのカテゴリーでも頻度が分かる。つまり参考書や単語集、熟語集を作る上で大いに参考になるわけである。露和辞典で頻出する単語に星印を一つは1000位以下、二つは500位以下、三つは100以下というふうにもできる。参考書を作る機会に恵まれないのなら、頻度の高い語彙を優先的に覚えるよう生徒に指導できるというものである。しかも科学的裏付けもあるから説得力もあるというわけである。無論長年ロシア語をやっているから、どういう単語がよく使うかは感覚で分かるが、具体的に最重要1500語を選べと言われても困るわけで、そういうときに大いに力を発揮する。他にも使い道はあるだろうから、いろいろ考えてみたい。

設問)「彼女をどこまで送るとか、どこで彼女とさよならをするかを決めるのは(いつも)彼だった」をロシア語にせよ。

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2012年01月21日

●和文解釈入門 第246回

これまで何度もガムテープで補強したのだが、先日私の愛用している岩波露和辞典が、崩壊寸前で一見ミイラみたいになっているのに気がついた。出張用に岩波はもう一冊もっているとはいえ、岩波には少し休んでもらう事にして、しばらく気分転換に研究社の露和を使う事にした。何気なくсестьを見たら、「完了体сядьтеは命令、不完了体садитесьは促し、勧めを表す。садитесьの多用から、具体・特定的一回動作でもсадитьсяを使う事がある。同様な傾向はлечь, ложитьсяにも認められる」と書いてある。ラスードヴァ先生もびっくりの新説というか珍説である。この項は体の用法の大家である磯谷孝先生が書いたとはとても思えない。研究社の露和には他の分野の大家も書いておられるから、磯谷先生も強くは言えなかったのかもしれない。

 ここで問題なのはなぜсадитесьが多用されるのかという理由が書いていないことである。またすぐ上に、Сядь поближе к свету(もっと明るいところにすわりなさい)と完了体命令形の例文があるが、これは命令であって、勧め・促しではないのだろうか?ロシア語もその訳も正しいのだが、この説明では用語として使っている「命令」「勧め・促し」の違いが分からない。лечьの命令形はляг(те)であり、ロシア語教師が「寝なさい」をロシア語で何と言うかなどとテストで生徒に嫌がらせに出す程度で、私個人はこの命令形を使ったことはない。こういうのを例にするならпроходите(奥へどうぞ)のほうがはるかによく使う。最近買った現代ロシア語頻度辞典Частотный словарь современного русского языка, Ляшевская/Шаров, Азковник, 2009で調べると、лечьは100万の文例で63.5回、проходитьは175.4回と3倍近い差がついている。頻度ランキングでもлечьは1899位なのに、проходитьは642位である。このようにこの動詞やこの用法は例外だと決めつけて、丸暗記せよというのはよくあることだが、19世紀のロシア文学偏重ということもあって、現代ロシア語、特に実際の会話を知らないからではないか?このコーナーや第233回の表を見てもらえば分かるように、例外ばかりなら、もはやそれを例外とは呼ばない。

 さて岩波はというと、「Сядьте!(座れ)/Садитесь(おかけなさい)≪完了体が命令を表すのに対して、不完了体は勧誘を表し、より丁寧な、柔らかい表現となる≫」とあるから珍説がないのはましとはいえ、説明は五十歩百歩である。丁寧な命令というなら、сядьте, пожалуйста = садитесьなのかという問いに答えられないだろう。こういう問いは初心者でも考えつくことであり、これではわざわざ完了体と不完了体の二つの体がある意味が分からないだろう。まさに辞書は語彙の語義を調べるものであって、文法書ではないのだから誤解を招く、ひいては文法書を読まなくなるような安易な注釈は書くべきではないと思う。ただ初級の参考書にも体の説明にはずいぶん怪しいものもあるようであり、単に紙面が限られているでは済まないような気もする。

設問)「彼には人を見る目がある」をロシア語にせよ。

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2012年01月22日

●和文解釈入門 第247回

ロシアでも新兵いじめдедовщинаというのが未だにあるが、日本の軍隊生活でもあったことが第二次世界大戦までは色々な書物に描かれている。この淵源について、「雑兵物語」(パロル舎、2006年)を現代語訳した「かもよしひさ」氏によれば、1883年頃までに徴兵制度が日本で確立し、幕末時代牢内警備をしていた与力や同心、牢内を知るならず者たちが内務班の下士官や古年次兵として牢内の伝統を伝えたからではないかと述べており、卓見である。ちなみにこの雑兵物語の著者は色々な説があり、高崎城主松平信興(のぶおき)〔1620~91〕が有力視されている。本書は1846年刊行で、戦国時代の雑兵(ぞうひょう)の実戦的心得が具体的に書かれている。

 徳川時代は戦争というものが島原の乱以降なかったわけだから、黒船来航時にはこの本は非常に重宝されたものである。残酷な話で恐縮だが、例えば戦功の証として敵の首の代わりに鼻を切るときは、上唇も一緒に切り取るべしとある。これはサドマゾの世界ではなく、もっと現実的でドライな話であり、鼻だけだと女かもしれない、つまり髭のある男であることをはっきりさせ、戦後の論功行賞に与るためであると同書にはある。本書とは関係ないが、朝鮮出兵の後で京都などに作られた耳塚、鼻塚なども、戦場から重い首を持ってくるわけにもいかないからということで、戦功の証として耳や鼻を塩漬けにして持ってきたものを供養したものだという。

設問)「頭を打ったときに気を失ったのですか?」をロシア語にせよ。

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2012年01月23日

●和文解釈入門 第248回

 このコーナーを見る方で第1回の設問と、例えば第200回のとでは第200回の方が難しいと誤解されているかもしれないが、そういうことはない。このコーナーはロシア語の動詞の体の用法を中心に会話でよく使う和文露訳を短文の形式で出しているわけで、体の用法に限って言っても、見方によってはいろいろな面がある。それをアトランダムに出題しているわけである。ただでたらめに設問を出すと言っても、それだけでは学習者が混乱すると思い、自分の復習用に作った第233回の表を覚えたことの整理用に活用し、道しるべというかナビゲーションとして学習者の参考に供しているわけである。私としても投稿者の回答から、自分の体の用法の整理のヒントをもらうことや、一方的な思い込みの是正なども多々あり、いわば相身互いであって、片方だけが得をするとか、教えてやるんだとか、教わるんだというような一方的なものでは決してない。

 だから、今日からでも始められるわけだが、昨日の設問ができたといって、今日の設問が解けるというものもないし、その逆でもない。ただ山に上るにはいろいろな登り口があるわけで、どのようなペースでどこから登ろうとも、一休みも二休みしようとそれは登る人の自由である。早く登って次の山(別の何かやりたいことや目標)に進むのもよいわけである。ただ本当の山はなくならないが、このコーナーはペンキで書いた薄っぺらな山の看板みたいなもので、投稿者の支えがなければ、風が吹くだけでもすぐこける。

設問)「心電図の数値は?」をロシア語にせよ。

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2012年01月24日

●和文解釈入門 第249回

電力は動力の一種だからмощностьであり、単位はKW (кВт)である。似た単語に電力量があるが、これはэлектроэнергияであり、単位はKWh (кВт・ч)と時間当たりである。電力料金は時間当たりなのでцена на электроэнергиюとなるので注意する必要がある。蛇の毒牙はядовитые зубыである。жалоというのは蜂やサソリの毒針であり、蛇の場合は二股に分かれた舌先をいう。昔はここから毒が出ると思われていたためである。

 「冷やす」というのはохладитьだが、冷やして病気(風邪など)や病的な状態にするという場合はзастудить を使い、Плечо застудите!(肩が冷えるよ)などという。в один прекрасный день という句を見たら、「ある晴れた日に」と訳したい気に駆られるのは理解できるが、в одно прекрасное времяと同義で、однажды(あるとき)という意味である。訳が滑り過ぎないようにすることも肝心である。窓はокноだが、船舶や航空機の窓(舷窓)はиллюминаторという。

 回数は単に数える回数なら10 разのようにразを使うが、マッサージ、催眠術、モデルのポーズ、上映など基本的に公開して行う催しものの回数はсеансを使う。сеансы лечебных процедур(治療の回数)とか25 сеансов рентгеноского облучения(レントゲン照射回数25回)となる。交渉ではраундを用い、второй раунд переговоров(2回目の交渉)となる。турも同じように使える。в первом туре анкетования(1回目のアンケートで)とか、В апреле 1980 г. был проведён второй тур (первый - в январе) повышения цен на бензин.〔1980年4月2回目(1回目は1月)のガソリン値上げが行われた〕、И только после пяти туров переговоров(たった5回の交渉の後で)、Начните повязку с двух туров вокруг головы.(手始めに包帯を頭に2回巻いて下さい)などである。

設問)「人のことはほっといてって言ってるでしょ」をロシア語にせよ。

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2012年01月25日

●和文解釈入門 第250回

花粉症ではないが、私にはハウスダストのアレルギーがある。それはこれまで買い集めたロシアの本のせいだと確信している。ロシアは湿度の低い国だから、防カビ剤など本に塗らないだろう。だから梅雨になると本にびっしり青カビらしきものがつく。ダニはカビも食べる。その死骸が私のアレルギーを引き起こすのだ。学生時代からチェーホフやドストエフスキーの全集を買い出したときに、やがてカビがついて、拭くと緑色になるの気がついた。防カビ剤をコーティングしたりしたがまるで効かない。そのうちに本の栄養分がなくなったのか、ひからびたのか、カビがつかなくなった。まったく1ページも読んでいないのに、表装を見れば、古本屋でも引き取りを拒否するだろうというぐらいボロボロである。

 最近はインフルエンザも流行っているという。乾燥がインフルエンザ菌を増やすので、加湿器を使っている人も多いだろう。なぜ乾燥がインフルエンザを増やすのかについて、テレビで乾燥すると菌の水分が減って、体重が軽くなり、空中にフワフワ漂いやすくなるからであると解説していた。一番簡単なのはお風呂の蓋を取っておくのがよいというので、さっそく実行している。気持ち気分がよい(変な日本語という気もしないではないが)し、くしゃみが少なくなったような感じがするので続けているだが、菌のくせして、楽してダイエットというのが気に入らないという気持ちもなくはない。

設問)「彼が来るまで待っていた」をロシア語にせよ。

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2012年01月26日

●和文解釈入門 第251回

何が楽と言って、通訳の通訳をするのが一番楽である。ロシア語のできる人に対してロシア語で通訳することはないが、英語がかなりできる人や観光などで英語の通訳やガイドの話す日本語をロシア語にすることはある。こういう人たちは外国語慣れをしているので、短く、論理的かつ平明な日本語を話してくれるからこれをロシア語にするのは非常に簡単だが、普通の人相手ではそうはいかない。日本人同士だからといっても、発想がとびとびだったり、論旨がメチャクチャで何を言っているのかさっぱり分からないというのもままある。考えて話しているとはとても思えないし、できることなら頭の中を覗いて見たいものだと思う事もある。この方が下手なゲームよりよほど面白いだろう。特に話し慣れていない人とかおしゃべりな人にこの傾向が強い。言わんとすることを訳すのは一言で済むのだが、そうしてしまうとご機嫌を損ねてしまう。なぜ全部訳さないのかということらしい。まさか全部訳せばますますこんがらがるとは言えないので、適当にロシア人が理解できるだろう限界まで話を長引かせ、かつ要点を最後の一言で終えるようにする。例えば、いろいろ申し上げましたが、要は~ということなのですという高等(口頭)テクニックを使わざるを得ない。意味を理解してほしいのか、話の流れのままに、ただ単語の羅列だけすればいいのか悩むところだ。特に下手なダジャレや仲間内のばれ話しをされた日には泣きたくなる。これでロシア人が笑わないと、後であの通訳には高等小話は無理だったなとか陰口をきかれることになる。

 そうではなくてロシア人でも日本人でも非常に頭が切れて、意識的に話をはぐらかそうという人もいる。話の尻尾をつかまれたくないか、結論をあいまいなままにしておきたい場合だ。そういう場合はそのような通訳をせざるを得ない。これは文法的には正しいロシア語で、かつ何を言わんとするのか話を曖昧にするという非常に高等テクニックを要するもので、分かるようで分からないが、文法的には正しいし、言わんとするところらしきものはその通り通訳し、通訳の尻尾もつかませないというもので事実上不可能である。大概はロシア人側からあのときは通訳が下手だったからよく分からなかったの一言で終わる。ロシア人は人にもよるが、たいていは結論がすぐ出せないときはそういう。ところが日本人は、切口上というのを嫌うのでぼかして話をしたがる。無論自分の直接の利害がからむときは、非常に明快になるのは日本人ビジネスマンも同じである。ただよほど頭の悪い人以外は。

設問)「絆創膏をはがさないよう気をつけてください」をロシア語にせよ。

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2012年01月27日

●和文解釈入門 第252回

本物の山ではなくて、比ゆ的な「~の山」はいくつか訳せるが、грудаはгруды дынь и арбузов(メロンとスイカの山)などといい、в беспорядке(整頓されていない)というニュアンスがある。штабельはВо многих местах по всему кладбищу стояли штабеля гробов.(多くの場所で棺の山が林立していた)とかСкладирование проводится в штабели.(保管は山に積んで行われる)のように、保管場所で円錐形に積み上げる鉱石、砂利などを指す。валили их в штабеля(山と積み上げた)とか、Штабелями лежали пустые бочонки из-под рыбы.(山となっているのは魚用の空き樽だった)という。

 столбは同じ大きさのものを積み重ねた山で、столб блюдечек(皿の山)という。軽いものの山はворохを使い、ворох словесного мусора(文学のクズの山)とかвороха новых книг(新しい本の山)という。стопаもノートなどの同じ大きさの山をいい、стопа душистого хлеба(馥郁たる香りのパンの山)となり、сложенные стопочкой(山に積み重ねられた)などと使う。бунтは袋物や資材を積み上げた山で、бунты свитых здесь канатов(ここで撚ったロープの山)という。使用に制限がなさそうなのは、кучаやгораで、кучаはкучи дел(仕事の山)とか、мусорная куча, куча мусора(ゴミの山)と使う。гораはгора оружия(武器の山)、гора винтовок(ライフルの山)とか、Поедали горы блинов.(クレープの山を食いつくした)、гора трупов(死体の山)、горы бумаги(紙の山)、горка с фарфоровой и серебряной посудой(陶器と銀の食器の山)、горка пепла(灰の山)、горка оливок(オリーブの山)という。

設問)「マラリアは何千人もの命を奪った」をロシア語にせよ。

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2012年01月28日

●和文解釈入門 第253回

サン・テグジュペリの原作「夜間飛行Ночной полёт」を1936年レイモン・ベルナール監督が映画化した「夜の空を行く」というのがある。この題名を聞いてすぐ露訳するとすればどうなるだろう。「空を行く」の主語は一人称だろうが(主語がない以上、二人称だって、三人称だってありうるが、一応日本語の特性を考えると)、単数か複数か?ままよ、一人称単数にしておこう。空を行くというのだから、これは飛ぶということだろう。しかも飛びまわっているとは書いていないし、毎日とか繰り返しでもなさそうだ。となると定まった一方向への運動だから現在形の定動詞を使う事になる。「空を」だから空を移動しているわけで、その場所にいるわけではない。そうであればпо небуである。となるとЯ лечу по небуである。「夜の」は真夜中か、それとも午後5時ごろから午後10時ごろまでだろうか?夜か夜中かによってЯ лечу по ночному (вечернему) небу.と訳せる。「夜の空を行く」の訳者がどういう意味でこう日本語に訳したのか知らないが、私の解釈は「私は夜(乃至は夜中の)空を飛ぶ予定だ(ないしは「飛んでいるところだ」)である。いきなりの同時通訳が無理だというのを説明したくて、この駄文を草した次第である。

 一瞬でこれを露訳するときは、このようにいくつかの可能性からその時点で通訳が一番可能性が高いと思われるものを訳しているのである。事前に通訳に説明なしに訳せというのは、常に誤訳の可能性をはらんでいるのであり、結局のところ雇い主にとって損になるという事を知ってもらいたいがためでもある。ただ何かあったら、安易に全て通訳が悪いとすればいいのだろうが、通訳の現場は通訳の技能大会をしているわけではないはずで、いい結果を残すために、それがひいては雇う側の利益にもなるという事を雇う側の担当者も是非考えてほしいものだ。事前に資料か、具体的な背景を少し説明するだけでも通訳の精度はグーンと上がるのは間違いない。そういうのがなければなしで通訳にベストを尽くすだけである。

 技術通訳をしていた時に、ロシアのメーカーの会社案内のDVDをいきなり同時通訳してくださいとその場で言われたことがある。むろん断った。言った人はかなりロシア語ができる人だったが、自分ではできなくとも技術通訳をするプロなら、技術関係のプレゼン資料など同時通訳ができると思いこんでいたようである。断ったら嫌な顔というよりは非常にびっくりした顔をした。多分まともな技術通訳に頼めば良かったと臍をかんだのかもしれない。こういうロシアを話す人ですら同時通訳をどうやるのか知らないのである。どんな同時通訳だって、やるからにはやる内容についての資料を事前にもらい、出てくる可能性のある単語や表現を暗記しておくはずだ。この場合も、事前に少なくとも1回はDVDを見せ、そのロシアの会社のロシア語の会社案内を渡すというような配慮をすれば、同時通訳は無理でもwhisperingぐらいは可能だったかもしれない。あとでDVDを見たら、そのロシアのメーカーの製造ラインのみならず、独自のキャンペーンが早口のロシア語で全編を貫いていた。通訳はスーパーマンでもなんでもないのである。いきなり言われてアネクドートや聞いたことのない技術や新説珍説の同時通訳ができるはずがない。できたとしたら単にまぐれかラッキーである。ロシア語の修行はただたんに地道な努力の積み重ねにすぎないのである。

設問)「転んだのですか、それともぶつけたのですか?」をロシア語にせよ。

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2012年01月29日

●和文解釈入門 第254回

軸にはосьとвалがあるが、осьは車輪が保持される軸、ないしは座標軸координатная ось, ось координат、対称軸ось симметрииや重心центр тяжестиが通るような想像上の直線のことをいい、валはベアリング(軸受)подшипникなどの中にあって動きを伝える軸、つまりシャフトである。普通の日本人の知らない言葉に中実軸(ちゅうじつじく)というのがある。これは中空ではない軸ということでсплошной валといい、中空軸はполый валとなる。またсплошной контрольというのは全数検査という意味で、抜き取り検査はвыборочный контрольとなる。過失はпроступокが普通だが、ちょっとした過失ならпровинностьを用いる。грехи, прегрешения(共に複数形が普通)は現代語では皮肉や冗談っぽく用いられる。

 寿命は人の場合продолжительность жизниだが、機械ならресурс (моторесурс), срок службыといい、前者は修理するまでの時間(何時間количество отработанных часов)や回転数で表し、後者は~年とするのが普通である。また工具やベアリングではдолговечность(工具ではстойкость инструментаともいう)を使う。中性子などの寿命はвремя жизниで、バッテリーはАккумуляторная батарея рассчитана на 10-часовой разряд.(バッテリーの放電時間は10時間と計算〔バッテリーの寿命は10時間と計算〕)などという。バネはコイルばねがпружинаで板ばねはрессораと書いたことがあるが、厳密に言えば、板ばねには単板ばねплоская пружина (пластинчатая пружина изгиба) と重ね板ばね рессора (пластинчатая многослойная пружина изгиба) があり、自動車ではコイルばねと共に使われるのは後者である。
遺跡にはостаткиとстоянкаがあるが、後者は原始人の住居跡である。「生の」は魚ならсырая рыба(生の魚)となるが、野菜ならсвежая капуста(生のキャベツ)となる。行動はдействиеだが、抗議行動、示威行動はвыступленияと複数になる。картофельное пюреはマッシュポテトと訳してよいが、ポテトピューレではないような気がする。片栗粉をкрахмал, картофельная мукаと訳してよいかというと、市販の片栗粉はほとんどがジャガイモの澱粉なので問題ない。

設問)「誰から聞いたとは言わないからさ、知りたいんだ」をロシア語にせよ。

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2012年01月30日

●和文解釈入門 第255回

大昔受けたガイド試験で一番いやだったのはロシア語作文である。もっとも大学で故岡本正巳先生(元高崎経済大学学長)のロシア語作文という講義を2年受けていたので、他の受験者に比べれば楽だったろうと思う。先生の授業では朝日新聞の天声人語を学生に一人2~3行露訳させるのである。無論正答はほとんどないが、学生の回答を基に先生が正解を講義してくれたわけである。このような授業の進め方は和文露訳の授業が確立していなかった当時(今それが確立しているのかどうか知らないが)やむを得なかったとはいえ、系統的と呼べるものではなかった。まあ行き当たりばったりと言ってもよい。当然予習していたと思うが、時事ロシア語なのにすらすらと先生が正解を黒板に書いていくのには毎度驚かされたものだった。しかし、ロシア語作文やロシア語会話の度胸はつくかもしれないが、あのようなやり方ではロシア語はうまくはならないだろうと思う。ロシア語の何を学習させるかに焦点があっていないというか、焦点自体がないのだからどうしようもない。

 40年ロシア語をやってきて、単語や表現を暗記しなければならないのは事実だが、それは枝葉に過ぎないと思う。それを目標に置くのであればきりがない。また英語式にSVOというように、主語 + 述語 + 目的語というふうに文を分析的に勉強させるというのを体系的と考えるかもしれないが、そういう文例は露文解釈の段階でたくさん学ぶのである。ロシア語と日本語は言語としてかけ離れているが、それでも主語、目的語、他動詞などはあてはめることができる。このように日本語でも理解できることに時間を費やすのは、それこそ時間の無断である。

 ロシア人と多く会話すれば、必ずしも劇的にロシア語がよくなるというわけでもない。単なる錯覚である。インプットがなくてアウトプットだけでは会話慣れするだけで、挨拶言葉から先に進めない。会話している気がするだけで、話しているのはロシア人だけで、聞く方はフンフンとうなずいている割には言っていることがよく分かっていないということになりかねない。語彙だけ覚えても、たんにロシア人と会話してもロシア語がうまくなるわけではないし、それだけでロシア語がうまくなる魔法のようなものはないが、そういう枝葉より幹である。つまり日本人がロシア語をやる上で文法的に最も理解しにくいものを先にマスターすればよい。そうすれば後は機械的に語彙を覚えればよい。私はそれを体の用法と考えた。これをマスターすれば、ロシア語の発想がロシア人の話すロシア語に近くなるし、話すロシア語はロシア人からもそれほど違和感をもたれなくなるはずだ。これまで文法的になぜそうなるか素人考えでは理解できず、文を丸ごと無理やり暗記してきたが、それを何万と続けるわけにはいかないだろう。40年ぐらいやればひょっとしたら可能かもしれないが、何十万とは言わないまでも辞書にある十万かそこらの語彙を暗記しないと満足できないということになりはしないか。それと覚えた例文以外は怖くて使えないという事にもなりかねない。ロシアを勉強するのは個人だから私の勉強法を押し付けるつもりもないし、押しつけること自体不可能である。少しでもよいと思えば、その少しを試して見るのも悪くないかもしれない。

設問)「その湖は植物相や動物相の多様性において類をみない」をロシア語にせよ。

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2012年01月31日

●和文解釈入門 第256回

モルタルというのはセメントと砂とを水で練ったもので、レンガ積みのつなぎ(目地шов)、壁・天井・床に使うのだが、ロシア語では(строительный, цементный) растворという。ただрастворというのはふつう溶液ということで液体である。一度モルタルを塗った壁の説明をしていた時に、ロシア人の女性からさとうさんの通訳はおかしい。これがрастворのはずがない。なぜなら乾いているからと言われてギャフンとなった。無論そのロシア人の言う事が間違いだが、そういう発想ができなかった自分にも驚いた。растворと聞けば、壁ならモルタル、化学分野なら溶液と条件反射のように訳が口をついて出てくる。語彙というのは自動翻訳機のようにロシア語から日本語、日本語からロシア語が瞬間的に出るようにこの40年訓練してきたが、それではロボット志願ではないか。いずれ自動翻訳機もできてくるだろうから、機械と張り合っても勝てる道理がない。ロシア語も挨拶や技術などの専門語彙のように、訳が決まっているものだけを覚えるのではなく、ロシア語やロシア人の本質に目を向けるというか、そういう勉強をしたいものだと思う。私はそれが体の用法だと思うし、不完了体が自然体を表すというのも、ロシア人の本質に関わるのではないかという気がする。

 モルタルについていえば、ソルジェニーツィンの収容所列島にНосили раствор на 4-й этаж носилками.(モルタルを4階にもっこで運んでいた)という表現を見つけたのはつい最近のことである。

設問)「彼が来ないとも限らない」をロシア語にせよ。

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2012年02月01日

●和文解釈入門 第257回

前回の出題は二重否定と部分否定の組み合わせで、「なくはない」というのは「ある」ではなく、「あるかもしれないし、ないかもしれない」という八方美人的な表現法であり、経営トップや政治家の通訳をするときに、覚えておかなければならない必須の表現法である。このほかに「前向きに対処します」があるが、これをМы отнесёмся к этому положительно (позитивно).と訳すと、ロシア人は文字通り、何かしてくれると取る。昔は日本人の庶民もそう理解したが、今ではこれはМы принимаем это к сведению.(承っておく、話だけ聞いておく、フンフン)という意味であることは分かっているので、そのように訳さないと誤解を招く。ただまれにビジネスマンで文字通りにこういう腹芸を理解せずに、そのままの意味で使う人もいるので、通訳途中で、「ほんとにやるつもりですか」と聞くわけにもいかず(私はどちらかよく分からなかったことがあり、何度か尋ねたことがある)、通訳泣かせというか、人を見る目が問われる表現でもある。

 色はцветだが、自然界で「色が変わる」はменять окраскуとокраскаを使う。色合い、色の組み合わせという意味で、毛皮、羽根、花など自然界の色は単色という事はあり得ず、こういう微妙な色をокраскаと表現するのである。詩はстихиだが、стихотворениеは歌謡曲の歌詞のように短いものを言い、поэмаは叙事詩である。
裁判での告訴や告発はобвинениеだが、比ゆ的な意味で用いるときはобличение царизма(帝政の告発)などとする。
妖精はфеяだが、神話によってもいろいろある。гном地の精、дриады森の精、наяды泉や川の精、саламандра火の精、сильф空気の精、ундины水の精、нереиды海の精などである。

設問)「サウナは風邪にも筋肉痛にも関節痛にも効く」をロシア語にせよ。

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2012年02月02日

●和文解釈入門 第258回

胃石безоар желудкаは胃から出ることが出来ない部分的に消化された物質、ないしは未消化の物質が密集したもの(胃石症)、またはアザラシ、アシカ、ワニ、草食性の鳥類が歯の代わりに胃で食べ物をすりつぶすために用いられる結石またはそのために飲み込む自然の石である。結石のほうで昔から価値があるとされるのには、漢方では牛黄、熊の胆があるが、ヨーロッパでは馬糞石безоар, безуйが有名である。これは馬の腸内結石(炭酸カルシウム、リン酸マグネシウム)で解毒、解熱剤であり、別名ペトラ・べゾアール、ヘーサラ・バサラ、鮓答(さくとう)という。ロシア史の専門家ザベーリン(1820~1908)の「ロシア皇后の家庭習俗Домашний быт русских цариц в 16 – 17 столетиях, Иван Забелин, Языки русской культуры, 2001の本文の注にこの馬糞石について書いてあるので、それを参考にこの石とロシアのかかわりについて書いて見る。

 中世にはこの石は全ての毒や病気に薬効があると考えられ、東方由来とされた。ロシアで翻訳された医学書によれば、この石は東インドよりもたらされ、色は灰色で、黒いのもあり、小さい。この石は海岸で見つかり、シカの心臓で生まれるが、蛇の胆汁中という説もあるが、いずれにせよ、この石は悪人の呪いに打ち勝つ最も強い薬である。賢者セラピオンは大麦12粒ぐらいの重さのを挽いたものを温めたラインワイン(白ワインであろう)とフランスの白ワインと共に服用し、ベッドでくるまり、汗をかけば効果絶大であると述べている。疫病のときも服用するか、持ち歩くと効能がある。指輪の中に入れて持ち歩けば、呪いを感じることが出来るし、感じたらすぐ服用すれば呪い除けとなる。

 1616年3月21日ツァーリ(ミハイル・フョードロヴィッチ)の最初の妃候補としてマリヤ・フローポヴァが選ばれた時に、国庫でヤロスラヴーリの人ナザーリー・チストーフから215ルーブルで3個の馬糞石を買い上げたと記述がある。これは多分解毒剤としてであろう。彼女は間もなく病死したが、症状から見て大貴族サルトィコーフに毒殺されたという噂がある。石の効き目はなかったようだが、他に代わるものがないのだからしかたがない。王妃候補の毒殺というのは珍しいことではないし、王妃になってからも毒殺の危険はあった。イワン雷帝の最初の妻も大貴族に毒殺されたと少なくとも雷帝は信じていた節がある。ロシア正教内の改革により旧教徒との対立の原因を作ったニーコン総主教も流刑された時には、毒殺を恐れ、神の恩寵により馬糞石のおかげで生きながらえているという手紙を残している。

 1625年に今のカザフ領にいたアッバース・シャーが金、エメラルド、ルビーに包まれた馬糞石30グラムを法会用に時のツァーリに贈ったとあるし、1626年にはカザンの人イストミーンから75グラムを国が購入とあり、1676年3月7日にも馬糞石の入った杯を用意せよという記述がある。
 クルーキンとブルィチェフの共著「イワン雷帝のオプリーチニキの日常生活」に、雷帝が二番目の妃が非常に疑わしい死を遂げた後、再婚するために1570年に花嫁選びの全国美人コンテストを行い、全国から選りすぐりの美人2000人を当時彼の宮廷があったアレクサンドローフスカヤ・スロボダーに集めた。まず着飾った姿を2、3名の腹心と共に雷帝が見て、話をし、気に入らなかった女性は彼のなぐさみものになり、輩下に払い下げられ結婚させられた。あるいは無慈悲に宮廷から追い立てられたりもした。結局24名が残り、それが12名となり、1571年6月26日自分の妃と息子のイワンの妃として選ぶために、医師の立ち会いの下、彼女らを素っ裸にして調べた。結局雷帝はワシーリー・ソバーキン(コロムナの地主)の娘マールファを妃として選んだ。これは雷帝の寵臣マリュータ・スクラートフの進言によるものとされている。ところがマールファは突如病みつき、2週間後他界してしまった。マールファは毒殺されたという風評が当時もあり、ロマノフ家かチェルカースキー家の手によるものだという。雷帝は少しがっかりしたが、すぐ大貴族の娘エウドーキア・サブーロヴァと10月28日に挙式した。このように解毒剤の需要は切なるものがあったのである。

設問)「大きさではミラノのスカラ座に次ぐ大きい新しい建物が1824年建設された。それゆえ、劇場はボリショイと呼ばれるようになった」をロシア語にせよ。

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2012年02月03日

●和文解釈入門 第259回

設問が難しいと考えて投稿を控える人もいるようだ。いわゆるやさしいと称する問題を作るのもそれほど簡単なことではない。例えば、「赤い花が咲いている」を出題したとする。答えはКрасные цветы цветут.だから、投稿する人数も増えるかもしれない。しかし、この日本語を見れば分かるが、日常会話でこのような文を使うだろうか?ロシア人と話していて、こう言いたければ、目の前の赤い花を指でさせばよい。目の前にこういう花がなくて、いきなりこのような文を言えば気違いと思われるだろう。初心者向けのロシア語作文には基本的な語彙を使う事、不完了体現在形を使うことなどの制約もありそうだが、そうなると出題しようとする日本語の文はまずます現実とかけ離れて行き、人工的な文とならざるを得ない。しかもほとんど実用にならないものである。このような初心者向けの文で少しでも実用性のありそうなものは露文解釈の教科書や参考書にすでにある。

 これまではロシア語作文というと、ある程度文法(それを中級文法と言いたければそれでもよいが)を終えた後は基本的に丸暗記する以外に道はなかったように思う。二十歳を越えたいい大人に対して、丸暗記しか残されていないというのはおかしい話で、自分で丸暗記のみの道を選ぶというなら別だが、普通は他にやりかたがあるのではないかと思うはずだ。ロシア語で会話したいなら、会話用に全てを丸暗記するのではなく、文法の助けを借りてその暗記の負担を少しでも減らすべきだというのが私のロシア語学習法の基本的な考え方である。だから設問は実戦で使え、かつ応用力があるものをできるだけ出題するようにして、難問とかひっかけるような問題を意識的に出すつもりはない。第257回の設問も時制的には不完了体現在形であり、反復という用法で分かりやすいものだが、ガイドをしていれば絶対に覚えておかなければならない語結合である。ロシア人と温泉に同行した時、薬、食べ物など広く使えるだろうと思い、出題している。

 全ての出題が個々の投稿者にとって必要なものだとは思わないし、特定の個人に対してではないので、的を絞った出題が出来ないのは事実ではある。これによって自分のロシア語の具体的な弱点を見つけ、今後の勉強の方向性を見定め、それに資するものがあればよいと思う。出題については、成功しているかどうかは別にして、出題の意図というのはある。これがなくして、ただ興味本位に出題するとするなら、あるいはそういうものがなくなったのなら出題を続ける意味はない。

設問)「狼に出くわせば人命にかかわる」をロシア語にせよ。

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2012年02月04日

●和文解釈入門 第260回

会話で日本語からロシア語にするときに、訳がまごつくものの一つとして「可能性(~できる、~できない)」がある。例えば、「ロシア語が話せますか?」をロシア語にすれば、Вы можете говорить по-русски?というよりはВы говорите по-русски?とする方が自然である。これはговритьにобладать способностью речи(会話する能力がある)という意味があるためである。

 さて、Печень не пальпируются.(肝臓が触診できない〔触診で分からない〕)、Кишечные шумы выслушиваются?(腸雑音〔腹部音〕は聴診できますか〔聴診器を当てて聞こえますか〕?)やКишечные шумы не выслушиваются.(腹部音は聴診器で聞こえない)は不完了体動詞現在形なのに不可能の意味が出ている。どうしてだろう?日本語のとロシア語の違いなのだろうか?そこで露露辞典で語義を辿って見ることにした。
 пальпироватьはисследовать больного посредством пальпацииであり、動作の中核はисследовать(調べる)である。この動詞は внимательно осматривать(よく見まわす)ということで、осматривать(見回す)はсмотреть(見る)という動詞から派生している。смотретьは「視線を向ける」направлять взгляд куда-либо; иметь глаза направленными на кого-либо, что-либоであり、視線взглядはнаправленность, устремлённоть глаз в сторону кого-либо, чего-лиго(何かに目を向けること)ということで、その核になる言葉は目という視覚器官である。またвыслушивать(聴診する)の方はもっと簡単に、元になった動詞слушать(聴く)からслух(聴覚)となる。感覚の意味を内在する動詞は当然その感覚の能力があるのが前提という事が分かるはずだ。ゆえに、訳語に可能性が出てくるのも当然となる。

 同様に、Я не понимаю.(分かりません)〔Я не пойму.というのは完了体動詞未来形の否定であるから用法的には文脈によるが不可能か、否定の強調である〕は「理解できない」ということである。「知らない」と言いたければ、Я не знаю.と言えばよい。понять/понимать(理解する)を上記同様露露辞典で辿ってみれば、уяснить себе, уразуметь смысл, сущность(意味や本質を自分に分からせる)ということであり、уяснить(分からせる)はсделать ясным, понятным для себя(自分にとってはっきりと理解するようにする)であり、ясный(はっきりしている、明確である)はхорошо видимый, слышимы, осязаемый, воспринимаемый; отчётливый(よく見える、聞こえる、触れる、感知できる、明確な)と感覚のオンパレードであり、感覚的に分かるいう意味である。つまり「分かる・分からない」というのも、後天的か先天的かは別にして知力ум = познавательная и мыслительная способность человека(人の認識能力や思考能力)という一種の能力であり、これが内在する語彙は訳語に可能性が出てくるのだと思う。
「分かる・分からない」を端的に示したものとして、病院で使われる文例にАртериальное давление не определяется.というのがある。これは一般的にこうだというのではなく、ある患者の血圧に関する所見である。これを「動脈圧は測らない」と訳せば誤訳となる。不完了体現在形に意志の意味はない。だから(動脈圧は測れない〔診断がつかない、分からない〕)と訳さざるを得ない。これの英訳はNo measurable blood pressure.(血圧は測定不可能である)となっていて、英語でも不可能で訳している。определять(~と診断する)はвыяснять посредством измерений, подсчётов, вычислять(測定や計算によって明らかにする、算出する)であり、выяснятьはделать ясным, понятным(明らかに、理解できるようにする)であり、だから過程の意味で使えば、Количество - выясняется.(数量調査中〔明らかにしつつある〕)ということになる。また受け身のвыяснятьсяはстановиться ясным, понятным(明らかになる、理解できるようになる)となる。つまり、この文を無理に言い換えればАртериальное давление не становится (делается) ясным.(動脈圧は明らかにならない)という事になる。ясныйが感覚全てを包含している形容詞であることはすでに述べた。だから、Пульс на сонных и бедренных артериях не определяется.(頚動脈や股動脈で脈が分からない、はっきりしない)とかИнфильтрат в молочной железе определяется чётко.(乳腺の浸潤〔物〕がはっきりと分かる、診断できる)となるわけである。

 結論として言えるのは、露訳をする上で、「~できる、~できない」を何でもかんでもмочьやнельзяをつければよいという事にはならないということである。感覚的な能力や理解力を語義に含む動詞は不完了体現在形だけで可能性や不可能を示すことができるし、その形で使うのがロシア語として自然であるということになる。

設問)医者から患者への問い「便秘(下痢)していますか?」をロシア語にせよ。

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2012年02月05日

●和文解釈入門 第261回

「会う」はвстретиться/встречаться с + 造格だが、встретить/встречать + 対格とどう違うのだろう?前者は「予定して会う」の他に、「出くわす」という意味もあるが、後者には「(偶然・突然)見かける」という意味の他に、「出迎える」という意味がある。

 「保つ、もつ」という意味では、Одежда из льна хорошо носится.(亜麻の衣服はよくもつ)とか、Сметана не стоит долго.(サワークリームは長く保たない)などと、носиться(衣服), стоять(食べ物)が使える。

 弁やバルブのうちклапанはポンプ、コンプレッサー、内燃機関や配管、パイプラインで使われるもので、流量を調節する(開閉も含めて)という意味がある。вентильは配管の開閉のみ(ストップバルブ、止め弁)で、ボンベбаллонなどのバルブはзапорный вентильという。кранはвентильと同義語で、配管の開閉(流路の方向調節という場合もあるが)であり、水道の蛇口водопроводный кранやサマワールの蛇口 кран самовараとしておなじみである。日本語でも蛇口をカランという人がいるが、これはオランダ語から入ったものと聞く。もっとも蛇口のカランというのは風呂でシャワーに切り替えるときに使うものである。золотникは蒸気機関、タービン、空圧機器、油圧自動機器などの作動流体の制御に使われる滑り弁slide valveである。ちなみに人体の弁もклапанといい、обратный ток крови через митральный клапан(僧帽弁からの血液の逆流)などという。клапанにはポケットなどのフラップ(ふた)という意味もあり、конверт с открытым клапаном(ふたの空いてある封筒)と使う。

 鉱山に対応する言葉はいくつかあるが、шахтаは立抗・傾斜抗、地下の有用鉱物採鉱システムの総称で、現在では地下鉄など地下作業の現場も指す。копиはрудникの古名、ないしは露天掘りの鉱山、рудникは鉱山会社、地下の有用鉱物採鉱システムの総称である。приискは貴金属の採掘場所で、золотые прииски(金山)、алмазные прииски(ダイヤモンド鉱山)、платиновые прииски(プラチナ鉱山)、медные прииски(銅山)などと言う。разработкаは有用鉱物の採掘場所を指し、карьерは露天掘り鉱山である。

設問)「寿司を食べるのは初めてですか?」をロシア語にせよ。

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2012年02月06日

●和文解釈入門 第262回

ロシア人の酒好きは有名だが、ピョートル大帝も引けを取らない。スウェーデンとの海戦などに勝利してから毎年勝利の日を祝うのだが、それ以外にも名の日とか、軍艦の進水式とか祝うようになった。名の日というのはロシア人の名はキリスト教の聖人にちなんでつけることが多く、ミハイル(大天使から)、ソフィヤ(知恵)、ヴェーラ(信仰)、ナジェージュダ(希望)、ピョートル(ペトロから)もそうである。革命前は自分の誕生日より盛大に祝ったものである。

 ピョートルは皇帝だから祝い方も特別で、その日は外国人も招いて朝の4時ぐらいまで飲み続ける。しかも客が帰ろうとしても帰さず、出口には番兵をつけて帰らせないようにしたとある。ピョートルはハンガリーワイン(トカイのようなものだろうか)やアニスウオッカанисовка(これは今でも売っているがうまいとは思えない)が好きで、フランスワインなど飲んでいるのを見つけると、大きな杯に二本分の瓶のいろいろな瓶の酒を入れ(ある外交官はそのうち1本はウオッカだろうと推測している)、つまりチャンポンで飲ませ、寵臣のメーンシコフでさえ、泥酔して倒れ、かいがいしい奥方の看病で何とか息を吹き返したという。ピョートルは客が泥酔するぐらい飲めば、心から客が楽しんだことになりロシアの軍艦建造の成功を喜んでくれるという考えだった。

 彼は何かあると大鷲杯кубок Большого (Великого) орлаという1リットルも入る罰杯を人に飲ませた。中身はハンガリーワイやウオッカで、多くはそれらのチャンポンだった。その1リットルを一気飲みさせるわけである。ドルゴルーキー公(有名な外交官の父)はロシア人にしては珍しく酒の飲めない人だった。1710年に70歳を過ぎて再婚してから4日目のいつもの酒宴で、飲みたくないので幾分かは酒をこっそりこぼして知らんぷりをしていたが、それをピョートルに見つかり、750 ccの酒を一気に飲まされた。彼はその場で倒れ、その1時間後に亡くなったという。ピョートルは大いに悲しんだが、酒が悪いとは考えなかったし、皇帝というのは文字通り臣下の生殺与奪の権利を持っていると心から信じていた。

 同じような話で、クリュイス提督とゾンメル副提督はお互いいい歳をした年寄りだったが、ピョートルの開いた酒宴で飲み過ぎて、二人で殴り合いの喧嘩となり、殴られて倒れたゾンメルの頭からカツラが取れてカツラが行方不明になったという。カツラもピョートルが西欧から取り入れたもので、彼自身はカツラを好きではなかったが、冬の寒い日など礼拝に出席するときに、よくカツラを忘れたピョートルは手近にいる人から自分の頭の大きさに合うかどうかには関係なく、カツラをむしり取って自分の頭にかぶせ、礼拝が終わると相手に丁寧に返したという。彼にとってカツラは寒い時の帽子代わりだったらしい。

設問)「このブツブツ(発疹)は季節的なものですか?」をロシア語にせよ。

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2012年02月07日

●和文解釈入門 第263回

会話での露文和訳および和文露訳というのには、日本語とロシア語の知識が多いほどよい。どちらかが偏っていると、文字通り偏見のもとになる。これは理屈ではともかく、実際よく分かっていない人が多い。これは二つの言語に同じくらい精通している人が少ないからだろう。しかも言語と文化は切り離すことができないし、文化と言っても本で読んで得られるものと、そうではない大衆文化があるからなおさらである。和文露訳の上達のために、現実的には日常会話ができる程度のロシア人に自分が作ったロシア語を見てもらうという事が多い。そうなるとそのロシア人はほとんどロシア語しか見ない、というか元の日本語が読めたとしても、ロシア語の方に目が行き、そのロシア語だけで判断してしまうということになりがちである。医療や技術関係の表現など万国共通のものはよいが、日本やロシアの文化がからんでくれば、単純な思い込みで、間違いが紛れ込む可能性は大きい。文化だけでなくとも、日本語の時制や単数・複数、それにロシア語の体の用法を完全に理解していないと文のニュアンスが分からないことになる。

設問)「この前血圧を計ってもらったのはいつですか?」をロシア語にせよ。

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2012年02月08日

●和文解釈入門 第264回

ロシア語でヴォールворというのは泥棒のことだが、ヴォール・ザコーニェвор в законеは今やロシアアカデミーの最新版露露辞典にも載るくらいロシアでは一般的になった。ヴォール・ザコーニェは口語ではヴォールと略されて使うのが普通で、泥棒と紛らわしいが、ヴォール・ザコーニェはケチな泥棒などはしない。自分でする必要がないからである。その歴史については、「ロシア小話アネクドート」と「ロシアのジョーク集」にゴロツキ(五露助)成金として分けて書いた。ヴォール・ザコーニェ(以下ロシア語の口語通りにヴォールとする)は日本語に訳せば日本の顔役、任侠、侠客、極道、渡世人、無頼という感じだが、犯罪エリートの階層であり、だれでもなれるわけではなく、なるには実績が要るし、二人の推薦人も要る。

 日本人でもソ連時代の収容所を経験した人の中には、ヴォールについて描いている人もいる。「ロシア無頼」(内村剛介、高木書房、1980年)にЧеловек есть?とヴォールが房に来て尋ねる場面がある。直訳すれば「人間はいるか?」だが、человекは隠語でヴォールвор (вор в законе) のことで、урка, уркаган, блатнойともいう。つまりヴォールは自分たち以外を人間と見なしていないから、「仲間はいるか?」と尋ねたわけである。つまりトーシローфраерはヴォールにとってカモでしかないということになる。

 ヴォールは当時40歳を超えて生きるのは稀だとされた。抗争事件で殺されるか、ヤク中になるかどちらかだったのである。ヴォールの残虐さについては「GULAG」, Anne Applebaum, Doubleday, 2003やシャラーモフШаламовの「コルィマー物語Корымске рассказы」でよく語られているが、ソルジェーニーツィンの「収容所列島」にも草創間もないころのヴォールについて描かれている。ちなみにヴォールは1930年代の初めの収容所(場所は特定できないがソローフキСоловкиなど特別収容所の可能性が高い)の中で差し入れなどの関係から、犯罪エリートが自分たちを守るためにできたと考えられている。

 1947年冬クラスノヤールスク収容所に40人の日本人将校が戦犯として移されてきた。この収容所では囚人は森林伐採の作業をさせられていたが、厳寒の候でもあり、ロシア人でもその寒さに耐えるのは大変だったとソルジェニーツィンも書いている。そこには作業拒否者отрицаловкаという筋金入りのヴォールが何人かいた。ヴォールには18条の掟があり、その中に犯罪以外のしのぎ(稼業)はしてはならないという一カ条がある。それを厳格に守れば当局と揉めるわけで、当然相当の覚悟がいる。後になって1980年代から経済マフィアが実権を握るようになると、この掟は無視されるようになった。ヤクザも霞を食っては生きていけないのである。

 このヴォールは入ってきた日本人捕虜を何人か丸裸にして、パンを取り上げた。それに怒った近藤という大佐は二人の将校とともにその夜収容所所長のもとを訪れ、流暢なロシアで、もしこの無法を放置しておくならば、明日日本人二人が切腹をする。それでも無法が止まなければ、切腹を続けると話したところ、所長のエゴーロフは事態の深刻さを即座に理解した。日本人の命を憐れんだのではなく、これが上に知られれば、自分もただでは済まないことに気づいたのである。かといってヴォールを処罰して彼らとももめごとを起こしたくもない。当時イヌ(スーカ、直訳は牝犬)сукаという同じ犯罪者でも、当局と慣れ合い密告者としての役割も果たしていた集団があり、これは明らかにヴォールの掟の中の、当局とはいかなる協力もしない、軍務にも服さないという掟と抵触する。そのためヴォールとスーカの間に当時すでに激しい抗争が始まっていた。ヴォールともめ事を起こせば所長といえども殺される可能性があるわけである。そこで次の二日間日本人を作業に出さず、十分食事を与え、別の収容所に移送した。これはヴォールに勝利した珍しい例としてソルジェーニツィンはほめて書いている。正に日本人の誇りである。

設問)「昨日彼女はなぜかいつもより早目に会社から帰った」をロシア語にせよ。

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2012年02月09日

●和文解釈入門 第265回

私が世の中で一番幸せな人だと思うのは、コンビニに入って好きな食べ物をなんでも気にせず買える人である。若いころは安いものでもお腹いっぱい食べることが出来た。今だって身体に特に悪いところはないのだから、コンビニにあるくらいのものなら、お金を気にせずに何でも買って食べようと思えば食べられるが、余計な教養が邪魔をする。その教養と言うのは長年の健康オタクとしての知識である。毎日特に痛いところもなく、不眠症も便秘も下痢もない、それには親に感謝しなければならないが、自分なりの努力もある。そのためには我慢が必要な事を身にしみて感じている。血圧とか中性脂肪、コレステロールとか考えると、コンビニで買えるのは、おにぎり1個か、野菜サラダ、ヨーグルト、野菜ジュースぐらいだろう。そういうことを考えずにコンビニで買い物ができる人がうらやましい。ただ世の中楽ばかりはない。つけは必ず回ってくる。

 健康でいたいのも、毎日痛みのない生活をしたいという理由からである。ロシア語の辞書は重い。目の前にあるもので毎日使うものだけでも、40冊くらいある。ストレッチや早歩きなどの運動を毎日しないと、毎日8時間から10時間は座って読書をすることが多いので、体が持たない。その楽しみのために健康第一なのである。しかもその運動はアスレチックに通うとか有料のは、生まれつきのケチのため駄目で、タダのしか興味がないから選択も楽だ。目的があるからこういうのも苦にならない。今の願いはできるだけ長くボケないで生きて、ポックリ逝くことである。体も歳を取って悪くなるのだろうが、徐々にではなく、いっぺんにガタがくるという方向で頑張ってみたい。

設問)「臭いをかぎわけるのは得意ですか?」をロシア語にせよ。

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2012年02月10日

●和文解釈入門 第266回

ロシア語の勉強という事を考えると小さな商社に入ってよかったと思う。というのは自分の意思に関わらずいろいろな部署に配属されたことである。初めは重工船舶部で新造船を、後に修繕船(修理船の専門用語)もやり、といっても商社に入ったが営業はせず、技術通訳専門だった。ソ連向け船舶がだめになると、鉄鋼部の技術通訳を経て、機械部の営業に行く。そこでは工具、スノーモービル、漁労機械、在庫になった化粧品、遺伝子交換用の酵素などもろもろを担当した。

 日本でもロシア駐在でも大商社や中商社の担当には秘書がつくが、小さな商社では何でも自分でしなければならない。大商社の人が駐在しても電話は秘書がかけて、相手が出てきてから話をすることになるし、ビジネスレターも秘書が書いてくれるから話すのはともかく書くロシア語は上達しないのである。小さな商社で秘書と言っても所長の秘書だけだから、時間の空いているときにロシア語の質問をし、自分で作ったロシア語のレターを見てもらったものである。また当時あるソ連の公団は電話がつながりにくく、自動で電話かける器械が導入されたことがあったが、3ヶ月で壊れるありさまだった。電話がつながっても、相手のロシア人は席を外しているのがほとんどで、いつ戻ってくるのか分からないから1時間後に掛け直すというありさまである。これが駐在員の仕事だろうかと不思議に思ったことも何度かある。こういうことは大手の商社の人には分からないだろうと思う。

 別の会社に移ってからは、それまでは日本からの輸出ばかりの担当だったが(駐在のときにスクラップを少しやったことがあるが)、合金鉄の輸入、中古プラントの輸出などをやった。大手の商社であれば、一つの部から動くことはなく、鉄鋼部に配属されて、それから化学プラントに移ることなどはあり得ないから、語彙も狭く深くなる。私のは広く浅くの典型である。その証拠に今でも、昔の化粧品の通訳のとき出た「肌のきめ」はстроение кожиというのは覚えている。

 そういう意味で医療関係のロシア語ではイスクラという商社の社員の方がベストだと思うが、私もほんの少しだが医療器械を輸出したことがあり、いくつかソ連やロシア、カザフスタンの病院を回ったことがある。また家族で駐在していたころは娘が幼いので通訳も兼ねて病院へはよくついていった。病名や医療器械というのは英語(ドイツ語)から来ているから、調べるのはそれほど難しくない。露和の医学辞典や露英医学辞典も何冊か持っているからなおさらである。ロシア語の語尾で-титとなるのは英語の-itisの可能性が高く、そうなると「~炎」と訳せる。例えばнасморкは鼻風邪で、専門用語では鼻炎ринитだが、英語はrhinitisである。ロシア語として難しいのはこういう病名や医療機械ではなく、体の用法や複数・単数の使い分けである。モスクワやアルマトゥイ駐在当時に病院の会話(医者と患者のやり取り)で使う文例をかなり集めて、ロシア人の医師や看護婦、多くはロシア人の秘書になぜこの体を使うのかとか、なぜ複数が出てくるのかと聞いても、「こうしか言わない」の一点張りであり、これ以上聞いても無理であり、結局丸暗記しかないとあきらめた。

当時も今もロシア人や日本人のロシア語専門家への伝手もないし、それに関係する論文を知る手だてもない。故新田實東京外大名誉教授には晩年メールをいくつかやり取りして、文法について教えを乞うたこともあったが、やがて亡くなられてしまった。この何年か真剣に自分で体の用法や単数・複数の勉強をやりだして、いろいろな参考書も手に入り、かなり理解が進んだと思うので、昔書き記したその医療関係の文例も含めて、いろいろな会話の文例を今整理して、エクセルに入れているところであり、そのいくつかを皆様に紹介しているわけである。会話における体の用法や単数・複数の使い分けというのはアカデミーの世界では常識なのかもしれないが、一般向けの参考書ではそれについて書かれてあるのは数えるほどしかないし、例文もドストエフスキーやトルストイのがあったりして、19世紀の、しかも露文解釈用の文法書としか思えない。あくまで書かれてあるロシア語の分析用だからである。例えば、「明日商談にお伺いします」という文を日本語にするには、時制は未来だというのは分かるが、その後どうすればいいのだろう。「伺う」は「行く」の謙譲語だという事は分かる。「商談に」はどの前置詞を使えばいいのだろうとこの短文に対しても、普通の文法書は答えてくれていないように見える。答えはあるのだが、それを探すのはかなり文法をやった人でも難しいし、これでよいのかという確信もその文法書は与えてくれない。会話での和文露訳用の文法書が存在しないならということで、文法書は無理でも、和文露訳する際に一番難しい体の用法を中心に、その手引きぐらいはこれまでの経験から自分の勉強のために書けるのではないかと考えたのがこのコーナーである。

設問)「誕生日を祝ってもらう人の年の数だけ火のついたロウソクを立てたケーキを置く。その人はそれをいっぺんに吹き消さないといけない」をロシア語にせよ。

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2012年02月11日

●和文解釈入門 第267回

前回の続きだが、「明日商談にお伺いします」を和露辞典を頼りに露訳するとしよう。特に何もなければ主語は1人称と取るのが普通である。ゆえにяかмыとなる。「商談」は手元にあるラヴレンチエフの和露辞典に載っていないが、まあ細かいことは言わずに載っていたとして、(коммерческие) переговорыとなる。交渉という意味ではпереговорыは複数となる。「商談に」の「に」は方向を示すからвかнаだが(人へならкという可能性もある)、商談というのは場所と概念が一緒になったものだから(動詞由来名詞で、動作以外に場所という意味にも使われるものと考えてもよい)、そういうものにはвыставка(展示会)のようにнаが来るのが普通である。次に「お伺いします」だが、これは「御社(貴社)へ行く」の謙譲語である。「御社へ」はв вашу фирмуとするよりはк вамが普通である。相手の会社という一方向に行くのだから定動詞を使う。ちなみに「行く」と「来る」は、広義の運動の動詞(定動詞不定動詞に接頭辞をつけたものпри-とот-やу-)では区別するが、定動詞では区別しない。

 歩いて行くならидтиで、車や船ならехать、飛行機ならлететьとなるが、今時よその会社に歩いて行けるというのは例外であろう、普通は地下鉄か車か電車だろうからехатьを使うことにする。「明日」とあるから時制は未来である。この内容が初級文法の範囲内かどうかは別にして、これを瞬時に判断しないと実戦的なロシア語(お金をもらえるロシア語)の文は最低限とはいえ作れないことになる。

 この知識を基に、文を作ってみよう。×Завтра я буду ехать к вам на переговоры.となる。この文をロシア人に見せると間違いなく直される。なぜだろう?буду ехатьというのは運動の動詞の不完了体の合成未来形(бытьの未来形 + 不完了体動詞不定形)だから、本来不完了体は新規の事柄には使えず、使えるとしたらその場の雰囲気に合わせるというような自然体的な用法においてである。буду ехатьがなぜ使えないか自分なりに考えてみたが、下記のように他に三つすでにехатьを使って未来の用法を作れるわけである。そうであれば特に無理して使う必要もないというのが実際のところであろう。運動の動詞以外なら合成未来形は意向(~するつもりである)という意味で使える可能性が出てくるが、完了体と違い不完了体はある程度の時間の長さがあるというニュアンスが語義に含まれているの普通である。そのため意向というのは今すぐというよりは、ある程度のタイムラグがあるという感じである。

 それではどうすべきか?三つの可能性がある。一つは、ехатьを取ってしまって、前置詞を方向を示すものから位置を示すものに変えて、Завтра я буду у вас на переговорах.とするのである。これは歩くとか車とか船とか飛行機などの乗り物を考えて動詞を選ばなくてもよいので便利だが、1回だけの露訳ならともかく、通訳やガイドはその日1日中ロシア語で話していなければならないわけで、こればかりを使うわけにもゆくまい。

 二つ目は完了体未来形を使う方法で、Завтра я поеду к вам на перегоровы.こうすれば未来に起こる動作を確信していることになる。最後の一つは、ビジネスロシア語やガイドの通訳でよく使われるように、ехатьの現在形едуを使って、Завтра я еду к вам на переговоры.とするやり方である。英語でも現在進行形を使って予定を示す用法があるが、それと似ている。つまり現在の過程の延長線上に動作があると考える予定の用法である。この方が完了体未来形よりも確度が高い。それはスケジュールに入っているという感じだからである。非常に便利な用法だが、使える動詞は動作の開始を語義に程度の多寡はあれ含まれているもので、その数が限られているのが難点である。

 こんな短い文でも和露辞典と初歩の文法だけでは文は作れないことがお分かりだろう。それは文の骨格である動詞の用法を理解していないからである。だから初級文法を終えたら(ロシア語を始めて半年ぐらいしたらと言い換えてもよい)、定動詞・不定動詞も含めて体の用法の学習をするのがロシア語会話上達の早道であることがお分かりだろう。丸暗記に未練があるなら、体の用法に関連した文例を暗記した方がはるかに効率がいいはずだ。

設問)「慣れない場所では眠れない」をロシア語にせよ。

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2012年02月12日

●和文解釈入門 第268回

学生の頃「ロシア語作文」という講座で高崎経済大学学長の故岡本正巳先生からルーブル美術館とドーバー海峡についての作文が出たが、ルーブルЛувр, луврский музейとドーバー海峡のスペルが分からず、その部分だけ回答できなかったことがある。おかげでこの二つの単語は未だに覚えている。ロシア語にはЛ とРの違いがあり、それがない日本語を母国語とする日本人には難しいものだが、こういう著名な名称なら英語のスペルが分かれば、露和で調べられないことともないが、それ以上の外国の地名については英露・露英地理名称辞典Англо-русский русско-английский словарь географических названий, Русский язык, 1994ぐらいで調べるしかなかった。これは約6000語を収録しており、便利といえば便利ではある。ただこの辞書がなくとも今やインターネットに接続できる環境なら、外国の固有名詞は英語とロシア語ではスペルがあまり変わらないので、調べ物には楽な時代になった。調べものが楽になった分それ以上のことが求められる時代でもある。ちなみに、ドーバー海峡はイギリス海峡 пролив Ла-Маншの一番狭いところであり、пролив Па-де-Калеといい、英語を直訳したДуврский проливというのも聞かれないことはない。これをみてもロシア語の外来語はこれからはともかくフランス語由来というのがよく分かり、英語一辺倒の日本とは違うということをどこか心の片隅に置いてほしい。
 
 昔話のついでに、恩師の故飯田規和先生から本の重みで二階の根太が折れてえらい目に遭ったという話を昔うかがったことがある。何千冊もあったのだろう。また先生からくれぐれもロシア語の本には書き込みをしないように、別にノートを作るように言われたが、それは守っていない。先生は蔵書を寄付するという前提でのお話だったのだろうと思うが、私は自分の金で買った本だから、書き込みでも何でもして、とにかく語彙を覚えたほうが得だと考えているからである。私にとって本も、辞書も、参考書もロシア語を覚える手段だからだ。だから私の本は見開きからなにから赤字で書き込みや下線がいっぱい引いてあって汚いから、他の人は見る気にも、ましてや使う気にはとてもなれないと思う。

設問)「その銅像は皆さんの善意で建てられたものです」をロシア語にせよ。

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2012年02月13日

●和文解釈入門 第269回

ロシア語の勉強をはじめたのは、ロシア語でロシア人と会話したかったからで、まず会話の和文露訳習得をめざした。英文解釈よりははるかに英作文のほうが難しいのは受験で体感していたので、まず露文解釈をやり、短文を暗記していった。まず初級文法も終え、仲間と1年ほど週1回ロシア人の先生に会話を習った。これでロシア語の聞き取りと度胸はついたが、自分の言いたいことを曲がりなりにもロシア語言えるようになったのは、ロシア語をやりだして4年ぐらい経ったころである。就職してから自分でロシア語の文法をやるにつれて、ロシア語に関するいろいろな疑問は減っていくとは言うものの、どうしても分からないものも出てくる。有難いことにそのころから今に至るまで親切なロシア人は回りにたくさんいたので、質問するのには困らなかったが、納得のいく文法的な説明はしてくれないし、奇妙な自説を展開する人も多い。結局あきらめて分からないものは丸暗記というふうになっていった。

 そうこうするうちに、正しいロシア語もかなり話せるようになったが、どうして複数をとるのかとか、どうして不完了体(あるいは完了体)を使うのかなどと皆目分からないものも増えていって、かなりのストレスとなった。体の用法や単数・複数、類語についてほぼ何とか説明がつくと思えるのようになったのはこの1年ほどである。40年やってようやくと思うか、ロシア語を始めた以上、初めてロシア人に聞かなくてもロシア語が使えるようになったのを喜ぶべきか分からないけれど、一区切りついたようでこれはこれで嬉しい。ただ体の用法が説明できるようになってもガイドや通訳の料金がアップするわけでもない、単なる自己満足である。ただもっと早めに体の用法を教えてくれる人がいたら、もっとストレスなしに楽にロシア語の会話が出来たのにという気がしないでもない。

 正しいロシア語を話すというのはそれほど難しいものではない。ロシア人の使う正しい例文をたくさん暗記すればよい。その数がいろいろな状況に合わせて多ければ多いほど、ロシア人のロシア語らしく聞こえる。多くの通訳はこのような和風ロシア人を目指しているのかもしれない。理屈抜きにロシア人のロシア語が無意識に口をついて出てくるようなロシア語である。幼児が母国語を覚えるのをものすごい時間をかけて覚えるわけである。丸暗記を続けるというのは、少なくとも私にはかなり前からしんどかったし、今でもしんどいことには変わりはない。こういうのはまともな大人がやることではないと常々思っていたし、今も思っている。物事には本質的な系統的な何かが必ずあるはずで、それを探そうとして、ついに自分なりに納得できる答えを見つけたという事である。

 しかし、体の用法も含めてその系統的な何かを、会話での和文露訳で活かすために、また自分が会話で使えると実感し、納得するためには適切な例文が数多く必要である。理論で納得しても実際が伴わなければ意味がないからである。それについてはこれまで自分用に収集した、例文を含む8万5千項目の語彙が大いに役に立っている。その一部は第233回の表で紹介した。さらに完了体と不完了体を整理したり、誤解を招くような記述を削除したり、入れ替えたりしてこの表もかなり改良されつつあるので、いずれ改訂版を紹介することもあろう。今さら昔に戻れるわけではないが、ロシア語を始めたころにこの表を使って、ロシア語を教えてもらっていたら、40年かかったロシア語を10年くらいでマスターできたのにと少し悔しい思いがする。

 この世の中は広いから、全部が全部とは言わなくとも私と同じ考えの人もほんの少しはいるかもしれない。そういう人たちにこのコーナーは、ロシア語をマスターする上での、一つ別なアプローチподходを提示しているという事になる。

設問)「みなさんがたと20分行き違いとなりました」をロシア語にせよ。

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2012年02月14日

●和文解釈入門 第270回

ロシア語の文例の丸暗記については否定的だが、語彙や語結合については丸暗記せざるをないことが多いのは認める。いったん覚えれば絶対忘れないという人は世に少ないわけで、そのためにも語彙集のようなものを通訳やガイドに人は作っていると思う。私も、例えば鉄鋼関係の通訳の仕事が入ったとすれば、圧延、機械試験などの語彙の復習は毎度する。毎度するのは完全に覚えていないのと、度忘れがあるからだ。技術用語は日本語でも日常用語とはかけ離れており、和露にも露和にもないのが普通だ。もし載っているとしたら、それは用語とは呼ばない。単なる一般語彙に過ぎない。そのためエクセルに入れてある語彙集からノートに必要な(忘れかけている)語彙を100ぐらい抜き書きすることになる。このノートは通訳現場には持っていくが、通訳している時は見る時間はない。おまじないみたいなものだ。

 辞書で口語用法と書いてあると、標準用法とは違うのだという感じを持たれるかもしれないが、会話に関して言えば、スピーチや交渉の通訳を除けば、会話はほとんど口語なので、通訳やガイドを目指すなら口語の用法というのも積極的に覚えた方がよい。

 ガスはгазだが何種類かのガスが頭にあれば複数にするが、それは例外的用法である。ところが体内で発生するガス(おなら)はгазыと複数にする。メタンガスのほかに空気とかいろいろなガスが含まれている混合気だからだろうか?гасという形での初出はアカデミー版露露辞典によれば1803年であり、газなら1834年である。残念ながら複数形については書いていない。この単語がおならという意味で最近複数になったというならともかく、150年くらい前から複数形が使われていたとしたら、混合ガスであることが何となく分かっていたから複数にしたのだろうかと、最近ロシア語の単数・複数にも関心があるので、疑問がガスのように湧いてくる。これは物理的な力はсилаだが、体力をсилыと複数にするのに似ている。ガスが出るはиспускать (выпускать) газыであり、おならをするはиспортить воздухで、医師が患者に手術後尋ねる「ガスがなかなか出ませんか?」はУ вас затруднено отхождение газов?と言う。狩野亨先生の「現代ロシア話しことば辞典」によれば、「すかす(音無しの構え)」はбздетьで、пердетьが音の出るほう(屁をひる、こく)であるとのことだった。ちなみに両方とも卑語なので念のため。

設問)「こういう場合にはよくあることだが、私は席を外した」をロシア語にせよ。

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2012年02月15日

●和文解釈入門 第271回

ラスードヴァРассудова先生の「ロシア語動詞 体の用法」(1975年、吾妻書房)や磯谷孝先生の「演習ロシア語動詞の体」(1977年、吾妻書房)や原求作先生の「ロシア語の体の用法」(1996年、水声社)でも触れられていない体の用法がある。それは不完了体の現在という時制についてである。不完了体の現在は反復、動作の一般化、真理、経過(進行形)と日本語にも同じように対応すると考えて筆を省かれたのかもしれない。書かれているとしても、そのほかにはせいぜい予定の用法ぐらいである。これは露文解釈を専門にしていると気がつかないし、和文露訳でも会話だけをやっていても気がつかない用法である。私がこの用法と出会ったのは、毎日ビジネスレター(当時は主にテレックスだったが)を書かなければならない羽目になったころ、今から35年前ぐらいの時である。

 「2013年1月に展示会エコロジー2013を開催しますのでご案内申し上げます」という文はビジネスレターではよく使うもので、初歩的なものである。「案内する」というのはデパートのアナウンスでもおなじみの「連絡する、伝える」ということで、動詞はいろいろ可能だが、最も一般的なのはсообщить/сообщатьである。これを使って初級者に作文させると、「ご案内申し上げます」はМы сообщимと書いてしまう。一瞬後とはいえ、これから「伝える」のだから完了体未来形を使うと無意識に考えてしまうのだ。これは間違いである。正解は、Мы сообщаем Вам, что выставка «Экология-2013» состоится в январе 2013 г.である。主語がмыなのは、弊社(当社)はмыで示すのがビジネスでは普通であり、Вамと大文字なのは貴社(御社)に敬意を示しているからである。私もなぜこれから伝えるのに不完了体現在形が来るのかが分からなかったが、説明してくれる人もいないので、例の丸暗記で覚えてしまった。実用上はこれで差支えないし、私が手に入れることが出来るようなレベルのロシア語の参考書でこれについて説明したものは日本語では見たことがない。しかし、「伝える」という類の動詞だけが例外であって、それ以外は一見未来で「~する」という意味の時は完了体未来形を使えばいいのか、あるいは使うに当たってなにかコツというか決まりがあるのかは分からなかった。

 これはперформативные глаголы (перформативы)という動詞群で一応正確な和訳名を知らないので、動作遂行型動詞と名付け、第21回本文や第233回の表で説明してある。ただ第21回の本文は未来時制での和文露訳をどうするかが説明の主体であり、この用法のポイントをうまく絞って説明できていないと思われるのでここにあらためて書いておく。
 完了体未来形というのは、「これから~する」ということだが、厳密に言えば動作に今という瞬間は含まない。Я пообедаю.(私は昼食を食べます)は一瞬後か、10分後か、1時間後か知らないが、動作が始まるのは今という瞬間ではなく未来である。Я буду обедать.(昼食を食べるつもりです)だとさらに時間をおく感じがする。またЯ обедаю.は何もなければ「私は昼食を食べている」という過程を示すと考えるのが普通である。1時間後とかそのような未来を示す副詞がつけば予定の意味になる。Я обедаю через час.(1時間後に昼食をとります)。ところが動作遂行型動詞は不完了体現在形(特に1人称では)、今という瞬間から、その瞬間を含んで、動作を完了するという意味合いがあるのである。だからこの動詞群の、例えばсообщимと完了体未来形を使って文を作れば、今この瞬間ではない、未来に「伝える」ということになって、Мы сообщим дополнительно.(追ってご案内申し上げます)という文で分かるように、今現在は「伝えてはいない」ということになる。

 この動詞群はсообщаю(連絡する)の他に、делаю(人を~にする), заклинаю(懇願する), запрещаю(禁止する), каюсь(後悔する), молю(懇願する), назначаю(任命する), обвиняю(非難する), обещаю(約束する), освобождаю(開放する), предлагаю(提案する), предписываю(指示する), признаюсь(白状する), приказываю(命令する), провозглашаю(宣言する), прошу(お願いする), прощаю(許す), радуюсь(喜ぶ), рекомендую(勧める), советую(勧める), ставлю(人を~に据える), умоляю(懇願する)などである。こう見ると、「お願いする」、「命令する」、「禁止する」、「約束する」、「連絡する」、「勧める」という語義で、こういう日本語の動詞は露訳するときに、日本語で現在の時制なら、完了体未来形ではなく、不完了体現在形となると覚えよう。一人称だけでなく、三人称でも使えるのではないかと考えている。それはРекомедуется одновременное применение эстрогенных и андрогенных препаратов.(エストロゲンとアンドロゲン〔男性ホルモン〕の薬剤を同時に服用することを勧める)という文があるからである。

 この他にも最近医療関係の会話の例文を整理していて、Определяется дефицит пульса.(脈拍欠損と診断されている)とか、Отмечается застой в лёгих.(肺に鬱血が認められる)や、Наблюдается падение давления.(血圧低下が認められる)という文も3人称ではあるが、この用法ではないかと考えるようになった。三つとも医者が患者や看護師への具体的な症状の説明を示す会話であって、反復でも、動作の一般化でも、状態を示しているものではない。наблюдатьは「観察する、観察している」という状態を示すこともあるが、上記の文例では、「血圧が下がり続けているのを観察している」ということではなく、「血圧が1回下がったのに気がついた」という意味であるのは明らかである。これは「診断する」、「気づく」という動作が、今その瞬間から始まって動作が終了したという意味で不完了体現在形が来ていると私は考えている。またこの代わりに被動形動詞過去形を現在の時制で使えば、例えばОпределён дефицит пульса.は「脈拍欠損と診断された」で結果の現存であって、しばらく前か、たった今脈拍欠損と診断されたという事実がそのまま引き続き存在しているという事を意味しているにすぎない。つまり動作の開始時期が過去(一瞬前か、だいぶ前かは別にして)なのである。しかし、不完了体現在形では、動作の開始時期は今この瞬間か、少なくとも今と呼べる範囲内の時間である。日本語への訳出上では変わりないように見えるが、このようなニュアンスの差はあると思われる。

 日本語のいわゆる現在時制に合わせて、ロシア語も不完了体現在形を使えばよいと考える人もいるかもしれない。日本語の辞書形(不定形のように辞書の見出しとなる動詞の連体終止の形)を例に取って見よう。「食べる」は反復・動作の一般化に使えるが、「これから食べる」と未来時制でも使う。つまり露訳するときは文脈によって体を選択する必要がある。しかも「食べる」は「食べ終わる」ではない。つまり動作の終了を示しているわけではない。しかし、「命令する」、「伝える」、「許す」などは、このままでロシア語同様、動作の終了を示している。そのような動作完了型の動詞はロシア語でも不完了体現在形を使う。このように見かけの現在時制で、全く系統の違う日本語とロシア語を100%同じように時制を解釈するのには無理がある。和文露訳の場合は時制の違いや動詞の語彙の特性をよく理解して、ロシア語の動詞やその時制を選択しないと、誤訳になる可能性が出てくることになる。

 この他にспрашиватьの〔お前にも分かるように尋ねているんだ、尋ねている意味は分かるだろ、聞いてやるのはこれで最後だぞ〕Я тебя русским языком (по-хорошему, последний раз) спрашиваю.という脅し文句もそうであるし、電話の(佐藤さんをお願いします)Господина Сато, пожалуйста.に対して、(どちら様ですか?)Кто его справшивает?もそうであるといえる。

設問)「川の流れに沿っていくつかの自然保護区が作られた」をロシア語にせよ。

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2012年02月16日

●和文解釈入門 第272回

被動形動詞過去というのはよく使われるが、被動形動詞現在というのはあまり使われないし、書き言葉なので、関係代名詞を使ったほうがよいと文法書にある。その通りだろうと思うが、技術関係ではпроверяемая деталь被測定部品やисследуемая жидкость被験液、исследуемый материал被験材があり、技術関係以外でもстепени внушаемости被暗示度、испытуемый человек(催眠術の)被験者、というように、これから検査される、実験を受けるという意味で日本語の「被」と非常にうまく対応する。もっとも日本語の被は被害者というようにこれからだけではなく、された後というように受け身全てに対応する便利な接頭辞であるから、事後という場合には被動形動詞現在は使えない。

 よく使われるものは形容詞化しているとも言える。その中でне-が接頭辞につくものは不可能を示すといえる。例えば、непроницаемая тайта(うかがい知れない〔うかがい知ることができない〕秘密)である。непроницамыйはнепостижимый (= невозможно понять理解できない)ということだが、他にもнельзя проникнуть(侵入できない)、つまりнельзя + 完了体動詞不定形が不可能を示すことは第233回の表でも述べている。このことから不可能という訳語が出てくるわけである。第56回で紹介した防水カメラводонепроницаемый фотоаппартもそのような意味で理解されたい。

 表現はвыражениеだが、文学、絵画、彫刻、音楽などの芸術的表現となるとизображениеとなる。「言い逃れ」は、酒を勧められてНикакие оговорки не принимались.(どんな言い逃れも効かなかった)などと使う。同じ言い逃れでもувёрткаというのがその場を逃れようとする作り話などで、оправданиеはすでに済んだことに対しての弁明である。頸飾りはожерельеだが、首輪はошейникである。形状はформаを使うが、技術用語ではпрофильも使う。профильというのは側面から見た形状ということで、人間なら横顔ということになる。滑車はблокで、複滑車はполиспаст、チェーンブロックはтальといい、ホイスト(電動式の軽量の品物の吊り上げ装置)はтельферという。
設問)「彼はタバコを1日10本喫う」をロシア語にせよ。

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2012年02月17日

●和文解釈入門 第273回

夏目漱石の「坊っちゃん」は随分前に読んだことがあるが、「吾輩は猫である」というのは有名な出だしの文句は知っているものの、読んだことはなかった。思いついて読んでみたら、文庫で500ページ余りの長編である。丁寧な校柱もあるので楽しく読めた。まあ最後の主人公の運命でピリリと締めたという感じであろうが、時間をつぶすのにはよい。猫の飼い主の名字が珍野(名は苦沙弥)という事を初めて知った。幕末や明治の初めには日本の猫には尻尾がないと来日した外国人は書いているが、この本には(1905年初出である)すでに猫には(少なくとも主人公とそのあこがれの君である美人猫三毛子には)長い尻尾があることが分かる。話はそれたが、この本の中でDo you see the boyを「ずうずうしいぜ、おい」と読ませてあるのには笑ってしまった。

設問)「腎臓結石で手術なさったのですか?」をロシア語にせよ。

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2012年02月18日

●和文解釈入門 第274回

このコーナーの和文解釈は和文が中心であり、それをロシア語でどう解釈するかだから、回答のロシア語自体が正しくとも、設問の和文と意味やニュアンスが異なれば間違いという事になる。また回答のロシア語の文法や語法が違えば当然間違いである。ただ和文が中心なので、日本的な語彙については、ロシア語ですんなり訳せないものもあろう。そうなると説明的とか、ロシア人の目からはくどいような、あるいは舌足らずな文章に見えるときもあるかもしれない。それはそれでしかたがないと思う。完全に訳せない場合は和文露訳なら和文が主体なので、ある程度露文は説明的になっても和文の意を尽くすという趣旨であるからやむを得ないと思う。例えば、「たおやかな峰」とか「まったりした味」というのは、そう簡単にはロシア語にはならないだろう。

 ロシア語で考えて露文を作ろうとするのと、和文露訳は別物である。まず全てロシア語で考えるのは我々外国人には無理かもしれないが、ロシア語風に、ロシア人に分かりやすいように文を作ることは可能である。しかし、そういうふうに、ある意味おもねった書き方をすれば、肝心の和文と離れていくという事も大いにありうるという事を念頭に置く必要がある。

設問)「朝、瞼や顔がむくむのが気になりましたか?」をロシア語にせよ。

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2012年02月19日

●和文解釈入門 第275回

自然公園や鳥獣保護区という意味で、заповедникを使うが、他にзаказник(特定保護区)という用語もある。これは частичные заповедникиという意味で、заповедник のような完全保護区ではなく、原則的に一般人の立ち入りも自由であるものをいう。トラクターはтракторで、農業用や土木工事用だが、最大級の馬力をもつトラクタートラックやロードトラクターはтягачという。шассиは車のシャーシーだが、飛行機の車輪という意味もある。クラッチは車のはсцеплениеだが、機械の中で使う継手の方はсцепная муфтаである。ハンドルはрульで、自転車、トラクター、車、船、飛行機のハンドルであり、特にрулевое колесоは車にも使えるし、船の舵輪でもある。маховичокは工作機械のハンドル。баранкаは俗語で車のハンドルを指す。свечаはロウソクだが、запальная свечаは自動車の点火プラグであり、свечаには座薬という意味もある。

設問)「休み時間はまだ終わっていない」をロシア語にせよ。

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2012年02月20日

●和文解釈入門 第276回

セリフはтекст ролиだが、「台詞を暗記する」はвыучить рольといい、相手が言ったセリフへの応答や返答、つまり「つっこみ」はрепликаという。代名詞は文法用語ではместоимение(厳密に言えばместоимение-существительноеで、местоимениеだけだとтакой, какой, столько, много, сколько, несколькоも含まれる為)だが、Остап Бендер стало именем нарицательным, которым называют авантюриста.(オスタープ・ベンデルはペテン師を呼ぶときの代名詞となった)のように比ゆ的に使えばимя нарицательноеとなり、これは文法用語では普通名詞という意味である。визитная карточка(名刺)も比ゆ的に代名詞という意味で使える。Визитной карточкой не только рыбных блюд, но и всей японской кухни служат суси.(魚料理だけではなく日本料理の代名詞となるのは寿司である)。同じように使えるものにсинонимがある。Фашизм стал синонимом голода и рабства.(ファシズムは飢えと奴隷制の別名である)

設問)「彼の報告のお膳立てをしているのかい?」をロシア語にせよ。

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2012年02月21日

●和文解釈入門 第277回

動作遂行型動詞についてもう少し書いて見よう。日本語で過程を示すには「~している」があるが、繰り返しも示すので、過程であることを強調するためには、「~しつつある」というのを用いる。「認識している」と「認識しつつある」や「禁止している」と「禁止しつつある」では、これらの動詞の「~している」は動作が終わっているが、「~しつつある」では終わっていない。同じ過程を示す「歩いている」と「歩きつつある(歩みつつある)」は同義であり、ともに動作が終わっていないし、終了するという概念もない。動詞の種類が違うことが分かる。

 「禁止している」ではすることが許されていないが、「禁止しつつある」では、禁止されていないということである。つまり動作をONとOFFに分けているわけで、その中間はないことになる。過程の意味ではONを押し続けている(押しっぱなしになっているのは状態という用法)、ないしは意味によってはずっとOFFを押し続けているということになる。また「認識している」は認識が終了している(分かっている)ということで、「認識しつつある」というのは、認識が終了していない(分かっていない)ということである。これが動作遂行型動詞ということになる。

 こういう動詞を「(これから)~する、~します」という時制(現在・未来形)で露訳するときに、動詞は不完了体現在形を使えということである。それ以外の動詞では完了体未来形を使う。和文露訳で必要なのはこの使い分けである。

 この動作遂行型動詞は被動形動詞過去の現在時制の用法(結果の現存)に意味的に非常に近いと言える。厳密に言えば動作の開始の時点が前者は現在であり、後者は過去であるとは言うものの、動作が終了したという意味では同じだからである。例えば、(室内のたき火厳禁)Разведение открытого огня в помещении строго запрещается.のзапрещаетсяは、(禁止されているもの以外はすべて許可される)Всё разрешено, за исключением того , что запрещено.のзапрещеноと同義であるからだ。

設問)「不幸は日を選ばない。来る時は来る」をロシア語にせよ。

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2012年02月22日

●和文解釈入門 第278回

今の学生が本を読まないという事に対しては異論がある。昔の学生もマンガが中心で、それほど本を読んではいなかったように思う。私も高校・大学のときはSFや歴史小説ばかりで、まともな文学を読みだしたのは40過ぎからなので、あまり大きなことは言えないが、学生のころは読んだといっても内容が深く理解できていなかったり、目を通しただけという人が多かったように思う。また今の学生はツィッターなどの携帯での情報発信、ゲームなどやることの選択の幅が多すぎて、落ちついて本を読む時間もなく大変だろう。最近エミール・ファゲ(1847~1916)の「読書術」(中公文庫)を読んだが、読書も空手やお花などと同様、究める道で、だれでも有段者や師範になれるわけではないという事がよく分かる。この本の中に「物語しか読めないもの、アレクサンドル・デュマの読者は、あまり活動的な人間ではなく、時にきわめて怠惰でさえある。しかしそれよりも彼は他の人の観察者でもなければ、自己自身の観察者でもなく、そして彼は内的生活も知的な外的生活ももたないのである」とある。

 世の中人間としていいか悪いかは別にして、読書家というのはいつでも少数派である。大学とは、いつか将来学ぼうと知的欲求が起きたときに、どうすればそれに応えられるかを知るヒントを、与えられるのではなく、自ら会得するか、そうでなければ、どうしたらそれを会得できるかを学ぶところなのだ。そのためには、本を読む習慣をつけるだけでいいのである。生涯にわたって知的欲求のあり続ける人はいつの時代でも少数派である。この本とベストセラーの「大学の下流化」を並行して読んだのだが、気力が足りなかったのか、「大学の下流化」のほうは初めの10ページだけまじめに読んで、あとは流し読みだった。いい本と情報だけで中身のない本の差だと思う。「大学の下流化」ではいかに今の大学生が本を読まないという事を嘆き、それではだめだということで読書の重要性を説いているのは皮肉である。

 「脳治療革命の朝」(柳田邦夫、文春文庫、2002年)の中に「それまでマンガしか読めなかった状態から、新聞・雑誌の記事を理解できるまでに、脳の知的活動が回復した」とある。これはマンガを馬鹿にしているわけではなく、思想をビジュアル化して捉えるものである絵画に近いマンガには吹き出しがあるから、小説と絵画の中間のようなものという考え方からであろう。そのようなもののほうが脳に訴える力は強烈であるに違いない。いずれにせよ、マンガ全体がいいとか悪とかではなく、絵画でも、小説でも、マンガでも好みもあろうし、いいものいいし、悪いものは悪いということである。ただ、いいものは少なく、まさに悪貨は良貨を駆逐するの類というのは世の常である。

 私がチェーホフの三人姉妹などの戯曲をロシア語で読んでもつまらないと思うのは、芝居をよく知らないからだろう。そのため戯曲を読むと会話だけで、その場の雰囲気などが想像しにくいからだ。芝居をよく知っている人(特に演出家やそれを目指す人)や興味のある人には、こういう雰囲気が自然と浮かんで劇そのものの理解が進むのだと思う。本を読む読まないというのもこういう一種のテクニックや関心を持ち合わせているかどうかによるのだと思う。

設問)「その都市は東と南から山々と森林地帯に囲まれている」をロシア語にせよ。

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2012年02月23日

●和文解釈入門 第279回

ある若い知り合いと話していたら、その人は英語系の大学院を出た人で、この頃の学部の学生は勉強しない、自分は少なくと会話でもなんでも学部学生には今でも負けないぐらいの英語の勉強はしていると鼻息が荒かった。しかし、思うに勉強をしない学部学生と比べてもあまり意味はないと思う。世間では語学については、その外国語の外国人と自由に意思疎通できて、実際役に立つかという物差しでしか見ない。初級とか中級とか上級というのも言葉自体はあまり意味はない。無論初級というのは実戦で使えるための準備段階と考えることもできるが、要は実戦で使えるかどうかだけなのである。例えばロシア語でドストエフスキーの語彙の修辞的意味の研究というのも、大切な学問であるかもしれないが、世間(会社と置き換えてもよい)的には必要がない。しかしこういう学問の積み重ねの上に文法上での新しい発見があり、それがひいては我々ロシア語を使うものに役に立つはずだが、ロシア語文法の新しい知見をわれわれ一般向けに啓蒙し、そのフィードバックを受けるという意味で双方の交流がほとんどないため、お題目だけである。

 このコーナーの和文解釈の設問はすべて実戦で使えるかどうかの観点からしか出題していない。だからこの設問が簡単に回答できないようでは実戦にはまだ使えないということになる。それは設問の和文を見てみれば分かる。そうはいっても、本当に訳が難しいのは、単純なものなのである。ただそれを克服しないとプロとしてお金はもらえないということになる。ただ当たっているかどうかは別にして、回答すら出ないとなると、それはレベルが実践(実戦)の域に達していないという事は言える。

設問)「車をよこしてください。部長には僕が言ったと言ってください(僕の名前を出していいから)」をロシア語にせよ。

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2012年02月24日

●和文解釈入門 第280回

単数と複数の使い分けは外国人のロシア語学習者には非常に難しい。ヴィノグラードフ教授の「ロシア語Русский язык, Высшая школа, 1972」に沿って、その使い分けについて考えてみたい。葉を葉全体の象徴として、つまり提喩法で考えれば、例えばパンで食物を示すとか、花で桜を示すということだが、単数листを使うとある。つまり集合的に考えればлиства、複数であることを意識すればлистьяとなるのだと思われる。同書によれば、単数で使われる名詞は、

1) 集合名詞で語尾が-ьё (берьё), -ство (большинство), -ота (беднота), 口語で廃語となりつつある-ия (пионерия), 卑語を形成する-щина (деревенщина)、他に-ина (складчина), -ба (листва, братва), -ура (прокуратура), -ат (пролетариат)、このほかにвольница, конницаがある。
2) 小動物
домашняя птица(家禽), рыба(魚), саранча(バッタ), тля(アブラムシ、アリマキ)
 これらは集合名詞で、魚も多くの種類をイメージするときは複数となる。
3) 物質名詞(鉱物、金属、化学元素、化合物)
тесто(パン生地), молоко(牛乳), табак(タバコ), масло(油), мясо(肉), медь(銅), золото(金), серебро(銀), фосфор(燐), фарфор(磁器)など。
 しかし種類や大量を意味するときには、жиры(体脂肪), пески(砂原), снега(積もった雪)と複数が出てくる。ステンレス鋼、炭素鋼など多くの種類(鋼種марка стали)をイメージすればстали、ラッカーでもлакиとなるし、本書にはないが、水も羊水околоплодные водыや生活排水сточные водыは複数となり、粘土もкрасные и белые глины(赤い粘土、白い粘土)となり、ガスもメタンガスやエチレンガスなどいろいろのガスをイメージすればгазыと複数になる。
4) 野菜、穀物、果実
картофель(ジャガイモ), морковь(人参)など。ただовощи(野菜)は複数のみで使い、ягоды(ベリー類)は単複両方使う。畑にできた野菜、収穫、いろいろな品種という意味では複数形のовсы(オート麦), ячмени(大麦), сена(干草)となる。一つのまとまりと考えられるものは単数形 килограмма смородины (вишни, малины, клубники, моркови, репы)が、そうでないものは килограмма яблок (груш, персиков, ябрикосы, огруцов, помидоров)複数が出てくることもある。ある程度大きさも関係があるのかもしれない。
5) 抽象名詞(性質、品質、動作、状態、感情、感覚、気分、物理的現象、自然現象、思想的方向性、潮流、抽象概念)
 詩語では感情を強める意味で複数が出てくるときがある。卑語を示す-щинаは複数形を取らない。形容詞から派生した名詞で語尾が-ое, -ее (ограниченное限られたもの, мелкое細かいもの, бессмысленно無意味なもの)となるものも複数形にはならない。Розенталь教授は個々の出来事や事例を示す時には複数形となると指摘している。これなど医療ロシア語の例を見る時その通りだと思う。
6) 世の中に一つしかないもの
Москваモスクワ, кино «Ударник»映画館「ウダールニク」など
7) 複数と単数を混在して使う用法
複数のものに共通の何かは単数となる可能性が高い。Бунтовщики потупили голову.(謀反人たちは頭を垂れた)とかПовелено брить им бороду.(彼らにあごひげを剃れと命じた)などである。
 これで基本的な単数をどういう文脈で用いるのかという考え方は分かるが、日常生活でも単数・複数の区別が分かりにくい場合がある。それは医者と患者の会話などに見られる医療用語である。これまで医療用のロシア語会話をエクセルにインプットしてきたが、その中で医者が漠然と患者に症状の有無を聞くときに、複数が出て来るとか、そのような症状がない時に複数生格が出て来るものがある。単数が来るのは質問が具体的な場合であるのに気がついた。無論具体的と言っても対象が複数なら複数が来るのは言うまでもない。可算名詞と不可算名詞の区別がそう簡単に分からないものもある。分泌物は可算か不可算かなどもそうであろう。そういうものを下記にまとめた。*印は訳語の意味では通常複数形を取るものである。

аденоидыアデノイド, анализы検査(分析、特に尿や血液の検査結果), антибиотики抗生物質, бляшки斑, болезни病気, боли痛み, выделения分泌物, высыпания発疹, газы*おなら(体内のガス), границы境, движения動き, жалобы患者の訴える症状, жиры*体脂肪, заболевания病気(疾患), запахи臭い, запоры便秘, изменения変化, инструменты手術用具, камни結石, кожные покровы皮膚, контуры外形, коркиかさぶた, кости骨, кровотечения出血, лекарства薬, лимфатические узлыリンパ節, липиды脂質, мазки塗抹, мероприятия措置, метастазы転移, миндалиныヘントウ線, мокроты痰, молочные железы乳腺, мысли考え, мышцы筋肉, насморки鼻風邪, ознобы寒気, осложнения合併症, отёки浮腫, ощущения感じ, перебои в сердце*不整脈, переломы骨折, повороты回転, повреждения傷, позывы便意・尿意・吐き気, полипыポリープ, поносы下痢, препараты製剤, признаки徴候, приступы発作, производственные вредности労災, проливные потыおびただしい汗, пустоты*空洞, расширения拡張, результаты結果, рентгеновские снимкиレントゲン写真, рефлексы反射, сердцебиения拍動, сгустки塊, симптомы症状, следы跡, слизистые оболочки粘膜, сокращения収縮, сосуды血管, стриктуры狭窄, стрессыストレス, судорогиひきつけ, суставы関節, сыпи発疹, толчки拍動, ткани組織, травмы外傷, углевороды炭化物, упражнения運動, условия条
件, чувства感じ, шумыノイズ, явления症状
設問)「ご家族に緑内障にかかった人はいらっしゃいますか?」をロシア語にせよ。

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2012年02月25日

●和文解釈入門 第281回

ロシアの結婚式では瀬戸物やガラスの器を割るという風習があるが、この由来らしきものについて18世紀中ごろのロシアの上流階級の結婚式を、オランダの旅行家ヤン・ストレイスという人が書いているものがあるので紹介する。聖職者より赤ワインの入れてあるコップを渡された新郎新婦は、これを飲み干し、新郎がコップを床に落とし、「われらの間に敵意と憎悪の種をまこうと考える全ての我らが敵が、このように我らの足元にひれ伏すよう」と言いながら、二人してふんづけるとある。

 慣用句のлёгок (легка, легки) на поминеは「噂をすれば影」と訳すが、これは昔ロシアでは法事поминで、この世を去った人に対しても、その人がすぐ戻ってくるようにと願ったことによる。

 вылететь в трубуという慣用句がある。これはпрогореть, оказаться на мели, разориться, обанкротиться(使い果たす、蕩尽する、破産する)という意味だが、なぜこういう意味になるのかその由来が長いこと分からなかった。влететь в трубуなら話は分かるが、このタイプミスか、それとも慣用句だから理屈に合わないのもしかたがないものとあきらめていたところ、これはペーチカ(暖炉)печьに関係した言い回しで、要するに暖炉で薪が燃えて熱を出して煙突から外に出るわけだが、その薪がなくなって、全部熱として外に出てしまうと、凍死するしかないわけで、その薪の大事さを表現したものであることを最近知った。

設問)「見つけた方にはお礼を差し上げます」をロシア語にせよ。

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2012年02月26日

●和文解釈入門 第282回

動作遂行型の動詞запрещатьでは、医者が患者に「禁煙してください(タバコを喫うのを禁止します)」Я вам запрещаю курить.というのは、この文が発話する前は禁止されてはいないが、発話が終わる直後から禁止ということになる。しかし一人称以外では、С 20 января 2012 года запрещается курение в общежитиях.(2012年1月20日から寮での喫煙は禁止する)という文は過去から現在に至るまでの動作(ないしはこの文を作った時点がその日付より過去なら予定)を示している。ゆえにРазведение открытого огня в помещении строго запрещается.(室内のたき火厳禁)という文は、明示されていない過去から現在に至るまでの動作を示しているとも解釈できる。ところが被動形動詞過去短語尾の現在時制では、Всё разрешено, за исключением того , что запрещено.(禁止されているもの以外はすべて許可される)のように、過去のある時点ないしはたった今禁止されたという結果の現存の意味にも取れる。実質的な意味は同じだが、запрещаетсяではたった今禁止したというニュアンスは出せない。

 上記の文から類推してЯ вам запрещаю курить с завтра.(明日からタバコを禁止します)という文も成り立つと思う。そうなると発話が終了した時点では動作は遂行していないからзапрещатьはこの場合動作未遂行の動詞ということになる。この点については近いうちに書いて見たい。

 動作遂行型の動詞に似た動詞に状態を示す動詞がある。過程の動詞は「なりつつある」というような質的変化があるが、状態の動詞にはそれがない。状態の動詞としてはсидеть(座っている)がすぐ頭に浮かぶ。座るという動作の意味はсесть/садитьсяという完了体・不完了体が引き受けている。全ての動詞が状態と動作が分かれていればいいのだが、そうではない。しかもсидетьは自動詞だからсяをつけて受け身にはできない。ところが他動詞にも状態を示す動詞がある。окружать(囲む、囲んでいる), омывать(川や海で囲む、囲んでいる)は囲むという動作では完了体・不完了体があるが、不完了体では囲んでいるという状態を示すことができる。他動詞というからにはсяをつけて3人称なら受け身を作れるという事でもある。状態の動詞かどうか知るためには、露露辞典でбыть, находиться(「ある」という意味で、「見つかる」という意味なら違う)やбытьという意味が付加されているならそうである。

 無論被動形動詞過去短語尾でも状態を示せるが、それは結果の現存であり、動作が終了していることを示している。状態の動詞は動作が開始したとか終了したとかを問題にしないし、質的変化もない。この点が動作遂行型の動詞とも違う。ただЯпония окружена морями.(日本は海に囲まれている)をЯпония окружается морями.としてもこの文では意味は変わらない。なぜこのような区分けが必要かというと、和文露訳における体の用法と深くかかわってくるからである。現在時制における日本語の状態(~している)という意味に、ロシア語の不完了体現在形を使うのか、完了体過去形ないしは被動形動詞過去短語尾を使うのかというのが第一点であり、不完了体を使うなら、動作遂行型の動詞を使えるのか、はたまた状態の動詞を使うのかというのが第二点である。つまり不完了体に動作の意味しかなく、状態の意味がない動詞は、状態の意味では結果の現存しか使えない、つまり自動詞なら完了体過去形のみ、他動詞なら、完了体過去形か被動形動詞過去短語尾を使うしかないという事になる。

設問)「表彰式はいつ行われるのですか?」をロシア語にせよ。

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2012年02月27日

●和文解釈入門 第283回

ロシア正教の場合葬儀は土葬погребениеと火葬кремацияがあり、土葬であれば墓はмогилаであり、火葬なら墓は遺灰の安置所колумбарийとなる。だから日本の墓も厳密に言えばколумбарийの方がよいと思う。ロシアではколумбарийは火葬場だけではなく墓場にもあるので使えるはずだ。

 蚊はкомарだが、ほかにмоскитという言葉もあり、研究社の露和では蚊と訳している。これは学名ではサシチョウバエという蚊の1/3の大きさの吸血昆虫で、リーシュマニア症を媒介するものである。リーシュマニア症は最近緊急に対策を要する6つの感染症の一つに認定されており、そのうち皮膚リーシュマニア症лейшманиоз кожиはテレビでも何度かやっているから知っている人もいるだろう。刺されるととてもかゆいらしい。ちなみに岩波にはサシチョウバエと書いてある。

 ダイビングスーツにはгидрокомбинезонとгидрокостюмがあるが、前者は上下一体型で、後者は上下別々である。「ふるい」はситоで、それより目が粗いのがрешетоであり小麦粉などをふるう。грохотは機械で用いられる大型のものである。甲板はпалубаだが、日本語の船舶用語では「こうはん」であって、「かんぱん」ではない。航続距離は飛行機ないしは船舶に用いられるが、ロシア語にするときはそれぞれ訳を変えて、дальность полётаおよびдальность плаванияとする。

設問)「家で鳥を飼っていますか?」をロシア語にせよ。

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2012年02月28日

●和文解釈入門 第284回

動作遂行動詞は一人称ならすべて動作遂行の意味になるかというとそういうわけでもない。проситьは動作遂行動詞のはずだが、Битый час прошу тебя садиться за стол.(丸々1時間席につけと頼んでいるんだ)という文では座れという願いは終了していないことが分かる。このような用法をдескриптивные употребления(動作未遂行の用法とでも呼ぼうか)という。不完了体一人称現在形でこの意味がよく現れる動詞は、бурчать, лгать, велетьである。

 どうしてこのような違いが出るのだろうか?それは結びつく不定形によるものと思われる。上の文のように不完了体不定形がつくと、不完了体の持つ動作の繰り返しという意味が動作の達成をいわば邪魔するのである。同じ不完了体でも状態を示す動詞や完了体の動詞であれば動作遂行を意味する。Я прошу Вас рассмотреть сложившуюся ситуацию с целью разрешения конфликта.(紛争解決のために現況〔そうなった状況〕をご検討願います)やЯ прошу вас любить всё.(全てを愛するようお願いします)である。

 MoiGorod.Ruの2011年12月23日付の記事にС 1 января 2012 года в России запрещается производство и импорт алкогольной продукции крепостью менее 9 градусов без нанесения акцизных марок.(2012年1月1日よりロシアではアルコール度数9%未満の間接税支払済レッテルのないアルコール製品の生産および輸入は禁止される)とあり、запрещатьが予定の意味でも使えることが分かる。また今日、つまり2012年2月28日現在でも過去から現在に至る継続という用法でまったく同じ文が使えることが分かる。動作遂行動詞と言われるものでもзапрещать/запретитьは動作遂行というよりは動作未遂行の用法が多いとロシア語学者のアプレシャンАпресян Ю.Д.は述べているゆえんである。多くの動作遂行動詞は動作が終了することだけを意味し、結果の残存という意味はないから予定の意味はもたない。そのため未来において~するという意味では対応の完了体未来形を使わざるを得ないと思われる。

設問)「飛行機恐怖症ですか?」をロシア語にせよ。

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2012年02月29日

●和文解釈入門 第285回

日本人が間違いやすいロシア語というと、複数・単数の使い分けなどいろいろあると思うが、根本的で、かつ最も重要なのは体の用法だと思う。これを教えるには日本語の時制についてもよく理解していないと教えられない。ロシア人の先生でも、日本語が会話程度というのであれば、基本的に語学は双方向のものなので、片方しかマスターしていない人には教えられないし、インフォーマント(発音の矯正、正しいロシア語とそうでないものの区別が出来る人)としての価値しかない。そういうインフォーマントを活用するためには学習者のレベルも中級以上が要求される。つまり自分の疑問をロシア語で聞いて理解できるレベルでないとそういうロシア人の先生方に質問ができないし、返ってきた回答が理解できないことになる。初級や中級者向けのロシア語会話を教えるなら、日本人でロシア語の体の用法を理解した人かロシア人で体の用法を日本語で体系的に説明できる人という事になる。

 体の用法というのは基本だから、マスターするのは早ければ早い方がいいし、間違った用法を覚えると思いこみができてしまうから、後から直すのが非常に大変である。初級の段階で基本的な文例を覚える必要性があるはずだが、今のロシア語教育にはこれが欠けている。初級の段階で徹底的に体の用法の違いを説明して、それを暗記させれば、一石二鳥のはずだ。

 露文解釈だけするなら特に体の用法についてマスターしようという気は起きないかもしれない。知らなくても何となく訳せるからだ。ところがプロで通訳やガイド(会話の和文露訳)をしようとすると、一言文章を訳そうとするたびに動詞が出てくるわけで、そうなると完了体か不完了体か決めなければならない。決まり切った(よく知っている)文脈なら、使う体はそのような文は丸暗記しているから自動的に出てくる。しかし、ちょっとでも知らない文脈が出て来たときに、それを丸暗記しようと思うと、同じ文脈のように見えるのに二つの体が出てくるような場合、両方使えるのかなと思いこむ場合もある。まったく同じニュアンスで両方の体が使える場合がないとはいえないが、普通はニュアンスの差というものが出てくるはずなのにそれが分からないままということになる。まああんまり細かく考えてはプロでやっていけないのかもしれないし、そのようなニュアンスを覚えてもお金にはならないことは確かではある。でもそうなると、正しく訳すというプロとしての自覚と責任はどうなるのだろう?

設問)「この時期は仕事にならない」をロシア語にせよ。

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2012年03月01日

●和文解釈入門 第286回

一般的に「作る」はделатьでよい。Фермер делает хлеб, мы делаем автомобили.(農民は穀物を作り、われわれは自動車を作る)という。「作る」には体内などで合成するというような場合にはвыработатьが使われ、выработать желудочный сок(胃液を作る)とかсиропоподобное вещество, вырабатываемое пчёлами(ミツバチたちが作るシロップ状の物質)とか、同様な意味でвыделатьもвыделывать из крапивы поташ(イラクサからカリを作る)などと使える。「書いて作る」はсоставлятьで、составлять предложение, список, таблицу(文を、リストを、表を作る)となる。

 設計図にはпроектとчертёжが考えられるが、проект = совокупность докуметов (описания, чертежи, макеты и пр.)、つまり設計図書のことで、чертёж設計図はその一部に過ぎない。またпроектにはпрокет контракта契約書案というように、草案(ドラフトdraft)という意味もある。

 発作はприступ, припадокだが、атакаは医学用語でострый приступ болезни(急激な発作)ということなので、意味がもっと強い。пароксизимもприступよりは突然という感じが強い。
 スポーツでいう早さはбыстротаだが、競走などの場合はскорость, резвостьを使う。

設問)「エントリーの締め切りはいつですか?」をロシア語にせよ。

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2012年03月02日

●和文解釈入門 第287回

ロシアの大統領選も間近に迫ってきた。プーチン氏の再選は動かないといわれている。ロシアの輸出の85%は原料であり、原料の中でも石油ガスだけで2/3を占め、ロシア連邦の収入の半分を占めている。ロシア政府は年初には国の予算を均衡させるには石油の価格が1バレル当たり125ドル必要であると考えていたようである。ペルシャ湾封鎖の可能性という問題も浮上したため1バレル現在116ドルまでつけており、さらに上昇の可能性が高いからロシアにとってはよい状況と言える。プーチン氏の立候補表明に当たり、今後12年にわたる任期という事も考えてか、彼の人気にも陰りに見えてきた。同じ政治家が国を運営することに飽き飽きしたり、閉塞感を感じたりする国民も増えてきたわけである。そのため彼は教師の給与を30%上げるとか、年金受給者や学生などの手当てもかなり増額するとか人気取りの政策を講じて、2月の福祉関係の費用はGDPの12%、つまり300億ドルとクレジットスイス社は見積もっている。これは前月が0.8%だったから大幅な増額である。これでは我々素人が見ても、予算を均衡させるにはかなりの原油の値上げが必要となるだろうと考えざるを得ない。イランもハメネイ師と大統領の確執が噂され、政権運営の安定化には程遠いからある程度石油の値段が上昇し続ける可能性は高い。ところがロシアの天然ガスはアメリカでシェールガス生産が軌道に乗っているため、市場に天然ガスがあふれてきており、価格は下がってきている。これはロシアにとっては大きな打撃である。天然ガスが以前ヨーロッパで見せたような戦略的武器とはならないからだ。予算という事を考えると、プーチン氏が大統領に再選されても、綱渡りの運営をせざるを得ないことが分かる。

 最近ロシアで注目されている人物はアレクセイ・ナヴァーリヌィАлексей Навальный(35歳)で、自身のブログで150万人の読者を持ち、プーチン再選反対を掲げている。ある意味でロシアの若者や中間層の意見を体現していると言える。彼は思想的には右翼的で、不法外国人の退去はともかく、銃器の合法化などを求めているという点は気になるが、既存の政党とは何のつながりもなしに、人々の意見を集約しているというのは評価できる。これと対照的なのは、180億ドルでアメリカのバスケットボールチームを買収した大金持ちのプローホロフ氏である。彼は2メートルを超える長身で、大統領選に立候補し、現在のところ支持率5%である。プーチン氏が他の候補者をクソミソに言っているのにもかかわらず、プローホロフ氏については取り立てて批判をしていないため、他の候補を撹乱し、票を割れさせるためにプーチン陣営が立候補させたという噂もある。彼は彼で、今与党に恩を売っておけば、将来は本当に大統領になれると踏んでいるのかもしれないし、利用されていると見せかけて利用しているつもりなのかもしれない。今後注目の二人である。

設問)「酒が回り始めた(酒がきき始めた)」をロシア語にせよ。

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2012年03月03日

●和文解釈入門 第288回

病院長главный врач (главврач)だが、この頃директор больницыとも言うようである。後者は必ずしも医者である必要はなく、経営のプロという観点からの役職である。主治医はлечащий врачだが、入院している時の場合はпалатный врач, врач ординаторで、かかりつけの医者はдомашний врачとなる。ブラシはщёткаで電気関係のブラシも同じである。ただ瓶を洗うブラシはёрш для мытья бутылокといい、筆という意味のブラシはкистьである。выйти в светは「出版される」という意味だが、появиться на светはその意味の他に、「誕生する」という意味がある。毛皮はшкураで、生きている獣にも、死んだ獣から剥いだ皮(なめす前の)にも使える。пушнинаというのは生皮で、毛皮製品мехになる原料である。リンクはリンクでも、スケートリンクはкатокだが、ホッケーリンクはхоккейная площадкаという。距離計は船舶などで使うものはдальномерで、スポーツの計測で使うものはдистанциометрという。

設問)「この日は息子の誕生日と重なった」をロシア語にせよ。

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2012年03月04日

●和文解釈入門 第289回

通訳はいろいろな分野に精通することを求められるが、全てに精通することは不可能であり、仕事の多い分野に覚える内容が集中することはやむを得ない。30年くらい前なら、水産関係や林業関係という仕事も多かったが、現在では、観光、政治、経済ぐらいであろう。将来見込みのある分野として医療そしてスポーツがある。医療と言い、スポーツと言っても広いが、医療では医者と患者の会話、スポーツではインタビュー用のロシア語を覚えるのが基本である。語彙や用語は和英から英露で調べがつく。難しいのはそういう用語ではなく、構文や体の用法の使い分けの方がはるかに難しいと思う。このコーナーではそういう点も踏まえて出題している。

 技術関係の仕事もあるが、基礎の技術用語も知らずには通訳は無理である。そういう和露の基礎語彙集(500~1000語)を技術関係や観光関係で原稿は作ったものの、出版の見込みはない。需要があるなら、今流行りのクラウドファンディングという手で資金を集めるということも可能なはずだ。いずれにせよ100人から200人くらいは集めないといけないから大変ではある。

設問)「女子の競技の開始はいつですか?」をロシア語にせよ。

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2012年03月05日

●和文解釈入門 第290回

このコーナーで気にしてほしいのは凡ミスではない。こういうのは回答を書いた本人がじき気付くことだし、ここで凡ミスを直すようにして、本番で凡ミスをしないようにすればよいだけのことである。問題は体の用法の本質的な誤りに気づいてほしいという事にある。子供じゃないのだから、おかしいところを指摘されれば、自分自身でどこがおかしいか参考書などで納得のいくまで調べるはずだ。そしてその理解もロシア語の基本をやっていればそれほど難しくはない。その気づきのお手伝いができればと願っている。

設問)「年間週何日トレーニングしますか?」をロシア語にせよ。

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2012年03月06日

●和文解釈入門 第291回

クラウドファンディングcrowdfundingというのは、芸術活動や社会貢献などで実現したい企画・事業をインターネット上で発表し、不特定多数の共感した人々から資金を集める基金である。クラウドファンディングの専門サイトとしては、READYFOR?(オーマ社)やCAMPFIRE(ハイパーインターネッツ)があり、これらの会社は集まった資金の中から手数料を取り、企画者は資金提供者に何らかの見返りやお礼を渡すのが決まり事だという。

 私の考えている企画は著書の出版で、和文解釈入門、和露観光ロシア語基本語彙集600、和露技術ロシア語基本語彙集1000、ロシア史奇譚などがある。出費者への見返りは出費分(送料は別)の著書の進呈ということになる。和文解釈入門についてはネットで公開しているのだから、本にする意味があるのかと考える人もいよう。確かに第233回にまとめを書いてはいるが、使い勝手が悪い。いろいろな回の本文や回答をいちいち見なければならず、それもばらばらだ。元々この表は私自身の参考用に書いたので、説明が誤解を招きやすいところや省略しているところもある。一番初めは第10回にこの表を発表したが、それに比べればかなり改善されており、今現在も手を加えている。近く改訂版を発表するつもりだが量が増えているので、もっと見にくくなるだろうなという気もする。いずれにせよ説明を1か所にまとめるという風にはなっていないから、読むほうはあちこち拾い(広い)読みをせざるを得ず、いい加減うんざりするか、読むのを端折るかどちらかだろう。駄文を削除し、設問を練習問題としてまとめるようにし、投稿者の回答を反映した解説をつければより使いやすいものになると思う。投稿者の投稿は大げさに言えば著作権もからみ、そのまま載せられないと思う。その人の著作権というものがあるわけで、このコーナーに投稿するというのと、私の著書に転載するというのは話が違うわけで、了解する人もいれば、そうでない人もいるわけであり、また本のスペース上掲載は無理だと考える。

 自費出版という手もあるが、500部刷って売れ残った日には家に置き場がない。売れるまで在庫を置いておくスペースもない。それに部数が少なければコストがかさむ。今ではネットで出版の費用の見積もりをしてくれるサイトもあり、デザインに凝らなければ100万円で500部位は大丈夫のようだ。そうなると出費額は一口2千円から5千円ぐらいとなる。紙の形ではなく、ファイルの形で販売するという手もあるが、いくら暗号化しても破られるような気がする。そうなればタダ同然だし、怖いのは著者が知らない間に改ざんされる可能性があるということである。電子ブックに収録してもらうにもコネがない。いずれにせよ需要があれば供給はなんとかなるわけで、その肝心の需要がないというのが困る。何年か前亡くなった新田實先生と先生が編集された岩波の露和辞典のお話をうかがった時に、ロシア語の勉強をしている人は2万人ぐらい、それを目当てに辞典の企画が立てられたとのこと。ただ若干研究社が先行して出版したためにその目論見は大きく外れたのではないかと個人的に考える。ロシア語の専攻がある大学や語学校の定員を計算するばそのくらいになるわけで、私が購買者と考えているのはその1%で200人だからあながち無理な数字ではないが、本の対象が初級向けではないというのがネックである。需要がないならこういう企画も無意味ということになる。

設問)「照明の責任者は誰ですか?」をロシア語にせよ。

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2012年03月07日

●和文解釈入門 第292回

音素фонемаというのは、ある一つの言語で用いる音の単位で、意味の相違をもたらす最小の単位である。また音素が一つの文字に割り当てられているとは限らない。日本語の音素が英語やロシア語の1/10だという説を聞いたことがあるので、本当かどうかは別にして、日本語の音素が少ない(rとlやрとлを区別しないとか、英語のaの発音でも発音記号を見る限り4つぐらいはあるなど)ことは確かだから、日本語を学ぶロシア人に日本語の発音は簡単だろう。だから一番の障害は漢字であろう。読みが二つ、漢字によっては3つや4つあるものもある。今はコンピューターで漢字変換が楽になったとはいえ、それを文脈によって使い分ける必要がある。その他に、日本語の時制についても難しいだろうと思う。これはロシア語の時制を勉強して、日本語と発想のずれがあることを痛感したからである。ロシア人でも和文露訳専門で日本語を勉強してきた人の日本語会話はかなり怪しいし、日本語の本を読まないロシア人の日本語のメールも同じく怪しい。同じことがロシア語を学ぶ我々にも言えると思う。

設問)「多くの都会人にとって森は休日の休息と休暇を連想する」をロシア語にせよ。

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2012年03月08日

●和文解釈入門 第293回

近くの川にカワウбакланがけっこういる。ただ水に浮かんでいるように見えても、やはり浮くためには見えないところで脚を動かしているのだろう。飛び立つところも、水面をけって、何メートルか水面を叩きながら飛び立つ。ロシア語も同じで、何もしなければ沈んで行くし、今の実力を保つだけでも、脚ぐらいは動かしていないと浮くことすらままならない。ましてや、空に飛び立とうとすれば生半可な力では飛翔できないということを教えてくれる。

設問)「御兄弟はいらっしゃいますか?」をロシア語にせよ。

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2012年03月09日

●和文解釈入門 第294回

このコーナーの設問に対して語彙はともかく、98~100%体の用法が正解できる人はこのコーナーを必要としない。100%間違う人も必要ない。発想を逆にすれば正解になるからだ。しかしほとんどの人はこの中間だろう。目をつぶって回答しても確率的には半分は当たるにせよである。仮に90%正解できた人でも、重要な通訳をしているときに、体の用法を間違えて、正確な通訳に支障をきたすという事もあるかもしれない。そのときに体の用法の本質的な点を抑えておけば、誤訳する回数は減るだろうと思う。体の用法で怖いのは、間違えても、ロシア人の方から指摘はされず、ただ外国人のロシア語だけど、まあ意味は分かるな思われることである。これでよいなら構わないが、せっかくロシア語をやる以上、ましてやプロを目指すなら、語彙はともかく体の用法において完璧を目指すに如くはない。語彙は新語についてはきりがないからだ。体の用法は限りなく用法が広がってゆくというものではない。簡単ではないがマスターする目安はある。

 テストで100点を目指しても80点ぐらいだろう。だから目標を初めから80点に設定すれば普通にやれば60点ということになる。80点取ることを目指して、実際に80点取るよりも、100点目指して80点取る方が簡単なはずだ。目標を高く持てというのはそういうことである。ロシア語の学習も同じことだ。

設問)「前回のレントゲンと比べて何の変わりもありません」をロシア語にせよ。

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2012年03月10日

●和文解釈入門 第295回

種村季弘の「書物漫遊記」に高校時代ドイツ語の先生をしていた阿部賀降元横浜国大教授の話が出てくる。阿部先生は当時大学院生で、高校生だった種村にこう語ったという。「会話というものは、君、素人のど自慢のようなもので、あれは特殊な、別種の才能の問題です。まあできるに越したことはないが」と言い、続けて、「カントを読みなさい。ニーチェは、君たちにはまだ早い」とある。これを聞いてなるほどと思った。露文解釈と会話(の和文露訳)は別物だというのは私もそう思うからである。両方同じぐらいのレベルでやろうとすると何十年もかかるか、虻蜂取らずになる可能性が高いと思う。しかし世間ではロシア語が出来るというと、露文解釈も和文露訳もどちらも等しくできると思っているようで、その期待を裏切らないようにするというのは大変な努力と時間がかかる。

 だから会話の方がやさしくて、露文解釈の方が難しいということにもならないし、その逆でもない。片方の格が上というのでもない。ここのところをよく理解しておかないとロシア語の学習の本質を誤ることになる。両方の勉強の方法は全く違くのだと割り切った方がよいのかもしれない。

設問)「リレーのコースはどこを通っているのですか?」をロシア語にせよ。

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2012年03月11日

●和文解釈入門 第296回

エネルギーはэнергияで、излучать энергию(エネルギーを発散している)などというが、ミュージシャンの業界用語ではэнергетикаであり、カロリー計算ではэнергетическая ценность 78,0 ккал(エネルギー78 kcal)となる。径というのはдиаметрだが、チェーンはкалибр цепи = толщина спинкиを使う。ブラシはほこりなどを払うブラシはщёткаで、塗装用のブラシкистьという。金づちはмолотокだが、ノミやたがねと共に使う木槌はкиянкаと言う。論議はспорが広く使えるが、дискуссияは紙面、会議、討論会などの論議を、полемикаは科学的、芸術的、政治的論議を指す。患者の病名はбольной + 病名の造格で、больной сахарным диабетом糖尿病の患者としてよいが、器官の病名の場合はбольной заболеваниями почек腎臓病の患者とする。死語はмёртвый языкだが、историзмы (= слова, называющие пердметы и явления прошлого)は辞書では史語となっているが、死語と訳せるような気がする。

設問)「両チームとも同点です」をロシア語にせよ。

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2012年03月12日

●和文解釈入門 第297回

「水中に」というのはгдеに対応するならпод водойで、кудаに対応するならпод водуと覚えておけばよい。броситуься в водуというときのводаは水面である。под водойには「川底で、海底で」на дне рекиという意味もある。в водеを使うのは(水中の酸素含有量)содержание в воде кислородаというように水中に溶け込んだという感じであり、(魚は水中に棲む)Рыба водится в воде.も水と一体化している感じがする。

 松林はсосновый лесだが、сосновый борというと乾いた高いところにある松林である。ムカデは口語ではсороконожкаで、正式にはмногоножкаである。1節に1対の脚があり、種類によって15~173対の脚を持つ。ヤスデはдиплоды, двупарная многоножкаといい(普通のロシア人は知らない単語であろう)、ムカデと違い腐食食性で1節に2対の脚をもつ。диурезは利尿だが、尿量という意味もある。(尿量を計る)измерять диурезや(1日尿量)суточный диурезという言い方がある。

設問)「普段は何をなさっているのですか?」をロシア語にせよ。

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2012年03月13日

●和文解釈入門 第298回

ПрошуとПопрошуの違いについて第40回で説明したが、これからお願いするのにПрошу (Просим) となぜ不完了体現在形が出てくるのだろう?(試験の準備を助けてくれるようお願いします)Я прошу вас помочь мне подготовиться к экзаменам.と日本語でも「お願いします」と対応しているからいいやと考えて、それでおしまいというのが実用的かもしれない。文法的に言えば、この動詞は第271回で説明した動作遂行型の動詞であるから、発話の瞬間から頼むという動作は始まり、その動作を遂行するということである。「頼む、勧める、命令する、禁止する」という日本語の動詞を露訳するときは不完了体現在形を使うと覚えてもよい。

 ただもう少し体の用法に沿って考えると、この文はПомогите мне подготовиться к экзаменам.と同義である。つまりпрошуというのは「丁寧さ」というニュアンスを加えるだけで、意味的な主体を担っているわけではない。だからこういう場合には完了体は新規の事柄を扱うので完了体ではなく、不完了体が出てくると考えてもよい。Попорошуでは命令というニュアンスが出てくることは第40回で説明したからここでは省く。

 だから、この動詞の「呼ぶ」という意味での主体を担う時は、例えば(〔電話で〕シードロフさんをお願いします〔呼んでください〕)Попросите, пожалуйста, (к телефону) господина Сидорова.と完了体が出てくるのも当然ということになる。просить/попросить = обращаться/обратиться с просьбой предоставить что-либо в распоряжениеということで「~してくださいとお願いする」ということだが、日本語では命令形で3人称に対してはПопросите у неё последний номер «Новый мир».(彼女に「新世界」誌最新号を頼んでください〔貸して下さい〕)とは言えても、二人称に対しては使えないが(「あなたに頼んでください」というのは変な文である〔「頼まれてください」と受け身にする必要がある〕))、ロシア語では使えるので、このへんは訳を考える必要がある。だから日本人にとってはЯ прошу, Мы просимと一人称を主語にした方が使いやすいと言える。

設問)「スラブ民話の伝統ではカエルは元は女だったという言い伝えがある」をロシア語にせよ。

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2012年03月14日

●和文解釈入門 第299回

これまではロシア語の会話が上達するための体系的な学習法というものはなく、分野別にできるだけ多く語彙を丸暗記するというものでしかなかった。文の中心であるはずの動詞すらも、語彙の一種であり、無意識かもしれないが、個々の意味を覚えることだけに終始していたように思われる。体系的な学習法が見当たらない以上、これはこれでやむを得ないと思う。

 私が体の用法の習得を勧めるのは、動詞を体という視点から見つめ、それをロシア語会話習得の基盤とするということにある。体の用法をマスターすることがなぜ会話の上達に役立つかというと、会話をロシア語で文として組み立てる武器を手にすることになる、より具体的に言えば、自分の持っているものがどんな武器であるのかを認識し、それを状況に応じて実戦で即使えるよう体系化でき、未知の文脈に応用できるということにある。

 仮に私のこの考え方に共感が持てなくとも、同じ丸暗記であれば第300回の表(改訂版)にある短文を暗記するだけでも、会話の習得にはより効率的である。これらの短文は実戦の通訳で使えるものばかりであり、その文の意味のみならず、興味があるのならば、そのニュアンスまで理解できるように工夫されている。

 この表の特徴は体の用法を露文解釈ではなく和文露訳の観点からとらえているということと、これまでの文法の参考書ではあまり取り上げて来なかった現在の時制についても詳述しているという点にある。
 むろん会話をマスターするためには、体の用法の習得だけでは不十分である。単数・複数、類語の使い分けの理解が不可欠であり、これらについても第300回の表やこのコーナーで記載するようにできるだけ努めており、ひいてはそれが学習者の自学自習の道を開く助けになることを願っている。

設問)「その町は川にちなんで山川と名を改めた」をロシア語にせよ。

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2012年03月15日

●和文解釈入門 第300回

これまで第10回、第100回、第150回、第177回、第233回でこのコーナーの道しるべやナビゲーション用に体の使い分けの表を提示したが、新たな発見もあり、用例を学習者が復習しやすいように用法の中で完了体と不完了体を分けたり、いくつかの用法の用例など大幅に書き加えたり、訂正したりしたので、それらをまとめてここに紹介する。これで最後かもしれない。

 これは文法マニアである自分用に書いたものを、実戦向けに体を使う上での目印をどうするかに的を絞り、できるだけ専門用語は避け、分かりやすく書きなおしたものである。そうはいってもアオリストなど残している用語もある。説明がくどくなるのを避ける記号とでも考えてほしい。時制についてはロシア語の文法書におけるものと違っているかもしれない。これはあくまでも実用本位(会話における和文露訳で使う頻度と使いやすさ)という事に重点を置いたからである。

 完了体の動詞は動作の完了を示し、不完了体はそれ以外という風に理解しているロシア語の学習者は非常に多い。「すわりなさい」をロシア語にするとСадитесь!と不完了体命令形が来ることに戸惑いを覚える人も多いはずだ。「すわりなさい」だって動作の完了「~してしまう」を要求していることに変わりはないからだ。Я улетаю в Киев завтра.(明日キエフに飛行機で発ちます)にしろ、動作は完了なのに不完了体を用いている。これらはいずれも不完了体なのに動作の完了を示しているが、用法の例外ということにして丸暗記してしまえということになってしまう。動詞の体を意識すると、このようないわゆる例外とやらが非常に多いことにすぐ気がつくだろう。ロシア語の会話をしようとすれば、いやでもなんらかの動詞を使わねばならず、使う以上は完了体か不完了体かどちらかを選ばなければならない。エイヤといい加減に決めてしまっても正解の確率は50%ではあるが、毎回毎回この調子ではロシア語で話をするという気力も失せる。そこで正しい体の用法を理解する必要があるのだが、一般向けの参考書においてこれまでは、完了体は新規の事柄(有標性маркированность)や具体的な事柄について用い、不完了体はそうではない事柄(無標性немаркированность)、つまり一般的な事柄や、そこから発生する繰り返し(習慣)に用いると書いてある。しかしそれはあくまで露文解釈をするときには便利なのかもしれないが、通訳やガイドで実際に会話で和文露訳をする場面では、時制によって、法(命令法や不定法)によって、また動詞群によって体の使い分けをせざるを得ず、体の使い分けが非常に分かりにくいのも事実である。
自分の経験から実践面では体の使い分けを、完了体中心ではなく、不完了体を中心に据えてみてはどうかと考えてみた。不完了体を動作の自然の現れ(自然体)と見るわけである。だから回りの空気を読んで、こうあるのが自然だというような場合には不完了体を使うことになる。まるで今の日本の若者の流行り言葉KY(空気を読む)と同じである。つまり動詞を交通機関(車や電車)だと考え、不完了体は線路(路線、ライン、レール、ロシア語ではлинияではなく、あくまでпутьのつもり)を走る電車だと考えるのである。電車は一応線路から外れないことになっているから、真理について不完了体現在形を使うというのも、真理というまっすぐな一本の線路の上を走るからだし、繰り返しは、線路の上を往復するからであり、過程(進行形)は今まさに線路の上を走っていることを意味しているということになる。そこから、線路を外れずに行動するのが当たり前だという空気を読む、いわば回りの雰囲気に合わせて動作するという着手の意味も出てくる。また線路がある以上、これから先にも線路があると想定できるわけだから、そのままその線路の上を走り続けると言う意味で確実な予定という意味も生まれてくる。予定があればそれを守ろうとするわけで、時間厳守という観念から切迫感が生まれ、線路から外れてはいけないということで義務の観念も派生してくるはずだ。義務の観念があれば、不完了体を否定するときに、義務の否定で、禁止という観念が出てくるのは論理的である。また線路があるという考えを否定するわけだから不要性という考え方も出てくるだろう。線路だけ(あるいは線路の上の電車だけ)を考えに入れるので、つまり駅などを考えに入れないので、過去の動作は通過した線路のどこか後の方にある(で行われた)わけであり、その場所が具体的にどこか分からないか、気にしないわけだから、それが動作の名指しということになる。線路の上での立ち往生は事故のときであり、普通は電車は駅で止まる。そのため線路のどこかを通過したとは言えるが、普通は線路のある地点を指して場所を示さないというのも動作の名指しに似ていると考えてよい。

 動作を否定するときには一般には不完了体が用いられる。不完了体はその動詞の語義だけが際立つ一つの線路だと考えると、その動詞の動作を否定するということは、その動作の持つさまざまなニュアンスというような枝葉ではなく、その動詞の本質的な語義の否定だから不完了体を使うのだと考えるわけである。こういうニュアンスのつかない線路(その動詞の持つ本質的語義)だけというような単なる動作の否定となれば、不完了体を取らざるを得なくなるわけである。

 бытьの未来形 + 不完了体不定形で「~するつもりである」の意味の用法は未来時制における着手と考えればよい。線路を例に取れば、動作の対象を足元の線路から、いったん視線を外して遠くにかすむ線路に視線を移すと考えるのである。遠くに線路がかすんで見えるのだから、途中にも線路があるはずだということである。不完了体現在形の予定の用法は、足元の線路が視線を移さず、そのまま前方にはっきりと見えるのである。見えるところまでは確実に行けるという確信が、未来に起こることの確実性を際立たせている。бытьの未来形 + 不完了体不定形の用法は、この他にも駅からある線路(ライン、路線)の電車に乗り、あとは身を任せて目的駅まで行くとしてもよい。この用法は口語的用法でどの不完了体動詞でも使えるというわけではない。つまり駅というのはどこにあるわけではないが、駅に行きさえすれば線路(ライン、路線)は最低一つはあるということでもある。これは標準的にはсобираться 他 + 不定形を使うという意味である。完了体未来形で意志を示せる場合があるが、それなどは車を使うようなものだろう。車は道路がなければ走れないという制約はあるというものの、自宅から目的地まで基本的に自由に行けるという点が電車などとは大いに違うから体の用法もこれに似ていると言える。

 完了体というのはどこでも行ける車道や歩道、田舎道のようなもので、線路で言えば、新たに線路を敷設するとか、線路から脱線するとか、既存の線路を抜きにして動作を考えるということになり、線路自体がないのだから動作の可能性は広がるわけで、そこから可能性が出てくるし、完了体の動詞を否定すれば不可能という意味が出てくることになる。可能性というのは「何かあったら~する」ということだから例示的用法となる。線路がないのなら(あるいは駅を想定に入れてよいのなら)、具体的に動作の起こった場所を特定できるわけで、それがアオリストとなる。線路があってもなくても、そこで立ち止まって状況確認するならそれが結果の現存につながる。高村光太郎の詩に「僕の前に道はない。僕の後に道はできる」というのがあるが、新たに線路を敷設するというならそれは完了体の考えで、不完了体においては、線路は線路でもあくまで既存の線路ということになる。

 歴史的現在の場合は、ふと振り返ると目の前に線路の蜃気楼が現れると考えるのである。しかも蜃気楼が現れた場所は、実は道路のある一点(アオリスト的考え)だったというわけである。線路を仮想のものと考え、目には見えるが実体がないというようなものだ。実体がないのだから、用法は一見不完了体現在ではあるが、中身は完了体過去形(アオリスト)と同じだという事である。これが今の段階での私の「不完了体線路説」であり、今後これを発展させることができるかもしれない。ともかく実践的な体の使い分けを考える上で一つのアプローチではないかと考える次第である。

 ラスードヴァРассудова先生は著書「ロシア語動詞 体の用法」の結論において、「完了体の主要機能は情報伝達的機能であり、不完了体の主要機能は、信号報知的機能と呼ぶことができよう。不完了体命令法によって名指される動作は、シチュエーションによって示唆される場合が一番多い」と書かれている。そのあと「実質的な情報をもたらす完了体と異なり、(不完了体)は独特な信号の役割を果たしているということができる」と一種の不完了体信号説を唱えている。それゆえ、不完了体の根源的意味は過去時制の事実の名指しにあると示唆されていることはよく理解できる。ただこの説では事実の有無の確認や命令法の着手は説明できるかもしれないが、繰り返し、真理、過程、切迫感、予定、禁止、不要など大半の不完了体の用法を説明できないという憾みがある。

 説は説として、初学者の人で完了体・不完了体という名称に騙されて、体の用法は完了とそうでないものという単純に割り切って考えている人たちに、私の説は、そうではないことを示し、警鐘(信号)を与え、実戦的に体を用いる際の一つのアプローチと考えてほしいということにある。
例文は用例がすぐ分かるよう短文で、基本的なものを中心に据えた。体の用法を覚えるには参考書などを読んでなるほどと思うだけではだめで、やはり自分で和文をロシア語の文に直す練習をしないと自分の血肉にならないし、会話での和文露訳をしようにも役に立たず、身にもつかない。直した文が正しいかどうか、具体的に教えてくれる人がそばにいれば理想的だが、なかなかそうもいかないのが現実であり、本コーナーが少しでもそのお役に立てればよいと願っている。

〔未来の時制〕 不完了体未来形第370回および予定第345回参照。

d) 自発的でない「(呼ばれてから)行く」という用法
 идтиとбежатьという定動詞現在形だけに見られる特殊用法だが、日常会話ではよく聞く。定動詞は不完了体動詞であり、不完了体動詞には自発的な要素が本来欠如している。だからこの用法ではこれらの動詞を用いるためには何かサイン(合図)が要るのである。「助けて」という呼び声でも、宅配の人がドアのベルが鳴らしたときも、会社で、「~さん、電話ですよ」でもいいが、それを合図に「今行きます」Иду.(急ぐ時はБегу.)となる。これらは意味的には厳密に言えば未来時制だが定動詞現在形を使うのはこういう理由からである。第6回回答参照。

〔完了体〕
e) 主観的に実現する確度の高い未来の動作(1分後、1時間後でも、明日でも、1年後でも構わない) → 完了体動詞未来形(これを完了体現在形とか、完了体現在未来形と呼ぶ学者もいる)
 完了体未来形は未来に起こることへの確信を示すとともに、その場のこれまでの雰囲気とは違う一つ(新規)の話題を提示するというニュアンスがある。この用法に推測という意味はない。露文解釈で学者でも日本語で「~だろう、~でしょう」を、未来形を示すために用いているのをよく見る。日本語では国語辞典を見る限り、これは「推測」を示す。例えば、「1週間後モスクワに出張する」は未来であり、「1週間後モスクワに出張するだろう」は未来の推測にすぎない。確かに未来は不確か(未定であり決定ではない)なのだから「推測」を使いたいという気持ちは分かるが、日本語ではそうはなっていない。実生活は別にして、時制について言えば、確実な未来というのはある。日本語でも推測には推測の表現があり、これはロシア語も同様で、完了体未来形は推測ではなく確度の高い未来を示すのである。(彼はモスクワに1年後に行く)Он уедет в Москву через год.であって、「行くだろう」ではない。推測なら、по-видимому, кажетсяなどをつければいい。
(我らは別の道を行く)Мы пойдём другим путём. これはレーニンの有名な言葉だが、これなどは完了体未来形の用法が非常に分かりやすいものである。第52回、第175回回答参照。
 二つ以上の動作が完了体未来形で示されれば、あまり間を置かない順次的な動作としての用法である。この場合、次の動作は最初の(あるいは前の)動作が完了したあとでのみ成立可能となる。二つ以上の不完了体動詞を用いた文では、時間的に共存する二つの動作が名指しされているだけである。
(下に降りて、角まで行き、左に曲がってください)Вы спуститесь вниз, дойдёте до угла и повернёте налево.
f) 例示的用法 → 完了体動詞未来形
 「何かあれば~する」という潜在的可能性の提示、不規則な繰り返し・習慣を示す。つまり「起こるかもしれないし、起こらないかもしれないが、起こったら~する」という意味の用法である。一つの事例を通しての一般化、つまり不規則な反復の潜在的・仮定的可能性を示す。そのためこの用法を使えは、平板な不完了体の規則的な繰り返しと違い、生き生きとした表現になる。
 бытьの未来形 + 不完了体動詞の不定形の用法では、話者が時間の遅速はともかく動作が起こると見なしているわけで、この用法との差が分かる。次々と動作が起こるときにも使う。これは未来といえば未来だし、広い意味の現在の時制と言えないこともない。例示的意味は本来過去形の動詞とは無縁で、不定法と完了体未来形に広く現れる。ゆえに、この用法は過去の時制で使う時は完了体未来形を用いる。つまり例示的用法は超時間的性格を持つと言える。第10回、第73回、第84回、第119回回答、第133回、第238回本文参照。
(着いたら分かる)Доедем – разберёмся.
g) 往復(これから行って戻って来る、行って来る)
 普通はс-のついた完了体動詞未来形を使う。сбегать(口語), сводить (свести)〔連れて行って戻ってくる〕, свозить (свезти)〔車で運んで戻ってくる〕, сгонять(俗語), скатать, слетать(俗語), смахать(俗語), сносить(歩いて運んで戻る), сплавать(泳いで), сползать(這って), сходить(歩いて), съездить(車で)があり、сбегать, сгонять, скатать, слетать смахатьはすべて「走って(または車で)取ってくる」という意味だが、俗語の「ひとっ走りして戻る」という意味でもある。
(お待ちください。お金を取りにひとっ走り行って来ますから)Подождите меня, я сбегаю за деньгами. この他にも不定動詞の未来形も使えるが、これだとすぐに行ってくるのではないというようなニュアンスがある。
(タクシーの金がないなら、バスで行って来よう)Раз нет денег на такси, будем ездить на автобусе.

〔現在〕
イェスペルソンは「文法の原理」(安藤貞雄訳、岩波文庫、2006年)において、「現在というのは厳密に言えば現在の一瞬であり、点としてとらえることができる。ただ現在の一点が言及された期間内に入っていれば現在時制であり、繰り返しについても総称時ということで、現在の一点が含まれているから現在時制になるのだ」と指摘している。第113回本文参照。

〔不完了体〕
h) 過程(ある時点での行為・動作が行われていて、終了していないことを示す、現在進行形) → 不完了体動詞現在形
 ここでいう過程というのは上下などの動的なものであり、静的な状態という用法とは異なる。目的志向的動作целенаправленное действиеを示す動詞が過程の意味になりやすく、упорно, настойчивоという副詞と結びつく動詞もそうである。ほとんどの動作を示す動詞は過程を示すことが出来るが、過程を示せない動詞群というのがある。давать, случаться, являться(出席する)は過程を示せない。これらは接頭辞ない多回体的な意味を持つ動詞であろう。接頭辞をもつ多回体動詞(выпивать, просиживать, протаивать, прочитывать)は過程を示せないというのは語義から見て当然である。またпри-という接頭辞がつく運動の動詞の不完了体приводить, привозить, приезжать, прилетать, приносить, приходитьも過程を示せない。вопрошать, запрашивать, интересоваться, любопытствать, осведомляться, справляться, спрашиватьのグループも過程の意味はなく、反復的用法である。その他に動作遂行型動詞(後述)も過程の意味を示せない。その他にвзрывать, видать, винить, вспыхивать, вынуждать, достигать, замечать, знать, избирать, касаться, лишать, мигать, нападать, озарять, осенять, осмеивать, отгадывать, признаваться, прыгать, расходиться, сознаваться, считать, угадывать,стрелять,も過程の意味を示せない。第8回、第69回、第72回、第164回、第201回回答参照。
i) 反復・習慣(総称時、恒常的反復、動作の一般化) → 不完了体動詞現在形
 過程を示せず反復のみ示す動詞には、забывать, замечать, заставать, поступать, прощать, являться(現れるという意味で)があり、偶然的動作случайное действиеを示す動詞の不完了体пробалтывать, проговариваться, прозёвывать, пропускатьもそうである。
(毎日地下鉄で通勤します)Каждый день я езжу на работу на метро.
(いつもこんなふうに女の子たちとドライブするの?)Ты всегда вот так катаешься с девочками?
 表現的には完了体未来形の例示的用法と違い、いつもと同じというような平板な感じがする。第43回、第51回、第54回、第61回、第89回回答参照。
j) 過去から現在に至る継続ないしは反復 → 不完了体動詞現在形
 これも一種の結果の現存(存続)だが、不完了体現在形の場合は現在までの期間やいつからその期間が始まったかを示す語句がないと、繰り返しや動作の一般化と区別ができなくなる可能性がある。逆に言えば、被動形動詞過去短語尾や完了体過去形では動作がいつから始まって現在に至るかを明示しようとする場合、с + 生格(例えば、с 1895 г.〔1895年から〕)と使うよりは(下記のように例外もあるが)、в + 前置格のように過去の一点を示す語句(в 1895 г.〔1895年に〕とかдва дня назад〔2日前〕など)を使うことになり、期間そのものをすぐ明示できないという事になる。完了体過去形の場合はアオリストの用法であって結果の現存の用法ではなくなる。それゆえ期間そのものを明示したい場合はこの不完了体現在形の用法を用いる事になる。ただпро-という接頭辞を持つ完了体動詞の過去形は例外である。
(彼はそこで2年間働いた)Он проработал там два года.
(当社はもう10年以上その市場でがんばっている)Наша компания уже более десяти лет работает на рынке.
(真夜中から工兵と一緒に働いている)С ночи работают вместе с сапёрами.
(その海は昔から貴重な魚種の漁場として有名である)Море издавна славится как район добычи ценных сортов рыбы.
(石油とガスの生産は1924年から行われている)Добыча нефти и газа ведётся там с 1924 г.
(1982年からライキンの劇場はモスクワに移転し、1987年からはサチリコンという名になり、1991年からはライキンの名を冠している)С 1982 г. театр Райкина переехал в Москву, с 1987 г. называется «Сатирикон», с 1991 г. носит имя А.И. Райкина.
(1992年から5月1日は春と勤労の祝日として祝っている)С 1992 г. 1 мая отмечается как Праздник весны и труда.〔過去から現在に至る反復〕
(史書には赤の広場は15世紀から市の立つ広場として記載されている)В исторических документах Красная площадь как торговая упоминается с 15 в.〔歴史的現在の項にもупоминатьсяという動詞を使った文がある〕
(この歌は今も〔今に至るまで〕歌われている)Эту песню исполняют до сих пор.
(ルーシという民族の起源についての論争は18世紀にミーレルとロマノーソフの間で始まり、現在に至るまで続いている)Дискуссия о происхождении народа «русь» началась в 18 в. между Г.Ф. Миллером и М.В. Ломоносовым и продолжается до сих пор.最初のначаласьは結果の現存ではなく、アオリストであろう。
(レストランは月曜から土曜まで12時から23時までオープンしている)Ресторан открыт с понедельника по субботу с 12 до 23 часов.。被動形動詞過去短語尾にはこのように繰り返して期間を示す用法は現在時制ではふつうは使わない。つまりこの現在時制におけるоткрытは動作ではなく状態の意味であり、形容詞化していると言える。ちなみにоткрытは過去時制では動作の用法がまだある。過去時制でなら被動形動詞過去短語尾で期間を示すことができる(過去の継続の項参照)。
(1849年公立図書館がオープンした)В 1849 г. была открыта публичная библиотека.
(いつから歩くときに足を上げることが出来なくなった〔できない〕のですか?)С каких пор вы не можете поднять стопу при ходьбе?
(病院に何時間いらっしゃっているかお話できますか?)Вы можете сказать, сколько времени находитесь в больнице?
(ラジオがコク・テレクで使えなくなって3日目だ)Третий день радио в Кок-Тереке бездействует.
 動詞を使わなくとも結果の現存を示すことができる。
(今日に至るまで〔今も〕誰が平和的デモ隊に発砲命令を出したのかはっきりしない)До сих пор нет ясности, кто отдал приказ стрелять по мирному демонстрации.
(私はそれを今に至るまで奇跡だと思っている)Я до сих пор считаю это чудом.
(初めて歯が生えた小さな子供たちに銀のスプーンをプレゼントする伝統は平均的な所得の家族には今日に至るまで生きている)Традиция дарить маленьким детям серебряную ложечку на первый зуб жива до сих пор и в семьях со средним достатком.
(斜視は子供のころからですか?)У вас косоглазие с детства?
(彼の脱走者としての性は生まれつきだ)Жилка беглеца у него от рождения.
 過去から未来への継続であれば、
(6月17日で満100歳になる)17 июня исполняется 100 лет со дня рождения.
(もう何年ナショナルチーム〔国内選抜チーム〕におられるのですか?)Сколько лет вы уже в сборной команде страны?
 про-の接頭辞を持つ完了体動詞過去形を用いて結果の現存による現在に至るまでの継続を示すことができる。結果の現存ではなくアオリストであれば過去のある時点から数分間立ちつくしたということになる。
(ザハーロフは彼の頭の上の方でじっと数分立ちつくした)Захаров неподвижно простоял несколько минут над его головой. 第182回本文および第11回回答参照。
k) 動作遂行型動詞 → 不完了体動詞現在形
 完了体未来形の用法と似ているが、大きな違いは今現在の時点から動作が始まり、動作を遂行するという動詞である。完了体未来形は、一瞬後ないしは未来のいつかの時点が動作の起点になる。動作遂行型の動詞というのは、例えば、「喫煙を禁止します」Я вам запрещаю куруть.と医者が患者に言ったとすると、この発話の前は喫煙は禁止されておらず、この発話の直後に禁止が有効になるということである。日本語の辞書形で、「命令する」、「気づく」のような動詞は動作遂行型である。これらは言動一致型と呼んでもよいような動詞群であり、一人称で使われることが多く、現在から未来への移行を示すような意味合いの動詞である。
 例えばビジネスレターで多用される「~をご案内〔連絡〕申し上げます」をロシア語にするときに、Сообщим (Сообщу) Вам, чтоと完了体の未来形を用いがちであるが、これは間違いであり、Сообщаем (Сообщаю) と一人称現在形を使う。このように、後に続く文の示す行為の遂行となる動詞を動作遂行型動詞(перформативные глаголы)といい、「~ということを遂行する」という意味である。つまりこの動詞の現在形一人称は「約束しつつある」とか、「知らせつつある」という経過(過程)を示しているわけではなく、続く内容について約束する(約束を破ればそれなりの罰を受ける)とか「~という内容をお知らせする」と言う意味であり、「2012年展示会に参加することをご案内申し上げます」Сообщаем Вам, что мы будем участвовать в выставке в 2012 г.は、まさにこの言葉によって連絡行為を遂行することを意味する。だから、この完了体未来形は「追って連絡申し上げます」Об этом сообщим дополнительно.など、今ではなく後で連絡する(未来に動作を行う)という意味でしか使えない。この他にも「伝える」という意味のシノニム(同義語を含む類義語)のうちоповещать, осведомлятьを除く、информирую, извещаю, уведомляю, докладываю, доношу, заявляю, объявляю, предупеждаюにもこの用法がある。
 この動詞群はсообщаю(連絡する)の他に、делаю(人を~にする), заклинаю(懇願する), запрещаю(禁止する), каюсь(後悔する), молю(懇願する), назначаю(任命する), обвиняю(非難する), обещаю(約束する), освобождаю(開放する), предлагаю(提案する), предписываю(指示する), признаюсь(白状する), приказываю(命令する), провозглашаю(宣言する), прошу(お願いする), прощаю(許す), радуюсь(喜ぶ), рекомендую(勧める), советую(勧める), ставлю(人を~に据える), умоляю(懇願する)などである。この他に、взрывать(爆発する), видать(見る), винить(とがめる), вспыхивать(かっとなる), вынуждать(強いる), достигать(達する), замечать(気づく), знать(知る), избирать(選ぶ), касаться(触れる), лишать(奪う), мигать(またたく), нападать(襲う), озарять(明るくする), осенять(考えが浮かぶ), осмеивать(あざ笑う), отгадывать(推測して当てる), признаваться(告白する), прыгать(跳ぶ), расходиться(分かれる), сознаваться(白状する), считать(みなす), угадывать(推測する), стрелять(撃つ)などもそうであると思われる。こう見ると、「知る」、「お願いする」、「命令する」、「禁止する」、「約束する」、「連絡する」、「勧める」という指示に関係する語義で、こういう日本語の動詞は露訳するときに、日本語で現在の時制なら、完了体未来形ではなく、不完了体現在形となる。
(一つ質問をする。貴軍の病院に貴君らが隠している健康な将校や兵がいますか?)Задаю вам вопрос: нет ли у вас в госпитале здоровых офицеров и солдато, которых вы прячете?
 三人称でも使える場合がある。
(エストロゲンとアンドロゲンの薬剤を同時に服用することを勧める)Рекомедуется одновременное применение эстрогенных и андрогенных препаратов.
(脈拍欠損と診断されている)Определяется дефицит пульса.
(病歴には毒物服用が認められる)В анамнезе отмечается приём ядовитых веществ.
 第271回、第277回、第40回、第282回、第284回、第298回本文、第97回、第111回、第126回、第177回回答参照。
 この他にспрашиватьの〔お前にも分かるように尋ねているんだ(尋ねている意味は分かるだろ、聞いてやるのはこれで最後だぞ)〕Я тебя русским языком (по-хорошему, последний раз) спрашиваю.という脅し文句もそうであるし、電話の(佐藤さんをお願いします)Господина Сато, пожалуйста.に対して、(どちら様ですか?)Кто его справшивает?もそうであると言える。
 この用法は被動形動詞過去の現在時制の用法(結果の現存)に意味的に非常に近いと言える。(禁止されているもの以外はすべて許可される)Всё разрешено, за исключением того , что запрещено.のзапрещеноは、(室内のたき火厳禁)Разведение открытого огня в помещении строго запрещается.のзапрещаетсяと同義であるからだ。違いは被動形動詞過去の現在時制の用法は動作が終了したのが過去ないしはたった今ということで、不完了体現在形は今現在動作が終了しているという意味だけであり、たった今終了したという意味はない。
l) 状態 → 不完了体動詞現在形
 過去において発生ないし開始した動作がそのまま存在していることを示し、現在も含めてある期間行われている行為、動作などを示す状態の動詞が使われる。状態の動詞は動作の開始や終了を問題にしない。過程と違うのは、質的な変化がない静的な動きстатистикаということにある。完了体動詞過去形や被動形動詞過去形の現在時制で用いられる結果の現存(存続)に似ているが、結果の現存で示すことが出来るたった今動作が終了したという動作終了の強調という意味を、状態の動詞では示すことが出来ないという違いがある。окружать(ся)〔囲む、囲んでいる〕, омывать(ся)〔川や海で囲む、囲んでいる〕のように対応の完了体もあり、完了体・不完了体は動作の意味を、不完了体だけで状態の意味を示す動詞もあるので、状態の動詞と動作遂行の動詞を区別するために露露辞典でチェックの必要がある。状態の動詞としては他にвключать(ся), вмещать(ся), входить, лидировать, помещать(ся), содержатьがある。第27回本文、第20回、第48回、第49回、第53回回答参照。
m) 経験(~したことがある) → 不完了体動詞過去形(第14回、第29回回答参照)
 〔過去〕の項の動作の名指しの用法の一つである。過去において少なくとも1度そのような動作があったことを示すが、いつかとか回数については言及しない。似ている用法にただ1度の経験に言及し、かつ動作の起きた時点がいつかということを、明示するかどうかは別にして、念頭に置く場合は完了体過去形のアオリストの用法が使われるので、違いを明確に理解することが必要である。不完了体過去形は具体的な過去を示す語句(3日前とか、1965年とか、昨日など)とは相性が悪く、例外はあるが、一緒に使えないと考えてよい。この用法であることをより明確にするために、прежде, раньше(以前に)、хоть раз(一度でも)、когда-нибудь(かつて)、уже(すでに)という語句と一緒に使われることもある。また否定文では不完了体現在形も使える。この用法は日本語の「~したことがある」と訳の上でかなりうまく対応するが、絶対ではない。日本語では「一度~したことがある」や「一度も~したことがない」は普通の日本語だが、前者で過去の特定のいつかを意識している場合は完了体過去形を使うし、後者でも完了体過去形を使う。100%言葉だけに頼らずに場面をイメージすることが大事である。
(肉を食べましたか?)Вы ели мясо?
 これを「肉を食べたことがありますか?」とするのは、菜食主義者への質問などよほど特殊な文脈であろう。食あたりのときは肉を食べたかどうかの有無を聞いているにすぎないから、こういう質問になる。日本語の「~したことがある」というのはめったにしない経験についてもちいられ、日常的な事柄には用いられないので訳語上の注意が必要である。
(熱は下がりましたか、下がりませんでしたか?)Снижалась или не снижалась температура?
(前はうまくいきましたか?)Раньше вам это удавалось?
(以前尿に血が混じっているのに気がついたことがありますか?)Вы замечали прежде кровь в моче?
(俺に任せろ。酔ったことなんかないんだ)Положись на меня, я никогда не пьянею.
 この他にбыть動詞の過去形単独、ないしは動名詞(乃至は動作を示す名詞、乃至は被動形動詞過去形短語尾)との組み合わせでもこの意味は出せる。
(負傷したり、挫傷〔打ち身〕をしたことがありますか?)Вы были ранены или контужены?
(似たような皮膚の発疹がもうすでに出ましたか?)У вас были уже подобные высыпания на коже?
(腎疝痛の発作を経験したことはありますか?)У вас был приступ почечной колики?
n) 動作の否定 → не + 不完了体動詞現在形
 不完了体の動詞には本質的に反復(繰り返し)を示さないという原求作先生の指摘があり、それゆえ不完了体を否定すれば、動作の未着手や状態の否定を示すことになるのもうなずける。また完成の意味は完了体が担うため、未着手の動作や嫌気、禁止、不必要も含めて、一般的に動作を否定するのは不完了体の否定形を使われるという磯谷孝先生の説明もある。不可能の場合は可能性という完了体の用法の範囲内なので完了体未来形の否定形を用いる。Зима ещё не кончается.(冬はまだ終わっていない)だと、終わるという動作が始まっていないという事(未着手の動作)を意味する。Зима ещё не кончилась.だと終わる動作が始まったが、終了していないということになる。第12回本文、第47回、第150回、第275回回答参照
o) 多回体的用法 → 多回体(不完了体)動詞現在形
(奴はいい奴だ。ただ時々飲むんだよ)Он человек хороший, правда, иногда выпивает.
(私は毎朝新聞を全部読む)Каждое утро я прочитываю газету.
 これにчитаюを使うと、第1面だけとか、テレビ欄だけとか、必ずしも全部読み通す(読了する)と言う意味にはならず、用法的には反復・習慣となる。
p) 真理の提示 →不完了体動詞現在形
(地球は太陽の周りを回っている)Земля вращается вокруг Солнца.

〔完了体〕
q) 結果の存続(現存)〔結果の達成と残存〕 → 完了体動詞過去形
 この用法は後述の過去の時制におけるアオリストと区別するのは文脈によるしかない。しかも文脈によってはどちらとも取れることがあるということをよく理解してほしい。
(イワノフさんがお見えです、お見えになりました)Господин Иванов приехал. = Господин Иванов здесь.
 приехатьのようにペアに反意語уехатьがある動詞は不完了体の過去形では、「来たが今はいない」という意味になる。
(いつから〔浮気に〕気がついていたの?)Когда ты поняла?
(ご命令に従い参上しました)〔今そこにいる〕По вашему приказанию явился.
(この姿で国営百貨店GUMは現在まで保存されている)В этом виде здание ГУМа сохранилось до сих пор.
(彼の国家は滅亡した)Его государство прекратило своё существование.
(イコン崇拝の伝統は988年のキリスト教受容以降もロシアで守られている)Традиции поклонения иконам сохранились в России со времени принятия христианства в 988 г.
(お祝をするという伝統はまだ根づいていない)Традиции празднования пока не установились.
(その記念碑は現存しない)Памятник не сохранился.
上の二つは否定文での結果の現存の例。第1回、第15回、第77回、第85回、第90回、第101回、第138回、第147回、第167回、第186回回答参照。
r) 被動形動詞過去短語尾の結果の存続〔現存〕)の用法
 過去時制においてアオリストと結果の現存を区別するのは文脈によるが、他動詞のように受動態(受け身)で被動形過去を用いることができるときは、бытьの過去形と共に使われる場合ならアオリスト、共に使われない、つまり現在時制なら結果の現存と区別できる。つまりアオリストだという意識があるか、特に結果の現存という意識のない時はбытьの過去形と共に使われると考えてよい。これは能動態に戻して考えれば分かりやすい。
(絵は1887年に製作され、トレチャコフ美術館に〔今現在〕ある)Картина создана в 1887 г., находится в Третьяковской галерее.
(1991年からその歴史的名称は復活した)С 1991 г. историческое название восстановлено.
(1924年ルミャンツェフ図書館はレーニンの名を冠し、1925年から1992年までレーニン名称ソ連国立図書館と呼ばれた)В 1924 г. Румянцевской библиотеке было присвоено имя В.И. Ленина, и с 1925 г по 1992 г. она называлась Государственная библиотека СССР им. В. И. Ленина.〔現在は俗称レーニン図書館Библиотека Ленинаで、正式にはロシア国立図書館Российская государственная библиотека (РГБ)である〕このように現在とは名称が異なっているためにбыло присвоеноとなっている。
(イサーキー大寺院は現在(見る)形では1818~1858年に建設された)Исаакиевский собор в современном виде был построен в 1818 – 1858 гг.。動作の起点から終了の時点はこの用法ではアオリストということで一つの期間を点としてとらえるという形でしか表現できない。
(1836年に書かれ、〔その年に〕初めて上演された)Написана и впервые поставлена в 1836 г.ゴーゴリの喜劇комедия「検察官Ревизор」についてだが、当然書き直されたことなどなく、また「初めて」という文言がつくからこのように現在時制で(結果の現存として)用いられる。
(その小説は1928年から1940年までに書かれ、刊行された)Роман написан и опубликован в переиод с 1928 по 1940 гг. これは書かれたという事実が今も残っているという意味での結果の現存である。периодという単語なしにはсとпоは用いることが出来ない。この他に否定での結果の存続の例を挙げよう。
(休み時間はまだ終わっていない)Перерыв ещё не кончился.
 第32回、第93回、第193回回答および第175回、第179回、第182回本文参照。
 不完了体ся動詞で受動相を示すことができるものがあるが、原則的に主語に立つのは不活動体で示され、動作の主体は造格となる。被動形動詞過去短語尾の用法と違うのは、過程を示すことができることである。(家が建てられている、家は建設中である)Дом строится.。そのためこの形動詞現在も過程を示すものとして形容詞的に用いることができる。(建設中の都市で)в строящем городе
 сяのついた動詞で不完了体が受動態で使われるものは、動詞によって反復・繰り返し、経過を示すから被動形過去形短語尾との使い分けは簡単だ。しかし自動詞としてсяのついた完了体の動詞が被動形過去形短語尾との語法の違いは、前者が人を意識しない用法(自然に~する)であり、後者は表面に出なくとも人や動作主の存在が意識されるということにある。
 形容詞の短語尾にも結果の存続の用法がある。例えば、(スーズダリはロシア有数の古い都市で、1024年から名が知られている)Суздаль – это один из древнейших российских городов, известен с 1024 г.
s) 仮定や叙想 → 完了体動詞未来形(完了体動詞命令形)
 法の転用とでも呼べそうな用法で、命令形を使って、「~せよ、そうすれば~となる」という意味で使う。
(そのときはそのとき)Поживём – увидим.
(逃げたら撃て)А побежит – стреляй!
(集計したら連絡します)Подсчитаем – сообщим.
(連絡したら戻れ)Сообщишь – возвращайся.
(いただけないと、後悔することになりますよ)Не дадите – будете жалеть.
(そういう場合になれば考える)Будет случай, посмотрю.
(時が来れば、みなさんは私たちと同じ立場に立つという事を私は信じるのみです)Я только верю: наступит время – и вы станете на наше место!
 上記のように、並立助詞andの用法から発達したのかもしれない。しかも主語を二人称以外(一人称でも三人称でもよい)において、仮定や叙想(仮定法のように、ありそうもないか、事実とは異なる場合を仮定すること)の意味を示すこともできる。完了体動詞命令形は生き生きとした口語的用法である。
(実際どこかで間違えば、彼だって人間だから、同僚がかばってくれなければ彼は八つ裂きにされる)А ошибись он где-то действительно, ведь он человек, - так его растерзает, если коллеги не прикроет.
(護送隊に我々全員がすぐに飛びかかりたくても、ピクリとするまでに我々は撃たれてしまう)Захоти мы все сразу броситься на конвой – пока зашевелимся, нас перестреляют прежде.
Случись что-нибудь с ней или ребенком, он никогда себе не простит!(もし彼女や赤ん坊の身に何か起こったら、彼は絶対に自分を許すことはできなくなる)
(彼が手紙を書かなかったりしてみろ、こんな話は読者にはなかったことになる)Не напиши письма он, и не было бы читателю вот такого рассказа.
 上の用例からも分かるように、この用法で使われる動詞というのは、普通は命令形にならない(「間違いなさい」とは日本語でも普通は言わないだろう)動詞を用いているのだろうと思う。そうでないと誤解のもとだからだ。
t) 不可能 → 完了体動詞未来形の否定形
(僕にはそれが理解できない)Я этого не пойму.
(名字は今思い出せない)Фамилии сейчас не вспомню.
(まあね、1945年から46年にこんな出来事で驚くものか)Ну, да такими случаями в 1945 – 46 годах не удивишь.
(そうらしいけど、ほんとかどうかは分からない。受け売りなんだ)Вроде бы да, точно не скажу: за что купил, за то и продаю.
(死人を生き返らせるわけにはいかない)Из мёртвого живого не сделаешь.
(恋はジャガイモのじゃないの。窓から捨てるわけにもいかないじゃない)Любовь - не картошка, не выбросишь в окошко.
(粥はバターで悪くなるはずがない → ますますけっこう)Каши маслом не испортишь.
u) 否定の強調 → 完了体動詞未来形の否定形
 不可能の用法と区別がつかないことがあるが、実用上は問題がない。潜在的可能性すら否定するわけだから完全な否定となる。時制的には未来とも考えられる。
(さっぱり分からない)Ничего не пойму.
(繰り返しません)Это не повторится.
(作業割当担当者や班長も一人として敢えて足蹴にしたり、囚人に手を上げたりする者はいない)И ни один нарядчик и ни один бригадир не осмелится пнуть ногой или замахнуться на зэка.
(彼を呼んでいるのに、彼ったら動こうともしない)Его зовут, а он с места не сдвинется.
(どうして今日はそんなに真面目なの。ニコっともしないの?)Почему ты сегодня такой серьёзный, не улыбнёшься? → (どうして今日は全然笑わないの?)Почему ты сегодня совсем не улыбаешь? 不完了体は普通の否定で、完了体は否定の強調である。
(弁護士がいなければ一言もしゃべらないぞ)Без адваката я ни слова не скажу.
 これは「(ある期間)一度も~したことがない」という磯谷孝先生が否定的一括化と呼ばれた用法である。
 これから望ましくないこと、非難や動作の不可避性のニュアンスも出てくる。
(ねえ、邪魔だってどうしておっしゃらないの)Ну, что же вы не скажете, что мы мешаем вам.
(叫んでも叫んでも、どうして答えてくれないの?)Я кричу, кричу. Что же ты не ответишь?
(どうして直接彼に聞かないの、遠慮してるってわけ?)Почему ты не спросишь его прямо, стесняешься?

〔過去〕
(第30回本文を参照)
〔不完了体〕
v) 過去の出来事・動作(事実)の名指し → 不完了体動詞過去形
 過去の出来事や動作の有無の確認を示す。これとは対照的に完了体過去形を疑問や否定で用いれば結果の達成への期待(否定なら失望)というニュアンスが出る。厳密に言えば〔現在〕の項の経験「~したことがある、~したことがあった」の用法も含まれる。この用法の不完了体過去形は具体的な過去を示す語句(昨日、2001年、1年前など)とは相性が悪く、例外はあるものの共に使えないと考えてよい。例えば、(われわれは先月、詩人との夕べを催しました)В прошлом месяце мы устраивали вечер встречи с поэтами.という動作の有無の確認(動作の名指し)の文がアオリストと違うのは、聞かれたから答えるというような文脈で使われ、アオリスト用法である完了体過去形устроилиは自発的な情報を与えるような文脈で使われる可能性が高いと言える。不完了体の根源的意味は過去時制の事実の名指し(事実の確認の有無)にあると考えると、それは競技場にラインを引くように、引いた後に動詞の意味だけが(他に余計なものは何も残さずに)ラインの形で残るのだと考えてもよい。第12回、第14回、第29回、第38回、第130回、第183回回答参照。
w) 往復
 運動の動詞の不定動詞ходить, ездитьの過去形および接頭辞のついた運動の動詞の不完了体過去形を用いる。反意語のある動詞群で、приходил = пришёл и ушёл; отходил = отошёл и подошёлを意味する。この動詞群の完了体の過去形は結果の現存の意味となる可能性が高い。このようなペアは下記の通り。
брать/возвращать, включать/выключать, вставать/ложиться, входить/ выходить, давать/забирать, надевать/снимать, опускать/поднимать, открывать/закрывать, подниматься/ спускаться, приезжать/уезжать, приносить/уносить, приходить/уходить, просыпаться/засыпаться, терять/находить。第23回本文や第79回回答参照。
x) 未完了その1(過去の経過) → 不完了体動詞過去形
 未完了имперфектの一つ。「そのとき~していた」という意味である。
(廊下からミハイロフが飛び出してきたときに、我々はもう出口のところまで来ていた)Мы подходили уже к выходу, когда из коридора вылетел Михайлов.
(彼が入って来たときに私は手紙を書いていた)Я писал письмо, когда он вошёл.
第87回、第169回回答参照。
y) 未完了その2(漸進・長期的用法) → 不完体動詞過去形
 имперфектの一つでдолго, медленноと共に使う。
(灯油ストーブはだんだんと過去のものになって行った)Керосинки медленно уходили в прошлое.
 第202回回答参照。
z) 過去の反復 → 不完了体動詞過去形(第61回、第63回、第65回回答参照)
 1回乃至はそれ以上で回数を特定しない繰り返しを意味する。
(1703年から現在までその川は300回以上氾濫した)С 1703 г. по настоящее время река выходила из берега более 300 раз.〔現在までであっても過去の出来事の有無について述べているわけで不完了体過去形が来ている〕
(彼は幾度となく彼女に愛の告白をしたが、結局彼女から返事はもらえなかった)Он не раз признавался ей в любви, но ответа от неё так и не добился.。これは多回体的用法。
 過去時制であれば被動形動詞過去短語尾も使える(第240回回答参照)が、これは完了体の動作の一括化と同じ用法であろうし、完了体の過去の用法「創作者としての資格」と抵触して、不完了体が使えない場合であると考える。
aa) 過去の継続 → 不完了体動詞過去形
 過去のある時点から過去のある時点までの継続を示す。
(1946年から1991年まで赤軍は公式にはソビエト軍と称していた)С 1946 по 1991 г. Красная Армия официально именовалась Советской Армией.
(ダンスは夜中の11時過ぎまで続いた)Танцы продолжались до двенадцатого часа ночи.
(この時から生涯喜劇を書いた)С этого времени и до конца жизни писал комедии.
 про-という接頭辞を持つ完了体動詞過去形のアオリストでも可能である。
(彼は1851年まで働いた)Он проработал до 1851 г.
 期間の明示はпериодを用いれば、被動形動詞過去短語尾の過去時制を用いても可能である。
(その長編小説は1848年から1859年にかけて書かれた)Роман был написан в период с 1848 по 1859 г.
 第42回回答参照。
bb) 歴史的現在(劇的現在) → 不完了体動詞現在形
 臨場感を出すために過去の出来事に対して不完了体現在形を用いる。意味的にはアオリストであり、それゆえ不完了体現在形でも(完了体過去形でなくとも)順次的用法を使える。だから歴史的現在が完了体過去形と見かけ上の体のペアを成しているといえないこともない。直接話法でも過去を生き生きと想像するため、saidの代わりにsay(s)を使うなど歴史的現在を使う事があるのは、同じ心理状態の所産だというようなことをイェスペルセンも「文法の原理」の中で書いている。ただзнать, ведатьはこの用法では使えないし、現在形で予定を示すこともできない。つまりこの用法は現在を拡大解釈して、あたかも現在の一点が含まれているかのようにして、過去にも現在時制が使われているのだとも言える。そのため結果の現存の意味はないし、только чтоとも一緒に用いられない。
 БондаркоのТеория морфологических категорий и аспектологические исследования(形態的範疇理論および体の研究), Языки славянских культур, 2005によれば歴史的現在という用法は18世紀末までは完了体未来形で行われ、それ以降は衰退し、その後不完了体現在形が用いられ現在に至っているという。諺には完了体未来形が散見されるのもこれと関係があるのだろうか?(第121回本文、第149回回答参照)
(片方の肩に載せるなら仕事はきついが、両肩なら楽なもの〔みんなでやればなんでもできる〕)В полплеча работа тяжела, а оба подставишь – легче справишь.
(ロシアの年代記で1066年最初に鐘が言及されている)Впервые в русских летописях колокола упоминается в 1066 г.
 劇的現在настоящее сценическоеは劇的な現在という意味ではなく、劇(戯曲)のト書き(劇がある以上それはかきあげられ、その劇の中の1回の行為、つまりアオリストと考えられる)と考えればよい第208回参照。
 歴史的現在のときは、動詞だけでなく、被動形動詞過去短語尾や形容詞も現在形となる。
(ぺチョーリンは人生に失望し、不幸であり、他人に不幸をもたらす)Печорин разочарован в жизни, несчастлив и приносит несчастье другим.。
(その劇場の歴史は1783年から始まった)История театра начинается с 1783 г.
 日本語にも歴史的現在があるが、用法が似ているとはいえ、違いはある。例えば、「4年間の授業料は2008年平均で2万4千ドルです」という文をロシア語にすれば、Обучение в 2008 г. стоило в среднем 24 000 ам. долл. за 4 года.と過去時制になるはずだ。こういう統計を扱うような文はロシア語ではまざまざと目の前で情景が展開されるという歴史的現在の対象にはなじまないからである。ところが日本語では文末が「~た」、「~た」と続くのを避けるためだけにも語調の関係だけで歴史的現在は使われる。ロシア語にもこの文体を変えるために歴史的過去を用いているのではないかと思えるようなものもあるが、日本語に比べれば少ないようである。もっと日本語とロシア語における歴史的現在の違いを調べるためには、ロシア語の歴史的現在の部分を日本語にそのままの現在時制で訳せるかどうか試してしてみるのもよい。第35回回答、第104回、第119回、第120回、第121回、第173回、第208回本文参照。日本語の歴史的現在については、第115回、第125回、第129回、第226回本文参照。
cc) 意志の欠如 → не стал(а,о, и) + 不完了体動詞
「~するつもりなどなかったし、今もない」という意味で、結果の現存の一種であることが分かる。
(私も話すつもりなどなかったわ)Я и не стала говорить.
(彼は説明するつもりなどなかった)Он не стал объяснять.
(民警は犯罪者を探そうとさえしなかった)Милиция даже не стала искать преступников.
これをне начал(а, о, и) + 不完了体とすると、行為の中止ではなく、延期であり、後で~するという意味になる。ちなみにстал + 不完了体 = начал + 不完了体は「~し始めた」という意味であり、完了体未来形стану, станетなどと違い、意志を示すものではない。意向の意味を示すсобиратьсяのグループを過去形にして否定にしてみると、第145回の回答にあるように(すみません。お手紙を読むつもりはなかったです。うっかり開けてしまいました)О, простите, я не собирался читать ваше письмо, я открыл его чисто автоматически.となり、たんに「その時は~するつもりがなかった」という意味であることが分かる。
dd) 過去の時制で文の中で動詞が主体的意味を担わない用法 → 不完了体動詞過去形
 刺身のつまのような用法であり、極端に言えば動詞がなくとも文意は伝わるような文で、時制の関係でбыть動詞の過去形 + 名詞だけでもいいような文で不完了体過去形が使われる。文法的に言えば動作の名指しである。
(でも時代を切り開く〔始める〕というが、どうやって?何から始めればいいのだ?)Но начать эпоху – как? С чего начинать?
 同じ動詞を繰り返す場合には最初に完了体、次に不完了体が出てくる可能性が高い。これは2回目の動詞は意味の主体を担っていないことを意味する。第2回、第183回回答参照。
ee) 過去の予定 → 不完了体動詞過去形
 運動の動詞についてはこの意味で不完了体過去形を用いることができるが、他の動詞ではсобиратьсяなどの過去形に不定動詞を加える方が普通である。これも現在時制の過程の用法が予定に使えるという意味で、過去の動作の過程を示す用法の延長と考えることができる。при-という接頭辞のついた動詞は過程を表すことができないが、現在形で予定の意味を示すことができるということは指摘済みである。
(彼は来週来ることになっていた)Он приезжал на следующей неделе. (= Он должен был приехать)
(汽車は2時間後に出発することになっていた)Поезд отходил через два часа.
ff) 回想・過去の不規則な反復動作(~したものだ) → 小詞бывало + 不完了体動詞過去形(不完了体現在形〔歴史的現在〕、完了体未来形)。
 完了体動詞未来形(例示的用法「何かあれば~した」)だけでも作れる。第73回回答参照。

〔完了体〕
gg) アオリスト(定過去、歴史的過去) → 完了体動詞過去形
 ここでいうアオリストは、ある動作がある過去の一つの時点で事件が発生(その報告)するか、現在と関係のないか、現在との関わりを問題にしない過去の具体的動作を示すという意味で使っている。つまり唯一性、一回性の強調ということである。一般的にはいつということを明示しての初めての経験を示す時に使われる。(その小説は1862年最初に出版された)Роман впервые появился в печати в 1862 г.などである。具体的な過去を示す語句(昨日、1980年、1週間前など)があればこの用法を使えばよい(第261回参照)。
 もしそのような語句がなければ、和文露訳する際に、この用法は不完了体過去形が使われる動作の名指し(事実の有無の確認)との区別が非常に難しい。話者の意識の問題だからだ。アオリストは過去の一点を示す(具体的な過去を示す)語句を伴うかどうかは別にして、常に意識の中に過去の明確な一点において動作が行われたという認識がある。だからそういう意識があれば完了体過去形を、そうでなければ不完了体過去形を選ぶことになる。不完了体の過去形の動作の名指しという用法では過去に動作が行われたことがあるという動作の有無の確認だけである。つまり動作が行われた具体的な過去の一点ということを問題にしない場合である。アオリストの用法は動作の名指しの用例とともに十分比較検討して用法の違いをマスターしてほしい。次のように動作の起点および起点から終わりまでもアオリストで示すことができる。
(1817年からイェルモーロフは計画的にチェチニヤの奥やダゲスタンに進軍を開始した)С 1817 г. Ермолов начал планомерное продвижение в глуь Чечни и Дагестан.
(1926年9月1日から1927年まで55,000円集めた)С 1 сентября 1926 г. по 1927 г. собрали 55 тысяч иен.
(1717年から1722年まで彫像をローマからペテルブルグに届ける船便が6回行われた)С 1717 по 1722 год состоялось шесть корабельный рейсов, доставивших из Рима в Петербург статуи.
(1884年から1888年まで彼はおよそ350の作品を生みだした)С 1884 г. по 1888 г. он создал около 350 произведений. 上の3つの文は1926年9月1日から1927年まで、1717年から1722年まで、1884年から1888年までをそれぞれ一つの期間として捉えているという意味で、過去の一点と言える。
 完了体動詞過去形を使う結果の現存の用法とこのアオリストを区別するのは文脈だけである。例えば、Он родился.(彼は生まれた)は、その人が生きていれば結果の現存であり、文脈で生死を特に問題にしないか、生死が不明か、死んだ場合はアオリストとなる。しかしОн родился 25 сентября 1985 года.と生年月日が入ると、今現在の時点で見て、彼の生年月日では生きている可能性が高いから結果の現存という解釈も成り立つが、過去の一点を示す以上アオリストである。結果の現存では「~の時点から」という時の副詞句は許容されるが、過去の一点を示す句が入れば、それは過去時制であるから、当然アオリストである。いずれにせよ「彼が生まれた」はこの動詞の意味上反復は普通あり得ない(何回も繰り返し生まれたという意味が普通はありえない)から完了体過去形にしかならない。そのため和文露訳では二つの用法の違いを特に意識する必要もないことになる。
 過去時制においてアオリストと結果の現存を区別するのは文脈によるが、他動詞のように受け身で被動形動詞過去を用いることができるときは、過去時制ならアオリスト、現在時制なら結果の現存と区別できる。しかし、次のようにアオリストと区別できるものもある。
「頭を打ったときに気を失ったのですか?」Вы потеряли сознание при ударе головой?これは過去の明確な一点を指しており、典型的なアオリストであり、結果の現存なら気絶している人と会話するという奇怪な話になってしまう。
 ラスードヴァ先生は具体的事実の意味(単一動作の事実を全一的に伝達すること)が完了体の主要な意味であり、一括化の意味と例示的意味はこの具体的事実の意味を基に発達すると述べておられる。私も完了体の用法としてはこれが最も重要な用法であると考える。第3回、第109回、第140回回答参照。
hh) 創作者としての資格 → 完了体動詞過去形
「作品を書いた、描いた、創った」という場合は唯一性の強調ということで完了体過去形を用いる。アオリスト用法の一つである。第175回、第179回本文および第15回回答参照。
ii) 順次的用法 → 完了体動詞過去形
 アオリストの一つで過去時制において次々と動作が起こるときに用いられる。第50回、第88回、第144回回答参照。
 動作の順次性が主文と従属節でも表すことができる。
(家に帰ると、すぐ寝た)Когда я пришёл домой, я сразу лёг спать.
この順次性は感覚的なもので、場合によってはほぼ同時と考えてもよいような動作を示すこともできる。
(彼は鍵を残さないで出かけた)Он уехал и не оставил ключ.
 このように完了体過去形が動作の順次性を表すのに対して、不完了体は動作の同時性を表す。
(私が手紙を書いていた時に、彼女は夕食の用意をしていた)Когда я писал письмо, она готовила ужин.
jj) 結果の達成への期待 → 完了体動詞過去形
 完了体過去形を否定文に使うと、期待していたのに~しなかったというニュアンスが出る。これは疑問形でも同じニュアンスである。不完了体過去形の否定文なら単なる事実の有無の「ない」ということの確認、つまり事実の名指しとなる。第12回、第30回、第74回、第162回、第163回回答参照。
「メモを受け取りになりましたか?」- Вы получили записку?
「いえ、受け取っていません」- Нет, не получал.
上記のように完了体過去形で質問しているのは、受け取る事を期待して聞いているわけで、それに対し不完了体過去形で応じているのは、たんに受け取った事実はないという事実の確認だけで答えているためである。Не получил.なら答える側も受け取ることを期待していたが受け取らなかったことになる。Не получаю.と現在形の否定なら、一般的に(あるいは習慣として)「メモは受け取らない」という意味になるし、Не получу.なら文脈にもよるが「受け取れない(不可能)」か、「受けとらない」という未来での否定となる。Не буду получать.なら「受け取るつもりはない」という意志を示す。過去において否定の強調にはне был (а, о, и)を文末にもってくる方法もある。これは文末に新しい情報(レーマ)が来ることを利用したもの。(しかし夜までにボブルイスクはまだ占領されてなどいなかった)Но к вечеру Бобруйск занят не был.
 上記のように被動形動詞過去形短語尾が過去時制と使われるというのは、例えば、(彼は除名されなかった)Он не был исключён.は能動態に直せば、Его не исключили.ということだから期待のニュアンス(除名されるとばかり思っていたのに除名されなかった)が感じられるということになる。第256回回答参照。
kk) 動作の一括化 → 完了体動詞過去形
 「数回」とか「何度か、幾度か」という繰り返しは不完了体を使うのだが、動作の個々の場面を一つにまとめる(立て続けに、一度に数回繰り返された)動作は完了体を使う。
(我々は全部でこの実験を25回した)Всего мы проделали этот опыт двадцать пять раз.
 これはпо-, про-やпере-という接頭辞のついた動詞や-ну-という接辞のついた一回体の動詞に見られる。この用法は不定法にも見られるが、несколько раз(数回), подряд(立て続けに)など回数などを示す限られた文脈だけでしか発生しない。
(何度か彼に目配せした)Несколько раз подмигнул ему.
(彼女は幾度かキスをした)Она несколько раз поцеловала.
第104回および第240回回答参照。なお磯谷孝先生は「~を一度もしたことがない」という用法を否定的一括化と呼んでいる。この否定的一括化については第29回回答参照。
ll) いったん開始された行為の中断、中止 → 小詞было + 完了体動詞過去形
 不完了体動詞過去形で用いられるのはхотеть, думатьぐらい。第62回回答参照。
mm) 結果の評価 → 完了体動詞過去形
 様態〔声が大きいとか小さいとか〕の強調ではなく、結果がいいか悪いかという時に使う。第16回参照。

〔命令法〕
〔不完了体〕
nn) 着手 → 不完了体動詞命令形
 着手といっても、不完了体の属性である無標性から発生するもので、自発的に着手するのではなく、その場で~することが話し手にとって当然であるという場の雰囲気によってなされる自然体である動作の要請、つまり相手の動作にきっかけを与えるための合図に使われ、勧誘的な意味合いを持つ。「その場の空気を読む」用法だと考えてもよい。また動作への着手と発話時点を結びつけないような時の状況語(明日とか2時までにとか)がある場合は完了体命令形が用いられ、発話時点における動作への着手や促しのときは不完了体命令形を使うと考えてもよい。
(始めなさい)Начинайте!や(おかけ下さい)Садитесь!で、かけっこのときのよーいドンや、試験の時の試験官の「始め」の合図のようなものだと考えると分かりやすい。尋問などで不完了体命令形が来るのも、話して当然という意識が話し手にあるからである。
(おい、クソ野郎、だれに雇われたのかしゃべるんだ!)Говори, гадина, кто тебя завербовал?
 ここから不定法などの義務の用法が出てくる。しかし、病院などで、(輸血を始めなさい)はНачните переливание!となる。つまり新規の事柄であれば完了体の命令形を使うわけで、開始という動作は全て不完了体命令形と考えるのは大きな勘違いとなる。(減圧に取りかかってください)Приступите к декомпрессии.も新規の事柄だから完了体である。一方、体育の時間に先生が「私の後について(同じことを)やってみてください」というのは、生徒が先生の動きを見ている中での、発言で、スタートの合図みたいなものだから、Повторяйте за мной.と不完了体命令形が来る。第7回、第60回、第81回、第83回、第139回、第192回回答および142回本文参照。
oo) 促し → 不完了体動詞命令形
 動作の時間と回数の制約がない「いつか」という意味の着手と考えてもよいような勧誘的意味合いを持つ動作の要請で、相手を拘束しないような動作の時に用いられる。
(立ち止まらないでください)Проходите – не стойте.
 「とっとと失せろ」Убирайся! というような暴言にも不完了体が使われる。これは促しが強い催促や切迫になるということで理解できる。これに似た用法で、(もう一度そこに寝てみろ、いいか〔ただじゃおかない〕)Ещё раз тут ляжешь - смотри!とлечьという不完了体が来ているのも、一種の反語的な促しである。第26回、第45回、第234回回答参照。
pp) 動作の様態の強調 → 不完了体動詞命令形
 文脈によっては動詞なしでも意味が通じるというのは、動詞が刺身のつまのようなときには不完了体命令形が出て来る。この用法は動詞の動作がどのようであるかを示すもので、動作の完成は二次的なものとなり、いいとか悪いとかの完了体の結果の評価とは違う。
(もっと大きい声で話して下さい)Говорите громче.という文を、Громче!と言っても、イントネーションによってニュアンスは変わるかもしれないが意味そのものには変わりはない。X線検査で(もっと深く呼吸してください)Дышите глубже.も同じである。ところが、(もっと暖かい恰好をしなさい、暖かくしなさい)Теплее оденься.は完了体である。同じ形容詞の比較級を使っているのに片方は不完了体でもう片方は完了体であるのはどうしてだろう?完了体の方は動作の完成(暖かい恰好〔セーターなどを着るとか〕をする)に意味の重点があり、暖かい恰好をしなければ風邪をひくよというニュアンスである。暖かい恰好をするという情報は新規であるわけで、それゆえ完了体が出てくる。
 при-という接頭辞を持つ運動の動詞群の不完了体ではこの用法は使えない。繰り返しの用法しかないからである。ゆえに、(花瓶を持って来なさい。注意してね)Принесите вазу. Несите осторожно.というようにприноситеではなく別の動詞нестиを使わざるを得ない。
qq) 禁止 → 否定詞 + 不完了体動詞命令形
 同じ不完了体でも不定動詞の命令形は最初からの動作の否定である。第68回、第76回、第173回回答参照。
(マンションに犬を連れてきてはいけない)Не води в квартиру собаку.
(市の案内図を持っていかないでください)Не берите с собой план города.
(浮気はだめよ)Не изменяй мне.
(殴らないで)Не бейте меня.

〔完了体〕
rr) 新規の具体的な1回の動作遂行の要請 → 完了体動詞命令形
 問い合わせ(トイレはどこか教えてください)Скажите, пожалуйста, где туалет.など。完了体の命令形は動作の全体的把握といった頼み、助言などの付加的意味合いを持ち、動作過程そのものはどうでもよい。第13回、第70回、第86回、第174回、第190回、第219回回答参照。
ss) 例示的意味 → 完了体動詞命令形
(保証書への不正確な、ないしは不十分な記載の場合はただちに販売店にお問い合わせください)В случае неправильного или неполного заполнения гарантийной книжки немедленно обратитесь к продавцу.。
 命令法における例示的意味は、諺、格言のほかに、具体的動作を指示する掲示、注意書、取扱説明書などでよく見かける表現である。
tt) 丁寧な依頼 → 完了体動詞未来形の否定疑問形
 完了体動詞未来形の潜在的可能性から派生した用法。(「トイレはどこか教えていただけませんか」「あいにくですが、申し上げられないのです」)- Вы не скажете, где туалет? = Не можете ли вы сказать, где туалет? – Нет, к сожалению, не скажу. = Нет, к сожалению, не могу сказать.
(恐れ入りますが、少しずれていただけませんか)Простите, вы не подвинете немного?
(お電話お借りしてよろしいですか)Вы не разрешите позвонить от вас?
(お力をお借りできますでしょうか)Вы не поможете мне?
(ほらその人形を見せていただけませんでしょうか)Будьте любезны, вы не покажете мне вон ту куклу?
uu) 警告 → 否定詞 + 完了体動詞命令形(うっかり~しないでください)
 危惧から来る警告(第34回回答参照)
vv) 仮定や叙想(現在時制の完了体の項参照)
ww) 被動形動詞短語尾を使って命令の意味を示す。
(女性が収容所で男性の写真〔絵〕をもってはならない)Не положено женщинам в лагере иметь мужские портрет
(ケンギールでは小包で挽き割を受け取るのは許されていたが、それを煮るのは絶対に禁止されていた)В Кенгире разрешено было получать крупу в посылках, но так же неукоснительно запрещено было её варить.
(これからは棍棒を持たないで見回りをするよう提案された)Предложено было впредь обходиться бех дубинок.
(看手には囚人を番号だけで点呼し、名前は知るべきではないし、覚えるべきではないと命令された)Велено было надзирателям окликать заключённых только по номерам, а фамилий не знать и не помнить.

〔不定法〕
〔不完了体〕
xx) 切迫感(動作の着手) → 不完了体動詞不定形
 不完了体の属性である繰り返しというのは習慣性を生み、それが習慣だから習慣を守りたい、それから「~せねばならぬ」という気持ち(切迫感)に発展してゆくと考えられる。この用法は動作の着手と言い換えてもよい。叙想語(должен, мочь, хотетьなど)の後に不完了体不定形が来れば、発話の時点に直接結びついた動作を意味し、完了体不定形なら動作の実現を多少なりともかけ離れた未来に置く。第17回、第185回回答参照。
(スタート!〔始め!〕)Можно начинать!
(分単位で決めなければならなかったが、相談する暇はなかった)Решать надо было в минуты, согласовывать некогда.
(寝ないとな、もう9時だ)Надо ложиться, уже 9 часов.
(今日はちょっと早めに、9時頃寝ないとな)Сегодня тебе надо лечь пораньше, часов в 9.
(結局のところ、退院したいというなら、退院させよう)В конце концов раз хочет выписываться – пусть выписываться! 発話の時点で退院を要求している患者に関してで、ここに不完了体が出てくるのは、事態が発話の時点で進行中であり、進行中という過程を表現するには不完了体が適切と考えられ、それが切迫した動作の着手となったと思われる。叙想語なしでも、次のような表現に体の用法の違いが出る。
(明日発たないと)Завтра нам уезжать.〔切迫感、差し迫った感じがする〕
(明日発つつもりです)Завтра мы собираемся уехать.〔切迫感はない〕
yy) 不必要 → 不完了体動詞不定形
 不必要はもっとも重要な不完了体の属性である。не надо, не нужно, не следует, не стоитのあとに続く不定形には不完了体不定形の使用が絶対である。
(子供をおもちゃで甘やかす必要はない)Детей не надо баловать игрушками.
 動作の必要性に対する疑念、動揺した後での決心にも不完了体動詞不定形が用いられる。
(買うべきか買わざるべきか?)Покупать или не покупать?
zz) 動作の持続性のニュアンス → 不完了体動詞不定形
(自分に近い人の不幸には無関心のままではいられない)Мы не можем оставаться равнодушным к несчастью близкого нам человека. これに完了体動詞不定形остатьсяを使うと「無関心ではいられない(いることはでいない)」と不可能を示し、動作の持続性が感じられない。
aaa) 疑問詞 + 不完了体動詞不定形
 発話の最初で出てくる場合は、新規の動作の場合なので完了体が来るのが普通である。
(時計はどこで買えますか?)Где можно купить часы?
 ところが疑問詞につけて具体的な一回の動作を示すときでも、その動詞がなくても意味が分かる場合不完了体不定形が出てくることがある。特に話し言葉では不完了体不定形が多いが、これは意味上の力点が疑問詞にあるためで、動詞は刺身のつまのようなものだからである。つまり過去時制のアオリスト的用法の1と同じで、完了体の具体的動作と対比して、不完了体の動作の曖昧さ(逡巡、決断力のなさ)を意味すると考えてもよい。
(何を着ましょうか?)Что надевать?
(さて、ここであなたを下ろしましょうかね?)Ну что, здесь вас, что ли, сбрасывать?
車に乗せたらいつかは降ろさなければならないからで、意味上の力点はздесьにある。ちなみに、このчтоはсбрасыватьと結びついているのではない。что делатьのделатьが省略されているのである。
bbb) 動作の否定や禁止 → 不完了体動詞不定形
Не курить!(禁煙)第18回、第171回回答参照。
 不定法において両方の体の使用が可能な場合不完了体は動作を一般化して示すので、完了体に比べて、より断固とした否定を示す。
(残りたいという気持ちはない)У меня нет желания остаться (оставаться).
 望ましくない、好ましくない動作にも不完了体不定形が用いられる。不完了体はマイナス思考型と考えてもよい。
(いったん置いてしまったら、〔それから〕片づけるのは遅い)Раз уж поставил, поздно убирать.
ccc) 動作の名指し(動作の有無の確認) → 不完了体動詞不定形
 この用法は不定法ではほとんど見られず、使われる動詞としては不完了体のделать, встречаться, идти, ехать, видетьぐらいであるが、中でもделатьとидтиが口語で使われる例は抜群に多いので必ず覚えておく必要がある。具体的な1回動作に見える場合でも、これらの動詞の場合はこの用法では不完了体が使われることが多いと考えた方がよい。動作の名指しが不定法であまり見られないというのは、不定法というのは目的「~するために」というところに不定形が来るが、具体的な一回の動作でないと、意味が明確にならないという事ではないかと思われる。例外的に使われる不完了体も明らかに完了体よりも使用頻度が高く、意味上の誤解がない動詞ばかりである。
(夏には何をなさるおつもりですか?)Что вы хотите делать летом?
(ついてくるつもりなの?)Ты собираешься идти за мной?
(失礼して〔行って〕よろしいですか?)Можно ехать?〔Можно идти?〕
(どこに行きたい?)Куда ты хочешь поехать?
※хотетьの後の不定形は単一の具体的動作の意味としてなら完了体が来ることが多い。

〔完了体〕
ddd) 具体的な、特定の1回の動作の実現(具体的個別的事例) → 完了体動詞不定形
 「~をするために....をする」というときの「~をするために」に動詞の不定形が来るが、具体的一回の動作には完了体が、繰り返しや動作の一般化の用法には不完了体が来る。надо, должен, хотеть, мочь, проситьの後に動詞の不定形が来る場合は、具体的で一回の動作を示す場合完了体が来る。切迫感との用法の違いに注意。第66回、第188回、第191回回答参照。
(彼女とデートしたいのです)Я бы хотел пойти с ней на свидание.
(オシッコをしたくはないですか?)Вы не хотите помочиться?
eee) 「~しましょうか?」構文 → 完了体動詞不定形 + ?(疑問形)
 具体的な一回の動作が多いので完了体動詞不定形が来る。第36回回答参照。
(音楽聞くかい〔音楽のスイッチを入れましょうか〕?)Включить музыку?
 давай(те) + 完了体動詞1人称現在形(理論的には不完了体の不定形でもよさそうだが聞いたことはない)の疑問文でも可能。口語的用法である。第166回参照。
(どこかドライブに行こうか?)Давай съездим куда-нибудь?
fff) 必要性 → 完了体動詞不定形(第17回回答参照)
ggg) 命令 → 完了体動詞不定形(かなり強い意味の命令。具体的1回の動作を示す)
(起立、気をつけ)Встать! Смирно!
 日本語の連体止めの「一つ、親の言いつけを守る」や体言止めの「一つ、廊下は走らないこと」というのに似ている。
hhh) 不可能 →не + 完了体動詞不定形。
(本件をあきらめることは絶対にできない)Бросить дело нельзя никогда.
(この件に対する彼らの貢献を過大視することは難しい)Их вклад в это дело трудно преувеличить!
(さもないと身のためにならないぞ)Иначе тебе не сдобровать!
 трудно は単なる否定ではなく、不可能に近いというように受けとめられているので完了体不定形と結びつく。
(歴史の歯車の向きを変えるのは難しい)Трудно повернуть колесо истории.
iii) 例示的用法 → 完了体動詞不定形
 状況によって現れたり現われなかったりする潜在的に可能な動作が問題になっている場合には、完了体を使用する。第94回回答(これは意味的には命令法であり、命令法でも例示的意味が出てくることが分かる)参照。
 この他にも主文における動作の反復性があるときの不定法として、反復性は主文の中の動詞によって表現され、その後に用いられる不定法、ないしは従属節中の不定法は完了体で用いられるのが普通である。これは反復という動作を主体の動詞が担い、不定法で示される動作を例示的な単一の動作と見ているからだと思われる。
(この敷地内に入る時は毎回特別な入構許可証の提示が要求された)При входе на эту территорию каждый раз требовали предъявить особый пропуск.
 第245回、第257回回答参照。
jjj) 「する気になれない」 → не + хотеть/хотеться + 完了体動詞不定形
不本意や遺憾の意を表明するときに用いられる。(騙すつもりはなかったんだ)Я не хотел обмануть вас.
 ここから発展して非難の意味にもなる。(私と口を聞くのも、話を聞こうとするのも嫌なんですね)Вы не хотите даже поговорить со мной, даже вылушать меня.
 стремиться, стараться, думать, предполагать〔予定するという意味で〕+ не + 完了体不定形も不本意や遺憾のニュアンスがある。
kkk) 不定形の名詞的用法(第122回回答参照) → 完了体動詞不定形
 具体的な動作という事で完了体不定法が来る。

〔定動詞と不定動詞〕
lll) 定動詞の用法(第22回、第136回回答参照)
mmm) 不定動詞の用法(第24回、第31回、第39回、第40回、第41回、第74回(идти/ходить過去形の否定の用法の違い)、第91回回答参照)

〔その他〕
nnn) 時制に関係なく完了体動詞と不完了体動詞で意味の異なる動詞群(писать/написатьグループ)
 完了体でのみ結果の達成の意味が出るグループには、будить/разбудить, варить/сварить, выбирать/выбрать, готовить/приготовить, делать/сделать, добиться/добиваться, доказать/доказывать, жарить/пожарить, купать/выкупать, линять/полинять, мазать/помазать, мерить/померить, (мочь/смочь), мыть/вымыть, объяснять/объяснить, писать/написать, печатать/напечатать, поступить/поступать, прятать/спрятать, резать/порезать, решать/решить, рисовать/нарисовать, стирать/выстирать, читать/прочитать, шить/сшить,
 不完了体は試み、努力、つまり一定の結果を得ようとした動作を示すが、完了体動詞では結果達成の実現を意味する。例えば、
(昨日は一晩中論文を書いていたが、結局書きあげられなかった)Я писал вчера статью весь вечер, но так и не написал её.
(兄が弟に法則を説明したので、弟は問題を解くことができた)Старший брат объяснил младшему правило, и тот смог решить задачу.
 сдавать/сдатьは上記とやや違っており、不完了体の意味は「試験を受ける」で、完了体のほうは「試験に受かる(合格する)」となる。(資格試験に受かる)сдать квалифицированный экзамен
ooo) 不完了体動詞が意味上優位な動詞群(звонить/позвонитьグループ)
 このグループの完了体動詞はпо-という接頭辞をもつ。しかしпо-という接頭辞を持つ動詞がすべてこのグループに入るという事ではない。この動詞群ではпо-という接頭辞は完了体という意味の指標であり、はっきりとした語義上のニュアンスをもたず、所与の動作の一回性を強調する。この動詞群は不完了体から完了体が発達し、そのように完了体を発達させた理由というのが、未来における必要性、可能性、好ましさを指摘するときだけと思われる。だから、たんに「~するつもりである」という意図を示す時はбыть動詞の未来形 + 不完了体不定形も用いられる。また不完了体が主体のため、過去時制や目的を示す不定形に用いられる場合、特に動作主体、動作の時間などの話し手の注意が集中する場合には完了体も用いられるとはいえ、不完了体が優先的に用いられる。このグループに属するものは、дарить/подарить, думать/подумать, желать/пожелать, звонить/позвонить, здороваться/поздороваться, знакомиться/познакомиться, мешать/помешать, обещать/пообещать, пробовать/попробовать, просить/попросить, прощаться/попрощаться, пытаться/попытаться, рекомендовать/порекомендовать, ручаться/поручаться, служить/послужить, советовать/посоветовать, стараться/постараться, терять/потерять, целовать/поцеловатьであり、第15回、第21回本文および第10回、第25回、第38回回答参照。
ppp) 状態「~である」と状態発生「~となる」を示す動詞群(казаться/показатьсяのグループ)
 このグループは完全な体のペアとは呼べない。Было трудно.(困難だった)とСтало трудно.(困難になった)の意味の対立に例えられる。このグループの完了体は容易に結果の現存の意味を示し、その点で状態を示す不完了体と対立する。
(電話か?飛び起きて聞き耳を立てる。いや、気のせいだ)Телефон? Вскочил, прислушался - нет, показалось!
 この文に不完了体の持つ持続性の観念はないからказалосьに代えることはできない。このグループの完了体は潜在的可能性の意味が発達するため、不定形で広く使われる。この動詞群には、любоваться/полюбоваться, казаться/показаться, любоваться/залюбоваться, любить/полюбить, нравиться/понавиться, понимать/понять, придавать/придать мужества, принимать/принять участие, сдерживать/сдержать нетерпение, сердиться/рассердиться, слышаться/послышатья, увлекать/увлечь, чувствовать/почувствовать
qqq) 不完了体動詞のみでの可能性(可能・不可能)の意味を示す用法
(横になって(立って)尿をこらえられますか?)Вы удерживаете мочу лёжа (стоя) удержать= не дать возможности прорватьсяなので、この動詞の語義の中に可能性が含まれているゆえに、「~できる」と和訳することができる。このように動詞の中に可能性や五感などの感覚が含まれているものは、「~できる」と訳せる。(第260回本文、第265回、第267回回答参照)
rrr) быть動詞の用法
 軍隊で上官に対する敬語として、Есть + 不定形というのもある。
(タバコを喫うであります、将軍殿)Есть закурить, товарищ генерал!
(命令により報告するであります)Есть докладывать по команде.
(起こさないであります)Есть не будить!
 不完了体不定形が来るのは着手の用法であり、完了体不定形は具体的な1回の動作を示す。
第31回回答参照。бывать動詞の用法は第31回回答、第84回本文参照。
sss) 時制の転用(歴史的現在、例示的用法以外の時制の転移、第28回回答参照)
(後5分で着きますよ)Ещё пять минут, и приехали.
ttt) 相対時制
 日本語でも「死んだ方がまし(死ぬ方がまし)」、「もし何かったら(もし何があれば)」、「急に仕事がなくなったらどうする?」、「任期を終えたら家族の元に戻る」などと未来完了を強調するときは、そういう形式がないから過去完了を使わざるを得ない。ロシア語にも似た表現があるが、「寝た方がいいよ」はロシア語ではВам лучше лечь в постель.と不定法で間に合ってしまうから、全部この形式で和文露訳できるということではない。基本的には完了体未来形で先に終了する動作を示し、先に終わる動作の終了を強調する場合に完了体過去形を用いる。
(患者が音叉が聞こえなくなるまで音叉を持っていてください)Держите камертон до тех пор, пока больной не перестанет его слышать.
(治療の結果は思っていたほどよくない)Результаты лечения не такие хорошие, как можно было ожидать.
(もし何人かのスケート選手が同じ距離で同タイムを出したなら、各人がその距離の優勝者と見なされる)Если несксколько конькобежцев показали одинаковое лучшее время на одной дистанции, каждый из них считается победителем на этой дистанции.
 第25回、第56回、第135回、第137回、第143回、第168回、第234回、第250回回答参照。
uuu) 「~(の)まま」(第71回回答参照)
vvv) 機能動詞(第9回、第11回、第17回本文参照)
www) 機能的副詞句(第131回本文参照)
xxx) 評価伝達の動詞ошибиться他(第27回本文参照)
yyy) хотеться(第32回本文参照)
zzz) 複数と単数(第37回回答参照)
 可算名詞を使って漠然と有無を表現する文には複数を用い、否定文では複数生格となる。これは一つ以上の可能性を排除しないからではないかと思われる。無論具体的な場合には文脈に応じ単数と複数が用いられる。ロシア語には英語と違い不定冠詞と定冠詞がないため、その機能(不定と所与の関係)を単数と複数に割り振っているのかもしれない。例えば、(便秘〔下痢〕していますか?)と医師が尋ねるときは、有無が不明で、漠然・曖昧としており、そのためВы страдаете запорами (поносами)?と単数形ではなく、複数形で尋ねるという例があげられる。ところがあるということが確認できた後では、既定の事実ということで単数なら単数形を、複数なら複数形を用いる。
 日本語では特に複数という概念があまりないので、抽象名詞は単数と理解すればよいと思いがちだが、技術технологияは一般に技術を意味するときは単数だが、何種類かの具体的な技術を意味するときは複数になる。музыкаは音楽という意味では単数だが、吹奏楽や楽器とという意味では複数が使えるし、(吐き気、嘔吐、ゲップはない)Тошноты, рвоты, отрыжки нет.は否定文でいずれも単数生格が来ている。動詞由来の名詞(動名詞)でも状態を示すものが単数のみとか、動作を示すものが複数も可能だとは必ずしも言えないようである。抽象名詞でも個々の出来事をいくつか意味するときは複数が来るし、物質名詞でも大量とか広い場所を占めるというようなニュアンスの時は複数となる可能性が高い。
(骨の損傷はない)Костные повреждения отсутствуют.
(病歴にアレルギーはありますか?)В анамнезе нет аллергий?
(今尿意はないですか?)Нет ли у вас сейчас позывов к мочеиспусканию?
 抽象名詞で個々の事例をいくつか示す時には複数ではなく、助数詞を使える場合もある。
новые виды энергии(新しいエネルギー)、такие виды оборудования(これらの種類の設備)、разнообразные виды искусства(様々な芸術)
 第280回本文、第257回回答参照。
aaaa) 敬語(第39回本文参照)
bbbb) 強意代行動詞(第77回本文参照)
cccc) 形容詞の最上級(第42回本文参照)
dddd) 助数詞(第45回本文参照)
eeee) 副動詞(第57回本文参照)
ffff) 関係代名詞(第266回回答参照)
gggg) 無人称文
 自然の猛威が動作主агенсであるもの、無人称文がすべて人称文に置き換えられるわけではないがこれらは例外とされる。第189回回答参照。
hhhh) 不定人称文(受動態「~される」としての用法)
 日本語ではどの動詞でも受動態を使うのは文体上好ましくないとされるが、それでも主語をぼかしたいときなど受動態を使わざるを得ないときもある。ся-動詞というのは完了体では自動詞が多く、たとえばотклеитьсяなどもそうである。ところがся-動詞の不完了体や被動形動詞過去形短語尾で受動態が作れるものがあり、それらは表示するかどうかは別にして動作主がある。ただ他動詞であれば、ся-動詞で受動態を作れるというものではない。完了体の用法で動作主を考慮に入れた受動態を作るには被動形動詞過去形短語尾を使えばよいが、完了体や不完了体という制約を考えずに、主語をぼかしたいのであれば不定人称文を使った方がよい。受動態で使われるся動詞の不完了体や被動形動詞過去短語尾だと、全部の他動詞の不完了体動詞がся動詞となって受動態で使えるわけではないなどいろいろ制約があるため、繰り返しや動作の一般化ということでは、不定人称文を勧める。不定人称文は完了体も不完了体も過去時制でも、現在時制でも、未来時制でも用いられる。こうすれば「ひとりでに~した」というような自動詞的な要素は排除できる。このとき動詞は複数(現在時制や未来時制では3人称複数)になるが、必ずしも意味上の主語が複数とは限らない。一人称単数や三人称単数の場合もあるし、Как вас зовут?(お名前は)は二人称と考えることもできる。
(ラジオでは最新ニュースを放送している)По радио передаются последние известия. = По радио передают последние известия.。
(店にはまもなく新刊の雑誌が入る)В магазин скоро привезут новые журналы.
(追手をかけられたら、いつか死ぬぞ)Подохнёшь однажды, когда будут гнать.
(窓が閉まっている)Окно закрыли.などである。第181回、第197回の回答参照。
 不定人称文を使って、日本語の「人 = я が~しているのに」という構文を表現できる。
(人が説明しているのになぜいうことを聞かないの?)Тебе объясняют! Почему ты не слушаешь? 第249回回答参照。
iiii) 人称の転用(第46回回答参照)
jjjj) 主題の提示(テーマとレーマ)
 日本語の主語を示す助詞「~は」は主題を提示するか、テーマの一般化を示し、「~が」は具体的な事柄を示す。「傷口は痛い」と「傷口が痛い」など。露文解釈では一般的な事柄なのか、具体的な(例えば目の前の)によって和訳を変える必要があるが、会話の和文露訳では、主題の提示を強調する場合にはчто касается + 生格やпо отношению + 生格という句を使う場合もある。第21回回答参照。
kkkk) 構文「とても~ので~する」第182回回答参照。
llll) 生格の述語的用法(第184回回答参照)
mmmm) 接続詞что/какと知覚動詞(第206回回答参照)
nnnn) 仮定法(第233回回答参照)
oooo) 類語、類義語(第1~8回、第14~17回、第20回、第22回、第23回、第25~27回、第29回、第31~37回、第40回、第43回、第44回、第46~50回、第52回、第54回、第56回、第57回、第64~66回、第68~70回、第74回、第75回、第79回、第80回、第82~85回、第88回、第91回、第93回、第94回、第102回、第106回、第108回、第112回、第116回、第117回、第118回、第122回、第124回、第128回、第132回、第136~138回、第144回、第146回、第149回、第151回、第152回、第155回(原因を示す前置詞句)、第156回(前置詞句「~のために」)、第158回、第166回、第167回、第175回、第183回、第185回、第188回、第189回、第196回、第197回、第198回、第199回、第202回、第204回、第212回、第215回、第217回、第221~225回、第239回、第244回、第249回、第252回、第254回、第257回、第261回、第270回、第272回、第275回、第276回、第283回、第286回、第288回、第296回、第297回本文参照、第19回、第23回、第27回、第29回、第33回、第39回、第46回、第53回。第58回、第59回、第61回、第67回、第88回、第91回、第96回、第100回、第101回、第107回、第108回、第128回、第139回、第140回、第143回、第157回、第160回、第173回、第175回(「今」について、第38回回答も参照の事)、第181回、第195回、第199回、第204回、第211回、第216回、第218回、第274回、第275回、第285回回答参照)〔この他にロシア語珍問奇問第2回、第3回、第5回、第9~11回、第13回、第15回、第16回、間違いやすいロシア語第17~22回本文参照〕

私が紹介したいと思うのは、日常会話や通訳、ガイドなどで比較的よく使われるだろうと思う一見簡単に見える短文であり、それををいかに露訳するかである。チェーホフは(簡潔さこそ才能の片割れ〔妹分〕)Краткость – сестра таланта.と言ったが、全ては短文の中にある。短文の露訳ができなくて長文ができるはずがない。しかし文法の例外事項のコレクションを紹介するつもりはないし、19世紀や20世紀初め以前のロシア文学で使われ今や廃用となっているものを示すつもりもない。設問の日本語を見れば分かるように、日常よく使う表現だが、すぐロシア語が出てきにくいが、応用できると思われるものを対象にしている。和文解釈で文法用語を覚える必要はないが、上記で使われている文法用語は繰り返しを避けるためのあくまでも便宜であるし、将来、文法に興味がある人も出てくるかもしれないからである。自分が感覚的に体の用法を使えるものは(例えばдолго, медленноなら不完了体だろうとか)、それはそれでいいのである。問題は自分の感覚と体の用法が違うなと思うものは、子供ではないのだから理屈(あるいはらしきもの)をよく理解して覚えるようにすれば覚えやすいはずなので、絶対理屈で覚えよということではなく、覚える手段の一つと割り切ればよい。

 体の用法は完了体が新規の事柄や潜在的可能性を扱い、不完了体は固有の性質を示すとされているが、その境界はあいあまいで客観的な線引きは、話したり書いたりするのが人間であるため不可能である。完了体はプラス思考型で、不完了体はマイナス思考型という捉え方もできる。そのため時に両方の体が可能な場合があるが、そのときにも上記の体のニュアンスが残っているのだ理解すればよい。体の同義的使用が見られるのは過去時制では話し手の注意が動作の場所、時、主体などに向けられている時、不定法では目的の意味の語結合において、未来時制では単一動作の事実の伝達に際してであるとラスードヴァ先生も書かれている。

 不完了体についてもっと言えば、当然だと思うのは自分ではなくて、自分から見て回りが当然だろうと見なしてくれるという感覚があれば不完了体を使うということにある。話し手の意識の中において他力本願的(受け身という言葉は誤解を招くので使わない)で、その場の雰囲気に逆らわない着手の用法や、そこからその場の雰囲気にのまれるというか、義務という観念が生まれたのではないかと考える。またその現れ方が時制や法(命令法や不定法)によって強弱があるのではないだろうか。どちらの体を使うかによって、その時の話し手の意識がくみ取れるということでもある。ただ会話では相手もいることであり、相手が理解しやすいよう、つまり解釈が独りよがりにならないようなその場において適切な体を選択できるよう体の用法をマスターしなければならない。

 体のペアになっている動詞は語義が同一であるという前提がある。ところが露和辞典を引けば分かるが、このように体となっている動詞の中にもある語義だけが対応する体がないものもある。それと全ての動詞が体のペアになっているわけではないし、なっていても体の用法の違いのほかに、完了体と不完了体で語義の違うものがある。それは辞書には別項目で出ていたり、別に説明があるのが普通である。例えば、разобратьсяは「вникнув в подробности,понять, уяснить「究明する、解明する」という意味で、不完了体разбиратьсяも同じ意味だが、一つだけ完了体と意味が違うのは、不完了体にはбыть хорошо осведомлённым, обладать познаниями в какой-либо области「ある分野に通じている、深い知識がある」という意味があるなどである。понять/пониматьにも同様な意味の違いがある。

 体の用法についてはかなり細目にわたって述べたが、本質は単純である。つまり不完了体は自然体に、完了体は新規に用いるというだけのものである。これまでの学説は完了体中心に体の用法を説明しようというもので、不完了体については消去法での説明である。私はそうではなくて、不完了体を中心に据えて説明した方が、無理なく体の用法を説明できると考えて、この表を作った次第である。体の用法を会得するには、枝葉→本質→枝葉→本質の繰り返しで、この一種の悪循環から抜け出せば、つまり大げさに言えば解脱とか悟りということになる。ただ悟ったと思った瞬間からその悟りは本物かという検証が続くことを忘れてはならない。

設問)アイスダンスの選手に対する質問「何番目に滑るのですか?」をロシア語にせよ。

Posted by SATOH at 06:22 | Comments [5]

2012年03月16日

●和文解釈入門 第301回

原求作先生の「ロシア語の体の用法」(水声社)の137ページに、「приходитьは過程をあらわしうる?」というコラムがある。結論としてприходитьは「ある具体的なものが到着する」という意味では過程を示せないが、抽象的な意味で使われている時は過程を表しうると書かれている。またこれはприходитьの語義に関することでприезжатьではそういうことはないとも述べておられる。果たしてそうか?例えば、例として挙げられている三つの文についてだが、和訳は原先生訳である。
Третья зима его жизни приходила к концу.(彼の人生の3度目の冬も終わりに近づこうとしていた)
Только второй день, как начинаю приходить в себя, начинаю чувствовать и немножечко понимать природу.(我に帰り始めて、周囲の事を感じたり、少しずつ理解できたりするようになり始めて、まだほんの2日目です)
Чем больше я обдумываю ситуацию, тем больше я прихожу к выводу.(状況について思いをいたしてみればみるほど、私はますます次のような結論に近づくのです)

 この中で比較的分かりやすいприходить в себяを取り上げてみよう。これは「意識を取り戻す、覚醒する、我に帰る」ということだが、この語義に過程というか、その中間の状態というのはないのではないか?つまり意識のない状態から半覚醒を経て覚醒するという過程を経てということを意味しない。半覚醒というのはうつらうつらという一つの特別な状態を指しているにすぎない。つまり意識は通常あるかないか、ONかOFFしかないはずである。しかもこの文にはначинаюを使っている。

 第133回で「彼は見かけほど単純ではないという気がしてきた」という文の露文として、
Я начинаю думать (считать), что он не так прост, как кажется.という文を紹介した。その時に、こう書いた。〔「~という気がしてきた」は「リンゴやバナナ、牛乳などをジューサーで混ぜている」という過程とは違う。撹拌の後、結果としてミックスジュースが出来るのだが、「~という気がしてきた」ではある考えがすでに存在するのである。「~という気がしてきた」というのも一見過去形だが、まとまった一つの考えが頭に入ってきたという意味では現在完了である。不完了体のначинатьがдумать, считатьと結びついて、一人称ないしは意見の主体が主語に立つ時は、たんなる心の状態の始まり(意見の形成)を示すのではなく、前の意見の変更に関わる意志的な行為を示すとシノニムの辞典にはある。つまりначинаю думатьもначинатьの後の不定形が過程(~と考え始めつつある)を示すというよりは、「もうすでにそういう考えに変わった」というニュアンスであり、そういう考えの確信が高まって行く過程を不完了体現在形で示しているにすぎない。断片的な(部分から成る)意見というものは、それだけでは意味が不明であり、それは意見というのは一つのまとまりであって、ある意見が部分的に分かるというのはまさに一知半解を意味するのだと思う〕。

 同じことがприходитьにも言えるのではなかろうか。приходить к концу (в себя, к выводу)は過程というよりは、一度辿りついた終わり(覚醒、結論)に何度も何度も、波が寄せては返すように繰り返して、その確信を強めているということを示しているゆえに、不完了体が来ているのではないか?つまりこの不完了体の用法は過程ではなく、目的(終着点)に向けての繰り返しであると考える。そのため過程を示せないприходитьを用いていることこそ正に理にかなっているのではないか。

 もう一つの可能性は3つの文とも歴史的現在ではないかということである。そうであれば、意味上はアオリストだから不完了体の現在形が来ても何の不思議はない。二つ目の文はначинатьの補語になっているから不完了体にならざるを得ないということかもしれない。

設問)「サンプルはアトランダムに採取される」をロシア語にせよ。

Posted by SATOH at 06:16 | Comments [5]

2012年03月17日

●和文解釈入門 第302回

勤め始めのころ、ソ連向けに作業船(浚渫船とか杭打船、クレーン船)を建造していた日本の造船所の現場でロシア人監督官や検査官のアテンド(付添通訳)をしていたときのことである。昼休みの後、検査業務を再開することになり、Начинаем!(始めましょう)と言ったら、ロシア人監督官から、佐藤さんはロシア語の語彙はまあまあだが、基本を知らないと言われ、正しいロシア語ではПродолжим!というのだと言われたことがある。これが動詞の違いはともかく、完了体と不完了体の違いについて考えるきっかけとなった。この場合は昼食後で、再開するのであって、新たに始めるわけではない。だからначать/начинатьは使えない。昼食などの休みがなくて、そのまま引き続き続けるならПродолжаем!とかПродолжайте!のように不完了体を使うのだということはかなり後になって分かった。こういうロシア語のニュアンスにうるさいロシア人というのはあまりいない。変だなと思っても意味が取れればそれでいいやという人がほとんどである。ロシア語を話す人が少ないから、ロシア語を話すだけで感激してしまう。これは我々日本人が外国人が日本語を話すのを聞くだけで感激するのに似ている。しかし、受け身でいてはロシア語の会話は上達しないという事が分かる。積極的に疑問を見出すという癖をつけることが大事であり、それとともにあの監督官には感謝しても感謝しきれない思いである。どんなきっかけでもそれを活かすことが大事だとつくづく思う。

 Начните это движение снова!(その動きをやり直して下さい)と完了体を使うのは、言われた方がその場の雰囲気では、その動作を当然と思っていない(ある意味不意打ちのような感じ)と話者は感じているから、新規の動作として完了体が来るのである。始まるのが言われる方に分かっているのなら、Можно начинать!(スタート!)と不完了体を使えばよいことになる。

設問)「いつスケートをお始めになったのですか?」をロシア語にせよ。

Posted by SATOH at 08:09 | Comments [6]

2012年03月18日

●和文解釈入門 第303回

даватьやприноситьは過程の意味を示すことが出来ないと第300回の表に書いた。個人的には予定の意味は過程の意味から派生したものではないかと考えているので、これらの動詞も予定の意味では使えないだろうと思っていた。ところが、Кто даёт олимпйскую клятву?(誰がオリンピックの宣誓をするのですか?)という文を見つけたのである。これは明らかに未来(もっというと予定の用法)である。こうなると、「今宣誓しているのは誰ですか?」という過程(現在進行形)の文はどうなるのだろう?「宣誓する」はこの他に、やや古い表現だがпринести/приносить клятвуとも言う。しかしこの不完了体も過程には使えない。приезжатьはムラヴィヨーヴァ先生曰く、予定の意味使えるというので、これを敷衍して使える可能性もなきにしもあらずである。あるいはдаватьだって、予定で使えるのだから逆の発想で、今や過程でも使えるようになっているのかもしれない。しかし、一外国人がロシア語の用法を類推とはいえ勝手に変えていいはずがない。そこで探しまわったところ、произнести/произносить клятвуという表現を見つけた。Кто произносит клятву?とすれば過程の意味で何の問題もなく使える。しかし、ありふれた表現でも探せば、定説と違うものはいろいろあるのではなかろうか?要は短文でも聞き流さないで、ちょっとでも違うと思ったらメモをしておいて、閑な時に考えてみるとよい。

設問)「優勝チームのタイムはどのくらいですか?」をロシア語にせよ。

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2012年03月19日

●和文解釈入門 第304回

非難という意味ではупрёкが一般的だが、укорは柔らかい調子の非難で、укоризнаは書き言葉である。попрёкはпопрёкиと複数で使う事が多く、いわれなき不当な非難を指す。放射線科医はрадиологかрентгенологか迷うが、ロシアでは放射線診断と治療を資格で分けているようである。つまりУЗИ(超音波), КТ(CT), МРТ (MRI) の診断、X線рентген、それと放射線治療лучевая терапияと別れている。一般的にはX線だけを扱うрентгенологで十分だろう。

 「承認する」のутвердитьは公的に最終的に決定する、ないしは法的に決めるであり、одобритьは正しい乃至は許容範囲と認めるという事で、誉めるというニュアンスがある。признатьとсогласитьсяは同意や許可を与えるということで、договоритьсяは双方が合意する、意見の一致をみるという事である。物質の分子はмолекулаだが、分数の分子はчислительである。形容詞のгорькийの比較級のうちгорчеは苦い、からいであり(горшеをこの意味では廃用)、горшеはつらいという使い分けがある。

設問)「血糖値はどのくらいですか?」をロシア語にせよ。

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2012年03月20日

●和文解釈入門 第305回

過去の時制においてアオリストと結果の現存(存続)について、直近の過去では区別がよく分からないという質問が来たので、一応回答しておいたが、その答えを若干分かりやすく書き直してここに挙げる。ロシア語に関する疑問や質問はどんなもので受けるので、遠慮なく投稿願う。

「問」たとえば、「彼はここへ昨日来ていた(けれど今日はいない)」というときに、он приехал сюда вчера. と、昨日という具体的な日時に1回来ていた、という意味で完了体のアオリストとして、「昨日」という具体的な副詞をつけたとしても、これは結果の存続、という意味で昨日来てからずっといる、ととられてしまうのでしょうか?こういった場合は、он приезжал сюда вчера.とするべきなんでしょうか?文脈によりますか?時間が近い場合におけるアオリストと現在存続の違いの使い分けというのが未だよく分からなくて若干混乱中です。

「答」結論から言えば、その通りで、露文解釈の場合、露文の文脈によりますし、会話での和文露訳の場合は話者の気持ちとか意識次第です。ただいずれにせよ動詞群を二つに分けて考える必要があります。一つはприехать/уехатьのような反意語として対応するものがある動詞(第300回の表で過去の時制のところの往復w)で、もう一つはそれ以外です。w)に書いた動詞群は不完了体過去を用いると、つまりприезжалの場合、приехал и уехалという反対の意味の結果の現存の意味(今いない)になる可能性が高いということです。逆の例を使えばуезжалだとуехал и приехал(今いる)という感じです。しかしこういう動詞の完了体の過去形を使えば、その語彙の意味での結果の現存の意味となる可能性が高いということになります。ただ可能性が高いというだけのことで、絶対そうなるということではありません。あくまでも文脈によります。特に直近の過去の場合はより可能性が高くなると言えます。それとприезжалとвчераという時間の副詞の結びつきはおかしいと思います。不完了体過去形にとって後述するようにこのような結びつきは一般的ではありません。ですから答えは、Он вчера приехал сюда и уехал.とすべきです。

 それ以外の動詞群で完了体過去形を用いれば、アオリストか、結果の現存か、二つの可能性が出てきます。それも文脈や話者の意識によるのです。露文解釈ではその見分け方はある程度重要ですが、和文露訳ではどちらにせよ完了体過去形を使うので、あまり深く考えなくともよいということになります。日本語でも過去時制におけるアオリストと結果の現存の区別はそれほどはっきりしていません。例えば、
「昨日イワノフさんは本を買いました」は結果の現存(今ここに本がある)という意味の可能性が高いとはいえ、(本があるかどうか不明)というアオリストの意味に取れないこともないのです。これをロシア語にして、Он вчера купил книгу.で本があるかどうかは100%確実にはだれにも分からないのです。しかし現実にはこの文だけが独立して存在することは普通ありえません。会話などではその前後の会話や状況というのが必ず存在しますから、それで分かることが多いですし、昨日買ったのであれば、今イワノフさんの手元にあると考えてよいと思います。第一本があるかどうかということすら問題にしないというのが現実かもしれません。

 ただ今日買ったというような具体的な過去の一点に関する動作では、不完了体過去形はほぼ使いません。不完了体は過去に動作があったということを示すだけで、具体的ないつかということには関心がないのです。不完了体過去形にこのような時間を示す副詞が一緒に使われるとしたら、その前の文脈ですでに同じ動詞の完了体が使われて、刺身のつまのような用法(動作の名指し)で使われることはありますが、非常に稀です。日常会話ではまずないと考えてよいでしょう。仮に使われていたとしても、その動詞を省略しても意味が通じるような場合です。ですから過去を示す副詞がある場合、なくとも話者が過去の一点を意識していることが明らかな場合は、完了体過去形を使わないと間違いとなります。第302回の設問の「いつスケートをお始めになったのですか?」は過去を示す副詞はありませんが、だれしも物事を最初にするのは過去の一点です。ですから完了体過去形を用いる必要があります。

 ところが、「スケートを滑ったことがありますか?」という文では、スケートで滑ったのが過去の一点とは限りませんし、動作があったことすら不明なわけです。このようなときにはВы катались на коньках?というように不完了体過去形を用います。この答えの「滑ったことがあります」という文でも、滑ってのは過去1回か、それ以上かであることは分かりますが、過去のいつかということだけで、滑った回数も時期も不明です。つまりこのような場合にこそ不完了体の過去形は使われるわけです。もっというと、「昨日売ったことがある」という文はおかしな日本語ですが、「1年前に売ったことがある」という文は可能です。このように{~したことがある}という一見動作の名指しに見えるような文でも、1年前という過去の一点を示している以上、完了体過去形を使わないとロシア語にする場合はおかしいということになります。これはこういう日本語の構文にはロシア語ではこういう構文(体)をという公式的なアプローチが万能ではないということを意味します。そのため体の用法においては文自体をイメージ化することが非常に重要です。

 それと、露文解釈に慣れている人は、体を所与のものとして見る癖がついていますが、和文露訳の場合、日本語主体ですから、話者が日本語でどういう気持ちで動詞を使うのかを理解しないと使うべき体が決まらないという事になります。つまり露文解釈では体の用法は受け身的な解釈でよかったものが、会話での和文露訳では自ら主体となって積極的に体の用法を判断しなければならない立場に置かれるわけで、その頭の切り替えといういうのは簡単なことではありません。露文解釈用の文法書をそのまま表面的に理解しただけでは、ロシア語の会話で使えるのは完了と繰り返しの区別ぐらいだというのはそういう点にあります。ただそういう人は基礎はできているわけですから、第300回の表で、体の用法の本質とそこから派生する、その人にとって理解しにくい用法をいくつか会得すれば、後は語彙や慣用的な言い回しを覚えるだけで、会話は比較的短時間(やり方にもよるでしょうが、1カ月ぐらい)でスムーズなものになると思います。

設問)「うちの部屋にも70センチぐらいまで水が来た」をロシア語にせよ。

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2012年03月21日

●和文解釈入門 第306回

投稿の回答については、できるだけ回答の内容を広く解釈して、コメントするようにしているが、鐘も強く打てば鐘の音も遠くに響くように、質問が具体的であればあるほど、その答えもより的を得たものとなると思う。少しでもロシア語に関して疑問があれば、問い合わせてほしい。私の気力もそれほど長く続くものではないし、このコーナーもあとどのくらい続くか分からないので、質問があればその都度遠慮しないで投稿してほしい。世の中すべて give and take だから、その質問に応えようとすることで、私にとってももっとロシア語が上達する何か発見やヒントが必ずあると思うし、このコーナーを続けようという気持ちの糧になると思うからだ。

設問)「明日我がクラスは100メートル走で6年B組と競争する」をロシア語にせよ。

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2012年03月22日

●和文解釈入門 第307回

私もいくつか会話集を持っているが、たまに取り出して見ると面白い。若いころは決まり文句が多いので丸暗記と決め込んでいたが、体の用法の使い分けという観点で見ると、それなりに説明がつくものがほとんどである。ロシアで出た会話集を1冊ぐらい買うとよい。和露でも英露でも構わない。ロシアで出たものなら、少なくともロシア語は正しいロシア語が使われているはずだ。そういう、このようないわゆる簡単なロシア語の表現を体の用法に照らして見ると、同じは「始まる」でも設問の回答で紹介したのと同様、начинается(予定)だったり、начнётся(新規の事柄、予想外の事柄)だったり、Мне понравилась постановка фильма.(その映画の演出は気に入りました、感心しました)のпонравилосьはよい印象を呼び起こすという動作の意味で、いいか悪いかという結果の評価だったり、Мне здесь нравится.(ここはいいところですね)のнравитсяは趣味に合致するという意味での状態を示すなど興味深い。これらは露露辞典を見れば語義(その他にも動作と状態の区別があるかどうかなど)の違いが分かる。その他にも不完了体現在形が予定の意味でよく使われることが分かる。こういう表現はいずれにせよ覚えなければならないが、体の用法を会得すればそのニュアンスがよく分かる。会話集の著者は気まぐれで体を使っているわけではないのである。

 不完了体の現在形で予定の意味で使える動詞は限られていると書いたが、私が確認した動詞が限られているという事であって、会話集などを丹念に拾えば、まだまだ予定の意味で使える動詞が見つかる可能性が高いと考えている。例えば、
Какое вино вы пьёте? Сухое.(「どんなワインを飲みますか?」「ドライを」)という文では、繰り返しという意味で取るよりも、その場で聞かれたのなら、これから何を飲むかという事だから、予定の意味である。
Кто участвует в концерте?(そのコンサートに出演される方はどなたですか?)は明らかに予定である。これらの動詞が常に予定の意味で使えるとは言わないが、このような文脈では予定の意味に使えるということが最近分かってきた。このように予定で使える動詞群はこれから増えていくと思われる。みなさんも似たような文例にぶつかったら、文例を添えてご一報いただきたい。こちらで納得がいけば、第300回の表に追記する。そうすればこの用法で使える不完了体動詞も増えるので、みなさんの和文解釈の武器が増えるという事になる。ただ自分が使えるのではないかという推測だけでは不十分で、会話集や小説など実際に使われた用例が必要である。

設問)「デパートは何曜日がお休みですか?」をロシア語にせよ。

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●和文解釈入門 第308回

いろいろ都合があって2日ほど投稿に対するチェックができない。一応設問だけは2日分書いておくので、それに対して回答をお願いする。

 体の用法の勉強はそれを究めるというような堅苦しく考えないで、ロシア人との心理ゲームの解法の一つの手段(武器)と考えればよいと思う。体の用法が分かってくれば、ロシア人の無意識の発想もだんだん分かってくるようになる。文脈によっては二つの体が同じく使えるわけだが、そのニュアンスの差というのは用法全部を理解しなくてもわかるものもある。そういう何気ないロシア的発想というのがよく分かってくる。

 簡単な言い回しをロシア語にする方が難しい場合がある。「いただきます」はロシア語では使わないが、意味だけ説明しなければならないときにЯ буду есть.とはなかなか出てこないだろう。「行ってきます」もЯ пошёл.(時制の転用)とロシア人は言うが、これは挨拶と言うよりは、文字通り「これから出発する」とお母さんや会社の人に具体的に伝えているのである。

設問)「日本は必ず復興する」をロシア語にせよ。

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●和文解釈入門 第309回

スケッチというのは概略を描いた絵ということならнабросокで、実物を見て描いたものはзарисовки(複数が普通)となる。音楽入りの寸劇はскетчという。移植は苗のはвысадкаで、臓器移植はтрансплантация органовとか、пересадка кожи (почки, сердца)〔皮膚(腎臓、心臓)移植〕という。痙攣はсудорогаを局所、全身のということでよく使う。конвульсииは複数形で用い、全身の痙攣である。корчиも複数形で用い、病的なものを指し、全身のけいれんを指す。спазм/спазмаは食道、腸、胃、喉などの痙攣を指す。放射と照射は、前者が光や熱を出すことであり、後者は光や熱を当てることである。ロシア語も同様に対応しており、放射はизлучениеで、照射はоблучениеである。облучениеはинфракрасное облучение(赤外線照射)とかультрафиолетовое облучение(紫外線照射)というように医療手段の一つとして使われる用語である。つるはしはкайлоでодностроннее(鉤形で先端が一つ)とдвухстороннее(T字形で先端が二つ)があるが、двухстороннее кайло = киркаである。牛の乳を搾る(搾乳する)はдоить (корову) だが、母乳をしぼるはсцеживать молокоという。くれぐれも間違えないように。波はволнаだが、心電図などのギザギザした鋸状波はзубецといい、P波зубец Рなどという。

設問)「お店は何時から何時まで開いていますか?」をロシア語にせよ。

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2012年03月25日

●和文解釈入門 第310回

前にアオリストに関連して不完了体過去形と時間を示す副詞句とは相性が悪いと書いたが、それではВчера я читал роман.(昨日〔長編〕小説を読んだ)という文はどうなるのであろう?このような時間を示す副詞句が来ても問題がないという理由が二つほどある。一つは読むという行為は日本語でもロシア語でも瞬間の行為ではないという事である。読むためには一定の時間が要る。こういう期間を示す用法は不完了体が得意とするところであり、完了体でその用法があるのはпро-という接頭辞のつく動詞群ぐらいであろう。ただこれらの動詞群はその期間における動作の終了を示している。不完了体の場合は必ずしも動作の終了を意味しないという違いがある。瞬間的に読むということを日本語でもロシア語でも読むとは言わず、目を通すというのが普通である。例えば、Вчера я просморел рукопись.(昨日原稿に目を通した)で、このように過去の一点(正確に言えば動作の一括化の可能性もある)を示すときにはアオリスト(文脈によっては結果の現存)となる。そうでない、期間を示す時は不完了体が来る。もう一つの理由はчитатьには完全な意味で対応する完了体がないということである。прочитатьは読了するという意味でчитатьの意味のある側面を指しているにすぎない。対応の完了体がなければ不完了体をそのまま使うしかないというのは理の当然である。

 питьを予定の意味でも使えると書いたが、あくまでも特定の文脈でのみである。普通はпитьが予定の意味で使えるという意味ではない。Какое вино вы пьёте?(どんなワインをお飲みになりますか?)を会話において予定の意味で使うときには、当然その前に「ワインが飲みたい」というような会話がなされていることが前提である。その証拠にвы пьётеを省略しても、そういう会話が前になされていれば、意味は通じる。つまり刺身のつまのような、その場の雰囲気に合わせた様な不完了体の本質に関わる文脈においてである。そういう場合には使えるという意味なので、その点をよくご理解いただきたい。

 Что вы будете пить?(何をお飲みになりますか?)という文でбытьの未来形が出てくるのは、питьに対応する完了体がないために、完了体未来形を使えないし、上に書いたようにпитьだけでは予定の意味に使えないという他の可能性がないからという窮余の一策からではないかと推測する。同じ意味を示すсобиратьсяやнамеренでは大げさすぎるという感覚が、会話のときにбытьの未来形が出てくるということを許容しているのではないかと思う。быть + 不完了体不定形という形式は、未来における動作の名指しということだが、予定の意味も完了体未来形も使えるものがないときに使うものだというのも一つの考えた方だと思う。またこの答えとして、Я выпью пива.(ビールを飲みます)と完了体未来形が来るのは、ビールというのが予測されていないという意味で、新規の動作だからであり、部分生格が来ているが、瓶をイメージしているというニュアンスがあれば、Я выпью сок.と対格が来るのも興味深い。

設問)「地球温暖化対策を講じないといけない」をロシア語にせよ。

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2012年03月26日

●和文解釈入門 第311回

体の用法の中である一つの用法について、そればかり究めようとするとそれを越えることはできない一線があることに気づく。それを乗り越えるためには何か別のアプローチが必要な所以である。そのためにはただ漫然にではなく、どこが分からないのかという問題意識をもっていろいろな参考書、小説などを読む努力が必要である。

 語学の勉強というのは非常にスピードが遅い下りのエスカレーターに乗っているようなものである。自分でゆっくりとでも上に行かないと、実力は知らず知らずのうちに落ちてしまう。通訳やガイドも20年も30年もやっていれば、同じようなことの繰り返しで、仕事の前にせいぜい単語をおさらいする程度という大先輩もいる。ある程度はごまかしがきくからだ。しかし毎日違う分野のロシア語の本を読むなど自分のロシア語を向上させる努力を続けないと5階だと思っていたら地下1階にいたなんてことも大いにありうるのである。ただデパートには探せば階の表示があるが、語学では知らないのは本人だけというのがままある。

設問)「状況をどうご覧になられますか、また先行きについてのお考えは?」をロシア語にせよ。

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2012年03月27日

●和文解釈入門 第312回

分からない単語があれば辞書を引くのは当然だが、全ての辞書が同程度に訳語が信頼できるかは別問題である。これは決して辞書の訳語に文句をつけているわけではない。ロシア語関係の辞書の中でも一番信用できると思われる露和辞典ですら、その都度文脈により訳語を手直しせざるを得ないことはご理解いただけることと思う。露和辞典の訳というのは一般的な訳、つまり語義から外れずにというのが大原則であり、稀に説明訳があるのもやむを得ないことだと思う。

 技術用語は文学で使われる語彙と違い、基本用語を除き、多義語が少なく、1対1で対応する場合が多いので、その分辞書を頼りにすることができる。技術関係の辞書で一番信用できるのは、露英の図解技術辞典であり、これは図解であるという事と実際の技術者が編纂に関わっている場合が多いからである。その次は露英の一般技術辞典で、いくつかの語義が書かれているものであるが、学者が規範意識を持って作っているためか、実際の技術の現場と異なるというか、勝手に訳語を作ったのではないかと思われるものもある。技術通訳は現場の技術者相手が多いので、実際に技師が使う用語が正統ということになる。英露技術辞典は参考にしかならず、訳語が編纂者の説明訳の場合が多い。和露技術辞典においては、和露・技術用語用例辞典(戸田進、バウムハウス、2005年)を除き、語彙も少ないし、説明訳も多く、まあ買うのは金の無駄だと思う。だから露英だけで調べた方が正答の確率は高い。

設問)「夫婦別姓にする」をロシア語にせよ。

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2012年03月28日

●和文解釈入門 第313回

まじめにロシア語を勉強すれば一から始めても2~3年で(早い人は1年も経たないうちに)、自分の言いたいことはロシア人に伝わるくらいのロシア語が話せるようになるはずである。しかし相手に理解してもらうというのと、公の場で使えるロシア語を話すというのは別の次元の話である。それでどうするかというと、できるだけ多く、かつ多様なロシア語の例文を覚えようということになる。その例文が頭にあれば自信をもって、使えるのだが、自分の頭にないものを公的な場で通訳・翻訳せよと言われても二の足を踏むことにもなりかねない。語彙をただ覚えればそれで済むというわけではないのである。立ちはだかるのは、体の問題である。他にも単数・複数とか、類語の使い分けなどあるが、体の用法に比べれば楽なものだと思う。体の問題は同じ用例で完了体と不完了体の二つの文を覚えている場合、特に完了と繰り返しの差で説明できない場合、どちらなのか、どちらでもいいのか分からない以上、心の中ではとても怖くて使えないはずだが、実際はエイヤッと使ってしまい、その後もこれでよかったのだろうかという思いがつきまとう。そのため機会があればロシア人に見てもらう事になる。

 ロシア語を始めて4~5年してガイド試験も受かったとなると、自信満々のはずだが、それでも話すロシア語に9割方は自信があっても、後の1割に自信がないから、いざとなるとロシア人頼りとなる。お恥ずかしい話だが、私だって、体の用法にある程度の見通しがつき、ロシア人をまったく頼らなくなったのは、この10年、15年くらいだろう。体の用法を会得すれば、後は語彙を覚えるだけだから、機械的な勉強となるから楽である。だから語彙の勉強を続ける前に、できるだけ早く体の用法をマスターした方がよいし、体の用法の勉強をしながら用例を暗記するという実際的な方法もあるのである。回りに親切なロシア人がいる人はそう多くあるまい。

 体の用法は仮に9割分かったとしても、使えないと同じである。プロなら大事な場面で残りの1割に出くわしたらと常に考えるものだからである。このコーナーで実際に投稿されている方は、体の用法は本質さえ押さえれば、後は自然におさまるべきべきところにおさまってゆくという感じを持たれるに違いない。

設問)「日本には(火山の)噴火はよくありますか?」

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●和文解釈入門 第314回

例えば、「報告(講演)するделать/сделать доклад」という動詞を未来時制で使うとすると、機能動詞のделатьであるために、珍しいことだが完了体未来形、不完了体動詞現在形、быть動詞の未来形 + 不完了体不定形の3つが使える。普通は完了体未来形かбыть動詞の未来形 + 不完了体不定形の二つのうちいずれかであり、動詞によってはбыть動詞の未来形 + 不完了体不定形、ないしは完了体未来形のどちらかだけという動詞もある。未来時制の和文露訳の場合、どちらを使うか悩むところだが、単一の動作を意味し、新しい話題の提示ということであれば完了体未来形を用いるのが普通である。ゆえにЯ сделаю доклад о танках.(戦車について報告します)とするのが一般的であろう。不完了体現在形を用いるのは予定に組み込まれているときで、Я делаю доклад на пленарной сессии.(本会議で報告します)となる。はっきり動作の延長上にあると確信できるなら、使える動詞は限られているとはいえ、予定という意味で不完了体現在形を使う事になる。

 問題なのはбыть動詞の未来形と不完了体不定形の組み合わせである。この場合は動詞自体に意味上の力点が来ない、動作の本質とはあまり関係のない、刺身の付け合わせのような文、例えばЯ буду делать доклад на русском языке.(報告はロシア語でします)というような場合に用いられる。そうでない場合は時間の長さを意識するような動作である。完了体未来形が動作を「すぐ~する」というイメージがあるのに反し、бытьの未来形 + 不完了体はこれまでの動作や行為の延長上にあると思われるような動作、また時間的には一拍おいた感じか、期限が明示されないような場合に使われると考えればよい。

 しかしучаствовать(参加する)のように対応する完了体のない動詞もある。文脈によっては現在形でЭта команда впервые участвует в Олимпийских играх.(このチームは初めてオリンピックに参加します)と予定の意味でも使えるが、未来時制の場合はВы будете участвовать в этом заседании?(この会議に参加しますか?)とбыть動詞の未来形との組み合わせが多い。このように完了体がない動詞(питьなどの接頭辞のない単純動詞)では、対応する完了体がない以上、быть動詞の未来形と組み合わせて、「~するつもりである」という意図の意味で使わざるを得ない。участвоватьでどうしても新規という事を強調したいという場合はどうするかというと、同義語を用いるしかない。Приму участие в семинарах.(セミナーに参加します)となる。完了体と不完了体が同程度に使われる動詞というのは少ない。どちらかがメインで使われる場合が多いし、上に挙げたように不完了体しかないもの、完了体しかない動詞もある。そう考えれば動詞によって未来時制で使われる用法というのもある程度決まってくるという事になる。

 「報告する」という動詞もそうだが、完了体未来形というのは一瞬後の未来でも、明日でも、1年後でも動作を終了するという意味では使える。ここで問題なのは動作遂行型の動詞との違いをどうつけかである。第300回の表にも書いたが、動作遂行型の動詞は発話の瞬間から動作の終了を目指す動詞群であり、完了体未来形が一瞬後に動作が開始される場合実質的に区別がつきにくい。例えば、同じ「報告する」でも上司に対して報告するという意味のдокладыватьを使うЯ по радио докладываю, что всё в порядке, скоро выходим на цель.(すべて順調であり、もうすぐ目標に到達すると無線で報告申し上げます)という文は、発話の一瞬後ではなく、発話の瞬間から報告という動作は内容を伝え終わるわけで、これが動作遂行型の動詞の特徴であり、日本語にも対応する。意識の中で動作の開始が一瞬後か発話と同時かを意識することが重要であり、動作の内容はо + 前置格、ないしはчто以下で示されることが多い。動作遂行型動詞は不完了体現在形で用いられる。これにдоложуと完了体未来形を使えば、一瞬後か、1時間後かは別にして、とにかく発話の時点ではなく、後に報告するということになる。

設問)「東日本大震災の被害額はどのくらいですか?」をロシア語にせよ。

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2012年03月30日

●和文解釈入門 第315回

最近ロシアのメーカーの代表団の技術通訳をしたが、そこは社員全員禁煙で、しかも始業前にアルコール検査を実施しているという。15年ぐらい前からロシアやカザフの工場では月曜の朝就業前に従業員のアルコール検査をし始めたというのは聞いていたが、これほど徹底しているのは珍しい。酒を飲めるのは金曜の帰宅後から日曜の昼ごろまでで、日曜の夜飲めば感知器の精度によっては感知される可能性があるので怖くて飲めないという話を工場の従業員から聞いたことがある。感知されたら、機械が壊れていない限りクビとのこと。ソ連時代に100以上の工場で工場見学をしたが、工場の中に吸い殻が落ちているのはよくあることだった。工場というのは潤滑油としてオイルが使われるわけで、機械のそばでタバコを吸いながら仕事をしている人もいたのには驚いた記憶がある。ソ連というところは規則には非常に厳しいことが書かれており、罰則も厳しいが、ほとんど守られず、給料も安く、要は見つからなければそれでよいという風だった。資本主義になってトップマネジメントの意識も変わったということなのだろう。ちなみに警察が酔っ払い運転のチェックに使う表現はДуйте в трубочку контроля трезвости.(アルコール検知器にハーッと息を吹きかけてください)という。

設問)「雪はいつごろ解けますか?」をロシア語にせよ。

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2012年03月31日

●和文解釈入門 第316回

自分が会話集を書いているくせになんだが、会話集の悪いところは、その性格上感情的な表現を省かざるを得ないことである。トゥマールキンさんの会話集Речевой этикет и обороты диалогической речи , П. С. Тумаркин Восток – Запад, 2008の様な例外もあるが、基本的に観光、医療などの専門分野であれば、感情表現は設定上難しい。そのため過去時制はともかく、完了体未来形の用法がよく分からないということにもなるし、平叙文なら不完了体現在形を、命令形と言えば完了体となりがちである。露文解釈でロシア文学をたくさん読んでいたとしても、それは和文解釈にとっては受け身の勉強でしかない。自ら意識的に体の用法を選択するという癖をつけるのは、自分がそのような状況に追い込まれでもしない限りなかなか難しいものである。

設問)「アポイント(面談)は明日になった」をロシア語にせよ。

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2012年04月01日

●和文解釈入門 第317回

今後設問だけ先行して、投稿された回答への答えや解説が2~3日遅れることもあるかもしれないが、必ず回答するのでご心配なく。

 遠からず高性能のロシア語自動翻訳機もできるだろう。そうなると通訳や翻訳者というのも絶滅危惧種になるのだろうか?それとも曲芸師のように芸を売るようになるのだろうか?私の予想では、ロシア語が生き残るためには、茶道や空手のように、お稽古事で生き残るしかないと思う。ロシア語、特に体の用法をマスターすれば、しわが消えるととか、色が白くなるということになれば、これに勝ることはないのだが。色は北国だから白いだろうが、実はロシア語のエッセンス(特にからだではなくて体の)が影響を与えているのだとか研究してくれる人はいないものか?ただ寿命について言えば、ロシア人の事を考えると、まったく望み薄ではある。ロシア語が悪いわけではなく、酒と気候が悪いのであり、そういう中でもロシア人が生き延びているということと、ロシア語が偉大なロシア文学を生みだしたということを評価してくれるといいのだが。

設問)「靴を脱いだ後、靴の跡が(あなたの体に)残りますか?」をロシア語にせよ。

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2012年04月02日

●和文解釈入門 第318回

これまでのロシア語の参考書では、体の用法を、完了体を中心に説明していた。つまり完了体は具体的で新規な事柄、それ以外は不完了体であるという説明だったわけである。それを私は発想の転換をして、不完了体は自然体で用いられるものであり、それ以外は完了体が用いられるとしたわけである。それとロシア語のレターでよく使われる動作遂行の動詞などの現在時制について既存の文法書では説明されていないが、これは露文解釈という観点だけで文法の説明をしていたからであろう。実際に和文露訳をすれば、例えば「知らせる」という動詞はよく使うわけで、この種の不完了体現在形を用いる動詞と完了体未来形を使う動詞との使い分けについての説明が従来全く成されていなかったので、これらについて和文露訳という観点から解説を加えたものである。

 また現在時制から派生したと考えられる不完了体動詞現在形についても、和文露訳という観点からどう使うべきかについて、予定の用法に力点を置いて、どう和文露訳を組み立ててはどうかという提言をしてみた次第である。

設問)「後でみなさんを呼びにやります」をロシア語にせよ。

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●和文解釈入門 第319回

投稿者から回答をもらえるのはとてもうれしいが、中でも想定外の回答を貰えた時が一番である。正しい答えなら、そのまま覚えればいいし、間違った答えでも、理論的に、ないしは文献的に間違いであることを当方としては証明しなければならないから、それはそれで当方にとって勉強になる。

 「追いつく」を意味する動詞にはには4つあり、まったくの同義語として使われる場合もあり、また類義語として、意味上の違いを出す場合もある。そのときにはдогонятьは頑張って(早く歩くなどして)追いつくというニュアンスがあり、нагонятьは先にいる人が歩みを緩めたりして、特に努力もしないのに追いつき追い越すという感じとなり、настичьやнастигнутьは前に行くものを追跡、追及しているというニュアンスが出てくることがある。

設問)「僕には初耳だ」をロシア語にせよ。

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2012年04月04日

●和文解釈入門 第320回

単語や言い回しを覚えれば、すぐにそれを応用して使えるものだとロシア語を始めてすぐのころは誰でも思うが、だんだん勉強が進むとそうはいかないものだというのが分かってくる。そうなるとロシア語の本で読んだり、辞書で見たり、ロシア人が話した表現でないと使えなくなる。それを克服すれば応用への道筋もつき、学習においても一皮むけるような気がするのだが、なかなかそうはいかない。そうこうするうちにかなりの語彙も覚えてしまい、応用ということすら、よほど切羽詰まった時でないと出てこないし、使おうと気も起きなくなってしまう。

設問)「この席にはどなたかいらっしゃいますか?」をロシア語にせよ。

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2012年04月05日

●和文解釈入門 第321回

露文解釈だけをやっていると、露文の中で正しい体が出てきているわけだから、そこの書いてある体の使い分けを勉強するという事はあっても、自主的に使い方を学ぶ練習にはならない。そこで「予約する」の類語を第79回で紹介したが、それを使って、完了体と不完了体の使い分けについて復習してみよう。ホテルのフロントと客とのやり取りである。
「(部屋の)予約をした佐藤です」
「いつご予約なさいましたか?」
 最初の文は結果の現存であり、かつ予約するという動詞をこのシチュエーションでは初めて使うわけだから完了体の過去形を使い、Сато, я забронировал номер.となる。無論、動詞を使わずにУ меня броня.という言い方もできる。これに対してフロントは予約はいつですかと聞いているのだが、予約という事は分かっており、極端に言えば「いつ?」だけでもいいのだが、客商売の手前礼儀を考えるとそうはいかない。それでКогда вы бронировали?と不完了体過去形のの刺身のつまのような用法を使う事になる。

 似たような文例で、
「佐藤ですが」
「ご予約でしょうか?」
この「ご予約でしょうか?」は頭の中で、「ご予約にいらっしゃったのですか?」か「ご予約なさいましたか?」と変換し、どちらか選択する必要がある。前者なら、予約するという新規の行為だから、Вы желаете забронировать номер?と完了体不定形を使い、後者であれば、予約の有無を聞いているわけだから、不完了体過去形を使ってВы бронировали?となる。普通は後者であろう。

設問)「社長が自ら出迎えに来られなかったことをお詫び申しております」をロシア語にせよ。

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2012年04月06日

●和文解釈入門 第322回

次のような質問を投稿者より受けたが、非常に良い質問なので、ここに掲載することにした。

問)確か不完了体現在を使うときというのは、確実にこれから行われるであろう動作のときですよね?たとえば、思いつく例として、вы выходите?(地下鉄などで、降りますか?というとき。確実にこれから行われるであろう動作。)、вы уезжаете из этой комнаты?(部屋から出ていくときにそこに居る人から、出る準備をしている人に向かって聞くとき)などがあるんですが、つい最近、確実に近い未来に、ある人が自分のところに来ると分かっているという条件つきで(例えばその日に会う約束をしていた友人との会話などで)、「何分後に来る?」という場合、確実に分かっている近い未来ということだから、Через сколько времени ты приходишь? と言えるのか?とある人に質問したところ、придёшь?にしないと
この文はおかしい、と言われました。

 これは、もしかして、уехать выехатьなどは今現在地点からの出発をあらわしている?動詞だから現在の延長をあらわしやすく、приехатьは遠くから自分の地点への動き、ということで現在自分の地点からの直接の延長にならないということでしょうか?確実に知っている例が少ないのであまり分からないのですが。運動の動詞でも未来を表す不完了体現在の使用ができる動詞とできない動詞というのがあるんでしょうか?以前の和文解釈で説明されておられたのかもしれませんが、たくさんありすぎて全部読むことができず・・・もしこの点、または近い事項に関して説明されていた回があれば第何回にあったか教えて頂ければ嬉しいです^^
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答)不完了体現在形の予定の用法は、おっしゃるような「確実にこれから行われるであろう動作」なのですが、そういう理解だと完了体未来形との区別ができなくなります。予定の用法というのは自分がそう思いこむというよりは、スケジュールなどでそうなっていると考えたほうが分かりやすいと思います。極端に言えば自分の意志を念頭に置かない動作とも言えます。不完了体はKY(この場合は「空気読めてない」という意味ではなく、「空気を読む」という意味)動作だと書きましたが、主体は主語ではなく、周りの状況です。完了体の場合はそうではありません。新規の動作を完了体が示すというのもKYとは無関係だからです。

 確実であるこれから起こる動作は、主語が確実だと思っていて、それが周りの状況とは無関係なら、完了体未来形を使います。そういう意味で、この場合はその「ある人」のпридёшьが正解です。

 この場合もう一つ厄介な動詞が絡んでいます。それはпри-という接頭辞のついた運動の動詞(運動の動詞であって、すべてのпри-という接頭辞のつく動詞ではありません)であるприходитьです。при-という接頭辞のつく運動の動詞は過程を示すことができません。語義が到着であるため、動作の一般化か繰り返しの意味にしかならないのです。不完了体現在形の予定の意味は、過程に意味から発展したと私は考えています。これはロシア語と同じ語族の英語でも、He is leaving tomorrow.と予定の意味で使えることから推測できます。ですからприходитьを予定の意味で使うのは、心理的に抵抗があると推測されるわけです。ところが、Verbs of motionという参考書の中で、Muravyova先生は何箇所か、特に184ページにはприходит, уходит, выходит = собирается прийти, уйти, выйтиと書かれています。そうなるとприходитьも予定の意味で使えることになります。ただガイドをして新幹線などでロシア人観光客からКогда мы прибываетм в Киото?(いつ京都に到着しますか?)と聞かれることはあっても、これにприезжаемは聞いたことがありません。прибыватьは運動の動詞ではなく、やや硬い表現(上品と言い換えてもいいですが)ですが、不完了体で予定を示します。

 「何分後に来る?」というのは、明らかに周りの状況とかスケジュール(出張に行く、汽車が来るなどはそうです)とは無関係であり、来る人が自発的に到着の時間を決めているわけですから、その「ある人」のおっしゃる通り、完了体未来形でないとおかしいことになります。

 全ての不完了体動詞が予定の意味で使えるわけではないということはすでに書きましたが、бытьの未来形 + 不完了体不定形の場合も、KY的なニュアンスが出てきます。Что вы будете пить?(何をお飲みになりますか)だって、レストランや招かれた家などでそういう表現が当然出てくるだろうというときに使う場合に使われます。この答えで、ビールを飲みます)はЯ выпью пива.(пиваと部分生格が来ていることに注意。сок やкока-колуは瓶をイメージするせいか対格が来る。чаю, чайку, кофейкуと部分生格専用の生格がある名詞もある)と完了体未来形が出てくるのはビールという新しい情報が入ってくるからです。ただ対応する完了体がなければ、KY的でない場合でも不完了体を使わざるを得ないということになります。

 完了体未来形が使われるのは、予定というものを初めから考慮しない場合で、これはわざと予定を無視するということではありません。予定というものがそもそも念頭にないのです。これらの用法については第300回のa), b), e)を参照下さい。

設問)「読書力をつけるには精読と多読のどちらが大切だと思いますか?」をロシア語にせよ。

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2012年04月07日

●和文解釈入門 第323回

よい和露辞典というのは、文法をある程度やった段階で、その和露辞典に載っている語彙でロシア語の作文が作れ、そのできた作文がロシア人に違和感なく受け入れられるものであろう。無論技術関係とか俗語とかという特殊な用語を除いての話である。現今の和露辞典ではどうであろう?

 会話集や時事ロシア語の露文和訳でも文法的説明(特に体の用法)がほとんどないために、他の文脈で応用しようにも使い方がよく分からないことが多い。結局丸暗記して、そのような文脈でしか使えないという非効率なことになる。その点を編者や著者も考えてほしいものだと思う。

設問)「与党も野党も国家院の開会する1日前にその法案について合意しなければならない」をロシア語にせよ。

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2012年04月08日

●和文解釈入門 第324回

нестиの熟語ではなく単独の使い方がよく分からない。この動詞で思いつくのは、(彼は猫を手に持って運んでいる)Он несёт кошку.や「彼は聖火を持って走っている」Он несёт факел.いう過程の文か、「だれが国旗を持って行進するのですか?」Кто будет нести ваш национальный флаг?ぐらいである。それ以外で、「スーツケースを持って来てください」というなら、Принесите чемодан.のように接頭辞のついたものを使う。ところがпри-という接頭辞のついた不完了体は過程を示すことができず、繰り返ししか表せない。だから(花瓶を持って来てください。気をつけて持って来てくださいね)というときに(これは不完了体のさしみにつまのような用法である)、Принесите вазу. Приносите осторожно.とはいえない。Принесите вазу. Несите осторожно.と言う必要がある。同じことはпривезти, привестиとвезти, вестиについても言える。しかし、これも含めて日常生活であまり使うとも思えない。ほかに何かあるのだろうか?

設問)「千人に一人が読み書きできる」をロシア語にせよ。

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●和文解釈入門 第325回

可能性を示す時にмочьやуметьをまず使う事を考える。前者は能力的な可能性やTPOに関係した可能性(蓋然性)にも使えるが、後者は能力的なものである。それではВы говорите по-русски?のように動詞自体が可能性を内在しているものについて第260回で紹介したが、それではмочьやуметьを全く排除していいのだろうか?そうではない。可能性を内在する動詞というのは多義語であるために、文脈によっては可能性であることを明確に示すためにмочьやуметьを使った方が可能性であることが分かりやすいからだ。

 мочьを使わなくても可能性を示す動詞群というのが他にもある。例えばспатьсяを露露で引くとо наличии желания или возможности спать(寝たいという気持ち、寝る可能性があることについて)とあるから、「眠れる」と可能性で訳してよいことになる。同じ傾向を持つ動詞群のвериться(思考能力に関係する), вспомниться/вспоминаться(思考能力に関係する), думаться(思考能力に関係する), житься(生きる条件の有無、つまり生きる可能性), забыться/забываться (терять ясность), писаться(о возможности и желании писать否定形で使う事が多い), работаться (о возможности и желании работать) , сидеться(о наличии и возможности сидеть、否定形で使うことが多い), терпеться(о наличии терпения否定形でよく使う)も思考や、可能性の有無に関係しているから可能性の語義が出てくるのだという事が分かる。

設問)「このテレビ買ってもう半年だけど、まだ一度も壊れない」をロシア語にせよ。

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●和文解釈入門 第326回

 ピンの安全ピンはбулавка безопасная、ヘヤーピン、植え込みボルトはшпилькаで、支持ピンはштырьで、ピストンピン(ガジョンピン)はпоршневой палецで、ノックピンという位置決め用のピンはустановочный палец (штифт)という。

 тёмная лошадкаを生半可なイメージでダークホースと訳すと誤訳になる。これは得体の知れない人物という意味である。

 「心の奥では」と言いたければв глубине душивやв тайниках душиという表現を文学で見かけるが、医者に対して訴える胸の奥の痛み(圧迫感)はболи (давление) за грудинойといい、即物的に胸骨の奥にある痛み(圧迫感、押される感じ)と表現する。ちなみに胸の痛みはболь в грудиで、腹痛はболь в животеある。盲腸は口語では虫垂炎だし、盲腸炎тифлит, влспаление слепой кишкиを虫垂炎と誤称する場合もあるからややこしいが、これをслепая кишкаと露訳すれば大腸の中の器官としての盲腸ということになる。虫垂炎はаппендицит, воспаление аппендиксаだから気をつけないといけない。なお虫垂(旧称は虫様突起)はаппендиксという。

 スコアは総譜ならпартитураで、パート譜ならпартияである。スポーツのサッカーなどのスコアはсчётで、при счёте пять на шесть = при счёте 5 : 6(5対6のスコアで)となり、体操などのスコアはоценкаとなる。例えば、Какова ваша оценка за артистичность программы (композицию, общее впечатление, технику выполнения прыжка, техническое мастерство)? (芸術性(構成、全体的な印象、ジャンプのテクニック、技術点)に対しての得点はどのくらいですか?)などと使う。

設問)「水の流量を1時間当たり100~150 m3(の範囲)に抑えてください」をロシア語にせよ。

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●和文解釈入門 第327回

インターネットのニュースを見ても1行にまとめられている。分かりやすいのは結構だが、これでは事件の本質が分からないだろう。何でも簡単に白黒がつけられるというものではないからだ。ただニュースを分かりやすくするという解説もテレビでは商売として成り立っているようで、これはこれで有難い。文学書もかいつまんで中身を紹介する本もあるから、ロシア語の参考書も如何にかいつまんで内容を分かりやすく、1行ですぐ分かるよう教えることに主眼が置かれることになるだろう。体の用法のようにそういかないものはどうするのだろう?そこが先生の腕の見せ所か?

設問)「最近物価がとても高くなって、さらに値上がりが続いている」をロシア語にせよ。

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2012年04月12日

●和文解釈入門 第328回

ロシア語離れは深刻で、第二外国語としてのロシア語も人気がないという。文法というと拒絶反応を起こす人も多い。これはやむをえないとはいえ、外国語の初級ではどうしても機械的暗記(名詞の格変化や動詞の活用)をせざるを得ないからである。機械的暗記というものは、いい大人が(20歳前後から大人と判断してよいだろう)するものではないからだ。巷では若者の間にコンピューターゲームも単純なものは飽きられつつあり、逆に将棋に人気が集まっているという。結局奥の深いもののほうが飽きが来ないということなのだろう。将棋もルールを覚えなければならないし、上手になろうと思えば、いろいろな手を覚える必要がある。それはロシア語の文法でも同じことである。ロシア人との会話のニュアンスやロシア・ソ連文学を深く味わおうとすれば、体の用法の理解が不可欠である。これを無視して、ロシア人も日本人も同じ人間だから、発想も時制もなにもかもまったく同じだと一人合点して、日本語の理解だけで、露和辞典を頼りに、語義さえ分かれば、ニュアンスというのは感覚だから同じはずだとするのは暴論であり、ロシア語を理解できていないことになる。かなりロシア語の会話が出来る人でも、こういう意識があるのは、つきつめてロシア語のニュアンスを考えたり、その違いを指摘されたことがないからだろう。ロシア語の文法もゲーム感覚で覚えれば、その見返りとして、ロシア語の美しさ、ニュアンスの多様さなど得るものも多く、ロシア人そのものに対する理解も深まると確信している。

設問)「頭を身体より低くしてください」をロシア語にせよ。

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2012年04月13日

●和文解釈入門 第329回

露文解釈は初級文法を終えた後、露和辞典があれば何とかできないこともないが、和文露訳は和露辞典だけでは正しい露文は絶対に作れない。40年ロシア語をやっても、概ね正しいロシア語を話せるというだけで、通訳するときに常に正しいロシア語が口をついて出てくるというわけではない。もっともあと2~3秒あれば、どこがおかしいか分かるし、訂正できる自信はある。

 タイヤはавтопокрышки (автомобильные покрышки)やшинаといい、шинаはкамерная チューブタイヤ(自転車などの)とбескамерная チューブレスタイヤ(車などの)があり、チューブкамераの有無である。покрышка はこのチューブを除いた部分のみをさす。ホイールはколесоでトレッドはпротекторという。タイヤは口語ではрезина, баллонとも言う。Шина не боится проколов.(そのタイヤはパンクしない)。

 前兆はпредзнаменование, предвестиеというが、癲癇や頭痛のなどの発作の前兆はпредчувствие эпилептического припадкаとかаураという。ゴールは決勝点ならфиниш、サッカーやホッケーのゴールはголという。

設問)「設備の総額の80%を即金で、残り20%を商品受け取り直後にお支払いいただく必要があります」をロシア語にせよ。

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2012年04月14日

●和文解釈入門 第330回

ロシアソ連文学を和文露訳用に活用できないかというのがこの20年ほどの私のテーマである。700冊ほど精読して思うのだが、名作といわれるものほど著者独自の文体があり、哲学的な会話をするとすれば、それにはいいかもしれないが、日常会話で決まりきった表現を探そうとすると、いやにもってまわった言い方しか見つからないか、使うにしても文脈がかなり限られてしまうことが多い。かといって現代小説で会話の多い小説で、例えばアクーニンの探偵ファンドーリンの孫が活躍する小説Внеклассное чтениеでは、その孫の妻はちゃきちゃきのモスクワ娘で、その言葉は俗語や隠語が多く、露文解釈には必要な語彙かもしれないが、日本人(外国人)がロシア人に対しては会話では使えないものばかりで参考にはならない。

 最近読んだものお勧めは、シーモノフの「生者と死者」(全3巻)Живые и мертвые (Симонов)で1970年代初めの出版で、第二次世界大戦の戦いをテーマにしたものであるが、男女関係、上司と部下の関係、極限状態における人間関係など興味深い。スターリンに対しても控えめな批判がある小説であり、その長所は会話が多く、現代でも会話に使える口語表現が多いことである。このような会話の多い小説を精読して、自分で語彙を収集して、動詞句、前置詞句を入れて和訳をつけ、文で覚えるようにすれば後で必ず役に立つと思う。

設問)「出発期限がぎりぎりに迫った」をロシア語にせよ。

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2012年04月15日

●和文解釈入門 第331回

自分なりに文法でいう状態と過程の違いというものを考えてみた。状態というのは、Он сидит.(彼は座っている)のように回りの景色が変わらないもので、過程はОн идёт.(彼は歩いている)のように景色が変わるものである。もっというと状態は静的な動きстатистикаであり、過程は動的な動きдинамикаであり、過程は上下の動きに例えた方が分かりやすいかもしれない。

設問)「止血帯を2時間おきに緩めなさい。さもないと壊疽になる」をロシア語にせよ。

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2012年04月16日

●和文解釈入門 第332回

на заводеについて第25回でなぜнаが来るかについて書いたが、ヴィノグラードフ先生の「ロシア語」を読み返していたら、на лекции, на концертеと同様、場所と動作を示す名詞だからнаが来ているのだという説明を見つけた。同様にучиться на медицинском факультете(医学部で学ぶ)などを挙げている。ただすぐそばにカッコしてработать в мастерской(作業場で働く), учиться в университете(大学で学ぶ)などの用例を出して、例外もあることを指摘しているのはさすがである。

 症状や病状はболезненные симптомы, паталогии (патологические признаки), явление などというが、患者が訴える症状や病状はжалоба (жалобы)である。結果はрезультатだが、口語で血液や尿の検査結果はанализыといい、лаборатоные анализы нормальные (без изменений, плохие, стали лучше)(ラボの検査結果は正常です〔変化なし、悪い、よくなった〕)という。検査結果という意味ではданныеも使える。Каковы данные биопсии?(生検の結果〔データ〕はどうですか?)。
姿勢は身体を維持するという意味ならосанкаで、体の位置というならположениеである。姿勢がよくないはОсанка нарушена.であり、В каком положении вы чувствуете боль сильнее?(どの姿勢の時に痛みを強く感じますか?)となる。尻はягодицыで、赤ん坊のお尻はпопкаで、動物のはкрестец(人なら仙骨)、馬のならкрупである。ちなみに尻のしわはскладки на бедреという。日本語の尻よりロシア語のягодицаは意味が狭い(尻の半球形の部分とか座るときに当たる人体の部分)ようである。бёдраと複数にすると腰より下の人体となり、ヒップを意味する。

設問)「輸血システムにエアーが入っていないかチェックしてください」をロシア語にせよ。

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●和文解釈入門 第333回

この世で苦難しても信仰を捨てなければ天国に行けるという考え方は、一種のバランス感覚である。物事はマイナスのままという事はなく、できることなら後楽がよいと考えるのは人間の常だろう。しかしこういう殉教の考え方は、布教という意味でやむなく、殉教するのであれば別だが、殉教を奨励するように見えるし、このような16世紀や17世紀のキリスト教伝道師のやり方はキリスト教本来の宗旨とは異なるように思われる。また徳川幕府の指示により改宗を強いた側もサド的な要素があったことは疑いを入れない。

設問)「起床は朝4時半だった」をロシア語にせよ。

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●和文解釈入門 第334回

通訳をしていて、文脈がどうでも取れる場合、時間があれば聞き返すが、なければ通訳がこうだと思う確率の高い方を訳す。しかし、どちらの場合でも通訳できなければならないことは言うまでもない。通訳してみれば分かるが、明晰に話す人は特に日本人では少ない。交渉慣れした人や自身英語を話す人は、分かりやすく区切っては話してくれるので助かる。このコーナーの設問でも意味がいくつかの意味でとれる場合があるが、そのいくつかの場合でも全て訳せないといけない。しかも訳す時にこのニュアンスではこう訳したと意識的に回答を書く必要がある。

設問)「今のは誰からの電話だったの?」をロシア語にせよ。

Posted by SATOH at 06:45 | Comments [6]

●和文解釈入門 第335回

ロシア語で日本人が理解しにくいのが体の用法と単数複数の使い分けである。この使い分けをロシア人に聞いても、その文が正しいかどうか、正しくなければ直してはくれるだろうが、使い分け自体については、仮に日本語が流ちょうであっても外国人の我々に説明しようがないだろう。体系的に学んでいないし、そのような体系があるかどうかすら知らないだろう。せいぜいのところ、単数を使うべきか複数を使うべきか分からなければ、複数を使いなさいと言ったところである。

 できるだけ早くロシア語を話せるようになればロシア語を続けようというモチベーションも高まる。このコーナーはそのためのお手伝いが出来ればと思っている。1年ぐらい一生懸命頑張ればその糸口はつかめるはずであるし、1年とか2年である程度の成果を出さないと、この忙しい世の中ではロシア語の勉強に集中できないし、またある程度うまくなっているという実感がつかめないとやる気が続かない。具体的な目標としては露露辞典を早く引けるようになる必要がある。そうすれば、自学自習でさらに実力がアップする道が開けることになる。

設問)「彼女が来るのは早くてその10分前だ」をロシア語にせよ。

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●和文解釈入門 第336回

投稿者の回答を見て、間違いというのはだいたいすぐピンと来るが、まさか「私の感じではこういうふうには言わない」とか、「間違いだと思う」と書くわけにもいくまい。そこで投稿に対する理詰めな説明を探すために辞書や文法書を見直すことになる。それが私にとってとてもいい勉強になる。

設問)「彼から窓の敷居(窓台)の上に1/3だけ飲んだブランデーの瓶が見えた」をロシア語にせよ。

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2012年04月21日

●和文解釈入門 第337回

最近面白い事に気がついた。婚約者(女性)や花嫁はневестаで、嫁はневесткаである。自分がそういう立場に立つことは絶対にないからか、こういう類の単語はわりにいい加減に覚えているものだなと思った次第。

 「彼女は警察に届け出た」はОна заявляет в милицию.となり、ソ連時代であれば市民に義務付けられた隣近所の挙動に対する密告という感じだが、盗難届、失踪届などにも使えるし、隣近所の騒音の苦情に対しても使える。具体的に言う場合にはОн заявил об ограблении.(強盗の被害届を出した)とか、Он сделал заявление на вас.(あなたに対して苦情届を出した)などと使う。
родитьは産むという動詞で、女性が主語のはずだが、ロシア語ではОн родил от неё сына и дочь.という文もある。岩波には訳が「彼は彼女との間に一男一女をもうけた」とあり、なかなかうまい訳だと思う。

 タイトルは第47回でназвание, заглавие, заголовокの使い分けにを説明したが、титрыは字幕、サブタイトルという意味である。枠はрамаだが、参加枠はквота (участников)である。分泌物はвыделениеだが、眼ヤニはотделяемое в уголках глазという。「射撃する」はстрелять из винтовки(ライフルを撃つ)とизが来るが「ライフルを試射する」はпристеливать винтовкуである。

 「訪問する」はпосетить/посещать + 対格(場所)だが、同じ意味をпобывать + в/на + 前置格でも示せる。Я хочу посетить кинстудию. = Я хочу побывать на киностудии.となる。нанести/наносить (сделать/делать, совершить/совершать) визит + 与格というのは非常に硬い表現で、外交関係など公式的報道でよく用いられる。

設問)「この場合手術などとんでもない」をロシア語にせよ。

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2012年04月22日

●和文解釈入門 第338回

医療ロシア語学習がちょっとブームのようである。来るべき医療ツアーを見据えてのことだろう。医療ロシア語を使った経験も医療機器をロシアやソ連に売った経験も数えるほどしかないからあまりでかい顔はできないが、私見を述べる。ロシア人観光客や技術者のアテンド(一緒について回ること)をすると、稀だが、お客さんの具合の悪くなって、病院で検査や治療をすることになり、その通訳をする羽目になることはある。司法通訳をしていて、要は容疑者であるロシア人と刑事の取り調べの通訳をしていて、被疑者が強い頭痛を訴えて、結局CTをかけたことがあり、その通訳もした。結局詐病(下世話に言えば仮病)という事になったと記憶している。

 医療ツアーでもこのように、主力は人間ドッグであろう。そうなると血液・尿などの検査の通訳が出来ればよいことになる。医療用語といっても特殊な用語ではなく、日常我々が、健康診断で使う語彙を完璧に覚えることが必要であり、その語彙自体は大したものとは思えない。難しいのは体の用法である。その使い分けが正確でないと、命にかかわるとまでは言わないが、通訳への信頼度に関わってくるのは明らかだ。日本語の通訳でもテニヲハのおかしい人や敬語の使い方のよく分からない外国人に、医者の通訳をしてもらうのは非常に不安であるのと同じである。それと前にも書いたが物質名詞で、複数形を使う場合があるので、そういう点を説明できる講師がいればよいことになる。最新の脳外科の治療について知ることは悪いことではないと思うが、医療通訳なら、もっと先に完璧に覚えておかねばならないことはいくらでもあると思う。ロシア人を講師にすると、難しい症例や用語に特化するような気がして、人間ドッグや健康診断で使うロシア語がないがしろにされるのではないかという懸念もある。医療用語自体は特に難しいとされる症例や病名は英語が分かれば、ネットを通じても、英露や露英の医学辞典で調べはつく。難しいのは基本的な医学用語のほうである。例えば、第239回本文で挙げた出血に相当するロシア語のの類語の使い分けとか、薬の服用で使う「食間 (ロシア語ではмежду едамиという表現は聞かないので、個人的にはнатощакとせざるを得ないと思う)」はどう訳せばいいのかとか、рак легких с метастазами в желудок и кишечник (胃腸と腸に転移した肺ガン)というような語結合や、「転移はありますか?」Есть метастазы?と複数を使うという方を教えてもらう方が実戦的によほど役に立つ。体の用法も単数・複数の使い分けも一般のロシア人(この点ではロシア語学者を除けば、ロシア人の医療専門家だってロシア語学には素人であろう)には、正しいものはどれだとは言えるが、どういう場合にそうなるのかは説明できまい。こういう点を医療通訳志望の人は考えておく必要がある。

設問)「乗客のパスポートをご覧になりますか?」をロシア語にせよ。

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2012年04月23日

●和文解釈入門 第339回

ロシア語は日本語同様、英語と違って定冠詞や不定冠詞といった冠詞がない。そこで有無の確認のときのように英語では不定冠詞が関わるような場合には、ロシア語の場合可算名詞では複数形を使って漠然とした可能性を示すし、物質名詞でもそういう場合には複数が出て来るものがあることはすでに述べた。ロシア語においては単数は、単数であって、英語で定冠詞が用いられるような、物事を具体的に示すときにも使われる。完全に冠詞の機能を単数・複数の使い分けしているとは思わないが、部分的にそのような機能を果たしているという事は言える。

 体の用法も不完了体が不定的な要素を扱い、完了体が具体的な事象を扱うという事から考えれば、体も数も、双方補完し、複合して、同じような不定性と具象性という問題を処理しているように思える。この点を我々日本人が理解しにくいところなので、体と数を切り離して理解するのではなく、具象性の有無、ないしは不定性の有無という観点から考えるべきである。文法というのは個々に独立しているのではなく、有機的に結びついているのだからである。

 日本語はさらに進んで、複数という概念は必要な時しか出て来ないという省エネの最先端を行っている言語である。これは人々が日本のように同質の社会でないと、つまり他民族と異種の思考が混在すればするほど実現不可能である。世界はiPodなどを見ても分かるように均質化に向かっているわけで、そういう時代にこそ日本語という主語も省略し、単数・複数を原則的に区別しない言語が標準として求められるのではないかと考える。漢字も視覚文字であり、一瞬にして意味を察知できるという長所を我々自身がよく理解すべきだ。漢字の数が多いといってもほとんどが組み合わせ文字であり、また基礎になる文字は象形文字であって、理解が難しいとは思えないし、第一、世界の1/5を占める中国人が用いているという事実もある。

設問)「台風が日本に上陸すると思いますか?」をロシア語にせよ。

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2012年04月24日

●和文解釈入門 第340回

原求作先生の「ロシア語の体の用法」の225ページに「думатьは完了体?」というコラムがある。そこにソルジェニーツインの「マトリョーナの家」からの文章として、За восемь лет послевоенных лет решила и Матрёна сама, что он не жив. И хорошо , что думала так.(戦後8年経って、マトリョーナ自身も、彼は死んだのだとようやく納得した。そう考えたのもまた結構なことである)という例文がある。この中で原先生は、думалаはрешилаの言い換えであると指摘し、думала = подумала、つまり完了体であるとしている。たしかにрешить = после размышления, обдумывания прийти к какому-либо выводу, заключению относительно чего-либо(長いこと考えて〔熟慮して〕何かについてある結論を下す)ということで、думалаがその言い換えであることは明らかである。しかし、そうであれば、実質的に同じような意味の動詞が繰り返されているわけで、そうなると、初めのрешилаは新規の事柄ということで、完了体として出てくるのは自然である。ところがほぼ同じ内容の動詞が出てくるというのは、刺身のつまのような用法で、動詞自体には意味上のアクセントはない。こういうときには過去の時制では不完了体が出てくる方が自然だという事はこれまで何度か述べた。これに完了体過去形を用いる方が逆に不自然となる。第2回の設問に「このバッグを買ったのよ」「どこで買ったの?」というのがあって、その答えは、- Я купила эту сумочку. および - Где ты её покупала? である。これに完了体過去形を用いるのは不可能とは言わないが、やや不自然となるように思う。

同様に、(貨物はどのように納入されるのですか?)Как будут поставляться грузы? はКакに論理的アクセントが来ているから不完了体が用いられているのだが、その回答(鉄道で発送します)Мы будем отправлять их по железной дороге. も不完了体が来ているのは、文の論理的アクセントは動詞ではなくпо железной дорогеに来ているから。このように動詞が変わっても動詞に論理的アクセントが来ないなら不完了体が来るという一つの証でもある。それゆえ、上記にподумалаを使えば、言い換えというニュアンスがなくなって、何か新しいことを考えついたのかと取られる可能性が出てくることになる。

 думать/подуматьという動詞群は第300回のooo)にあるように、ラスードヴァ先生曰く、「この動詞群ではпо-という接頭辞は完了体という意味の指標であり、はっきりとした語義上のニュアンスをもたず、所与の動作の一回性を強調する」とある。この動詞群は不完了体から完了体が発達し、そのように完了体を発達させた理由というのが、未来における必要性、可能性、好ましさを指摘するときだけと思われる。そういうことから原先生の説のごとくдуматьが完了体であるというのは受け入れ難い。думатьにはподуматьのもつ動作遂行の意味もすでにもっているからである。

 さらにその前の方で、Вы уже пообедали?(昼食は食べましたか)とロシア人が言うのは、あまり聞いたことがなく、Вы уже обедали?でたいてい済ましてしまうと述べ、このобедатьあたりも、将来は完了体の方に進出してくるかもしれず、пообедывать/пообедатьという新しいペアができるかもしれませんとしている。これについてはこのコーナーに投稿している人であれば、これは動作の完了を意味しているわけではなく、不完了体過去形の動作の有無の確認(文法的には動作の名指し)であって、不完了体過去形が来るのが普通であると分かるはずだ。これに完了体過去形を用いれば、「(そんなに短時間に、こんな時間に)食べ終わったのか?」とあるニュアンスを持って尋ねていることになり、単に昼食を食べたかどうか尋ねるという意味合いなら間違いということになるはずである。думатьやобедатьは完了体ではないし、今後完了体になることもない。完了体は必ず完了を意味するという思い込みが先生の方にもこの参考書を書いた時点(今から16年前だからかなり昔ではあるが)ではあったのかもしれない。

 いずれにせよ露文解釈で体の用法のどれが使われているかを調べる方が、会話の和文露訳で実際に体を使うのと比べてはるかに楽であることは皆さんも実感されたことと思う。

設問)「ビタミン豊富な食事を摂ってください」をロシア語にせよ。

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2012年04月25日

●和文解釈入門 第341回

未来時制における第300回のb) 意向の提示(「意向」改め)という用法については、やや誤解を招きかねないというか、実際に使うに当たって、その指針に曖昧な点があるように思われるので、整理して書いて見る。

 対象になるのは未来時制における単一(繰り返しではない)の動作の伝達である。完了体未来形を用いるのが一般的と思われているが、これに不完了体未来形(быть動詞の未来形 + 不完了体不定形)の組み合わせを用いることができる。ただ完了体未来形と不完了体未来形と用法の違いというものはある。そのときに考えなければいけないのは、不完了体そのものの特性である。この意向の提示という用法は過去の時制における動作の有無の確認という用法から発展したものだが、過去時制で広く使われるこの用法は、未来時制においては使用の制限があるということをまず理解してほしい。これは文脈だけに依存するのではなく、動詞の語義にも関係するのである。同じ文でも過去時制に事実の有無の確認に不完了体が用いられる場合、未来時制では体が入れ替わることがあるからである。(私は教授に会った)Я видел профессора.と(教授に会います)Я увижу профессора. や、(私は彼の意見を知っていた)Я знал его мнение. と(彼の意見を聞いてみます)Я узнаю его мнение. などである。

a) 未来時制の動作の有無の確認(動作の名指し)に使える不完了体動詞(動詞の語義による)
 この用法が使えるものは、まず第一に、無接頭辞単純動詞(гулять, делать, жить, играть, писать, пить, строить, читатьなど)である。これらは比較的自由に使える。第二は動作の過程、持続性、延長性を示すことのできる動詞で、語義に瞬時的移動・変化を示すようなものを含むものは使えない。例えば、получатьは具体的なものを受け取る(ないしは「叱られるполучить выговор」など)という意味では、動作が一気に終わる(過程ではない)のでこの用法は使えないが、特典を得る、交付を受けるというようなある程度過程のニュアンスがある語義の時は使える。даватьは過程の意味では用いないのでこの用法には使えない。захватыватьも未来時制では「つかむ、とらえる」という繰り返しの動作(過程、持続性、延長性を考慮しない動作)を示すのでこの用法では使えず、完了体のзахватитьを使う事になる。

b) 未来時制において動作の有無の確認(動作の名指し)の意味で使えない不完了体動詞
・状態の変化・発生を示す動詞 освождаться, преобращаться, становиться
 未来における過程の意味では使える。
(有料教育はますます高くなってゆく)Платное образование будет становиться всё более дорогим.
・瞬間的に成立する動作 брать, давать, изобретать, находить, получать
・無意識にもたらされる否定的結果を示すもの лишаться, ломать, разбивать, ронять, терять
・繰り返しのきかない単一的動作、意志的、非目的志向動作を示す動詞 видеть, выздоравливать, вылечиваться, погибать, поправляться, простужаться, рождаться, умирать, упадать
・広義の運動の動詞(定動詞・不定動詞のみならず、接頭辞のついた運動の動詞)の不完了体
 始発という概念自体は3つの解釈が可能である。一つは新たな事態の生起で、この意味をは完了体が担っている。もう一つは予定、3つ目は動作の着手という回りの状況や雰囲気により行われるもので、後の二つは不完了体の領域である。
 露露辞典にはпойти/поехатьには別項目を立て、それぞれначать идти/начать ехатьと語義を与えている。つまりидти/ехатьには新たな事態の生起という意味での始発の意味はない。「行く」という一般的事実の意味か、過程の意味だけである。だからбытьの未来形 + идти (ехать)を使う場合に、例えば「薬局に行って来る」(新規の事柄、新たな事態の生起を示す)という露訳に、いきなりЯ буду идти в аптеку. とは使えないのである。これは完了体未来形にしないといけない。(薬局まで行って来る。薬局までは歩いて15分だ)Я пойду в аптеку. До аптеки я буду идти 15 минут. 2番目の文の不完了体未来形は意味の主体を担っておらず、いわば刺身のつまのような用法だから不完了体を使うのである。ただ同じ始発でも予定であれば、それは不完了体現在形で示すことができ、(1時間後に薬局に歩いてゆく)Я иду в аптеку через час.となる。
 при-という接頭辞のつく運動の動詞は過程の意味がないので、この用法では使えないが、(お降りになりますか?)Вы будете выходить? という動作の確認の有無の用法のвыходитьや、(多分、年の暮れはあなたが会社から最後にかえりことになります)Возможно, накануне Нового года вы будете уходить с работы последним. という動詞に文の中心的意味の来ない用法のуходитьはこの用法で使える。

c) 疑問文における動作の有無の確認
 動作の有無の確認というのは、その動作をするかどうか尋ねるわけだから疑問文に出やすい。つまり疑問文で動作の有無を尋ねる(するかしないかを問う)時はこの用法を使うべきだ。これに完了体を使うと、叙想的ニュアンス(期待、懸念など主観的な感情)が感じられる。不完了体は叙実的(事実に密着して,それを客観的に描こうとする)ニュアンスだからである。しかし、実現されていない動作が問題となっている以上、不完了体未来形にも意図というニュアンスが出てくるのは当然である。
(〔地下鉄などで〕下りますか?)Вы будете выходить?
 現実的には地下鉄において動作の有無を尋ねるというよりは、予定のВы выходите?という会話が圧倒的に多い。車両の出口のそばに立っていたら下りるのは当然と考えるのが普通だからだ。
(お座りになりますか?)Вы будете садиться?
(お迎えが来ますか?)Вас будут встречать?
 выходить, садитьсяにしても語義に過程的ニュアンスがあるから用いられるのであろう。

d) 動詞が主体的意味を担わない用法(刺身のつまのような用法)
 過去時制の不完了体ではよく見られるが、未来時制にもある。動詞自体に論理的アクセント来ないような文、つまり文の中に「どのように」というような様態を示す語句か、疑問詞が来れば、意味の主体を担わないという事で不完了体が使われることになる。この用法をよく示すものとしてещёとの組み合わせがある。この副詞があることで、繰り返しを暗示しているわけだから、言外に同じ動詞を二度使う、もっと言うと表面に出てくる動詞は2度目の動詞ということで不完了体が出てくると言う事が言える。これは過去時制においてужеやоднаждыがあれば、動作の有無の確認を補強してくれるのと同じ発想である。
(何に乗ってお出かけですか?)На чём вы будете ехать?
(だれが歌い始めるのですか?)Кто будет начинать песню?
(注意して作文を写します)Я буду внимательно переписывать сочинение.
(まだあなたに反論しますよ)Я ещё буду возражать вам.
(何を変えることができるかさらに調べてみます)Мы ещё будем узнавать, что можно изменить.
(夜もう一度薬を飲みます)Я буду ещё раз принимать лекарство вечером.

e) 両方の体がほぼ同じ意味で使える場合
 平叙文においては不完了体未来形の動作の名指しと完了体未来形の具体的単一動作の実現の区別がつかない場合もある。「彼に明日電話する」をЯ позвоню ему завтра.やЯ буду звонить ему завтра.としたり、「助けてくれるよう彼に頼もう」をМы попросим его помочь нам.やМы будем просить его помочь нам.としてもニュアンスを別にすれば意味は変わらない。不完了体の方が口語的というだけである。しかし単一動作の伝達という行為自体が、一つの点となるような動作(過程を意味しない一気に終了するような動作)が多いために、完了体を使う方が多いようである。単一動作の伝達は文脈によっては意図(意志)の意味になりやすいという事は言えるが、はっきりと意図であることを示したいのなら、собираться, намеренなどを用いた方が誤解が少ない。(建設現場への救急手配はどうするつもりですか?)Как вы собираетесь организовать первую медицинскую помощь на площадку?

 上記のように両方の体が使えるのは、動作が始まって終わるというニュアンスのある動詞である。始まりだけとか、終わりだけを意味するとか、過程を示すような動詞は両方の体はほぼ同じ意味では使えない。писать, обедатьなどは可能である。つまり、第300回の表ではзвонить/позвонитьとписать/написатьの動詞群の中に語義を見る限り、ほとんどが当てはまるということになる。
начать/начинатьとкончить/кончатьのように始めと終わりを示す動詞は、完了体が具体的1回の動作を示し(新しい事態の生起)、不完了体は動作の着手、ないしはそれから派生する意志の用法となり、ニュアンスがかなり変わる。
Завтра я буду писать письмо домой.(書くつもりです)
Завтора я напишу письмо домой.(書きます)

Я кончу работу.(仕事を終える) - 新しい事態の生起。
Я буду кончать работу.(仕事を終えるつもりだ) - 動作の着手ないしは意志の用法。

f) 動作の着手(意志)
 不定的な持続的な過程を示すのであれば、動作の着手にも不完了体未来形が使える。これは不完了体の機能の一つで命令法に現れやすいが、未来の時制でも示すことができる。一人称の場合は動作の着手から派生して意志のニュアンスが出やすい。始発といっても、新たな事態の生起ではない、状況に身をゆだねた形での始発である。
(じゃあ集会を始めよう)Ну, будем начинать собрание!
(そう願いたいものですLet's hope so.)Будем надеяться!
(その辞典は近日発売される)Словарь будет продаваться в ближайшие дни.
(問題を出します)Я буду задавать вопросы.
(来月エニセイ川に水力発電所を建設します)В следующем месяце мы будем строить ГЭС на Энисее.
(いただきます)Я буду есть.

g) 未来時制においてесли, когдаに導かれる複文での時間にとらわれない一般的事実の表示
 命令法の促しという用法に似ている。この用法にはa) で使えないとされた動詞も一般的事実の意味ということで用いることができる。例えば、(もしこの方法を使うのが初めてなら、CDをドライブに入れなさい)Если будете использовать это средство впервые, вставьте компакт-диск в привод. という文ではеслиと一緒だと一般的事実の意味が出てくるし、不完了体の未来形では、二つの動作が何ら拘束し合わずに、時間的に共存する動作が名指しされていて、広く使われる用法である。これを完了体未来形にした(もしレバーを右にいっぱい回すと、目盛には緑色が光ります)Если вы повернёте ручку направо до отказа, на шкале вспыхнет зелёный свет.では、повернётеという動作が実現してからвспыхнетという動作が成立する、しかも最初の動作と次の動作が(あまり間をおかずに)行われるという動作の順次性が示されている。この使い分けは、二つの文の時間的関係である。次々と動作が起こるのであれば、完了体を続けることになるし、時間的拘束がなければ、если, когдаを含む節ではбытьの未来形 + 不完了体不定形を使う事になる。
(映画館のそばを通る時に、明日の切符を買います)Когда мы будем идти мимо кинотеатра, мы купим билеты на завтра.

 最初に書いたように、この回では未来における繰り返しを扱っていない。上記で使えないと書いた不完了体未来形は繰り返しで使える。(2030年までに喫煙で毎年1千万人が死ぬ)К 2030г. от курения ежегодно будет умирать 10 млн человек.

 体の用法を考えるときに、動作の有無の確認か、予定か、意志かをロシア語で区別することはできるが、動詞の持つ意義によってはその現れ方が偏って出てくることはある。土産店で、「その人形をお求めになりますか?」という問いを露訳するときに、まず誰がその問いを発するのかという問題がある。ついているガイドがロシア人観光客にということなら、Вы берёте куклу? とбратьの予定の用法で現在形が来る可能性が高い。しかし、売り子なら、買って欲しいという期待があるのが普通だから、Вы возьмёте куклу?となるはずだ。しかも、братьの動作は「買う」という意味というよりは、動詞の持つイメージから「つかんで持ち去る(「もらう」と訳した方が日本語の口語的なニュアンスが出るかもしれないが)」という一点となる動作なので、この語義でのбратьをレジでの支払のときにВы будете брать куклу? というようには使えないだろう。レジに品物を持って来て、売り子が単に動作の有無(買うかどうか)を尋ねることは普通あり得ないからだ。同じ「買う」でも、レジでの支払いのときなどではなく、「車を買いますか?」のように買い物全体という過程的・持続的なニュアンスが感じられるときに使われるとすればбудете брать, будете покупатьも使える。покупатьは不定法の場合は不完了体不定形でも完了体不定形でも同じような頻度で使われる動詞であるが、予定の意味で現在形は使わないようである。似た意味で、заказыватьは予定の意味でも使うし、Вы будете заказывать краски?(塗料を注文なさいますか?)と動作の有無を尋ねるときもよく聞く表現である。
これまでは文脈による体の用い方の違いだったが、このように動詞の語義と文脈によってどの体を用いるのかという新しいアプローチにも慣れてほしい。ただこのやり方は、無意識に、あるいは正しいかどうかという自覚なしに投稿者の皆さんはすでに使っていると思われる。

設問)「ヴィクトル・ニコラーエフ様、チェックインカウンターの方へお越しください」をロシア語にせよ。

Posted by SATOH at 07:52 | Comments [5]

2012年04月26日

●和文解釈入門 第342回

高校の頃正月は郵便局で年賀はがきを配達するアルバイトをした。そのときに1年上の工業高校の人と知り合いになった。なかなかハンサムな人で、ギターなども引き、家には車もあるというような恵まれた家庭の人だった。私は函館中部高校で、公立では函館で一番いいとされていた高校に通っていた。その人がどこの高校かというので、中部ですといったら、「中部に行くような人に俺らの気持ちは分からないよ」と言われた。この人はユーモアのある人で、応答から判断する限り非常に頭の回転が速そうな人だったが、こういう人でも変なコンプレックスがあるのだなと思ったことを未だに覚えている。当時の私にとっては車があるというのは金持ちで、それだけで格差を感じており、大学で一人暮らしをするまでは自分の部屋というようなものはなかったから、自分一人の部屋を持っているこの人のことを考えると、上を見ればきりがない、下を見ればきりがないと思う。コンプレックスもいろいろだし、プラスにもマイナスにも働くわけで、この人はこの人でどんな人生を歩んでいるのだろう?

設問)「その他何かお困りのこととか、ご要望がありますか?」をロシア語にせよ。

Posted by SATOH at 07:19 | Comments [5]

2012年04月27日

●和文解釈入門 第343回

会話における和文露訳用のロシア語の具体的な授業の進め方を書いて見る。体の用法と単数・複数の使い分けから始める。これらは参考書を読んでも理解しにくいところだからである。体の用法では、まず不完了体現在形の予定の用法に重点をおく。これが出来れば会話がかなり楽になるし、実戦的でもあるからである。ビジネスマンではなくとも、「交渉に行く」という現在形が、予定の意味の未来でも使えることと、運動の動詞(全部ではなく定動詞と不定動詞のうちのидти, ходить, ехатьだけ)を徹底的に教えるわけである。いずれにせよこのコーナーで提示してあるような日常で使える例文を示して暗記させるようにする。その後、完了体未来形との意味の違い、動作の有無の確認を例文中心に教える。過去の時制におけるアオリストと結果の現存、動作の有無の確認に進む。「イワノフさんがいらっしゃいました」をどう訳すかという事を中心に体の用法を学ぶのである。その結果の現存について被動形の過去の短語尾の用法についても触れる。これを従来のように不完了体現在形の繰り返しとか、動作の一般化という常識的なことばかり繰り返させても、実戦的な会話には何の役にも立たないからである。

 その後、どのくらい(時間的、数量的)、いつから始まるのか、どこにという疑問詞のついた疑問文について教え、前回の設問のような「~はありますか」という構文を中心に、単数と複数の使い分けを理解させる。こうすれば実践的な会話にもすぐ応用できることになる。

 日本語とロシア語との違いと似た表現を、具体例を上げて覚えさせれば、その例文が実戦で力を発揮することになるし、後に自学自習をするときの踏み台となるはずである。

設問)「治療の結果は思っていたほどよくはない」をロシア語にせよ。

Posted by SATOH at 06:48 | Comments [4]

2012年04月28日

●和文解釈入門 第344回

体の用法を勉強するときに、入門編として読んだ方がよいのは、「ロシア語の体の用法」(原求作、水声社、1996年)である。著者が体の用法を十分消化して、自分の言葉で説明が分かりやすく難解な体の用法を説明しているからである。難を言えば、現在時制の説明があまりないのと、露文解釈用の説明であり、会話における和文露訳に使うには、これでは理解しにくいところも出てくる。結局最後にたどりつくのは、「ロシア語動詞 体の用法」(ラスードヴァ著、磯谷孝訳編、吾妻書房、1975年)なのだが、訳が非常に良いとは言え、日本人学習者向けに書かれた本ではないために、会話における和文露訳用に活用する上では読みこなすのが大変である。訳者の意識の重点も露文解釈であり、これを会話における和文露訳に活用するにはひと工夫も二工夫も要る。磯谷先生のこの本にある序文や、「演習ロシア語動詞の体」(磯谷孝編著、吾妻書房、1977年)もその理解には大いに助けになるとはいえ、十分ではない。

 一般の学習者の手に入る体の用法の参考書はそれほど多くはない。体の研究の現状を知る上で大いに参考になるのは、「ロシア語のアスペクト」(林田理恵、南雲フェニックス社、2007年)である。第6章の特殊疑問文におけるアスペクト的意味と機能が特によい。ただ全般的に説明が結果の現存に比重が置かれているようで、動作の名指しについてが弱いという感じを受けるのと、使われている例文には通俗小説の会話文も用いられて、それなりに工夫されていることは認めるが、小説の会話文というのは、一般のロシア人が使うありふれた会話とは違う。例えば、「~をご注文なさいますか?」などというレストラン、駅などで使う会話についての例もないし、その分析もない。そのため標準ロシア語という観点から見れば、それでよいのだろうが、通訳やガイドといったプロのみならず、ロシア語でロシア人と日常的に会話する人に、どういった体を使うべきなのかという具体的な示唆に乏しいという事は言える。

 無論、そういう趣旨の博士論文ではないことは認めるにせよ、ロシア語を会話で使うために、どんな初心者だって、どの体を使うべきか、決めなければならず、それを従来のような文例の丸暗記に求めるのは非科学的である。日常的な会話のみならず、ビジネスにおける交渉の場でもКак будет осуществляться оплата поставок оборудования?(設備納入の支払はどのようになされるのですか?)というような完了体未来形ではなく、不完了体未来形で使われることがあるわけで(この場合はкакに論理的アクセントがあるから、完了体未来形は来ないと思う)、我々通訳にはこういうロシア語を耳で聞いて日本語に訳すという比較的単純な作業もあるが、自分でのこの日本語からロシア語にするときにどの体を選ぶかを通訳をするときに常に選択をしなければならないというのも日常の現実である。

 本書の62ページにグラヴィンスカヤ先生の説として完了体と不完了体の体の対立という観点から動詞の分類を4つ挙げて解説しており、皆様にも役に立つと思うので、自分風に咀嚼して、簡単に書いておく。

1) 限界達成型
надевать/надетьなどで、完了体は限界点(服を着てしまう)という動作の終了があり、不完了体はその限界点への過程を示す。возникать/возникнуть, входить/войти, выздоравливать/выздороветь, высыхать/высохнуть, переставать/перестать, подходить, подойти, строить/построитьなど。
2) 非限界型
限界のない状態変化や働きかけの動詞、限界のない過程を示すと考えてもよい。увеличивать/увеличить, улучшаться/улучшитьсяなど。
3) 意識的働きかけの動詞
結果は完了体においては瞬時に達成されるが、不完了体においては結果達成への努力・試みを示す。ловить/поймать, решить/решатьなど。
4) 状態、位置、関係、感情の動詞
a) 不完了体はある状態にあるという状態の意味を、完了体においてはある状態に入るという動作を示す。болеть/заболеть, волноваться/взволноваться, заниматься/ханяться, обижаться/обидеться, обнимать/обнятьなど。
b) 不完了体はある状態にあるという状態の意味を、完了体はある状態に入り、一定期間その状態や関係にあり、その状態、関係であることを止める。благодарить/поблагодарить, говорить/сказать, касаться/коснуться, отвечать/ответить, просить/попросить, трогать/тронутьなどである。

 不完了体から上記のリストを見れば1)~3)は過程の動詞の類別であり、4)は状態の動詞ということになる。しかし、4)-b)の不完了体については状態の動詞ではないと思われる。проситьにせよ、動作が始まって、動作が終了するわけだから、「ある状態にある」ということではなく、これは動作遂行型の動詞のはずだ。例として、Студент отвечает на экзамене белстяще.(その生徒は試験でとてもよく答えている)とあるが、繰り返しでない以上、動作に「答えている」という状態はあり得ない。答える動作を開始して終了するのだが、それが「見事に答えている」ということなはずだ。касаться/трогатьсяはこの説明と合うが、それ以外の動詞は動作遂行型の動詞だと思われる。多分グラヴィンスカヤ先生もそういう意味で、4)を二つに分けているのだと思われる。

設問)「外科手術をしなくとも治療上効果はある」をロシア語にせよ。

Posted by SATOH at 08:26 | Comments [5]

2012年04月29日

●和文解釈入門 第345回

予定の意味で使う不完了体の動詞はあたかも全ての動詞が遠い未来(1年後でも)使えるように書いたが、どうも違うのではないかと考えるにいたった。そのような遠い未来で使える動詞は、スケジュールに書かれるなどの文脈でせいぜいехать, лететь, уезжатьぐらいだろう。また動詞によっては近接未来(すぐ後といった感じのごく近い未来)でしか、文例がないような動詞もあるので、ここに整理して書いて見る。

 現在確認されているこの用法が使える動詞群は、一部の不完了体運動の動詞(定動詞のうち7つидти, ехать, бежать, лететь, нести, вести, везтиやбрать, возвращаться, встречать, встречаться, завтракать, заказывать, заканчиваться, начинать, начинаться, обедать, отправляться, переезжать, переходить, получать, поступать, посылать, приступать, сдавать(「試験を受ける」という意味のみ), ужинать, уезжать, улетать, уходитьであり、このほかにアナウンスなど硬い表現で使われるものには、вылетать, отплывать, отходить(バス、汽車、船の出発), отъезжать, прибывать(船、汽車の到着), приходить(船の到着)が、文脈によっては(近接未来〔すぐ後といったごく近い未来〕の動作に関して)выезжать, выступать, выходить, гулять, давать, ждать, заниматься, запрещаться, играть, истекать, кутить, пить, руководить, останавливаться, отменяться, передавать(放送するという意味で), пировать, следовать(向かう), стоять(停車するという意味で), участвовать (принимать участие) が現在形で予定を示す。これらの動詞は数は少ないが、日常で使われる頻度が非常に高い動詞群であり、スケジュールに従ってというニュアンスからビジネスや観光案内などで多用される。スポーツ、音楽などで使われるаккомпанировать, бить, выполнять, дирижировать, кататься, метать, опускать, петь, плыть, подавать(サーブするという意味で), поднимать, применять, проводить, проводиться, проходить, разыгрывать, совершать, соревноваться, судить, толкать, танцевать, тренироваться, удаляться, фехтоватьも新しい事態の生起という動作を強調するという事でなければ、近接未来の予定の意味で使える。

 1年後でも予定に入っているという事なら使えるが、そういう場合ここに挙げた全ての動詞が使えるわけではなく、ехать, лететь, уезжатьぐらいではないかと思う。このような比較的遠い未来ではそれほど使われないというのは、この用法が過程の意味から発達してきたという事を考えると理解できる。

設問)「この薬剤を服用するとめまい、発疹が出ることがあるとこの患者に言っておいてください」をロシア語にせよ。

Posted by SATOH at 06:51 | Comments [3]

●和文解釈入門 第346回

刺身のつまのような動詞自体に論理的なアクセントが来ない文、つまり補語、状況語、疑問詞に意味の焦点があるような文には不完了体が来ると説明した。それを短絡的に疑問詞があれば不完了体が来ると誤解してはいけない。疑問詞があっても、例えば過去の時制で動詞に意味上の主体があれば、つまりアオリストや結果の現存のニュアンスがあれば、完了体が来る。
Кто написал этот роман?(この長編小説を書いたのは誰ですか?)
Посылку получил (получал) Миша.(小包を受け取ったのはミーシャです)
完了体過去形なら動作主(つまり小包の受取人)がミーシャだという事を示し、不完了体過去形なら取りに行った(受取人かどうか別にして受け取った)のはミーシャだという事を示していることになる。

 このような場合、動詞によっては完了体過去形しか来ない動詞もある。結果の現存に深く結び付いているような動詞、例えば瞬間動詞(забыть, потерять, разбить, сломать, убить, ударить, уронитьなど瞬時の移行・変化を示す動詞)は完了体を取る。
Кто (Когда) ты разбил чашку?(誰が〔いつ〕茶碗を割ったの?)

設問)「どのくらい前から痛みがありますか?」をロシア語にせよ。

Posted by SATOH at 06:52 | Comments [3]

●和文解釈入門 第347回

「お入りなさい」はВойдите!とВходите!が両方可能であることは、第192回の回答のところに「ラスードヴァ先生の参考書133ページおよび134ページには、Услышав стук в дверь, обычно говорят Войдите!, давая разрешение войти. За глаголом входите закрепляется значение приглашения.」と書いておいた。完了体が許可で、不完了体が招待と解される。また広義の運動の動詞(定動詞や不定動詞のみならず、接頭辞のついたものも含めるという意味で)はムラヴィヨーヴァ先生も同じことを書いている。しかし、これも語義によるのではないかという気がする。この反対のвыйдите/выходитеはどうだろう。圧倒的にвыходитеが多いだろう。考えるに、入るのは、新しい事態の生起(これまで新規の動作としてきたがボンダルコБондарко先生の用語возникновение новой ситуацииを今後使う事にした)として考えやすいが、出るという動作は、普通は入らなければ、出られないという語義上の制約がある。つまり入ってしまえば、出るということは必然である。そうなるともともと新規に出るという発想は出にくいと思う。映画の題名にШпион, выйди вон!(スパイよ、出ていけ)というのがあるが、これとか喧嘩になって、外に出ろというような、出ることをあらかじめ想定しない状況でなければ使えないと思う。今後は文脈だけではなく、動詞の語義、もっというと多義語の動詞はその一つ一つの語義に合わせて、その語義を使うときに体の用法がある程度決まるという事が言える。つまりこの動詞であれば、普通は(一般的には)この体が多く使われるという事が、ロシア人がこう使うということではなく、上記のような論理的に導き出せるという事が言えるのではないかと思う。

設問)「日が短く(長く)なってきました」をロシア語にせよ。

Posted by SATOH at 06:58 | Comments [6]

2012年05月02日

●和文解釈入門 第348回

「彼は通学している」を露訳するとして、小中学校なら簡単である。Он ходит в школу.とすればよい。ところが大学となるとそう簡単ではない。小中学校なら普通は歩いて通うから問題がないが、大学生が大学に歩いて通えるとしたらよほど稀な現象であろう。普通はバス停や駅まで歩き、その後電車か地下鉄か、バスに乗り、着いたらまた歩いて大学に行くというのが普通であろう。となるとОн ездит в университет.としなければならないのだろうか?こういう疑問の答えは露和辞典や参考書を見ても出ていない。Учебный словарь сочетаемости слов русского языка, Денисов, Русский язык, 1978という語結合辞典があり、ходитьの2番目の語義にбывать где-либо, посещать кого-что-либо, отправляться куда-либоという意味を与え、それには歩いて(1番目の語義にはдвигаться шагомとある)という意味が書いておらず、ходить в школу (в институт, в университет, в цирк, в театр, в парк, в ресторан, в гости), ходить на работу (на завод) という語結合の例が載っている。こうなると仕事に歩いて行ける人とか、レストランに歩いて行けるレストランというのは限られるわけだから、歩くという事を度外視してもよいのではと考えるようになった。

 念のためガイドの仕事をしていたときに、ロシア人のインテリ女性に「彼は大学に通学する」という最初の段落の例をどうロシア語でいうのか聞いて見たら、一番論理的なのは Он добирается к университету.であろうが、一番ロシア語で聞くのはОн ходит в университет.である。Он ездит в университет.というのはdoor-to-doorで、車とか自転車で通学する場合ではないかとのことだった。добратьсяは苦労して到達するというニュアンスが普通はある。無論露露辞典には、そのようなニュアンスのない例もあるから使えることは使える。一人のロシア人の答えを鵜呑みにするつもりはないが、そばで聞いていた二人のロシア人も特に異論は述べなかったし、語結合辞典にもそう書いてあるので、そのように理解してよいのではないかと思う。この点につき何かコメントがあれば投稿願う。

設問)「降りるときになったら声をかけてください」をロシア語にせよ。

Posted by SATOH at 09:59 | Comments [5]

2012年05月03日

●和文解釈入門 第349回

電話の(佐藤さんをお願いします)Господина Сато, пожалуйста.に対して、(どちら様ですか?)Кто его справшивает?のспрашиваетは一見「過程」の用法のように見える。このспрашивать = просить позвать кого-либо или дать субъекту возможность войти в контакт с кем-либо「呼んでくれるように頼む」という意味で、動作の終了を意味している。このような動詞は過程の意味では使えない。過程というのは動作が終了していないその途中だからだ。論理的に言えば完了体過去形を使って結果の現存の用法を使うべきだが、そうはなっていないし、不完了体の現在形を使っている。つまりこの動詞は動作遂行型の動詞ということになる。

設問)「家々は窓まで水浸しだった」をロシア語にせよ。

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2012年05月04日

●和文解釈入門 第350回

ロシア人観光客を地下鉄や電車、新幹線に乗せようとすると、まず自動改札口の通り方を説明しなければならない。簡単なようだが、体の用法から見ると、「切符を入れて、取ってください」に3つの言い方が考えられる。

Вставьте билет (в щель турникета) и его заберите.
Вставьте билет (в щель турникета) и его забирайте.
Вставляйте билет (в щель турникета) и его забирайте.

 最初のは動詞が両方とも完了体未来形で、順次的用法である。切符を入れて、すぐ取るという感じである。これは一人、ないしはグループの代表の人に通り方を教えているという感じがする。3番目のは一般的に自動改札口はこう通るのですという説明の感じがして、ガイドや通訳の現場で使うには、やや抵抗がある。何人かのロシア人の前でという事なら可能かもしれない。問題は2番目の文である。最初に完了体命令形が来るのは、新しい事態の生起だからである。次に不完了体命令形がなぜ出てくるのだろう?これは切符を自動改札機のスリットに入れると、別のスリットから切符が勝手に出てくるわけで、その切符というのは、出てきた以上、そのまま取りなさいという状況(回りの環境に合わせて動作をしなさいという正に不完了体の用法)を示していると考えられる。ガイドや通訳というのは、「今~せよ」というような具体的な動作を指示することが多いので、個人的には2番目で言う事が多い。

設問)新聞の見出しにある「原発停止」をロシア語にせよ。

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●和文解釈入門 第351回

試合という意味のсоревнованиеは普通複数で用い、サッカーの試合はсоревнования футболистов, соревнования по футболу (в футболе)とする。他にвстреча по хоккею(ホッケーの試合)、схватка(レスリングや柔道などの勝負)という言い方もできる。матчならматч по футболу (футбольный матч)となる。フェンシングならバウトбойという。
騎手はвсадник, наездникが普通だが、наездникにはサーカスの曲馬乗りという意味もある。競馬ではжокейだが、競馬の中のチャリオットの騎手はподдужныйという。

 「味見する」はпробовать (на вкус) = отведатьだと、試飲、試食両方に使える。откушатьは試食のみで、дегустироватьはワイン、茶、タバコのみに使う。「制限時間」はスポーツなどではконтрольное времяというが、発表や発言の制限時間はрегламентである。

設問)「お支払はどの通貨でなされますか?」をロシア語にせよ。

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2012年05月06日

●和文解釈入門 第352回

不完了体未来形については第351回にも出題したが、疑問詞があれば不完了体未来形を使うと考えるのは必ずしも正しくない。あくまでも論理的アクセントが動詞に来ないというのが前提である。そういう説明では分かりにくいと思うので、実際にビジネスのクレーム(損害賠償請求)の交渉のときに完了体未来形を使った例があるので、その参考に供したい。当時問題になったのは地震で日本側の設備のデリバリー(納入)が遅れたことにある。自然災害は不可抗力条項(免責条項の一つ)として、納入が遅れても売主は責任を取らなくてもよいように普通は具体的に例を挙げて、契約書に記載されている。しかし、当時契約書の書式はソ連側のものを使う事になっており、その例の中に地震の記載がなかったわけである。交渉の中でКакие меры вы примете в связи с форс-мажорными обстоятельствами?(不可抗力状況に際してどのような措置を取りますか?)という発言があった。この文には完了体未来形を使っているが、この時点では双方とも不可抗力条項が発動されるかどうかについては合意してはいない(ソ連側がOKしない)。そのため具体的な措置を取るとかどうかさえ分からず、不可抗力条項が適用されないかもしれないという懸念が日本側にもあったのである。使われている動詞はразбитьのような瞬間動詞でもないから、形式的に言えば不完了体未来形も使えるはずである。

 ここで第351回の設問を見てみたい。「お支払はどの通貨でなされますか?」となっている。つまりこの場合は支払するのは当然であって、問題なのは支払う通貨がドルか、ユーロか、円かということが明らかである。しかし、この不可抗力条項についての交渉の場合は不可抗力については解釈がいろいろある場合もあるから、このビジネスの文言は「どんな措置」ではなく「なんらかの措置を取ってくれるか」という事自体が話し手の関心事であることが分かる。当然措置を取ってくれるという前提なら、聞き手の関心は「どんな措置」に論理的アクセントが来て、不完了体未来形が来るはずだからだ。こういう懸念は後で述べる叙想的ニュアンスの一つである。

 同じ「支払う」と疑問詞の組み合わせ、例えば、А кто оплатит расходы, если такая ситуация возникнет?(このような状況が起こったら、だれが費用を払ってくれるのですか?)という文でも、一番の問題は「誰が」ではなく、「払ってくれるか」という動作そのものが問題であることが分かる。払ってくれないかもしれないという懸念と、誰も払ってくれないという反語的ニュアンスも前後の文脈によっては感じ取れるのである。しかも、еслиの節に完了体が来ているから、例示的用法(もしそういう事態があるとしたならば)であることも分かる。このように動作自体が問題であれば、(瞬間動詞の場合だって必然的に動作自体に注目が集まるから完了体が来ると言えないこともない)、完了体未来形が来る。

 このように露文解釈で見る分には割合簡単に推測できるが、自分が会話で即座に和文露訳するとなると、常に自分たち(通訳する相手の)の利害(特に金銭的な)に関わるかどうかを常に念頭に置いて、そうであれば動作そのものに論理的アクセントが来る可能性が高いので、完了体未来形を使う可能性が高いという風に理解しておくとよい。利害に関係しないなら不完了体が来るという風な理解でもよい。

 完了体には叙想的ニュアンスがある。ところで、この「叙想」という語は広辞苑を引いても出ていないが、意味するところは「思うところを述べる」という感じである。述べる内容は、話者の思いであるので、個人的で主観的な事柄となる。つまりしばしば現実とも乖離し、婉曲な表現を取ることもある。このような主観的なことを言う時には、「直接法」は用いないで、「叙想法」(仮定法)を使うのである、という説明を聞いたことがあり、なるほどと思ったので今後完了体のニュアンスについてはこの語を用いることにした。第300回の表にも今後の改訂版では叙想的ニュアンスという言葉で説明することにするので、一応ここに書いておく。

 一方不完了体は動詞の語義が生(き)のまま出ているもので、虚心坦懐とか無心の心ということで、上記のような懸念や雑念(?)も含めた叙想的ニュアンスがないものだということをよく理解してほしい。そうすれば単に事実の有無の確認なら不完了体未来形(過去形)を、叙想的ニュアンス(主観的な想い)があると思えば、完了体未来形(過去形)が出てくるというように、ある程度体の使い分けができるのではないかと考える。

設問)「人の足が踏みいれたことがない野生のツンドラで彼らは暮らしている」をロシア語にせよ。

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2012年05月07日

●和文解釈入門 第353回

資金はсредства, денежные средстваだが、国家や企業の場合はфондが使える。費用や出費は一般的にはрасходыを使い、тратыは日常的な出費に対して用い、издержкиは予想外とか、余計な出費というニュアンスがある。затратыの使用は稀である。ただビジネス関係ではиздержки, затратыもそういうニュアンスなく使っているようである。衝突はстолкновениеだが、文語ではколлизияを使う。脱走はпобегが普通だが、бегствоも使える。ただбегствоはより広義で、本義が逃亡という意味である。手形はвексельで、約束手形はпростой вексельといい、為替手形はтратта = переводный вексельという。摩耗はизносだが、回転による摩耗をвыработкаという。無視は無関心という意味ならпренебреждениеだし、規則の不履行という意味ならнесоблюдениеとなる。

設問)「ご両親は血圧が高めでしたか?」をロシア語にせよ。

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2012年05月09日

●和文解釈入門 第355回

思うところがあって第341回にかなり手を入れたので、ご興味のある方はご一読願う。

 日記を毎日ロシア語でつければロシア語の和文露訳の力が向上すると思う人もいるかもしれない。基本的な文法をやり、和露辞典を片手に毎日2行か3行でも続けるのはそれほど難しくはないだろう。しかし、ロシア語の場合はすぐに体という問題が立ちはだかる。何も考えずに不完了体だけで書いて行くという考え方もあるが、添削してもらわない限り、間違った用例を覚えてしまい、結局徒労という事になりかねない。

 ロシア語で日記をつける前提というのは、日本語の作文が書けるということである。しかし、誰でも日本語で正しい文が書けるというわけではないのである。ロシア語にせよ、外国語の勉強をするなら、それと並行して正しい日本語を話す・書く練習というのも不可欠である。通訳すると分かるが、訳のわからない日本語を話す人がたまにいる。自分の考えるがままに、相手との意思疎通を考えないで喋りまくるタイプである。相手の言う事を聞いていないのだ。英語など外国語のできる人の通訳はしやすい。区切って、論理的に話してくれるからだ。そうでないと、こちらが頭の中で、わけの分からない日本語を正しい日本語へ翻訳してから、それをロシア語にするという二度手間をせざるを得ないし、訳が正しいかの保証もない。

 体の用法と単数・複数は自学自習が非常に難しいものである。体の用法の参考書は少ないとはいえ、いくつかあるが、いずれも露文解釈用であり、これを会話の和文露訳用に読み替えるのは初級者や中級者には無理だと思う。単数・複数の使い分けについては比較的簡単だが、単数か複数か漠然としたものには複数を使うということを指摘した文法書はないと思う。これは文法書の観点も露文解釈用だからだ。プロとしての会話での多年にわたる和文露訳の経験がなければ、そういう観点を持てないと思う。ただそういう観点だけでも和文露訳の指導はできないことも確かである。確かな文法の知識が不可欠であることは言うまでもない。

 体の参考書所載の用例にも純粋に一般的な会話で使われるものはあまりない。一番良いのは、市販の会話集にある用例を体の用法に沿って細かく説明することだが、会話集というのは、私の書いたのも含めて、丸暗記用だから、この点の配慮がまったくない。なぜ別の体ではいけないのか、あるいはニュアンスが変わるのかを徹底的に説明してもらわないと、少しでも動詞が変わると、これでいいのか不安になる。一般のロシア人は体の用法については正しく使えることはもちろんだが、なぜその体を使うのかについては自分の推測は言えても、正しい説明することはできないだろうし、その説明ができるロシア人のロシア語学者が日本に在住としている可能性はほとんどないに等しい。また仮にいたとして、日本語で初級者や中級者向けに丁寧に説明できるのかというなら、それはまったく無理だろう。

 日本語のできない、あるいはかなりよくできるにせよ、ロシア人に露文を見てもらうのは、あくまで露文のチェックであり、和文露訳のチェックではないということと、チェック結果が原文の和文とかけ離れていたり、ニュアンスが異なる場合もあるという事を常に念頭に置いておく必要がある。

設問)デパートの衣服コーナーで「夏ものを何か見せてください」をロシア語にせよ。

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2012年05月10日

●和文解釈入門 第356回

 未来時制においてбыть動詞の未来形 +被動形動詞過去短語尾は、動作主を明示したくない場合に使える。動作主があれば動作を示すが、なければ、結果の存続から派生して、動作ではなく、質的状態の意味を持つ。過程を無視して結果を重視するときにこの用法を使う。
(請負業者は全てに必要な取り扱説明書を作成し、発注者に引き渡す)Подрядчиком будут разработаны и переданы заказчику все необходимые нгструкции по эксплуатации.
 この文には動作主があるので、未来時制における動作を示すとともに、二つの文の主語を一つにまとめるということと、順次的な用法として被動形動詞過去短語尾が未来時制で使われている。不完了体未来形では未来での繰り返しを除いて、これを表現できない。

(ご要望は設計書類作成のときに考慮します)Ваша просьба будет учтена при разработке технического прокета.
(技師には全ての作業の検査と査察ができるようにする)Инженеру будет предоставлена возможность осмотра и инспектирования всех работ.
(スペアパーツの件はどう片をつけますか?)Как будет решён вопрос с запасными частями? – 解決済みにすることに文のアクセントがある。
(高圧線の建設は8カ月後に終了します)Строительство линии высоковольтной передачи будет завершено через 8 месяцев.

 ся動詞の不完了体未来形も動作主を明示しない場合に使えるが、状態ではなく、動作やその過程のニュアンスが出てくるとき、動作の繰り返し、文の論理的アクセントが動詞に来ない場合に使う。

(下請けの人に住居を確保する件はどう片をつけますか?)Как будет решаться вопрос обеспечения персонала Подрядчика жильём? - 文のアクセントはКакに来ている。
(その施設の最終検収〔立ち会い試験〕は設計指標達成後に行われる)Окончательная приёмка объекта будет осуществляться после достижения им проектных показателей.
(口銭はどのように支払われるのですか?)Как будут выплачиваться комиссионные? – 未来における繰り返し、それとКакに論理的アクセントが来ている。
(作業の指導はどのように〔今後〕行われるのですか?)Как будет осуществляться руководство строительством? – 文の論理的アクセントはКакに来ている。
(全ての作業は労働安全要求事項に基づき〔これから〕行われる)Все работы будут выполняться в соответствии с требованиями техники безопасности.
(テスト実施期限が近づくに伴い、そのような材料の明細〔リスト〕を貴社に渡します)По мере приближения сроков проведений испытаний будут вручаться вам ведомости таких материалов. – 過程なので不完了体以外は使えない。

 不完了体未来形3人称を使っての不定人称文でも表せる。用法的にはся動詞と同じだが、不定人称文は現在の時制では受け身の代わりとして広く用いられるのに対し、未来の時制での使用は、ся動詞に比べるとそれほど多くない。これは未来というものが基本的に不確定であるのに、さらに主語を明示しないという用法が不確定さを増すと考えるからではないかと思う。

(お迎えが来ますか?)Вас будут встречать? – 動作の有無の確認
(わが市にも繊維コンビナートが建設される)В нашем городе будут строить тексильный комбинат.
設問)修理スペック(仕様書)にある指示「バルブを組み立て、元の場所に設置すること」をロシア語にせよ。

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2012年05月11日

●和文解釈入門 第357回

この和文解釈入門を始めた動機はいろいろあるが、主なものは、会話で和文露訳をするときに動詞が出てくれば、どちらかの体を選ばなければならないわけで、その判断を即座に行うために、これまで勉強した点を整理してみよう、そうすればほぼ瞬間的に体の選択ができるようになるかもしれないと考えてのことである。

 ロシア語の本や新聞などを読んでいて(露文解釈していて)、体については特に気に留めなくても、単語の意味が分かれば前後の文脈で、なんとなく意味は分かる。体の重要性ということを主張するロシア語の翻訳家というのは聞いたことがないから、ロシア人も日本人と同じ感性であろうという大前提のもと、前後の文脈で翻訳しているのだろう。

 しかし、和文露訳ではそうはいかない。どんな初心者だって、どんな簡単な文だって、動詞がある限りは、普通は完了体か不完了体かを選ばなければならない。これまでは、多くの文例を暗記して、漠然と自分の勘を磨いて、自然と体の用法を体得するかのような学習法しかなかったように思う。つまり普通のロシア人が幼いころ、我々が母国語の日本語を習得するような、コミュニケーションの中でロシア語を覚えようというものである。しかし我々は、いい意味でも悪い意味でも、赤ん坊ではない。もうそのような方法は、限定的にしか頭が受け付けないのである。ロシア人も、英米人の英語のように、コミュニケーションの中で会話を教えたがる、これがいわゆる母語話者至上主義というものである。普通の学習者はロシア語漬けの生活を送る環境にはないし、あったとしても頭が赤ちゃんのように全てを吸収するような白紙の状態にはないという事に気がつかないのだ。大人には大人の学習方法がある。それが丸暗記のみに頼らない、理詰めの文法中心の学習法である。この和文解釈入門はその一つのアプローチである。

 話がそれたが、第300回の表を会話のたびに思い出すのは至難の業である。会話の露文和訳の際に、瞬間的に体を選択するためには、体の本質を理解することが必要だろうと思う。普通、完了体は完了、不完了体は繰り返しと覚える。しかし、Садитесь!(おかけなさい)という会話では非常によく使われる動詞の命令形で、頓挫してしまう。これは動作の完了を意味していないのか?そんなはずはない。そこで、これはこれとして、体の用法について別の解釈を探さざるをえなくなる。

 だったら、不完了体を日常(ルーチン、日常業務)と考え、完了体を非日常と考えるのである。ルーチンというのは決まりきった仕事が毎日繰り返されるわけである。不完了体が繰り返しであり、その場の雰囲気に合わせて、波風立てないというイメージが出来上がるはずだ。イメージするなら、不完了体はどんよりした穏やかな海で、完了体を波風が立っている海としてもよい。最近、未来の時制などの説明で、不完了体の動作の有無の確認(動作の名指し)という言葉をよく使っているが、要は不完了体というのはその動作が起ころうと起こるまいと、どうでもいいという客観的ニュアンスなのだ。同じ動作の有無でも、完了体には起こって欲しい(期待)、起こってもらっては困る(懸念)という主観が入る。新しい事態の生起は完了体の特性だが、これも、波風の何も起こらない静かな水面に、突如嵐が起こるというのが完了体のイメージである。我々は日本語でいろいろな会話を毎日聞いているが、そのときに動詞が出たときに、どちらかのイメージがすぐ湧くような訓練をしてはどうだろう。有難いことに毎日日本語漬けになっていることだけは間違いないことなのだから。

 ルーチンが不完了体、非ルーチンが完了体という区別は、ロシア文をチェックすれば、ご理解いただけると思うが、会話で和文露訳をするときに、瞬時に体の選択をしなければならないわけで、これが5分後に分かったのでは遅すぎる。そのため第300回の表の例文を見て、瞬時に体を識別する訓練をするわけである。あの表は個々の体の用法を例文によって理解してもらうための勘を養うためのものである。

設問)「この小さなベルの音はふつう半径数キロまで聞こえた」をロシア語にせよ。

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2012年05月12日

●和文解釈入門 第358回

未来の時制における不完了体の用法について補足する。

 第356回に書いたような動作主を明示しない未来の用法は、日常会話ではあまり聞かないが、ビジネスなどの交渉ごとの通訳では頻発する。なぜかというと、動作主を明示するという事は、責任(ビジネスで言えば金の支払)に直結するからである。一人称は当然のこと、二人称でも相手の責任をあからさまに云々するようなニュアンスがあって無作法と思われるから、動作主を明示しない三人称が好まれるわけである。通訳を目指す人はこの用法と、それに関連して、受け身で使える機能動詞(第300回の表参照)をマスターすることが肝要である。ただ同じビジネス関係でも、プレゼンテーションの通訳となると、一人称であるмы(弊社、当社)を使って文を作るようにといわれる。つまり肯定的な事、つまり自社をアピールすることなら、逆に動作主は明示しないといけないという事になる。

 質問があって、それに答えるときに、質問と同じ動詞で答える場合は、不完了体を使うというのは刺身のつまの用法としてお分かりだろうが、それ以外の動詞を使うときもその動詞は不完了体にするのが普通である。(貨物はどのように受け渡されるのですか?)Как будут поставляться грузы? はКакに論理的アクセントが来ているから不完了体が用いられているが、その回答(鉄道で発送します)Мы будем отправлять их по железной дороге. にも不完了体が用いられるのが普通である。これは答えの場合、動詞自体について尋ねているのではなく、Какの説明に当たる部分が論理的主体だからである。動詞自体に論理的アクセントが来るとしたら、それは質問のところの「受け渡しするかどうか、本当に受け渡してくれるのか」というニュアンスとなり、そのときはКак будут поставлены грузы?となるだろう。

設問)「ロシアではツンドラが全国土のおよそ5分の1を占め、西から東へ何千キロも北極の海沿いに延びている」をロシア語にせよ。

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2012年05月13日

●和文解釈入門 第359回

通訳やロシア語で会話をする際に、瞬間的に完了体か不完了体かを決めなければ、正確な和文露訳ができないことは前に述べた。その目安として、日常(不完了体)か、非日常(完了体)か、動詞に論理的アクセントが来なければ(動詞が従なら)不完了体、来るなら(動詞が主なら)完了体とか、流れのままなら(回りの雰囲気を読むなら)不完了体で、新しい事態が起こるなら完了体とか、客観的なら不完了体、主観的なら完了体とか、それらの組み合わせとか、自分なりにいろいろな指標が考えられる。体の本質は一つでも、それを多面的に表現できるということでもある。

 最近通訳してみて思うのだが、通訳する瞬間にどちらの体を使えばいいかはだいたい分かる。そのときに上記の目印が頭に浮かぶのかと言われれば、多分浮かんでいないと思う。なにせ40年ロシア語をやっているので、覚えている例文もかなりの量である。だからそれらの文例のおかげで、自分なりにどちらかの体を選択していると思う。体の選択がほぼ自動的になってきていて、ロシア人に限りなく近づいてきているのである。これは私だけではなく、他の通訳の人も同じだろう。例文を多く覚えることと、恥を多くかくことでみんな会話ができるようになって来るのである。

 このように、会話をマスターする上で役に立つ伝統的な例文丸暗記法にも大きな欠点が二つある。一つは習得に時間がかかるということである。10年、20年、30年、40年と完全を目指すならきりがないことになる。二つ目は、体の用法を決める拠り所(例えば第300回の表)がないので、100%完全に体の用法を習得できたどうかがいつになっても分からないということである。多くの例文を覚えるにつれて、似たような文で完了体と不完了体を両方使う例文がいくつも出てくるのである。同義だと決めつけるならそれはたやすい。しかし、それではロシア人からは直されることもある。直されてもなぜ直されるのかその根拠が分からないから、次にも同じようなミスをする可能性がある。

 恥をかけばその前後の文脈も覚えているが、普通は例文だけを暗記するので、前後の文脈はとっくの昔に忘れてしまっているし、例文第一だから、前後の文脈まで頭においておく余裕はない。結局肝心なところはロシア人に聞かないと分からないことになるし、そのロシア人の文脈の解釈もいろいろで、ロシア語の体の用法の研究家ならともかく、その文が正しいかどうかは言えても、ロシア語上級者にどのように体を区別しているのかを教えることができないのである。

 そこで、40年かけて諸先生の体の用法の参考書を基に自分なりに体の用法についてまとめたものが第300回の表である。完全なものではないので、投稿者からのフィードバックを参考にして、ほぼ毎日手を入れている。自分が体の用法について何か疑問が起こった時の拠り所となっている。

 話は戻るが、体の本質を理解してから語彙を覚えた方が、むやみに例文を暗記するよりは会話の上達が早いと思う。これは体の本質(体の仕組み)を体系的に理解しないで、ただ「こういう体の使い方は間違いである」というような個別的な知識を寄せ集めても役に立たないし、応用力も身につかないからである。しかし、それを自分では実証できない。上に書いたように過去の例文が無意識のうちに顔を出すのだ。結果オーライという事で自分についてはいいのだが、若い学習者のみなさん(ロシア語をやっている人はほとんど私より若いだろうから)に、是非このような体の本質を先に理解するという学習法をやってみてほしいものである。私が死ぬまでに、この方法が効果があったと言ってくれる人が一人でも出てくれば、嬉しい限りである。中級者以上の方は私と同様この方法の効果を実証できないとはいえ、効果はすぐ表れると思うし、なによりもロシア人に頼らずともどちらの体を使えばいいかが判断できるようになるのである。

設問)「2012年2月15日付貴信拝受。(その中で)発電機の故障につきご連絡いただき、また故障した発電機の不具合を速やかになくすようにとのご要求がなされております」をロシア語にせよ。

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2012年05月14日

●和文解釈入門 第360回

体の用法の違いについては、日常(不完了体)か、非日常(完了体)か、動詞に論理的アクセントが来なければ(動詞が従なら)不完了体、来るなら(動詞が主なら)完了体とか、流れのままなら(回りの雰囲気を読むなら)不完了体で、新しい事態が起こるなら完了体とか、客観的なら不完了体、主観的なら完了体であるなどと書いたが、その使い方を間違えると、その文を聞いた人は、程度の差こそあれ、違和感を感じる。単なる文体上の差に留まるのもあれば、理解の許容範囲を超えるものもある。そのため、作家によってはわざと体を入れ替えて、粗雑な人柄を表したり、ユーモラスな表現として工夫したりする手だてとすることもある。

 「敬語」(菊池康人、講談社学術文庫、1997年)の中に、敬語をわざと間違えて使う事により、文体的意味を変えている例が挙げられている。「とんでもないことをしてくれた」や「先輩がせっかくいらっしゃったんだ、酒ぐらいふるまえ」などである。日本語には体というものはないが、ひょうきんさ出したり、深刻さを和らげたりなどという、文体の差を変える一つの手段として敬語が使えるわけである。外国人が日本語を話す時に敬語を間違っても意味が通じる限り、特に咎めだてをすることはしない。しかし変な日本語だなという感じはつきまとうし、外国人でも敬語をうまく使えば、かなり日本語ができるという人だという印象を抱くことになる。

 体の用法もそれと同じではないだろうか。長年ロシア語に携わっていても、言葉というのは基本的意味が通じればよいのだと、体の用法に無頓着な人もけっこういるようだが、日本語の敬語に置き換えてみれば、そういう考え方は間違いであることが分かる。そういう人たちは、語彙も多く、体の用法の参考書を一読するだけで、体の用法をマスターすることができるのだろうから、その手間を惜しむというのは、誠に残念な話である。

設問)「設備の通関をするのは貴社ですよ」をロシア語にせよ。

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2012年05月15日

●和文解釈入門 第361回

動作遂行動詞については第359回の設問でも取り上げたが、よく分からない人もいるかもしれないので、もう少し具体的に書いて見る。なぜしつこく書くかというと、日本語では「ます」や「する」という助動詞や動詞で終わる文をロシア語にする場合、どの時制を使うのかという問題が起きるわけで、その区別のために必要だからである。動作遂行型の動詞ならロシア語では不完了体現在形を、それ以外の動詞は未来形(完了体乃至は不完了体)を使う事になるからである。

 デパートの案内などで、「~をご案内(連絡)申し上げますСообщаем, что」という文を耳にする。これは共に動作遂行型の動詞であって、動作の過程や状態の動詞ではない。動作遂行型の動詞は動作の始まりと終わりがある。過程や状態の動詞にはそれがない。「案内(連絡)する」は動作に始めと終わりがあって、過程ではないし、状態でもない。「~している」という過程や状態を示す助動詞をつけてみると、日本語の「案内している」や「禁止している」は状態であって、過程ではないことが分かる。これらは日本語の過程を示す助動詞「~しつつある」と比べると、その違いが分かる。

 一方「階段を上るподниматься по лестнице」、「昼食を食べるобедать」は動作の始めも終わりも意味しないし、「上っている」や「食べている」は状態ではなく、過程を示している。ロシア語でも、Я сейчас поднимаюсь по леснице.(私は今階段を上っている)は過程である。ただобедатьの現在形には予定の意味もあるので、文脈によってはЯ сейчас обедаю.(私は今昼食を食べている)とも、「彼は今すぐ昼食を食べます」とも解せるが、予定の意味に使える動詞は限られているからその区別は可能である。
「階段を上ります(上る)」や「昼食を食べます(食べる)」という文は、ロシア語では未来の時制であり、Я поднимусь по лестнице. (Кто будет подниматься по леснице? 階段を上るのは誰だ?)や、Я пообедаю. (Я буду обедать в ресторане. 彼はレストランで昼食を食べる)や、予定の用法のЯ обедаю через час.(1時間後に昼食を食べる)と未来の時制で示す。未来の時制における完了体と不完了体の用法違いについてはすでに述べたので割愛する。

 このように動作遂行動詞は、日本語で「~です、ます、だ、~する」という助動詞の文をロシア語に訳す時は不完了体現在形で示し、過程を示す動詞は未来の時制を使う。動作遂行動詞は動詞が動作の初めと終わりを示し、「~している」という助動詞との組み合わせでは状態を示す。一方それ以外の動詞は意味的には過程を示すという違いがあるから区別できるはずだ。

設問)「ここは長いのですか」をロシア語にせよ。

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2012年05月16日

●和文解釈入門 第362回

 不完了体未来形についてよく理解している人が少ないようなので、念のため、会話における和文露訳で不完了体未来形を使う基準を書いておく。

・論理的アクセントが動詞にないことだが、動詞は動作の有無の確認(名のみの存在と考えてもよい)のみの役割は果たす。

・動作の有無の確認する場合(特に疑問文では分かりやすいし、出やすい)、これは論理的アクセントを示すような補語がない場合の見分け方でもある。

・使おうと思う動詞が瞬間動詞ではないこと。つまりニュアンス的にある程度は過程の意味を持つ動詞は不完了体未来形が使える。瞬間動詞 (разбить など)は、論理的アクセントが来る動詞だからという考え方もできる。瞬間動詞や、他の動詞でも完了を強調する場合は、論理的アクセントが来るのだから、その場合は完了体未来形を用いる。

・機能動詞は名詞や名詞句との組み合わせなので、動詞そのものは動作(する)という意味だけで、動詞句の意味は名詞ないしは名詞句が担っているので、完了を強調するのではない限り、未来では不完了体として使われることが多い。機能動詞は不定法では具体的1回行為なら完了体不定形との結びつきが多く、繰り返しなら不完了体との組み合わせが多い。

・予定の意味の不完了体現在形を使うのは、運動の動詞など不完了体未来形では使うのに制限がある動詞とか、近接未来で、動作が起こるのが当然という場合に使われることが多い。そうでない場合は不完了体未来形か、文脈によって完了体未来形を使う。これは未来の意味の副詞がないときや、前後が予定の意味の文脈でない場合に、不完了体現在形を使うと繰り返しの意味と判断されるのが普通で、意味に曖昧さが出るからだと思われる。

 本来は使われる動詞が動作の有無の確認の場合は不完了体未来形を使うという事なのだが、(予備品をご注文なさいますか?)Вы будете заказывать запасный части? のような疑問文でなければ、平叙文では特に動作の有無の確認なのか、そうでないのかが分かりにくい。動作の有無の確認というのは動詞が叙情的ニュアンスを持たないということで、文中の動詞に論理的アクセントが来ずに、補語や主語に来るということになる。論理的アクセントがどこにくるかを見た方がどの体を用いるべきかが分かりやすいので、不完了体未来形を使うのは、動詞に論理的アクセントがないときと目印にしたわけである。要は「文の中の動詞に論理的アクセントが来なければ不完了体未来形を使う」という一点に尽きる。この点をよく理解してほしい。過去の時制における刺身のつまのような用法と同じ考え方である。

設問)「みぞおちに不快感(特に食後胃もたれや胃が張った感じ)がありますか?」をロシア語にせよ。

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2012年05月17日

●和文解釈入門 第363回

接続詞как と чтоの違いについて第206回の回答で述べたが、若干補足したい。какはговорить, спрашивать, рассказывать, знать, понимать, думатьがあると、従属文を結ぶ接続詞として働き、論理的アクセントを持って発音され、従属文ではこの語は様態の状況語の役割を果たす。Он спросил меня, как я решил эту задачу.(彼は私がどのようにこの〔算数や数学の〕問題を解いたのか尋ねた)。これに関連して、Как вы думаете? とЧто вы думаете о + 前置格? はどう違うのか説明してみたい。Как вы думаете? は単独でも、尋ねる文脈がはっきりしていれば、「どう思いますか?」と意見を尋ねる場合に使われる。そうでない場合は、Как вы думаете (ты думаешь) は疑問文の前置き(挿入文)となり、「~すると思いますか」と意見を尋ねる場合に使う。これは第33回回答にも書いたようにдумать系統の語句がзнать系統と異なり間接疑問文を支配できないことと関係がある。前に設問で回答した「日本を台風が襲うと思いますか?Как вы думаете, обрушится ли тайфун на Японию? もその例の一つである。一方、同じく意見を尋ねる意味では同じだが、Что вы думаете о спектакле?(その劇についてどう思いますか?)は具体的な対象(名詞)について、突っ込んで(より具体的な)意見を尋ねるときに使うという違いがある。節とも使え、(若者がインターネットのためにテレビを完全に拒否しているという点についてどう思いますか?)Что вы думаете о том, что молодёжь полностью отказывается от ТВ в пользу интернета?

 「ご意見はどうですか?」と尋ねるときの他の表現としては、
А каково ваше мнение по поводу развития событий в германском вопросе?(ドイツ問題における出来事の推移についてのご意見は?)
Какое ваше мнение о трассе?(コースについてのご意見は?)
Что вы можете сказать о роли?(その役割についてのご意見は?)
Что можно сказать о характере данного состояния?(この状態の特徴についてのご意見は?)
Каково ваше мнение об уровне выступления?(演技のレベルについてのご意見はいかがですか?)

設問)「午後は雨の見込みです」をロシア語にせよ。

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2012年05月18日

●和文解釈入門 第364回

体の本質は何かということについて、だいたいのところは分かるし、用法の基準というのもだいたい分かっているつもりである。しかし、なかなかすっきりした説明はできない。この頃考えるのは、「不完了体の本質は、動作の名指しにある」ということである。こう考えれば、3つの時制、命令法、不定法の全ての用法について説明がつくのではないかと考えるようになった。動作の名指しを動作の記述そのものと考えるのである。動作の記述そのものだから無色であり、何のニュアンスもつかない。それ自体ニュアンスがないのだから回りの雰囲気の影響も受けやすいということになる。Садитесь!(おかけください)もそういうことで説明できるのではなかろうか。不定法で不完了体が出にくいのは、不定法は具体的な1回行為のために用いられることが多いから、無色な不完了体は使いにくいのだと思う。未来時制においても自分自身の色がないのだから、注目はそれ以外の補語に移るのは自然のことであろう。動詞に論理的アクセントが来ないから不完了体未来形を使うというのはその意味である。不完了体はこのような控え目な性質のため、目立たないことで目立つ時以外は用法が分かりにくい、ある意味でカメレオンのようにも見えるのが不完了体なのだと思う。

設問)「便に血や粘液がついているのに気がつきませんでしたか?」をロシア語にせよ。

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2012年05月19日

●和文解釈入門 第365回

「不完了体の本質は、動作の名指しにある」としても、会話での和文露訳をする上では、曖昧としていて実用的には役に立たない。そのためには「文の中心的役割を動詞が担わない場合は、不完了体を用いる」とすればよいのではないかと思う。なぜ不完了体にこだわるかといえば、ロシア語の動詞で他の動詞のもととなったと思われる無接頭辞単純動詞делать, писать, читать, строить, гулятьが不完了体だからである。文の中心的役割を動詞が担わないということは、文の中で動詞がその存在を無視されるという事ではない。その場合動詞は何のニュアンスも持たず、基本的意味だけでその文の述語としての役割を果たしているという事を意味する。中心的ではない、二次的、三次的な役割、例えて言えば、通訳やガイドの様な裏方としての働きをしていると言ってもよい。主語 + 述語という、動詞を含む最小単位の文では、主語を強調しない限り、動詞の基本的意味である動作の有無の確認(その動作があるかないか、動作の名指しобщефактическое значение)という目立たない部分が表面に出てくるわけである。そのように考えれば、

Я не понимаю вас.(おっしゃることが分かりません)
Больше не буду (делать этого).(もうしませんから)
Говорите громче.(もっと大きな声で話して下さい)
Я хожу в университет каждый день.(毎日大学に通っています)

 上記の例文にしても、文の中心的役割を果たしているのは、最初の二つでは否定詞неであり、次のではгромчеで、最後のではв университетないしはкаждый деньであって、動詞ではない。ゆえに不完了体が用いられていると考えるわけである。

 ちなみに、Я не пойму.(理解できない)やЯ не скажу.(言えない)の場合は、時制的には現在(未来の時制も否定されていると考えることもできる)であり、不可能や否定の強調という叙想的ニュアンスが付加されている、つまり述語である動詞に文の中心的意味があるということで、完了体が用いられているのである。Я не буду говорить, куда вам нужно идти.(あなたがどこへいらっしゃるべきかは言いません〔言うつもりはありません〕)では、неおよび(ないしはand/or и/или)куда以下が文の中心的役割を果たしているから不完了体が用いられているということになる。

 もう一つ例を挙げよう。完了体過去形を用いる結果の評価と不完了体命令形を用いる動作の様態の強調という用法の違いである。それは動作の様態の強調という用法では、動詞は文の中心的役割を果たさないが、結果の評価の用法ではその役割を果たすということにある。
(彼は全ての単語をよく暗記した)Он хорошо выучил все слова. – 結果の評価
(もっと大きな声で〔話して下さい〕(Говорите) громче! – 動作の様態の強調

 結果の評価の用法では動詞を省略すれば意味が通じなくなるが、動作の様態の強調という用法では動詞を省略しても意味は通じる。

 尚、これまで論理的アクセントと表記してきたが、曖昧でもあり、今後は文の中心的意味(役割)という表現に変えた。ご了承願う。

設問)「だって裁判にかけられるのはほかならぬ私なのよ」をロシア語にせよ。

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2012年05月20日

●和文解釈入門 第366回

研究社の露和辞典にбытьの未来形будетは未来の時制以外でも推測で使えるとして、Сколько будет два полюс три?(2足す3はいくつになりますか?)という例が挙げられている。無論これは研究社だけではなくて、アカデミーの文法書にもそう書かれている。思うに、「2 + 3」は現在の時点であり、その答えは推測ではなく、当然(一瞬後かもしれないが)未来になるというのは子供でも分かる理屈である。日本語でも「なる」と訳すのだから、未来の出来事であり、推測という用語を用いるのはおかしいように思う。同じく、Вы кто будете?(どちらさん?)も答えが一瞬後とはいえ未来になるからбудетеが用いられているのではないだろうか。Давно ли ты здесь?(ここは長いのかね?)の答えであるС месяц будет.(1か月ほどになります)は答える人が問いの立場に立つと考えると、未来の時制が出てもおかしくはない。推測ということについてはс + 対格で「だいたい」という意味があるし、答えるのが問いの後、つまり未来だからという解釈である。Сколько, дедушка, тебе лет?(お爺さん、年はいくつ?)の答えЛет сто будет.(百歳ぐらいかな)も、「だいたい」という推測の意味を担っているのは、Лет стоであり、будетが来ているのは、問いの答えが一瞬とは言え未来に来ているからではないか?このようなбудетは推測を示すというよりは、問いの後の答えだから、答える側が問いを出す立場に立って未来時制を用いるのだと考える方が無理がないと思う。

設問)「この発疹が出たのは何のせいだと思いますか?」をロシア語にせよ。

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2012年05月21日

●和文解釈入門 第367回

不完了体は動詞が文の中心的役割を果たさないときに使われると書いたが、Скажите, пожалуйста, где туалет?(トイレはどこか教えてください)という文に、なぜ完了体命令形が使われているのだろう?гдеが文の中心的意味を担っているように見えるからだ。検証してみよう。この文は二つの文から成っている。そのうちの一つГде туалет?は単独でも使える。街でГде туалет?といっても、答えてくれるかもしれないし、無視されるかもしれない。面と向かってなら、尋ねる相手が特定されているから答えてくれるかもしれない。そういう曖昧さを避けるために、Скажите, пожалуйстаをつけることによって、相手に声をかけ、特定し、丁寧に問いかけていることになる。つまり相手に声をかけることによって、叙想的ニュアンス(新たな事態の生起)が付加され、この文の中心的役割は動詞が担っていることが分かる。だから完了体が使われているのである。

設問)「2位につけているのは誰ですか?」をロシア語にせよ。

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2012年05月22日

●和文解釈入門 第368回

書くこともなくなったので、1年前に日本の心というコーナーでガイドが読んだ方がよいと思われる本について書いたが、その続きを時々は書いて見たい。
「幕末出島未公開文書(ドンケル=クルチウス覚え書)」、フォス美弥子編訳、新人物往来社、1992年
1852年から59年まで日本に滞在した、最後のオランダ商館長であり、初代オランダ理事官ドンケル・クルチウス(1813~79)の未公開文書。大通詞西吉兵衛の死の様子、プゥチャーチン来航など当時長崎奉行に外国人応接の助言をしていたドンケル・クルチウスが本国に送った覚え書きの翻訳である。下田村でのロシア人一行と日本人の触れ合いから、「ロシア人は概してアメリカ人よりも日本人の気質に合っているようだ。ロシア人は礼儀正しく、陽気であり、アメリカ人は横柄である」と書き、プゥチャーチンは漆器を熱望しているとも書いている。Opper-banjoostは大検使または検使のことだとある。クルチウスは踏み絵を止めさせた。また幕末に駐在していた欧米の外交官は為替差益でかなり儲けたが、そういうことに外交官として関わらなかったのはこのクルチウスとプロイセンのブラントだけだったという。非常に清廉潔白な人柄のようである。

「オランダ領事の幕末維新」、A・ボードウァン、フォス美弥子訳、新人物往来社、1987年
 1859年から1874年まで滞日したオランダ貿易会社代表兼領事アルベルト・ボードウァン(1829~1890)の私信105通を紹介したもの。兄のアントニウス・ボードウァン(1820~1890)も1862年から71年まで滞日、ポンぺの後任でもある有名な医者で、上野公園設立を実現させたので有名である。弟である彼は「女の着物は膝のあたりで細身にするように重ねるので、歩きにくそうです。内またで歩くので身のこなしが優雅には見えません。私は彼女たちを美しいとは思いません。たいていはかなり色白で、両頬に紅をはいています」とあり、ポンぺとは違う日本女性観を持っている。彼は一生独身だった。ポンぺについても「かなりお金を蓄えたようです」とか、シーボルトについても「老獪な古狐」と評するなど私信ならではの味わいがある。

*「ポンぺ日本滞在見聞記」、ポンぺ・ファン・メールデルフォルト、沼田次郎・荒瀬進共訳、雄松堂出版、1968年
 1857年から1862年まで滞日したオランダ海軍軍医ポンぺ(1829~1908)の日本見聞記。帰国後榎本武揚などオランダ留学生の面倒もみた。本書の前半はペリー来航前後と帰国直後までの日本の政治的出来事について述べ、後半で長崎医学校(1857年創立)や1861年に設立した日本最初の西洋式病院に触れていて、政治、貿易などはドンケル・クルチウスが書いていいような内容である。本書執筆の動機にオールコックやハリスなどの幕末における日本開国に果たしたオランダの役割の無視があったと思われる。スイス、ポルトガル、デンマークなどの日本との通商条約についてもオランダは陰日向によく支援していることは確かである。病院関係は松本順(時に良順)がよく手伝ったという。日本には胸部疾患が多く、これは着物がまえをはだけているからだろうとか、心臓病が多いのは強い酒の飲み過ぎ、熱い風呂に入ること、放蕩のせいであると書いている。生活習慣(運動不足や寄生虫)による眼病のせいで盲人も多いとも書いている。売春禁止の提言をしているのは当時としては目新しい。ただ貧乏が売春の原因であると指摘しているが、禁止してそれでどうするのかというのは書いていないが、このようにあげつらうのは多くを求めすぎるのかもしれない。コレラ対策、死体解剖実習など日本における医学上の功績は大きい。ただポンぺの遠出の範囲は鹿児島をカッテンディーケと共に訪れたのを除けば出島のみで、その実際の日本見聞の範囲は狭いということを理解しておく必要がある。岩倉具視の米欧使節がオランダを訪れたときにライデンを案内した。

設問)「その費用は貴社負担となります」をロシア語にせよ。

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2012年05月23日

●和文解釈入門 第369回

「長崎海軍伝習所の日々」、ファン・カッテンディーケ、水田信利訳、東洋文庫、平凡社、1964年
 1857~59年まで日本に海軍に関する教育をするために派遣されたオランダ第二次海軍派遣隊の班長で二等尉官(?~1866)の滞日印象記。日本では婦人は丁寧に扱われ、下層階級でも淑やかで動作は優美であるが、あまり美人は見かけなかったとある。若き頃の勝海舟、榎本武揚の様子、島津斉彬、鍋島閑叟などの横顔も分かる。勝海舟はペリーのことをせっかちだと評したという。アメリカのビジネスライクなやりかたが日本の形式主義と合わなかったことがよく分かる。

「赤松則良半生談」、赤松範一編注、東洋文庫、平凡社、1977年
 赤松則良(1841~1920)は幕府御家人の子として生まれ、13歳にして父ととともに下田にプゥチャーチンのヂアナ号遭難を見、長崎の第3回海軍伝習生に選ばれ(カッテンディーケがその教師でもあった)、咸臨丸の遣米使節の一員に選ばれ、1863年から69年まで榎本武揚、西周、津田真一郎らとともにオランダ留学生にも選ばれた。途中ナポレオンの流されたセントヘレナ島にも立ち寄っている。オランダではカッテンディーケ海軍卿の指示のもと日本に駐在した医師のポンぺなどが彼らの世話にあたった。赤松は後に新政府に仕え、日本の海軍の礎を築いた。

「氷川清話」、勝海舟、江藤淳・松浦玲編、講談社学術文庫、2000年
 流布されている吉本襄編ではなく、徹底的に洗い直した元の勝海舟(1823~99)談話に近くしたものだという。勝の後援者として箱館の商人渋田利右衛門の存在を知った。非常な本好きで貧乏だった勝に本代を後援したという。大半は幕末の人物評であり、この部分は興味深いが、勝一流のはったりもあるようだ。勝の評価する人物は西郷隆盛、横井小楠の二人を別格にして、大久保利通の果断を買い、松方正義や樺山資紀であり、大嫌いなのは伊東巳代治、末松謙澄であり、伊藤博文や陸奥宗光に対しても点が辛い。残りの部分は時局談で、何でも昔がよいというのは年寄りの繰り言と取られても仕方あるまい。幕末ロシアから幕府へ外債の申し出があったのは初めて知る話だ。文学でいうと幸田露伴を高く評価し、尾崎紅葉は単なる才子と見ている。勝の句で面白いものを挙げておく。時鳥不如帰遂に蜀魂(ホトトギスホトトギス遂にホトトギス)。これは時流に乗る己も失意(故郷に帰るに如かず)の己も結局は変わらぬ己だということのようだ。

「海舟座談」、巌本善治編、勝部真長校注、岩波文庫、1983年
 1895年~1898年の聞き書き「海舟余波」に後に手を入れたもの。海舟の口調や肉声がよく分かる。海舟の剣の師匠は島田虎之助で、父の小吉とも親しかった。島田が海舟に将来は蘭学をやるように勧めたという。子母澤寛の幕末奇談によると、島田は歩きながら毛虫でも、セミでもなんでも口に入れたのには一緒にいた人が閉口したとある。こうでないと今と違って道中食料確保のできない昔に武者修行はできなかったのだろう。大東流合気柔術の武田惣角(合気道の植芝盛平の師匠)も各地を回ったが、若いころはつぶてで鳥を落とすのは百発百中と言われた。無論武術の鍛錬というよりは食べるためである。

設問)「鼻づまりによくお悩みですか?」をロシア語にせよ。

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2012年05月24日

●和文解釈入門 第370回

熱心な投稿者のおかげでこのコーナも続いているが、この2年間にわたる体の研究の自分なりの成果と投稿者からのフィードバックを参考にして、体の用法に基づく「和文露訳入門(仮題)」の原稿を第300回の本文などを中心に整理中である。出版の見通しは全く立たないが、シーザーのThere is a tide in the affairs of men.(物事には潮時がある)という言葉を信じたい。今のところ粗原稿でA4にすると100ページぐらいになっているので、このコーナーでは全部紹介しきれない。基本的には第300回の本文と同じだが、~参照というのを全て整理して、本文に組み込むつもりである。そうすればいちいち前の(それも複数あるものも多い)回のを見なくても済むし、第一説明が矛盾しているところも散見されるから、そういうところも直していきたい。第300回の本文にある不完了体未来形についての項は大幅に書き改めたので、それだけを下記に紹介する。それ以降の不完了体現在形による予定の用法は第345回を参照願う。それ以外は基本的に変わらないので割愛する。

 このコーナー他に書き散らした類語、書き散らしたがゆえに使う方も大変だろうと思い、エクセルでアイウエオ順に和露類語集として整理したら390の語彙となった。これも出版したいが、世の中すべて需要と供給である。ロシア語が不人気で、且つ景気が悪いのではどうしようもない。

     和文露訳入門(仮題)

はじめに
 (略)
 ラスードヴァРассудова О. П. 先生の「ロシア語動詞 体の用法」(磯谷孝訳編、吾妻書房、1975年)の過去時制における体の用法という章の中に、「話し手の注意が、場所、時間、動作の主体に向けられている時には不完了体が必須となる」とある。これは未来の時制でも、動作の名指しに使われる動詞に制限があることを別にすれば、使えるのではないかと考えた。それとこれまでの40年にわたってロシア語に携わってきた経験と、自分でその間に収集した9万の語彙を吟味した結果から、体の本質を一言で言うなら、「不完了体は動作の名指しである」ということではないかと考える。ゆえに完了体は自動的にそれ以外ということになる。動作の名指しというのは動作の一般的(基本的)意味であり、それゆえ無色であり、何のニュアンスもつかない。それ自体ニュアンスがないのだから回りの雰囲気の影響も受けやすいということになる。Садитесь!(おかけください)も、座ると言う動作の指示があり、座るのがその場の雰囲気から考えて妥当であるということで、着手の意味が出てくるのだと思われる。不定法で不完了体が出にくいのは、不定法で使われる動詞は具体的な1回行為のために用いられることが多いから、無色な不完了体は使いにくいのだと考える。未来時制においても自分自身の色がないのだから、注目はそれ以外の補語に移るのは自然のことであろう。動詞に文の中心的意味(役割)が来ないから、不完了体未来形を使うというのはその意味である。不完了体はこのような控え目な性質のため、目立たないことで目立つ時以外は用法が分かりにくい、ある意味でカメレオンのようにも見えるのが不完了体なのだと思う。(以下略)

第2章 未来の時制

第1節 未来における不完了体の用法

1. 単一動作に用いられる不完了体未来形
1-1 未来における動作の有無の確認
 動作の名指し(動作の有無の確認)の意味がよく分かりやすいのが疑問文である。会話でその動作がこれから起こるのかどうかを確認するときにこの用法が用いられ、そのため口語的表現とされる。動作の有無を尋ねるだけであって、完了体のような叙想的ニュアンスがない場合に使われる。次の文でも聞き手は注文するかどうか、お迎えの人が来るかどうかを単に聞いているだけで、注文してもらわなければ困るとか、来なければ困るというニュアンスはない。

(塗料をご注文なさいますか?)Вы будете заказывать краски?
(〔空港や駅などで〕お迎えがいらっしゃいますか?)Вас будут встречать?

 似たような意味にВы хотите заказать краски? と不定法を使うと、具体的な動作を示す完了体不定形が来ることに注意。この場合は欲求(~したいと思う)という叙想的ニュアンスが加わることになる。同様にсобиратьсяを使って、意志(~するつもりです)という叙想的ニュアンスを加えてもВы собираетесь заказать краски?と完了体不定形が来る。これで分かるように完了体というのは、動詞本来の語義に叙想的ニュアンスを付加するときに使われるのである。
 また、これから行われる(ないしは行われない)動作が問題となっている以上、動作の有無の確認に意図というニュアンスが加わるのは当然とも言える。

(〔地下鉄などで〕お降りになりますか?)Вы будете выходить?

 現実的には地下鉄において動作の有無を尋ねるという動作よりは、予定の用法であるВы выходите?という会話が圧倒的に多い。車両の出口のそばに立っていたら降りるのは当然と考えるのが普通だからだ。

「お座りになりますか?〔電車、バスの中で〕」Вы будете садиться?

 выходить, садитьсяにしても語義に過程的ニュアンスがあるから用いられるのであろう。

1-2 動詞に文の中心的意味(役割)が来ない場合
 話し手の注意が、場所、時間、動作の主体、手段や様態に向けられている時には不完了体が用いられる。

(何をお飲みになりますか?)Что вы будете пить?
(何を召し上がりますか?)Что вы будете есть?
「今晩何をなさるおつもりですか?」Что вы будете делать сегодня вечером?

 これはレストランなどでよく聞く表現だが、文の中心的意味(役割)が動詞ではなく、чтоにあるから、つまり動詞は刺身のつまのようなものなので不完了体未来形が使われている。この他に考えられるのは、回りの雰囲気を読むということで、レストランに入ったら飲み食いするのは当然ということから不完了体が出てくるのだろう。さらに、二つ目の文で完了体のсъестьを使うと「全部食べる」という意味になってしまって、意味が違ってくるということなど、不完了体が使われるのは、不完了体の出現を促すいろいろな要素がこのように複合的に絡み合っている場合もあると思われる。
 動作の有無の確認というのは動詞が叙情的ニュアンスを持たないということで、文中の動詞に文の中心的意味(役割)が来ずに、補語や主語に来るということになる。文の中心的意味(役割)がどこにくるかを見た方が、どの体を用いるかが分かりやすい。それゆえ、不完了体未来形を使うのは、動詞に文の中心的意味(役割)がないときというのを目印にしたわけである。刺身のつまのような用法で、不完了体の特徴である回りの雰囲気に合わせて動作を行うという意味の用法である。不完了体は叙想的ニュアンスのない、動作そのものを示す(叙実的なニュアンス)であるのが本義なので、既存の事実の有無の確認という概念の延長上にある用法であろう。つまり、この用法は過去時制の不完了体過去形の動作の名指しの用法や不完了体命令法の着手の用法の類推から、未来時制の動作の名指しの用法(未来の動作の有無の確認)となったものだと思われる。
 未来における動作の有無の確認だから、文脈によっては、意図(~するつもりである)という風に理解されることもあるが、こういう不完了体の意図の用法は完了体のような新しい事態の生起というような叙想的ニュアンスはない。回りの雰囲気や状況を無視して、勝手に「~するつもりです」とは使えないのである。「止まれ、撃つぞ」Стой! Стрелять буду! という文は意向を示す文だが、「止まれ」が中心的意味を持っているのは明らかであり、それゆえ不完了体未来形が来ている。

(何に乗ってお出かけですか?)На чём вы будете ехать?
(だれが歌い始めるのですか?)Кто будет начинать песню?

1-3 未来時制の動作の有無の確認(動作の名指し)に使える不完了体動詞(動詞の語義による)
 同じ文でも過去時制に事実の有無の確認に不完了体が用いられる場合、未来時制では体が入れ替わることがある。過去時制では動詞の制約は特にないが、未来の時制ではこの用法に使われる動詞は限られている。
(私は教授に会った)Я видел профессора.と(教授に会います)Я увижу профессора. や、(私は彼の意見を知っていた)Я знал его мнение. と(彼の意見を聞いてみます)Я узнаю его мнение. などである。
 この用法が使えるものは、まず第一に、無接頭辞単純動詞(гулять, делать, жить, играть, писать, пить, строить, читатьなどで本源動詞ともいう)である。これらは対応する完了体がない場合はもとより、対応する完了体がある場合でも、不完了体の方が使われる頻度がはるかに高いということもあって、比較的自由に使える。第二は動作の過程、持続性、延長性を示すことのできる動詞で、語義に瞬時的移動・変化を示すようなものを含むものは使えない。例えば、получатьは具体的なものを受け取る(ないしは「叱られるполучить выговор」など)という意味では、動作が一気に終わる(過程ではない)のでこの用法は使えないが、特典を得る、交付を受けるというようなある程度過程のニュアンスがある語義の時は使える。даватьは過程の意味では用いないのでこの用法には使えない。захватыватьも未来時制では「つかむ、とらえる」という繰り返しの動作(過程、持続性、延長性を考慮しない動作)を示すのでこの用法では使えず、完了体のзахватитьを使う事になる。

(彼は叱責を受ける)×Он будет получать выговор. → Он получит выговор.
(こういう助言をさしあげよう)×Я буду давать вам такой совет. → Я дам вам такой совет.
(パレルモはサイトの読者にスタイルに関する助言を与えます)Читателям сайта Палермо будет давать советы по стилю.(未来における繰り返し)
(太陽は2060年までに世界のエネルギーの50%を供給することになる)Солнце будет давать 50% мировой энергии к 2060 году.(未来における繰り返し)

 「どのように」というような様態を示す語句か、疑問詞が来れば(前述)、意味の主体を担わないという事で不完了体が使われることになる。この用法をよく示すものとしてещёとの組み合わせがある。この副詞があることで、繰り返しを暗示しているわけだから、言外に同じ動詞を二度使うというのと同じである。

(注意して作文を写します)Я буду внимательно переписывать сочинение.
(まだあなたに反論しますよ)Я ещё буду возражать вам.
(何を変えることができるかさらに調べてみます)Мы ещё будем узнавать, что можно изменить.
(夜もう一度薬を飲みます)Я буду ещё раз принимать лекарство вечером.

 仮に、同じ動詞が2度続けて使われたとしたら、最初は新しい情報の提示(新しい事態の生起)ということで、完了体の動詞が来るのが普通である。しかし、2度目の動詞はその動作について新しい情報を提示しない、つまり動作には主体的意味が来ないというわけで不完了体が出てくると言う事が言える。これは過去時制においてужеやоднаждыがあれば、動作の有無の確認を補強してくれるのと同じ発想である。
 質問があって、それに答えるとき、質問と同じ動詞で答える場合は、不完了体を使うというのは上記からお分かりだろうが、ロシア語では同じ動詞の繰り返しを避ける傾向があるので、動詞を言い換えた場合でも、その動詞は不完了体にするのが普通である。

(貨物はどのように納入されるのですか?)Как будут поставляться грузы?

 Какに文の中心的意味(役割)が来ているから不完了体が用いられているが、その回答である次の文でも、動詞が文の中心的役割を果たしていないので不完了体が用いられるのが普通である。

(鉄道で発送します)Мы будем отправлять их по железной дороге.

1-4 未来時制において動作の有無の確認(動作の名指し)の意味で使えない不完了体動詞

・状態の変化・発生を示す動詞 освождаться, преобращаться, становиться
 次のような未来における過程の意味では使える。
(有料教育はますます値段が高くなってゆく)Платное образование будет становиться всё более дорогим.
・瞬間的に成立する動作 брать, давать, изобретать, находить, получать
・無意識にもたらされる否定的結果を示すもの лишаться, ломать, разбивать, ронять, терять
・繰り返しのきかない単一的動作、意志的、非目的志向動作を示す動詞 видеть, выздоравливать, вылечиваться, погибать, поправляться, простужаться, рождаться, умирать, упадать

1-5 運動の動詞と不完了体未来形
 始発という概念自体は3つの解釈が可能である。一つは新たな事態の生起で、この意味は完了体が担っている。もう一つは予定、3つ目は動作の着手という回りの状況や雰囲気により行われるもので、後の二つは不完了体の領域である。露露辞典ではпойти/поехатьに別項目を立て、それぞれначать идти/начать ехатьと語義を与えている。つまりидти/ехатьには新たな事態の生起という意味での始発の意味はない。「行く」という一般的事実の意味か、過程の意味だけである。だからбытьの未来形 + идти (ехать)を使う場合に、例えば「薬局に行って来る」(新規の事柄、新たな事態の生起を示す)という露訳に、いきなりЯ буду идти в аптеку. とは使いにくい。動作自体が新規であり、動作が文の意味の中心であるような文なので完了体未来形を使う。

(薬局まで行って来る。薬局までは歩いて15分だ)Я пойду в аптеку. До аптеки я буду идти 15 минут.

 同じ動詞が二度使われる場合、最初のがふつうは新しい話題の提起(新しい事態の生起)であり、そうであれば二度目に使われる動詞は既知のものであるゆえに、中心的役割は果たすことはない。いわば刺身のつまのような用法だから不完了体を使うのである。ただ同じ始発でも予定であれば、それは不完了体現在形で示すことができ、(1時間後に薬局に歩いてゆく)Я иду в аптеку через час.となる。

 不完了体未来形がいきなり出てくるように見える文でも、例えば、

(普通列車でお行きになるのですね)Вы будете ехать в обычном пассажирском поезде.

 普通列車に文の中心的意味が来ているから不完了体未来形が使われている。

 レーニンの言葉とされる(我らは別の道を行く)Мы пойдём другим путём. にせよ、行くという動作について何の前提がない(これまでとは違う別の道を行くということ)のだから、完了体未来形を用いる。つまり、そういう動作が起こる事が当然という意識がない以上、不完了体は使えないことが分かる。

(この場合は費用はすべて貴社負担となります)В этом случае вы будете нести все расходы.
 нестиも運動の動詞であるが、上記の場合は機能動詞(後述)であり、文の中心的な意味を果たしているのは、文脈によるが、вы(貴社)、расходы(費用)の方であって、нестиではないので、不完了体が来ている。

 「明日モスクワに立ちます」という文を露訳すれば、新しい事態の生起(新しい情報の提示)であるから、Завтра я поеду в Москву. と完了体未来形を使うのが普通である。Завтра я еду в Москву. と不完了体現在形の予定の用法を用いると、同じ日本語でもモスクワ行きを前から予定していたということになる。あまり言わないが、不完了体未来形を使ってみよう。ただし、завтраがあると出発するに意識が行ってしまって完了体未来形の領域なので、これを外して文を作ると、Я буду ехать в Москву. となり、「車や電車で(飛行機ではなく)モスクワに行く」というニュアンスになる。
 при-という接頭辞のつく運動の動詞は過程の意味がないので、この用法では使えないが、
(お降りになりますか?)Вы будете выходить?
(多分、年の暮れはあなたが会社から最後に帰ることになります)Возможно, накануне Нового года вы будете уходить с работы последним.

 上記のように動作の有無の確認で使うвыходитьや、動詞に文の中心的意味の来ない用法のуходитьは運動の動詞だがこの用法で使える。

1-6 否定的意図 → не + бытьの未来形(не + статьの未来形) + 不完了体動詞不定形
 これから起こる動作の否定の確認ゆえに、否定詞のнеが動詞の語義そのものを否定しているので不完了体未来形が来る。また不完了体本来の用法である、回りから依頼されたり、命令されたりという状況があって、その状況に合わせて、「~しない」ということで不完了体未来形が使われるとも言える。не стоит + 不完了体不定形(意味がない、値しない)の意味に近い。動作の否定の確認ゆえに「~するつもりはない」という意向の意味になる場合も多い。否定詞と完了体未来形の組み合わせは、不可能ないしは否定の強調の意味となる。не буду говорить とне скажуの違いは、前者が「言うつもりはない」という意志を示し、後者は「言わない」という未来の動作の否定の強調であると同時に、「言えない」という不可能をも表せる。どちらかは文脈による。

(お前を騙すつもりなんかない)Я тебя обманывать не буду.
(お手間〔お時間〕は取らせません)Я не буду отнимать ваше время.
(俺にかまうな。俺もお前には手をださないから)Ты меня не трогай, и я тебя не буду трогать.
(結婚を急ぐつもりはない)А я торопиться с женитьбой не стану.
(彼にご馳走を勧めないでください。食べませんから)Не угощайте его, он не станет есть.
(だって人を密告するつもりなんかないよ)Ведь не стану де я доносить на других.

 не браться + 完了体不定形は「~しようとは思わない、その任にあらず」ということだが、自分の能力、自信、希望に対する疑念を示す。
(被害の全体の規模を計算しようと思う人は今のところいない)Общий размер аварии пока никто не берётся подсчитать.

1-7 両方の体がほぼ同じ意味で使える場合
 平叙文においては不完了体未来形の動作の名指しと完了体未来形の具体的単一動作の実現の区別がつかない場合もある。

「彼に明日電話する」をЯ позвоню ему завтра.やЯ буду звонить ему завтра.としたり、
「助けてくれるよう彼に頼もう」をМы попросим его помочь нам.やМы будем просить его помочь нам.としてもニュアンスを別にすれば意味は変わらない。不完了体の方が口語的というだけである。しかし、他の動詞では、単一動作の伝達という行為自体が、一つの点となるような動作(過程を意味しない一気に終了するような動作)が多いために、完了体未来形を使う方が多いようである。単一動作の伝達は文脈によっては意図(意志)の意味になりやすいという事は言えるが、はっきりと意図であることを示したいのなら、собираться, намеренなどを用いた方が誤解が少ない。

(建設現場への救急手配はどうするつもりですか?)Как вы собираетесь организовать первую медицинскую помощь на площадку?

 上記のように両方の体が使えるのは、動作が始まって終わるというニュアンスのある動詞である。始まりだけとか、終わりだけを意味するとか、過程を示すような動詞は両方の体はほぼ同じ意味では使えない。писать, обедатьなどは可能である。つまり、後述のзвонить/позвонитьとписать/написатьの動詞群がほとんど当てはまるということになる。

Завтра я буду писать письмо домой.(明日家に手紙を書くつもりです)
Завтра я напишу письмо домой.(明日手紙を家に書きます)

 начать/начинатьとкончить/кончатьのように始めと終わりを示す動詞は、完了体が具体的1回の動作を示し(新しい事態の生起、動作の完了)、不完了体は動作の名指しから派生した動作の着手、ないしはそれから派生する意志の用法となり、ニュアンスがかなり変わる。

Я кончу работу.(その仕事を終わりまでやってしまうよ) - 新しい事態の生起、動作の完了。
Я буду кончать работу.(〔とりあえず今日は〕仕事を終えるつもりだ) - 動作の着手ないしは意志の用法。

1-8 動作の着手(意志)
 不定期の、あるいは持続的な過程を示すのであれば、動作の着手にも不完了体未来形が使える。これは不完了体の機能の一つで命令法に現れやすいが、未来の時制でも示すことができる。一人称の場合は動作の着手から派生して意志のニュアンスが出やすい。着手といっても、新たな事態の生起ではなく、状況に身をゆだねた形での着手である。

(じゃあ集会を始めよう)Ну, будем начинать собрание!
(そう願いたいものです)Будем надеяться!
(その辞典は近日発売される)Словарь будет продаваться в ближайшие дни.
(問題を出します)Я буду задавать вопросы.
(来月エニセイ川に水力発電所を建設します)В следующем месяце мы будем строить ГЭС на Энисее.
(いただきます)Я буду есть.

1-9 未来時制においてесли, когдаに導かれる複文での時間にとらわれない一般的事実の表示
 命令法の促しという用法に似ている。この用法には1-4, 1-5で使えない、あるいは使いにくいとされた動詞も一般的事実の意味ということで用いることができる。例えば、

(もしこの方法を使うのが初めてなら、CDをドライブに入れなさい)Если будете использовать это средство впервые, вставьте компакт-диск в привод.

 という文ではеслиと一緒だと一般的事実の意味が出てくるし、不完了体の未来形では、二つの動作が何ら拘束し合わずに、時間的に共存する動作が名指しされていて、広く使われる用法である。

(映画館のそばを通る時に、明日の切符を買います)Когда мы будем идти мимо кинотеатра, мы купим билеты на завтра.
(出かけるときは、ガスを消して下さい)Когда вы будете уходить, выключите газ.
(貯水池のそばを車で通る時に、一休みするのに素晴らしい場所を教えてあげますよ)Когда мы будем ехать мимо водохранилища, я покажу вам прекрасное место для отдыха.

 これを完了体未来形にした文を見てみると、

(もしレバーを右にいっぱい回すと、目盛には緑色が光ります)Если вы повернёте ручку направо до отказа, на шкале вспыхнет зелёный свет.

 повернётеという動作が実現してからвспыхнетという動作が成立する、しかも最初の動作と次の動作が(あまり間をおかずに)行われるという動作の順次性が示されている。この使い分けは、二つの文の時間的関係である。次々と動作が起こるのであれば、完了体を続けることになるし、時間的拘束がなければ、если, когдаを含む節ではбытьの未来形 + 不完了体不定形を使う事になる。

(左に曲がれば、駅が見えますよ)Если вы повернёте налево, то увидите станцию.

 次のような現在における繰り返しの文では不完了体現在形が用いられる。
(もし膜が破れたら、どんな措置をとりますか?)Какие принимаются меры, если лопается мембрана?

1-10 完了体未来形、不完了体動詞現在形、不完了体未来形の使い分け
  意味やニュアンスが体の用法を決めるわけだから、話し手(通訳、ガイド)が、新しい情報を提示するのだという意識があれば、完了体未来形を使うだろうし、動作が予定の行動であるという認識なら、使える動詞は限られているが予定の意味の不完了体現在形を使うだろう。また単に動作がこれから起こるかどうか知りたいという疑問文や回りの雰囲気に合わせてということなら不完了体未来形を使うという事になる。

 例えば、「報告(講演)するделать/сделать доклад」という動詞を未来時制で使うとすると、機能動詞のделатьであるために、珍しいことだが完了体未来形、不完了体動詞現在形、不完了体未来形の3つが使える。普通は完了体未来形か不完了体未来形の二つのうちいずれかであり、動詞によっては完了体未来形、ないしは不完了体未来形だけというのもある。未来時制で和文露訳をする場合、どちらを使うか悩むところだが、単一の動作を意味し、新しい話題の提示ということであれば完了体未来形を用いるのが普通である。ゆえにЯ сделаю доклад о танках.(戦車について報告します)とするのが一般的であろう。不完了体現在形を用いるのは予定に組み込まれているときで、Я делаю доклад на пленарной сессии.(本会議で報告します)となる。はっきり動作の延長上にあると確信できるなら、使える動詞は限られているとはいえ、予定という意味で不完了体現在形を使う事になる。
 動詞自体に中心的な意味がない、動作の有無のみを示すような、ないしは刺身の付け合わせのような文、例えばЯ буду делать доклад на русском языке.(報告はロシア語でします)というような場合に用いられる。そうでない場合は時間の長さを意識するような動作である。完了体未来形が動作を「すぐ~する」というイメージがあるのに反し、бытьの未来形 + 不完了体はこれまでの動作や行為の延長上にあると思われるような動作、また時間的には一拍おいた感じか、期限が明示されないような場合に使われると考えればよい。обедать, заказыватьも上記のように3つの使い分けが可能である。
 しかしучаствовать(参加する)のように対応する完了体のない動詞もある。近接未来の場合のように、文脈によっては現在形でЭта команда впервые участвует в Олимпийских играх.(このチームは初めてオリンピックに参加します)と予定の意味でも使えるが、未来時制の場合はВы будете участвовать в этом заседании?(この会議に参加しますか?)とбыть動詞の未来形との組み合わせが多い。このように完了体がない動詞(питьなどの接頭辞のない単純動詞)では、対応する完了体がない以上、быть動詞の未来形と組み合わせて、「~するつもりである」という意図の意味で使わざるを得ない。участвоватьでどうしても新規という事を強調したいという場合はどうするかというと、同義語を用いるしかない。Приму участие в семинарах.(セミナーに参加します)とするか、少し意味は変わるがПоучаствую в семинарах.(ちょっとゼミに参加します)となる。完了体と不完了体が同程度に使われる動詞というのは少ない。どちらかがメインで使われる場合が多いし、上に挙げたように不完了体しかないもの、完了体しかない動詞もある。そう考えれば動詞によって未来時制で使われる用法というのもある程度決まってくるという事になる。不完了体の程度というのも動詞によって異なることが分かる。動詞によっては文脈によって、程度によっては新しい事態の生起という事柄にも対応できるものもあるという事が分かる。

2. 予定 →不完了体現在形(以下略、第345回参照)

設問)「積み込みの責任者にはだれがなるのですか?」をロシア語にせよ。

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2012年05月25日

●和文解釈入門 第371回

*「名ごりの夢」、今泉みね口述、東洋文庫、1963年
 今泉みね(1855~1937)は幕府蘭医桂川甫周の娘。桂川甫周の弟は木村摂津守で遣米使節である。この縁で福沢諭吉はアメリカに連れて行ってもらうことができた。幼少の折、洋学者の宇都宮三郎、柳田春三、成島柳北、福沢諭吉に遊んでもらった思い出などを幕末の江戸情緒を踏まえて描いている。非常に優雅でたおやかな文体で、人柄がしのばれる。中にはこっけいな話もあり、明治の化学に寄与した宇都宮三郎がアンモニアの実験で、試験管におならを仕込んで大隈重信にかがし、さすがの大隈も苦笑せざるを得なかったという。夫は副島種臣に師事し、その書も残っているようである。副島の書は近代の書家の中でも非常に有名である。

「懐旧九十年」、石黒忠悳、岩波文庫、1983年
 1936年初出。石黒忠悳(ただのり)(1845~1941)は陸軍軍医制度の確立に一生を捧げた。ちなみに海軍軍医制度を確立したのは薩摩出身の高木兼寛である。薩長土出身でないものが、己が才能一つで道を切り開いた姿には感動を呼ぶ。早くから勤皇の志をもち、佐久間象山に師事し、その教えにより洋楽・医学を学んだ。長寿の人ゆえ幕末から明治時代の風習などにも詳しく説明している。大西郷の逸話なのも面黒い。

 ボードウァンに上野に温泉療養所付きの病院について意見を求めたところ、ボードウァンは公園を作ることを勧め、結局それが実現したことで、自分の非を認め、後にボードウァンの銅像が上野に建つことに助力した。もっともその銅像はボードウァンはボードウァンでも弟の方だった。弟はオランダ領事で頭が禿げていたが、医者の兄は毛はあった。八方美人ではなく、理のあると思うところは上司にもつっかかったようである。松本順や山県有朋などから可愛がられた。本文にはないが森鴎外をドイツに留学させたが、幸田露伴が指摘しているように、石黒はうるさく指示してきたらしく、鴎外は石黒のことを目の上のこぶと思っていたようだし、原首相とも衝突した。明治の最初の女医荻野吟子(1851~1913)が医術開業試験合格するのにも助力した。

 陸軍を辞めた後は日本赤十字社長を勤めた。日韓併合についても韓国人の気持ちを考えると一概に喜べないと書いている。日清戦争講和で来日した李鴻章狙撃(小山六太郎による)のときも李鴻章の手当てを明治天皇から命じられている。非常に細かいことに気の付く人のようで、洋行者の手引き「洋(なだ)の灯」という本を書いている。脚気論を書くぐらい脚気には関心があり、森鴎外にも脚気の研究をさせたが、鴎外自身は麦飯が経験的に脚気に効くと言う事を信じず、そのため陸軍では何千人も脚気で死んだ。脚気はビタミンB1不足で起こるのだが、海軍の高木軍医医長は経験的にタンパク質不足が脚気の原因と考え、パン食や麦飯の導入で劇的に脚気患者は減少した。ただ兵の間では銀シャリをありがたがる風が強く、パンや麦飯は非常に不人気で、高木の後任者からこれを減じ、そのため脚気の患者は増えたという。こういう点について石黒は自伝では何も触れていない。

「自歴譜」、加太邦憲、岩波文庫、1982年
 加太邦憲(1849~1929)は桑名藩出身で、司法省法学校正則第1期生。大津地裁裁判長、京都地裁裁判長、東京地裁裁判長、大阪控訴院長を歴任した。幕末に実見した打ち首の様子、安政の大地震や関東大震災の記述など興味深い。陪審員制度を、フランスのパリ大学から招いたボワソナードは治罪法草案に入れていたが、大木司法卿はこれを削除。後に原首相のときに法律となったという。加太は1886年から法学関係を究めるため欧州留学した。モスクワにも行き、上の威圧甚だしければ人民の未開なるも故なきにあらずとか、上流・下流の社会あれど、中流社会なし、上流社会は奢侈を極むる弊風ありと述べており、独仏よりだいぶ遅れていると述べている。

設問)「発明の使用権取得とノウハウの違いは何ですか?」をロシア語にせよ。

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2012年05月26日

●和文解釈入門 第372回

*「後は昔の記他」(林董回顧録)、由比正臣校注、東洋文庫、平凡社、1970年
 林董(1850~1913)は1866年の幕府の英国留学生で後、外交官。明治の条約改正についても詳しい。伊藤博文や陸奥宗光系統の人なので、山県有朋系統の青木周造自伝や陸奥宗光の蹇蹇録なども参考にする必要がある。佐倉の木内宗五郎は幕府に直訴して子供ともども磔になったが、長子(12歳)のみ男で、残りは女子(8歳、6歳、4歳)だったが、当時は女子は死刑にできなかったので、わざわざ男子として処刑したなどと書いてあり、佐倉の堀田家には宗五が祟ったという言い伝えもあるという。1860年の生麦事件については殺されたリチャードソンより数分前に島津公の行列で下馬したヴァンリード(ジョセフ・ヒコの旧友)という米国書記官には何事もなかったが、日本人を中国人と同様と見て不遜だったリチャードソンは下馬せず、それで奈良原喜左衛門の初太刀を浴び、久木村利休により深傷を負い、死亡したという。ポンぺもリチャードソンの伯父から彼が傲慢だったために報いを受けたのだという話をオランダでの汽車の中で聞き、同じようなことを書いている。1864年のボールドウィン中佐・バード中尉の暗殺についても下手人は清水清次(晒し首の写真が残っている)ではなく、本当は彼は別件の強盗強姦事件で死罪となるべきところ、武士として潔く死ねと因果を含められたからとも聞く。
大津事件の背景についても書いてあり、明治までは英国の皇族が訪日しても歓待したが、小松川殿下訪英の際はつれなくあしらわれ、それでコンノート卿が訪日した時にあまり歓迎しなかった。それでニコライ皇太子が来日の折は、駐日ロシア公使夫人が、身分の関係でロシア宮廷には拝謁できなかったので、手柄を立てて拝謁できるようにするため、熱心に歓待を、夫を通じて勧めた。それで、英国側が、皇太子は日本占領の下見に来たなどと流言を流したために、それが新聞にも取り上げられ、それを津田が信じたことによるという。大津事件については小説形式で書いた吉村昭の「ニコライ遭難」がよい。林の兄は松本順(時に良順)で、姉ふさは山内作左衛門(幕末のロシア留学生)に、妹多津は榎本武揚(幕末のオランダ留学生、後外務大臣)、妹貞は赤松則良(幕末のオランダ留学生)に嫁いだ。父は順天堂塾の創始者であり、義父は順天堂病院を創立した。

「アメリカ彦蔵自伝」(2巻)、中川努・山口修訳、東洋文庫、平凡社、1964年
 初出は1895年。ジョセフ・ヒコ(1837~1897)。1850年江戸の帰りに遭難。救助されサンフランシスコへ。人柄のせいかいろいろな人に親切にされ、アメリカの学校で2年ほど学ぶ。1854年受洗、1857年アメリカに帰化。1859年帰国。神奈川領事の通訳を1860年までと1862~63年勤め、その後はビジネスを始める。下関戦争のときはアメリカのワイオミング号に乗船していた。その実見談は面白い。上巻は自分の経験談が中心で面白いが、下巻では風聞や当時の新聞に載っていた記事が多い。ただ校注が詳しいのでそれはそれで勉強になる。当時の政治状況をアメリカ人側から語っているのも興味深いが、当時の日本について当たり前のことは日本人なので、触れられていないのは残念である。ヒコは3人の米国大統領と会っている。ピアース、ブキャナン、そしてリンカーンである。リンカーンと会った唯一の日本人と言える。主家のために、あるいは家系を守るために責めを負って腹を切ることを、英語で当時happy dispach「有難きおいとま」と名付けたという。これは日本語にないと書いているが(オールコックも同様に書いている)、要は詰め腹であり、もう少し詳しく言えば商腹(あきないばら)である。

設問)「どちらの目の見え方がよくないですか?」をロシア語にせよ。

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2012年05月27日

●和文解釈入門 第373回

不完了体の本質は動作の基本的意味にあり、行雲流水のようなもので、回りの雰囲気に合わせるというニュアンスがある。それがよく現れるのが、動作の名指し(動作の有無の確認)である。これは過去の時制全般、未来の時制の疑問では分かりやすい。しかし、未来の時制では分かりにくので、便宜的に、動詞が中心的意味を担わないときは不完了体が来ると書いた。第346回にも書いたように、結果の現存というニュアンスがあれば、疑問詞との組み合わせでも完了体が来る。このように、疑問詞というのは本来意味の中心を担うはずなのに、そうではない例である。今回は疑問詞以外でも、動作主体の強調などの場合でも、結果の現存というニュアンスがあれば、完了体過去形が来る。こう書くと
例外ばかり覚えなければならないようだが、それは違う。動作の名指しでないものには完了体を使うのだというだけのことである。

 否定文においても不完了体過去形は、動作(事実)の名指し(動作の有無の確認)であり、それに対して完了体過去形は期待、失望などの叙想的ニュアンスを持つ。ただ動作の主体を強調する(主体的意味を担う)場合で、結果の現存の意味があれば、完了体過去形が来る。

(教室にペンをお忘れになりませんでしたか?)Вы не оставляли ручку в аудитории?
(教室にペンをお忘れになったのはあなたではないですか?)Не вы ли оставили ручку в аудитории?

 上の文では両方とも誰がペンを大学の教室に置き忘れたかを聞いているのだが、前者では単に動作の有無の確認を、後者では動作がすでに起こっていて(結果の現存)、動作主体そのものに注意が向けられているとはいえ、叙想的ニュアンスが感じられる。そういう場合には完了体が来るのである。

(僕はテレビをつけなかった)Я не включал телевизор.
(テレビをつけたのは僕じゃない)Телевизор включил не я.

 この場合も前者は事実の確認であり、後者は動作はすでに起こっており、それに対する叙想的ニュアンスが感じられる。

設問)「長距離と短距離ではどちらが好きですか?」をロシア語にせよ。

Posted by SATOH at 05:45 | Comments [2]

2012年05月28日

●和文解釈入門 第374回

体の本質を理解したからと言って、実際の会話での和文露訳において、正しい体を使ってロシア語が話せるわけではない。反射的にロシア語が口をついて出る練習が不可欠である。体の用法の中でも相性の悪いというか、不得意なものが当然あるはずである。本コーナーの項目にある短文をできるだけ多く暗記して、いつでも口をついて出るようにすることが必要である。体の用法を理解した上での暗記は反射神経を鍛えることにもなる。そのために用例はできるだけ短く、応用力のある豊富なものを配した。例文は日常会話、医療ロシア語、観光ロシア語、技術ロシア語、スポーツロシア語、ビジネスロシア語から広く渉猟し、実戦でも十分役に立つものばかりであると自負している。

 ロシア語で話すというのと、会話で和文露訳をする(通訳する)というのを同じだと考える人もいるかもしれない。ガイドと通訳の違いである。名所を案内するときにガイドはロシア語で説明するわけだが、日本語の説明内容がそのままのロシア語では変なロシア語になるなと思えば、ロシアの習慣やロシア語にできるだけ違和感のないように変更する。そのロシア語を和訳したとすれば、日本語としておかしいということもありうる。通訳でも言っていることそのまま通訳すれば、表面的には正しくとも、言わんのすることとは違うという場合には、言わんとする本質に合わせて訳を変えるか、説明を加える。その他に通訳は露文和訳と和文露訳を交互にするが、ガイドは自分の頭の中での和文露訳がほとんどであるという違いがある。

 この通訳とガイドの違いというのを理解せずに、ロシア語が話せれば通訳もガイドもできるというのは考え違いである。両者とも内容の本質の正確さを目指すのだが、できるだけ余計な説明とかは少なくして、純粋に表面上の訳が、言わんとすることにできるだけ近づけるように努力する必要がある。それを究めるためには体の用法や類語に対する理解、日本の文化、通訳する相手に対する理解が欠かせない。

設問)「助けが必要であればお声をおかけください」をロシア語にせよ。

Posted by SATOH at 06:47 | Comments [4]

2012年05月29日

●和文解釈入門 第375回

日本語の敬語はロシア語の体と似ている。どちらも外国人には理解が難しい。それでこの頃敬語を勉強している。その中で気がついたのだが、「声をおかけください」と「お声をおかけください」とでは、どちらが敬語として正しのだろう。ある企業では前者が規範という指導していると聞く。自分なりに双方の理屈を考えてみた。もともとこの動詞は「声をかける」(知らせる)という意味の熟語であることが、二重敬語の問題と相まって問題をややこしくしている。「敬語」(菊池康人、講談社学術文庫)によれば、尊敬語と尊敬語のように同じ種類の敬語が続くのを二重敬語として、過剰使用ということから避けよということである。ゆえに、「お読まれになる」や「お読みになられる」は、「読まれる」と「お読みになる」の二つの尊敬語が使われているからいけないということになる。一方「お荷物をお預けになる」では、「荷物」の尊敬語「お荷物」と「預ける」の尊敬語「お預けになる」が、それぞれ別々に尊敬語になっており、それは正しい用法であると書かれている。

 しかし、「声をかける」と「荷物を預ける」は同じではない。前者は熟語だが、後者は補語を変えることができ、「鍵を預ける」と言える。そのため「声をかける」を「お(ご)~くださる」という謙譲語Ⅰの命令形に直すと、「お声をかけてください」か、「声をおかけ〔になって〕ください」にしかならないという理屈になる。そのため一つ「お」を取らなければならないが、動詞の方は構文なので外せないから、名詞の方の「声」から取ったということなのだろう。ちなみに、最近は敬語を尊敬語、謙譲語、丁寧語の3つにわけるのではなく、謙譲語を二つに分け、丁寧語から美化語を分けて5つにするとしている。謙譲語Ⅰというのは「申す(普通は丁寧語のついた「申します」)のように1人称を絶対的に低めるが、謙譲語Ⅱは「申し上げる」のように1人称を相対的に低め、補語を高めるものである。
 
 一方「お声」にはの尊敬語(意味上の主語を尊敬する)と謙譲語Ⅰ(受け手尊敬)の意味があるが、この場合は動作の向かう先や者受け取り手を高めるものという謙譲語Ⅰの機能であろう。それゆえ、動詞が謙譲語Ⅰの「おかけ〔になって〕ください」となっているが、「荷物をお預けになる」が二重敬語ではないという理屈で、日本語としておかしくないことになる。ただ明らかな熟語を普通の補語 + 動詞とする見方自 体には大いに問題があるといえる。
最初の方は、敬語の作り方から見て理論的に正しいが、発話の最初に出てくる「声」が相手の「声」であることを考えると、「お声」としないと十分敬意が伝わらないのではないかという気もする。

設問)「常習的に規律を乱したり、常に不成績であれば、その研修生は帰国してもらいます」をロシア語にせよ。

Posted by SATOH at 06:05 | Comments [4]

2012年05月30日

●和文解釈入門 第376回

「幕末日本探訪記」、ロバート・フォーチュン、三宅馨訳、講談社学術文庫、1997年
英国人園芸学者フォーチューン(1813~80)の日本滞在記。外交官とは観点が違うのが面白い。彼は1860年に鎌倉の大仏を訪れているが、シドモアが描いたような大仏に対する外国人による不敬な行為の記述はない。もっともその頃は攘夷の時代で生麦事件など外国人が殺害される事件が多発していたからそのような不敬なまねはしなかったろうし、当時日本に来ていた外国人は観光客ではなく、役人か軍人だということもある。大仏の胎内に15メートルほどの礼拝堂があったというが、現在胎内に入ることはできるものの、このような御堂はない。鎌倉の大仏で今の観光客がよくするのは、当時の外人がしたように御手によじ登るのではなく、手乗り大仏の写真を撮るくらいだから可愛いものである。フォーチュンの本には駄馬が草鞋を履いている絵が載っている。日本に蹄鉄がちょうど入ってきたころである。シーボルトが二度目に来日した時に、シーボルトの留守中無断で何かの植物を持ち去り、あとでシーボルトともめたというシーボルトの長男の話がある。学術上の功名争いかもしれない。本書はソメイヨシノで有名な染井村の盆栽売買の様子など興味深い。

「オイレンブルク日本遠征記」(2巻)、中井晶夫訳、雄松堂出版、1969年
 著者は不明だが、第5章以降、つまり本書の2/3は随員のベルク(1825~1884)の作とされるプロイセン使節一行の公式記録。1860年オイレンブルク全権公使(1815~81)、フォン・ブラント(1872年から駐日公使、1835~1920)、画家のベルク、スケッチ画家のハイネ(1827~85、ペリーの日本遠征にも同行した)、リヒトフォーヘン(1833~1905、近代地理学の祖)他というメンバーで条約交渉を行った。ドイツ人の性格もあり、非常に細かく具体的に当時の状況などを述べていて、通貨問題などは特にわかりやすい。当時の江戸観光案内としても使える。通訳には森山多吉郎がメインで、福地源一郎は買い物の手伝いなどしていたようだ。堀田織部正の切腹(安藤対馬守との確執とも言われている)やヒュースケンの臨終の様子は痛ましい限りである。犯人は薩摩藩士の伊牟田尚平らで、彼は1868年京都において別件にて詰め腹を切らされた。江戸の後長崎に寄港し、ポンぺ、フォン・シーボルトや松本良順と親しくし、松本は離日の際漢詩を作って贈った。

設問)「絶え間ないひどい目のかゆみがありますか?」をロシア語にせよ。

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2012年05月31日

●和文解釈入門 第377回

「ドイツ公使の見た明治維新」、M・V・ブラント、原潔・永岡敦訳、新人物往来社、1987年
 1863~1875年まで日本に滞在したブラント(1835~1920年)の手記。文章が理詰めであり、紛争に巻き込まれるのを恐れて幕府にも諸藩にも中立を通した。大阪城を逃げ出した後、自害もしなかったことなどから徳川慶喜を好感の持てない人物と書き、大久保利通を高く評価している。堺事件、これは1868年フランス水兵殺害に関わったとされる土佐藩士20名が切腹を命じられ、11名が切腹したところで中止となった事件だが、これには一人が腸を掴みだすなど凄惨を究めたためとも、暗くなってきて立会いの外国人が襲われる可能性があったためとか、切腹したものが英雄視されるのを嫌ったなどの説がある。後に助かった9名のうち1名が割腹した。その知見などからかなりの事情通だったことがうかがわれる。堺事件については森鴎外の「堺事件」(1914年刊)の資料の読み方を批判して、大岡昇平が「堺港攘夷始末」(中央公論社、1989年)を書いている。ブラント1865年および1867年蝦夷地に旅しているのが特筆され、その中で箱館(現在の函館で、私の故郷でもある)は当時人口25,000人で住民は不潔だと書いている。1868~74年の日本の出来事に対し当時の外国人の書いた類書にはない記載も散見され、興味深い。彼は後に中国公使も勤めた親中派であり、日本を嫌っていたようであり、三国干渉のときの立役者の一人でもある。

「幕末外交談」、田辺太一、坂田精一訳・校注、東洋文庫、平凡社、1966年
田辺太一(1831~1915)は外国奉行支配となりパリ万博において、薩摩藩出品をめぐってモンブランとやりあった。幕府側から見た幕末の外交交渉の内情(幕府や諸藩藩主の)について述べた得がたい書。洋銀の為替レートについての説明は秀逸である。また注も詳しくて非常に良い。黒船の来航で幕府側が決して周章狼狽していたわけではなく、ただ指導層が目まぐるしく変わって決断力に欠ける憾みがあったということのようである。

「モンブランの日本見聞記」、C・モンブラン、森本英夫訳、新人物往来社、1987
本書には3人のフランス人と1人のイタリア人の日本見聞記が都合4編収められていて、モンブランは1867年のパリ万国博覧会の出店をめぐり幕府と薩摩藩との間でひと悶着あったが、この時の薩摩藩の代理人を務めたので有名である。1861~62年来日。他にデュパン(1861年訪日)、ボヌタン(1886年訪日)、カヴァリヨン(1891年訪日、彼はイタリア人)で幕末明治の日本についての印象記を読むことができる。

設問)「患者の目が変だ(何かおかしい)」をロシア語にせよ。

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2012年06月01日

●和文解釈入門 第378回

(石油とガスの生産は1924年からそこで行われている)という文を正しいロシア語にすれば、日本語の直訳のように、不完了体現在形を用いて、Добыча нефти и газа ведётся там с 1924 г. となる。日本人とすれば違和感がないのかもしれないが、ロシア語文法を勉強している身には何か変だなと思う。この文は過去のある一点から現在に至るわけだから、アオリストと結果の現存(存続)が一緒になったような用法である。いつの時点から動作が始まったかは、結果の現存でも示せるが、(彼は工場で3年働いている)Он работает на заводе три года.というような期間を示すことができない。和文露訳の観点から言えば、理屈は関係なく、こういうものだという用法だけ理解しておけばいいのかもしれないが、自分としては納得がいかなかった。

 原求作先生は「ロシア文法の要点」(水声社)の中で、(この大学で私が働き出してから8年経つ〔経った〕)Прошло восемь лет с тех пор, как я начал работать в этом университете.のначалもしばしば脱落してработаюとなると書かれており、そうであればначатьの過去形という、一種の結果の現存(存続)の用法から発展したという風に考えられる。これなら説明がつく。ただ不完了体現在形の場合は現在までの期間やいつからその期間が始まったかを示す語句がないと、繰り返しや動作の一般化と区別ができなくなる可能性がある。

 一方、同じように過去から現在までの継続を示すことができる被動形動詞過去短語尾や完了体過去形では、動作がいつから始まって現在に至るかを明示しようとする場合、с + 生格(例えば、с 1895 г.〔1895年から〕)と使うよりは(例外もあるが)、в + 前置格のように過去のある一点を示す語句(в 1895 г.〔1895年に〕とかдва дня назад〔2日前〕など)を使うことになり、期間そのものをすぐには明示できないという事になる。こういう文で完了体過去形の場合は、アオリストの用法であって、結果の現存の用法ではなくなる。それゆえ期間そのものを明示したい場合は、この不完了体現在形の用法を用いる事になったのだろう。この用法では過去から現在に至る反復も示すことができる。(1992年から5月1日は春と勤労の祝日として祝っている)С 1992 г. 1 мая отмечается как Праздник весны и труда.

設問)「夜中オシッコに起きますか?」をロシア語にせよ。

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2012年06月02日

●和文解釈入門 第379回

 意味が形式を決定する、つまり意味やニュアンスが体の用法を決めるわけだから、話し手(通訳、ガイド)に、新しい情報を提示するのだという意識があれば、完了体未来形を使うだろうし、動作が予定の行動であるという認識なら、使える動詞は限られているが予定の意味の不完了体現在形を使うだろう。また単に動作がこれから起こるかどうか知りたいという疑問文や、回りの雰囲気に合わせて、ということなら不完了体未来形を使うという事になる。

 これらは簡単なようだが、ロシア語の学習者は露文解釈の勉強から入るのが普通だから、所与のものである露文に慣れてしまっていて、会話でも和露辞典などで語彙を選択するぐらいはするが、会話だから瞬時に体を選べと言われても、できないことが多い。ロシア語のプロというような人でも、長年の経験からくる確率の信奉者で、命令形なら一応、完了体にしておこうとかとなどということになる。怖いことにその確率はできる人ほど高い。90~95%というような人もいる。しかし、覚えているのはロシア人が使ったという、間違いのない表現ばかりだから、文脈によっては不適切なものも当然出てくるし、体の用法の本質が分かっていないのだから、いつになってもこの場合にはこの体をということが断言できないし、外人ロシア語の要素が残る。またロシア人を前にしてロシア語を話すことにはやや萎縮してしまう事にもなる。ロシア人と日頃接触がある人なら、ロシア人の話す表現も吸収できる機会が多いだろうが、そうはいかないロシア語学習者の方がはるかに多いはずだ。このコーナーの設問のポイントを理解し、例文を暗記すれば、徐々にでも自分でどの体を使うべきか、慣れれば瞬時に判断することができるようになる。用法に疑問が出れば、第300回なり、第345回なり、第370回の本文を読むとよい。少しは助けになるだろう。

 しかし私自身が体の用法を間違えないという事ではない。会話では瞬時にどちらの体か決めなければならないので、間違う事も往々にしてある。ただ自分で体の用法の規範を持っているので、間違いはすぐ分かるし、ロシア人に聞くこともない。手遅れは手遅れだが、次回は間違えないようにとの反省の材料にはなる。

設問)「私ってあなたが思ってるようなそんな(軽薄な)女じゃなくてよ」をロシア語にせよ。

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2012年06月03日

●和文解釈入門 第380回

ся-動詞の不完了体、例えばвериться, вспоминаться, думаться, житься, забываться, писаться(否定形で使う事が多い), работаться, сидеться(否定形で使うことが多い), спаться, терпеться(否定形でよく使う)などは、否定で不可能の意味が出て来るものがあるし、被動形動詞現在やその名詞形でも可能の意味が出てくるものもある。これは語義から来ているものと思われる。непредсказуемый = такой, который нельзя предсказать, предвидеть, предугадать(不可能)やвидимыйの名詞видимость = возможность видеть удаленные предметы(可能)である。日本語の「(ら)れる」は受け身と可能が同じ形で示すことができるが、ロシア語もそれに似ている。「(ら)れる」は自発(自然にそうなる)から尊敬へと発展したらしいと「敬語」(菊池康人、講談社学術文庫)にある。また、この「(ら)れる」の4つの用法はいずれも動作主の意志性を否定するという共通点がある。そういえばся動詞の中にも再帰動詞というのがあり、意味は自発である。ロシア語の場合は敬語が発達せず、自発から受け身と可能に発展したと考えてよいのだろうか?いずれにせよ受け身、自発、可能はロシア語においても互いに密接な関係があると言える。

(肉眼で見ることができる衛星)спутник, видимый невооружённым глазом
(コントロール不可能の物価上昇)неконтролируемый рост цен
(予想不可能の結果)непредсказуемые результаты
(それとすぐ分かる顔)узнаваемое лицо
(彼は若いし、学ぶことができる)Он молодой и обучаемый.

設問)「最近何か変わったことで、説明が難しいようなことがありませんでした?」をロシア語にせよ。

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2012年06月04日

●和文解釈入門 第381回

このコーナーに類語をいろいろ書いているが、自分の備忘録というか知識の整理のためである。それと、ひょっとしたら間違いがあれば指摘してくれる奇特な人もいるかもしれないと考えているからでもある。

 コイルも訳しにくい言葉で、катушкаは電気関係でいうコイルである。ただコイル管はзмеевикという。змеевикというのはウオッカの密造で使われる冷却(凝縮)管というほうがロシアの庶民には通りがいい。鉄鋼用語で薄板の巻いたものもコイルというが、これはрулонで、トイレットペーパーのロールもこれである。しかも線材(線状に細長く圧延された鋼材、分かりやすく言えば針金)катанка = катаная проволока(針金の専門用語)のコイルはмотокとかбунтやбухтаという。乾燥は技術用語ではосушка, высушиваниеだが、お肌の乾燥(度)はсухость кожиという。日本語の手荷物には機内持ち込み手荷物とチェックイン手荷物がある。前者はручная кладьといい、後者はзарегистрированный багажという。名誉棄損はклеветаで、文書や印刷物によるものはдиффамацияという。

設問)「多くの人が波にのまれて死んだ」をロシア語にせよ。

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2012年06月05日

●和文解釈入門 第382回

技術用語のシールseal、ガスケットgasket、パッキンpackingというのは、ガスや液体の漏れ防止、密閉などに使う部品で技術関係では基本用語だが、使い分けを知らない人も多いと思うので書いておく。シールは全体を示す総称で、ロシア語ではуплотнение, уплотнительное устройствоでよい。ガスケットは固定用シール材であり、静止部分の密閉用に使い、прокладкаがそれに相当する。パッキンは回転部分に使い、сальникと訳す。この一種であるオイルシールはманжетаである。またノンコンタクシールはбесконтактные уплотненияであり、лабиринтные уплотненияラビリンスシールなどという。コンテナなどのシール(封印)はпломбаという。

 「鋳造する」はлитьだが、貨幣についてはчеканитьを用いる。技術者は総称的にはИТР (инженерно-технические работники)とし、単数ならтехникとする。技師はинженерで、生産工程技術者はтехнолог、メカニック、機械工、機械担当技術者はмеханикである。英語では鋳造も鋳物(製)品もcastingと同じだが、ロシア語ではそれぞれлитьёとотливка (複数はотливки)である。英露辞典ばかりに頼り過ぎるとこう言う間違いも犯す。鍛造と鍛造品もそれぞれковкаもпоковка (поковки)と違う。

設問)「入学希望者(志望者)は入学試験を受ける」をロシア語にせよ。

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2012年06月06日

●和文解釈入門 第383回

何度か外務省とロシア大使館の両方の通訳の現場に陪席させてもらったことがある。経済関係の事案でそれほど重要性の高くない案件だったと思う。なるほどうまく訳すものだと感心した覚えがある。向こうは単に訳すのではなく、国家の威信がかかっているわけで、我々民間の通訳とは緊張感も全然違うなと思った次第。ところがロシア大使館の同じ通訳が、ロシアのトップクラスの会社の社長に付き添って来て、ある工場で通訳することになった。その頃私も技術通訳をしていたから、席に呼ばれた。別に通訳はしなくてよいが、工場見学のときに通訳になるかもしれないし、それがいつから始まるか分からないので待機せよというようなことだったと思う。ところが話が急に契約に関わることに話がそれて、あまり技術用語に関係しないところで、ロシア人通訳が何度もつまるし、何を言っているのか分からなくなることがいくつか出てくる。それで、日本側はフンフンとうなずきながら、私に聞いてくるので、その都度こういうことでしょうと通訳というよりは解説する羽目になったことがある。この契約については私も全く知らないし、その工場に来て、翌日のことだから事情が分からないのは、その通訳の人と同じである。ただビジネスの経験があるというだけのことである。通訳といっても、一つのことばかりやっていれば、その分野はうまくなるのは当たり前だが、世の中の人はそれで全体を測ろうとする。ロシア語も広くて深い。やればきりがないという事がよくわかる。

設問)「その病気の潜伏期間は10日だ」をロシア語にせよ。

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2012年06月07日

●和文解釈入門 第384回

レシートはレジのはчекだが、タクシーやレストラン、店などのはсчёт (за такси)などと言う。「終える」という動詞には、кончить, закончить, окончитьがあるが、基本的な使い方はどう違うのだろう?кончитьは完全に終了する場合でも、一時的に止める時でも使えるが、закончитьは完全に終えるという意味であり、окончитьは期限が設定されていて、その期限が来たので終えるという感じで、卒業などと結び付きやすい。

 震源は正確にはгипоцентрであり、その真上の地点を震央эпицентрというが、比ゆ的にАвтомобилестроение находится в эпицентре процессов глобализации.(自動車業界はグローバル化のプロセスの中心にいる)と言う。接触はконтактとсоприкосновениеは電気的、機械的接触については同義語だが、比ゆ的な意味の接触はконтактで、соприкосновениеは関わり、とか、関わり合いという意味になる。また船舶同士、ないしは船と岸壁の操船ミスによる接触はнавалという。ノイズは騒音と言う意味ならшумだが、電波障害(電気信号の乱れ)ならпомехиと複数にする。建物はзданиеが普通だが、строениеは建物を一般化した言い方で、具体的なものには使いづらい。文章語のニュアンスがある。постройкаはやや小さい建物で、動物と関係がある場合が多い。застройка は敷地を念頭に置いた建物である。

設問)「使用済みの包帯は焼却してください」をロシア語にせよ。

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2012年06月08日

●和文解釈入門 第385回

「スイス領事の見た幕末日本」、ルドルフ・リンダウ、森本英夫訳、新人物往来社、1986年 
1859年、1861~62年の日本滞在記。リンダウ(1829~1910)はプロイセン人。外国人の日本印象記としては非常に良い。

「フランス士官の下関海戦記」、アルフレッド・ルサン、樋口裕一訳、新日本往来社、1987年
 1863~64年の下関海峡における長州攻撃に参加したフランス士官ルサン(1839~1919)の実見記。下関戦争の実見記としては一番詳しいと思われる。日本人の住居の際立った特徴は極度の清潔さにあるとしているとか、日本人は地上で最も形式的な民族であろうという感想を述べている。

「絵で見る幕末日本」、エメェ・アンベール、茂森唯士訳、講談社学術文庫、2004年
1863~64年スイス使節首席全権エメェ・アンベール(1819~1900)の日本滞在記。露訳からの重訳。図版が多い。アンベールは岩倉具視米欧使節が1874年スイスに来た時応対した。本書の間違いが指摘されたときにも丁寧に教えを乞うたという。

「続・絵で見る幕末日本」、エメェ・アンベール、高橋邦太郎訳、講談社学術文庫、2006年
 オリジナル(フランス語)からの訳で、「絵で見る幕末日本」に収録されていない部分の和訳。図版も多く、外交関係には触れず日本および日本人観察に徹した点は好感が持てる。当時の日本を示す観光ガイドとしては本書がベストではないかと思う。

「シュリーマン旅行記清国・日本」、ハインリッヒ・シュリーマン、石井和子訳、講談社学術文庫、1998年
シュリーマンはかのトロイ発掘で有名である。彼が訪日した1865年でも役人の馬は蹄鉄をつけていたが、それ以外は藁のサンダルを馬に履かせていたとある。それでもシドモアが訪れた日光ではまだ駄馬が草鞋を履いていたとあるから、蹄鉄は大都市だけのものだったことが分かる。筆者も今から50年前の函館で駄馬をよく見かけた。無論蹄鉄は履いていたが、よく馬糞が落ちていて、間違って踏むと、背が伸びるとか頭が良くなるといわれたのは、今にして思えば踏んだ人の不運をあざ笑わないということなのだろう。冬は馬糞が雪と交じってザラメのようになったのも思い出した。シュリーマンは家定が長州征伐に出かけたその行列で馬上の家定を見たと書いている。

設問)「断食すると楽になりますか?」をロシア語にせよ。

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2012年06月09日

●和文解釈入門 第386回

(153) 「江戸幕末滞在記」、エドゥアルト・スウェンソン、長島要一訳、講談社学術文庫、2003年
 フランス海兵隊に所属したデンマーク人士官スウェンソン(1842~1921)の1866~67年の日本滞在記。フランス公使ロッシュ(1809~1901)の徳川慶喜との会談にも陪席した。彼は後にデンマークの大北電信会社の社長として長崎・ウラジオ間の国際電信敷設に功があった。

(154) 「松本順自伝・長与専斎自伝」、小川鼎三・酒井シヅ校注、東洋文庫、平凡社、1980年
 松本順(時に良順)(1832~1907)の「蘭疇自伝」と長与専斎(1838~1902)の「松香私志」を収録してある。松本順の弟は林董。松本順はポンぺに師事し、日本最初の病院設立にも尽くした。また稲佐でロシア人の依頼を受けて娼妓のために日本最初の梅毒検査(検黴ともいい、当時は陰門開観と言ったと後述の大宅壮一が書いている)を行った。大宅壮一は1959年に書いた「日本新おんな系図」(大宅壮一全集第12巻所載、1982年)に、ロシア軍医が始め、松本良順も長崎で開業してこれを教わったと書いているが、嘘である。それ以外にもロシア人が稲佐で金をばらまくので、ロシア人さまさまで「おろしあ」となったとか、稲佐に関してはほらが過ぎる。「おろしあ」は日本語ではら行が語頭に立たないという原則から発音しやすいようにおをつけたものである。話がそれたが松本の近藤勇との交遊も有名で、新撰組に病院を作ったりした。家茂に可愛がられ、将軍は心臓内膜炎だったが最後まで看病した。最初の私立病院も早稲田に作った。大磯に海水浴場を造ったり、獣医制度を始めたりしたが、コレラについては精神的流行腸胃カタルとして伝染病ではないとした。今から20年前インドのボンベイに行ったとき、医者は下痢をすると何でもコレラだと言ったが、これに類したものか。コレラだった弱いのも強いのもあるのだろう。長与専斎は適塾で6年学び、福沢諭吉が塾頭のときもいた。後長崎でポンぺや松本順に学び、岩倉一行の遣欧使節に参加し、将来の日本の医学教育のために調査した。衛生という言葉を発明したのは長与であり、一生を日本の衛生のために尽くした。

(155) *「雨夜譚」(あまよがたり)、渋沢栄一述、長幸雄校注、岩波文庫、1984年
 渋沢栄一(1840~1931)は富農の家に生まれ、一橋家に仕えた。徳川昭武(1853~1910)に随行して欧州をめぐった。後に明治の大蔵官僚、大実業家となった。株式会社、製紙、保険、株式取引所、紡績、海運、陸運と彼が関与しないものはなかったという。幕府崩壊の裏面を知る上で非常に参考になる。

(156) *「田中正造昔話」、日本人の自伝第2巻所載、平凡社、1982年
 田中正造(1841~1913)の半生を描く自伝。足尾鉱山の鉱毒事件以前を扱っている。田中正造は六角家領地の名主の子と生まれ、一本気な性格と義侠心の富、若くして六角騒動に関係し11カ月の入牢(牢は3尺牢で、毒殺を恐れほとんどの期間食事をせず鰹節2つで飢えをしのいだという)、維新後南部で役所に勤めたが、上司殺害の嫌疑を受け3年入牢(算盤責めなどの拷問を受けた)、無罪放免となり、栃木で三島通庸県令(県庁所在地を栃木から宇都宮へ移した)の暴政を暴き、3年入牢する。この自伝は15歳で妓楼に上がりたった1回で梅毒に罹ったなど、自己の欠点を隠すことなく書いているのはなかなかできないことである。次から次へと大義名分のために事件に巻き込まれる展開は本書を非常に面白いものにしている。本書は文語体で書かれているが、話の内容が面白いので気にならない。田中正造は栃木改進党の重鎮でもある。
この日本人の自伝には「植木枝盛自叙伝」と「馬場辰猪自叙伝」(西田長寿訳)が収められているが、ともに夜郎自大の類であり、田中正造と比べればはるかに人間が小さい。ともに3人称で自分のことを恰も客観的に書いているようだが、俺が、俺がという我執(臭)があからさまだ。馬場辰猪(1850~1888)のは英文で、~した最初の人であるというのが10箇条書きになっている。短文からなっているのは英文があまりできなかったからかもしれないが、優美さはないし、性格もあるのだろうが説明がくどい。ただ福沢諭吉の塾にいたところのところは若干面白い。日本よりも外国に自分をアピールしたかったようだ。頭が切れすぎて他人が馬鹿に見えて仕方がないというタイプで、早死にしなくても森有礼のように早晩殺される運命にあったのかもしれない。植木枝盛(1857~1892)の自伝は語るに値しない。

設問)「お約束を明日に延ばすしかありません」をロシア語にせよ。

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2012年06月10日

●和文解釈入門 第387回

「~するつもりである」という意向の提示は、完了体未来形、不完了体現在形の予定の用法、бытьの未来形 + 不完了体不定形でも示される。だから、そういう場合このような意志の用法を使うときには、この3つの用法のうちのどれかということになる。可能性として高いのは、予定の意識がないときは完了体未来形だろうが、体の選択と言う観点で見れば、「~するつもりである」だけでは自動的には体の選択が出来ないことが分かる。出張だって自分の意志で決められる出張もあるし、それに不完了体現在形が使えないという事はない。だから回りの雰囲気に対してどうかということを考えた方が体の選択を間違わないと思う。回りに振り回されないというのなら、完了体未来形が来るだろうし、場の雰囲気を読むという観点なら、不完了体が来るということになる。

 普通は、回りの雰囲気に合わせるというのではなく、そういうことを頓着せずにというニュアンスだから、完了体を用いることが多いだろう。この意味の動詞がсобиратьсяと不完了体なのは、動作遂行動詞だからであろう。だから、意向を示す時は完了体未来形が来るべきで、不完了体未来形が来るのは、意向といっても、回りの雰囲気に合わせての、例えば、行きたくはないが、仕事での出張の予定であるとか、時間の長さのニュアンスがある、そういう類であろう。

設問)「冗談を言う気持ちではなかった」をロシア語にせよ。

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2012年06月11日

●和文解釈入門 第388回

露文解釈で一番簡単なのは時事ロシア語や論文である。これは使われる用語が常識や、専門用語の範囲内だからである。使われる語彙が限定されているなら、その理解はより簡単であるのは言うまでもない。使われる語彙がより自由な、つまり小説のようなものの方がはるかに難しいが、会話が多く、口語や隠語が頻出すればさらに分かりにくい。だからといって、露文解釈ばかりやっていても、会話はうまくならない。会話には実践が、つまり恥をかくのを恐れない気持ちがないとうまくならない。ある程度歳がいってからでは、それも難しかろうと思う。露文解釈の年季を積むだけでは、会話は絶対にうまくならない。せいぜいのところホテルのチェックインぐらいだろう。それだって、予約が入っていませんと言われた瞬間、オタオタしてしまうのではなかろうか、そういうような場合には使い物にはならないだろうから、せいぜい挨拶程度のロシア語会話と言える。

設問)「キエフへの朝のフライトを教えてください」
「2便あります。メモのご用意を」をロシア語にせよ。

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2012年06月12日

●和文解釈入門 第389回

 技術通訳のときに資料をもらえるときもあるし、事前の資料もなしで、何の通訳か分からないときもある。観光ガイドのつもりで行ったら、工場見学と商談の通訳だったという事も稀にある。これまでの経験で思うのは、技術通訳の場合は、できれば何の通訳をするのか、表題だけでも教えてほしいし、できれば、機械や設備の日本語か英語の取扱説明書(取説)があれば言う事はない。通訳エージェントの方で気を利かして、ロシア語に訳した取説を事前に貰えることがあるが、他の通訳は知らず、私には不要なことが多い。ロシア語に訳されているからと言って、その訳語が100%正しいかどうかは分からないし、こちらが知りたい訳語の訳がおかしい場合が多々あるからだ。だから日本語か英語の取説を見て、不明な語彙は自分で調べる主義である。そのための辞書も手持ちで300ぐらいはあるから、ほぼこれで間に合う。

 同時通訳だと、事前にもらう資料が多くなるだろうと思う。同時通訳者だって超能力者ではないのだから、事前に通訳の内容がどのようなものか、用語の範囲を知らないと、同時通訳できないのは当然である。シンポジウムの通訳するときも、講師の原稿がすでに翻訳されていて、そのまま読めばいいのか、それとも講師が必ずしも原稿通り話すのか話さないのかを知ることは非常に重要である。絶対に原稿通り話を進めるということを確認しない限り、その原稿を読んで頭には入れるが、通訳の時は見ないようにする。そうしないと、脱線した時の収拾がつかない。挙句に笑い話でもされた日にはお手上げである。私にとっては生真面目な講師か、そうでないかだけの見分けがつけばいいのである。

 シンポジウムで難しいのは講演自体ではなく、その後の質疑応答である。これがこなせれば一人前だし、技術関係の通訳が出来ると言える。資料も貰うのは当然と考える通訳もいるようだが、なくても通訳できるように日頃から技術関係の本を読んでおかないと、ただでさえ少ない仕事が来なくなる。贅沢は言ってられないのである。

設問)「送付を御依頼した論文を受け取りました」をロシア語にせよ。

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2012年06月13日

●和文解釈入門 第390回

一つの文でロシア語の動詞の体が正しく使われているかどうかを判断するのは、ロシア人や長年(10年ないしは20年)ガイドや通訳を経験している人にとっては難しいことではないだろう。ただこう言わないとかこういう体の使い方ではなくこうだという答えでは、体の区別についての質問をする方も困るだろう。その文やその文脈ではその体だというにすぎないからだ。しかし、教わる方にとっては、違う体は使えないのか、それとも使えるがニュアンスが変わるのか、あるいはどういう文脈ならどういう体が使えるのか、できるだけ多く用例と共に示してもらわないと納得がいかないと思う。もっというと質問者の側から、こういう場合はどういう体を使うのか、またそれはなぜかという質問に、「そうは言わないから」ではお話にならないし、勉強にも、体の用法をマスターする上での助けにもならないないことになる。つまりは10年も20年も、あるいはそれ以上の期間ひたすらロシア語の文例を暗記し、なんとなく体の用法が分かるのを待つしかないことになる。コンピューターだってなんだって、語彙もかなりの量集めれば知性をもつというからそれと同じような感じがする。しかし、人間はコンピューターではないから、20年もそれ以上もひたすら丸暗記というのもおかしな話だと思う。その打開策が文法であり、多数の文例を系統づけたものであり、それらを通しての体の用法を理解することだと私は考えている。理屈だけ理解しても、多数の文例がないと、どこまでなら使えるかの範囲が分からないからである。

設問)「アンナのところには学生時代から彼の電話番号が残されている」をロシア語にせよ。

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2012年06月14日

●和文解釈入門 第391回

私はロシア語を学び始めて40年になるが、このレベルになるまでかなり遠回りの勉強をしてきたなと今になって思う。文法を一通りやってから、和露辞典を片手に和文を露訳しても、作った文がロシア人から意味が分からないとか、意味はともかくロシア語ではこうは言わないとよく言われた。これは高校時代に英語でも同じ目に遭ってきたので、それではいけないと思い、句動詞や前置詞句の丸暗記をし、慣用句、諺、その上仕事柄、技術ロシア語(船舶用語、鉄鋼用語、プラント用語、工具関係、原料用語)などを勉強した。後悔はしていないが、勉強の1/3はひたすら暗記に明け暮れたと言ってよい。少しでも和文露訳に使える短文(由緒の正しい、つまりロシア語の著作から抜き出した短文)を理屈抜きで丸暗記するのである。これは狭い分野なら効果があるが、概して効率が悪い。それに丸暗記といういうのはまともな大人がすることではないと常々考えていた。その中でもっと文法を中心に据えて、暗記する量の軽減化を図れないかと考えたのが、体の用法をマスターすることだったわけである。これは間違っていないと今でも思っている。私の経験と系統的に集めた例文によってできたのが、和文露訳における体の用法の目安である第300回の表である。第300回、第345回、370回の本文に書かれたものをまとめたものが完成したが、A4で130ページ近くになってしまった。これを読むと、確かに第300回の本文は分かりにくいなという感じはする。まあそうは言っても、ポイントは変わらない。例文をいくつか入れ替えたし、その説明を具体的に詳しくしたと言うだけである。

 類義語の使い分けについては第14回に書いた本を読むのがベストだが、基本的には露露辞典の熟読に尽きる。それ以外の参考書については私のホームページの「ロシア語ガイド・通訳・翻訳で使える辞書・参考書」の最初の方に書いておいたので参照願う。それと自分なりの和露の語彙集(できるだけロシア語の例文を入れ、それにきちんとした和訳をする癖をつければそれが露文和訳の練習になる)をエクセルで作ることである。歳をとれば頭で覚えていることには限りがあるし、その語彙集があれば、いつも見直せるので安心である。私の語彙集は8万9千項目に近い。これが今や私の宝である。

設問)「もし他に何か問題が起これば、お電話下さい」をロシア語にせよ。

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2012年06月15日

●和文解釈入門 第392回

ただただ熱心な投稿者のおかげでこのコーナーもまだ保っている。開始当初の目標である100回もとうに過ぎた。しかも自分のロシア語にとっても思っていた以上の成果があったと思う。毎回というか毎日回答のコメントを書くのだが、投稿者の回答には自分が見逃していた事柄へのヒントがたくさんある。だから投稿者の皆様には感謝しても感謝しきれない。だから一人でも投稿者がある以上は、あるいは手持ちの短文がなくなるまでは続けたい。投稿がなくなればそれでお役目御免ということになる。手持ちの短文もまだ少しはある。このコーナーのために集めたわけではないが、手元においても自分のためにしか使えないが、このコーナーで紹介すれば、ロシア語の力を向上させたいと考える少数でも熱心な学習者の方々に、少しは役に立つかもしれないと考えている次第である。

設問)「今日(二人で)劇に行かない?」をロシア語にせよ。

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2012年06月16日

●和文解釈入門 第393回

体は話し手の意図によって使い分けることができる場合と、社会通念上、一方の体の使用が決まっている場合がある。後者の場合にそれと異なる体を使えば、礼を失するとか、突拍子もないというようなニュアンスが付加される可能性がある。これは日本語の敬語に似ている点もある。敬語の使用も上下、親疎、立場、場面、内/外、好悪によってある程度決まってくる場合と、話し手の意図によって、敬語の使い方が変わる場合があるからである。

設問)遺失物センターでよく使われる「今のところ何も届いていません」をロシア語にせよ。

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2012年06月17日

●和文解釈入門 第394回

文法と聞くとアレルギーを起こす人も多いらしい。ただ文法が先ずありきではないというのは自明のことである。文法というのはその言語を体系づけようとする一つの試みに過ぎず、外国人がその体系を利用してその語学を習得するのに、役に立つはずのものである。そういう意味で、体の用法を突き詰めて考えるというのは、自分の意思を正しく、ニュアンスも含めて、相手のロシア人に伝えるための道具をマスターするという事に過ぎない。

設問)「裁判をなめちゃいけない」をロシア語にせよ。

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2012年06月18日

●和文解釈入門 第395回

病院で「この問診票に書いてもらっていいですか?」と看護婦さんから聞かれた。何か依頼するときに、若いお嬢さん方が「~してもらっていいですか?」という構文を使うのを最近よく耳にする。テレビの影響なのだろう。年寄りの僻目か、聞き苦しくてしょうがない。「敬語」(菊池康人、講談社学術文庫)では、敬語の間違った例として、「~させていただく」は敬語の過剰使用であると批判している。その例に上がっているのが、
「お陰様で、今の職場にもう十年勤めさせていただいています」
「私ども○○社は、○○関係の商品の開発をさせていただいておりまして、お客様の快適な生活のために日々努力させていただいております」
 これらは許可を得る必要がないのに、あたかも許可をいただいたかのような書き方だからであるという。「~してもらっていいですか?」も、依頼なのだから、
「この問診票にお書き下さい」
「この問診票にお書き願います」
「この問診票にお書きいただきたいのですが」
とすべきだが、「お書きください」と命令形にしたり、「~願います」と断定するのを避けるために、あたかも許可を必要であるかのように装って、相手を立てているのかもしれない。3つ目が一番丁寧だと思うが、敬語は使う側の感じ方次第なのだろう。いずれこのようなサービス敬語が早晩、規範になるのかもしれない。

設問)別れの際の「お話しできてうれしく思います」をロシア語にせよ。

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2012年06月19日

●和文解釈入門 第396回

 短文で体のニュアンスを、しかも日本語で示すのは難しい。普通、短文なら、前後の文脈がないという事で、新しい事態の生起という叙想的ニュアンスから、完了体が出やすいと感じるために、間違いが生じる可能性も高いと思う。言葉と言うのは生き物であり、前後の文脈を離れては、体の用法の規範である「意味が形式を選択する」もあったものではない。逆に言えば、体の用法の本質と規範さえ、ものにしていれば、現場で通訳したりガイドしたりする方が、このコーナーの設問に比べて、体の選択を誤ることはないとも言える。つまり、このコーナーで正解を出せるなら、実戦でもっと楽に体が使えるという事になる。

設問)本屋に「あの、トルストイの第8巻はまだ入荷して(売り出されて)いませんか?」をロシア語にせよ。

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2012年06月20日

●和文解釈入門 第397回

会話でロシア語を話す場合、我々は原始人ではないのだから、動詞なしでは会話は済まされない。またバイリンガルでもないから、頭の中で母国語の日本語からロシア語に訳すことになる。そうかといって、語彙さえ知っていれば、右から左へと簡単に露訳できるかというとそうではない。日本語とロシア語は全く系統の違う言葉なのだから、日本語を外国語として客観的に見つめ直す必要があると考える。「外国語としての日本語」(佐々木瑞枝、講談社現代新書、1994年)を基に、和文露訳という面からその内容をアレンジして考えてみた。

 「カレーを食べます」は、毎日か、これからかでは、動詞の体が違うし、「カレーを食べています」、「学校に通っています」、「車は止まっています」、「座っています」、「一度見ています」でも、同じ「~しています」ではあるが、ロシア語にするときには動詞の体や時制を変えなければならない。これは日本語の「~しています」が、過程、繰り返し、現在完了、状態、経験の意味を担っているからである。「~した」も「歩いた」や「歩いて来た」のように、日本語では過去と現在完了の意味がある。つまり日本語の動詞を分析的に理解して、それに対応するロシア語構文を知らないと簡単な文も作れないという事になる。これは語彙だけの問題ではない。我々は日本人だから、日本語の具体的な文の意味もニュアンスも分かるし、分析的に考えることができる。だから、このような和露の分析的な対応する構文表があれば、後は、話し手が日本語で何を、どのようなニュアンスで伝えたいのかを分かりさえすればよいことになる。つまり、体の本質を理解することにより、対応の体を日本語の構文分析表に当てはめていけば、ロシア語にすることは難しいことではない。

 しかし、ロシア語の会話をマスターしようとする人は、できるだけ語彙と文例を覚え、その文例から応用して自分なりに会話をひねり出そうとしてきたし、今もそうである。そのまま文例が使えればなお結構という具合である。落ちこぼれる人がほとんどだが、中には運と根性に恵まれ、上達する人も少ないながらいる。しかし、これが、二十歳を超えた、あるいは越えなんとする人の勉強法だろうか?こういう迂遠な、場当たり的な学習法ではなく、より根源的な、体の本質に迫る学習法の方が、落ちこぼれのない学習法なのではないかと確信している。そこで、先学の業績を基に、自分なりに40年以上かけて集めた文例を、動詞という観点から和文露訳用に、三つの時制(未来、現在、過去)と二つの法(不定法、命令法)を中心にして、系統的に整理した構文表が本コーナー(第300回、第345回、第370回)に試みとして載せてある。体の本質の理解に少しでも役立つとよいと心から願っている。

設問)「明日お閑でしたら、市内観光に連れて行っていただけませんか?」をロシア語にせよ。

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2012年06月21日

●和文解釈入門 第398回

「外国語としての日本語」(佐々木瑞枝、講談社現代新書、1994年)によれば、日本語を学ぶ外国人の理解しにくい構文として、迷惑(被害)の受け身というのがあるという。「木が倒された」というのは、能動態として「(だれかが)木を倒した」とできるから、これは通常の受け身(直接受け身)である。ところが、「雨に降られた」は能動態に直せない。このようなものを迷惑(被害)の受け身(間接受け身)というのだとある。これをロシア語にしてみよう。Я попал под дождь.などどうであろう?попастьはоказаться(その場にいる〔ある〕ことになる)という意味だが、通常は偶然とか、予期に反してというニュアンスである。完全にうまく訳せるとは思わないが、これなども候補の一つになりうると思う。この他にподвергаться/подвергнутьсяもиспытать на себе действие(自分に何かの作用を受ける)という意味だが、その作用というのは好ましくないことが普通である。Мой дом больше всех подвергался ветру.(私の家はどこよりも風にやられた)というような文も可能である。

 市販の和露辞典には、類義語の使い方について記載がないとかという問題の他に、語彙の露訳がほとんどで、日本語の構文自体には目を向けて来なかったということも欠点としていえる。あたかも、それは文法書の管掌範囲であるといわんばかりである。ところが、文法書は文法書で、露文解釈ばかりに目が行くものだから、日本語とロシア語の時制や法(命令法や不定法)の用法の違いについて、和文露訳の観点からはほとんど説明していないように思われる。ロシア人と意思を交わす上で、露文解釈も和文露訳も両方必要なわけで、これまでほとんどなされているとは思えない和文露訳の視点に立った学習法の確立が必要だと考える次第である。そのためには日本人だから日本語は当然理解しているという観点ではなく、日本語とロシア語の構造的な差異に注目した指導法を確立しないと、いつまでたっても挨拶程度のロシア語だけで、ロシア人に自分の考えを伝えるという、コミュニケーションという道具としてのロシア語が使えないままであると思う。日本語自体を客観的に見つめるには、外国人に教える日本語というのが大いに参考になる。自分なりに思うのだが、その根幹となるのが、時制であり、命令法や不定法であろう。

設問)「彼らにどう対処すべきか明日決めなければなりません」をロシア語にせよ。

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2012年06月22日

●和文解釈入門 第399回

日光の三猿というのは有名だが、パロディーとして三猿にさらにもう一匹加えることがあると聞いた。その猿は「し猿」と呼ばれ、股間を両手でおさえている。「し猿」は、「しざる」(汝、姦淫するなかれ Не прелюбодей.)と「四猿」をかけたものである。エイズСПИДが世界的に問題視された際には、お尻をおさえた「五猿」も現れたという。さすがにこういうのはどうかとは思うが、御縁がないようにとか、そうで誤猿かなどとすぐ漢字が浮かぶのは我ながら困ったものだ。ただ漢字はロシア語のアネクドートのкаламбур(語呂合わせ、ダジャレ)の訳に部分的には使えるはずというのが私の持論でもある。

設問)「タバコを喫ってもかまいませんか?」をロシア語にせよ。

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2012年06月23日

●和文解釈入門 第400回

приходить в себяについて第173回に書いたが、Он начал приходить в себя.(彼は意識が戻り始めた)という文を見つけた。приходитьは過程を示せないが、抽象的な意味の時(意識が戻る、気がつく)では、過程の意味で使えると原求作先生は書かれている。しかし、意識が戻るというのは、一直線で戻るのだろうか?つまり過程として捉えられるのだろうか?気がつくというのは、意識が戻ったり、戻らなかったり、そういう意味で意識と無意識の境を往復しながらという風に理解して、ロシア語ではприходитьが用いられているのではなかろうか?

設問)「アレクセイ・イワノーフは1720年ごろ父を亡くした」をロシア語にせよ。

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2012年06月24日

●和文解釈入門 第401回

(158) 「戊辰物語」、東京日日新聞社会部編、世界ノンフィクション全集50、筑摩書房
1964所載。戊辰戦争後60年を経ての聞き書き。聞き手には落語家の小さん、彫刻家の高山光雲などがいる。戊辰戦争およびその前後の庶民の暮らしぶりなどがよく分かる。かつて東京日日新聞(後の毎日新聞)の記者だった子母澤寛は本書を作品によく用いている。

(159) 「幕末おろしあ留学生」、宮永孝、ちくまライブラリー、1991年
 ロシア領事ゴシュケーヴィチなどの勧めにより1866年ペテルブルグに幕府より派遣された6名の留学生について。ゴシュケーヴィチが留学生の生活費をピンはねしたのではないかとか、ゴンチャローフが教師としてこれら留学生を教えたなど興味深い。彼らは結局高等教育をペテルブルグで受けることはできず、一人は1867年、残りも一人を除いて1868年帰国した。橘耕斎についても記載ある。

(160) *「高橋是清自伝」(2巻)、高橋是清、上塚司編、中公文庫、1976年
 高橋是清(1854~1936)は1867年アメリカに赴き、苦学して(知らずして3年の奴隷の身に落とされたり)1868年末帰国。森有礼やフルベッキの世話になる。日本銀行に入社、後蔵相。二・二六事件で凶弾に倒れた。酒豪であり、豪胆な人柄のようである。若い時には横浜でボーイとして住み込みで働いていたときに、ネズミ取りでネズミをとらえ焼いてビフテキにして食べたとか、1871年ごろ吉原の金瓶大黒という妓楼で小少将という花魁に、八犬伝の仁義礼智信をもって若い人の来るところではないと諭されたりした。ちなみに彼女の部屋には客が読むかもしれぬとてウェブスターの大辞典やガノーの究理書が置かれてあったという。モーレー博士の通訳として勝海舟を訪れたときに、勝はモーレーに高等数学について問い合わせ、高橋がこの通訳ができなかったので、勝はオランダ語と紙に書いて質問した由。モーレーは勝のことを非常にほめたと言うが、勝流のはったりのような気がする。以降是清は通訳するのが嫌で勝のもとを訪ねなかった。このとき最初に出迎えたのは勝の三女逸だった。植物学者の矢田部良吉に森有礼と随行しての米国行きを譲った。このとき森は矢田部のことを狡猾なような風があると評し、矢田部自身もその慧眼に驚いたという。牧野富太郎(1862~1957、牧野富太郎自叙伝、講談社学術文庫、2004年)やクララ(後述)との経緯を見ればなるほどと思われる。ペルー銀山の失敗など浮き沈みの多い人生だが、率直で、誰の前でも無遠慮にものを言うのが疎まれた場合もあるが、私心はなく、常に国や公のことを考えていたという事がよく分かる。なんでも一から勉強し、人間関係も含め細かいところに注意を払い、疑問を疑問のままにしておかなかったことに高橋是清の成功の秘訣があることが本書を読めばよく分かる。高橋是清が暗殺されたときに夫人が暗殺者に対して卑怯者と言ったと言うが、全くその通りで、本当に惜しい人を亡くしたと思う。

(161) 「イタリア使節の幕末見聞記」、V・F・アルミニヨン、大久保昭男訳、講談社学術文庫、2000年 
1866年訪日したイタリア使節の日本見聞録。蚕卵紙の買い付けへの道をつけることが使節の狙いだったというのは知らなかった。

設問)「甲板のどのくらいの高さでホバリングするつもりですか?」をロシア語にせよ。

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2012年06月25日

●和文解釈入門 第402回

приходитьが抽象的な意味でも過程の意味を示せないということについて、たまたまШаг за шагом работа на месте крушения стала приходить к концу.(徐々に転覆現場での仕事は終わりに近づき始めた)という文を見つけた。これは一つの段階ごとに、その段階に達していることが繰り返されているように思われる。つまり、これも過程を意味していないように思われるのでприходитьの用法とは矛盾しないと思う。

設問)「奴があんたに雷を落としても、俺は警告したからな」をロシア語にせよ。

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2012年06月26日

●和文解釈入門 第403回

「日本語」(金田一春彦、岩波新書、1988年、2巻)の中に、英語で表せない日本語の表現というのが出てきた。二つあって、一つは、「レーガンは何代目のアメリカの大統領ですか?」である。これは、「リンカーンは15代目の大統領である。レーガンはいかが?」となるとある。ロシア語では表現できないのだろうか?何代目かというのは何番目かということであり、これは第300回で出題してある。これを使って、Который Рэйган по счёту президент США?となるはずだ。
 もう一つは「今日はどこどこへ行きましたか?」である。英語では「どこに?Where?」としか、つまり単数でしか表現できないということらしい。これもロシア語では、По каким местам вы ходили?でよさそうに思うがどうだろうか?ただсегодняという時間を示す副詞と不完了体過去形をつけるのはどうかなという気もする。かといって対応する完了体はないし、この文脈で完了体過去形が使えるとも思えない。

 一方日本語には関係代名詞がないので不便なこともあり、その例として、I have nothing with which I eat the meal.を挙げている。これなどは、「ご飯を食べたいが箸もない」とでも言い換えるしかないのだろう。ロシア語なら、У меня нет ничего, которым я ем пищу.とでもなるのかもしれないが、何か人工的な気がする。

 「私がルーヴルで見ていたく感激した記憶がまだなまなましいあの名画が、今度はるばる海を越えて上野へやってくる」というような関係代名詞が二重に使われる文は、英語に訳そうとするとうまくいかないということも書いている。関係代名詞も万能ではないらしい。和文自体がくどい感じなので、好きな文章ではないし、通訳するとしたら、二つぐらいに文を分けるとは思うが、一応直訳すればこうなる。Из-за далёкой границы идёт на выставку в Уэно шедевр живописи, который в Лувре на меня произвела ещё неизгладимое впечатление.

設問)「おはきの靴のメーカーはどこのですか?」をロシア語にせよ。

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2012年06月27日

●和文解釈入門 第404回

「生きた日本語を教えるくふう」(佐々木瑞枝、小学館、2003年)の中に、日本語の動詞には、止まるや終えるなどの瞬間動詞と、走るや食べるなどの継続動詞の2種類があって、「~している」という助動詞をつけてみると、前者は現在完了であり、後者は過程を示しているというようなことが書いてあった。日本語を外国人に教えるときには、このように分析的に考える必要があるということのようである。振り返って、会話における和文露訳を考えてみると、我々はバイリンガルではないから、頭の中で日本語からロシア語へ翻訳していることになる。そうなると、名詞、代名詞、形容詞などは格変化を別にすれば、基本的にそのまま覚えればいいのだが、動詞については、日本語を分析的にとらえないと、露訳できないということになる。これまではよく使う動詞をできるだけ例文ごと丸暗記してきたが、かなりの数の例文を覚えないと、いろいろな状況には対応できないことになる。

 「~します」というのは、繰り返しか、意志かの判断だけすればよいか思われる。「いつも」なら不完了体現在形であり、これからの動作なら、完了体か不完了体かは別にして未来時制とすればよさそうだ。「私はカレーを食べます」という文で、毎日というニュアンスなら不完了体現在形のестを、個からの動作ならсъемかбуду естьを体の用法に合わせて選べばよい。ところが、同じ「~します」でも、「(毎日)~を私はお知らせします」や「~を私はお知らせします」なら、соощаю不完了体現在形であり、「(後ほど)~を私はお知らせします」сообщимなら完了体未来形を使う。こういうのも本コーナーで体の用法の本質をマスターすれば簡単に理解できるようになる。

設問)「父称は名の後に、名字の前に来る」をロシア語にせよ。

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2012年06月28日

●和文解釈入門 第405回

日本語の動詞にはには辞書形(終止形)とます形があるが、二人称であれば、「明日来る?Ты придёшь завтра?」と「明日来ますか?Вы придёте завтра?」のようにтыとвыに対応した訳が可能だと思う。同じことは敬語を使うか、使わないかでも同じである。日本語では人称による動詞の活用はないが、敬語による人称暗示機能というものはある。「お買い物ですか?」と言えば、対応する主語はвыということになる。このような点を、これまで和文露訳では日本人であれば当然分かるとでも考えたのか、教えて来なかったように思う。
 露文和訳において、выがあれば、「あなた」と訳すのが定番だが、「あなた」は日本語では目上には使えないと考えた方がよい。目下や同輩への丁寧表現である。同輩の人に使うにしても、切口上的な、冷たい感じを受ける。未来時制の文に対しても、「~だろう」と、現在時制ではないと、訳している本人は正しく理解しているつもりだよということを示すだけのために、日本語の語法を無視した、国語学者や日本語学者が聞いたら憤慨するようなことを学校でも教えるのはいかがなものか。日本語では「~だろう」は推測であって、未来時制を示すものではない。「明日買い物に行く」と「明日買い物行くだろう」は意味が違う。日本語では辞書形(終止形)で、現在の繰り返しと未来の意志を示すというのは素人でも分かることだ。若い人に変な日本語を教えて、日本語を勝手に崩すのは許されることではない。語学をやるのであれば、母国語に鈍感であってはならないはずだ。

 和文露訳と言えばロシア人の先生に任せきりで、そういう先生は日本語が堪能とはいえ、敬語を教えるほどではないし、教わる方の生徒にせよ、敬語の知識がそのロシア人の先生とどっこいどっこいだからということもある。和文露訳はロシア語が話せるだけでも、日本語が話せるだけでもいけない。両方の言語を分析的にとらえ、生徒のあらゆる質問に答えるだけの覚悟が要ると思う。これは覚悟であって、全部の質問に答えられるということではない。生徒の質問に答えられるよう先生の方も必死の努力が必要だということである。だから授業では生徒にロシア語に対していかに疑問を持たせるかというように、授業を持っていくかかが大切である。疑問は成長の素である。

設問)「この回のジャンプでベスト(の記録)を出したのはだれですか?」をロシア語にせよ。

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2012年06月29日

●和文解釈入門 第406回

遊ぶはигратьだが、設備などの遊休の場合にはОборудование простаивает (играет).(設備が遊んでいる)と言う。人が行方不明になるはпропасть без вестиだが、手紙が行方不明になったはПисьмо затерялось.という言い方をする。計画はпланだが、проектも同義である。ただпроектには設計、建築計画という意味と、原案(ドラフト)という意味もある。計画という意味ではпрожектは廃語で、現在では実現不可能な計画の事を指す。輸送関係で使うロットというのは荷口のことで1回の積荷ということであり、ロシア語ではпартияである。個口というのは荷物における箱やスーツケースなどの数で、ロシア語ではместоという。こういうのは日本語の助数辞に近い。助数辞については300回の表のffff) や第45回本文参照。

設問)「それは1893年11月9日火曜の晩のことだった」をロシア語にせよ。

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2012年06月30日

●和文解釈入門 第407回

「おかけください」を露訳するときに、必ず、Садитесь. Присаживайтесь.(少しの間座れというニュアンス) Подсаживайтесь.(回りにとか、近くに座れというニュアンス)と不完了体命令形で言わなければならないのだろうか?子供向けの本に、「ヴルンゲリ船長の冒険Приключения капитана Вругнеля, А. Некрасов」というのがあり、邦訳もあるそうだから、ご存知の方もいるかもしれない。児童書というのは、会話文も多く、会話の和文露訳をマスターしたい人には精読して、いろいろな表現を収集するには絶好である。ヴルンゲリ船長はヨットで世界一周をしたという豪のものだが、今や航海学校で教えている身の上。生徒からは航海などしたことがないのではないかと疑いの声も聞かれる始末。あるとき風邪をひいて学校を休んだ時に、成績簿を取りに級長が船長の家を訪ねる。部屋の中に色々ある航海の記念品を見て、その生徒が、А вы разве плавали?(本当に航海をなさったことがあるのですか?〔典型的な動作の有無の確認、名指しの用法の経験〕)と言うと、憤慨した船長は長話をしようとして、生徒が立ったままであるのに気付き、Да вы присядьте ...と声をかける。この訳は「まあまあ座ってください」とか、「おやおや〔気がつきませんで〕、座ってください」でもよいが、要するに、船長としては、急に相手が立ちっぱなしだという事に気がついて、それまでとは違う動作である、場独立型の完了多命令形を用いたというわけである。このように相手も座るのが当然とは思っていないだろうと話し手が見なす(相手が本当のところどう思っているかは分からないし、それを考慮しない)ときに、完了体命令形は使われる。

 課長が部下を席に呼んで話を聞くときは、部下は立ったまま話をするのが普通である。ところが、課長の方で話が長くとなる思えば、Сядь.(まあ座れよ)と完了体命令形が出てくる。部下が座ることを予想していないということを課長は知っているからである。

 同様に、混んだ電車で取引先のお客さんと立っているときに、空いた席を見つけたらその人に、上記同様Сядьте.というはずだ。このように、「お座りなさい」はСадитесь.と馬鹿の一つ覚えのようにしていると、生きたロシア語が永久に分からないことになる。それに対処するには、場面転換と状況把握が分かりやすい、また会話の文も多い児童文学の精読というのも一つの方法だと思う。

設問)「(いくつかの)問題の話し合いの方に移りましょうか。そのためにお見えになったのでしょうから」をロシア語にせよ。

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2012年07月01日

●和文解釈入門 第408回

私自身が耳にして、きれいな日本語とは思えない表現に、助詞にアクセントを置く言い方がある。「~は」を「~はぁー」、「~(と)か」を「~(と)かぁー」、「~で」を「~でぇー」と延ばすものであり、テレビを見る限り、老若男女関係なく、使う人が多い。若いころの大学紛争のときにに聞いた学生運動家の「我々はー」というのを思い出す。これは、「あの」とか「つまり」など、次の文をどう言うか考えをまとめるための間の代わり、ないしは息継ぎなのだろう。金田一春彦によれば、会話の後につけるネサヨの廃止運動というのがあって、みっともないからこれを止める代わりに、切れ目ごとに変な節を入れるようになったとある。また日本語は母音で終わる語が多く、イタリア語やスペイン語と並んでメロディーがあるように聞こえる美しい言語だという。せっかくの美しい言語が台無しなのではないか。このような表現は音調を崩しているとか思えないし、間が抜けた感じがする。ネサヨの方がはるかにましだ。

 このほかに、若い男女が使う「~ないですか」がある。これは、日本人は断定を嫌うための、日本人の否定表現好きと関係があるらしい。しかし否定文であっても、断定されているようでこれも聞き苦しい感じがする。

設問)和食レストランで「僕はウナギだ」をロシア語にせよ。

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2012年07月02日

●和文解釈入門 第409回

英語には定冠詞と不定冠詞があるが、日本語にはない。その代わりを格助詞である「は」と「が」がしていると、「ベーシック日本語教育」(佐々木泰子ほか、ひつじ書房、2007年)の日本語文法の章(この部分は森山新先生が書いている)にある。例として挙がっているのは、「昔々、あるところにおじいさんとおばあさん(が)住んでいました。ある日おばあさん(は)川へ洗濯へ行きました」という文で、「が」が新事実(不特定)を提示し、「は」は既出(特定)を提示するとある。ロシア語にも冠詞はないが、その役割を一部、完了体と不完了体が担っているとも言える。第2回の設問で紹介した、

「このバッグを買ったのよ」- Я купила эту сумочку.
「どこで買ったの?」- Где ты её покупала?
 あるいは、逆の関係になるが、
(おかけください。テーブルの近くにどうぞ)Садитесь. Сядьте ближе к столу.

 この他に、「は」は総称(その種類全部)を示すという例が挙がっている。
「人間(は)生まれて1年ほどで言葉を話せるようになる」

設問)「飛行機は大丈夫ですか(飛行機には強いですか)?」をロシア語にせよ。

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2012年07月03日

●和文解釈入門第410回

露文解釈する露文はロシア人の作ったものだから文法的には一応正しいとみな考えるが、和文露訳のときに日本人が作った露文に対しては半信半疑である。そういう意味で露文解釈のときに抱くような信頼感が和文露訳にはない。ここのところが露文解釈と和文露訳の気持ちの持ちようの違いである。これは母語話者至上主義というもので、通訳ないしは翻訳するという観点が抜け落ちている。露文自体が文法的に正しいかということのみならず、いかに和文を露訳に反映させているかが大事なのだという事に目を向けないといけない。

設問)「リュージュをやる前には、どんなスポーツをなさっていましたか?」をロシア語にせよ。

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2012年07月04日

●和文解釈入門 第411回

口語ではподойти = прийтиという事を前に書いた。特に人に対して、到着という意味ではв/наが使えないので、кを使わざるを得ない。そうなると、語結合の関係からそれに引きずられて、過程の用法も使えるподойтиが使われやすいのだろうと思う。ロシア人(だけではない)が挨拶に握手したり、ハイタッチしたりするのも、親愛の情を示すという他に、手と手を接触させることで、到着したという意味を表しているのかもしれないなと考えた次第である。

設問)「4人乗りのボブスレーの順位はどうなりましたか?」をロシア語にせよ。

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2012年07月06日

●和文解釈入門 第413回

ロシア語の通訳やガイドになりたいのであれば、ロシア語を習得するのは当然なことながら、日本語についても一つの外国語として客観的に理解しようという姿勢が大切である。前に紹介したウナギ文なども、表層構造では理解しても、深層構造をロシア人に伝えるような工夫をしないと結局私がウナギとなって、理解されないことになる。文脈に依存する関係が低ければ、表層的に訳せばよいが、日本語のように文脈に依存する程度が高い語学(高文脈言語という)は、何を言わんとしているかその深層まで理解しないと和文露訳が非常に難しいということになる。

 一方、英語は多民族向けの言語で低文脈言語であり、主語を省略できないなどその例である。ところが日本語では、強調するなど必要な時に、人称が出てくるという、人称省略というよりは、必要な時に人称が顕現するという非常に進んだ言語である。これは日本にいる外国人の数が1.5%ぐらいであり、すべて日本語で通じるということが背景にある。今やインターネットの時代で、民族間の考え方の違いが少なくなる傾向にある。ということは言語も高文脈化をたどっているわけで、日本語はその最先端を走っていると言えないこともない。

 漢字も習得が難しいのは確かだが、書くのに必要なのはせいぜい2000字程度のことであり、会意文字や形声文字などの組み合わせ文字がほとんどで、少数である象形文字や指示文字を覚えれば、後はその応用でありそれほど困難とはいえない。日本語は漢字、ひらがな、カタカナ、ローマ字と4つの文字を使うため、読んですぐ内容が分かるビジュアル言語である。この点も時代にマッチした言語であると言える。戦後すぐ、日本語そのものをよく理解していない文人たちが、国語をフランス語にせよとか、文字のローマ字化を唱えたのは、敗戦後の劣等感そのものであり、我々はロシア語などの外国語を通して、日本語の正しい意義や価値を理解する必要がある。

設問)「ふくよか(ぽっちゃり系)なのにもかかわらず、彼女は軽やかに、そして優雅に動いた」をロシア語にせよ。

Posted by SATOH at 06:42 | Comments [4]

2012年07月07日

●和文解釈入門 第414回

出版の可能性は相変わらずないが、本コーナーの投稿者とのやりとりとそのフィードバックに基づく「和文露訳入門」の原稿ができたので、目次だけでも紹介したい。ページ数はB5なら300ページくらいだろう。
目 次
はじめに
第1章 体の本質と規範
第2章 過去の時制
2-1- 過去時制における不完了体
2-1-1 過去の出来事や動作(事実)の名指し → 不完了体動詞過去形
2-1-1-1 過去時制における動作の名指しとは何か?
2-1-1-2 過去の名指しの用法の種類
2-1-1-3 動作の名指しの用法の区別の仕方
2-1-2 動詞に文の焦点が来ない場合 → 不完了体動詞過去形
2-1-2-1 動詞に文の焦点が来ない場合とは何か?
2-1-2-2 否定文における用法
2-1-2-3 疑問詞との組み合わせで完了体過去形が来る場合
2-1-3 往復
2-1-4 過去の経過 → 不完了体動詞過去形
2-1-5 漸進・長期間に関わる用法 → 不完体動詞過去形
2-1-6 過去の反復 → 不完了体動詞過去形
2-1-7 過去の継続 → 不完了体動詞過去形
2-1-8 歴史的現在(劇的現在) → 不完了体動詞現在形
2-1-8-1 歴史的現在とアオリストの関係
2-1-8-2 動作の順次性
2-1-8-3 歴史的現在と完了体未来形
2-1-8-4 劇的現在
2-1-8-5 動詞以外の歴史的現在
2-1-8-6 日本語の歴史的現在との違い
2-1-8-7 記録の現在
2-1-8-8 歴史的現在とアオリストの違い
2-1-8-9 歴史的現在が使えない動詞や場合
2-1-9 意志の欠如 → не стал(а,о, и) + 不完了体動詞
2-1-10 過去の予定 → 不完了体動詞過去形
2-1-11回想・過去の不規則な反復動作(~したものだ) → 小詞бывало + 不完了体動詞過去形(不完了体現在形〔歴史的現在〕、完了体未来形)
2-1-12過去の経験 → 不完了体過去形

2-2 過去時制における完了体の用法
2-2-1 アオリスト(定過去、歴史的現在) → 完了体動詞過去形
2-2-1-1 アオリストとは何か?
2-2-1-2 アオリストと結果の現存の違い
2-2-2 創作者としての資格 → 完了体動詞過去形
2-2-3 順次的用法 → 完了体動詞過去形
2-2-4 結果の達成への期待 → 完了体動詞過去形
2-2-5 動作の一括化 → 完了体動詞過去形
2-2-6 いったん開始された行為の中断、中止 → 小詞было + 完了体動詞過去形
2-2-7 結果の評価 → 完了体動詞過去形
2-2-8 否定の強調
2-2-9 仮想の状況における動作の完了

第3章 現在の時制
3-1 現在時制の不完了体
3-1-1 過程 → 不完了体現在形
3-1-1-1 過程の意味
3-1-1-2 過程を示すことができない動詞群
3-1-1-3 過程の意味における日本語との表記の違い
3-1-1-4 ся動詞による過程の用法
3-1-1-5 不定人称文による過程の用法(不定人称文の項参照)
3-1-2 反復・習慣 → 不完了体現在形
3-1-2-1 反復・習慣と不完了体
3-1-2-2 過程を示せず、反復のみを示す動詞
3-1-3 過去から現在に至る継続ないしは反復 → 不完了体動詞現在形
3-1-3-1 過去から現在に至る継続ないし反復
3-1-3-2 動詞を使わない用法
3-1-3-3 про-の接頭辞を持つ完了体動詞過去形
3-1-4 伝達型動詞 → 不完了体現在形
3-1-4-1 伝達型動詞(перформативные глаголы)を分別する理由
3-1-4-2 過程や状態の動詞との違い
3-1-4-3 伝達型動詞の種類
3-1-4-4 結果の現存の用法との違い
3-1-4-5 語義による区別の仕方
3-1-4-6 動作未遂行の動詞 → 不完了体現在形
3-1-4-7 проситьとпопроситьの一人称での使い分け
3-1-4-8 начинать の現在形の特殊用法
3-1-5 評価伝達の動詞 → 不完了体現在形
3-1-5-1 評価伝達の動詞интерпретационные глаголыとは
3-1-5-2 評価伝達の動詞群
3-1-6 状態の動詞
3-1-7 経験(~したことがある)
3-1-7-1 不完了体過去形を使う用法
3-1-7-2 動作(事実)の名指し
3-1-8 動作の否定 → 不完了体現在形の否定
3-1-9 多回体的用法 → 多回動詞の不完了体現在形
3-1-10 真理の提示 → 不完了体現在形
3-1-11 様態 → 不完了体現在形

3-2 現在の時制における完了体の用法
3-2-1 結果の現存(存続)
3-2-1-1 結果の現存〔結果の達成と残存〕 → 完了体過去形
3-2-1-2 被動形動詞過去短語尾の結果の存続〔現存〕)の用法 → 現在時制
3-2-1-3 結果の現存とアオリストの違い
3-2-1-4 только чтоの用法
3-2-1-5 動詞を使わない用法
3-2-2 仮定や叙想 → 完了体未来形
3-2-3 不可能 → 完了体未来形
3-2-4 否定の強調 → 完了体未来形の否定

第4章 未来の時制
4-1 未来における不完了体の用法
4-1-1 単一動作に用いられる不完了体未来形
4-1-1-1 未来における動作の有無の確認
4-1-1-2 動詞に文の焦点(中心的意味や役割)が来ない場合
4-1-1-3 未来時制の動作の有無の確認(動作の名指し)に使える不完了体動詞(動詞の語義による)
4-1-1-4 未来時制において動作の有無の確認(動作の名指し)の意味で使えない不完了体動詞
4-1-1-5 運動の動詞と不完了体未来形
4-1-1-6 否定的意図 → не + бытьの未来形(не + статьの未来形) + 不完了体動詞不定形
4-1-1-7 両方の体がほぼ同じ意味で使える場合
4-1-1-8 動作の着手(意志)
4-1-1-9 未来時制においてесли, когдаに導かれる複文での時間にとらわれない一般的事実の表示
4-1-1-10 完了体未来形、不完了体動詞現在形、不完了体未来形の使い分け
4-1-2 予定の用法 → 不完了体現在形
4-1-2-1 予定の用法とは何か
4-1-2-2 予定の用法が使える動詞
4-1-2-3 近接未来における予定の用法
4-1-2-4 例外的用法
4-1-2-6 叙想語долженとの組み合わせ
4-1-2-7 предстоятьの用法
4-1-3 動作の意向 → 不完了体現在形 + 動詞の不定形
4-1-3-1 「~するつもりです、~します」の意味の内訳
4-1-3-2 意向の意味の動詞の使い分け
4-1-3-3 願望の意味の動詞群
4-1-4 未来における繰り返し → 不完了体未来形
4-1-5 呼応的用法 → 不完了体現在形

4-2 未来における完了体の用法
4-2-1 完遂的用法 → 完了体未来形
4-2-1-1 完遂的用法が用いられる動詞
4-2-1-2 完遂的用法と疑問詞
4-2-1-3 完遂的用法の特徴
4-2-2 順次的用法 → 完了体未来形
4-2-3 例示的用法 → 完了体未来形
4-2-4 未来時制における往復(これから行って戻って来る、行って来る)
4-2-5 未来時制における被動形動詞過去短語尾
4-2-5-1 未来時制における被動形動詞過去短語尾の用法
4-2-5-2 ся動詞の不完了体未来形の用法
4-2-5-3 未来時制の不定人称文

第5章 命令法
5-1 命令法における不完了体の用法
5-1-1 着手(促し) → 不完了体動詞命令形
5-1-2 勧誘 → 不完了体動詞命令形
5-1-3 動作の様態の強調 → 不完了体動詞命令形
5-1-4 禁止 → 否定詞 + 不完了体動詞命令形
5-1-5 反語的用法

5-2 命令法における完了体の用法
5-2-1 新しい事態の生起という具体的な1回の伝達の要請 → 完了体動詞命令形
5-2-2 例示的意味 → 完了体動詞命令形
5-2-3 丁寧な依頼 → 完了体動詞未来形の否定疑問形
5-2-4 警告 → 否定詞 + 完了体動詞命令形(うっかり~しないでください)
5-2-5 同じような状況で使える完了体・不完了体の用法の違い
5-2-6 被動形動詞短語尾を使って命令の意味を示す用法
5-2-7 意思に反し課され、義務として予定された行為で、憤激と反抗のニュアンスを持つ用法
5-2-8 仮定や叙想(現在時制の完了体の項参照)

第6章 不定法
6-1 不定法における不完了体の用法
6-1-1 切迫感(動作の着手) → 不完了体動詞不定形
6-1-2 不必要 → 不完了体動詞不定形
6-1-3 動作の持続性 → 不完了体動詞不定形
6-1-4 疑問詞 + 不完了体動詞不定形(完了体不定形)
6-1-5 動作の否定や禁止 → 不完了体動詞不定形
6-1-6 動作の名指し(動作の有無の確認) → 不完了体動詞不定形

6-2 不定法における完了体の用法
6-2-1 具体的な、特定の1回の動作の実現(具体的個別的事例) → 完了体動詞不定形
6-2-2 「~しましょうか?」構文 → 完了体動詞不定形 + ?(疑問形)
6-2-3 必要性 → 完了体動詞不定形
6-2-4 命令 → 完了体動詞不定形
6-2-5 不可能 →не + 完了体動詞不定形。
6-2-6 例示的用法 → 完了体動詞不定形
6-2-6-1 動詞句
6-2-6-2 例示的意味の不定形を取る熟語
6-2-7 「する気になれない」 → не + хотеть/хотеться + 完了体動詞不定形
6-2-8 不定形の名詞的用法 → 完了体動詞不定形
6-2-9 叙想語との組み合わせ

第7章 特異な体のペア
7-1 時制に関係なく完了体動詞と不完了体動詞で意味の異なる動詞群(писать/написатьグループ)
7-2 不完了体動詞が意味上優位な動詞群(звонить/позвонитьグループ)
7-3 状態「~である」と状態発生「~となる」を示す動詞群(казаться/показатьсяのグループ)
7-4 体の対立

第8章 会話に役立つ動詞の用法
8-1 быть動詞の用法
8-1-1 「行く」という意味での用法
8-1-2 軍隊で上官に対する敬語(Есть + 不定形)
8-1-3 будетの特殊用法
8-2 定動詞と不定動詞の特殊用法
8-2-1 定動詞の用法
8-2-2 能力を示す不定動詞
8-2-3 идти/ходить過去形の否定の用法の違い
8-2-4 пойти + 完了体動詞未来形(不定形の代わりに)
8-3 機能動詞
8-4 「知る」と「考える」の動詞群の意味の差異
8-5 接頭辞за-のつく動詞で場所を補語に取る多動詞群
8-6 хотетьとхотеться
8-7 敬語
8-8 強意代行動詞
8-9 可能の意味が内在する動詞群
8-10 副動詞
8-10-1 副動詞と不完了体
8-10-2 「~(の)ままである」
8-11 被動形動詞現在

第9章 その他統語論関係
9-1 時制の転用
9-1-1 「~しましょう」
9-1-2 抽象的現在
9-2 相対時制
9-3 無人称文
9-4 不定人称文
9-5 迷惑(被害)の受け身
9-6 人称の転用
9-7 強調構文
9-8 構文「とても~ので~する」

第10章 会話に役立つ形容詞、副詞、数詞、前置詞など
10-1 形容詞の特殊用法
10-2 機能副詞句
10-3 単数と複数
10-4 形容詞の最上級
10-5 助数詞(助数辞)
10-6 関係代名詞что
10-6-1 関係代名詞のчто
10-6-2 前の文全体を受ける関係代名詞что
10-7 主題の提示(テーマとレーマ)
10-8 生格の述語的用法
10-9 全体を示す与格
10-10 接続詞что/какと知覚動詞
10-11 理由を示す前置詞、前置詞句
10-12 「ために」の使い分け

設問)「搭乗のアナウンス(案内)はありましたか?」をロシア語にせよ。

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2012年07月08日

●和文解釈入門 第415回

ロシア語をマスターするのに文型を覚えればよいと考える人もいるだろう。文型というのは高校などで英語の時間に習ったS + V + Oの類である。一時私もそう考えて、文型や構文を拙著の「ビジネスロシア語実戦会話・応用編」(東洋書店、2007年)や「実戦ロシア語文法」(東洋書店、2008年)に書いたりした。無論この種の文型や構文を覚えるのも大切なことだとは思うが、ロシア語習得の本質ではない。それは文型や構文というのは時制を無視しているからである。あたかも、現在時制で与えられた構文が、過去時制、未来時制でも同じように使えるかのような設定にしてあるからだ。そういう場合もあるかもしれないが、通訳やガイドの現場ではそう甘くはないというのが現実である。日本語とロシア語が違う系統の言葉である以上、時制も異なるわけで、そのような構文が時制を変えて応用できる場合はかなり限られてくる。

 日本語文法で「テイル形」というのがあるが、これは三つの用法がある。「書いている」なら過程(進行形)であり、「来ている」なら現在完了であり、「座っている」なら状態である。過程と状態は不完了体現在形にすればよいが、「来ている」は完了体過去形となる。「~でできている」なら被動形動詞過去短語尾である。タ形の「来た」も、過去かもしれないが、現在完了(「来ている」という意味)かもしれない。このようなロシア語と日本語の時制の違いをよく理解しないと、簡単な和文露訳もできないことになる。文法もロシア語文法中心に教えれば、ロシア語の時制の説明となる。ロシア語の時制を理解して、それを逆にすれば和文露訳も簡単にできるかというとそういう風にはならない。露文解釈だけ一生懸命勉強しても、ロシア語が話せないという現実を見れば、それがよく分かるだろう。日本語の動詞の辞書形(終止形)は非過去(現在か未来)を示す。「学校に行く」は毎日がつけば繰り返し、明日がつけば未来の時制となる。日本人はこれを無意識に理解しているが、ロシア語にする場合は、対応のロシア語の時制がどうなるのかを理解しないと簡単なロシア文もつくれないことになる。それはこのコーナーの設問を試しにやってみれば分かることである。こういう時制の違いという観点から、和文露訳を教えているところがあるだろうか?

設問)「設備は契約日から2年以内に納入される」をロシア語にせよ。

Posted by SATOH at 07:33 | Comments [6]

2012年07月09日

●和文解釈入門 第416回

本多勝一の「日本語の作文技術」の中に、「翻訳とは、二つの言語の間の深層構造の相互関係でなければならない」とあり、それを読んで何かもやもやが晴れたように感じた。またA, B. C, D and Eの訳し方についても翻訳調を避けるという意味で、直訳せずに、「AやB・C・D・Eは」とするほうが日本語らしいとある。長い間技術関係の露文和訳をしてきて、日本語として無理がなければ、語順は原文通りに日本語にしてきたが、頭をガツンと殴られた気持ちである。原卓也先生と北御門二郎氏徒の文学論争で、原先生は一字一句できるだけ配列も変えずに原文に忠実にと主張されたと記憶するが、そうであれば、それは翻訳ではないということになる。文の表層構造をそのまま翻訳することは少しロシア語をかじれば、難しいことではないが、深層構造となると、文法のみならず、文学や生活(貴族や庶民やあらゆる階層、知識人、技術者、医者など)のレアリアも理解せねばならず、不可能に近い。しかし、不断の努力でその空白部を埋めるような勉強をしないと、翻訳家にはなれないということかもしれない。この本には文末の「た」の繰り返しを避けるために、現在進行形(歴史的現在と言い換えてもいいだろう)を使えなど、翻訳や通訳をする上で示唆に富む内容が多い。

設問)「この言葉を逆から(後ろから)読め」をロシア語にせよ。

Posted by SATOH at 08:02 | Comments [5]

2012年07月10日

●和文解釈入門 第417回

このコーナーでは体の用法を中心に会話での和文露訳の能力をどのようにつけていくかについて述べているが、これは決して文法の規則の詰め込みとか、文法訳読法を勧めているわけではない。文法があって、それに基づいて言葉ができたものではなく、言葉の仕組みを本質的に探るために文法の研究がなされているのである。私が勧めるのは多くの露文の文例によって、体の本質を究め、それによって、会話における和文露訳に苦しまなくてもよいようにすることである。

 文法書と和露辞典があれば和文露訳ができるのなら、このようなコーナーは不要であろう。それはこのコーナーの設問を試しにやって見るとよい。設問の日本語はロシア語を知らない日本人が読んでも、基本的な短文で、これを複雑すぎて意味が分からないという人はいないはずだ。これまでの文法書も参考書も露文解釈のみが眼中にあり、それができれば、和露辞典の助けさえ借りれば、和文露訳はひとりでにできるものだというふうに考えられた来たように見える。もっといえば、和文露訳などこれらの著者にとってほとんど眼中になかったと言った方がよいかもしれない。そういう必要性など感じなかったのだろう。和文露訳は自分でやらなければ分からない。このコーナーの設問のような簡単な日本文でも、ロシア語にしようとすると時制の問題は避けて通れない。異なる体系を持つ日本語とロシア語の時制が同じだと考える方に無理がある。一つの言語の時制についても母語者なら完璧でも、もう一つの言語の時制については、特別に勉強し、実際に会話で使ってみなければ、マスターできない。露文解釈を何年学んでも、畳の上の水練でしかない。会話で恥をかかないと、うまくはなれないのである。多くの文例を自分なりに研究し、その成果を会話という実戦で試してこそ、ロシア語はマスターできる。体の用法も私が書いていることを鵜呑みにすることではなく、私の説くことが実際の例文にマッチしているか、実際の会話に応用できるのかという点をよくチェックしてほしいと思う。そうすれば自分なりにロシア語のマスターする方法が開けるはずである。私の説く体の用法についても、一つの参考であって、結局は自分のやり方でうまくなるしかないのだ。

 和文露訳ができるようになるためには、文法の理解と語彙(和露辞典の助けを借りてもよい)だけではだめで、日本語とロシア語の時制の違いに対する理解と類語の使い分けが必要である。このコーナーとその総集編である「和文露訳入門」は、日本語とロシア語の時制をそれぞれバラバラに理解するのではなく、有機的に、統合的にその真髄を究め、和文露訳に役立てようとする一つの試みである。

設問)「あなたと私の活動はとても難しい」をロシア語にせよ。

Posted by SATOH at 06:49 | Comments [6]

2012年07月11日

●和文解釈入門 第418回

文末の「た」は過去の時制と完了を日本語で示すが、その他に確定表現の「た」があると、「日本語の発想」で森田良行氏は述べている。「ありがとうございます」と「ありがとうございました」の違いである。前者は挨拶表現のような未確定意識によるものであって、後者が何か具体的な恩恵に対して述べており、この「た」は時とは無関係な事柄だという。これについて自分なりに考えると、集まりの場でよく主催者側が述べる、「本日はお忙しいところをお集まりいただき、誠にありがとうございます」は前者であり、デートなどで本当に来てほしいと思って、誘ってはみたが、来るかどうか分からなかった人が来てくれたときには、「来てくれて本当にありがとうございました」と後者の例になりそうである。そうなると、語調を整える「た」もあり、ロシア語に訳す時には4つの「た」を考えなければならないことになる。ちなみに「ありがとうございました」はどう訳すのだろう。せいぜい、Спасибо за + 対格(具体的な感謝の内容)をつけるくらいだろう。

設問)「お乗りになる列車(電車)は次の次で、別のホームからです」をロシア語にせよ。

Posted by SATOH at 07:18 | Comments [3]

2012年07月12日

●和文解釈入門 第419回

時事ロシア語が盛んのようである。いくつかあるようだが、いずれも露文和訳形式となっている。インターネットなどでロシア語の情報を理解する力を養うにはタイムリーな企画だと思う。しかし、これを通訳用の和文露訳に転用しようとすると、語彙だけは紹介されているものの、語彙だけで、和文露訳に活用できるような人は、実際に通訳やガイドをしているプロだけ、つまり上級者だけということになる。語彙だけ分かっても、文脈が同じでなければ、その文は暗記しても使えない場合が多い。時制を含めた露文解釈が必要である。これは和文露訳だけでなくとも、正確な露文解釈のためには、時制について体の用法から吟味した解釈を伝えないと、どうしてこの文脈で他の体が使えないのか、どういうニュアンスで著者は使っているというのかが分からないのではないか?時事ロシア語は文学ではないから、ニュアンスなどない、事実をそのまま伝えているだけなのだ(少なくとも著者はそのつもりだ)というのであれば、それは違うと言わざるを得ない。そういうニュアンスのない、いわゆる事実だけをそのまま伝えるような平板なロシア語だけ覚えても、温室育ちの露文解釈という事になりはしないか?まあ、そういうことは措くにせよ、和文露訳の勉強にならないことは確かだ。時事ロシア語を執筆なさっている先生方に、この点を少しは考えてもらいたいと思う次第。会話での和文露訳の勉強に対しても配慮した時事ロシア語があってもいいと思う。

設問)ホテルで「浴室でお湯が出ないのですが」をロシア語にせよ。

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2012年07月13日

●和文解釈入門 第420回

日本ではロシア文学はそれなりの数のファンがいるが、ロシア語を勉強する人は少数派である。しかも、和文露訳に興味を持って真剣に勉強しようとする人は、その中の少数派である。その中で体の用法が和文露訳の根幹だとして、勉強する人は、過去も現在も、そして多分、未来も少数派中の少数派である。しかし、露文解釈をするにせよ、和文露訳をするにせよ、正しくロシア語を理解したいという、この一見単純な欲求を満たすには体の理解を前提にするしかないと思う。その証拠に、動詞のある文を言おうと思えば、必ずどちらかの体を使わざるを得ないではないか。

設問)「当社はライセンス契約の条件を飲みます」をロシア語にせよ。

Posted by SATOH at 06:15 | Comments [3]

2012年07月14日

●和文解釈入門 第421回

前回の設問の「(条件を)飲む」というのは「受け入れる(OKする)」ということだが、一般的に完了体過去形を使うと、結果の現存ということで、「たった今OKしました」という感じを受ける。かといって、不完了体現在形を使うと、過程(OKしつつある)、状態(〔昔から〕OKしている)ということになり、設問とは違う。このようなときには、発話が始まって、発話が終わると同時に動作が終わる動詞が用いられるわけであり、それを伝達動詞(動作遂行の動詞改め)と呼ぶ。日本語でも「ライセンス契約の条件を受け入れます」というのは、「(とっくの昔に)受け入れている」とは違うということが了解されるはずだ。これまでの体の用法の参考書で、現在時制では予定の用法ぐらいしか触れておらず、現在時制については当然分かるとしてか目次にない参考書もある。

 20年ほど前に「ビジネスレター入門」を上梓した際に、СообщаемとСообщимの違いについて、深く考えるところがあり、この動詞の類語(厳密ない意味での伝達に関わる動詞)には、現在形で、状態でも、結果の現存でもない用法があることに気がついていた。この2年ほどシノニムの研究をする上でАпресян先生たちが、この動詞について書かれているのを読み、納得した次第である。露文解釈ではこの動詞について、特に知る必要はないのかもしれないが、ビジネスレター、特にメールなどでは、сообщать/сообщитьを不完了体現在形で使うのか、完了体未来形をにするのか、他の動詞はどうするのか、その違いを知ることは重要である。そうでなければ、ビジネスレターの文頭でよく使われる表現、「~を連絡申し上げます」はどう訳すというのだろう。理屈も分からず、みな丸暗記にすればよいというのではあるまいし、日本語の時制に従って、ロシア語も同じ時制にすればよいというのではないことはお分かりだろう。

設問)「日本では大安売りはいつごろですか?」をロシア語にせよ。

Posted by SATOH at 08:22 | Comments [3]

2012年07月15日

●和文解釈入門 第422回

投稿者のchijikpijikさんの親切なお勧めもあり、電子書籍として「和文露訳入門」を刊行したいと考えている。しかし、自分では電子書籍を利用したこともないし、その予定もない。電子書籍作成についてはePubというのが世界標準になりそうな気配だが、まだ分からない。今年の後半あたりがやまなのだろう。基本的にとりあえずPDFにするのが無難そうな気がする。一応、年末までには2冊を電子書籍化する予定で、まずは和文露訳入門の刊行を考えている。

1) PDF化かePub化か
PDFの方が簡単だが、拡大の仕方が虫めがね方式というような欠点もある。自分は電子書籍の読者ではないので、見やすさという点から言えば、原稿をePubにした方がよいのかもしれない。PDFについては翻訳原稿をPDFで貰うので、どういうものかは分かるが、開いて見るのがコンピューターの比較的大きい画面なので、スマホやiPad、タブレットなどで読む場合どうなのかが分からない。ePubは閲覧するだけならAdobe digital editionsをインストールすれば読めるから、これで作ってもらおうかとも思う。自分では作れないので業者に頼んだ方が安上がりだし、安全だからだ。今後はePubが主流になると言われているので、そういう事も頭にある。PDFなら簡単にコピーされてしまうだろう。この点につき皆さんのご意見をうかがいたいものである。
2) 原稿のサイズ
紙の本を出版する際には、出版社から横何文字、縦何文字と原稿の指定が入る。私は本を書く人(作る人であって)、私の本の読者ではない。それに、iPadやスマホ、タブレットも持っていない。となると、読む媒体にもよるだろうが、横何文字、縦何文字で原稿を作ればいいのだろう?何かアドバイスを。

今のところ、これらの疑問が湧いたので、何かアドバイスがあれば、ご一報願います。現在「和文露訳入門」を校正中ですが、上記の問題は電子書籍作成上避けては通れない問題であり、上記の他に、何か気をつけておくことがあればコメント願います。うまくゆけば、2カ月以内に1冊電子書籍を上梓し、その後4冊ぐらいは年内に出せるのではないかという期待を持っております。

設問)「ドアにカギがかからない」をロシア語にせよ。

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2012年07月16日

●和文解釈入門 第423回

技術関係の通訳を始めたばかりの人には、完了体の使い方があまりうまくない人が多い。これは初め翻訳、それも露文和訳をある程度やってから、その後で通訳もやり始めるという人が多いからだ。技術文献というのは法律の文章に似て、ся動詞の不完了体現在形の受け身「(一般に)~される」という文が多く、技術用語が分かれば、比較的構文自体も簡単で楽に和訳できる。こういうのに慣れてしまうと、日常会話でも「~するときに」でкогдаを使えばいいのに、日本語の「~時」であるпри + 動名詞の前置格を使いたがる。これはкогдаを使うとどちらの体を使うべきなのかが、即座に判断できないからだということもあるのだろう。こういう人たちは、基礎はできているし、露文も技術関係が多いとはいえよく読んでいるので、その後ロシア人との会話などで苦労する(体の用法など)とはいえ、翻訳でも会話でも一人前になってゆく確率が高い。うまくなるコツは語彙と文法、特に体の用法の会得にある。

設問)「どこの新聞社の方ですか?」をロシア語にせよ。

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2012年07月17日

●和文解釈入門 第424回

「戊辰物語」、東京日日新聞社会部編、世界ノンフィクション全集50、筑摩書房
1964所載。戊辰戦争後60年を経ての聞き書き。聞き手には落語家の小さん、彫刻家の高山光雲などがいる。戊辰戦争およびその前後の庶民の暮らしぶりなどがよく分かる。かつて東京日日新聞(後の毎日新聞)の記者だった子母澤寛は本書を作品によく用いている。

「幕末おろしあ留学生」、宮永孝、ちくまライブラリー、1991年
 ロシア領事ゴシュケーヴィチなどの勧めにより1866年ペテルブルグに幕府より派遣された6名の留学生について。ゴシュケーヴィチが留学生の生活費をピンはねしたのではないかとか、ゴンチャローフが教師としてこれら留学生を教えたなど興味深い。彼らは結局高等教育をペテルブルグで受けることはできず、一人は1867年、残りも一人を除いて1868年帰国した。橘耕斎についても記載ある。

*「高橋是清自伝」(2巻)、高橋是清、上塚司編、中公文庫、1976年
 高橋是清(1854~1936)は1867年アメリカに赴き、苦学して(知らずして3年の奴隷の身に落とされたり)1868年末帰国。森有礼やフルベッキの世話になる。日本銀行に入社、後蔵相。二・二六事件で凶弾に倒れた。酒豪であり、豪胆な人柄のようである。若い時には横浜でボーイとして住み込みで働いていたときに、ネズミ取りでネズミをとらえ焼いてビフテキにして食べたとか、1871年ごろ吉原の金瓶大黒という妓楼で小少将という花魁に、八犬伝の仁義礼智信をもって若い人の来るところではないと諭されたりした。ちなみに彼女の部屋には客が読むかもしれぬとて、ウェブスターの大辞典やガノーの究理書が置かれてあったという。モーレー博士の通訳として勝海舟を訪れたときに、勝はモーレーに高等数学について問い合わせ、高橋がこの通訳ができなかったので、勝はオランダ語と紙に書いて質問した由。モーレーは勝のことを非常にほめたと言うが、勝流のはったりのような気がする。以降是清は通訳するのが嫌で勝のもとを訪ねなかった。このとき最初に出迎えたのは勝の三女逸だった。植物学者の矢田部良吉に森有礼と随行しての米国行きを譲った。このとき森は矢田部のことを狡猾なような風があると評し、矢田部自身もその慧眼に驚いたという。牧野富太郎(1862~1957、牧野富太郎自叙伝、講談社学術文庫、2004年)やクララ(後述)との経緯を見ればなるほどと思われる。ペルー銀山の失敗など浮き沈みの多い人生だが、率直で、誰の前でも無遠慮にものを言うのが疎まれた場合もあるが、私心はなく、常に国や公のことを考えていたという事がよく分かる。なんでも一から勉強し、人間関係も含め細かいところに注意を払い、疑問を疑問のままにしておかなかったことに高橋是清の成功の秘訣があることが本書を読めばよく分かる。高橋是清が暗殺されたときに夫人が暗殺者に対して卑怯者と言ったと言うが、全くその通りで、本当に惜しい人を亡くしたと思う。

「イタリア使節の幕末見聞記」、V・F・アルミニヨン、大久保昭男訳、講談社学術文庫、2000年 
1866年訪日したイタリア使節の日本見聞録。蚕卵紙の買い付けへの道をつけることが使節の狙いだったというのは知らなかった。


設問)「このコンピューターは、電池でもAC電源(コンセント)でも大丈夫ですか?」をロシア語にせよ。

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2012年07月18日

●和文解釈入門 第425回

ロシア語の作文や会話で、ロシア人教師から日本人生徒の体の用法の間違いを指摘されることが多い。体の用法は容易に習得できない学習の大きなネックである。教える側にとっても体系的な指導法が確立していないように思える。一つ一つの文については先生自身が直すこともできようが、体系的に体の用法を教えることができるのは、同じロシア人でも体の用法の専門家だけであろう。そういう専門家が体の用法を日本語で教えることができるとか、ましてや日本にいるとは考えにくい。それは我々が日本語を話す外国人の敬語の間違いを直すことができても、敬語を体系的に教えるには、敬語に関して専門の勉強を積まないといけないのと同じである。また体の用法を体系的に理解していると言っても、露文解釈でなら、体の用法の参考書を読めば大体分かるが、実際にロシア語の会話でどちらの体を使えばいいのかまで指摘し、日本語でニュアンスの違いまで説明できる人は少ないだろう。私の経験から言うと、そのためには膨大な数の用例が要る。こちらの体の方がよいと思うだけではだめで、別の体にしたときにどうニュアンスが変わるのか、あるいは文法的におかしいのかまで説明できないと生徒の役には立たないからだ。

設問)「彼は予選落ちした」をロシア語にせよ。

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2012年07月19日

●和文解釈入門 第426回

幕末の宮廷」、下橋敬長(ゆきおさ)、羽倉敬尚注、東洋文庫、1979年
 摂家一条家の旧臣の1921年の講和速記。博覧強記の人だったようである。幕末当時の外国人の皇室について記したもの中には、天皇の食器は一度しか使われないので土器を用いたなどと書かれているが(ゴロヴニーンも「禁裏は又食事の度に新しい食器を用いるが、一度使用した食器はただちに打ち壊すことになっている。その食器で物を食う事をあえてするものはたちどころに死ぬという」と書いている)、本書によれば16枚の菊の花びらのついた白地の陶器で東山の清水焼が多く、月に2、3度は下げ渡されたようだが、毎回毎回捨ててはいないことが分かる。食べ残しは御末(女中)に毎回下げ渡された。天皇・皇后はおからが好きだったとか、孝明天皇はご酒が好きで夕食の始まる6~7時ごろから10時ごろまでは飲まれていたなどほほえましい話もある。ミッドフォードが京都で即位したての明治天皇に拝謁したときに、鉄漿をしていたので驚いたと書かれていたが、本書を読むと当時の天皇や公卿は鉄漿を隔日ないしは3日に一度していたことが分かる。後光明院より表向きは火葬だが、土葬となり、孝明天皇から正式に土葬となったというのも他では窺えないことである。門跡寺院に天皇、摂家、親王家が子を遣わすというのも、年に50~100石相応のお手伝いがあるからだというのはなるほどと感心した次第。朝廷は幕府より10万石もらっていたが、そのうち天皇は30,021石6斗であり、輪王寺家には13,000石、残りを宮家、五摂家、その他の公卿で分けたという。

(164) 「旧事諮問録」(旧事諮問会編、進士慶幹校注、岩波文庫、1986年、2巻)
 将軍家の日常、お庭番、幕末の外交の様子を江戸幕府の役人が証言している。問答の形になっており、現代の話し言葉に近いことが分かる。1891年から1892年の第11回までの記録で、将軍は自分の事を「余」ではなく、「こちら、自分」と言い、御台所は「わたくし」と言っていたとか、将軍の飲んでいた酒は、真っ赤な変なにおいのある(保存が悪くてそうなったのだろう)のだったなど非常に面白い。

(165) *「英国外交官の見た幕末維新」、A. B. ミッドフォード、長岡祥三訳、1985年、新人物往来社、
 1866年~1870年まで駐在したミッドフォード(1837~1916、英国外交官)の手記。手際良く当時の日本の国情が描かれており、読ませる内容である。アーネスト・サトウとともに立ち会った切腹の場面や、パークス(1828~85)を襲撃した二人の浪士のうち一人をミッドフォード自身が取り押さえた場面は圧巻(残りの一人は後藤象二郎と中井弘蔵が組み伏せ斬首した)。同じ事件をサトウとは別の角度から知ることができるのは興味深い。若き明治天皇にも拝謁し、天皇が当時の慣習に従い鉄漿をつけ、眉を抜き、顔に白粉を塗り、唇に紅をさしていたなど興味深い記述もある。ミッドフォードの著作には四十七士など日本古来の物語を欧米に紹介した「昔の日本の物語」などある。

(166) 「ミッドフォード日本日記」、A.B. ミッドフォード、長岡祥三訳、講談社学術文庫、2001年
 1906年の40年ぶりの日本再訪記(東京、静岡、京都、下関、鹿児島、奈良、名古屋訪問記)。卓越した文章である。訳の日本語も素晴らしい。鴨猟の体験や女性柔術家の護身術模範演技など非常に興味深い。

設問)「彼は世界タイ記録を出した」をロシア語にせよ。

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2012年07月20日

●和文解釈入門 第427回

(167) 「ながさき稲佐ロシア村」、松竹秀雄、長崎文献社、2009年
 日本でロシアと最も縁の深い所は、私の生まれ育った函館ばかりと思っていたが、ピークリの小説で稲佐にロシア人が多くいたことを知り、なんとか詳しく知りたいものだと考えていた。本書は1860~1904年まで長崎県稲佐に存在したロシア村Русское поселениеを軸に、レザーノフの来航から日露戦争まで扱ったものであり、写真や図が非常に豊富である。幕末・明治のロシア語通訳志賀浦太郎(1842~1916)が長崎の庄屋の出ということは知っていたが、本書で詳しく教えられた。

(168) 「ロシアの長崎、稲佐での最後の停泊Русский Нагасаки или Последний причал в Инасе」, Амир Хисамутдинов, Издательство Дальневосточного университета, 2009
 英文も含む豊富な文献を駆使して、ロシア側から見た稲佐について紹介している。1859年長崎の出島における火事で300人のロシア人水兵が鎮火に当たり、これにより日露友好が確実なものとなったというのは知らなかった。ロシア人は北国の日本人と同様、一見とっつきにくいが気持ちに裏表がなく、心の温かい人が多いという事と、タタールのくびき以来アジア人との付き合いが長いので、他の欧米人とは違うという事があるということかもしれない。長崎で亡くなったロシア人すべてを網羅しているようで、著作は非常に丁寧な作りだが製本が悪く、ほとんどのページがばらばらと取れてくる。

(169) 「函館の幕末・維新」、中央公論社、1988年
 フランス士官ブリュネは徳川幕府のフランス軍事顧問団の副団長として1867年来日。1869年旧幕府軍と行を共にするために脱走し、箱館の五稜郭での戦いまで軍事指導をした。ブリュネは100枚のスケッチを残し、本書でその内容が分かる。

(170) 「幕末遣外使節物語」、尾佐竹猛、講談社学術文庫、1989年
1929年の著書。新見豊前守、竹内下野守、池田筑後守、徳川民部大輔の4つの遣欧使節について。池田筑後守の一行が上海のホテルにて、間違って小便器で手を洗って小便くさくなったとかの珍談は面白い。新見豊前守一行に随行した長野桂次郎(または慶次郎1843~1917)は幕末の遣米使節新見豊前守一行に加わった立石斧次郎(米田為八)で、アメリカでは非常に婦人にもて、トミー(トムミー)という愛称を奉られた由。岩倉具視の米欧使節にも加わり、行きの旅の途中女子留学生にちょっかいを出し、同志裁判にかけられたという。帰国後何かを為したということを聞かないから、当時珍しい軽めのプレーボーイだったのだろう。

設問)「今年は例年になく雨が多い」をロシア語にせよ。

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2012年07月21日

●和文解釈入門 第428回

(171) *「福翁自伝」、福沢諭吉、岩波文庫、1978年
福沢諭吉(1835~1901)の自伝。初版は1888年。痛快な書である。幕末に3回洋行している。「外国人に一番分かりやすいことで、字引にも載せないということがこっちでは一番難しい」ので洋行のときに外人に尋ねまくったというのは今にも通用することである。2回目の洋行のときにペテルブルグまで行った竹内下野守一行の諭吉に、ペテルブルグに残れとロシア側の接待役から勧められたとか、competitionを競争と訳したのは諭吉が最初だなど書いてある。子供に対して手を下して打ったことは一度もないというのも彼らしい。

(172) *「懐往事談」、福地源一郎(桜痴)、世界ノンフィクション全集50所載、筑摩書房、1964年
 福地源一郎(1841~1906)による1859年から68年の幕府瓦解に至る間の見聞記。当時外国奉行輩下として通訳・翻訳に従事した。維新後岩倉一行の米欧使節にも参加した。1894年初出。品川に外国の外交団がいたため買い出しの通訳などで品川に駐在したが、当時品川は江戸ではなく、出張費が出たと書いている。また品川で泊ったところは妓楼だったという。江戸の森山多吉郎主宰の英語の塾長であり、後に樺太問題でロシアの軍艦内部にかかっていたオランダの地図で樺太は北緯50度で日露の境界になっていることを川路らに告げ、領土問題における日本の主張の論拠となったと森山が福地に告げたという。神奈川運上所(横浜税関)に勤め、横浜でのムラヴィヨーフ使節の露人士官と水兵暗殺などのときも横浜勤務であった。この時奉行の問責、死者の墓造営を要求したのみで、賠償金はオールコックが勧めたが、ムラヴィヨーフは拒否した。このあたりは一つの見識であろう。これ以外の暗殺の被害者については各国が賠償金を幕府からせしめている。平易な文語体で読みやすい。福地は公使館付だったので、英国公使館東慶寺襲撃では現地にいた。堀織部正の自殺についてもプロイセン1国との条約と思っていたところが、オイレンブルク一行はプロイセン、ドイツ関税同盟、ハンザ都市、メクレンブルク公国を代表しており、この点について外国事務担当の閣老安藤対馬守に厳しくとがめられ、性格的に生得小心翼翼の人だったため腹を切ったのではないかと福地は述べている。福地は人物評が得意のようで、「福地は躁跳多弁の漢なり」という上司の柴田貞太郎の弁を紹介しており、各国公使についても、オールコック英国公使は最初は威嚇だったが、後に温和政策へとか、ド・ベルクール仏国公使は喜怒哀楽激しいが、門閥の出故、威儀を正すのを喜ぶとか、ポルスプルック蘭国公使は幕府がオランダを軽んずる故に英仏と連合して威嚇外交をなす。ハリス米国総領事は懇切丁寧と述べている。幕府は鎖国のため外交に不慣れで、ペリー来航時には、ドンケル・クルチウスオランダ商館長を、その後ハリス、ハリスの帰国後はロッシュ仏国公使を重用した。薩長はパークス英国公使に頼った。

(173) 「甦る幕末」、朝日新聞写真部(後藤和雄、松本逸也偏)、朝日新聞社、1987年
 ライデン大学写真コレクションからの幕末の写真集。パークス襲撃犯の浪士二人のさらし首の写真、ヒュースケンの遺体の写真、草鞋を履いた馬の写真もある。

設問)「寒さには強いほうですか?」をロシア語にせよ。

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2012年07月22日

●和文解釈入門 第429回

(174) 「ニコライの見た幕末日本」、ニコライ、中村健之助訳、講談社学術文庫、1979年
 神田のニコライ堂や函館の正ハリストス教会の大主教で亜使徒聖ニコライРавноапостольный святитель Николай японский(1836~1912)は1861年来日し、函館の領事館付主任司祭として1869年まで滞在した時の経験をもとに日本人の宗教観についてЯпония с точки зрения христианской миссииとして書かれたものの邦訳。訳者中村健之介氏の訳注が詳しい。ダヴィド-フ(ダヴィドフが正しい)とかゴローヴニン(ゴロヴニーンが正しい)力点がおかしいものがある。この他に中村氏がロシアで発見したニコライの日記に基づいて書かれた「宣教師ニコライとその時代」、講談社現代新書、2011年や「宣教師ニコライと明治日本」岩波新書、1996年がある。「ニコライの日記」(中村健之介編訳、岩波文庫、2011年、3巻)も上巻、中巻、下巻が出版された。ニコライという人は19世紀末の日本の各地を旅した人で、その様子も日記に反映されているので面白い読み物となっている。

(175) 「回想の明治維新」メーチニコフ、渡辺雅司訳、岩波文庫、1987年
 1874~75年お雇い外国人として日本に滞在したロシア人革命家メーチニコフ(1838~88)の手記。当時開通したての横浜・新橋間の鉄道風景など面白い描写もあるが、日本外史から取ったと思われる日本の歴史の記述がかなりの部分を占め、その内容も大デュマのロシア史のように、やむをえないとはいえかなり誤解や誇張が見られる。またメーチニコフが名所旧跡の類にまったく興味がないことや、自分の目で見た日本の庶民の生活の記述もほとんどなく、印象記としては期待外れであるが、付録の「東京外国語学校の思い出」は当時の様子を伝えていて面白い。

(176) *「幕末維新懐古談」、高村光雲、岩波文庫、1995年
 木彫家で西郷隆盛の銅像の製作者である高村光雲(1852~1934)が、70歳のときに子息の高村光太郎や田村松魚を聞き手に語った半生。1922年初出。幕末の浅草、それも1860年の大火前後の雷門の様子などよく分かる。1875年の神仏混淆禁止により浅草寺の神馬が他に移されたことなど興味深い。光雲の祖父は富本節(浄瑠璃の一流派)が得意で声がよく、ねたまれてひそかに水銀を飲まされ半身不随になったとあるが、長谷川時雨の「旧聞日本橋」にも小唄だったかを習った師匠が、ひそかに飲まされた水銀で声をやられたとあるから、庶民の中にも悪い奴が昔もいたものだ。1912年ごろ声楽家で明治天皇薨去の際捧悼歌のレコード吹き込みを行った丹いね子が、ライバルの原信子にフランス料理に招かれ、食後に飲んだペパーミントで下痢をし、中毒性急性咽喉炎と診断された。世に水銀事件として喧伝された。結局犯人はつかまらなかったと大宅壮一が「日本新おんな系図」に書いている。水銀は当時辰砂(丹砂、賢者の石とも呼ばれ、塩化水銀(Ⅱ)のことである)として朱漆や朱墨にも使われた。辰砂自体は水に溶けにくいので、朱砂安神丸というような漢方薬もあり、あまり毒性はないとされるが、400~600度で熱すると水銀ができるのでこれを用いたか、自然の水銀鉱から入手したのかもしれない。光雲自身は親にも子にも恵まれ、弟子の育成にも力を貸し、自分も精いっぱい努力してまことにうらやむべき一生と言える。その時代の人情がよく窺える。

設問)「この店の中の品物で他のお店より値段の高い品物を見つけたお客様には賞金進呈」をロシア語にせよ。

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2012年07月23日

●和文解釈入門 第430回

(177) 「榎本武揚シベリア日記」(現代語訳)、榎本武揚、諏訪部揚子・中村喜和編注、平凡社ライブラリー、2010年
 榎本武揚(1836~1908)がロシア公使の職を終えてシベリア経由1878年7月26日より9月30日にウラジオに到着し、帰国した時の日記。市川文吉(1874~1927)、寺見機一、大岡金太郎が随行した。時期的にはセルゲーイ・マクシーモフСергей Максимов(「シベリアと流刑」Сибирь и каторга, Книговек, 2010、7巻選集の第1巻と第2巻)の著者で1860~61年シベリアを踏破して刑務所の実情を調査した。彼の著作をジョージ・ケナンも大いに参考とした)と、ジョージ・ケナン(「シベリアと流刑制度」(2巻、完訳)、左近毅訳、法政大学出版局、1996年を著し、1885~86年シベリアを踏破し、主として政治犯について調査した)の間に相当する。コースもほとんどケナンと同じである。やはりナンキンムシ(ワンドロイスと榎本は書いている)に悩まされた。避虫粉もほとんど効かなかったようである。タランタスという馬車に乗ったシベリア流刑囚(50人とか100人とか)にも出会ったようだが、足に鎖もないからこれは貴族だろう。途中榎本は硝酸銀で塩分があるかどうかの実験もしているからまじめな性格だったようである。

(178) 「自伝」、片山潜、日本人の自伝第8巻所載、平凡社、1981年
 労働運動の先駆者片山潜(1859~1933)の半生伝。1931年版。津山の天領の庄屋の家に生まれる。エタは幕府時代も肉食であり、十手と縄を持って番太(巡査のようなもの)を勤めたなど幕末の農村の暮らしが具体的でためになる。親たるものは子供の頭などは決して叩いてはならないなど全く同感である。自分の性格の長短についても冷静に具体的に記している。田中正造を人気取りをするからか、嫌いなようで豚目などと呼んでいるのは面白い。

(179) 「曠野の花」、石光真清、龍星閣、1958年
 石光真清(1868~1942)は軍人で満州、沿海州の諜報に携わった。他に「城下の人」、「望郷の歌」(日露戦争従軍記)、「誰のために」という自伝がある。菊池正三という名でハルピンに写真店を営んだ。このとき二葉亭四迷とも知り合うが、二葉亭に満州駐在ロシア軍の移動命令書の翻訳を頼んだところ「こんな詰まらんものは嫌だよ」と一蹴されたとある。二葉亭はその後身体を悪くしてウラジオで保養中に、くたばって仕舞えになってしまったと聞いたと書いているのも面白い。二葉亭四迷のペンネームの由来(父から文学などやって、くたばって仕舞えと言われたから)についても当人から聞いている。これは「予が半生の懺悔」(二葉亭四迷、日本人の自伝第15巻所載、1980年)にも記載されている。二葉亭はウラジオでも文学を研究しており、コンマもピリオドも、果ては字数までも(ロシア語)原文通りにしようと苦心したとある。今で言えば、文の表層構造に執着するあまり、深層構造には目が行かないという事になるのだろうが、翻訳・文学・口語体表記のパイオニアとしての苦心がしのばれる。そのころ菊池写真館に出入りしていたのに大庭柯公もいて、二葉亭同様ロシア文学を研究していたという。大庭は二葉亭とは性格も違い滞満の目的も異なっていたらしいとある。石光と似たような境遇で、もっとスケールのでかいのは、小日向白朗(1900~1982)で、その自伝「日本人馬賊王」(ドキュメント日本人第9巻アウトロー所載、学芸書林、1968年)には当時の馬賊の様子がよく分かる。馬賊は侠客と強盗を併せたようなものであるらしい。小日向は満蒙の馬賊の頭目まで上り詰めた人物であり、二丁拳銃は一度に二丁使うのではなく、一丁の弾を撃ち尽くしてしまった場合、左手でもう一つの充填してある方の拳銃でもって敵を射撃しながら、右手で片方の空になった拳銃を、右側の膝の折り目に挟んで弾丸を装填するのが習わしであるという。それは射撃を止めて装填している時に撃たれてしまうからであると書いてあるのには感心させられる。馬賊全般に関しては「馬賊頭目列伝」(渡辺龍策、徳間文庫、1987年)が詳しい。

設問)「他店で40%値引きのところ当店全品15%値引きというのは、とりもなおさず当店が元々他店より安く販売していたという証拠であります」をロシア語にせよ。

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2012年07月24日

●和文解釈入門 第431回

今回は能動形動詞過去の話である。「和文露訳入門」の中の第8章のサンプルを、ご参考のために提示することにした。

8-10-2 能動形動詞過去

完了体能動形動詞過去というのは、述語によって示された動作・状態に先行する動作を表し、不完了体能動形動詞過去は、述語によって示された過去の動作・状態と一致する動作を示す。

(大学には大検〔大学入学資格検定〕に合格した生徒が受け入れられる)В в'узы бу'дут принима'ться уча'шиеся, сда'вшие экза'мен на аттеста'т зре'лости.

 ところが、<手紙を運ぶ郵便配達の人を見た>という文は、次の二つのロシア語の文が可能である。

Я ви'дел почтальо'на, несу'щего письмо'.
Я ви'дел почтальо'на нёсшего письмо'.

 この二つの文において、前の文は二つの動作の同時性を強調しているという違いがある。不完了体能動形動詞過去には、動詞によって規則的繰り返しや状態というニュアンスも含まれるが、定動詞の場合は不定動詞に変えるのが普通である。

(我が家に手紙を運んでくれる郵便配達人を見た)Я ви'дел почтальо'на, нося'щего нам пи'сьма.

 いずれにせよ、形動詞、副動詞は会話では意味が取りにくくなるので個人的に使用は勧めない。-ший, -щийというシューシューいう音шипя'щие зву'киの多用は、Розенталь Д.Э. 先生も音調の点から避けるた方がよい場合もあると書かれている。これはШшが日本語の「しーっ」に相当する、威嚇、苛立ち、静止を示す音だからかも知れない。

設問)「10時前だというのに店の回りには群集がいる」をロシア語にせよ。

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2012年07月25日

●和文解釈入門 第432回

(180) 「堺利彦伝」、堺利彦、日本人の自伝第9巻所載、平凡社、1982年
 山川均とともに日本共産党創設に関わった堺利彦(1871~1933)の半生(30年)のうち万朝報入社までを扱った自伝。1925年初出。九州豊津出身。文章は平明で読みやすい。珍しいのは、幼い頃正月に大根製の灯明があり、これは大根を一寸(約3センチ)あまりの長さに切って、その片面をすこしえぐり取って中をへこませ、そこに油を注ぎ、灯心を入れ、火を灯すという。

(181) 「小原直回顧録」、小原直(おはら・なおし)、中公文庫、1986年
 日本の司法・検察界の実力者であり大逆事件、シーメンス事件などの重大事件に関わった小原直(1877~1967)の回想録だが、重大事件は戦前のこととて政府の干渉があり、大して面白いとは思わないが、検事として関わった1914年の桐原集一殺人放火事件(死体を隠し完全犯罪をもくろんだ)とか、1915年の大森おはる事件(猟奇殺人事件で、小原ともう一人の検事が別々に被疑者を起訴したという珍事件)、1917年の島倉儀平女中殺人事件(当時神楽坂署長だった正力松太郎が事件解決に取り組んだ)、1923年の朴烈事件(特に朴烈の妻であるアナーキスト金子文子の生きざまなどは考えされる)などのほうが大正時代の世情もよく分かり面白い。小原自身が実際に強盗に入られ、芝居のように畳に包丁を突き刺されて、金を出せと言われ、命が惜しいから出したという事も書いてある。本書と同じ時代の犯罪を扱ったものには、「大正犯罪史正談」(小泉輝三郎、批評社、1997年、1955年の再録)があり、1922年大輝丸海賊事件や1923年の難波大助の起こした虎ノ門事件が詳しい。また三宅雪嶺や中野正剛がソ連から資金援助を受けていたとの説を披歴し、一時スキャンダルになったという。中野は1943年憤死するが、これはこのスキャンダルが関係しているとする説もある。これは久保田栄吉の「赤露二年の獄中生活」(矢口書店、1926年)によったもので、久保田はソ連の刑務所でこの話をアレクセー・ニコライという極東電報通信社通信人から、三宅と中野がアントーノフから10万円もらって通信に励んでいると聞き、帰国してからすぐ、知人でもあり当時日本駐在だったROSTA(1918年から35年まで存在したロシア通信社)アントーノフに問いただしたが、話をはぐらかされたという。中野は1923年名誉棄損で東京地方裁判所に出版社を訴えたという。

(182) 「ある凡人の記録」、山川均(ひとし)、日本人の自伝第9巻所載、平凡社、1982年
 日本の社会主義者山川均(1880~1958)の誕生から(若干先祖についても記載ある)1910年の半生を扱ったもの。1950年初出。幼少時故郷の倉敷では、天皇行幸に際し、天子様を見ると目がつぶれるとか、男の子に天子さまを拝ませると出世するという言い伝えがあったことが分かる。山川は1900年「青年の福音」という雑誌の第3号に当時の皇太子(後の大正天皇)と九条公爵家の4女節子との御成婚に対して、節子の意に反した結婚で、いわゆる人身御供であると「人生の大惨劇」を守田文治と共に執筆し、最初の不敬罪ということで、巣鴨監獄でともに3年半の懲役をくらった。この時代の監獄の様子の描写が面白い。30年後河上肇も下獄するが、それと比較するのも一興である。下獄前同志社でフットボールやベースボール、特にボートに親しんだことが分かる。社会主義活動の分裂、および幸徳秋水、堺利彦など社会主義者の一面についても触れている。堺利彦については、理解の対象とはなったが、(幸徳秋水のように)崇拝の対象とするには不向きな人だったとある。これは堺が自説を押し付けず、また人の面倒見も良い人で、山川と違い、健康面でも頑強な人だったからと述べている。文章は平明で達意の日本語である。

設問)「私宛に人が訪ねてくることになっているのです」をロシア語にせよ。

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2012年07月26日

●和文解釈入門 第433回

(183) *「おんな二代の記」、山川菊栄、東洋文庫、平凡社、1972年
初版は1956年。山川菊栄(1890~1980)と母の森田千世(1857~1947)の自伝。山川の夫は山川均で、後の大正天皇のご成婚のときに皇太子妃を人身御供と呼んだため1900年日本で最初の不敬罪となり、3年半服役したという。千世の父青山延寿は、「人は子供のうちになるべく広く何でも習っておく方がいい。そうすればそのうちで何か一つ好きなもの、得意なものができるにちがいない。それをしっかりやっておけば生計も立ち、歳を取ってからの楽しみにもなる」という意見で、専門の仕事とともに、趣味を持つことを勧め、子供たちにもその方針で臨んだとある。頭の下がることである。物心がついてから生きがいを見つけるよう努めることの大事さを親や周りのもののみならず、自分で考えないといけないということで、これは学校や会社に出ても心掛けておくべき名言である。本書は明治の女子教育の実情がよく分かるだけでなく、著者の尊敬すべき人柄もよく出ていると思う。華厳の滝に飛び込んだ藤村操が山川の兄の友人で、姉(会ったことはなかったという)に形見の言葉を残していたというのは初めて知った。大杉栄や、有島武郎と情死した波多野秋子が山川均に婦人公論の記者として死ぬ前に原稿を取りに来たとあり、その印象を述べている。主義主張の押しつけもなく、名文である。

(184) 「お雇い外人の見た近代日本」、R・H・ブラントン、徳力真太郎訳、講談社学術文庫、1986年
 1868年明治政府のお雇い外人第1号として来日し、1976年帰国まで三十余の灯台建設に尽力した。ブラントン(1841~1901)はイギリス人土木技師。日本的なものに対する関心は絶無だが、灯台のみならず、電信線、鉄橋、道路建設にも助力した。当時の伊藤博文、佐野常民、井上馨などの横顔にも触れている。修技校(後の工部大学校)の創立にも携わった。

(185) 「明治日本体験記」、グリフィス、山下英一訳、東洋文庫、1984年
 米国人宣教師グリフィス(1843~1925)が1870年から74年まで来日して、越前福井藩で教育したときの見聞記。下僕の家に招かれた時の日本の庶民の家庭の描写が非常に良い。当時の日本の子供の遊び、迷信について充実している。廃藩置県が地方で実際にどう行われたかについても書かかれてあるのは興味深い。日本古来のポロ(馬上ホッケー)である打毬(「うちまり」ともいい、徒打毬といういわゆる馬を使わないものもあった)についても記載がある。また猫に尻尾がないのはマン島の猫に似ていると書いている。グリフィスには他に明治天皇について1915年に書かれた「ミカド - 日本の内なる力」、亀井俊介訳、岩波文庫、1995年があり、明治天皇の側室が12名いて、内5名が天皇の子を授かったとか、天皇がシャトー・ラ・ロ-ズというワインをお好きだったとか、刀剣の他に時計収集が趣味だったとか人間的側面を、日本人の著書では書けなかったようなことが書いてあり、興味深い。質実剛健の明君であったことが分かる。

設問)「ホテルから空港までバスが出ています」をロシア語にせよ。

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2012年07月27日

●和文解釈入門 第434回

(186) 「木戸孝允日記」、世界ノンフィクション全集50、筑摩書房、1964年
 木戸孝允(1833~1877)の日記は1868年から1977年まであるが、本全集は1871年6月の廃藩置県から1874年征韓論の頃まで収録されている。木戸は枝葉よりも治世の根本を考える政治家であり、憲法をどうするかをすでに考えており、青木周造自伝などでも欧米に派遣された時も、常に日本の行く末を真剣に考えていた稀世の政治家だったことが分かる。

(187) 「オーストリア外交官の明治維新」、アレクサンダー・F・V・ヒューブナー、市川慎一・松本雅弘訳、新人物往来社、1988
 1871年2カ月にわたって廃藩置県直後に訪日したヒューブナー(1811~92年)の手記。原文はフランス語。岩倉具視、木戸孝允、西郷隆盛や明治天皇とも話をしている。駕籠に乗って不平も言わず、気持ちの上で余裕綽々の日本紀行。箱根に同行したアーネスト・サトウについて、健脚家であると同時に、印象に残った日本語の表現や言い回しを自分の手帳に絶えず書き留めていると感嘆の念を禁じえないとある。

(188) *「特命全権大使米欧回覧実記」(5巻)、久米邦武、水澤周訳、慶応義塾大学出版会、2005年
1871年~1873年岩倉具視を大使として、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文、山口尚芳等48名の代表団が英米仏伊蘭露普、ベルギー、デンマーク、スイス、スウェーデン、オーストリアを巡って政治、文化、産業などを調査した。久米(1839~1931)は公式の記録係。伴った留学生は54名で、そのほかに女子留学生が5名いた。原文は文語体であり、漢文は訳者によれば対句をよしとし、無理に比較することによって意を尽くせない憾みがあるという。このような大著を現代語訳で読めるのは非常にありがたい。また白髪三千丈式の誇張もある。記述は米英中心で、それぞれ各1巻を充てており、ページ数から見れば仏が1/15、独が1/13で、伊が1/13で、露に至っては1/23である。原著の誤りなど疑問点も指摘し、注が非常に参考になる。

(189) 「ブスケ日本見聞記」(2巻)、野田良之・久野圭一郎訳、みずず書房、1977年
フランス人ブスケ(1843~?)1872年法制を教授するために来日した弁護士で、法学教育に尽くした。1876年に帰任するまでの日本印象記。素人にありがちな学をひけらかそうという気取った文体で、訳者ですら回りくど過ぎて何を言いたいのか分からないところが散見されるのは困ったものだ。法律専門家だけあり、佃島の人足寄場についてこのように犯罪者に職を教えるようなところはフランスにはないと述べているところや、監獄、斬首、絞首刑の様子については職業柄生き生きと描いている。専門家であるブスケが日本での犯罪数はヨーロッパにおけるよりもはるかに少ないとか、罵倒することは下層階級でも極めてまれであると書いておいて、西洋文明も大したことはないという反省の文章がないのはおかしい。女性教育の重要さを指摘しているが、当時のヨーロッパの大学で女子を受け入れたのはスイスぐらいではないか、そういう事は何も書いていない。雨は一斉休業の口実となるなどよく観察している。旅行が好きで、北海道、名古屋、京都、横浜、日光など各地を旅行しており、加太邦憲が同行した時もあったようである。加太はブスケのことを、授業は事前にノートを作って教えるなどしてくれて、後にパリ大学教授ボワソナードを政府が招聘するが、その前にブスケが来てくれたのは(予習の意味で)非常に助かったと述べている。日本に対しての西洋文化の優越性がはっきりと表れてはいるが、比較的客観的な描写である。ただこの第2巻を訳す必要があったのだろうか?日本語は日常会話がようやくだった程度のレベルで、文字、文学、劇場、宗教、芸術について書いてあるが受け売りにすぎず、日本語や日本の文学は曽我の仇討、天の網島、赤穂浪士などの読み本の筋を書いているのに過ぎない。わずかに、神道とは祖先崇拝以上のものは何も教えないとか、神仏習合、日本人の建築にはシンメトリーと釣り合いを欠いているとか、日本の芸術は自然との調和を大切にする、混浴はあるのに、彫刻的裸像の何たるかを知らないなど卓見らしきものが散見されるのみである。

設問)「どこのカウンターにいけばよいのですか?」をロシア語にせよ。

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2012年07月28日

●和文解釈入門 第435回

新聞の本の広告に「日記を書いて身につける中国語」というのがあった。基本文法を日記例文と一緒に解説とあり、毎日少しずつ書きながら身につく学習法とのことであり、中国語ではそれが可能なのかもしれない。ロシア語ではどうだろう。基本文法を終えるというのだから、ロシア語なら始めてから半年ぐらいか。これで日記の例文があったとして、和露辞典片手に文章は書けるかもしれないが、それは「毎朝6時に起きます」程度の、現在形の繰り返し構文だけではないだろうか。それよりちょっとでも複雑な文となれば、完了体と不完了体の使い分けが分からないと、正しい文章は作れないと思う。出版予定の「和文露訳入門」の目次が、体の用法の使い分けの目安になれると期待している。そうであれば、和文露訳するときに手元においていただければ、力を発揮すると思う。

設問)「最新工作機械が動いているところを、どこで見(ら)れますか?」をロシア語にせよ。

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2012年07月29日

●和文解釈入門 第436回

(190) 「ディアス・コバビアス日本旅行記」、大垣貴志朗。坂東省次訳、雄松堂書店、1983年
 メキシコ天体観測隊が1874年地球と太陽の距離を太陽視差値として求めるため英米仏の観測隊と共に来日した。ディアス・コバルビアス(1833~1889)は天文学者でその隊長だった。神奈川の野毛山に基地を置いた観測は成功し、翌年離日するまでの見聞を書いている。科学者ということもあるが、日本びいきのようで、その人柄がしのばれる。日本人は通常親切で、勇敢で、謙虚さがあり、各種の文化を吸収する柔軟性を備えているなど中国人と比較している。通りに酔っ払いを見たことはなく、日本人は慎み深く、本質的に従順で、秩序正しい民族であるともある。駅で切符売り場に到着順に行列するとも驚きの筆致で描かれている。当時日本は外国に対しては何でも学ぼうという気持ちがあったことと、国際通貨はメキシコ銀だったということも日本にメキシコに対してよい影響を与えたのかもしれない。添付の写真の鎌倉の大仏の膝に人が乗っている。今では考えられないことだが、これも僧侶が金を取ってやらせたもので、酒も僧侶が売っていた。当時日本ではスペイン語を学ぶ者はなく、スペイン公使館、ペルーの政府代表部ぐらいがスペイン語を話す人たちのいるところだったという。メキシコの日本における領事事務を代行していたのはビンガム米国公使で非常によく尽くしたらしい。ビンガムはグラント将軍訪日のときも公使だった。

(191) 「松山守善自叙伝」、日本人の自伝第2巻所載、平凡社、1982年
 松山守善(1849~1945)は熊本の人。若いころは川上彦斎(1834~71、佐久間象山を暗殺、人斬り彦斎と呼ばれ、海舟ですら非常に気味が悪い奴と評した)に私淑し、敬神党に入るも、あまりの神慮による傾向(事をなすのにすべて神の卜占による)に嫌気がさした。敬神党の乱のときに弾に当たって戦死した富永次男という人は、胸に矢除けのお守りをたくさん身につけており、狂信者ぶりが知れる。その後民権自由の宮崎八郎(1851~77)につくも、「まず西郷の力をかって政府を崩壊させ、しかる上第二に西郷と主義の戦争をなすのほかなし」という考えについていけず、熊本県裁判所15等出仕となる。これにより同志より指弾されるが意に介さなかった。「人は読書と友人と境遇と年齢とによって思想は変遷する」というのは至言である。乃木将軍の殉死についても、批判的であり、難波大助(1923年の虎ノ門事件で、後の昭和天皇を狙撃した)の助命を求めたり、両親に対しても正当防衛は成り立つ(尊属殺人)として、ある友人から絶交を言い渡されたりした。当時としては珍しくまともな人のようである。またまじめな人のようで27のときに妓楼に上がって何をするところなのか初めて知ったという。ただ結婚後の芸妓との浮気や、その芸妓を捨てたこと、別の芸妓に浮気されたことなども赤裸々に書いているのは正直な人柄だからだろう。本文は文語調だが読みやすい。松山は西南の役後代言人になり、後弁護士となった。何度か選挙に打って出たが、落選。改進党の重鎮でもあった。

(192) 「西南の役」、世界ノンフィクション全集50、筑摩書房、1964年
 鹿児島県史から1877年の西南の役(丁丑の役)についての部分を収録したもの。西郷軍3万、政府軍6万の戦いであった。これにより明治維新は終焉したと多くの学者は考えているとのこと。筆致は淡々として非常に客観的な叙述である。

(193) 「薩摩反乱記」、マウンジー、渋谷啓蔵、富森篤、物集女清久、青木保訳、安岡昭男補注、東洋文庫、1979年
1876年~78年まで英国公使館に勤務したマウンジー(?~1882)の西南の役(1877年)に関する分析記録。訳は擬古体の名文。

設問)「どんな燃料でこの車は動くのですか?」をロシア語にせよ。

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2012年07月30日

●和文解釈入門 第437回

昨日の朝7時半に電子書籍「和文露訳入門」の販売を開始したら、その2時間後に第1冊目が売れたとDL-MARKETからメールが入った。その3時間後にもう1冊売れた。どなたかは知らないが有難いことである。初日で2冊というのは望外のことで本当にうれしい。この調子で売れてくれるといいのだが。紙の本と違うのは、売れるとすぐ、メールで知らせてくれるし、その時点で何冊売れたかがすぐ分かることである。紙の本は半年ごとに出版社から連絡が来て初めて分かる。結構、1~2%廃棄処分のがあるのはくやしい。これは輸送途中で、傷んだり、水濡れしたりして商品になりそうもないものらしい。初めての電子書籍という事で、力点などにも改善の余地は確かにある。初めePUB形式を考えて、それなら下線で力点を示すというのは表示できないかもしれないし、力点を入れるのが簡単で、アポストロフィーを使ってしまった。読みにくいという指摘も分かる。力点というのは入れるのも大変だが、間違いがないかどうか全文267ページを10回以上も読み返してチェックしなければならない。力点なども、個人的には入れるのはどうかと思うのだが、この忙しい時代、学習者がいちいち辞書を引いてられないというのも分かる。代名詞のона, этоの類はいくらなんでも力点を打つのを止めようかと思う。оноはоный由来でво время оноのときは最初のоに力点が来るから入れないといけないだろうが。どの単語まで力点を入れてというのは難しい。主格は入れないとか、その上に著者の判断で(?)難しい単語だけ入れるなどこれも簡単には決められない。この校正(プリントアウトしないから推敲というべきかもしれないが)をしていると、スペルミスやこの文例が適切なのかと考えたりもするから、力点のチェックを忘れたりすることがある。その上、行のずれの確認など、手間がかかることおびただしい。

 研究というのには金がかかるが、ロシア語の本や文献も高くなってきているし、和文露訳の研究にはいろいろな分野の著作から適切な文例を集めなければいけないということもある。和文露訳入門には19世紀以前の古い文例は入れてないとは言うものの、現代で使う文には廃用のは使わないが、現在でも使えるものは昔の文例でも載せてある。今読んでいる本だって、コーニКони(1844~1927)という有名な裁判官、検事を歴任した人の著作集の古本をモスクワから取り寄せたものだが、革命前の裁判の実態を知るには不可欠な本だし、文章も非常に知的な感じがする。それと同時に「ネップ時代のモスクワ」という本や、「魔法の新聞」という児童文学など、人から見れば、まるで系統的とは思えないものを読んでいる。ただ、和文露訳用の文例を日常会話のみと決めつけることは愚かだ。通訳をしていれば、交渉の時のスピーチなど、人によっては非常に格調高い通訳もしなければならないし、日常生活で文句の言い方などあるから、ある意味、行きあたりばったりで読んで行くしかない。

 ロシア語のテレビやラジオの文例は使わないのかと聞かれたら、使わないし、まず見ないと答える。40年ロシア語をやっているので聴きとりはできるが、これはという表現を書き写そうとしたら、前置詞がнаかвかとか、格変化はどうかということに、99%間違いないと思っても、100%は書き写せるか自信がない。俗語表現もあるかもしれないからだ。それで、例文にするのは書いたものに限るということになる。それも基本的には編集者が編集した由緒正しい本からのものであって、ネットで書いてある文章は玉石混交なので、参考にはするが、例文としては怖くて使えない。それは日本語のブログやサイトの日本語を見れば分かるだろう。ネットのロシア語全てが格調高いとはとても思えないからである。ロシアの古本を日本にいながら手に入れることができるのは結構なことだが、金がかかる。いくらあっても足りない。金があれば現地調査にも行きたい。そういうことで、できるだけ原稿を電子書籍にして少しでも金に代えたいと思っている。原稿のままでは誰の役にも立たないからだ。これも研究費の一つとして、持っている原稿はすべて電子書籍にするつもりである。

設問)「自社製品でないユニットや部品はありますか?」をロシア語にせよ。

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2012年07月31日

●和文解釈入門 第438回

完了体と不完了体の本質的な違いを、「和文露訳入門」では、不完了体は客観的な動作や状態を示し、
完了体は主観的なそれを示すとしたが、もっとと分かりやすく、文の焦点(文の意味上の中心)が動詞に来ない場合は不完了体を使い、来る場合は完了体を使うとしてもよいのだが、例えば、Вы закрывали окно?(窓を閉めましたか?)を縮めて、Закрывали?(閉めましたか?)とした場合、動詞しかないわけだから、文の焦点は動詞に来るのではと考えがちである。この文は、Закрывали или не закрывали?(閉めたましたか、閉めませんでしたか?)という事で、動作の有無の確認をしているわけである。つまり文の焦点は動詞ではなく、動作の有無に来ていることになるが、これを文の焦点だけということだけでは初級者には説明しにくいと思う。

設問)「支払はここですか、レジですか?」をロシア語にせよ。

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●和文解釈入門 第439回

(194) *「クララの明治日記」(2巻)、クララ・ホイットニー、一又民子訳、講談社、1976年
1886年勝海舟の三男梶梅太郎に嫁し、1900年に離婚、アメリカに子女とともに引き上げた米国女性である著者(1861~1936)の1875年から1887年までの日記。福沢諭吉、大鳥圭介、徳川家達など当時の一流人士と交流があった。有名無名の人たちについて私見もあろうが、人間的側面がよく分かるのはありがたい。福沢諭吉は英語の会話が苦手だったようで、著者と1879年に次のような調子で会話をしているのは面白い。「ミスター桐山イズほんとにカインドマンけれども、ヒイイズ大層ビジイ、この節、イエス」。日記は1875年8月から1880年1月までと、1883年から1889年までが詳しい。結婚前に父が森有礼から商業学校の校長ということで招聘され、一家で来日したが、その約束は果たされず、勝海舟の援助で、落ち着くことができた。彼女の父の才能や性格が弱かったような感じを受ける。勝海舟の妻と娘の逸との心のこもった交流は本書の中でも描写の美しい部分である。上巻は結婚まで。敬虔なクリスチャンのため仏教や神道に対してキリスト教の優越感がないこともないが、14歳で来日したわりには日本の事物について比較的公平な見方がされている。日本の音楽も単調だが、日本人の耳には西洋の音楽も変に聞こえるのかもしれないなどと書いている。日本人は天性洗練されていて、「エチケットの手引き」みたいだとか、けんかや街路上での殴り合い一つみられないとか、日本の女性は子供を産み、家事をするだけで休日もなく、とても早く老けてゆくなどあるが、なべて日本人には好意的である。1876年のアメリカ独立百年祭の日本での祝典に女子師範学校で教鞭をとっていたワシントンの直系の子孫であるアニー・ワシントン嬢(21歳)が参加されたとか、鎌倉の大仏の親指の上に乗って武士の顰蹙を買ったなど正直に書いてある。本人は異国の偶像だからと何とも思っていなかったようだ。日本人は尻尾のない猫を美の宝だと思っているとか、この頃来日した外国人と同じような感想を述べている。またある米国に留学したことがある日本人「リュウキチ」からのラブレターに対して、「私が猿なんか好きになるはずがない」とか人種偏見丸出しの記述もある。「海舟座談」(巌本善治編、勝部真長校注、岩波文庫、1983年)によれば1898年11月10日の項に、「クララには60円ずつやる」と書いてある。梅太郎が月給50円の職を失ったときのことらしい。

設問)「肉の料理では何がお勧めですか?」をロシア語にせよ。

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2012年08月02日

●和文解釈入門 第440回

体の用法の使い分けというのはロシア語会話を含む和文露訳のみならず、ロシア文学を深く味わおうとすれば、そのニュアンスを知るために不可欠なのだが、そう肩肘張らずに、リラックスして、時制など各章や200余の構文を一つずつクリアするとか、制覇するとか、その順番はバラバラでも、ゲーム感覚で取り組むというのも一つの考え方だと思う。そうすれば、楽しむロシア語、謎ときロシア語の世界が目の前に開けて来る。

 卒業試験として、私の場合は、「ロシア人の疑問 – 日本編 –」を日本語で書き、それを自分でロシア語にし、プロのロシア人作家でもあるヒサムジーノフ極東連邦大教授にチェックしていただいた。体の用法で直されたのは2か所、そのうち1か所は凡ミスで、残りが主観の違いということで、一応OKというか、お墨付きを頂いたわけである。語彙については直されもしたが、著者の意図と違うものについては、何度かメールを交わし、納得してもらったものもある。男だけでは、感覚の違いもあるので、教授の奥様にも見ていただいて、女性からの視点でチェックもしていただいたが、文責はすべて私にあるのは言うまでもない。

 体の用法が会得できたかどうか自分なりにチェックするのに、和文露訳や露文和訳をして見るというのも、一つの手ではあるが、手軽にできるのはロシア人ペンパルにロシア語でレターを書いて見るということである。そのとき、文法的におかしいのだけ(語法や語順も含めて)直してもらい、格調高いロシア語であるとか、美しいロシア語であるとか、私ならこう書くというのはくれぐれもやめてもらうようにするか、( )にして別にしてもらうかということを、前以てお願しておくことである。日本人でも美しい日本語や格調高い日本語が書ける人はそうはいない。とりあえず普通の日本人が目指すのは、礼を失しない、通じる日本語であろう。ましてや外国語であるロシア語については言わんもがなである。

設問)(修理などで)「待っている間にできますか?」をロシア語にせよ。

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2012年08月03日

●和文解釈入門 第441回

(195) 「1876ボンジュールかながわ」、エミール・ギメ、青木啓輔訳、有隣新書、1977年
 フランスのエミール・ギメ(1836~1918)と画家フェリックス・レガメーは1876年来日、新聞記者で画家のワーグマン(1832~91、早くから日本人に油絵の手ほどきをした)と一緒に日本を旅した。本書では日本到着後すぐの横浜、鎌倉、藤沢方面の紀行文である。本書はレガメーの挿絵が豊富で、これも当時を知るよすがとなる。日本人は中国人に地面につくまでお辞儀するが憎んでいるとある。この中国人は仲買人(コンプラドール)であり、彼らは英語が出来、日本語も漢字の部分は読めるので、外国人と日本人の取引にはなくてはならない存在だった。名所旧跡に興味を持ち、僧に寺や仏像の由来を聞くもほとんどの僧が答えられなかったという。鎌倉の大仏では僧侶がビールやシャンパンを売っており、シャンパンのフランス語のラベルがさかさまであり、僧侶もシャンパンも信用できないなとユーモラスに描いている。下駄は小さいベンチの形をしており、足が蒸れないという長所はあるものの、履くと必ずころぶので、特殊な平衡感覚が必要だとある。山地で用いられる下駄は高さ50センチとあるが、いかな足駄(高下駄)でもこういうのはないと思う。宿屋で女中が湯で足を洗ってくれる描写は本当に気持ちよさそうだし、寝る場所を女中が緑色のガーゼの檻で囲うとあるのは蚊帳であろう、ただ、枕(箱枕だろう)は高さが15~20センチあり、とても眠れるものではないと不平をこぼしている。日本で盗賊はめったにないし、乞食に出会わないのは300年にわたって国民に初等教育を、それもただで授けたからだといううがった見方もある。鎌倉で海水浴を勧められ泳いだが、電気クラゲ(カツオノエボシ)にさされ、日本人が海水浴をしない理由がよく分かると書いている。他にもオオダコもいるしとある。横浜で芝居も見たようで、女役は男がするし、女だけの一座も、子供だけの一座もあると書いているのは興味深い。

(196) 「ギメ東京日光散策・レガメ日本素描紀行」、青木啓輔訳、雄松堂出版、1983年
「ギメ東京日光散策」
 フランスのエミール・ギメ(1836~1918)と画家フェリックス・レガメは1876年来日、画家のワーグマンと一緒に日本を旅した。本書では品川、上野、浅草、芝、日光についての旅について書かれている。手ぬぐいについて、ポケットには決して入れず風邪をひいても日本人は決して洟をかまないし、かまないように気をつけている。日本人はそのために鼻紙を用いるのだが、これは現代のロシアでもロシア人はハンカチで洟をかみ、日本人はティッシュで洟をかむのと同様である。日本画家の河鍋暁斎(1831~89)を訪れ、レガメとお互いに絵を描き比べたことが書かれている。本書は挿絵が豊富である。
「レガメ日本素描紀行」
 画家フェリックス・レガメ(1844~1907)が1899年日本の美術教育視察のため再来日した時の紀行文。長崎、瀬戸内海、神戸、横浜、東京を巡った。本書も挿絵が多い。日本では盲人が多く、せむしが少ないとか、おかねは汚いものと考えられており、心付けやチップは紙につつまれて渡されるとか、日本の子供は甘やかされ、そして楽しまされ、日本はまさしく子供の楽園であり、非常にまれにしか日本の子供が泣くのは見られないと指摘している。

設問)「お客様にこれをお渡しするようにとのお言伝がありました」をロシア語にせよ。

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2012年08月04日

●和文解釈入門 第442回

和文露訳入門で読んでいただきたいのは、時制や法、あるいは、歴史的現在とか伝達型動詞などは当然なのだが、筆者としては、8-4 「知る」と「考える」の動詞群の意味の差異が、これまで触れられてこなかったようなので、初級の学習者のにとっても大いに参考になると思う。これについては、実は第33回の回答のところにあるのとほぼ同じなので、ご興味ある方はどうぞ。単数と複数については、これまでに書いたものをまとめて分かりやすくした。

設問)「イワノフさんが来たら、お待ちするよう言ってください」をロシア語にせよ。

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2012年08月05日

●和文解釈入門 第443回

和文露訳入門で使っているアオリストという用語は、本書の出だしのほうで定義づけてはあるが、本来はアカデミーのロシア語文法の§1508にあるаористическое употребление(アオリスト的用法)のことなのだが、縮めて使っている。アオリストそのものはれっきとした文法用語であり、ロシア古文には動詞の形態としてアオリストがある。これについては、「ロシア古文観賞ハンドブック」(中沢敦夫、群像社、2011年)が詳しい。現代ロシア語の時制を勉強するためには、その元の古代スラブ語や古代ロシア語の時制がどうなっているのか概観するにも、この本は非常によい参考書であると思う。アオリスト以外にも、インパーフェクト、パーフェクト、プルパーフェクト、未来形、命令法、仮定法、不定詞、分詞、前置詞他についても、現代語とのつながりを知る上で大いに参考になる。ロシア古文の参考書では、他に、「ロシア語史講話」(原求作、水声社、1996年)、「共通スラブ語音韻論概説」(原求作、水声社、2008年)もある。中沢先生と原先生に共通されているのは、両先生とも古代スラブ語(古代ロシア語)が専攻であるのに、あるいは、それゆえにか、質の高い中級や上級のロシア語参考書を執筆されているということである。あえて、不満を言えば、いずれも露文解釈の観点からのようで、ロシア語会話やメールなどのロシア語作文には、そのままでは使いにくいか、その面での配慮があまりないという点だけである。そういう意味でロシア語の文法を専門とする先生方に、中級・上級向けの和文露訳用実用書を是非執筆してもらいたいと心から願っている。私の書いた「和文露訳入門」は素人が書いた入門書であり、専門家からの実用面でもっとレベルが高い参考書が出るべきだと思う。紙の本でなくとも、ブログに連載するとか、電子書籍で出版するとか、儲けるつもりがなければ(ロシア語関係で儲かるという事はありえないが)、また、ロシア語の通訳やプロを目指す人の事を真剣に考えるのなら、いくらでも一般向けの発表の手段はあるはずだ。

設問)「誰かが私の事を問い合わせてきたら、私はレストランにいますから」をロシア語にせよ。

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2012年08月06日

●和文解釈入門 第444回

<訂正とお詫び>
電子書籍「和文露訳入門」19ページ下から9行目<完了体は客観的な動作や状態を、完了体は主観的なそれを示す>は、<不完了体は客観的な動作や状態を、完了体は主観的なそれを示す>に訂正願います。このタイプミスはホームページの著者の正誤表でも訂正済みです。このようなミスをするとは誠にお恥ずかしい限りで、言葉もありません。他にミスがないことを祈りますが、あるかもしれませんので、まとめていつか改訂版を出すことも考えざるをえないでしょう。

アクーニンの探偵小説ファンドーリンシリーズに、ドルゴルーコフ公という実在のモスクワ市長(実際には警視庁長官と市長を兼任したような職)が出て来る。公は1877年に起こったハートのジャック団Шайка червонных валетовによる詐欺事件の被害者でもある。公の家を空家として、一味の一人で、公の甥でもあるヴォリデマールが英国人に10万ルーブルで売り払ってしまったのだ。結局、公が関わっていると言うのでこの事件は揉み消されたが、こういう事件を調べていると、文献によって公の名字がドルゴルーキーだったりドルゴルーコフだったりする。公の御先祖は、モスクワ開闢で有名なドルゴルーキー(文字通りは長い手、1130年代キエフとペレヤスラーヴリ奪取のために戦い、広大な地域を股にかけて活躍したことから長い手と称された)とは関係ない、15世紀のオボレンスキー公の流れをくむ公が御先祖で、腕が長かったのかどうかも知らない。

 「ロシア古文観賞ハンドブック」(中沢敦夫、群像社)を読んでいたら、昔は、名字を生格のまま表記したとある。つまりДмитрий Алексеевич Долгоруково(ドルゴルーキーのドミートリー・アレクセーヴィチ)と表記されていたのが、最後のоが抜け落ちたのだろう。ДолгоруковоはДолгорукийの生格Долгорукогоと音では同じだからだ。なぜこういうことを書いたかと言うと、公の名字を和訳するとき、ドルゴルーキーとすべきか、ドルゴルーコフとすべきか、どちらなのだろうと長いこと(10年くらい)考えていたからである。どちらでもいいが、どちらかに統一すべきというのが私の前々からの結論であり、今になってようやく、どちらかというと、ドルゴルーキーのほうがいいかなという気がしてきた。

設問)「あ客様宛てに手紙が来ています」をロシア語にせよ。

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2012年08月07日

●和文解釈入門 第445回

日本語教育では、生徒が自信がなくて難しい言語表現を避け、簡略化するとか、一部省略することを回避と呼ぶ。このコーナーの設問は、試験でも何でもないので、リラックスして書けばよいと思うのだが、この回避ではないかという回答もたまにある。回避というのは私自身も通訳しているときに、単語や表現が即座に浮かばないときは、説明に切り替えたり、その場のロシア人に尋ねたりするからでかい顔はできないが、そういう何としてでも答えを見つけて相手に伝えないといけないという場面は別にして、回避ばかりしていると実力がつかない。後々、回りくどい説明で何を言わんとするか分からないという弊害を招くことになる。できるだけ設問に近い答えを考え出し、そうでない場合は、説明などでもよいが、正解に納得したら、それを覚えるということは今後のために必要なことだと思う。

設問)「今いるところを地図で教えてください」をロシア語にせよ。

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2012年08月08日

●和文解釈入門 第446回

(198) 「ベルツの日記」(2巻)、トク・ベルツ編、菅沼竜太郎訳、岩波文庫、1979年
 ドイツ人医師エルウィン・ベルツ(1849~1913)は1876年訪日以来滞日29年で、1905年帰国した。日本に温泉の重要さを医学的観点から重要性を強く指摘したので有名である。明治の元勲などとも病気治療の関係で親しくし、当時の日本の国内情勢についても世界的な観点から客観的に見ている点で、本書は非常に高く評価できる。ベルツは日本贔屓であるにせよ、時の皇帝ウィルヘルム2世への痛烈な批判(舌禍の多さ)は読んでいて爽快である。後半は日露戦争時の日本国内の様子が窺えて面白いが、「公報によれば戦果(勝利の)が御稜威によるものとあるが、損害は天皇の不徳のせいになるという理屈になるのでは」と、ベルツの健全な常識が看取される。ベルツは明治天皇の実母、東宮一家(後の大正天皇や昭和天皇)の診察も任されていた。

(199) *「日本その日その日」(3巻)、E.S.モース、石川欣一訳、平凡社、東洋文庫、1970年
大森貝塚の発見で有名なモースの日本滞在記。モース(1838~1925)は3回(1877、1878~80、1882)来日している。モースの自筆の挿絵も多く、そのため説明が非常に分かりやすい。ユーモアを交えた中に科学者(人類学者)として詳細だが簡にして要を得た筆致は、人柄のなせる技であろう。かなりの日本贔屓で、日本に対して好意的である。幕末や明治の日本について、外国人が必ず触れる汚わい臭について一言もないが、船に乗った時の魚肥の臭さについて書かれているから、鼻がおかしいというわけでもなさそうである。中国人や朝鮮人について、当時の日本人が偏見をもっていなかったのは、開国直後だったからであろう。これを日本人の特質とするのは、後の歴史を見れば分かることだが、それは瑕瑾とまではいえない。6~7行で話題が変わるので当時の日本についての表題のない百科事典を読むような感じである。訳文も味わい深い。また北海道から鹿児島まで精力的に訪れており、東北地方についても、イザべラ・バードの紀行文を読むような暗さはない。モースは両手利きだという。こういう先生が側にいれば学問への興味もすぐに涌くに違いない。ちなみに森銑三の「明治東京逸聞史」(2巻)東洋文庫(1969年)にも本書からいくつか引用されている。モースの観察眼が高く評価されたのだろう。

設問)レストランで「4人です。2人は後から来ます」をロシア語にせよ。

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2012年08月09日

●和文解釈入門 第447回

(200) *「イザベラ・バードの日本紀行」(2巻)イザベラ・バード、時岡啓子訳、講談社学術文庫、2008年
 1878年の英国人女性イザベラ・バード(1831~1904、1881年結婚を機に姓をビショップと変えた)の人力車、馬、船による、横浜、東京、日光、新潟、山形、青森、函館、室蘭、苫小牧、神戸、京都、奈良、大阪、伊勢、津、大津を回った日本北方紀行。当時の東北の農村の悲惨さが客観的に描かれていて胸を打つ。本書は説明が簡にして要を得ているし、馬に草鞋を履かせるところの描写など総じて著者の観察眼が鋭いことをうかがわせる。この草鞋についてはケンぺルにも記述があり、幕末の写真集にも載っている。日本人について「最も醜くて最も感じのいい人々だ。それに最も手際のよくて器用だ」と日本人が貧弱な体と貧相であると書いてあるのには、当時の日本人の栄養状態が悪かったこともあるのだろう。著者が最良の伝道唱道者の一人と言われるほとキリスト教の敬虔な信徒のためか、日本人は不信心だとか、日本人がキリスト教に帰依すれば日本はもっとよくなるなど陳腐に思えるところもあるが、記述は冷静客観的で、アイヌに対する思いやりなど人柄がよく伝わってくる。ただ日本人の秩序好きは認めており、不信心な人たちがどうして礼儀正しいのか若干戸惑っている記述もある。

 金坂清則教授によれば、ガイドの伊藤鶴吉(1857~1913)は、神奈川県出身、後にシドモアのガイドもした。通訳の名人で、通弁の元勲と称された。ただ通弁はオランダ通詞が長い歴史を持っており、ガイドの元勲といったところか。彼はこのとき20歳(バードは18歳としている)で、酒は飲まず、未亡人の母に仕送りをしながらバードと行を共にした。途中宿の娘に恋したり、若者らしい挙動がバードの筆致から伝わってくる。伊藤はマリーズという植物学者のガイドを月7ドルでしていたが、バードが月12ドル出すということで、勝手にバードに乗り換えた。なかなかちゃっかりしている。結局バードの仕事の後マリーズと清国と台湾に1年半同行するということでこの件は決着したという。この伊藤について、頭の切れる語学の向上心の強い若者だが、宗教心は皆無で、したたかな面もあり、宿代をピンはねしようとする小ずるいところもあると書いているのは面白い。そうはいっても、この時代のガイドは料理人、洗濯人、お供、ガイドと通訳を一人で兼ねていたようで大変な仕事だったが、パイオニアとしての誇りと愛国心を持って外国人に接していたようである。彼は後に開誘社という外国人ガイド専業組合の発起人となった。ガイドや通訳必読の書。バードは1894年から3年余挑戦を訪れ、1905年に「朝鮮紀行」(講談社学術文庫、1998年)を上梓し、その中でウラジオストークにも立ち寄っている。他に「中国奥地紀行」(2巻、金坂清則訳、東洋文庫、2002年)や「イザベラ・バード極東の旅」(2巻、金坂清則編訳、東洋文庫、2005年)という日本を基地としての朝鮮、中国、沿海州の旅について補遺(上巻は写真集)の邦訳がある。

設問)ボクシングで「この選手は何勝をあげましたか?」をロシア語にせよ。

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2012年08月10日

●和文解釈入門 第448回

日本語学習でアイデアユニットという言葉がある。単文、節、不定詞構文、動名詞句、接続詞を指すが、これは語彙を覚える際に、単語だけを独立して覚えるよりは、アイデアユニットで覚えた方が、実践的な面で応用力が高いと思う。設問も単文とは限らないが、短文であるので、これを暗記した方が効率が高いと思う。

設問)「痛むところを見せてください」をロシア語にせよ。

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2012年08月11日

●和文解釈入門 第449回

和文露訳入門の中で、体の用法の使い分けの要点として、<不完了体は客観的な動作や状態を、完了体は主観的なそれを示す>と書いたが、伝達型動詞(動作遂行型動詞改め)との違いを例に挙げて、説明してみたい。замечатьは伝達型動詞であり、(公爵家の名称は使われなくなりつつあるという事に気がつく)Замечаем, что княжие имена выходят из употребления.というように使うのだが、スピーチや論文の中で、補足説明として挿入するような形で入る場合には、(ついでに言うと、スタルゴーロドでのイーリフとペトローフによる路面電車生産の描写は、その5年後に現れたのである)Попутно заметим, что описание пуска трамвая в Старгороде, сделанное И. Ильфом и Е. Петровым, появилось пять лет спустя.というように、完了体未来形が用いられる。これは補足事項の説明や挿入語句という事自体が、著者や発話者が直接顔を出すような表現であり、主観的発想であると言えるからである。また主観的であるからこそ完了体が用いられる。話題の転換や場面の切り替えというのは主観的な動作であると言える。不完了体現在形を用いる伝達型動詞と、完了体未来形を用いるこのような補足事項の説明の用法の違いというのは、補足事項の説明や挿入語句というのは、その性質上、先行する文の後で使われ、伝達型動詞は先行する文で使われるということにある。下記も同様である。

(公正を期するために述べておく)Объективности ради отмечу.
(この政治家二人、マクナマラもラスクも非凡な人たちであるという事をここで指摘しておく)Отмечу здесь, что оба эти деятеля – Макнамара и Раск – люди незаурядные.

設問)「そこを辞めてから何年になりますか?」をロシア語にせよ。

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2012年08月12日

●和文解釈入門 第450回

和文露訳は日本語文法とロシア語文法の力を借りて、双方の文法の違いを明確に理解して、和文をロシア文に移すことである。日本人は日本語文法を理解していなくとも日本語は話せるが、和文露訳をできるだけ早い期間でマスターしようと思うなら、日本語文法の理解は欠かせないと思う。

 日本語文法によれば、日本語の文は命題とモダリティーによって構成されていて、文の内側に命題があり、それがモダリティーを包み込む構造をしている。命題というのは、「ああ、多分、明日休講になるだろうね」の中の「明日休講になる」という話者の心的態度とは関係しない客観的な事柄や、現象を示す部分であり、それ以外の、つまり主観的な部分をモダリティ(ムード、叙想、modality、модальность)と呼ぶ。モダリティーは、事柄の真偽に対する話し手の判断、~した方がよいというような望ましさに対する評価、終助詞「ね」「よ」の用に聞き手への伝え方を表し、また命令・勧誘・願望などの表現を持つものもある。

 「明日休講になる」はニュアンスがなければ、Завтра урок отменяется.と不完了体現在形の予定の用法が使える。しかし、この予定の用法は全ての動詞に使えるわけではなく、何らかの動作の開始を意味する動詞である可能性が高い。そうなると、客観的だからと言って、不完了体だけ使えるということにはならず、ロシア語では命題において、まずどちらかの体を選択しなければならないということになる。この段階で、完了体を選べば、モダリティーのニュアンスが入りこむことになる。つまり、ロシア語では、命題とモダリティが並存する可能性もあり、日本語同様、命題を包摂する可能性もあるという事になる。

設問)「そこで待っていてください。お迎えにあがります」をロシア語にせよ。

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2012年08月13日

●和文解釈入門 第451回

(201) 「旧聞日本橋」、長谷川時雨、岩波文庫、1983
女流作家長谷川時雨(1879~1941)の東京の日本橋界隈で育った少女時代を扱った自伝。樋口一葉(1872~96)の「にごりえ・たけくらべ」(岩波文庫、1927年)の世界とも言える。

(202) 「グラント将軍日本訪問記」、ジョン・ラッセル・ヤング、宮永孝訳、雄松堂書店、
 随員ヤング(1840~1899)の1879年の米国グラント将軍(1822~85)の訪日記録。南軍リー将軍(1807~1870)との降伏にⅠ章が割かれているのも興味深い。日本酒をシェリーのような味の米から作った温かい酒と書いている。グラント将軍は実際家で、盆栽などは仕事の悪用だと見なしたとある。幕末にも明治天皇は外国使節に応接したものの、儀式であり、飾り物のようであったが、今回はグラント将軍が英雄という事もあり(西郷隆盛の影響もあるのだろう)、選挙権、関税権、琉球、国債のことなど天皇自身の希望で話し合いがもたれたことは特筆に値する。天皇は民選議員の認可と国民に立法上の職権を与えてよいのか御下問されたという。この頃から施政者としての自覚が出てきたのかもしれない。日光には10日間過ごしたが本当に楽しかったと書いてあるが、箱根にも滞在したはずなのに特に書かれてはない。

設問)道に迷って、通りすがりの人からのアドバイスである「この通りをまっすぐ行って、最初の交差点を左に曲がりなさい。右の3つ目の家がそうです」をロシア語にせよ。

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2012年08月14日

●和文解釈入門 第452回

(203) 「クロウ日本内陸紀行」、岡田章雄・武田万里子訳、雄松堂出版、1984年
 1881年4カ月来日した英人商人クロウの横浜、函館の日本紀行。1883年初出。サトウ・ボウズの「中部・北部日本案内」に非常に世話になったと書いており、来日早々サトウに招待されている。旅行の大半はビルボーと一緒であった。日本人の容姿のよさといい、お互い同士の礼儀正しい丁寧さといい、中国人とは好対照と述べている。別当について御者ではなく、馬車の前を走って混雑した通りでは歩行者に注意を呼び掛ける馬丁とあるのは参考になる。旅したのは横浜、神戸、大阪、京都、彦根から中山道を通って、諏訪、高崎、日光、箱根、函館である。函館をジブラルタルに似ているとしているのは興味深い。多くの外国人と同様、当時の日本の俗説である、富士山と琵琶湖は一夜にできたと書いている。これはダイダラボッチという巨人伝説によるもので、第7代孝霊天皇(紀元前324~紀元前215年)の紀元前285年とかに書いてあるものもある。通訳は大阪生まれのヨシでガイドにしては正直で心の優しいと書いており、ただクロウはガイドを人夫と同列に見ていた。京都でバード女史のガイドを勤めたイトーに会っている。

(204) 「私の生立ち漫談」、五世三升屋小勝、日本人の自伝第21巻所載、平凡社、1981年
 落語家、女形、神主を経験し、パリ万博に烏森芸者を引率して渡仏した三升屋小勝(1858~1939)の自伝。1937年初出。正に波乱万丈の生涯である。上総ではくたびれることをこわいとあるが、方言というのは昔の都言葉(柳田國男の周圏分布)というように、私の子供の頃(今から40年前)函館でもそう言ったし、美人のことをシャンといった、これも幕末に江戸で使われた言葉であり、1901年菊池寛が一高生のころ芥川龍之介のことを上級生がシャンと呼んでいたと「半自叙伝」(日本人の自伝第15巻、平凡社、1980年)にある。話はそれたが怪談師五世林家正蔵と関係が深かった。この正蔵は100歳のときに下座のおばさんに夜這いをかけたと、古今亭志ん生が自伝「なめくじ艦隊」に書いている。
 明治大正の芸能については「明治大正の民衆娯楽」(倉田喜弘、岩波新書、1980)がよい。落語や講談、女義太夫のみならず、どどいつ、浪花節についてもページを割いているのが好感が持てる。

設問)「そこは何番地ですか?」をロシア語にせよ。

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2012年08月15日

●和文解釈入門 第453回

初級者がこのコーナーをどう活用すべきか書いてみたい。初級者というのはロシア語を学ぶのだということで、どうしてもロシア語主体にならざるをえない。しかし、ロシア語会話をしたいのであれば、日本語からロシア語へというような視点も大切である。ここでいう初級者というのは、ロシア語を勉強して半年ぐらい、文法は一通り終えたぐらいで、ロシア文字は読めるという方を指す。ロシア語会話や和文露訳は初級者のうちから勉強した方が、ロシア人と会話しようという動機付けができて、ロシア語の実力が上がってゆくと考えるのは理の当然である。

 そうはいっても初級者では語彙が不足しているために、和文露訳をするのは無理だと考えるかもしれない。それはその通りなのだが、それなら初級者はこのコーナーでは語彙のことは考えに入れずに、設問の日本語だけ見て、動詞が完了体か不完了体か、あるいは名詞が単数か、複数かだけ、あてずっぽうでよいから自分で答えをメモしておくのである。24時間後には答えが出るし、用法名もできるだけ書くようにしているので、第300回の本文や和文露訳入門を見てもらえば、体の使い分けの説明が詳しく載っているので参考になるはずだ。どこを見れば分からないのであれば、遠慮なく質問してくれれば回答する。これを毎日続けるだけで、体や単数・複数の使い分けの勘が養われて来る。回答例を暗記すれば語彙力もつくという具合である。今まで450回続けているのでアトランダムに、自分の都合のつく時間に1日1題やってみれば、ロシア語の会話力はついていって、中級に進むのも時間の問題だ。電子書籍の「ロシア人の疑問 – 日本編 -」だって、日本語の単文を見て、完了体と不完了体のどちらかであるかをチェックしてみるとか、単数・複数を調べてみるとか、そのような和文露訳の勉強という観点から使える参考書なので、初級者の方にとっても使い方一つで役に立つと思う。

 このように日本語を語彙という枝葉ではなく、動詞の体の用法や時制といった根幹の方から見つめる方が初級の段階ではより重要であると思う。ロシア語に振り回されるのではなく、あくまでも和文を主体に据えるという意識を初級者の段階から意識的に見につけることが、ロシア語会話上達への道である。

設問)「(それは)エレベーターを降りた右手のほうにあります」をロシア語にせよ。

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2012年08月16日

●和文解釈入門 第454回

ロシア語の初級の参考書というのは、学習する人が自分の判断と好みで決めればよい。それなりに役に立つものばかりである。ただ疑問が湧いて来たときに、その疑問や質問を著者にメールなどで気軽に尋ねて、著者から答えがもらえるようになっているのが望ましい。私の会話集「そのまま使える!ロシア語会話表現集」(東洋書店、2009年)や「ロシア語基本熟語500」(東洋書店、2009年)で、何か疑問があれば、遠慮なく、匿名でよいので、このコーナーでも、私のサイトからでも質問いただければ、このコーナーか、ロシア語質問箱というコーナーで必ず回答する。他の会話集や参考書に関する質問でもよい。営業妨害はしたくはないので、署名や著者名を書く必要は特にない。分からないところを例文があれば、例文ごと連絡いただければ、回答する。これ以外の、ロシア語に関する疑問ならどんなものでも構わない。分かる範囲で回答するようにしたい。

設問)「どうなさいました?」
「胃の調子がおかしくて」をロシア語にせよ。

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2012年08月17日

●和文解釈入門 第455回

語彙を完璧にすべて習得するのは不可能である。せいぜいのところ自分で使うか、必要とと思う範囲の語彙を覚えるのである。多いに越したことはないが、重なる部分も多いとはいえ、観光ガイドと技術通訳の語彙は違うし、外交官の語彙も違う。極端に言えば、技術通訳でも、鉄鋼関係と、化学や機械では異なる。日常的な語彙の範囲と言うなら、それは市販の会話集の語彙範囲という事になる。初級者はとりあえず、それを覚えればいいのである。通訳の仕事が来る度に、その業務内容の語彙をチェックし、新たに暗記することも多い。中級以上の人であれば、和露・露和辞典や英露・露英辞典、ネットを使って、必要な語彙を調べることもできるかもしれないが、初級者ではそれも無理だろう。観光や基本的な技術関係については、原稿もできているので、今後随時刊行予定であるし、語彙だけなら、ロシア語通訳協会でも、ある程度は入手可能である。

 しかし、問題は語彙というよりは、その前の動詞の使い方、もっというと体の用法である。これが分かりにくいために、楽な方の、暗記すれば済む語彙の学習に走りがちである。それを分かってもらうために、このコーナーでは、日常生活、医療、技術、スポーツ、政治経済などあるゆる範囲を想定して出題しているから、短文で語彙が分かったとしても、体の用法が分かっていないとロシア語としては奇妙な文になるという事が、回答例とその説明を読めばお分かりだろう。日本語でいえば、敬語の使い方のおかしい日本語に近いのかもしれない。

設問)「その短編を原書で読んだのですか、それとも翻訳でですか?」をロシア語にせよ。

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2012年08月18日

●和文解釈入門 第456回

Ждите.(お待ちください)というのは、懐かしい響きがある言葉である。30年前モスクワに駐在していたとき、たまに日本の実家に国際電話をするときとか、出張先からモスクワに電話した時、モスクワから地方のお客さんに電話したときなど、電話交換手(今やこういう職業の女性がいたことを知らない人も多いと思う)から、Ждите.と言われたものである。駐在してすぐのとき、どうしてПодождите.(ちょっとお待ちください)ではないのだろうと疑問に思ったことを思い出す。はじめからだいぶ待たすのが電話交換手には分かっているので、それで「ちょっとお待ちください」とは言えないのだろうかとか、「そのままお待ちください」という意味だろうかと、いろいろ理由を考えたものだ。

 ようやく今にして、これは着手を表す不完了体の命令形であることが分かる。ロシア語会話をするときに、自分の頭の中では、40年間ロシア語をやって蓄積した文例から正解を探し出そうという自分と、この2~3年でなんとか分かった体の使い分けの基準から正解を選び出そうとする二人の自分がいるのだが、どうやら勝つのはいつも年の功の方ということらしい。多くのプロの通訳やガイドの皆さんも、何年も、何十年も暗記してきた例文が頭に浮かび、それに近いものを瞬間的に選び取っているのだろう。いまさら、この性癖は変えられないし、自分はこれでよいとしても、若い人が、何十年も暗記に費やすとしたら、もっとやることがあるのにと思う。それで、和文露訳入門に書いた目次が、体の使い分けに少しでも役に立つのではないかと考える次第である。

設問)「この切符の払い戻しができますか?」をロシア語にせよ。

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2012年08月19日

●和文解釈入門 第457回

いつものように川のほとり(歩道)を散歩していたら、向こうからランニングをしているおじさんが、私を呼びとめて、マナーを守ってほしいと言う。何か失礼な事でもしたかと思い、理由を尋ねてみた。要は私が右側通行をして歩いていたのがマナー違反でけしからぬという。60年生きてきて、車は左、人は右というのを頭に叩き込まれてきたが、そうではないらしい。そのことを言うと、それは車道の話で、歩道では歩行者は左側を歩くのがマナーだとおっしゃる。たまに出会う警察官からも、そのような注意はされたことがないし、テレビでも、新聞でも、そのようなマナーについては見たことも、聞いたことがないと言うと、自分も、警察や学校にこういうマナーの順守を何度も言って、それなりの手ごたえを感じているとおっしゃる。そういうのはマナーと言うのではなくて、単なるランナーの要望とかエゴとかと言うのではではないかと申し上げた。さらに、私の歩いている歩道は自転車も通る。そういう歩道で、歩行者が左側通行であれば、自転車は右という事になるのだろうかと言うと、向こうは絶句したが、皇居でのランニングは左側になっていると、皇居を持ちだしてきた。皇居であろうと、マラソンであろうと左側通行と言うのは、それなりの理由があるのであろう、自分はランナーではないので、ランナーのすることについては口を出さないが、歩道は、おっしゃるように道路交通法で規制されているのが車道なら、歩道は歩行者が右でも左でも(真ん中以外は)どこでも自由に歩いていよいはずだ。いきなりマナー違反と言うからカチンとくるのであって、ランナーとして歩行者にも左側通行をというキャンペーンをやっているのでご協力をと言えば、それなりに筋の通った話ではある。ただ歩道通行を右側か左側かに規制するという事自体反対だが、どうしてもというなら、歩道では自転車の通行もあるので、車道と混乱しないために、歩行者もランナーも右側がよいのではと言ったら、じっくり話したいと言うので、分かりきった話にじっくり話をするほど暇人ではないし、言う事は全部言った、それよりもランナー全体で警察や学校、テレビ、新聞と話をつけて、歩行者も歩道は左側通行というキャンペーンをやり、国民の総意を得た上でというならまた考えましょうとおさらばした。この酷暑の中、こういう人も増えるのだろう。一緒にいると同じような人かと見られるのも嫌だ。おかげで、自宅に帰る手前で土砂降りの雨に遭ってびしょぬれだ。おっさんに呼びとめられなければぬれ鼠にならなかったろうに、ついてない。世の中規制解除の時代だというのに、それに逆行するというのも時代遅れの話ではある。

 ネットで調べたら、歩道の左側を歩いていて、歩道は右側通行だとかみつかれ、警察を呼ぶ騒ぎになって、面倒臭くなって文句をつけた相手に結局謝ったという話もある。いずれにせよ尋常な話ではない。ゆとりのない時代ではある。歩道ぐらい好きなように歩けばいいだろうに。私だって、右側通行ばかりしているわけではないし、だいたい右か左か歩道を歩くのに考えたことすらなかった。ロシア人ならどう言うだろう。今日のおじさんは私と同じくらいの歳だったが、こういう人はロシアじゃ暮らしていけないなと感じた次第。

設問)「グリーン車大人3枚、子供1枚日光まで往復をお願いします」をロシア語にせよ。

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2012年08月20日

●和文解釈入門 第458回

全体の与格については第30回の設問で取り上げ、和文露訳入門でも10-7に全体を示す与格という小見出しをつけて再録してある。日本語文法でも持ち主の受け身文というのがあって、「私の手はイヌにかまれた」とは言わずに、「私は手をイヌにかまれた」とするとある。動作を受ける非情語(無生物という事で、不活動体名詞と考えてよい)が主体の所有語の場合、持ち主の受け身文にするとある。これを露訳すると、ロシア語では受け身にはならず、能動文で示すことになると思う。Собака укусила мне ногу (в ногу, за ногу). こういう点は偶然文法的に似ている点である。ちなみに力点はзаに来る。

設問)行列に並んでいて、何かの理由で行列を離れる際に、「この席を取っておいてください」をロシア語にせよ。

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●和文解釈入門 第459回

モスクワの番地について、フェドシュークФедосюкの「Москва в кольце Садовыхサドーヴィエ環状線内のモスクワ」に書いてあるのを見つけたので、それを紹介する。モスクワはいくつかの環状線が取り巻いていて、環状道路は時計回りに、奇数番地を左側に、クレムリンから放射状に出ている道路は、右側に偶数番号が来る。例外はマルクス大通り(現在のТеатральный проезд, Ул. Охотный ряд, Моховая улиыа)で、ルビャンカ広場(KGBの建物ある)から番号がスタートするとある。

設問)「彼はずっと我々が知らないとばかり思っている」をロシア語にせよ。

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2012年08月22日

●和文解釈入門 第460回

近くを散歩していると掲示板に町内会の講演会のビラが貼ってあった。「コニュニケーションと人間関係 – 挨拶と表現 -」とある。講師は教育カウンセラーの人らしい。行きかけて、これでコミュニケーションが取れるようになるのか不安に感じたが、こう暑くてはなあと思った次第。

設問)「稲光がして雷が鳴った」をロシア語にせよ。

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2012年08月23日

●和文解釈入門 第461回

この頃聞いていて、違和感を感じる言葉に、「勇気をもらった」、「感動をもらった」がある。NHKのアナウンサーも使うのだからまともな言葉のようだが、「勇気がわく」とか、「感動を分かち合う」という言葉はあまり耳にしない。ただ自分は使わないにせよ、現代の言葉使いが乱れているから直せと主張するつもりはない。これも時代の流れだと思うからだ。勇気や感動が授受できるものだという意識は、バーチャル時代の賜物だと思う。つまりコンピューターゲームで、武器や技がポイントにより、あるいは売買で手に入るなら、という発想かもしれない。もっとも「感動(勇気)を与える」というのには違和感はないが、与えるのはあくまでも人間ではなくて、その行為である。「勇気(感動)をもらう」というのはこの発想の転換から生まれたのかもしれない。

設問)「今年の冬は30年ぶり(30年来)の寒さです」をロシア語にせよ。

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2012年08月24日

●和文解釈入門 第462回

漢字の説明をロシア人にすると、どのくらいの数の漢字を覚えると新聞が読めるようになるかという質問を受けることがよくある。国立国語研究所の新聞における漢字使用の実態調査というのがあって、「現代新聞の漢字」(1976年)にその結果が出ているが、1000字知っていれば、新聞に書かれている漢字の93.9%は読めるということである。教育漢字(学習漢字とも言う)が1,006字と決まった背景もここにある。ちなみに教育漢字というのは小学校6年生までに習得すべき漢字である。

設問)「シリーズ物はすべて一番面白いところで終わる」をロシア語にせよ。

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2012年08月25日

●和文解釈入門 第463回

最近<「世間」とは何か>(阿部謹也、講談社現代新書、1995年)という本を読んだ。その中に、今から十数年前に女子学生の一人がゼミのコンパで、「先生、中年の男性ってどうしてあんなに汚らしいのですか」と聞かれ、著者は絶句し、「日本の中年男性が一般的に言って魅力的ではないのは何故か。もちろん問題は中年男性だけではない。中年男性の予備軍とも言うべき若い男性の場合も同様の問題があるのであって・・・(略)。我が国の男性たちはわが国独特の人間関係の中にあって、必ずしも個性的に生きることができないのである」とある。そういうことを言う女子学生も女子学生だが、恐れ入ってしまうのも情けない。著者が魅力的でないかどうかは知らないが、ここは一応著者の主観を尊重したい。しかも厭らしいのは、「同じ年齢層でも中年女性の集団は少し違う。眉をひそめさせるような言動がないわけではないが、没個性的とはいえず、よくいえば天真爛漫である」とご婦人がたに媚びているのか、危険を察知して予防線を張っているかのようである。

 気になるのは、女子学生が「汚らしい」と言っているのに、「魅力的でない」と著者が理解していることである。女子学生は、文字通り、「汚らしい」と言っていると思うのだが。汚らしいと魅力的でないには随分差があるような気がする。まあ、仮に、「魅力的でない」としても、別に反論するつもりもないが、著者自身がそうであるから、あるいは自分の回りがそうであるからといって、自分が日本の中年男性の代表のような顔をするのは如何なものだろう?アメリカの中年男性は、ロシア人は、中国人は、韓国人、アラブ人は、アフリカの中年は魅力的なのだろうか?個性的云々とあるから、西欧の白人の中年を意識しているのかもしれないが、皆が映画スターのようではないだろう。これは日本も同じだ。しかも日本の若い男性諸君も同様な問題があると書いてあるから、大きなお世話としか思えない。中年の男女が魅力的ではないというなら、それは子供の教育費用、親の介護などという社会の重圧が一番かかって来る世代からだし、若者にその傾向が見られるのも、正社員の雇用を制限している分、サービス残業が増えていたり、正社員になる見込みが少ないことで将来への望みが持てないからだろう。それと個性的あることがよいかどうかは一概には言えないという根本的な問題もある。すべてこの著者の論理は、思い込みから成り立っているとしか言いようがない。だからというわけではないが、肝心の世間に対する本書の内容についても、文学史から見た世間というだけで、とりわけ感心するような知見はないし、著者の考える世間というものは、非常に狭い感じがする。

 それに対して、<「縮み」志向の日本人>(李御寧、講談社学術文庫、2007年)は、日本人論の陥りがちな、対西欧との日本だけではなく、もっと広い意味での韓国・中国の視点からの日本人論であり、ミクロという切り口から日本人論で視野が広く、よほど面白い。ただ、わずかに垣間見えるロシア人については、ステレオタイプのソ連型官僚主義だけのようで、世界的視野でものを見ることの難しさを教えてくれる。ミクロと言うなら、ノミに蹄鉄を打ちつけたロシアの職人の話であるレスコーフЛесковのЛевша(ぎっちょ)とか、仏壇に対するалтарьなど、ロシアにもミクロ的な世界観はある。この点からロシアの東洋性を見てみるのも面白いかもしれない。

設問)「日中は晴れ間が続きますが、南部と山沿いは豪雨となる可能性があります」をロシア語にせよ。

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2012年08月26日

●和文解釈入門 第464回

 英語で能動受動態というのは、read, cut, sellなどの動詞を使う、This book sells well.(この本はよく売れる)という文などを指すが、ロシア語ではся動詞の不完了体(自発的可能性)ないしは、性質を示す自動詞で表すことができるし、сам (а, о, и) собойとの組み合わせで自発的可能性を示すことができる。

(この本はよく売れる)Эта книга хорошо продаётся.
(この本は読みやすい)Эта книга легко читается.
(そのナイフは切れない)Нож не режет.
(鎌はひとりでに切れた)Коса резала сама собой.

ところが、能動態であって、文脈によって受け身の意味を示す場合が日本語にはある。「明日手術する」という文では、主語が医者か患者かによって、手術をするのか、受けるのか、意味が分かれる。「明日病院で注射をする(予防接種をする、血圧を測る)」もそうである。ロシア語では、受ける側が与格となるか、主語となるか、補語となるかで意味をはっきりさせることが多い。

(手術に同意なさいますか?)Вы согласны оперироваться? (Вы даёте согласие на операцию?)
(患者は放っておいた(癖になった)脱臼の手術を受けた)Больной прооперирован по поводу застарелого (привычного) вывиха.
(麻酔の注射をしてください)Сделайте мне, пожалуйста, обезболивающий укол.
(注射をします)Я сделаю вам укол (инъекцию).
(破傷風予防注射をしてください)Сделайте мне укол от столбняка.
(ちょっと我慢してください。注射をしますから)Потерпите, вам сделают укол.
(自分でなんとか注射をしたわよ。簡単よ)А я сама себе как-то делала, элементарно!

しかし、ウィッテの回想録に、(私はすぐに手術をする決意をした)Я решился сейчас же сделать операцию.とある、ウィッテは蔵相、首相を歴任したが、医者ではない、となると、手術を受けるという意味で使っているとしか考えられない。例はあまり多くはないが、下記のような例もある。

(それでも狂犬病の予防接種をしに行った)Я всё-таки пошёл делать прививку от бешенства.
(前に血圧を測ったことはありますか?)Вы измеряли раньше давление?

 上の文などは自分で測ったのかとも考えられるし、病院で測ってもらったのかとも考えられる。こういう点は日本語とも似ている。和文露訳入門の8-9-2 自発的可能性のся動詞の項も参照願う。
これについては和文露訳入門には載せていないが、第2版を出すとなれば、載せることになるだろう。

設問)「急用が出来たので、お約束の時間をちょっと遅くできませんか?」をロシア語にせよ。

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2012年08月27日

●和文解釈入門 第465回

-ну-を持つ動詞というのはтолкнутьのように、一回体という完了体と思いがちだが、不完了体も少ないながらある。その中でтянутьは語義により対応する完了体потянуть, вытянуть, протянутьが異なる。このтянуть以外では、-ну-に力点が来ないし、語義に次第に変化するという意味を持つものが多いように思われる。

вянуть/увянуть (завянуть)衰える・しぼむ、вязнуть/увязнуть (завязнуть)はまる、 гибнуть/погибнуть滅亡する、липнуть/прилипнуть貼りつく、мёрзнуть/замёрзнуть (вымерзнуть)凍る、мокнуть/вымокнуть濡れる、сохнуть/засохнуть (высохнуть)乾く

設問)「劇場の前で6時に落ちあいましょう」をロシア語にせよ。

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2012年08月28日

●和文解釈入門 第466回

質量массаというのは物質がもっている本来の重さであり、方向を持たず、常に存在する。一方、重量весというのは引力によって物質に生じる重さであり、方向がある。重量は無重力状態では存在しないし、月の上では月の引力が地球の1/6なので、重さも1/6である。このように重量は地球以外の場所では変化する。質量の単位はкг (kg)であり、重量の単位はニュートンН (N)であり、またN = kg・m/s2である。日本では用いられないが、ドイツなどでは重量キログラムkgfが用いられており、ロシアでもкгс (кГ)= килограмм-силаはСНиП (Строительные нормы и правила, СНИП建設基準規則と言い、発音はснип)では、100 кгс/м2 = 1кПа (kPa)= 1кН/м2 (kN/m2) が用いられている。СНиП にはもう一つ(Санитарные нормы и правила, СНИП衛生基準規則)があるが、これではない。kgf (кгс) = 9.80665N (Н, ньютонов)であり、1Н = 0,10197162 кгсとなる。ちなみに1馬力は1 л.с. (лошадиная сила) = 75 кгс・м/сである。話がそれたが、このように質量の単位がkgなので、ロシアの船積書類、ミルシート(鉄鋼メーカーの発行する鋼材の材質を証明する添付書類)などでは、日本であれば重量とあるところに、массаと記載されている。定義に厳密なのであろう。

設問)「今日靴屋の店員に笑われてしまった」をロシア語にせよ。

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2012年08月29日

●和文解釈入門 第467回

電気用語、機械用語ではコンデンサ、シリンダ、コンピュータなど語末の長音符号「-」の省略が見られる。特に電気用語は、文部省学術用語集電気工学編(1957年)に「その後が3音節以上の場合には、語尾に長音符号を付けない」とあることに由来する。しかし、英語の普及により、より発音に近いという観点からか、マスコミなどでもコンデンサー、シリンダー、コンピューターとすることが多いようなので、このコーナーも私の著書もそれに従っている。

設問)ピアノの演奏者に言う「一曲お願いします」をロシア語にせよ。

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2012年08月30日

●和文解釈入門 第468回

単語に力点を打つかどうかだが、力点を打つのにかなり精力を割いているような感じがするので、今後出す著書については、単語の力点をできるだけ下線で示すようにするが、人称代名詞・指示代名詞など初歩的な単語については力点を省くことにした。単語が初歩的かどうかの判断は著者が行う。無論、初歩向けではないような単語、あるいは複数や格変化などで力点が移動するものなど、注意を要する単語については、力点がある母音に下線を引いて表示する。

 力点というのは間違いやすい単語、頻度の少ない単語に打つべきもので、全部に打つのは、単語が見にくくなったりして、弊害の方が多いと考えるからである。だからего, были, будет, когда, сейчас, теперьなどについては力点を打たないということである。こういう単語の力点が分からないというのであれば、まずその力点を覚えるのが先決だ。それと、一番の問題は全部に力点をつけると、間違う可能性も多くなるしという内心の言い訳めいたこともある。

設問)「時計の針を2時間戻した」をロシア語にせよ。

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2012年08月31日

●和文解釈入門 第469回

(205) 「中車芸話」、七世市川中車、日本人の自伝第20巻所載、平凡社、1981年
 川尻清譚聞き書き。1943年初出。歌舞伎役者七世市川中車(1860~1936)の自伝。歌舞伎の家に生まれたのではないが、子役として京阪、名古屋で子役役者として働き、後に東京で九世市川団十郎の弟子となり、五世尾上菊五郎にも可愛がられた。1869年の東京遷都のときの明治天皇の行幸を実際に拝観し、周りの人がみなぽんぽんと拍子を打って行列を拝んだという。子宝に終生恵まれず、最初の養子はどうやら夜嵐お絹と市川権十郎との間にできた娘らしく、踊りを習わせていたが早世したという。最初の妻お浜の死後、後妻にお市をもらったが、そのお市が夜中お浜の胸にのしかかってきた夢を見たという。16歳のときに19歳の御職女郎と心中するつもりが、そこで別の心中者を助けるということになり、心中は未遂となった。同じ本に載っている初世中村鴈治郎(1860~1935)の「鴈治朗自伝」でも、鴈治朗は19歳で心中未遂をしているので、役者というのは持てたという事が分かる。鴈治朗の父三世中村翫雀は市川権十朗の弟子という因縁がある。鴈治郎は1887年先輩俳優の内縁の妻に出世をねたまれ、水銀を毎食すこしずつもられ声がかれてしまったという。ちなみにこの鴈治朗自伝のほうは、文章は短いものの、気取りが多く、人に見せることを意識した書いた日記を、そのまま本にしたような感じで内容もそれほど面白いものではない。9代目中車を継いだのが俳優香川照之であるのはご存知の方も多かろう。

設問)「乗るバスをお間違えです」をロシア語にせよ。

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2012年09月01日

●和文解釈入門 第470回

これまで「和文露訳入門」、「ロシア人の疑問 – 日本編 -」、「るいごプラス!」と、電子書籍をPDF化して、3点刊行したが、iPadをお使いの方も多いと思うので、友人から聞いた電子書籍のiPadでの保存の仕方を書いて見る。自分はiPadを持っていないので、何とも言えないがお試しあれ。「ロシア人の疑問 – 日本編 -」、「るいごプラス」なども語彙集として活用できる可能性が開けることになる。

 iPadでPDF 文書を読む方法で、一番基本的なのは、まずパソコンに一度PDF文書を保存して、パソコンとiPadを接続、それを iPadのiTunes を起動して iBooksに入れるのだが、最初 iBooksをダウンロードしておく(無料) 必要がある。
 もう一つは、クラウドサービスを利用する i文庫HDである。このアプリは¥800と有料だが、かなりよくできたソフトで、i文庫HDをダウンロードすると、もちろんPDF文書も簡単に保存して読めるが、青空文庫の本も読めるし、いちいち iTunes を起動しなくても簡単に読めるので¥800 の価値はあるという噂である。こちらを使う方法は、まず、下準備として、

1) 無料のDropboxアカウントを作成。
2) PCに、Dropboxをインストールする。
3) Dropboxのフォルダにダウンロードした電子書籍を入れる。
4) iPadに「i文庫HD」をインストールする
5) 「i文庫HD」を起動し、フォルダ→Dropboxと開くとDropbox内の
ファイルが一覧できるので、アップしておいたファイルを選択しダウンロード。

設問)「出血する前に痛みがありますか?」をロシア語にせよ。

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2012年09月02日

●和文解釈入門 第471回

(206) 「明治劇談 ランプの下で」、岡本綺堂、岩波文庫、1993年
 1921年初版。作家であり、新聞記者として長く劇評も担当した岡本綺堂(1872~1939)の明治時代の歌舞伎についての随筆。個人的なスキャンダルの類は避け、実際に自分が幼少のときに見た舞台における役者の演技について語っているところがすがすがしい。まじかに見た13代守田勘弥、名人市川団十郎、尾上菊五郎の演技については、我々素人にも分かるような説明がなされているので勉強になる。綺堂が8歳のときに家を守田勘弥が訪問したが、何度勧めても裏口の木戸から入ったという。当時役者(勘弥は座主だったが)は河原乞食と蔑まれており、役者にもその自覚があったことが分かる。綺堂には、このほかに「岡本綺堂随筆集」(千葉俊二編、岩波文庫、2007年)があり、特に拷問について奉行所では担当者の技量が疑われるとしてできるだけ避けられたとある。天保5年播州無宿の吉五郎という窃盗の常習犯が3年越しの牢問24回、つまり鞭打ち、石抱き、海老責め、釣責めに耐え、察斗詰(自白しないための認定裁判)で処刑されたとあるのは興味深い。拷問に耐えた新記録かもしれない。

(207) 「左団次自伝」、二世市川左団次、日本人の自伝第20巻所載、平凡社、1981年
左団次(1880~1940)は1890年子役で勧進帳の太刀持ちをしたときに眠くて、眠気覚ましにハッカを眼の縁に塗ったが、やはり眠ってしまい、九世団十郎よりいい度胸だと言われた。父の初世左団次は団・菊・左のとうたわれた歌舞伎の名優。大入り袋も、初世が1896年それまで大入りのときは蕎麦を出したのを蕎麦札にして、大入りと書いた袋に入れたのが始まりという。このように当時の世相や由緒などにも詳しく、文章も達意の名文である。1907年欧米に劇の視察に赴いた。演劇の改革を志すもすぐには受け入れられなかった。1909年剣道家浅利兜七郎義金の4女登美子と結婚。この浅利は一刀流で有名な浅利又七朗義明の子である。1928年ソ連政府の招きにより訪ソ、歌舞伎を演じる。スタニスラーフスキーとも面談。ここで演じた忠臣蔵からハラキリがロシア語で広く知られるようになったのではと思われる。ただ「サーカスと革命」<道化師ラザレンコの生涯>(大島幹夫、平凡社、1990年)所載の1914年日本のサーカス団のさよなら公演のポスターの写真には、大きく「ハラキリ」という文字が書かれているから、ハラキリという言葉自体はもっとも前、多分幕末の頃からロシア語に入っていたと思われる。

設問)「この作戦はロシア史上前例がなかった」をロシア語にせよ。

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2012年09月03日

●和文解釈入門 第472回

「ベーシック日本語教育」(佐々木泰子、ひつじ書房、2007年)の日本語文法関係は、森山新先生が執筆されておられるが、その中で、非常に興味深い記述を見つけたので、要約してお知らせする。
 感情・感覚を示す「悲しい」、「痛い」、「感じる」、意志・欲求を示す「つもりだ」、「~う/よう」、「~たい」、精神作用を示す「思う」、「考える」は主語が一人称のときだけ用いられる。二人称の時は、「~か」(問いかけ)、「ね」などの終助詞を添える。三人称のときは、「~かもしれない」、「~に違いない」、「~のだ」、「~らしい」、「~のようだ」、「~だろう」という推測・判断の表現形式を添える。例外は引用の形式にするか、小説などの感情移入であるとある。

 ゆえに、「彼は悲しい」という文は、おかしいということになる。「形容詞 + です」については、1952年の国語審議会で、平明簡素な形として認めてよいという見解が出され、正しい用法と認められたと研究社日本語教育事典(近藤安月子 + 小森和子編、2012年)にある。つまり、「大きいです」、「小さいです」、「おいしいです」は「ね」などの終助詞をつけなくても正しい日本語と見なされているわけだ。私も含めて年配者には違和感を持つ人もいる。特に、三人称を主語にした「佐藤さんは悲しいです」とか「田中さんは痛いです」はおかしいと感じる。これは日本語では主語を立てるのは強調しているというニュアンスがあり、主語なしでも、日本語は高文脈の言語だから、十分意味が通じるということが背景にあるのだろう。

設問)「席の数は50から150の間です」をロシア語にせよ。

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2012年09月04日

●和文解釈入門 第473回

(208) 「自由か死か」、玉水常治、日本人の自伝第2巻所載、平凡社、1982年
 自伝とあるが、1885年自由党大阪事件に関与した明治の自由党壮士玉水常治(1862~1939)の、長崎にて捕縛され、大阪堀川監獄からの脱獄と3年ほどの逃避行についてのみであり、本人にとっては人生の華と感じた時代であろう。乞食になって道中の蚊遣りの使い方を乞食に習うなど面白い。これなど海舟の父小吉の若いころの家出の様子とあまり変わらず、当時の壮士の生活や考え方がよく分かる。新潟、山形などを経て函館で憲法発布の特赦(国事犯のみ)の知らせを聞いて自首した。途中鳥目になったりしたが、ヤツメウナギを食べて治ったとも書いている。兄の玉水嘉一(1859~1947)は1884年加波山事件(栃木県令三島通庸〔みちつね〕暗殺計画)の首謀者である。文体は口語文で読みやすいが、自分のことを三人称で描くなど気障な感じがないわけでもない。

設問)「生存者を収容してください」をロシア語にせよ。

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●和文解釈入門 第474回

(209) 「シドモア日本紀行」、エリザ・R・シドモア、外崎克久訳、講談社学術文庫、2002年
 1884~1902年の日本観光案内。鉄道が発達していなかった時代とはいえ、米国人女性であるシドモア(1856~1928)が、人力車で日本各地を回ったというから驚きである。日本の観光案内で日本のよさを強調しすぎたために、客観的な視線からは外れているように思われるのが少し残念である。古き良き時代の日本らしさが残っていた日本についての紀行文であり、ガイド(無論英語の)についても書いてあるのは我々にとって興味深い。鎌倉の大仏について、「参観者はその合わせた親指と両手の上で記念撮影をするため、よじ登ってポーズを取ります」とあるのには驚いた。1884年~91年ごろの鎌倉らしい。

設問)「彼はこれを業務にも役立つし、時間の節約にもなると思っている」をロシア語にせよ。

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2012年09月06日

●和文解釈入門 第475回

日本語の時制は過去と非過去(現在、未来)が対立する。時制から見て日本語の動詞を状態動詞と非状態動詞に分けると、状態動詞は、「~ている」の方を取らずに現在の状態を表す動詞で、「いる、見える、思う」などであり、「今家にいる」、「明日もここにいる」のように、ル形で現在と未来を示す。非状態動詞というのは、「話す、行く、歌う」などの動きを表す動詞で、ル形が未来だけを示し、現在はテイル形を用いて示す。

 一方アスペクト(出来事が進行中か、継続中か、終了したかなど動きの局面に注目する文法形式)で、日本語の動詞を分類すると、動作動詞(継続動詞とも言う)、変化動詞(瞬間動詞・結果動詞とも言う)に分かれる。動作動詞は「電話で話している」のように、テイル形が進行の状態を示している動詞で、変化動詞は、「イスに座っている」のように、テイル形で結果の状態(現存)を表す動詞である。テイル形には、このほかに「学校に通っている」などの反復・習慣を示す用法や、「棒の先がとがっている」というような形容詞的用法、「その話は一度聞いている」というような経験を示す用法があり、「~した」も「歩いた」や「歩いて来た」のように、日本語では過去と現在完了の意味がある。これらをロシア語の時制やアスペクトなどに振り分ける必要が出て来る。ただ伝達型動詞はについては、「和文露訳入門」に挙げたように、さらなる別の工夫が要る。

 ロシア語の参考書などで、Завтра он прочитает эту книгу.の訳を「明日彼はこの本を読み終わるだろう」と「だろう」を入れて訳しているのを見るが、これは第472回に述べたような考え方からだということは理解できるが、「だろう」は国語辞典を引いても、「推測の意味」であるので、これを避ける工夫が必要である。主語が三人称だから、意志・欲求の「~う」は使えない。それに、このпрочитаетは未来の動作の確実性を意味している。だからそれに相当する日本語の動詞表現である「~る」を使えばよい。「読み終える」は動作動詞であり、ル形は未来だけを示すから、「明日彼はこの本を読み終える」とすれば正しい和訳という事になる。

設問)「最近6カ月の間に乗組員に病人が出ましたか?」をロシア語にせよ。

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2012年09月07日

●和文解釈入門 第476回

体の用法の使い分けをするときに、文脈と切り離した場合を考えてみる。どちらの体が使える場合があるにしても、どちらかの体の方を使うのが自然であるとか、使うにせよ、どちらかの体の間にニュアンスの差が生じるのが普通である。次に、文脈に応じて、体の用法を考えてみる。回りの雰囲気に合わせるのなら不完了体だろうし、自主的にということなら完了体であろう。このときに、森全体を見渡す手法と、木を一本一本見分けようとする手法の二つを交互に頭に置いておかないといけない。森を見る手法と言うのは、「不完了体は客観的な動作や状態を示し、完了体は主観的なそれを示す」という体の本質のことであり、木一本一本見るというのは、時制や法によって体の用法の使い方を個々に学ぶという事である。体の用法の本質は同じでも、その現れ方が同じではないからである。常に双方向的に勉強して行かないと体の用法の奥義を会得できないと思う。その文脈で、あるいはその動詞の用法で、どの体が一番自然であるかを考え、そうでない例外となる場合はどうしてなのかという理屈を和文露訳入門から見つけるというのも面白いかもしれない。

設問)「彼は収容所で重労働もいとわない」をロシア語にせよ。

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●和文解釈入門 第477回

(210) 「蹇蹇録」(けんけんろく)、陸奥宗光、中塚明校注、岩波文庫、1983年
陸奥宗光(1844~97)の日清戦争(1894~95)外交秘録。李鴻章について人物評は豪胆逸才、非常の決断を有すというよりは、むしろ怜悧にして奇智あり。妙に事機の利害得失を視て用捨、行蔵するの才気あるとして、運がよいからこれまで来れ、はったりやで、そのために西洋人の受けがよいと見ている。文章は文語体だが、虚飾なく、簡にして要を得ている。個人的にはロシアの干渉(三国干渉も含めて)について興味深く読んだ。三国干渉となったのは露仏同盟に危機感を感じたドイツが、これに加わることでその緊密さに楔を打つべき目的であったというのは面黒い。

(211) 「青木周造自伝」、板根義久校注、東洋文庫、平凡社、1970年

 青木周造(1844~1914)は条約改正に力のあった外交官。林董もその実力を認めていた。1868年プロシャ留学、1877年日本人の前妻と別れ、エリザベット・フォン・ラーデというプロシャの男爵の妹と結婚。白黒はっきりした論理を好むのは日本人離れしている。プロシャ好みというのもその論理的思考からであろう。その反面ロシア人は蒙昧愚鈍として嫌った。人に対する好悪もはっきりしており、そのため興味も一層増す。文体は文語体であるが、校注者が私のような浅学者のことを考えて、難しい漢語のすぐあとに訳を入れると言う気遣いに感謝したい。青木は木戸孝允に私淑し、その亡き後井上馨に兄事したが、大津事件の後は山形有朋系となった。長州閥といっても伊藤博文とは対立した。憲法調査にも関わり、大津事件のときは外相で責任を取らされた。犯人の死刑には刑法上の観点から反対した。論理的な人柄がよく現れている。

設問)「頭痛持ちですか?」をロシア語にせよ。

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2012年09月09日

●和文解釈入門 第478回

「十人の真犯人を逃すとも一人の無辜を罰するなかれ」というのは、周防正行監督の映画「それでもボクはやってない」の冒頭のスクリーンに浮かび上がる言葉らしい。らしいというのはこの映画を見ていないからだ。このロシア語はЛучше десять виновных освободить, нежели одного невинного наказать. となるが、残念ながらこれは私の訳ではない。ピョートル大帝が1716年陸軍操典第5章第9項 (в п.9 гл. Ⅴ Устава воинского) で最初に述べた。ところが、ロシアではこの言葉を初めて言ったのはエカチェリーナ2世であるという風説が流れていたという。そう革命前の名判事であるコーニは著書に書いている。ピョートルは白黒はっきりすさせるのが好きだから、こう述べたとしても、ヒューマニストの立場からではないのは言うまでもない。多分、文字通りであろう。ピョートルは自分の息子も拷問したぐらいだから、建前としてそれは当然と思っただけで、この操典が発布されてから、彼の部下が冤罪が出るのを恐れて、牢屋の囚人を釈放したという話は聞かない。昔も今も、建前ならその通りで、冤罪は出すべきではないし、罪をおかした者には罪を償わせるという現実的方策を行うしかないのである。エカチェリーナの場合は、ヒューマニストとしての建前と立場からという、より政治的な啓蒙君主としての立場上の配慮が感じられる。死刑の廃止をしたのは彼女の前の前の、ピョートル大帝の娘エリザヴェータ・ペトローヴナ女帝だからだ。義母だった彼女に対しても、あからさまではないにしろ、チクチクと真綿で首を絞めるような書き方をしており、エカチェリーナは含むところがあったように思われる。嫁姑の問題というよりは、義母の存命中は何も言えない立場だったからだったのだろう。

 死刑を廃止(後に復活)したと言っても、カモフラージュした死刑замаскированная смертная казньというのがあり、ムチ打ちの刑だって、列間笞刑шпицрутеныでは2列に向き合って、柳のしなった棒をもった兵士の間を通って、その棒で打たれるのだが500回でほぼ死ぬという。打つの手加減する兵士は、その場で同じ刑に処されるから手加減はあり得ない。これを千回とか一万ニ千回ムチ打つという判決自体が、カモフラージュした死刑であるとコーニは述べている。

設問)「次の項目はピストンです」をロシア語にせよ。

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2012年09月10日

●和文解釈入門 第479回

ロシア人から日本の葬式についてよく質問を受けるのだが、日本では火葬が一般的であるというような話をする。それに関連して、ロシアはキリスト教だから土葬かと、何となく思っていたが、よく考えてみると、社会主義革命のあった国でもあり、どんなものか調べてみた。火葬が公式に認められたのは1918年12月7日の政令によってである。戦争で死者が増え、墓地の土地が不足したのと、衛生上の関係からと思われる。モスクワではドンスコーイ修道院の近くのセラフィーム・サローフスキーおよびアンナ・カーシンスカヤ教会において火葬場крематорийができた。火葬場には遺骨安置所колумбарийがあり、その壁に火葬後の遺骨が葬られた。この時代、モスクワで亡くなったアメリカのジャーナリスト、ワルター・ヴィッフェンはモスクワ上空に散骨するよう遺言した。ヴァガニコーフスキー墓地(ヴィソーツキーが葬られている)の上空を飛行機が何度か旋回し、モスクワ市内における唯一の散骨が実現したことになる。粛清されて銃殺された人は火葬され無縁墓地に葬られた。ソ連時代は火葬と土葬が並行して行われた時代だったと言える。

設問)「宮殿の木の内装はすべてオーク(樫)だった」をロシア語にせよ。

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2012年09月11日

●和文解釈入門 第480回

優秀な通訳というのは、語彙が豊富であるというのが前提だが、プロの通訳と言っても二つに分かれる。一つは、会社専属というか、その会社の、もっと言うと、その部署の関連の仕事の通訳しかしなくてもよい通訳である。こういう通訳は日常関係の政治経済一般はもとより、専門分野は狭いが、内容は細かく深い。外交官の通訳や、大手商社で営業兼通訳もする人がこういうタイプである。もう一つは小さい商社や、いわゆるプロの通訳で何でもこなさなければならないから、技術の基本的な語彙、医療、政治経済、スポーツなど広く浅く覚えており、いくつか得意分野(鉄鋼・機械などの)を持っている必要がある。語彙は広く深く覚えておくにこしたことはないが、あらゆる分野というのは実際的に不可能である。そこで、基礎的語彙をまず覚えることになる。政治経済なら、時事関係も含めて新聞で頻出する語彙であり分かりやすいが、技術的な語彙というのは、経験しないと分かりにくい。そのため悪循環というか、基礎的な語彙が分からないために、技術通訳に踏み出せないという人も、特に女性には多いだろうと思う。

 技術通訳というのは分野も多様であるとはいえ、通訳の分野で中心となるのは、機械、鉄鋼、化学であり、その基本的な語彙を知っていれば、その上に、依頼される通訳の具体的な分野の語彙を押さえておけばよいというのが、私の持論であり、これは40年にわたる技術通訳の経験から言える。その基本的な語彙というのは、私の経験から言えば、千ぐらいだが、これとて全部丸暗記していなくてもよい。私だって時々はうっかり忘れることも多いから、そういうときには、「女性のための技術ロシア語」のもとになったものを見るようにしている。

設問)「彼はもうずいぶん前から車を持っている」をロシア語にせよ。

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2012年09月12日

●和文解釈入門 第481回

「こ」、「そ」、「あ」系を指示語という。文章における文脈指示には「あ」系は用いられず、直前の文に出てきたものを後続の文で言い換えて指示する場合、「この」は使えるが、「その」は使えないと研究社日本語教育事典(近藤安月子 + 小森和子編、2012年)にある。例として、「私は、水族館に行くといつもエンゼルフィッシュを見る。この(*その)魚は色彩が鮮やかで、見ていて飽きない」が挙げられている。我々は中学校から英語を習い始め、定冠詞のtheが名詞についていれば、所構わず「その」と訳を入れる習慣がついてしまった。そのせいかどうか知らないが、例文で「その」でだめだという感覚が分からなくなってしまった。若い人はどう感じるのだろう?

 露文和訳のときに、ロシア語は冠詞がないから、気軽に「その」は使えないことが分かる。上の例文をロシア語にすれば、エンゼルフィッシュскалярия (-и) を受けるのは、рыбаかона (они) だろうから、「その魚」ではまずいことになる。「この魚」にしなければ、日本語とおかしいということになるのだろう。それにしてもプロの翻訳者がここまで気を使って露文和訳しているのだろうか?日本人だから日本語ができるというのは、案外、大きな落とし穴かもしれない。

設問)「傷は命にかかわるものではなかった」をロシア語にせよ。

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2012年09月13日

●和文解釈入門 第482回

(213) 「ドイツ歴史学者の天皇国家観」、ルートヴィッヒ・リース、原潔・永岡敦訳、新人物往来社、1988年
 ルートヴィッヒ・リース(1861~1928)はユダヤ系ドイツ人で、1887年来日、日本人を妻に迎え、1902年まで東大史学科で歴史学を講じた。ドイツのランケの孫弟子であり、すべて確実な史料に基づいてのみ歴史を叙述するという考え方であり、価値観を持って歴史の各時代を考察してはならないということでもある。本書は日本滞在中の出来事についての印象を述べたものである。日露戦争直前ニコライ堂が建設されたときに、皇居の小尖塔よりも高いのが日本人の反感を買ったとか、正教に改宗した日本人は精神的にはツァーの手下だという流言があったことが分かる。英国詩人エドウィン・アーノルド(1832~1904、「アジアの光」)曰く「日本人は普通の人間的特徴よりはむしろ、鳥や蝶のような特徴を持っている。彼らは人生というものを決して真剣に受け止めようとはしないし、そのような能力もない」ということに強く反論しているのも頼もしい。

(214) 「ウェストンの明治見聞記」、W・ウェストン、長岡祥三訳、新人物往来社、1987年
 日本登山界の恩人ウェストン師(1861~1940)の手記。ウェストンは英国聖公会宣教師で1888~1895年、1902~1905年、1911~1915年の3度訪日した。熊本、神戸に在住し、日本アルプスなど登山した。本書は日本の農村も踏まえた上での日本論であり、「日本人は自然に対する愛着の強い民族である」とか、「日本の農村では婦人が非常に重要な役割を果たしており、主婦が一家の財布を握り、実際に家庭を支配することが多い」とか、混浴についても、日本らしい日本では、裸体を見てもよいが、見つめてはいけないとあるなど卓見が多い。寺田寅彦随筆集(5巻、岩波文庫、1946年)の第1巻で寺田寅彦(1878~1935)がモンブランでそのあたりに当時住んでいた、見ず知らずのウェストンから声をかけられ、自分は日本に住んだことがあり、随分登山もしたと話したとある。奇縁であろう。

設問)「この日付を契約調印日と見なすこと(べきである)」をロシア語にせよ。

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2012年09月14日

●和文解釈入門 第483回

能動形動詞現在は名詞としても用いられるものが多い。присутствующиеは御来場の皆様ということだが、要は出席者(今そこにいる人)という意味である。верующиеも信者という意味であり、この他に、учащиеся(学生生徒)、служащий(事務員)などがある。3-1-1-4で挙げた(建設中の都市で)в строящемся городеもそうである。
語義の「現在~している、~しつつある」という過程の用法から派生して、名詞化しても近接未来(すぐ近くの未来)を示すことがある。брачующиесяとновобрачныеの違いは、брачующиесяは、結婚式場でこれから式を挙げるカップルを指し、новобрачныеは結婚式を終えた、つまり披露宴以降のカップルを指す。разводящиесяも、これから離婚をしようとしているカップルを指す。

設問)「彼病気だって聞いたわ」をロシア語にせよ。

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2012年09月15日

●和文解釈入門 第484回

和文解釈露訳入門の設問とその回答は認知学習法を基に構成しているつもりである。認知学習法はチョムスキーの変形生成文法と認知心理学を理論的背景にしており、文法の説明を先行させ、人間の認知能力を利用して、その言語の規則を理解してから、文型練習などをした方が効率的だとしている。常に日本語とロシア語を比較し、その差を頭に置くようにさせる。なぜ60年代に流行った認知学習法というやや古い型の勉強法を採用したかというと、ロシア語をまったくの独習から始めて続く人は稀であり、普通は初級の段階で学校やラジオ講座などの授業を受ける。しかし、その後、もっと上のレベルに到達しようと思えば、独学せざるを得ない。ぴったりと自分に合う、レディーメードの講座というのがないからであるし、個々人に完全に合わせた講座というのは今後も出現することはないだろう。和文解釈入門のような双方向的でないものでは、認知学習法以外は不可能だという事がある。

 そうなると、自学自習をどうやって手助けをして、上のレベルに上がる手伝いをするかであるが、皆一様に同じところが不得手という事はあり得ない。そのため自分が損の時点で不得手だと気付くような設問を設定する必要がある。そのために、技術、日常会話、医療、政治、経済、スポーツなどあらゆる分野から出題することと、自分の経験から、母語者のロシア語と日本人の使うロシア語の、大きな違いである体の用法に目を付けたわけである。体の使い分けも時制や法によって現れ方の強弱があり、得意不得意の出やすいところでもある。体の用法と言っても、実際に和文露訳するときには、個人によって会得しやすいものとそうでないものがあり、それを設問によって自分の弱点がどこにあるかを理解してもらうということにある。外国人にとって体の使い分けが一番難しいことは、どのロシア人の先生方も等しく認めるところである。このコーナの狙いがうまく機能しているかどうかは、分からないし、今後も分かることはないだろうが、500回近く続いているのだから、少しは役に立っているのかもしれない。私もタダでやっているわけではなく、見返りに、自分の体の用法を含めたロシア語文法について深く考えさせられるところがあり、得たところも多い。人のプライバシーには興味はないが、ロシア語、特に和文露訳に興味のある人が、どのように和文露訳を究めようとしているのかには大いに興味があるところである。得られた成果が和文露訳入門であり、投稿者の回答やフィードバックなくしては、つまり自分一人では検証できず、今の形で書き上げることはできなかったし、できたとしても何の役にも立たない代物になったろう。このコーナーは少なくとも始めた以上の価値は、少なくとも自分にはあったわけで、それはそれでまことに有難い限りである。

設問)入札などで「わが社の勝ち目はどうですか?」をロシア語にせよ。

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2012年09月16日

●和文解釈入門 第485回

前回のАякаさんへの回答で思い出したが、「~への手紙」というときは、письмо + 与格である。「お手紙ですよ」なら、Вам письмо.となる。詩人のエセーニンЕсенинには、Письмо матери(内容から見る限り「母への手紙」)とПисьмо от материという二つの詩があるが、Письмо материだと、материが生格なのか与格なのかによって意味が変わる。生格なら主体生格という意味上の主語で、手紙を書いたのは母となり「母の手紙(母の書いた、あるいは母の所有している手紙」、与格なら「母への手紙」(客体生格)になる。エセーニンの詩には他にПисьмо к сестре(姉・妹への手紙)、Письмо к женщине(女性への手紙)があり、このような誤解を防ぐため、特別に、кを用いる場合もある。ネットでエセーニンの詩をПисьмо к материとしているものがあるが、エセーニン全集(6巻、Художественная литература、1977年)の第1巻を見る限り明白な誤りである。意味を分かりやすくするよう変えたというよりは、内容から判断しての勘違いであろう。Письмо от матери(母からの手紙)も誤解の余地はない。このように意味を明確化するという前置詞の使い方もある。

設問)「代理店は自費で販促(販売促進)キャンペーンを行う」をロシア語にせよ。

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2012年09月17日

●和文解釈入門 第486回

(216) 「ドイツ宣教師の見た明治社会」、C・ムンチンガー、生熊文訳、新人物往来社、1987年
 1890年より5年間日本に滞在したプロテスタントの宣教師ムンチンガー(1864~1937年)の日本人論。日本人には独創力がない、日本人が好きなのは現実のこととか具体的な事柄で観念的なことには弱いなど是非こもごものところもある。日本語に堪能な人だったゆえ、日本語は受動態を避ける、日本語には未来形がなく、未来は不確定を表す形で表現する、それは現在と過去は経験から言って現実を含むからだ、いったい何が問題になっているか最後の言葉(多くは動詞)まで分からないが、文は最後の単語まで聞き手の注意を引き付けるとか今から見てもなるほどと思う知見が多い。日本語とドイツ語の違いについても具体的に説いているが、当時の日本語と現在のでは、よほど現代の日本語がドイツ語に近づいているような気がする。

(217) 「薩摩国滞在記」、H.B. シュワルツ、島津久大・長岡祥三訳、新人物往来社、1984年
 1893年から1915年まで米国メソジスト監督教会の宣教師として弘前、長崎、鹿児島に在住した。本書は薩摩国滞在記と題しているが、内容は薩摩、琉球、長崎、秋田、長崎に分かれていて、手際良くその地方の特徴が簡潔な文章で描写されている。特に薩摩については薩摩人は行動の人で、思考の人ではないとか、日本の他の地方の人が知りえないことまでもよく書いているし、薩摩以外でも宿屋の茶代は料金の1/3ぐらいで、使用人のチップではなく、宿の主人の心付けであり、茶代の領収書が出されるというのは知らなかった。

設問)「この行き(思い)違いは荷受人のせいで生じた」をロシア語にせよ。

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2012年09月18日

●和文解釈入門 第487回

日暮硯(ひぐらしすずり)」、笠谷和比古校注、岩波文庫、1988
 恩田木工(おんだ・もく、1717~1762)の事績を紹介した説話。木工、忌み名は民親、信州松代藩真田家10万石の家老で、名君の6代真田幸弘に仕え、藩の財政立て直しに貢献した。自らを律し、無理をせず、敵を作らず、命がけで藩の財政改革(宝暦の改革)を行ったことがよく分かる。日本的な根回しである対話と合意による決定を目指した。そのため他の改革とは異なり、平穏なうちに改革が推移したのは褒められるに足る。「嘘は言わず、食事は飯と汁のみ、木綿着物を着る」を自分に課し、その覚悟のために、妻には離縁、子は勘当、親戚は義絶を申し渡したが、家族、親戚、奉公人もこれを守るということで、思いとどまったという。まず身内からというのは説得力のあるやり方である。年貢の無理な取り立てを止める代わりに、賄賂を禁止し、年貢を1カ月ごととし、収入を確保したのは、まるで魔法のようである。一命をなげうつ覚悟でないとできることではない。そういう人を抜擢した幸弘もまた名君である。説話であるために、宝暦の改革が本書に書かれている通りに推移したわけではないと校注にある。

設問)「その専門家の病気の期間が60日以上となる場合には、その専門家を交代させる措置を取ります」をロシア語にせよ。

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●和文解釈入門 第488回

(218) 「明治のジャポンスコ」、ヨセフ・コジェンスキー、鈴木文彦訳、サイマル出版会、1984年
 1894年に訪日したボヘミア教育総監でチェコ人コジェンスキー(1847~1938)の日本紀行。植物や昆虫に詳しく、写真が豊富で、非常に上質なガイドブックである。当時公認ガイド協会開誘社いうのがあったが、ほとんどは英語のガイドで、ドイツ語のガイドは一人(井口さん)、フランス語のガイドは数人だったという。ベニバナから作る棒口紅とか鉄漿など、まだ幕末と変わらない日本の様子がよくわかる。神奈川から品川に行く汽車(2等)で、若い婦人が、「誰もが手鏡を持っていて、まず髪を直し、それから口紅を直し、頬に粉おしろいをつける」とあるのは、今の日本と変わらない。

設問)「吐くと楽になりますか?」をロシア語にせよ。

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2012年09月20日

●和文解釈入門 第489回

(219) 「妾の半生涯」(わらわのはんせいがい)、福田英子、岩波文庫、1958年
 女性解放運動の先駆者となった福田英子(1865~1927)、旧姓景山英子は、備前岡山の藩士の娘として生まれ、19歳のとき1885年自由党大阪事件(朝鮮で親日政権の樹立を目指すべくクーデターを策したが長崎で逮捕)で逮捕された。本書は文語調だが、達意の文であり、まじめな人柄が窺われる。本書で胸を打つのは福田が逮捕される前、同志と決行を準備していたときに、子を背負った女乞食が屑拾いをしていたときに、屑を拾うたびに腰が曲がり、子供が痛がって泣く。それでかわいそうに思った福田は当時大金の50銭を子供にと授け、後にその女乞食と鑑別所で再会を果たす場面である。子供は流行病で死に、亭主にも先立たれ、食うに困って洗濯ものを盗んで監獄行きとなったのだが、そのときもらった50銭で、一時は子供にもお菓子を買ってやれ、亭主も喜んだという話である。その女乞食は福田のそばにいるためにシャバでもっと悪いことをしてまた入牢すると言うのをいさめている。今までで人からよくしてもらったことがなかったからだろう。福田は生理の始まりが22歳で、今と違うといっても、当時ですら15歳だったから、大変遅かった(この点は平塚らいてうと似ている)ということも隠しだてもせず書いている。大阪事件で事を計った時に、閑があれば男の同志は(女性は彼女一人だった)妓楼に行って散財するのを非常に不快に思っていたが、とがめ立てはしなかったようだ。大阪事件に義士はおらず、ただ烈婦一人あるのみということがよく分かる。後に同志の大井憲太郎の内縁の妻になるが、大井には結婚しようというような気持もなかったので、結局別れ、後に福田友作という好伴侶に恵まれた。

設問)「発言は遠慮させていただきます」をロシア語にせよ。

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2012年09月21日

●和文解釈入門 第490回

露文解釈学習用の文例を見ると、ロシア文学や時事ロシア語であれ、語彙の説明や、よくて慣用句や諺の説明に終始したものばかりである。これらの例文を和文露訳用に使おうと思っても、体の用法や単数・複数の使い分けについては何も書かかれていないので、まったく同じ和訳の文を露訳するというような、ほとんど考えられないような偶然の時しか使えないという事になる。露文解釈用の文例は、まさに露文解釈用であって、和文露訳(会話で使うロシア語)への応用については、全く考慮されていないのが実情である。

 そこで、今回電子書籍として出版した、「女性のための技術ロシア語」における<技術ロシア語トピックス>や和露技術語彙集1000、および「観光ロシア語」の中の構文、会話集、和露観光語彙集471において、新機軸として、体の使い分けが分かりにくいと思われる部分に、和文露訳入門の参照小見出し番号を付けた。体の用法について詳しい説明を知りたい向きには、「和文露訳入門」の当該番号を見れば、より詳しい説明が分かるように工夫した。「和文露訳入門」と連携させたわけである。例を挙げると、

ショート(短絡)
короткое замыкание

Не замыкало кабель под водой? 水中でケーブルがショートしなかったか?
(ショートは短絡という意味であり、上の文は無人称文で、動作の有無の確認をしているので、不完了体過去形が来ている。詳しくは和文露訳入門2-1-1参照)

A: Проходите, господин Сато, Президент ожидает вас.
B: Добрый день, господин Сато. Рад вас видеть в Москве.
C: Здравствуйте, господин Петров. Знакомьтесь, господин Икэда, наш коммерческий директор.
B: Мы знакомы.

A: 奥へどうぞ、佐藤さん。社長がお待ちです。
B: こんにちは、佐藤さん。モスクワでお会いできてうれしく思います。
C: こんにちは、ペトローフさん。ご紹介しましょう。当社の営業部長池田です。
B: 前にお会いしましたよ。(顔なじみです)
<Здравствуйте はいつでも(真夜中でも)使える便利な挨拶言葉。знакомьтесьは直訳すれば、「お知り合いになってください」で、その場の雰囲気で、こう言葉をかけるのが自然だから、着手の意味の不完了体命令形が来ている。познакомьтесьと完了体命令形でもよいが、その場合は、新規の動作(そういえば、と思い出したような感じ)のニュアンスになる。和文露訳入門5-1-1および5-2-1参照>

設問)比喩的な意味で「彼らは表に(表面に)出たがらない」をロシア語にせよ。

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2012年09月22日

●和文解釈入門 第491回

(220) 「三十三年の夢」、宮崎滔天、宮崎竜介・衛藤瀋吉校注、東洋文庫、平凡社、1967年
 1902年初出。宮崎滔天(1869~1922)は大陸浪人革命家で、金玉均、犬養毅、康有為などを知己とし、特に中国の哥老会、三合会、興中緒会の合同を実現させたのは大きな功績と考える。孫文の辛亥革命を助けた。孫文も含め中国人とは下手な英語と筆談で会話したというが、何とか通じたらしい。漢字のありがたさよ。書生であり志士として大陸に雄飛し、多分当時の青少年の理想を実現した人物である。実に人とよく飲んだ。女性にとっても男性にとっても何か愛嬌のある人物で、何かしてあげたいと思わせる親分というよりは万年青年のような大人物だが、器も違うし、自分がこのような人生を送りたいと思はない。原文は概嘆調だが、読みにくくはない。

設問)「それが存在するという形跡(その存在を示唆するもの)は何かありますか?」をロシア語にせよ。

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2012年09月23日

●和文解釈入門 第492回

ガースФ. П. Гааз(1780~1853)はドイツ人(ドイツ名はHaas)で、眼科医としてロシアに招聘され、後ロシアに帰化した。1828年に設立されたモスクワ監獄委員会の委員、および監獄病院の院長、また自ら設立に関わった警察病院(行き倒れ用)の院長を死ぬまで勤め、囚人の待遇改善、モスクワにおける監獄病院や囚人の子弟のための学校設立のために奔走したヒューマニストである。彼の残した言葉として有名なのは、「絶対的な善をなすのに躊躇するなかれ!Спешите делать добро!〔「善は急げ」という意味ではない〕であり、この場合の善は第22回本文に書いたように、相対的な善ではなく、絶対的な意味での善である。彼がどんな人間であったかを示すエピソードがあるのでそれを紹介したい。囚人のためにするといっても、ロシアの役所は当時も官僚主義的な事なかれ主義であった。ガースはドイツ人特有の合理性と根気強さを兼ね合わせたような人だった。死ぬまでに囚人の待遇改善のために142の提案書を書き、その実現を監獄委員会、上司で彼の活動に理解のあったゴリーツィンГолицын Д.В. モスクワ知事、必要とあれば皇帝ニコライ1世に直訴したりした。1840年代かと思わるが、あるとき監獄委員会の委員長だった有名なフィラレートФиларет府主教とガースが囚人の件で衝突した。フィラレートはしつこいガースの無実の囚人たちに対する陳情に飽き飽きして、
「ガースさんはいつも無実の囚人の話ばかりなさいますが、無実の囚人というのはいないのですよ。もし人が罰を受けるとしたら、すなわち、それはその人に罪があるからです」
 短気で、かっとなりやすいタイプのガースは、イスからがばっと立ちあがって、
「睨下、キリストの事をお忘れです」
 一瞬、みな凍りついたが、フィラレートも並の人ではなかったので、
「いや、ガースさん、私が早まったことを申し上げたときに、キリストの事を私が忘れたわけではないのです。キリストが私の事をお忘れになったのですよ」
 こう言って、皆に祝福の言葉を述べ、部屋を出たと言う。

設問)「それがご指摘されなかった唯一の点です」をロシア語にせよ。

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2012年09月24日

●和文解釈入門 第493回

原求作先生が小説家としての第4作「皇女タラカーノワ」(鳥影社、2012年)を上梓された。タラカーノワについては、私も「ロシア奇聞」(東洋書店、ユーラシアブックレット No. 145)に詐欺師列伝の中で、どんな人物だったのか簡単に書いたので、非常に興味深く読んだ。エカチェリーナ2世の時代、プガチョーフはピョートル3世の子を僭称し、タラカーノワは、ヨーロッパを経巡って、エリザベータ・ペトローヴナ女帝の隠し子を名乗ったわけだが、謎の女である。小説家メーリニコフの資料では、そばかすがあったようだが、色は黒からず、白からず、目が大きい美人とあり、傾城の美女だったようである。何人も男が群がり、彼女の贅沢のおかげで破産した男も多数いたようである。このような女の魅力を、先生は、「(タラカーノワは)、生まれつき(右目が少し)斜視だった」とし、斜視が男を引き寄せる魔力の源だとしているのは、小説とは想像の産物とは言っても、単に美人であるだけでは、なぜ何人もの男が彼女の魅力から逃れられなかったのかが分からないわけなので、それに斜視を使ったというのは、すごいなと思う。斜視の女性は、程度の問題もあるが、見られる相手と焦点がずれるので、その相手とすれば、見られているような、そうでないような何か不思議な色気をおぼえるというのも聞いたことがあり、なかなか説得力のある設定である。ロシア史の裏面に興味のある向きは一読を!

設問)「その設備は生産中止となりました」をロシア語にせよ。

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2012年09月25日

●和文解釈入門 第494回

完了体と不完了体の用法の違いというのは、いろいろな面から考えることができる。和文露訳をするときに日本語の「~します」という非過去(現在・未来)において、完了体か不完了体かどちらか使うべきか迷ったら、和文の時制に徹底的にこだわってみよう。完了体は、厳密な意味での今現在の一点を動作で示すことができない。結果の現存が現在の時制で示すのは動作が終了した、その状態であって、動作ではない。Сейчас приду.(今参ります)の今は、和訳同様、未来を示すし、Я сейчас соседу встретила, рассказала мне массу интересного.(今、隣の人〔近所の人〕と会ったわ、彼女ったら面白い話をたくさんしてくれたの<完了体過去形が続くのは順次的用法、和文露訳入門2-2-3参照>)の今は過去である。このように、今と言っても、ロシア語でも日本語でも、今現在の一点でないこともある。不完了体現在形の予定の用法(和文露訳入門4-1-2参照)は、過程(進行形)の用法が起源だと思われるので、現在と未来の境界が曖昧であり、使われるとしても、直近の未来であることが多い。不完了体現在形は今現在の一点を含む動作のときに使うのが原則だが、そこから発展した予定の用法にも使えるということになる。伝達型の動詞(和文露訳入門3-1-4参照)で不完了体現在形が使われるのは、動作の始まるのが今この瞬間からで、発話の終了と共に動作に結果が現存することになる。例えば、Я открываю чрезвычайное заседание.(特別会議を開会します)では、открываюと言った瞬間から開会という動作が始まり、заседаниеと言ってこの文の発話が終了した段階で、特別会議の開会が宣言され、議事に移ることになる。このように訳そうとする日本語の動詞の時制を厳密に考える癖をつければ、動作が今この瞬間かどうか、それをチェックするだけで、少なくとも非過去については瞬間的に体の使い分けができることになる。

設問)「たった今の彼女とは何か違っていることに私は気づいた」をロシア語にせよ。

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2012年09月26日

●和文解釈入門 第495回

前回の設問で質問が投稿者よりあり、その回答は他の方々にもご興味があるかと思い、ここに掲載する。
<質問>
「朝起きて無意識に電気をつける人がいます」の訳をしていて、朝起きるのも、電気をつけるのも、一般的、日常的な動作だから、と思って、
Есть люди, которые включают свет после того, как они встают утром.
としてしまいました。あとで日本語訳をみてみると、после того,как они встали
と完了体過去になっていたので、あぁ順序が伴ってくると日常的な行為で、過去じゃなくても完了形の過去を使うんだなぁと思ってみてたんですが、たとえば、「夜寝る前に、彼女はいつもミルクを飲む。」のような場合でも(перед сномのように名詞を使わずに従属節を使って表すと)Перед тем, как она легла спать, она всегда пьёт молоко.という感じでいいんでしょうか?
同じように順序を表して主に完了体と用いるперед темなどの場合もその従属節の中では完了体を使うんだろうな、と思ったんですが、書いてみて、「~する前に」という表現に過去を使うのがなんとなく違和感があるというかなんというか。でもそれ以外でどんな言い方があるんだろう?とこんがらがってきたので、質問させてもらいました。~したあと、~する前に・・・する、という場合、だいたい主節も従属節も完了体の場合が多い感じなので、辞書等で同じような例文を調べてもあまり載っていなくて。

<答>
これについては和文露訳入門9-2に書きましたが、不十分なような気がしますので、次のように説明を加えたいと思います。

 ロシア語には日本語同様、二つの動作を記述するときに先に終了する動作(未来の時制なら未来完了、過去の時制なら大過去とか過去完了)を示す形式がないために、未来の時制においては完了体未来形ないしは完了体過去形を、過去の時制においては完了体過去形を、二つの動作のうち、先に終了する動作に使われることがあります。不完了体は、主節と従属節に共に不完了体が使われていれば、下記の文のように同時性を示します。不完了体過去形というのは過去の時制でしか使えないということを頭に入れておいてください。つまり完了体の未来形も過去形も時制の転用に使う場合があるということです。

Когда мы возвращались домой, шёл дождь.(帰宅の時は雨が降っていた)
二つの不完了体が並立して用いられれば(並立複文ならば)、先の動詞が時間的に先行する反復の動作を示します。
Вечером прихожу домой и ужинаю плотно.(夕方帰宅して、夕食はたっぷり食べます)
ですから、並立複文にすれば、不完了体現在形を二つ続けることで問題ないと思います。
Есть люди, которые встают утром и бессознательно включают свет.

従属複文を用いる場合は、未来の時制では時間的に先に動作が終了するものには、完了体未来形が用いられ、動作が次々と行われる順次的用法の場合は、主節にも従属節にも完了体未来形が使われますが、先に終了する動作を強調する場合には、完了体過去形が用いられる場合もあります。また過去の時制では時間的に先に動作が終了するものには、完了体過去形が用いられ、後に動作が終了するものには、文脈によって不完了体過去形や完了体過去形が用いられます。主節と従属節に共に完了体過去形が用いられる場合は、動作が次々と行われる順次的用法であって、従属節の完了体過去形が時間的に先に動作を終えることになります。同じ体が続く並立複文では、先行する不完了体過去形、ないしは完了体過去形が時間的に先行した動作を示します。

Если вы встретитесь (встретились だと強調のニュアンスがある) с ним, то вы узнаете(完了体未来形で力点はаにある)об этом.(彼に会えば、そのことについて分かりますよ)
После того как больной принял лекарство, он почувствовал себя лучше.(病人は薬を飲んだ後で、気分がよくなった)
После того, как сработает будильник в другой комнате, вам придется встать и выключить его.(違う部屋で目覚ましが鳴ったら、起きて、止めざるを得ない)<例示的用法>
Когда хлор улетучится, я наливаю раствор в банку. (塩素が蒸発したら、溶液を瓶に〔いつも〕注ぎます)<主節は反復の動作を示し、従属節は例示的用法>
 перед тем (,) как + 不定形が一般的です。それゆえ、具体的な一回の動作には完了体を、反復の動作の時は不完了体不定形を使います。
Перед тем как отправиться в путь, он решил искупаться.(旅に出る前に入浴することにした)
Перед тем как ложиться спать, она всегда пьёт молоко.(寝る前には彼女はいつもミルクを飲む)
それ以外の例文は和文露訳入門9-2を参照下さい。和文露訳の改訂版が出ることになれば、上記の説明を書き加えたいと思います。

設問)「人ごみだと落ち着かないですか?」をロシア語にせよ。

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2012年09月27日

●和文解釈入門 第496回

(221) 「硬石五拾年譜上巻」、内田良平、日本人の自伝第11巻所載、平凡社、1982年
 烈士であり、柔道家であった内田良平(1874~1937)の日露戦争までの自伝。1892年東邦語学校にてロシア語を学ぶと同時に講道館に入門し、広瀬武夫と親しくなる。1897年ロシアの内情調査のため自発的に西シベリアを往復した。あまりロシア語はできなったらしい。ブラゴベシシェンスク、ストレーチェンスク(日本人経営の女郎屋が2軒あったという)、ネルチンスク、チタ、イルクーツク、モスクワ、ペテルブルグを往復した。ネルチンスクを過ぎたあたりで、御者の発するヨッポイマーチ(Fuck your mother.)という言葉に、別の馬車のロシア人が頭に来て、彼らの喧嘩に巻き込まれたが、得意の柔道で投げ飛ばして事なきを得たという。ロシア人や中国人との格闘の場面多いが、全部勝ったようである。モスクワでは林菫公使が「西郷や頭山の如き豪傑を好まず、大久保、福沢先生の如き人に私淑せり」との発言に、反論して大いに論じている。中村久弥のフィリピン独立用兵器代金横領事件など宮崎滔天の自伝「三十三年の夢」と併せて読むとなお面黒い。大宅壮一の「昭和怪物伝」(大宅壮一全集第13巻、蒼洋社、1981年)所載の児玉誉士夫について、児玉は終戦において天皇退位を主張し、天皇は神ではなく、国の中の一つの組織であり、制度であると述べたとあるが、そうであれば右翼といってもいろいろあって、浅沼稲次郎を刺殺した山口二矢(「テロルの決算」、沢木耕太郎ノンフィクション第7巻所載)のような純粋というか観念右翼とは違うのだなという印象を得た。

設問)「回りで何が起きているのか、彼はすぐには分からなかった」をロシア語にせよ。

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2012年09月28日

●和文解釈入門 第497回

(222) *「黙移」(相馬黒光自伝)、平凡社、1999年
 相馬黒光(1875~1955)は新宿中村屋の設立者で、盲目のロシアの詩人エロシェンコやインドの志士ボースを匿い、そのために長女を嫁にやったのでも有名である。大義親を滅すというが、大義娘を滅すか、娘の意向をあまり考えなかったようで、当時の開けた女性の限界でもあろう。ロシアチョコレートやロシアパン、月餅、印度式カレーを売り出した。しかし姪(母の妹の長女)が佐々城信子であり、国木田独歩と結婚し、結局厳しい監視に耐えられず家を出た、その内情について語っている方がより興味深い。独歩は信子を生きがいのように、いつまでも未練がましく思い、というよりはむしろ、彼の生きがいである小説の糧でもあったようでもある。森田草平が平塚らいてうと1908年心中未遂である塩原事件を起こした時も、初めから小説にするつもりいたのと同じと思われる。芸術のためなら何でも許されるとして、アイデアが出ないから現実に情死のまねごとしてみせたのだが、禅の悟りを得ている(見性者だった)らいてふとでは格も覚悟も違ったのは、喜劇ですらある。閑話休題、信子とのことは親友の花袋の「東京の三十年」にも述べられている通りである。信子の方はさっぱりしていて、当時の世間からはいろいろ指弾されたようだが、独歩よりよほどにさばさばしたまともな人柄のようで好感が持てる。

設問)「論理的にはそうなる」をロシア語にせよ。

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2012年09月29日

●和文解釈入門 第498回

「日本語と日本語論」(池上嘉彦、ちくま文芸文庫、2007年)の、特に「文法的範疇としての<数>」という章を非常に興味深く読んだ。現代の言語学の素人向けの解説書で、ドイツ語、英語、フランス語、日本語の文例で説明してある。go to schoolに冠詞がつかないのは、学校という建物を意味しているのではなくて、学校の機能を示しているからだというのは、英語の専門家なら常識なのかもしれないが、わたしのとっては初めて聞く話である。go to bed, go to churchも同じ考え方とのことである。単数・複数も、単にものが複数あるから複数をという場合だけではなく、話し手の主体的判断によって、機能だととらえれば抽象化されて冠詞がなくなり、具体的・個別的と意識されれば、抽象名詞でも複数になるという指摘は興味深い。ロシア語にもつながるものがあるように思える。
複数には、同質の個体が複数あるという意味での複数の他に、近似複数(мыのように、私 + だれか)、強意複数(量の多さや程度の高さを示す。ロシア語のснега〔大量の積雪〕, пески〔砂漠〕などもそうであろう)や回数を示すものもあると指摘している。回数に関してはロシア語でも同じ考え方をするようで、「ポテトサラダ8人前」は8 порций ольвьеとなるが、その他にвосемь раз ольвье、直訳すれば「ポテトサラダ8回」という言い方も街のレストランでは聞くことがあり、これは回数で複数を示していることになる。痛みболь、便秘・下痢などの抽象名詞の有無を尋ねるときに、複数にするのはこういう意識が働いているからかもしれない。Вы страдаете запорами (поносами)? (便秘〔下痢〕していますか?)

設問)「発作を止めるには何がいいですか?」をロシア語にせよ。

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2012年09月30日

●和文解釈入門 第499回

同じく「日本語と日本語論」に無理問答というのが載っている。それは、「一羽でもニワトリとは如何?」とか「日本の真ん中にあるのに尾張とは如何?」というもので、それに対する答えが、それぞれ「一羽でも千鳥というが如し」とか、「山があるのに山梨というが如し」というように、直接答えるのではなく、類例を挙げるのだが、自分の書いているロシア語の文法の説明についてもそういう嫌いがなきにしもあらずだなと感じた次第。

設問)「誰の下でトレーニングしていますか?」をロシア語にせよ。

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2012年10月01日

●和文解釈入門 第500回

ロシア語ではвыからтыへ移行するというのが、人間関係の親密さを示す目安になる。日本語にも似たようなものはある。「敬語」(菊池康人、講談社学術文庫、1997)を読んでいたら、「初めは〔です・ます〕で話していた間柄が、親しくなるにつれて、ある時から〔です・ます〕抜きになるという経験は誰にでもあるだろう」という箇所を見つけた。露文和訳のときなどに応用できそうである。

設問)「ソリには10人から15人が乗れる」をロシア語にせよ。

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2012年10月02日

●和文解釈入門 第501回

日本に住んでいるロシア人は、みな日本語の会話が上手なようである。しかし和文読解のほうはどうだろう?けっこううまい人とそうではない人の差があるのではなかろうか?「日本語と日本語論」(池上嘉彦、ちくま文芸文庫、2007年)には、日本人はすぐ分かるが、日本語のうまい外国人が理解できない文章が挙げられている。もっともこれは多田道太郎の「日本語の作法」からの借用とのことである。ご参考までに挙げておく。一つは幸田文の「流れる」の冒頭の文である。
「このうちに相違ないが、どこからはいっていいか、勝手口がなかった」
もう一つは金田一春彦の挙げたもので、
「私の娘は男です」

 二つ目の文は日本人でもすぐには分からないだろうが、二人のおばあさん同士の会話で、孫の話という事なら分かるだろう。

 このコーナーの先も見えてきたようなので、今回は趣向を変えて、短文ではなく、SFで言うショートショートのような問題を出して見たい。非常に簡単なので、全問正解できなければ、日本語とロシア語の時制を完全に理解していないという事になる。

設問)1)「佐藤さん来た?」
2)「佐藤さん来てた?」
3)「佐藤さんは去年来たよ」
4)「佐藤さんモスクワに行っちゃった」
5)「佐藤さん来週モスクワに行くよ」をロシア語にせよ。

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2012年10月03日

●和文解釈入門 第502回

同じく「日本語と日本語論」(池上嘉彦、ちくま文芸文庫、2007年)に、ラフカディオ・ハーンが英訳した松尾芭蕉の「古池や蛙飛び込む水の音」が載っている。

Old pond – frogs jumped in – sound of water.

 静けさを表すのだから、蛙は一匹だとばかり思っていたが、芭蕉の弟子の支考の「葛の松原」には「蛙の水に落つる音しばしばならねば、言外の風情この筋に浮かびて、蛙飛び込む水の音といえる七五は得玉へりけり」とあると言い、ハーンがこれを読んだかどうかは分からないと著者は述べているが、蛙が何匹か飛びこむことで静けさが表現されるというなら、なかなか面白い発想である。インターネットで見つけたマールコワВ.Н. Марковаの訳では、蛙は一匹である。

Старый пруд заглох.
Прыгнула лягушка.
Слышен тихий всплеск.

 川端康成の雪国の出だし「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。(夜の底が白くなった)」のサイデンステッカーによる英訳も、The train came out of the long tunnel into the snow country.と主語が私ではなく、汽車になっているというのも、翻訳の難しさというものを考えさせる。コルチャーギナНаталья Корчагинаの訳でも汽車が主語で出て来るし、これには、原文に忠実にということでか、国境の訳もある。Проехалは完了体過去形でないと、通過のニュアンスがでないし、次に完了体過去形が来て初めて、順次的用法となり、ロシア語として落ち着く感じなので、остановилсяをつけざるを得なかったように思える。

Поезд проехал длинный туннель на границе двух провинций и остановился на сигнальной станции. Отсюда начиналась снежная страна. Ночь посветлела.

 これなども二葉亭四迷の言う、「これを翻訳するには其の心持を失はないやうに、常に其の人になって書いて行かぬと、往々にして文調にそぐはなくなる。此の際に在りては、徒にコンマやピリオド、又は其の他の形にばかり拘泥していてはいけない。まず根本たる語想をよく呑み込んで、然る後、語形を崩さずに翻訳するようにせねばならぬ」を体現した訳なのだろう。

設問)「ガラスは時を経て黒ずんだ」をロシア語にせよ。

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2012年10月04日

●和文解釈入門 第503回

東京外国語大学でロシア語の教科書作りを始めたということを聞いた。これは初めてロシア語に触れる学生向けということで、歓迎すべきことであり、できるだけロシア語を学ぼうとする人の数を増やさなければ、ロシア語の明日はないということは確かである。一方、東外大も含めて、既存の大学であまり熱心ではないように思われるのは、一度ロシア語に触れ、初級は終えた人が、なぜそれ以上続けずに、ロシア語の学習を放棄するのか、その人たちについて対策をあまり立てていないように思われる。新規の人ばかり目が行って、つまり袋の入り口を大きくしようとして、肝心の袋の端が漏れどころか、端の糸が全部縫い目が取れているような状態を放置しているとしか思えない。裾野を拡大するというのは、一旦ロシア語を始めた人にロシア語の面白さを伝え、中級や上級の人を増やすことにある。こういう人たちが新規の人たちの灯台のような役割をするわけである。初級程度の挨拶が通じたと喜んでいる程度のロシア語では、興味が長続きしないわけで、それに対応するような学習法、特に大学や語学の専門校を終えて、どうやって自習できるようにするかその和文露訳の参考書を整備すべきなのに、全くやっていないとしか思えない。常識的に考えると、これからロシア語を始めようとする人たちよりは、一旦ロシア語に触れたと言う人の数の方がはるかに多いはずである。いわばこれは今流行りの都市鉱脈である。ロシア語を仕事で使える人は限られているが、ロシア人と話す機会はかなり増えているし、チャットやスカイプという便利な機能もあるから、ロシア人そのものへの興味はあるはずである。このコーナーでやっているのは、初級からどうやって中級へ進むか、中級から上級に進む際の道筋を提示し、ロシア語そのもの(ひいてはロシア人)への興味を如何にかきたてるかと言う事にある。ロシア語を続けるコツはロシア人と話ができる程度の会話能力や語彙を身につけることである。それも挨拶程度の決まり文句ではなく、自分の趣味や考え方を相手に伝え、相手と意思を通じ合う事ができるようでないと続かない。そういう意味で、初級の参考書は非常に多いが、和文露訳に使えるような参考書は皆無である。このコーナーが少しでも、そのような人のお役に立つことを願っている。ロシア語とタイプすると、この頃頻繁に露最後と出て来る。何か不吉な予感がする。

設問)「この件をお決めになるのは御社です」をロシア語にせよ。

Posted by SATOH at 07:40 | Comments [2]

2012年10月05日

●和文解釈入門 第504回

ロシア語の会話というと、ロシア人の先生に丸投げというのは感心しない。挨拶や決まり文句を使って、発音やイントネーションの練習ならともかく、いくら日常的な日本会話は流暢であっても、ロシア語の文章を分かりやすい日本語で文法的に説明できないのではないかと思うからである。理屈を説明せずに、これはロシア語としてはおかしいから、こう言うのだの一点張りでは、小学生じゃあるまいし、二十歳を超えた(越えようとしている)いい大人が勉強について行きはしない。語学には暗記という面もあるが、大人の勉強に求められているのは、もっと頭を使う理知的なものだからである。和文露訳を教えるには、日本語とロシア語の文法双方の理論面での理解と説明能力が不可欠であると考える次第。

設問)「この国にどのくらいの金額の設備をデリバリーしたのですか」をロシア語にせよ。

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2012年10月06日

●和文解釈入門 第505回

完了体過去形のアオリスト的用法(和文露訳入門2-2-1参照)については、第501回の回答でも触れたが、不完了体過去形は過去を具体的に示す語句(昨日、昨年、5年前、1961年など)とは相性が悪い。これは過去に限らないが、時間を示す語句というのは、全般的に場独立型であって、新規の事柄(レーマрема、和文露訳入門9-10参照)として出てくる場合が多いからだろうと思われる。だからどうしても不完了体過去形を過去を具体的に示す語句と一緒に使いたいというなら、そのような場を先に作ればよいことになる。

Он ведь уже был здесь – приезжал со мной после землетрясения.(だって彼はもうここに来ていたよ。私と一緒に地震の後に来たんだよ)

とすれば、二つ目の文では文の焦点は明らかに動詞にはなく、「私と一緒、ないしは地震の後〔これが過去を示す語句に相当する〕」にあるわけで、その証拠に述語の動詞がなくとも意味が通じる。一旦、Он ведь уже был здесьという場を作っておけば、その場に依存して不完了体過去形が使えることになる。普通は、このような人工的なやりかたではなく、質問に対する回答の形で不完了体を使う事が多い。質問自体が不完了体過去形を使うための場としての役割を果たしているということになる。また同じ語句(動詞も含めて)を繰り返すというのはロシア語としてくどい感じを与えるので、できるだけ同義で違う語句(この場合はбылに代わる動詞)、ないしは表現を用いるというのが、日本語と違うロシア語の鉄則である。そのためにбылの代わりに運動の動詞の不完了体過去形が使われているという事情もある。

- Когда в последний раз были в Саратове?(この前はいつサラートフにいらっしゃったのですか?)
- Приезжал в прошлом году на финал чемпионата.(昨年の選手権の決勝戦のときです〔に来ました〕

 この場合もВ прошлом году.(昨年)とだけ答えても、ぶっきらぼうな感じはするが、質問に答えていることになる。新規の事柄として不完了体を使うということ自体が、おかしいことであって、不完了体は雰囲気に応じて、つまり場依存型なので、場独立型の完了体と違い、場がもともと存在しなければ、使いにくいということが理解されたと思う。

 しかし、このようなややこしいことをせずに、過去を示す語句があれば、完了体過去形をまず使うと覚えればよい。それが基本的にはアオリスト的用法である。体の用法の参考書では、アオリスト的用法というと、順次的用法(和文露訳入門2-2-3参照)ばかり紹介していて、よりポピュラーなアオリスト的用法に触れていないのは、著者が和文露訳の経験があまりなく、露文解釈中心に参考書を書いたという事であろう。1980年のアカデミーのロシア語文法(2巻本)の第1巻633ページにアオリスト的用法аористическое употреблениеとして、Во Владивосток я приехал в начале июля 1943 года.(ウラジオストークに私は1943年7月に着いた)という文が載っている。これを基にして、第3回に出題したわけであり、勝手に文法用語を作っているわけではないので、念のため。

設問)「それを見込んで、専門家を呼んでおきました」をロシア語にせよ。

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2012年10月07日

●和文解釈入門 第506回

日本で出ている文法書は、アカデミー版のロシア語文法(1980年、2巻本)を基にしていると思われる。文法は一つなのだが、今までの参考書は、文法書も含めて、ほぼ露文解釈用という観点に立っていて、和文露訳のために文法を教えるという観点が抜けていたのではないだろうか。だから、初級を終えて、ロシア語会話のために中級より上に自学自習しようと思っても、文法書も含めて、そのような参考書もないということになる。

 通訳や翻訳者出身で大学で教えている先生もいるやに聞くが、文法中心で和文露訳を教えているという方は知らない。私見では、それを教えるためには、自分で万の単位で例文を持っていないと、とてもロシア人とは渡り合えないような気がする。だからロシア人の先生に和文露訳をまかせよということではない。肝心の日本語の文法を深く理解していないのではないかという危惧があるからだ。中級や上級となれば、必要な語彙は飛躍的に増える。それに対応するような例文が全く少ないような気がして、自分のコレクション(9万を超えた)から、役に立ちそうなもの短文をこのコーナーで紹介しているわけである。

設問)「恥も外聞もない宣伝はその目的を果たす(効果を上げる)のだ」をロシア語にせよ。

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2012年10月08日

●和文解釈入門 第507回

これまでコレクションしていた完了体・不完了体同形の動詞のコレクションが昨日500になったので、そのうち使う頻度が高いだろうと思われるものを紹介する。これは和文露訳入門にも載せていないので、改訂版が出るようなら載せるが、いつになるか分からないのでここで紹介する。

7-5 完了体・不完了体が同形の動詞

 完了体と不完了体の形が同形である動詞は、一見便利なようで、使用されるときには完了体・不完了体のどちらで解釈してもよいという事ではない。使われる文脈によって完了体か不完了体かは分かるのである。私のコレクションには500ほどあるが、そのうちでよく使われるだろうと思われるものを紹介する。

абсолютировать (абсолютироваться は不完了体のみ)絶対化(絶対視)する、абсорбировать, абсорбироваться吸収する、автоматизировать, автоматизироваться自動化する、адаптировать, адаптироваться適応する、акклиматизировать, акклиматизироваться気候に慣れる、активизировать活性化する、анализировать分析する、аннулироватьキャンセルする、аргументировать論拠とする、арестовать逮捕する、ассоциировать, ассоциироваться連想する、атаковать (атаковывать という不完了体形もある)攻撃する、блокировать, блокироваться封鎖する、велеть(過去形は完了体のみ)命じる、военизировать, военизироваться軍事化する、гарантировать保証する、герметизировать (загерметизировать という完了体もある)密閉する、глобализироватьグローバル化する、госпитализировать入院させる、датировать (датироваться は不完了体のみ)日付を入れる、демократизировать, демократизироваться民主化する、демонстрировать (демонстирироваться は不完了体)デモする(見せる)、диагностировать (диагностироваться は不完了体のみ)診断する、документировать文書化する、европеизировать, европеизироватьсяヨーロッパ化する、женить, жениться(女性と)結婚する、заимствовать (позаимствовать という完了体もある。заимствоваться は不完了体のみ)借用する、игнорировать無視する、идеализировать (идеализироваться は不完了体)理想化する、идентифицировать, индетифицироваться同一視する、изолировать, изолироваться隔離する、импортировать輸入する、импровизировать (сымпровизировать という完了体もある。 импровизироватьсяは不完のみ)アドリブする、инвестировать投資する、индустриализировать, индустриализовать (индустриализироваться, индустриальзоваться は不完了体のみ)工業化する、инструктировать (проинструктировать という完了体もある)、инсценировать (инсценироваться は不完了体のみ)仕組む、интегрировать統合する、интенсифицировать強化する、интервьюировать (проигтервьюировать という完了体もある)インタビューする、интернационализировать国際化する、интерпретировать解釈する、информировать, информироваться (проинформировать (ся) という完了体もある)伝える、ионизировать, ионизовать, ионизироватьсяイオン化する、использовать (использоваться は不完のみ)使う、исследовать研究する、казнить(完了体および不完了体は「処刑する」という意味で、完了体には「苦しめる」という意味はない。казнитьсяは不完了体のみ)、классифицировать等級化する、кодировать (закодировать という完了体もある。кодироваться は不完了体のみ)コード化する、командировать出張させる、комментировать (прокомментироватьは完了体、 комментироватьсяは不完了体)解説する、компенсировать補償する、конкретизировать具体化する、координировать (скоординировать という完了体もある), координироваться連携する、кристаллизовать, криссталлизоваться結晶化する、лидироватьリードする、ликвидировать, ликвидироваться清算する、локализировать, локализовать, локализироваться, локализоваться局地化する、манкировать無視する、маркировать (マークをつけるという意味ではзамаркировать という完了体形もある)マーキングする、массировать (〔砲撃、部隊、飛行機を〕集結・集中するという意味。マッサージするという意味では不完了体であり、過去形のみ完了体にもなる)、метастазировать (метастазироватся は不完了体のみ)転移する、минимизировать最小限にする、минировать (заминировать という完了体もある)地雷を敷設する、миновать (минуть という完了体もある)過ぎる、модернизировать, модернизироваться近代化する、модифицировать, модифицироваться手直しする、наследовать (унаследовать という完了体もある)受け継ぐ、недоиспользовать使いこなせない、нейтрализовать, нейтрализоваться中性化する、нормализировать, нормализовать, нормализироваться, нормализоватьсяノーマルにする、обещать, обещаться (пообещать(ся) という完了体もある)約束する、образовать (образовывать という不完了体もある)形成する、обследовать (обследоваться は不完了体のみ)研究する、оперировать (手術するという意味のみ完了体・不完了体で、「利用する、作戦行動をとる、操作する」という意味では不完了体。口語で прооперироватьという完了体もある)、оптимизировать最適化する、организовать, организоваться (организовывать(ся) という不完了体は、現在時制では用いられず、организовать は過去では完のみ)、ориентировать, ориентироваться (сориентировать(ся) という完了体もある)方向付けをする、парализовать, парализоватьсяマヒする、патентовать特許を取る、популяризировать, популяризовать (популялизироваться, популяризоваться は不完了体のみ)分かりやすく説明する、прогнозировать (прогнозироваться は不完了体のみで、спрогнозировать は口語の完了体)診断する、ранить傷つける、реализовать, реализоваться実現する、редактировать編集する、рекламировать宣伝する、рекомендовать, рекомендоваться (勧めるという意味ではпорекомендоватьという完了体もある)紹介する、勧める、реконструировать, реконструироваться再建する、реставрировать (отреставрировать という完了体もある)修復する、реформировать, реформироваться改革する、роботизироватьロボット化する、родиться (不完了体の意味では過去形の力点はиのみである。 рождаться という不完了体もある)生まれる、сигнализировать (сигнализовать、またпросигнализировать という完了体もある)アラームをかける、синтезировать, синтезироваться合成する、синхронизировать, синхронизоватьシンクロさせる、同期する、систематизировать体系化する、специализировать, специализироваться特殊化する、стабилизировать, стабилизироваться安定する、стандартизировать, стандартизовать, стандартизироваться, стандартизоваться標準化する、стартоватьスタートする、стимулировать刺激する、стыковать, стыковаться (стыковывать(ся) という不完了体もある)ドッキングする、терроризироватьテロをする、тестировать心理テストをする、трансплантировать移植する、транспортировать輸送する、тушироватьフォールする、унифицировать, унифицироваться統一する、фиксировать, фиксироватьсяフィックスする、финансировать融資する、формализовать形式化する、формулировать (сформулировать という完了体もある)公式化する、функционировать機能化する、характеризовать (характеризоваться は不完了体)特色づける、эвакуировать, эвакуироваться避難する、экспортировать輸出する

設問)「彼が勝つために戦ったのは、入賞するためではなく、栄誉のためだった」をロシア語にせよ。

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2012年10月09日

●和文解釈入門 第508回

(226) 「露国及び露人研究」大庭柯公、中公文庫、1984年
 ジャーナリスト大庭柯公(1872~1923)のロシアおよびロシア人についての評論集。1925年初版。20世紀初期で革命前のロシアについてのエッセー集だが、湯屋(蒸風呂бани)は混浴だとか、三助のチップの出し方、待合дом свиданияの様子も興味深いし、屑屋はХалат! Халат!と呼びかけるなど現代ではなかなか分からないことなども窺える。ユダヤ嫌いのようで、これもロシア人に感化されたせいか。ロシア全般、モスクワやペテルブルグの記述は百科事典から取ってきた様な感じもするが、ウラジオについては実体験が反映されて非常に生き生きとして書かれていて好感が持てる。1914年ごろには桐生悠々という人が信州と甲越の有志を連れてウラジオに観光旅行に行ったり、ロシア人も箱根まで観光したことが分かる。大庭柯公は1921年モスクワで消息を絶ったが、久保田栄吉(本名寺田二三朗といい、本人は否定しているが軍事密偵として入露した模様、1887年生)の「赤露二年の獄中生活」(矢口書店、1926年)に、久保田がモスクワ陸軍大学日本語教授となる約束で入露し、イルクーツクにて大庭柯公や富永某の軍事密偵であるとの密告により入牢したが2ヶ月後無罪釈放。これは大庭が万朝報をレーニンに買収してもらえないかという提案を久保田が拒否したからだと久保田は書いている。モスクワで秘密警察に逮捕され、その後2度死刑判決を受けた。大庭と同じブトゥルカ刑務所に入れられ、シベリアの刑務所を転々としてウラジオから帰国した。日本に帰国して大庭に書き立てられることを恐れる片山潜の画策により、大庭はペルミの刑務所で1923年2月ごろ銃殺されたと聞いたと書いている。大庭は政治犯ではなかったために、強盗と一緒の牢屋に入れられたためひどい目に遭い、死ぬまで片山を恨んでいたという。久保田はモスクワでも片山や大庭の密告で逮捕されたが、後に大庭がわびて、久保田は無罪であるとの書面で提出したため、また密偵であることに対してしらを切りとおし命が助かった。一般に、この久保田の本はロシアの刑務所の現実をよく描いているが、当時の日本ではそこまでソ連がひどいとは信じるのは難しかったろう。久保田自身が軍関係であり、後にユダヤフリーメーソンの研究家となっているから色眼鏡で見られたのかもしれない。本書を読んでも当時のボリシェビキーのトップがほとんどユダヤ人に占められていたからか、ユダヤ人についてはやや感情的になっていて、いい思いを抱いていないことが分かる。

設問)「回りには他に船はない」をロシア語にせよ。

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2012年10月10日

●和文解釈入門 第509回

(225) 「ある心の自叙伝」、長谷川如是閑、日本人の自伝第4巻所載、平凡社、1982年
 1948年初出。大正デモクラシーの花形評論家と言われた長谷川如是閑(1875~1969)の自伝で、雑誌「日本」に入社の頃(1902年)までを扱う。如是閑の父が浅草の花屋敷を作ったとか、兄の山本笑月(明治世相百話の作者)が坪内逍遥の「書生気質」の名目発行人だったとかというのは面白い。如是閑も逍遥の塾に通った。逍遥は昔の戯作者のように左の膝を立てて、長煙管を持った手をその膝にのせる癖があったとあり、立て膝というのも正座や胡座とともに用いられていたことが分かる。ただ自伝とはいえ、明治維新から後の思想史めいたものが、自伝の背景を示すためなのだろうか入っているために、何かまとまりのつかないような印象を受ける。出だしの胎児としての自分が母の胎内から出てくる場面にしても、小説としてならともかく自伝では唐突な感じを受ける。自伝だけにすればもっとまとまりのあるものになったと思われる。

設問)「専門家派遣の件はどうなりましたか?」をロシア語にせよ。

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2012年10月11日

●和文解釈入門 第510回

(227) *「自叙伝」(5巻)、河上肇、岩波文庫、1996年
 河上肇(1879~1946)の自伝。村長の長男として生まれ、病弱ではあったが、幼少より根気強かったことが分かる。異母弟の暢輔が大砲を打つと言って、おなら一発の直後、ついでに実弾も畳の上に落として爆笑を得たのに、自分はそのような快活さはなかったなどと非常に客観的に幼少期を描いており、家族の慈愛に恵まれて成長したことがよく分かる。特に面白いのは幼少期と4年半の下獄の期間、特に同囚の人達についての描写である。留置場から刑務所に移るときに手錠を下され、編みがさをかぶらされて護送車に乗ったとあるなど1930年代の監獄の様子がよく分かる。人間味のあるそこはかとないユーモアのある文体である。河上は1924年にマルクス主義に徹底するために生命がけの飛躍を決意した。そして「マルクス主義こそが、またそれのみが、間違いもなく、この地球上に永久の平和をもたらすであろうことを、科学的真理として固く固く信じ」て死んだ。もう30年生きてソ連の収容所や経済の惨状を見たら何と言ったろう。ソ連はマルクス主義を誤ったというか、あるいは、河上らしく、思想の弁証法的発展により、誤謬に気がついたら学説を直ちに否定したろうか?多分否定して、別の学説に進んだろうと思う。ロシア語でエクスというのはボリシェビキなどの党の資金稼ぎの強盗を指す。スターリンもカモーなどに銀行強盗をさせ、海外のレーニンが何不自由なく生活できるよう送金をした。本書によれば日本でも日本共産党の起こした大森ギャング事件というのがあり、1932年川崎第百銀行支店に白昼ピストルを擬して三万円(現在なら1000万円くらいか)を強奪した事件で、河上の義弟大塚有章が首謀者だったが、実は警察のスパイ松村某(共産党中央委員だった)の仕掛けた罠にかかり、即一網打尽に逮捕されたという。日本のエクスについては1885年の自由党による大阪事件ぐらいしか知らなかったので勉強になった。本書によれば1921年「断片」という半ば小説のようなロシアのテロリストに関するものを発表し、即発禁になったが、これに触発されて難波大助が縁戚でもある伊藤博文がロンドンで買った仕込杖の銃で、1923年虎ノ門事件を起こした。巷説によれば罪を悔悟したことになり、無期懲役ということになっていたが、判決のときにコミンテルン万歳を三唱し、死刑となったと本書にある。たんなる売名行為のお坊ちゃんではなく確信犯だったようである。ただ、客観的に河上という人を見れば、人物も書いたものも面白く、人からは募われたようだが、人に対しては非常に冷たい人で、人が河上に尽くすのは当然であると、夜郎自大的に考えていた節があり、人間的には好きになれない。

設問)「貴国のスキーチームは何個メダルを取りましたか?」をロシア語にせよ。

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2012年10月12日

●和文解釈入門 第511回

(228) 「北京籠城他」、柴五郎・服部宇之吉、東洋文庫、1965年
1900年の義和団事件における各国公使館の9週間にわたる北京籠城について当事者が述べたもの。柴五郎(1860~1945)のは講演の口述筆記のためもあり、頭脳明晰ということもあって非常に分かりやすい。日本管区においては北京公使館付武官柴五郎砲兵中佐の軍紀が厳正であり、中国人をよく保護したため、中佐の徳を慕って、他国軍の管区より移住する住民が続出したことは有名である。他国軍の管区では略奪が頻出したという。本書の記述を見ても中佐の功を他に譲るという謙虚な人柄が偲ばれる。服部宇之助のは「北京籠城日記」は柴のと重なるということと、「北京籠城回顧録」は往時を分析したものゆえ価値は高い。柴五郎には石光真人(石光真清の令息)の編集した「ある明治人の記録(会津人柴五郎の遺書)」(中公新書、1971年)という半生記があるが、達意の名文で人柄がしのばれる。

設問)「日中の温度が30度以上と暑くなる日は珍しい」をロシア語にせよ。

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2012年10月13日

●和文解釈入門 第512回

「毎日通勤しています」という類の文を、応用性がないから出題しないと書いたが、考えてみると、常連の投稿者にとってはそうかもしれないが、このコーナーをただ閲覧するという人にとっては、そう簡単ではないかもしれない。実際に投稿しなければ分からないということは多々ある。簡単だと言えるのは、体の用法の観点からで、「毎日」とあるから反復であり、不完了体を使うという点だけである。それ以外の、難しいだろうと思われる点を挙げてみよう。

1) 主語がないというよりは、明示されていない。
日本語で主語が明示されていなければ、一人称と考えるのが普通である。文末に「よね」など助詞をつけないと、「あなたは通勤しています」という文は、座りが悪く、外人の日本語である。三人称なら、それこそ、「あの人が」とかと主語を明示する必要がある。一方、疑問文なら、二人称となる。自分に対して、記憶喪失でもしなければ、こういう事を尋ねることはないし、その場合は、「僕は」とか「私は」とか主語を明示するのが普通である。ロシア語でも動詞の活用語尾で、現在形(不完了体)や未来形(完了体)は人称が分かるので、主語を明示する必要はない。

2) 「通勤しています」
「通う」というのは、「行って来る」ということで、不定動詞を使う。しかし、なぜ定動詞ではだめなのか、使える場面がないかをきちんと説明しておかないと、従来の勉強法である丸暗記しかないということになる。定動詞は一方向しか示さない。だから、反復や繰り返しでも、次のような場合は使える。

(朝大学へは歩きで、夕方帰宅するのはバスです)Утром я обычно иду пешком в университет, вечером еду домой на автобусе.

3) 通勤
「会社に行く」という意味だが、人によって、オフィスв офисかもしれないし、工場на заводかもしれないし、作業場в мастерскуюかもしれない。на работу = на место работыなので、これを使えばすべてカバーできる。会社勤めをしている人が大半だから、в фирму (на фирму), на компанию (в конманию)も可能だろうが、あまり聞かない。ついでにместоはнаを取るのが普通だが、на местоかв местоのどちらかについては、「女性のための技術ロシア語」の6. 場所に書いておいたので、興味ある方は参照願う。

4) 不定動詞
「通勤する」が歩いてなら、ходитьで、家から会社までずっと、自転車かマイカーで通勤するならездитьである。ところが、普通は、家から駅まで、10分かその程度歩き、地下鉄か電車で会社の最寄り駅まで行き、そこから10分程度は歩くだろう。こうなると心理的な問題でもある。歩き以外が長いと感じればездитьだが、そういう事を意識しないなら、ходитьが使えるというふうに理解することも可能だが、ходить = отправляться куда-либо, бывать где-либо, посещать кого(что)-либоという意味があり、それは歩くことを必ずしも意味しない。語結合辞典のこの文意の例文でも、В прошлом месяце мы несколько раз ходили в Большой театр.(先月何回かボリショイ劇場に通った)は、地下鉄やバスを使わずに、歩いて通ったとは考えにくいからだ。

 以上から、露訳するとしたら、Хожу на работу каждый день.が一番自然のような気がする。こういう短文を丸暗記するのは簡単だが、そうではなく、学習者に応用力をつけさせるような教え方をした方が、あるいは、そのような参考書で自学自習したほうが、勉強への意欲もわくし、結局のところ学習の効率も高いのではないだろうか。問題は、和文露訳に関してそのような参考書がないということであり、微力ではあるが、このコーナーがそういう方面のテストケースとしての役割を果たせればよいと思う。果たせたのかどうかは別として、そろそろその役割が終わりつつあることは確かである。

設問)ゴルフのルールの説明で、「打数が少ない人が勝つのだ」をロシア語にせよ。

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2012年10月14日

●和文解釈入門 第513回

(229) 「明治日本見聞録」、エセル・ハワード、島津久大訳、講談社学術文庫、1999年
1901年から1908年まで日本に滞在した英国夫人エセル・ハワード(1865~1931)による島津家の5人の子息の養育体験記。同じころ日本に滞在したベルギー公使夫人で英国人女性のエリアノーラ・メアリー・ダヌタン(1858~1935)も「ベルギー公使夫人の明治日記」(長岡祥三訳、中央公論社、1992年)を書いており、当時の日光や鎌倉の様子や日清日露戦争時代の日本の上流階級の様子が垣間見える。ダヌタンは「ソロモン王の女王」を書いたヘンリー・ライダー・ハガードの妹で文才もあった。アーネスト・サトウやイザベラ・バードとも親交があったことが分かる。京都は古き日本そのものであり、有難いことには嫌なにおいがしないと書いてある。日本中糞尿の匂いが鼻についていたのだろう。

設問)「3位で来たのは誰ですか?」をロシア語にせよ。

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●和文解釈入門 第514回

(230) 「英国人写真家の見た明治日本」H.G. ポンディング、長岡祥三訳、講談社学術文庫2005年)
 ポンディング(1870~1935)は英国の写真家。本書の中に「外国人の見物客が大仏の手に登ったりして、馬鹿げた不敬な悪ふざけをしたために…」写真を撮るのが許可制になったと記されている。これは1901~02年ごろらしい。つまり写真機が一般的になってから、外国人のこういう悪ふざけがはやったものらしいとあるのは興味を覚える。

設問)「彼女は舞踏会では御主人とペアで素晴らしい踊りをみせた」をロシア語にせよ。

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2012年10月16日

●和文解釈入門 第515回

skypeを通じて通訳を依頼された。行ってみると、相手のロシア側のコンピューターの音声の調子が悪く、結局チャットですることになったが、今度は日本語側のコンピューターが露文にならない。多国語機能がウィンドウズについているから、簡単にできそうだが、かなり複雑なデータのやりとりがあり、再起動したくない様子である。相手からはちゃんとロシア文字で来る。そこでテレックス時代の事を思い出して、ローマ字でロシア語を打つという20年前にやっていたことを提案、1時間ぐらいロシア語でやりとりした。後で聞いたら日本側はskypeで通訳がロシア語で話すことを考えていたのだが、相手のロシア語がはっきり聞こえるかどうかは分からないので、ロシア側からはチャットという具合に考えていたようである。ただローマ字で打つという発想は今の若い人にはなかったようなので、喜ばれた。ちなみに、「3位で来たのは誰ですか?」と、その私の回答をローマ字にすると、
san'ide kitanowa daredesuka?
Kto prishel tretjim? となる。ロシア文字のローマ字化にはイギリス方式とアメリカ方式があり、щをshchとするか、schとするか、цをtsとするか、cとするかなどマイナーな違いがある。これは電報時代からのもので、PLS = please, ASAP = as soon as possibleなども電報代を節約しようとする試みで、それがテレックス時代に使われたものである。みなが英語ができるわけではない、特にお偉方は、それで小さな商社では、ローマ字でテレックスをモスクワの事務所や、ソ連の公団に打つ場合が多かったので、それが今回役に立ったわけである。それと、他のパソコンでロシア文字を打つとなると、設定をロシア語に代えても、タイプキーにロシア文字の配列を示すものはないのだから、自分のパソコンのタイプキーにロシア文字を貼り付けている人は、打ちにくいかもしれない。私は40年近くロシア語をやっているので、自分のパソコンにもそのようなシールを貼るのを10年くらい前に止めてしまった。それなしでもロシア文字を打てるからである。学習者も、そういうある種のメクラ打ちのような練習もしていた方がよいのかもしれないなと思った。

設問)中座する際、相手に酒などを勧めての「勝手にやっててくれ」をロシア語にせよ。

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2012年10月17日

●和文解釈入門 第516回

最近観光ガイドをすることも、客が来ないので、あまりないが、その数少ない中で、ウクライナ人の客から、マスクの事を聞かれた。いつものように、花粉症аллергия на цветениеでしょうと答えたら、何のと尋ねられたので、ウクライナにあるかどうか知らないが、今の時期(先週の話)なら雑草のブタクサамброзияでしょうと答えたら、ウクライナでもアレルギー源だという。ロシア人に聞いてもブタクサの名は知っていて、結構ポピュラーな雑草のようである。北米原産の帰化植物натурализованное растение родом из Северной Америкиだと言ったら、日本もアメリカに占領されたのか、ロシアのブタクサもアメリカの秘密兵器かもしれないなとロシア人に冗談を言われた。

設問)「マイナスかけるマイナスはプラスだ」をロシア語にせよ。

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2012年10月18日

●和文解釈入門 第517回

前々回の設問〔中座する際、相手に酒などを勧めての「勝手にやっててくれ」〕については、設問自体があまりにも人工的と考える人もいるかもしれないが、こういう思い出がある。会社の飲み会などに行くと、1時間ほどして上役はお先に失礼するとばかり、このセリフを言って、いなくなるのだが、ロシア語で何と言うのか、入社早々の頃気になったことがある。当時、高輪のソ連通商代表部の何人かとは日頃の付き合いもあり、聞こうと思えば聞けたのかもしれないが、ロシア語で質問するにしてもややこしいし、特に急ぐような話でもない。そのままにして、10年か15年か過ぎた。

 モスクワに駐在して、地方に出張した時の事、工場の夕食に招待された。宴たけなわとなったときに、工場の偉い人が、急用ができたという事で帰ることになり、そのときにПейте без меня.と言ったわけである。その後、2~3回、宴会の別な機会に、別のロシア人がこう言うのを耳にすることがあり、これは状況から判断して、「勝手にやっててくれ」という意味であろうという事に気がついた。ソ連と日本は体制は違うとはいえ、同じ人間であり、現代人であれば、同じような状況下におかれるわけで、しかも、このような表現は不要不急のものなので、辞書や会話集に載ることはまずない。そうなると、似たような状況下で偶然発話された表現を、覚えておくしかないと思う。こういうロシア語は言わないという、ロシア人の方もいるかもしれないが、それはそれで構わない。自分としては、2回か3回であろうと、そういう状況を覚えているわけだし、他の人に強制はできないし、するつもりもないが、「自分のいないところで(自分がいなくても)飲みなさい」というのは、論理的だなと、酔っ払った頭で感じたことを覚えている。最近「ネップ時代のモスクワМосква НЭПовская」というРуга/Кокоревの本を読んだら、この表現が載っていたので、まんざら私の記憶違いというわけでもないと知って喜んだ次第。

設問)「アネクドートによっては、語るだけではなく、身振り手振りが不可欠である。これは書いたものでは無理だ」をロシア語にせよ。

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2012年10月19日

●和文解釈入門 第518回

 初級者の人にとって体の使い分けというのは敷居の高いものかもしれない。理屈は和文露訳入門にも書いたので、もっと初級者がロシア語会話をする上で、実用的な体の使い分けを書いて見たい。10ヶ条挙げたが、とりあえず、最初の4ヶ条だけ覚えればよい。理屈が気になれば、それは上達の証なので、その時は和文露訳入門を読んでもらえばよい。

<体の使い分けの目安10ヶ条>
 完了体は完了を、不完了体は反復とだけ覚えても、ロシア語会話をする上では体の用法が使えない。そこで、簡便な体の使い分けについて書いて見たい。通訳しているときには、1秒の何分の一かで単語を決めなければならず、概ねどのような体を選ぶか、体が覚えるまでにはこのような使い分けを覚えておくのも無駄ではないだろう。概ねということで、細かく言えば例外も出てくることもある。とりあえず、最初の4ヶ条を覚えればだいぶ違うだろう。その後で、残りの6ヶ条を覚えるとよい。例文やもっと詳しい説明については和文露訳入門の該当項目を示しておいた。

1. 過去を示す状況語(1年前、1965年、昨日など)があれば、完了体過去形を使う。アオリスト的用法で、和文露訳入門2-2-1参照。
2. 禁止や不必要には不完了体を用いる。禁止については、和文露訳入門3-2-4参照、不必要は和文露訳入門5-1-4 & 6-1-2参照。
3. 不可能には完了体を用いる。和文露訳入門3-2-3参照。
4. 規則的な反復や、多くの回数というニュアンスがあれば、不完了体を過去・現在・未来の時制、不定形で使う。命令法でも基本的にはそうなのだが、他の要素が強く出てくるので別に考えた方がよい。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
5. 何かあれば(起こるかもしれないし、起こらないかもしれないが、起こったら~する」という)ニュアンスがあれば、完了体未来形を使う。例示的用法で、和文露訳入門4-2-3参照。時制的には現在及び未来ということになる。
6. 過去から現在までの継続動作には不完了体現在形を使う。和文露訳入門3-1-3参照。
7. 動作が終わって、その結果が残っている場合は、完了体過去形を使う。結果の現存、和文露訳3-2-1参照。
8. 動作の有無だけに関心がある場合には、過去(和文露訳入門2-1-1参照)でも未来(和文露訳入門4-1-1-1参照)でも、不完了体を用いる。結果の有無を現在の時制で尋ねることはないはずである。
9. 不定法で具体的な1回の動作には完了体を用いる。чтобыの後には基本的には完了体が来ると覚える。不完了体が来るとしたら、研究するなどの期間を示す動作や、繰り返しである。和文露訳入門6-2-1参照。
10. 経験(~したことがある)は不完了体過去形を使う。和文露訳入門2-1-12参照。

設問)「7月13日の出来事について何かご存知ですか?」をロシア語にせよ。

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2012年10月20日

●和文解釈入門 第519回

何年か前、ある通訳の方から、ロシア語研究者の集まりで、ロシア人研究者の講演の通訳をした話を聞いた。その通訳の方曰く、通訳の仕事があるのは結構なことだが、皆、ロシア語の専門家なのだから、少なくとも講演に関するロシア語については、話せるかはどうかは別にして、専門文献をロシア語で読んでいるはずなので、通訳は要らないはずなのにと不思議がっていた。思うに、ロシア語の専門家といっても、ロシア語は読めるが、会話や聞きとりはダメという人もいるだろうと思う。ロシア語を学校で教えていないのなら、それでも構わないと思う。ただ、ロシア語を教えていて、日常会話や、自分の専門分野(例えば、ドストエフスキー、体の用法、ロシア語教育論)などを、同じ分野のロシア語研究者と意見交換ができないというのであれば、教わる生徒の方が納得しないだろうとは思う。ただ会話は教えないのだから、ロシア語は話せなくてもよいというのはおかしい。何も専門外の技術通訳や、政治・経済の通訳をせよということではないのだ。自分の専門についてロシア語でロシア人の専門家と意思疎通できなければ、研究内容や質の向上は望めないと思う。ドストエフスキーは日本で人気のある作家で研究されている方も多いと思うが、必ずしもロシア語の原文を通じてとは限らないと思う。そういう研究者の方のことを言っているのではなく、ロシア語原文でロシア関係の研究をする方についての話なので、誤解されないようお願いする。

 そのときはそう思ったのだが、確かにその専門分野の文献が読めて、ロシア人研究者の同じ専門の話を聞きとれないというのは、努力不足だろうと思う。話すのは難しいかもしれないが、文献が読めて、その文献と同じような内容が聞き取れないというのは、少し耳慣らしをすればできるようになるはずである。ちなみに、その講演会での質疑応答というのは、あまりなく、あっても通訳を通じたのがお義理に2、3つあった程度だという。

設問)「本当かどうかは保証の限りではありません」をロシア語にせよ。

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2012年10月21日

●和文解釈入門 第520回

 真理の提示には不完了体現在形を使うということで、和文露訳入門でも3-1-10に、
(地球は太陽の周りを回っている)Земля вращается вокруг Солнца.
という例を挙げているのだが、こういうのは公式として覚えるのではなく、なぜ不完了体なのかを考えた方がよい。日本語教育でも、真理や習慣は超時なので現在で表すとあるだけであり、それ以上の説明はない。私見を述べると、今現在である2012年10月21日午前6時でも「地球は太陽の周りを回っている」わけで、これは過程を示していることは明らかである。完了体は過程を示せないので、不完了体現在形を使う事になる。また現在というのは刻々と未来に移行しているわけで、1分後には午前9時1分が現在となる。このようにして、24時間後には、22日の午前6時が現在となるわけである。その時点でも、過程として地球は回っているわけである。イェスペルセンは「文法の原理」(安藤貞雄訳、岩波文庫、2006年)において、「現在というのは厳密に言えば現在の一瞬であり、点としてとらえることができる。ただ現在の一点が言及された期間内に入っていれば現在の時制であり、繰り返しについても総称時ということで、現在の一点が含まれているから現在の時制になるのだ」と指摘している。つまり、22日の午前6時現在にも地球は回っているわけで、これが反復(繰り返し)において不完了体が使われる理由でもある。つまり「地球が太陽の周りを回っている」に不完了体現在形が用いられるのは、過程の意味と、それによって生じる反復の意味があるからだと考えた方がよいことになる。

 天動説の人にとっては、Солнце вращается вокруг Земли.(地球の周りを太陽が回る)が真理であり、その証拠はと聞かれたら、日は東から昇り、西に沈むと言うだろう。我々にとって、それは真理でないから完了体を使わねばならないのだろうか?真理は不完了体現在形で表すと教条的に考えるよりも、なぜ不完了体現在形を用いるのかを考えた方がよいという事がお分かりだろう。真理というのは立場によって変わる場合もあるということにもなる。アメリカでは聖書を文字通り信じている人がいるわけで、そういう人にとって地動説は真理ではないという事になる。真理は不完了体と覚えるのではなく、もっと時制や態の用法に着目して理解するようにしないと、混乱することもありうるわけである。日本人の常識が通じないことは世の中にいくらもあるし、日本人の中ですら、細かく見ていけば考え方にいろいろ差があることは、日常よく経験することでもある。ゆえに、真理および話し手の考える真理は、話し手が事実と考えるゆえに、過程の意味(その時点でその動作が行われている)と、常に反復される(真理とは反復されるものである)といういうことで、不完了体現在が使われるという事になる。

設問)「帝は一度、酔っ払いの一団と来たことがある」をロシア語にせよ。

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2012年10月22日

●和文解釈入門 第521回

(231) 「ある歩兵の日露戦争従軍日記」、茂沢祐作(もざわゆうさく)、草思社、2005年
 日露戦争に従軍した庶民の茂沢祐作(1881~1949年)の従軍日記。原題は「明治三十七、八年日露戦役従軍日誌」。彼はクリスチャンで下戸だったが、語彙の豊富さには驚くばかりである。戦争の日常を、戦場も含めて淡々と描いている。捕虜を見て、「気の毒で可憐の情を催す」とあるのは、長谷川伸の「日本捕虜志」にもあるように、敵の捕虜に対するこの頃の一般的庶民の心情のようである。また日本酒の缶詰、粉味噌、醤油エキスなどが戦場に持ち込まれていたことが分かる。ロシア人の中にもズボンと長靴のみの裸で、爆裂弾を抱いて突っ込んだものがあり、すぐ突き殺されたがその勇敢さには驚いたとある。日露戦争のような勝ち戦でも、弾丸雨飛で、茂沢も左太ももに盲貫銃創、右太ももに貫通銃創を負い、また二度も抱えた小銃に弾が当たり運よく戦死を免れたりした。死が日常であったことが分かる。しかし、兵の生死の分かれというものは、大岡昇平の「レイテ戦記」にも描かれているようにや、同じ日露戦争でも乃木の第3軍に配属された兵など、将の不出来からほぼ確実に死地に追いやられなどしたから、そういう意味では少なくとも不運ではなかったと言えよう。戦時でも双方の死傷者の収容のための2~3時間の休戦があったことが分かる。日露戦争の従軍記には石光真清の「望郷の歌」(現代日本記録全集6日清・日露の戦役所載、筑摩書房、1970年)があるが、石光は第2軍(奥軍)の副官であり、軍神橘少佐の最後などは興味深いが、実戦でのリアリティーは本書に比べて、落ちる。ただ南山の戦いにおいては機関銃で敵になぎ倒される兵が相次ぎ、それでも「全滅を期して攻撃を実行」という命令を下さるを得ず、敵が旅順方向に退却しなければ、乃木軍と同じ目に遭っていたかもしれない。これも運か。しかし、石光と乃木では立場も違う。石光のは「曠野の花」の方がはるかに良い。

設問)「私はテレビで宇宙船のドッキング(アンドッキング)を(たまたま)見ました」をロシア語にせよ。

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2012年10月23日

●和文解釈入門 第522回

「見る」という意味では問題ないのだが、「会う」という意味ではувидетьはвидетьと違い、動作の開始の瞬間を表しているので、過去の時制でувидетьは使えないが、不定法や未来の時制ではувидетьの方が一般的である。例外はРад вас видеть.(お目にかかれてうれしい)ぐらいだろう。これは時制によって体が変わる例でもある。

Я видел профессора.(私は教授に会った)
Я увижу профессора.(私は教授と会う)
Он знал наше мнение.(彼は私たちの意見を知っていた)
Он узнает наше мнение.(彼は私たちの意見を尋ねる)<力点はузнаетのна>

 結果の現存の用法は完了体過去形を使うのだが、ボンダルコ先生は経験の集積という場合に、不完了体であるвидеть, знать, читатьには結果の現存の意味を示すことがあるとして、

Он много видел, много знал и от него я многому научился.(彼は多くのことを見聞し、又彼から私は多くのことを学んだ)

 という例を挙げている。ただ何度もという繰り返しが含意されている以上、不完了体しか用いられないことは自明だ。完了体過去形を用いるとしたら、例外的に動作の一括化(和文露訳入門2-2-5参照)ぐらいだろう。видеть/смотретьの違いについては、和文露訳入門10-8参照。

設問)「急ぐので彼はタクシーをつかまえた」をロシア語にせよ。

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2012年10月24日

●和文解釈入門 第523回

児童文学は文脈がはっきりとしていて、俗語や隠語、廃語などの使用もないので、露文解釈にも、和文露訳の勉強をするにもお勧めだが、その他に、本では学べないロシア人にとっての常識が書かれていることもあるので、そういう面でも貴重な教材でもある。最近8年前に買ったムルジールカ記念号を読む機会があった。ムルジールカМурзилкаというのはは1924年5月創刊の由緒ある児童雑誌で、2004年に80周年記念号が出たわけである。このムルジールカというのは、黄色い猫のような、クマのようなアイドルキャラクターである。この記念号はそれまでに載った作品の選りすぐりであり、その中に「エチケット授業Уроки Этикета (Н. Емильяненко)」という2ページほどの小品がある。もっとも載っているのは小品ばかりだが。
ダリヤという女の子には男の子の友達が二人いる。二人ともいい子なのだが、家に呼ぶと、ダリヤのママがいつも厳しい目で二人を見ている。特にエピーシュキンに対してはそうである。ママはマナーхорошие манеры(複数のみ行儀という意味になる)にうるさい人で、エピーシュキンにはそれがない。『エピーシュキンが家に来ると、ダリヤは手に室内履きтапочкиをもって出迎える。「エピーシュキンは靴を脱ぐのを忘れて、そのまま外に履く靴で家の中に入って来るのだ (Он забудет разуться: так и пойдёт в комнату в уличных башмаках.)<児童文学でもこのように例示的用法が出てくる>」。夏はまだいいのだが、ぬかるみの季節などでは(家の中に)足跡がつく。』。
 ロシア人の家庭でもスリッパを出されたことは記憶にあるが、靴を脱いで、室内履きに履き替えるのがロシア人にとってエチケットであり、幼いうちに教えなければならないことになっているというのは驚きだった。ロシア人も欧米人のように、基本的に靴は脱がないと考えてきたから、そうではないことを教えられた次第である。

設問)「不合格品の率はどのくらいですか?」をロシア語にせよ。

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2012年10月25日

●和文解釈入門 第524回

ロシア語ではガイドでも通訳でも食べていくことはほとんど不可能だが、ロシア人とのビジネスや文化での行き来がある以上、これからも細々とでも続くだろう。ロシア語がある程度できれば、プロとしてではなくとも、その場の成り行きや頼まれてのガイドや通訳というのはあると思う。ガイドと通訳は基本的に同じだと考える人もいるかもしれないが、それは違う。ガイドは、ロシア語で考えることを求められる。一方、通訳は、日本語からロシア語、ロシア語から日本語と、二つの言語の差を常に意識していないと正しい通訳はできない。またガイドはスケジュール内でのある程度の自発性、自立性、決断力が求められる。ガイドするときには旅行会社のエージェントがつくことはほとんどないし、客と1対1での対応が求められる。お金や日程などに絡むなど決められない問題は電話で旅行会社に指示を仰ぐが、そうあるものではない。一方、通訳は黒子に徹することが求められ、いい意味でも悪い意味でも通訳が目立つことは、結局は良い結果にならず、空気のような存在であることが望ましい。

設問)「クラスが荒れている」をロシア語にせよ。

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2012年10月26日

●和文解釈入門 第525回

(232) 「湛山回想」(石橋湛山、岩波文庫、1985年)
 1951年初出。戦後首相にもなった石橋湛山(1884~1973)の自伝。戦前戦後の経済状況を戦前は東洋経済の記者としての観点から、戦後は為政者の視点から簡潔な飾らない文体で書いている。

(233) 「順礼紀行」、徳富蘆花、明治文学全集47、筑摩書房、1966年
 キリスト者である蘆花(1868~1927)が1906年4月4日横浜を発ち、キリスト教の聖地(エルサレム)、エジプト、ロシアを経てシベリア鉄道経由8月4日敦賀に帰着するまでの紀行。文語体だが分かりやすい。ピラミッドの上に蘆花が鉛筆で書き、べドインの人が小刀で彫って落書きしたとあるが、当時は問題にもならなかったらしい。本書の白眉はトルストイ訪問であり、蘆花が抜き手を切って泳いだところ、日本人の泳ぎ方はロシア人と同じだ(сажёками?)と述べたとか、トルストイの三大恩人はキリスト、シャカ、孔子だというのも面白い。父について三男のレフは父は常に説くのみにて何も実行せずとか、父の議論は理想に馳せて、実際に適せずというのは内側から見たトルストイということになろう。絵についてはトルストイはゲーを高く評価していることを伝え、著者はヴェレシシャーギンの絵はセンセーショナルすぎてと批判している。トルストイ訪問を終えてモスクワに出たわけだが、治安の悪さに驚いている。当時は第一次革命の余燼がくすぶっていたころだろう。それでも競馬には普通のと、軽車を駕しての競馬所と相並べりとあるのは、ソ連時代まで行われた競馬の様子がよく分かる。

設問)「私に子供がいるという事をお忘れですね」をロシア語にせよ。

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2012年10月27日

●和文解釈入門 第526回

забыватьは過程の意味では用いないと書いたが、そうとも言い切れない例をネットで見かけた。「徐々に忘れる」はзабыть постепенноだが、забывать постепенноと不完了体もたまにネットで見かける。これはпостепенноという副詞は、語義から過程を示すからと考えての誤用かもしれない。постепенноは不完了体とだけの語結合と思いがちだが、完了体とも結びつき、привыкнутьとзабытьとは特に相性がよい。забыть быстро (сразу)〔どんどん(すぐに)忘れる〕の対義語として、動作を一括して捉え、過程ではなく、すぐにではないという、その様態を示すということからかもしれない。

設問)「ゴルフを教えてください」をロシア語にせよ。

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●和文解釈入門 第527回

感覚的・直観的に分かる暗示的知識だけでは、「は」と「が」の使い分けなどは外国人に説明できない。同じことが体の用法にも当てはまる。ロシア語学の専門家を除けば、ロシア人とて体の用法を、その理論的説明を十分に理解しなくては、我々日本人に説明できないのである。こうは言わないだけというだけで、なぜそうなるかの説明がなければ、全く同じ文を同じ文脈で用いる場合はともかく、実務において応用が効かないという事は分かるだろう。

設問)「発車までどのくらいですか?」をロシア語にせよ。

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2012年10月29日

●和文解釈入門 第528回

ロシア人からよく日本語で別れの挨拶は何というのか聞かれるので、さようならだと答えるが、そのたびに、ちょっと違うなという気がする。外国人が使う分には、さようならでよいのだろうが、さようならは目上には使わない。目上や親しくない人に対しては、「失礼します」だが、その説明をすると待遇表現とか敬意表現に関わって、ややこしいのであまりしない。一度、日本語に興味を持っているというロシア人の若い女性から、日本語での会社での挨拶を聞かれたので、そのときは「失礼します」を教えたら、タクシーの運転手にも、レストランでも「失礼します」と言っていた。

 日本語教育では、「御苦労さま(でした)」は労をねぎらう言葉だから、目上には使わないほうがよいとされるが、「お疲れ様(でした)」は上下の別なく使われているからかまわないという。

 朝昼晩の挨拶でも、おはよう(ございます)は「ございます」という敬意表現がつくので、芸能界では朝昼晩使われるのだと聞いたことがある。こんにちはやこんばんはは、ございますがつけられないから、上下関係が厳しい芸能界では使いにくいという事らしい。また、おはよう(ございます)だけは、家庭や職場でも使われるという特徴がある。

設問)「彼は独り者の境遇にある」をロシア語にせよ。

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2012年10月30日

●和文解釈入門 第529回

(234) 「フレップ・トリップ」(北原白秋、岩波文庫、2007年)
 北原白秋(1885~1942)が1925年に鉄道省主宰の樺太観光団に参加した顛末を書いたものである。特に最初の方は文体が非常に明るく感じられる。著者が「私の話法は現在格で進める。この方が楽だからである」と書いているのは、意識的に歴史的現在で書いていることを意味する。歴史的現在で書かれている小説、紀行文は数に限りがないが、文体を意識して書かれているのは類がないようである。豊原のロシア人街についても触れているのは興味深い。表題のフレップ・トリップは解説の山本太郎によればアカフサスグリкрасная смородинаとクロフサスグリчёрная сиородина、なしいはナナカマドрябинаであろうという。白秋はこれらでブドウ酒をつくるというが、山本はナナカマドでは作れないと書いている。それはその通りだが、ウラヂーミルВладимир近くのナナカマド (невежинская рябина) は糖度が高く、これで酒が作れるというのはロシアでは有名な話である。フサスグリの酒もあるので、北海道のハスカップのようなのかもしれない。

設問)「騒ぎはほんのささいなことからということは、よくあることだ」をロシア語にせよ。

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2012年10月31日

●和文解釈入門 第530回

(235) *「日本談義集」、周作人、木山秀雄訳、東洋文庫、平凡社、2002年
本書は絶版となった「日本文化を語る」(周作人、木山秀雄訳、筑摩書房、1973年)の復刊。周作人(1885~1967年)は中国人で、中国近代精神の形成に力のあった人であり、一時帰国した魯迅と共に1906年から日本に留学した。東京に6年間住み、東京は第二の故郷だと述べている。本書は1919年から1940年までに発表されたものを集めたもの。中国人や朝鮮人は皆日本文化のことを下に見ているのかと思っていたら、周作人は例外のようである。周作人は、「西洋人の東洋観はとかくロマンチックであって、彼らの貶下も讃嘆もあまりあてにならない。いわば何かの熱帯植物を見て失望したり満足したりするようなもので、一向に確かな理解があっての話ではないのである。有名な小泉八雲ですらそのきらいなしとしない」と言い、西洋人(小泉八雲、モラエスなど)の親日ぶりは没理性に近いと酷評し、彼らが日本人のよさが敬神尊祖や忠君愛国にあるというのはおかしいと述べている。周作人は、日本の国民性の長所は、忠孝ではなく、人情細やかなるところにあると言い、仁恕(武士の情け)は忠孝などよりはるかに気高いものだと述べている。現代の日本のように、孝行とか忠孝という言葉は戦後忘れられてしまった時代には何とも思わないが、これは戦前発表されたものである。また中国と比べ、日本のよいもののうち、万葉集は詩経であり、古事記は史記と誉め、源氏物語は紅楼夢に匹敵するが、紅楼夢は清時代のもので、はるかに後代にできたのであるとし、浮世絵、俳諧、滑稽本は中国にないとしている。東洋にユーモアがないというが、滑稽本は文化文政のとき(1804~29)の間に外国の影響を受けずに成立したことも指摘している。日本は(中国人にとって)半分は異境だが、半分は古代なのだとあり、正座も唐代までそうだったし、刺身も昔中国にもあったし、何よりも中国の古書が日本で手に入ることに感激していたようである。中国の庶民の根底には儒教ではなく、道教であると述べたのは、日本でも神仏習合とはいっても、実態は現世ご利益の願掛けであり、ロシアでも戦前は聖母信仰や聖ニコラ信仰などこれも功利思考であるのと変わらないのは世界共通という事か。本書の訳はきびきびとした日本語であり、このような日本語の文を書けるよう、精進を心がけたいものだと考えた次第である。

設問)「行かなきゃ。すごく急いでるの」をロシア語にせよ。

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2012年11月01日

●和文解釈入門 第531回

外国語習得を目指すときに生活言語能力BICS (Basic interpersonal communicative skills)と学習言語能力CALP (Cognitive academic language prificiency)を分けて考えることが必要である。生活言語能力というのは、休み時間に友達と話をするなどの生活するのに必要な言語能力で、外国語の習得において子供は大人より早くできるようになる。一方、学習言語能力というのは分かりやすく言えば、授業を受けるのに必要な言語能力であり、話す聞くだけではなく、読み書きも必要で、習得には7~8年かかると言われている。外国語習得というのが生活言語習得であるならば、つまり外国のホテルのチェックインや挨拶程度を交わしたいというのであるなら、極端に言えば、聴解用のCDを聞いたり、会話集の文型を丸暗記すれば事足りる。

 そうではなくて、外国語で新聞や本、文献、メールの読み書きをするとなると、学習言語能力の習得となるので、人にもよるし、目的の設定にもよるが、7~8年はかかることになる。自分の研究分野の文献を読むだけでよいというように、具体的な設定をすれば、より早くその設定目標については達成できるのは自明の理である。私のように、ロシアなら9世紀から現在まで、文学であろうと技術であろうと、読み書き、聞く話す全部となると、とりとめがなくなり、いつ習得できるのが分からないという事になる。設定する目標自体が曖昧だからだ。しかし、初めからこうだったわけではなく、若い頃はロシア人で技術交渉や商談をできればよいとか、ロシア文学を読めるようになればよいとかの具体的な目標があったのである。目標が達成されれば、次の具体的な目標を設定してきたのである。このようにロシア語も奥深い。初級者にとってはロシア語での挨拶が通じればうれしいという気持ちは分かる。しかし、それでは飽き足らなくなる人は上達の道が開けていることになるし、自分なりに次の目標が自然と分かるはずだ。ロシア語をする目的というのは人によって違う。日本は翻訳大国だが、翻訳されていないものもあるし、自分の好きな分野が翻訳されているとは限らない。私の興味を持っているのはロシアにおける犯罪で、これも9世紀から現代までと幅広い。となると、翻訳はゼロに等しい。それで、自分なりに文献を集めて書いたのが、「ロシア史異聞」、「ロシア奇譚」であり、今もその分野のものは読んでいる。これなどは趣味である。

 過去においてロシア語を学んだのであれば、読む語彙だけを増やしても、自分の好きな分野について読むとか、ロシア人の同好の士とメールするなどの道が開けてくるはずだし、そうしないのはもったいないと思う。このコーナーで一人でもそういう人が、錆びたロシア語を使えるように磨き上げるお手伝いができればうれしい限りである。

設問)「このような人はハリウッドでは数えるほどだ」をロシア語にせよ。

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2012年11月02日

●和文解釈入門 第532回

ロシア語は日本では不人気である。領土の問題が暗い影を落としていることは分かるが、その中でロシア文学が読まれ続けているというのは、精神的に共感できるものがあるということだと思うので、ロシア語学習者数の最近の凋落ぶりは歯がゆい限りである。公用語人口ではロシア語は世界5位(日本語11位)、母語人口では7位(日本語は9位)、ウェブのコンテンツ言語別では7位(日本語は英語に次ぎ2位、ドイツ語が3位で、中国語は4位だが、中国語が2位になる日は近いだろう)、2008年の言語別ネットユーザー数は9位(日本語は4位)、2008年5月から1年間のWikipediaのアクセス数は9位(日本語が2位で、中国ではアクセスが当局の判断で遮断されるので中国語はカウントされない)であり、翻訳大国の日本としても、ロシアは無視できないはずだ。ソ連時代はアフリカなどの少数言語の文学を知ろうと思えば、ロシア語の知識が不可欠だった。採算を度外視して辞書や本を出版していたからである。現在でも、カザフスタン、キルギスタン、ベラルーシ、ウクライナではロシア語がかなり通じる。異文化コミュニケーションを考えるときに、世界において英語や中国とは別のアプローチを知るには、ロシア語も大きな選択肢の一つであることは間違いないと思うのだが。

設問)「ちっぽけないさかいが雪だるまのように膨れ上がり、おおごとになる」をロシアが語にせよ。

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2012年11月03日

●和文解釈入門 第533回

(236) 「たいこもち」、桜川忠七、日本人の自伝第22巻所載、平凡社、1981年
吉原の幇間桜川忠七(1889~1961)の自伝。1959年初出。幇間というのは芸能部門の小間物屋で、手ぬぐいと扇子だけで道でも山でも川でも表現する四畳半のあてぶりの芸であると桜川は述べている。客に従い遊興の酒間を幇くる者、とりなしをする者だが、常磐津、小唄、踊り、三味線、鉦、太鼓、都々逸という下地が必要であり、道楽者の果てということになる。花魁は新造やかむろが「おいらのところの姉さん」と言ったのの略だとか、冷やかしは浅草紙の職人が紙を水で冷やかす時間が2時間で、その間に吉原に回るのだが、座敷に入る時間はないことからできた言葉だと書いてあり、お職を張るというのはその店一番の売れっ妓ということだが、これも吉原からだという。そのほかにも、水商売は両国の水茶屋からとか、ざんす、どうしんす、ござりいす、ざますなどは京都の島原の廓言葉由来で、花魁のみが使う事を許されていたともある。これは似非上流婦人も使っていたのはおかしい。妓夫太郎の主な仕事は付け馬(客の勘定の不足分を客について行って払ってもらう事)だが、妓楼の主人が勘定が100円なら馬に80円で売る(これなら妓夫太郎も一生懸命やる)という事など他では教えてくれないだろう。忠七にとっての粋は、「物事心得あって、よく人に馴れ、その所々をさばき、それぞれの場所を考え推しながら、言葉少なく和すこと、ただ方円の器に従う水の如しとて、水〔すい〕とは名づくなん」という。粋の一つの解釈であろう。

設問)「モスクワに飛行機で行って、白亜のモスクワがどんなものか見て来よう」をロシア語にせよ。

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2012年11月04日

●和文解釈入門 第534回

(237) 「なめくじ艦隊」、五世古今亭志ん生、日本人の自伝第8巻所載、平凡社、1981年
 落語家志ん生(1890~1973)の自伝。弟子の金原亭馬の助の聞き書きで1956年初出。芸名を16回も変えたが、これは借金取り対策だという。1923年の関東大震災の後から本所業平橋のナメクジ長屋に1936年まで住み、自分の実力を頼みに落語の名人となった。当時の世相もよく分かる。当時の電気ブランの一杯はアルコールが強いので、酒の五合ぐらい飲んだほども酔っ払うから、タバコは禁物で、飲む前に丼にいっぱいの水を用意して一緒に飲むとあり、それでも翌日は舌の先が突っ張って動かなくなると書いてある。今の浅草の神谷バーで売っている電気ブランとは別物のようである。他にも酒を勧められるのを断ったら徳利を持って追いかけてきて、自動車に乗って難を逃れたとか、留置所でやくざの親分の前で落語をしたとか、岐阜の金崋山の翁亭という客席のおやじが作った酢ダコが噛み切れないので、志ん生が飲み込んだら、そのおやじがタコを切っていたときに間違って自分の指を切ったやつだったというのは落語以上の話である。落語については、面白いものではなくて、粋なもの、おつなものだと書いてあり、やや説教臭のあるのが残念である。人の噺を聞いて見て、「こいつは自分よりまずい」と思うと、それは自分と同じくらいの芸であり、「こいつは自分と同じくらいだな」と思うくらいだと、自分より向こうの方が上であり、「こいつは自分より確かにうめえ」と思った日にゃ、格段の開きがあるものであると述べているが、これはロシア語についても当てはまると思う。酒が飲みたくて、また空襲が嫌で赴いた満州でのソ連軍侵攻から1947年の帰国までの苦難についての話もよい。同じ本に八世桂文楽(1892~1971)の「芸談あばらかべっそん」(正岡容の聞き書き)という自伝も載っているが、話があちこちに飛びすぎ、自分が女にいかにもてたかという話が多く、また当時の世相についてもよく分からない。それにひきかえ柳家金語樓(1901~1972)の「泣き笑い五十年」(日本図書センター、1999年)は演出も手がけた人だから話も面白い。

設問)「いくつかの問題はとっくの昔に、何らかの形で解決していなければならなかったはずなのに、そうではなかった」をロシア語にせよ。

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2012年11月05日

●和文解釈入門 第535回

体の使い分けを考えるときに、場違いかどうか、つまり状況に依存するなら不完了体、そうでなければ完了体という説明をしてきたが、分かりにくいと考える人もいよう。iPS細胞でノーベル賞を取った山中教授も、一つの遺伝子ということに固執しなかったところに成功の秘訣があったわけで、体の用法についても、ある説にこだわるよりも、いくつかの説を検討した上で、自分なりに納得できる使い分けをいくつか試した方が実戦的である。

 今回は不完了体の着手の用法に着目して体の使い分けの説明してみよう。不完了体は語義の動作の開始に意味の焦点があり、動作の継続や終了ということには特にこだわらないと考えるのである。こういう点から不完了体の動作を帯グラフで示すと、次のようになる。左端が動作の開始であり、右端が動作の終了である。(残念ながら、残念ながら帯グラフを表示できない)

Садитесь.(おかけ下さい)も、動作の着手に焦点があり、すわるという動作が終了するかどうかはどちらでもよい。座らなくても、座っても、声をかけられた人の自由という意味であって、座りなさいと声をかけたという意味である。しかし、そうかと言って、完了体が強制を示すと早合点してはいけない。経験(~したことがある)というのも、動作の有無の確認ということだから、これは動作が着手さえすれば、動作が終わろうと終わるまいと関係ないということになる。
不完了体もいろいろな動詞があり、継続の動詞は、終わり以外は塗りつぶされた形となる。

状態の動詞は、全てが塗りつぶされた形であり、伝達型の動詞は、動作が始まって終わるという事に焦点があるので、左端と右端が塗りつぶされた形になる。
 過程(進行形)の用法では、黒く塗りつぶした部分が、左端から右端に移動すると考えてもらうとよい。繰り返し(反復)は、左端が塗りつぶされた同じ帯グラフがいくつかあるという事になる。
 不完了体を否定すると、動作の着手がないのだから、動作が始まらないということで、動作そのものが成立しないということになる。
 一方、完了体は動作の終了に意味の焦点があると考えるのである。帯グラフで示せば右端だけが黒い場合である。過去の時制のアオリスト的用法や結果の現存はまさに動作の結果という事だから分かりやすい。完了体未来形を使うЯ уеду в Москву.(モスクワに行くよ)という場合、いつ動作を開始するかということは、重要ではない。уехатьは「今いる場所から移動手段を使っていなくなる」という意味だから、いなくなる動作がいつ開始になるかはどうでもよいということになる。重要なのはいなくなるという動作が完了するということで、それに焦点があるということになる。
Сядьте.(座りなさい)というのは、動作の着手が考えにない場合で、いきなり動作の終わりがイメージされる場合という事になる。強制にも着手を考えに入れてのものと、そうでない(突然)という場合があるから、完了体がすべて強制と考えるのは正しくない。Говори, кто убил наших парней!(誰がうちの(組の)若いものを殺ったのか言え)というのはイントネーションもよるが、この不完了体命令形は強制と考えるのが普通である。体の用法と強制という概念は切り離して考えるべきである。完了体を否定すると、動作が終わらない、ないしは終われないということで、動作終了の否定(否定の強調)か不可能を示すことになる。
最近、不完了体というネーミング自体が、体の用法に対して誤解を招くのではないかと考えている。不というのは打ち消しや否定だから、不完了は完了しないことになる。しかし、本来、不完了体は完了体とは用法が違うということにあり、そうなると非を使った方がよいということになろう。非はそうではないことなので、非完了体とすれば、より実際の用法に近くなるのではないかと考える次第。

 いろいろ書いたが、完了体は完了で、不完了体は完了ではないという考え方で、間違えずに体の用法が使えるなら、それはそれでよいのである。しかし、自分の経験から考えて、体の用法は、本質はともかく、見かけ上はそんなに単純なものではない。そうではなくて、体の用法がよく分からないというなら、上に書いた説も考えに入れたらよいと思う。一般的には、体の使い分けは動詞一つ一つによって違うと考える人も多い。そこまで極端ではなくとも、時制や法によって、あるいは動詞をグループに分けて考えるべきだいう人もいる。私は、折衷型で、体の理解には大所高所からの見方(トップダウン方式)と、動詞群、時制、法などからのボトムアップ方式の両方を併用すればよいと考えている。もっというと、どんな高邁な説を唱えるよりは、実際に体の使い分けができなければ無意味なのだ。

設問)「1年もたたないうちに、モスクワ当局から最初の重大な警告が来た」をロシア語にせよ。

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2012年11月06日

●和文解釈入門 第536回

(238) 「新編東京繁昌記」、木村荘八、尾崎秀樹編、岩波文庫、1993年
 画家木村荘八(1893~1958)の下町の風俗と歴史をつづったエッセーであり、1955年の東京から明治ごろまで時代をさかのぼっており、観工場がどんなものであったか、銀座の歴史なども面白い。1872年の鉄道開通について、すてん所、火輪車、蒸汽車を出す見世(駅)、必客館(旅客ホテル)などという初期の訳語や、鉄道旅客規則は英国ではなくセイロンの規則の翻訳であるとか、外国人のために人も乗らぬ先から犬の汽車賃を決めたなども面黒い。

(239) 「喜劇こそわが命」、榎本健一、日本人の自伝第22巻所載、平凡社、1981年
 エノケンこと榎本健一(1904~1970)は日本の喜劇王の自伝。1967年初出。小さいころから運動神経は抜群で小学生でコンクリートの塀の横腹を駆け足で10メートル以上走ることが出来たという。17歳で根岸歌劇団のコーラス部員となり浅草オペラで田谷力三などと知り合った。田谷力三の美声を妬んだ人が、田谷の湯飲み茶碗に水銀を入れてのどをつぶそうとした事件があったという。これは江戸時代、明治時代にも行われたことである。大震災後オペラが下火になった後、日本最初のレビュー劇場カジノフォーリーに参加した。この頃「金曜日になると踊り子がズロース(下ばきの一種で太ももまで覆うもの)を落とす」というズロース事件が起こる。全くのデマで、ある踊り子の胸のさらし(当時ブラジャーはなかった)がゆるんで落ちそうになって、あわてて前かがみのまま顔を赤らめて引っ込んだのが、面白好きの観客がそれにヒントを得て作り話として吹聴して回ったのが真相だというが、客は大入りとなった。こういうことで警察に目をつけられ、警察ではえろケンと呼ばれたりした。サトーハチローのセンチメンタルキッスという出し物では、象潟警察でカジノの踊り子がズロースの又下を物差しで計測されるという珍事が起こったりしたという。しかもそのズロースにはキスマークが真っ赤に書いてあるという大胆なものだった。エノケンは後に自分で劇団を作るが、戦後ソニーの井深大がエノケンの映画の録音技師をしていたこともあるという。喜劇の出し物では「らくだの馬」が有名だが、これを見て実際に笑い死に(心臓マヒ)した40代の客がいたというから驚きだ。エノケンは長男を肺結核で失い、右足も特発性脱疽で失った。劇団では天才にありがちなように専制的だったという。この自伝を読むとエノケンの若いころ、大正のころの東京の人情というのがよく分かる。

 エノケンと比べるられるのは古川ロッパ(1903~61)だが、その自伝「あちゃらか人生」(日本図書センター、1997)は質、量ともに劣るが、面白いところもある。ロッパも毎日スコッチウィスキーを1本空けた酒豪だが、戦時中は酒にも食にも苦しみ、「ブルトーゼだのバンミョウチンキなんてのは酔えます。ひどいのになると頭髪へ振りかけるローション、ヨーモトニックなどにもアルコールが入っているからといって、飲んでいた奴がいる。僕は流石に養毛液は飲まなかった。胃袋の中に毛が生えるのが怖かったからである」というのは、ゴルバチョフ時代のソ連に似ているなと思った次第。ロッパので面白いのは「ロッパの非食記」(ちくま文庫、1995年)で、1944年の1年間、1958年の文字通り自分が食べたものについての悲壮なまでの記述である。文章は軽妙で独特の味がある。明治、大正、昭和の流行語を挙げていて、それぞれ「なんてマがいいんでしょう」、「イヤじゃありませんか」、「心臓が強いわね」とある。「アノネーオッサン、わしゃカナワンヨ」という戦前戦中に流行った高瀬実乗(たかせ・みのる)のギャグを、当時の皇太子殿下が学校で真似をして、当局よりこの言葉が禁じられたという噂があることもロッパは書いているから、庶民の歴史を知る上では重要な史料である。

設問)「余(朕)は(ここに)彼を大臣に任命する(ものである)」をロシア語にせよ。

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2012年11月07日

●和文解釈入門 第537回

前回の設問の日本語の時制が現在であることは、日本人なら皆分かることで、日本語で現在なら、ロシア語も現在の時制であろうと、不完了体を使ったのであれば、伝達型動詞(和文露訳入門3-1-4参照)をよく理解していないことになる。不完了体現在形の用法には、過程、反復(繰り返し・習慣・一般的用法)、真理や、動詞にもよるが予定の用法の他に、さらに動詞によっては伝達型の用法があるのである。日本語の動詞でも、「見える」は現在の時制の意味しかないが、「任命する」は現在と未来(文法用語では非過去)の意味がある。これは日本人であれば自然と使い分けできるが、これをロシア語に当てはめるときに、ロシア語の時制感覚が分からないと和文露訳ができないことにお気づきだろう。ロシア人も日本人も同じ人間だから時間の感覚に変わりはないが、表現方法にずれがあることは、ロシア語には体の使い分けがあるという事でご理解されるだろう。このような伝達型の動詞については大学で習ったこともないし、文法書を見ても、露文解釈中心であるがゆえに、露文和訳では当然という事で無視されてきた。しかし、和文露訳ではこの用法が分からないと、ビジネスレターでよく使う、「~をお伝えします」を不完了体現在形なのか、完了体未来形を使うべきなのか分からなくなってしまう。普通は例文を丸暗記してしまうのだが、これが例外ならともかく、そうではないので、他の伝達型動詞が出て来たときに同じ問題にぶつかる。これまでの通訳やガイドは、私も含めて、このような説明のつかない新しい例文が出るたびに、丸暗記してきた。そうなると、通訳として一人前になるには、鉄鋼だけとか、ごく狭い分野ならともかく、10年も20年もかかることになる。前にも書いたが、このコーナーそのような無意味な丸暗記を、体の使い分けを理解することにより、最小限にしようという試みである。

設問)「その路線では8台のバスが6~8分間隔で運行している」をロシア語にせよ。

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2012年11月08日

●和文解釈入門 第538回

2、3年前にテレビで北海道の旅館に嫁に来たロシア人女性という番組をやっていた。姑との仲もよいようだったが、その姑が唯一困ると語ったのは、家の前の雪かきや掃除を嫁がしないということだった。ロシア人の嫁の言い分は、それは市の仕事であり、その分税金を払っているのだからする必要はないとのことで、それはそれで論理的なものだった。それでやむを得ず、姑が家の前の雪かきや掃除をしているという。その時は、ロシア人と言ってもいろいろだなとも思ったが、ロシア人の家に招待されると、家の中はびっくりするくらいきれいだが、アパートやマンションの前や階段は薄汚れた感じで、落書きもあり、ゴミも落ちていたりと、公共のスペースをきれいにするということには関心がないようだなと思ったりしたものだった。

 昨日トレーニンの『ロシア新戦略』(作品社、2012年)という本を読んだところ、その中に、「ロシア人は国の政治・経済・社会、そして精神的なものすべてが突然崩壊するというトラウマを経験しているために、私的な生活の方を大事にするようになった」、「公共のスペースは、今ではまったく手入れがされない」、「2009年にはロシア住民の52%は外国からの脅威はないと回答」、「(ロシア人の)33%としか祖国を守ろうとしない」、「自分自身が家族を守る用意のある者は88%」、「外国からの攻撃に対してロシアを守る用意のある者57%」、「国益をもっとも大事だとするものは6%で、80%は自分自身の利益が最も大切だと回答した」という興味ある記述をみつけた。こういう本を読むと、今のロシア人についてよく分かる。

設問)「乗り心地は路面電車とは比べものにならなかった」をロシア語にせよ。

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2012年11月09日

●和文解釈入門 第539回

私のメル友のヒサムトジーノフА.А. Хисамутдинов教授がまた日本のロシア人に関する新作Токио – Иокогама: Русские страницы(東京・横浜:ロシア人のページ)を出版された。ご興味のある方はtypress@mail.ruにて注文可能。価格は10ドルぐらいとのこと。送料は別で、支払方法などはそのメールで出版元の極東大学Издательство Дальневосточного университетаに問い合わせてほしい。二カ月ぐらいすれば電子書籍としての販売も検討しているとのこと。本書については、日本人の姓名の読み方など、ほんの少しお手伝いしたので、売れてくれればありがたいと思う。日本のロシア人にご興味のある方は、函館、長崎、日本全体についても教授は、「北海道函館のロシア人――余白のメモРусские в Хакодате, или заметки на полях」(極東大学出版部、2008年、ウラジオストーク)、「ロシア的長崎――稲佐での最後の停泊Русский Нагасаки или последний причал в Инасе」(極東大学出版部、2009年、ウラジオストーク)、「ロシア的日本 Русская Япония」(Вече, 2010, Москва)他の著書があるので、ご興味のある向きはどうぞ。

設問)「二人の人間がこれの例外だった」をロシア語にせよ。

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2012年11月10日

●和文解釈入門 第540回

(240) 「芸人紙風船」、木下華声、大陸書房、1977年
 木下華声(1911~86)は二代目江戸屋猫八であり、落語家、文士、浪曲家、喜劇役者、活動弁士などとの広い交友録を描いたもの。特に盲目小せんが1904年京都や奈良の仕事先から東京に送ったハガキ(久保田万太郎が1923年発表)が落語家の日常生活をよく示している。また志ん生は沢庵嫌いだとか、徳川無声の独自の語りの間について述べているのがよい。1951年に桂米団次が関西学院新聞に発表した芸の心得は、「自分の技が一尺進めば前方を見る目が、視力が二尺強くなる。だからこれが上達すればするほど、落語の難しさが解ってくる。そこで終点に達しようとする望みは捨てなければならぬ」とか、その師匠の初代米団次の「芸人は死ぬまで修行や」というのは、語学にも当てはまると思う。通訳やガイドも芸人と言えば、芸人のうちだろう。

設問)「ナンバーはモスクワ公共事業部が車検を実施した後に交付された」をロシア語にせよ。

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2012年11月11日

●和文解釈入門 第541回

「思い出した」を露訳するときには、完了体過去形が頭に浮かぶだろう。最新のアカデミー露露にはвспомнить/вспоминатьの完了体だけにある用法として、внезапно вернуться мыслью к чему-либо, забытому, упущенному(忘れていたことや、見逃していたことに突然考えが戻る、突然思い出す)とある。完了体は場独立型だから、体の使い分けから考えてこういう用法は当然である。例えば、Вспомнил, что обещал позвонить.(電話すると約束したのを思い出した)などと使う。

 しかし、思い出せないことがあって、友人から、あのとき、一緒にレストランで食事をしていたときに、本を返すっていったじゃないと言われて、「そういえば、そうだ」というように、明らかに場に依存する状況では、Да, я теперь вспоминаю! (Припоминаю!)と言い、Вспомнил.とは言わないはずだ。しかも、このような動詞は過程を示すことができないと考えられる。「電話すると約束したのを思い出した」のうちの「約束したのは思い出したが、何を約束したのかは忘れた」というのは、半分だけ思い出したとか、思い出す過程にあるということにはならない。なぜなら肝心の電話をするという情報がない以上、情報としてはゼロで、意味をなさないからである。このような動詞はошибатьсяなどの誤伝の動詞(和文露訳入門3-1-5)の一種と考えられる。

設問)「私がこの地位を得たのは41歳のときだった」をロシア語にせよ。

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2012年11月12日

●和文解釈入門 第542回

『ロシア史研究案内』(ロシア史研究会編、彩流社、2012年)を読んだ。1956年のロシア史研究会発足からの現代までのロシア史研究の流れをたどるという点では有意義な書物である。しかし、ソ連が崩壊したのちも、研究内容自体はソ連時代とあまり変わらないようで新味が感じられない。もう少し現代との接点を探るような視座が必要ではないか。現代日本が抱える大きな問題は少子高齢化による労働力の減少だが、それに伴って外国人労働者の受け入れ、ないしは女性の労働環境の一層の整備が求められている。ロシアは9世紀の成立当初から他民族との軋轢をかかえ、帝国になるに従って多民族国家となっていった。島国の我々よりも多民族との付き合い方についてはノウハウを持っている。また、女性進出も第二次世界大戦の人手不足を補うという意味もあって、幹部になる女性が少ないという短所もあるが、日本よりはるかに進んでいる。さらに革命前のロシアも、ソ連も、現代のロシアも犯罪という点では日本の比ではない。こういう犯罪の研究も現代社会において不可欠なはずなのに、その重要性は認識しているようだが、タブーとしてか避けられている。現代のロシアにも欧米に対する警戒心が強いが、1863年に刊行されたダニレフスキーの『ロシアとヨーロッパРоссия и Европа, Данилевский』や、ソルジェニーツィンが勧めるフロレーンスキーФлоренскийの哲学書なども、論考して行くべきではないのかと思う。こういう点を論考し、受け入れるようにしないと新しい研究者や読者は増えないだろうし、ロシア史もそれ自体の研究だけとなれば、タコが自分の足を食うようなもので発展性はない。

 その中で、本書において出色の出来なのは、第8章の「ジェンダーと社会」(広岡直子)である。1929年に農村からの逃散の結果として、都市で働く奉公人が527,000人もいて、1930年代、40年代でも奉公人を労働者過程で雇う事が可能であったというのは初耳であるし、トルグシンТоргсин(1930年代の外貨・金貨による外国人専用商店)が1934年1418もあり、砂糖1キロで売春というのも当時の状況を浮かび上がらせる点で非常に啓蒙的な論文であると思う。ジェンダーと社会は現代の我々にとっても必要なテーマであり、このテーマをより突き詰めて、広く社会に発信されることを望む。他には、日本のロシア人で精力的に本を出版されている私のメル友で、日本におけるロシア人についての著書をいくつか発表されている極東大学のヒサムトジーノフ教授について、ロシア史研究会で言及がないというのもさびしい感じがする。それと1950年代後半スターリン批判の後でも、その中身がよく理解されていなかったにしろ、第二外国語としてのロシア語を学ぶ人が一つの講座で300人を超え、教室に入りきれなかったということが末尾の座談会で述べられていたが、隔世の感がある。社会主義を実現したと思われていたソ連を理想化していたのであろう。

 これと対照的なのがロシアで出版されている、1994年から日本基金の援助で出版されている年鑑Ежегодник『日本Япония』, Ассоцияация японоведовであり、1972年から2011年まで、1990年を除き毎年出ている。ソ連時代はイデオロギー統制もあったが、ソ連崩壊後は、出来不出来はあるものの、質の高い論文が多い。演歌や若者文化についても論文を掲載するという積極的な姿勢を高く評価したい。この年鑑から通訳の時の訳語を探し出すことも多く、全冊精読したから、その価値はよく分かっているつもりだ。ソ連崩壊で資金がなくなっても、500部程度でも出版するというその意気込みがすごい。

設問)「4人家族です」をロシア語にせよ。

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2012年11月13日

●和文解釈入門 第543回

(241) 「昭和東京ものがたり」、山本七平、読売新聞社、1990年
 山本七平(1921~91)の自伝的色彩の濃いエッセーで、大正末から昭和初期が描かれている。この時代は軍縮時代であり、大正自由主義教育の時代であったと著者は述べている。山本の父は内村鑑三の弟子であり、日露戦争にも応召したとはいえ、中産階級であり、子供からの質問についてはできるだけ答えよう、ないしは答えるだけの素養のある人であり、その点山本は恵まれていたと思われる。いくつか本書で教えられたことを列挙する。体罰の必要がないくらい先生というのは偉い存在であったとか、屏風は隙間風対策で子供の枕元に置くような小さなものやふすま代の大きなものまであったという。さらに昭和天皇の御大典のときゴム袋がトイレ用として飛ぶように売れたとか、ふのりが女性のシャンプー代わりだった。男の立ち小便の習慣は戦後しばらく続き、それが外国人から少なからず批判を浴びたという。それで今ではいたるところ日本にはトイレがあり、街路もロシア人からちり一つ落ちていないと誉められるのだから面白い。本書に当時の戯れ歌があるので紹介する。必ずしもお上に庶民がへいへいしていたわけではないことが分かる。

ダンダンがダンダンで、ダンと撃たれて、ダダンと転んで(団啄麿暗殺事件)
報告を受けた天皇は驚きのあまりよろめいて言った。朕は重心(重臣)を失った。(二・二六事件)
高橋邸に反乱軍が押し寄せたとき、婦人は驚いて着物を持って言った。これ着よ、これ着よ。(二・二六事件の高橋是清暗殺)

設問)「決まった、エメラルドの町を征服しに出かけよう」をロシア語にせよ。

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2012年11月14日

●和文解釈入門 第544回

動作の着手は不完了体の特性の一つだと説かれているが、なぜそうなのかについて説明しているものがあまりないように思う。ここで気をつけなければいけないのは、着手そのものを示す動詞、начать/начинать(始める)などという動詞自体が、常に不完了体で使われるという事ではない。新規の動作を示すなら完了体を用いるし、その場の雰囲気に合わせた動作なら不完了体を用いる。ただその後につく不定形は、つまり動作の開始(着手)、継続、終了を意味する動詞кончить(終える)、начать(始める)、перестать(止める)、прекратить(中止する)、продолжать(続ける)、стать(~し出す)などと結合する不定形は不完了体となる。これは完了体の動詞は動作の経過を伝達することがまったくできないことに起因する。つまりначать(始める)ということは、その後動作が継続するか、反復することを想定し、продолжать(続ける)というのは、継続そのものであり、кончить(終える)のは継続、反復してきた動作が止るということを意味するとラスードヴァ先生は『ロシア語動詞 体の用法』で書いておられる。この例文を挙げておく。

(皆さん方のグループはもうトレーニングは終了しましたか?)Ваша группа уже кончила тренироваться?
(水を吐き出させにかかったが、時すでに遅く、助からなかった〔吐き出させることができなかったが直訳〕)Мы принялись откачивать, да время уж упустили, не откачали.


設問)「歩行者にとって、通りを横断するのは(しばしば)難問と化した」をロシア語にせよ。

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2012年11月15日

●和文解釈入門 第545回

(242) 「一下級将校の見た帝国陸軍」、山本七平、文春文庫、1987年
 山本七平の軍隊応召から捕虜になって帰国するまでを描く。ある教授が著者に日本人は事大主義者だからと述べるくだりがある。事大主義というのは広辞苑では「自主性を欠き、勢力の強大な者につき従って自分の存立を維持するやり方」とある。勢力の強大な者を「お上」とか、「権威」に読み替えれば、確かに日本人は事大主義者であろう。軍部崇拝から、敗戦後にはマッカーサー支持なりという豹変を考えるとその通りである。日本人はお上や権威を恐れるのではなく、畏れるのである。欧米はアナーキーだからキリスト教のような宗教や、ロシアならそれに変わる社会主義のようなもので国民を抑えないと暴走してしまう。日本には神仏習合があり、これは一種の多神教だから一神教と違い、絶対的なものが違うが、秩序は大事にすると言うところか。司馬遼太郎はいろいろな人と対談して、だれとでもそれなりに渡りあった人だが、山本との対談を読むと、なんとなく精彩が欠くような気がする。本書で知ったが、身を犠牲にして部下の命を救った将校たちに比べれば、口先ばかりで自決も満足にできなかった東郷英機とか海軍の将官嶋田繁太郎など恥ずべき限りである(これについては「東京裁判」、2巻、児島襄、中公新書、1971年参照)。山本はフィリピンで地獄を見た人だが、最後の最後まで事を投げず、絶対に絶望せず、絶えず執拗に方法論を探求し。目的に到達しうるまで試行と模索を重ねていける粘り強い精神力を持った人だからであろう。山本は何事にも疑問を持って臨み、その答えを探し求め、そして得るというタイプの人に思える。疑問を持って探し求めるまで至る人は少ないが、自分なりの答えを得るのは簡単なことではない。

設問)「工場は8時間3交代制で稼働している」をロシア語にせよ。

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2012年11月16日

●和文解釈入門 第546回

(243) 「狂言役者 – ひねくれ半代記」、茂山千之丞、岩波新書、1987年
平明な語り口で、狂言師の日常を教えてくれる。能・狂言師は江戸時代は士分だったとは知らなかった。そのため身分も保証されたが、民衆の生活とのつながりを失って行ったということなのだろう。狂言が中世の演劇であるという事がよくわかる。ちょっと昔は能を見る人の90%は謡の勉強をする人だったというのは興味深い指摘である。

(244) *「東京に暮らす(1928~36)」、キャサリン・サンソム、大久保美春訳、岩波文庫、1994年
関東大震災の後にはソ連の作家ピリニャークも訪日して、日本印象記などを残しているが、やはり旅人としての感想であり、日本人に対する観察にしても底が浅いと言わざるを得ない。しかし、本書は英国人女性が外交官夫人として国家主義が台頭する戦前の日本人について、本の知識だけではなく、実体験に基づく女性らしい細やかな観察眼と、日本人に対する好意的な国際化する前の日本人論になっている。英国人との比較もあり興味深い。「日本の家は和を目指す」とか「友達を家に連れてくることはない。家はくつろぎの場だから」だとか言われてみればと思われる指摘が多い。「バタくさい」の語源を本書で知った。本書に「当時洋食を口にしない多くの日本人は、油やバターの臭いを嫌います。臭いが強い西洋人の事を「バタ臭い」という表現は昔からあります」、「バタ臭いというのはその人が外国人であるという意味です」とある。風呂の入り方などもふくめ、著者が日本語に堪能なことが本書に深みを与えている。特にお辞儀についての考察など興味深い。モスクワにも滞在したことが触れてあるのは我々にとってうれしいかぎりである。ガイドの必読書。訳者の大久保美春さんの日本語もとても美しい。

設問)「生きがいは何ですか?」をロシア語にせよ。

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2012年11月17日

●和文解釈入門 第547回

(245) 「森繁自伝」、森繁久彌、中央公論社、1962年
 俳優森繁久彌(1913~2009)の自伝。満州でソ連兵の暴行を目の当たりにし、7年暮らした満州の新京(長春)からNHKのアナウンサーとして一家で引き揚げ、その後日本での生活について述べている。ちなみに中共正規軍は軍紀厳正だったとある。雑談の大家であるが、本書以外の「あの日あの夜」(中日新聞社、1986年)や「ふと目の前に」(道草文庫、1997年)でも、悪ぶることで自分をよく見せようという底意が見え見えのところも多い。満州時代の苦難については藤山寛美(1929~90)も自伝「あほかいな」(日本図書センター、1999年、1976年初出)で述べている。喜劇人の自伝としては「いとしこいし想い出がたり」(喜味こいし〔1927~2011〕、戸田学〔聞き手〕、岩波書店、2008年)も面白い。

設問)「すき間風が入らないように気をつけて下さい」をロシア語にせよ。

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2012年11月18日

●和文解釈入門 第548回

(246) 「二ッポン日記」、マーク・ゲイン、井本威夫訳、筑摩叢書、1963年
1945年から46年のほぼ1年間、47年および48年に短期間滞在し、アメリカ占領下の日本について書かれた得難いルポ。著者はロシア系のアメリカ人で本名ギンズブルグ、ユダヤ人か?クリスチャンの賀川豊彦の戦争協力とか、ロシア特派員の会話、憲法中の戦争放棄、主権在民、貴族の廃止がマッカーサー側の草稿である、つまり現行憲法がアメリカ側の押しつけであるという指摘など非常に興味深い。

設問)「彼女はどのくらい自己記録を更新しましたか?」をロシア語にせよ。

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2012年11月19日

●和文解釈入門 第549回

和文露訳をする上で、難しいと思うのは、不完了体未来形の結果の有無の確認、完了体過去形のアオリスト的用法、不完了体命令法の着手の用法、不完了体現在形の伝達型動詞群の4つであり、それ以外は人によって違うかもしれないが、それほど理解が難しいとは思えない。この4つが会得できれば、あとは自分の必要に従って、語彙をできるだけ多く覚えることになる。その中でも不完了体未来形と完了体未来形の使い分けが意識的にできるようになれば、体の用法の奥義に触れたと言える。

設問)「手術は全身麻酔でしたか、それとも局部麻酔でしたか?」をロシア語にせよ。

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2012年11月20日

●和文解釈入門 第550回

ひっつき虫というのは動物にくっついて移動する植物の種などを指すが、ロシアではрепейが代表であろう。これはゴボウрепейник (лопух)の実である。こういう単語でも日本人とロシア人では受けるイメージはだいぶ違う。1960年代の終わりとか70年代の初めに日本のモスクワ駐在員の奥様方はノヴォジェーヴィーチーНоводевичий修道院の前で雑草を取っていたという事が噂になったことがあるらしい。ゴボウを取っていたのである。日本で売っているのと違い雑草だから、アクが強く、細いので、料理用に集めるのが大変だったという。日本人は雑草まで食べるのかとロシア人は思ったらしい。лопухには間抜けという意味もあるので、いずれにしろマイナスイメージの言葉ではある。

設問)「後はご想像にお任せします」をロシア語にせよ。

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2012年11月21日

●和文解釈入門 第551回

都内観光というと、浅草の仲道通りにロシア人を連れていくことが多いが、ヒョウタンを見てあれは何だとよく聞かれる。正しくはгорлянкаだが、まず通じない。ロシアにもひょうたん型のものはあって、カボチャなどはそうである。同じウリ科なので、最近грушевидная тыкваと言うことにしている。そう言うとすぐ分かってくれる。子供向けの冒険檀などでは、この洋ナシ型のカボチャの中をくりぬいて、乾燥させ、水筒代わりにしたという描写もあるから、まんざら嘘でもないだろう。水筒はфляжка для водыと言う。

設問)「心臓のあたりに痛みはありますか?」をロシア語にせよ。

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2012年11月22日

●和文解釈入門 第552回

和文露訳入門には入れてないが、3人称の命令法というのがあるので、ここに紹介しておく。これは御存じの方も多いだろうが、和文露訳ではなかなか使えないというのが私の実感である。
5-3 3人称に対する命令法

 一人称複数における命令法「~しましょう」は、一人称複数形の不完了体未来形や完了体未来形、бытьの未来形、ないしはдавай (те) + 完了体未来形一人称複数(ないしは不完了体不定形)で示す。

(利くといいが)Будем надеяться, что подействует.
(この話はなかったことに)Давайте считать, что такого разговора не было. <Считайте, что такого разговора не было. としても同義>
(こういう話はこのぐらいにしておきましょう)Давайте оставим разговор на эту тему.

 二人称を経由した3人称への命令形、ないしは、二人称を経由しない3人称に対する命令法にはпусть (пускайは俗語表現)を用い、大きく分けて指示(命令)、放任(許可)、願望(希望・期待)の3つの用法がある。пусть (пускай) + 不完了体動詞現在形(完了体動詞未来形、быть動詞の未来形)という構文で、この構文が今すぐこうあればよいという願い、未来における実現を示すという意味で、不完了体未来形はあまり見ない。
2人称を経由した3人称の命令形というのは、例えば、
(彼に来てもらえ)Пусть он придёт.ということで、これはСкажите, чтобы он пришёл.とほぼ同義である。

(ここでは全ての鳥や獣が人語を話すという事にしよう)Пусть здесь раговаривают по-человечески все звери и птицы! <指示・命令>
(読者には笑いをこらえていただこう)Пусть читатель удержит улыбку.
<指示・命令> 
(この国は魔法の国となれ)Пусть эта страна будет волшебной. <指示・命令>
(〔みんなが〕頭を絞れば、打開策は見つかるものだ)Пусть голову ломают, выход находят <放任・許可>.
(なるようになれ)Пусть будет, что будет. <放任・許可>
(これがお前にとっていい薬〔教訓〕になればいいが)Пусть это послужит тебе уроком. <希望・期待・願望>
(いいことがありますように)Пусть вам сопутствует удача. (= Чтобы удача была!) <希望・期待・願望>
(朝まで勝利を祝う口実ができますように)Пусть будет повод отмечать победу до утра!

希望、期待、願望については文語でдаも用いられる。

(どうかこの杯(十字架の上での死)が私の上を過ぎていきますように)Да минует меня чаша сия. (= Пусть не коснётся меня это горе, несчастье.)
<イエスの言葉>

設問)「もしもし、ボリーソフですが。六本木の角から電話しています。もう30分ぐらい御社を探しているのですが、どうしても見つけられません」をロシア語にせよ。

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2012年11月23日

●和文解釈入門 第553回

(247) 「回想 音楽の都 私のモスクワ」、小野光子、朔北社、2011年
 1956年から1960年までモスクワ音楽院にソプラノとして留学、1965年から69年まで60回のソ連演奏旅行をした音楽家の自伝。当時のソ連音楽界の様子や、特にリヒテル夫妻との暖かい交遊関係は貴重な証言でもある。チャイコフスキーコンクールの審査委員もなさったので、その実際の採点法など興味深い。

設問)「呼ぶまで来るな」をロシア語にせよ。

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2012年11月24日

●和文解釈入門 第554回

(248) 「モスクワの顔」、芹川嘉久子、中公文庫、1979年
 1969年初出。1965~68年までモスクワの出版社プログレスで働いた芹川嘉久子(1924~)のモスクワ生活エッセー。文章が非常によい。この頃冷凍イカや缶詰の昆布のトマト煮が出回りだし、イカкальмарという言葉はそれまで知られていなかったことが分かる。女性らしい視線から、トーポリ(ポプラ)の綿毛は皮膚にアレルギー症状を起こしたり、呼吸器に害を与えるとか、葬式の様子、薄い紫色の染髪剤ヘンナхна(著者はロシア語のフナと表記している)とか、ブロンドの娘は黒い眉を幸福の申し子として珍重するとか、亜麻色(著者は銀色に似たと表現しているが、ロシア女性に多い髪の色)の髪が最も好まれる、ソビエトでは女のズボン姿が極端に嫌われるとか、3倍ウハーтройная ухаという小さい魚を選んで大鍋のたぎった湯に放り込み、しばらく煮てから魚をすくいだし、今度は忠暗いのを入れて、これも知るに味が出たところで捨ててしまい、最後にとっておきの大きな魚をぶつ切りにしてスープで煮るという、三平汁のようなスープなど興味深い。革命50周年記念日の1967年11月をめどにソ連でも週5日労働制が導入され、デパートや商店が日曜休日となり、それまでは土曜の勤務は午後3時までというのは知らなかった。

 ドルの店(ベリョースカ)が赴任の半年前にオープンしたとか、訪問乞食(ジプシーらしい)という話も興味深い。ロシア人の迷信深さにも触れ、床に誤ってフォークを落とすと男の客が、スプーンだと女の客が来るとか、空のバケツを持った女と出会うとの縁起が悪いとか、ハンカチのプレゼントは喜ばれず、お返しに硬貨を渡すとか知らなかった。マーヤМайяは革命後にできた名前(5月の女性形)であるというのもそうだ。ロシア人に聞くと一番いい時代というのは1970年前後だと言う人が多い。ソ連人がまだ誇りをもって生活していた時代のモスクワを活写している。この時代のサナトリウムを体験したかった。本書に出て来るソビエトグラフのカワゴエさんは本稿でも紹介した川越史朗さんであろう。これよりちょっと前のフルシチョフ時代については、1961年に訪ソした大宅壮一(1900~70)の「ソ連の裏街道をゆく」と「この目で見たソ連」(ともに大宅壮一全集第21巻所載、蒼洋社、1981年)がバランスのとれた偏りない目で見たソ連を活写している。ヤルタでジャズシンガーのウチョーソフУтёсовの公演を見て、アメリカ仕立てのジャズにコミカルな要素を入れていると誉めている。生でウチョーソフ見たのはうらやましい限りだ。

設問)「火事だ、みんな起きろ」をロシア語にせよ。

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●和文解釈入門 第555回

(249) 「犬が星見た」、武田百合子(1925~1993)、中公文庫、1982年
1969年に夫で作家の武田泰淳(1912~76)、友人の中国文学者竹内好(1910~77)とともに、行きはナホトカまで船で、その後飛行機で、イルクーツク、ハバロフスク、ノヴォシビールスク、アルマ・アタ、タシケント、サマルカンド、ブハラ、再度タシケント、レニングラード、モスクワ、ストックホルム、コペンハーゲンを回り帰国した。夫婦の最初の海外旅行である。きどりや衒いのない文体だが、時折少女のようなおずおずとした、それでいて生のままの印象が語られる。一緒に旅した夫や竹内好、80過ぎの銭高老人などの横顔についてもよく描かれ、著者の温かい人柄がしのばれる。片言のロシア語も旅先で臆することなく使っている。帰りの飛行機で竹内がポルノ持ちこみをしり込みしたときも、代わりに著者がカバンに入れて日本まで持って帰るというなど、男どもよりよほど度胸がある。毎度の食事についても細かく記述し、ビールらしきもの、色だけビールで味は違うとか、「女子トイレで、立ったまま用を足している人もいる。太り過ぎてしゃがめないのかもしれない。その勢いのよさ。めいめいの湯気が立ち上っている。扉も衝立もない」とあるのは書いた方もすごい。私がソ連を初めて訪れたのは1979年だから、ナホトカまでの船旅も知らないし、トビリシなどは行ったことはない。自分の全く知らない40年以上の前のソ連にタイムスリップしたようでとても楽しい。表題は夫の泰淳が「百合子はイヌだよ。どこへ行っても、臆面もなく、ワン、なんていっているんだ。何も分からんくせにな」と言ったことから取ったものらしい。今までいろいろな人が書いたロシアやソ連見聞記を読んだが、私が思うにはこれがベストである。

 「モスクワ特派員報告」(今井博、岩波新書、1985年)はこの後の1978年から1983年までモスクワに毎日新聞社の特派員として駐在した経験を物語っていて、私が駐在する直前のモスクワのことなので、なおさら興味深い。元秘書の母マリヤ・ポポーワМария Поповаがチャパーエフ第25師団最後の生き残りで機関銃手アーンカАнка пулеметчицаのモデルだったとは知らなかった。

設問)「痛くなったらこの薬を飲んでください」をロシア語にせよ。

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2012年11月26日

●和文解釈入門 第556回

「ひょっとして、そこには住んでいる人がいないのですか?」という文には、Может быть, там никто не живёт?と訳すのが普通だろう。никтоを使うから動詞は単数になるが、使わなければ、Может быть, там не живут?と3人称複数形が出てくる。これなども、あるかどうか、いるかどうか分からないものには複数が出てくるという例であろう。

設問)「僕は太りやすい体質だ」をロシア語にせよ。

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2012年11月27日

●和文解釈入門 第557回

短文をできるだけ多く丸暗記して、その中から体の用法を見極めようとすれば、それは帰納的な学習方法であるが、言うは易く行うは難しである。覚える短文の量も、いろいろな状況のものを何千ぐらいも覚える必要があるだろう。そうなると、十年も二十年もかかるような気がする。それよりも体の使い分けをよく文法的に理解し、演繹的に勉強した方が、自分が知らないような体の使い方に出遭っても、応用力という面から考えて対応できる可能性が高い。和文露訳入門を使っての体の用法だけの学習期間なら、半年か1年くらいだろうし、その中で例文を暗記すれば一石二鳥である。演繹的な方法でも短文の暗記は必要だが、丸暗記ではなく、理屈を理解して上でのことだから、大人になってからでも記憶に定着する確率は高いと思う。

設問)「タバコをくわえた女の子なんか見られたものじゃない」をロシア語にせよ。

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2012年11月28日

●和文解釈入門 第558回

児童文学を読んでいるとよいのは、若者向けの週刊誌などと違って、新語、俗語、隠語や流行り言葉を使っておらず、編集者が吟味した正しいロシア語で表現されているということで、我々のようなロシア語の学習者も安心して読める。また会話表現に使えるものが多いと思われ、私のようなロシア語の会話用語彙収集家にとってはありがたい存在である。それでも、最近次のような表現を目にした。

Вот будет рассказов в Айове!(アイオワで話をするには十分なくらいだ)

なぜрассказовと複数生格になるのだろう?ミスタイプか?児童文学でもミスタイプはあるが、その数は一般の読みものよりも少ないような気がする。それはページの量が少ないものが多いのと、編集者も未来の世代のためだから、より一層校正に力を入れ、なおざりにはしないという事からかもしれない。考えた末、このбудетは、「もう十分だ、そのくらいにしとけ」というようなдостаточно, довольноの意味で用いられているのではないかという事である。それなら複数生格が来てもおかしくない。それが今のところの私の解釈である。

設問)「この点については、彼にはやりがいのある任務のように思われた」をロシア語にせよ。

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2012年11月29日

●和文解釈入門 第559回

技術通訳をしていると、技術者がロシア語を覚えた方が、技術者が技術用語にも通じているので、通訳自体がうまくゆくという事を主張する人が結構いる。一見正しいようだが、大きな勘違いがいくつかある。技術といっても、鉄鋼と化学プラントでは使う用語も違うし、鉄鋼と言ってもプラント用、自動車用、造船用では使う鋼が違う。このように現代では技術自体が非常に細分化されている。例えば、「サワー環境の井戸でSSCCが起これば」という文を露訳することになったとしたら、素人のみならず、技術者と言っても、油井管の専門家でない限りチンプンカンプンだろう。通訳するときにプロの通訳が気にかけているのは、サワー環境とかSSCCという語彙ではない。こういうのは事前に調べるか、通訳を依頼するメーカーに予め尋ねておくのは当然のことだ。聞かない限り、この忙しい世の中、メーカーの方から教えてくれる場合はほとんどない。サワー環境сероводородсодержащая средаというのは硫化水素の含むガス井か油井скважинаで、有毒だし、浸食性も高い。それ以外の環境はスイートということになる。SSCCというのは硫化水素応力腐食割れсероводородное коррозионное растрескивание под напряжением (СКРН)のことである。通訳する上で問題なのは、そういう技術的な語彙ではなく、起こるのが、具体的に1回なのか、繰り返しの話なのか、つまりどの体を使うべきか、単数か複数か、主語はどうするのかを瞬時に判断しなければならないということである。技術通訳では主語はяではなく、мыとвыにするか、できるだけ不定人称文にして、主語を出さないような工夫をする。技術通訳でも医療通訳でも単語を並べれば通訳が済むと言うわけではない。正しい通訳をするためには、体の使い分け、時制や法(命令法や不定法)をよく理解していないとできないのである。一人前の技術者になるのには何年もかかる。同様に一人前の通訳になるのにも何年もかかるわけで、技術者と通訳では職種が違うと言う事を忘れているのだ。一人前の通訳が何年も必死に努力してロシア語をマスターしたというなら、確かにそういう人の技術ロシア語には見るべきものがあるが、技術の分野も広いから一人でマスターすることは不可能である。高専や理系の大学、ロシアで理系の大学を卒業して通訳をしている人は知っているが、一流の技術者出身で一流の技術通訳というのは知らない。世の中それほど甘くはない。

 医療通訳でも、今は素人の、医学について知識のない通訳が医療通訳をしているが、これは人の命に関わることであり、医師や看護師などの医療従事者にロシア語を勉強してもらうべきだと考える人もいる。そうであれば通訳も随分なめられたものだ。医者や看護師になるためには国家試験に合格しなければならず、何年も勉強し、そこから実際に病院で実習して一人前になるのであろう。それでは通訳は1年か2年片手間に勉強して、プロの通訳として通用するものなのだろうか?プロの通訳は何年も勉強して、しかも金銭的に報われる仕事ではないのにその勉強を続けている人が多い。医者や看護婦は患者の治療が仕事であり、医療通訳はロシア人の患者と日本人の医師や看護師との意思疎通が仕事である。これをはきちがえてはいけない。医療関係の語彙を覚えて、単語を並べるだけで通訳ができると考える方がおかしい。患者の命にかかわるなら、それこそ医学の用語をよく知っているプロの通訳に通訳を依頼すべきだと思う。

 医者だって外科と内科では内容が随分違うというのは素人でも分かる。医療通訳をするのであれば、医者や看護師がロシア語を覚えるよりも、政治経済や文化系のプロの通訳やガイドが医療用語を覚えた方が通訳自体の質は高い。これは技術通訳の例と同じである。医療用語でも、英露の語彙集はネットでも手に入るし、和英も同様である。アメーバ性髄膜脳炎амёбный менингоэнцефалитという言葉があるが、脳の炎症(あるいは病名)だと分かるだけで、内容を深く知らなくとも通訳はできる。医療関係の病名は英語とロシア語が非常に似ているから、コツを覚えれば簡単で、多分amoebic meningoencephalitisとでもなるのだろう。逆もまた然りである。ただこういう難しい病名はともかく、日常的な病名などは英語とはまるっきり違うので、一から覚える必要がある。

 医療通訳で一番多いのは、健康診断や検査の通訳であり、複雑な脳手術に関してその場で医師と通訳する機会はあまりないであろう。こういうのはセミナーで扱うもので、セミナーなら前以て用語を調べる時間はあるのが普通だ。医療通訳を目指す人は、まず日常の通訳ができること、100%相手のロシア語が聞きとれて、体の使い分け(時には間違うにしろ)、時制や法が完全に理解できていることが前提であり、その後、健康診断や検査の語彙を自分で調べれば、基本は大丈夫と言える。ロシア語が中途半端な医療従事者に通訳してもらう方がよっぽど患者の命にかかわると思う。

 需要があるなら「医療ロシア語」という参考書を書いてもいい。資料はこの40年集めたものがあるし、その一部はこのコーナーでも紹介している。初級から医療ロシア語中心に勉強したいという希望者がいれば、病院の受付、検査の語彙を中心に初級用の授業を設定することも可能である。その場合はメールにて連絡願う。有料だけど。

設問)「患者は片頭痛(の症状)に悩んでいる(片頭痛の症状を訴えている)」をロシア語にせよ。

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2012年11月30日

●和文解釈入門 第560回

小説などで、「これはどういうことだ?」という文があって、その後に、「ははーん、分かったぞ(なるほどね)」という独り言が続くときは、二つ目の文にはロシア語で、Понимаю!となるが、随分不思議だと思っていた。Понял!というなら、結果の現存だから、その場で理解したという事だからまだ分かる。不完了体のпониматьには「分かっている」という状態の動詞の意味があるが、前から分かっているなら、「これはどういうことだ?」と自問自答すること自体が非論理的である。そこで、これは相転移動詞(誤伝の動詞改め)的な用法だと思う。Понял!と完了体過去形の結果の現存の用法を使うと、その場で理由を知ったということになり、「俺としたことが、そんなことはとっくに分かっていたはずだ」というニュアンスが出ない。それで、「これはどういうことだ?」と考えてから、理解したが、その動作は終わっている、しかしたった今終了したのではないというニュアンスを伝えたいということではなかろうか?その証拠に、Вот это я понимаю!という慣用句は、誉めたり、感嘆したりする時に用い、「これこれ、これだよ!」という感じで、例えば、生まれて初めて海を見たときに、それが想像をはるかに超えていたというときなどに使うが、状態の意味ではないことは明らかだ。一つの体のペアの動詞にも、文脈によりいろいろな用法があるわけで、児童文学やアネクドートなどは文脈も分かりやすいので、そういう辞書に載っていないような用法を知る上で、また日常生活で使う和文露訳の語彙を知る上で非常に役に立つと思う。

設問)「私の犬は虫も殺さないの」をロシア語にせよ。

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2012年12月01日

●和文解釈入門 第561回

(250) 「女三人のシベリア鉄道」、森まゆみ、集英社、2009年
著者は2006年にシベリア鉄道でロシアを旅した。与謝野晶子が1912年に、中条百合子が、林芙美子が1931年にシベリア鉄道で旅したが、その3人の旅を点描に、自らの旅の印象を語っているが、著者自身の印象の方がはるかに面白い。

(251) 「縮み志向の日本人」、李御寧、講談社学術文庫、2007年
日本人論の陥りがちな、対西欧との日本だけではなく、もっと広い意味での韓国・中国の視点からの日本人論であり、ミクロという切り口から日本人論で視野が広く、よほど面白い。これなども、わずかに垣間見えるロシア人については、ステレオタイプのソ連型官僚主義だけのようで、世界的視野でものを見ることの難しさを教えてくれる。ミクロと言うなら、ノミに蹄鉄を打ちつけたロシアの職人の話であるレスコーフЛесковのЛевша(ぎっちょ)とか、仏壇に対するалтарьなど、ロシアにもミクロ的な世界観はある。この点からロシアの東洋性を見てみるのも面白いかもしれない。

設問)「彼女を起こしたが、起きなかった」をロシア語にせよ。

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2012年12月02日

●和文解釈入門 第562回

前回の設問について少し説明する。「日本語の教科書」(畠山雄二編著、ベレ出版、2009年)は英語と日本語を比較するという観点も交え、日本語について分かりやすく説明しているというユニークな著書だが、それにによれば、日本語でも、状態変化動詞で結果の状態まで含意しないものがあり、「燃やしたけど、燃えなかった」、「沸かしたけど、沸かなかった」、「切っても切れない縁」などの例があるという。私の知る限り、ロシア語と一致するのは前回の設問と、「電話をかけたが、かからなかった」ぐらいだろう。他の動詞では接辞до-сяのもので似ているものがある。

Звонил, но не дозвонился.(電話をかけたが、かからなかった)
Стучал, но не досутчался.(ノックしたが、出てくれなかった)
Звал, но не дозвался.(呼んだが、応答はなかった)
Подумал, но не додумался.(考えたが、思いつかなかった)
Он ждал её, но не дождался.(彼女を待っていたが、待ちくたびれた)

設問)「磁界の計測にはどんな装置をお使いになりますか?」をロシア語にせよ。

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2012年12月03日

●和文解釈入門 第563回

なぜ和文露訳なのに、しつこく日本語文法について書くかというと、私は日本語とロシア語は語族も違うが、同じ人間の言葉なのだから、人間の言語には普遍的特徴があると考えるからである。これはチョムスキーの生成文法の考え方に近い。日本語語用論の本を読んでいたら、遂行動詞というのがあって、主張、謝罪、感謝、誓約、宣言、命令、依頼、質問、警告、助言、提案などの発話行為を意味する動詞であり、英語に比べると日本語の使用頻度は少ないとされる。「二度とこのような事故を起こさないと誓います」とか、「被告を懲役5年の刑に処する」という例が挙げられており、これを遂行文という。これは正に私の考える伝達型動詞である。それで今後は用語を遂行動詞に改めさせてもらう。一番初めにつけた動作遂行の動詞というのに近いのはなぜかうれしい。用語については既存の専門用語を使いたいのだが、自分の不明のために知らないものも多い。それで一応勝手に名をつけて、今回のように訂正するというお恥ずかしい羽目になる。ご迷惑をおかけするがご寛恕のほどをお願いする。
その遂行動詞でよく使われるものは、上記の発話行為であり、複数も含めて、一人称で使われる会話やメール・手紙などの決まり文句でもある。次に挙げるものは全て遂行動詞である。

Благодарю. (Приносим благодарность)〔ありがとうございます。(感謝申し上げます)〕
Предлагаю тост за Ваше здоровье! (Пью за Ваше здоровье! Поднимаю бокал за Ваше здоровье!)〔ご健康を祈って乾杯〕
Желаю вам успехов!(ご幸運をお祈り申し上げます)
Выражаем глубокое соболезнование.(哀悼の意を表します)
Приносим извинения. (Прошу прощения. Прошу извинения.)〔申し訳ありません〕
Я приглашаю вас в театр.(劇場にご招待申しあげます)
Прошу зайти к нам.(お立ち寄りになるようお願いします)
Шлю вам поздравления. (Посылаю вам пожелания.)〔お祝い申し上げます〕

 上の文の動詞は状態、過程、予定、反復を示していなことは明白である。これらがすべて遂行動詞だと言うのは、発話の瞬間から動作が始まり、発話の終了で動作が終わるからである。Приносим извинения.はИзвините.と同義であり、完了体命令形が来ているのは、動作(お詫びすること)の完遂を示しているからである。同様に、Шлю Ване привет.(ワーニャによろしく)を命令法にすると、Передай Ване привет.(Передавай Ване привет.は場に依存した表現で、よろしくと言われるのが期待されている場合に使う)と遂行の意味の完了体命令形が出てくる。上の文に意味の重なるЖелаю, Прошу以外の文に、хочу, хотим をつけても意味は変わらないが、動詞は全て完了体不定形になって、完遂の意味を示すことになる。動作が終了するというのは遂行動詞の特徴でもある。Я приглашаю вас в театр.はЯ хочу пригласить вас в театр.とほぼ同義だが、完了体不定形を使っていることで、動作(招待する)という動作が完遂していることが分かる。主語を三人称にしても、遂行型の意味になる場合もある。

Он пришлашает вас в театр.(彼がみなさんを劇場に招待します)

設問)「その武器はあなたのものですか?」をロシア語にせよ。

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2012年12月04日

●和文解釈入門 第564回

動詞以外にも遂行型と言える用法がある。例えば、「同意します(賛成です、OKです)」と言うときの、Согласен. (Хорошо. О'кэй.)や、述語としての、За.(賛成)とかПротив.(反対)やБлагодарен.(感謝します)などもそうであろう。つまり動詞以外で述語用法があるものに、遂行型の用法があることになる。これらはすべて、発話して動作が始まり、発話の終了と共に動作が終わるという意味で遂行型である。

設問)「もっとも確実に幸せになれる道は、幸せになることを願うのではなく、他人を幸せにすることにある」をロシア語にせよ。

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2012年12月05日

●和文解釈入門 第565回

ロシア語を上達するコツはロシア語で考える癖をつけることだと主張する人がいるが、自分の経験から見て、二十歳ぐらいでロシア語の勉強を始めた日本人が本当にロシア語で考えることができるとは思えない。短文とか切れ切れの語句ならロシア語が頭に浮かぶことはある。例えば、ロシア語の文章を読んでいて、正しい日本語は浮かばないが、その文の意味するもやもやとしたイメージは湧くということはよくある。これは日本語教育では中間言語と呼ばれるものである。しかし、通訳を目指すのなら、常に正しい日本語(和文露訳の場合は正しいロシア語)に置き換える練習をしていないと、いざ通訳というときに、イメージだけを先方に伝えようとして、何を言っているか分からないという事もありうる。日本人だから日本語ができるのは当然と考えるのではなく、日本語のニュアンスなど、文学書や外国人向けの日本語の参考書をできるだけ多く読んで、日本語にも磨きをかけることが必要である。

設問)駅の洗面所の張り紙「いつもきれいにお使いいただきありがとうございます」をロシア語にせよ。

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2012年12月06日

●和文解釈入門 第566回

日本語教育の参考書に、高コンテキスト(高文脈)文化と低コンテキスト(低文脈)文化というものがあり、日本人は前後の状況や文脈に依存して、言葉にはっきり出さずに意図を伝える傾向にあるが、これを高コンテキスト文化と呼んでいる。この代表が、日本人やアラブ人、ギリシャ人で、この逆が低コンテキスト文化であり、状況や文脈に依存せず、はっきりと言葉に出し、言語メッセージそのものを重視するもので、ドイツ系スイス人がその程度が最も高く、ドイツ人、北欧人、アメリカ人などがその代表とされる。多民族国家であれば、低コンテキスト文化となる傾向があると考えられるから、ロシア人も低テキスト文化圏にあると考えてよいと思う。第502回の雪国の露訳や、そのほかのいろいろなロシア語の文を見ても、かなり論理的だなと感じるときも多いのでなおさらそう考える次第である。

 日本のトイレはロシアの有料トイレに比べてもきれいだと思うが、それでもトイレは汚いと考える人は多いようで、男子トイレの朝顔(小便器)に黒丸(弓道の図星)を描き、そばに「一歩前進」と書いてある例も見る。前回の設問の、駅の洗面所の張り紙でよく見かける「いつもきれいにお使いいただきありがとうございます」という文言は、トイレが汚いという現実があって、それを改善するために、駅員自身も清掃業者に委託してトイレを掃除するが、乗客にも暗に協力を求めているわけである。ただ、「トイレはきれいに使って下さい」と書けば、当然のことながら切符代に駅のトイレ掃除代も含まれていると考える人もいるだろう。そこで、義侠心というか、道義心やエチケットに訴えて、トイレがきれいであれば乗客自身も気持ちがいいだろうし、角が立つようなことは避け、露骨に書くのは野暮という事からこういう書き方になったのだろうと推測する。このように直接分かるようにお願いするのではなく、さりげなく書いても、高テキスト文化の(単一民族国家に住む)我々日本人は理解する(と思う)。これをこのまま直訳して、ロシア人に伝えても、日本人は変だ、トイレがきれいだと、鉄道会社がお礼を言う変な国だとでも考えて、日本では赤信号になれば車が通っていなくても横断しないというのと同様、笑い話の種になるだけであろう。

設問)「どこに行ってたの?」をロシア語にせよ。

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2012年12月07日

●和文解釈入門 第567回

ロシア語もそうだが、ロシア語が使えるようになるために、初級の文法だけはやって、後の文法については、説明がつかないとばかり、丸暗記に徹してしまうという人も多いだろう。暗記一本に絞ることによって、暗記の効率も上がるが、語学を学ぶ上で一番大切なことを失うということでもある。それはロシア語に関して、疑問を抱くことや、考えることを止めてしまうことである。何故こうなるのか考えても、簡単には答えが出ないし、周りに教えてくれる人もいない。中級より上のロシア語の参考書も数も少なく、内容的にも隔靴掻痒の感じである。そこで思考ストップしてしまう。そうではないのだ。何でも疑問を抱き、その疑問をメモしておくことが大切である。よく突き詰めて考えることにより、時間はかかるが、いつかは正しい答えに行きつくのだ。村上春樹のベストセラー「1Q84」に、「豊かな智恵を育むのに必要とされる健全な疑念」という言葉があるが、まさにこの健全な疑念がなければ、人生はつまらないものになると思う。人は生まれながらないして、この健全な疑念を持っているのだが、歳を経るに従い、持たなくなる人が多くなるように思う。

設問)「この件をこのままにはしておかない」をロシア語にせよ。

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2012年12月08日

●和文解釈入門 第568回

設問の短文は露訳するときに不完了体にも、完了体にも解釈できる場合があるが、どちらでもよいというわけではない。もっというと、どちらでもよいのだが、実際に通訳するときには、文脈や前後の発言に応じて、どちらにするかが分かるのが普通だ。ただ通訳していて、どちらかが分からないときは、「今回だけの話ですか?」(これなら具体的1回行為ということで完了体)とか、「一般的な話ですか?」(これなら、繰り返しということで不完了体)と聞くことはある。だから、設問の短文が二通りに解釈できる時は、反復と理解したので不完了体を使ったが、具体的1回行為なら完了体を使ってこうなると答えるのが正しい回答の仕方である。実際の通訳の現場では、特に商談では、曖昧に聞こえることがあったら、通訳するときに確認しないと、誤訳して相手に損害を与えてしまう事がありうる。だから、常にこの場合は完了体、この場合は不完了体というように体の使い分けを理解しておかないで、聞く方に解釈をお任せというのは、それはプロではなく、素人である。

設問)「彼は1年前にここに来ている」をロシア語にせよ。

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2012年12月09日

●和文解釈入門 第569回

〔ご健康を祈って乾杯〕に遂行動詞を使おうとして、Предлагаю тост за Ваше здоровье!やПоднимаю бокал за Ваше здоровье!とするのはよいが、Пью за Ваше здоровье!だと、発話が終えるまでに、ウオッカを飲まなければならないような気がする。これでは一気飲みを勧めているようなもので、まずい。それならПью を不完了体現在形の直近の予定の用法と考えればよいか?いずれにせよ、飲むことに変わりがない。ロシア人と飲む時は一気飲みなので、乾杯の時以外は絶対に酒を口にしないという鉄則を忘れないようにしたい。日本人は乾杯の時以外にも、勝手にチビチビ飲むので、そういう事のしないロシア人より先に酔う。ましてや、相手は二日酔いの元であるアセトアルデヒドの分解能力がある酵素をほぼ全員がもっているロシア人(白人)であり、我々モンゴロイドは半数の人しか持っていないということを肝に銘じるべきだ。

設問)「私があなただったらはっきりさせますがね」をロシア語にせよ。

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2012年12月10日

●和文解釈入門 第570回

電話における一人称の決まり文句でも遂行動詞の例がある。次の文でも発話と同時に動作が始まり、発話の終了と共に動作が終わる。

Алло, говорит Сато.(もしもし、佐藤ですが)やВас беспокоит Сато.(佐藤と申しますが)でも、見かけは三人称だが、名を名乗っているだけで、実際は一人称であり、人称の転用と呼んでもよい。
Слушаю.(私ですが)も遂行動詞である。

設問)「警備員は各階に散った」をロシア語にせよ。

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2012年12月11日

●和文解釈入門 第571回

先日近くの川のほとりを散歩していたら、おじいさんが何羽かの鳩に餌をやっていた。この辺は鳩に餌をやらないでくださいという立て看板があるのだが、鳩は最近見かけず、カモメが我が物顔にのさばっているから鳩自体が珍しい。案の定カモメが何羽も寄って来るのだが、そのおじいさんがしつこく追い払う。餌はやりたいが、鳩にであって、カモメではないことがわかる。最近は日本では市中でもイノシシやシカが徘徊し、餌をやる人もいるというのをテレビで見た。これは禁止行為なのだが、やっている人は、動物がねだる姿が可愛いのか、いいことをしているのだという意識があるのだろうから簡単にはなくならないだろう。

 それで思うのは、乞食への施しである。1990年代の初めには、ロシアでも路上の物乞いの他に、地下鉄の電車にもいた。当時のロシアにも情け深い人は多く、苦しい生活の中でもなにがしかの小銭を渡していた。あるとき、二十歳ぐらいの娘さんが車中で中年の物乞いに施しをしたのだが、こんなわずかっぱかしの金なんかいらんとこれ見よがしに大声で叫び、小銭を放り投げた。娘さんは真っ赤になって下を向き、他の乗客も何かいたたまれないような気持ちで無言だった。その物乞いは堂々と隣の車両にのっしのっしと行ってしまった。こういう事があっても、娘さんは施しをやめないだろうし、あの物乞いも小銭だったら、同じように銭を放り投げるのだろう。人生で目に焼きつく場面という場面がいくつかあるが、ナホトカで、公園に店を出していた男を、ショバ代の関係だと思うが、当時流行りのヤクザがいちゃもんをつけ、その男が立ちあがった瞬間、上段回し蹴りで、それこそ一撃で倒したのを見たのぐらいだ。倒れた人はピクっととも動かない。こういう実物は映画より刺激的だ。

 モスクワの駐在員が日本からの出張者に対して、まず注意するのは人前で財布を出さないということである。必ずどこかでだれかが見ていて、目をつけられてスリに遭う事になる。だから乞食には絶対に金をやらない。どうしてもやりたければ、小銭を用意しておく。乞食のほとんどはプロであり、ショバ代をヤクザや乞食の親分に渡しているのが普通だ。教会近くなどの一等地はショバ代も高い。それに一人に金をやれば、カモだと思い、他のも続々来るから、万引きの被害に遭いやすいからやらない方がよいと言っておく。日本人は我々世代でも、サザエさんの初期の巻に載っているような、おこもに空き缶ですわっている乞食というのは見たことがないはずだ。小さい頃傷痍軍人が物乞いをしたのは覚えているが、本当の乞食を見たことはない。ただ最近皇居の近くで、着物を着た女性が茣蓙に座って、本か何かを置いて座っていたのは見たことがあるが、気が触れていたのかもしれない。

 乞食を知らないから、施しのやり方も知らない。それでやらないということになる。私も施しをしないが、一度だけしたことがある。1996年8月にウランバートルに出張したときに、当時野火のせいで、孤児が増えていた。着いてすぐ街を散歩していたら、9歳ぐらいの丸刈りの子がまとわりついて、身ぶりで恵んでくれという。何とか振り切ったが、次の日もホテルの前で待っている。その後地方に行って、ウランバートルに戻って、明日はアルマトゥイ(当時はカザフスタンに駐在おり、アルマトゥイは首都だった)に帰る日というときも、見かけた。そのときはさすがに諦めたのか寄ってこなかったが、何となく気になって、ポケットに持っていたモンゴル紙幣とコイン合わせて20ドル分くらいを押し付けるように渡した。もう使わないということもあったのだが、何となくという感じで、憐みを感じたわけではない。後で、モンゴルの孤児は冬零下の寒さなので、下水管で暮らし、ネズミを獲って生き延びているというニュースを知った。あの子はどうしているだろう。感傷というわけではないが、なんとなく鳩と老人を見て思い出した。それ以降も、モスクワでもどこででも、施しをしたことはないし、これからすることもないだろう。

設問)「木造建築は火災にきわめて弱い」をロシア語にせよ。

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2012年12月12日

●和文解釈入門 第572回

時間を示す語句が動作の過去の一点を示すならば、動詞には完了体過去形を用いると述べたが、そのような語句がなくても、動作が過去の一点に行われたという意識があれば、完了体過去形が来る。自転車に乗れたり、スケートが滑れるということは、過去のある一点において初めて乗れるようになったり、滑れるようになったときがあるということである。はっきり小学二年生のいつと覚えている人もいるかもしれないが、覚えていない人も多いだろう。しかし、いつかは知らないが動作が過去の一点で行われたということが、明らかであれば完了体過去形が来る。このように明示するどうかは別にして、「初めて」という意識があれば、過去の一点を示しているという意味から完了体過去形との結びつきが多くなるのはこのためである。動作が過去の一点で起こったというのは、一度(1回)だけ起こったということなので、「一度~した)」、「一度も~しなかった」〔否定の強調〕という動詞句にも完了体が出やすいという事になる。現在の時制での「一度も~しない」という場合は、例示的用法の派生で、潜在的可能性をも否定するわけだから完全な否定、つまり否定の強調になる。

(その小説は1862年最初に出版された)Роман впервые появился в печати в 1862 г.
(私は初めてこの公園でスケートを滑った)Я впервые покатался на коньках в этом парке.

設問)「凡人はそれを侮辱と取る」をロシア語にせよ。

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2012年12月13日

●和文解釈入門 第573回

語用論прагматикаというのは会話の含意の解明であり、ジョークのオチや比喩の本質の解明の手段でもあり、文脈に依存する。これが文脈に依存しない意味論との違いである。語用論では、話し手こそが言葉の宇宙の中心をなし、人称体系の中心は「私」であり、空間体系の中心は「ここ」であり、時間体系の中心は「今」であると教える。語用論の入門書を読む限り、英文和訳において、文学作品のニュアンスを正確に理解するために語用論を活用しているように見える。つまり日本語とロシア語の語用論を研究すれば、露文和訳、つまりロシア文学の翻訳のニュアンスをより正確につかめるということになる。私自身は、露文解釈にも興味はあるが、語用論を和文露訳に活かし、多くのロシア語学習者がロシア人に聞かなくても正しいロシア語が話せるようになればよいと考えている。正しいロシア語かどうかはロシア人に聞けば教えてくれるだろうが、元の日本語からの正しい露訳なのかとか、見てもらうロシア語がロシア人に直された場合、間違いの理由は何かということに文法的に日本語で答えられるロシア人はほとんどいないだろうし、それでは学習上の進歩が望めないと思う。

設問)「このサインペンはよく書けない」をロシア語にせよ。

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2012年12月14日

●和文解釈入門 第574回

例示的用法に完了体未来形が使われるという事がよく分からない人もいると思うので、私なりの解釈を書いて見る。完了体未来形というのは未来において具体的な1回の動作が完遂することを示すわけで、いつかということは動詞だけでは分からない。直近であれば、こらからすぐということで、和文露訳入門の4-2-1の用法である。それ以外では、いつ動作が起こるかは不明なわけだが、動作が起これば完遂するという事で、それが潜在的な可能性を生むことになる。そのため過去の時制で例示的用法が使われるときも、この潜在的可能性を形式として示すために、完了体過去形ではなく、完了体未来形が使われるのだと思われる。完了体過去形を使えば動作が完遂したというイメージががあるからだ。

 この用法は「何かあれば~する」という潜在的可能性の提示、不規則な繰り返し・習慣を示す。不規則な繰り返しというのは、「起こるかもしれないし、起こらないかもしれないが、起こったら~する」という意味であり、定期的であるとか、何度も起こるという事を前提とした不完了体現在形の不規則な繰り返しとは異なる。そういう意味で、例示的用法には具体的な文脈が必要ということになり、そういう意味でも完了体未来形を用いることになる。そのためこの用法を使えは、平板な不完了体の反復・習慣と違い、完了体の持つ主観的ニュアンスが出るので、生き生きとした表現になる。不規則な繰り返しといっても、とりあえず、最初の具体的な動作がイメージとしてあるわけで、初めから動作が繰り返されるということをイメージしているわけではないのが不完了体との違いである。

Если что, я всегда вам помогу.(何かあったらいつでもお助けしますよ)
Я всегда помогаю родителям.(私はいつも両親の手伝いをします)

設問)「電動歯ブラシは電池で動く」をロシア語にせよ。

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2012年12月15日

●和文解釈入門 第575回

(253) 「敗北を抱きしめて」(2巻)、ジョン・ダワー、三浦陽一・高杉忠明訳、岩波書店、2004年
 日本の庶民の視点で、日本の戦後のアメリカ軍占領時代についてあらゆる事項から、日本とは、日本人とは何かを追求した良書。日本人の大勢順応主義、悔恨共同体、被害者意識により他国にかけた損害について考える余裕はなかったなどの、今に続く鋭い指摘がなされている。特に天皇の戦争責任が追及されなかったのは、マッカーサー司令部による日本支配を円滑に進めたいという駐留軍側の意向の賜物であったことが分かる。しかし、著者が理解していないと思われるのは、日本においては幕末の頃から、トップは敗戦の責任を取らないという事が常態化していたということである。徳川慶喜が腹を切ったということもなかったし、京都守護職であった会津藩の藩主なども、結局は華族に列せられて命を全うしている。詰め腹を切らされるのはせいぜいのところその家老ぐらいのものだ。天皇が退位しないことで、当時の日本人で遺憾に思った人がいたかもしれないが、庶民にとってはどうでもよいことであり、ましてや、近衛公が戦犯に指定されて毒を仰いだというのも、基本的に彼は家老クラスで、トップではなかったからという事で説明がつく。近衛は戦争責任を東条英機に押し付けて、自分はその責任から逃れようとしたが、そうは問屋がおろさなかったわけだ。東条と違って自殺できただけでも後世の受けはよい。

 戦陣訓で「生きて虜囚の辱めを受けず」と軍人に訓諭した東条英機も、たぶん(?)自殺しようと4発ピストルで撃ったが、死に切れず、回りにいた米兵の医者の輸血(血はもちろん米兵の)が成功して命を取り留めた。しかし、4発も撃って、死なない(死ねない)というのは不死身の体(?)というしかない。作家の高見順は、「なぜ東条大将は、〔自決した〕阿南陸将のごとく日本刀を用いなかったのか」と言い、フランス文学者の渡辺一雄は日記にこのドタバタ劇を愉快がり、「この不運な大将が今や混血児となる」と記している。海軍は陸軍に戦争責任を押し付け、天皇を有罪にしないためという大義名分に隠れて、嶋田繁太郎大将などはA級戦犯だったが、1948年終身禁固刑を受け、1955年釈放、1976年92歳の長寿を全うした。頭がよくて、偉いのは腹など切らないのである。戦争責任は軍部であって、天皇にはないと占領軍に働きかけたのは、田中隆吉少将、天皇の側近である木戸幸一であり、これは天皇に戦争責任を取らせたくないGHQの意向とマッチしていた。特にA級戦犯27名のうち15名が木戸によって名指しされたのである。密告者というべきか、天皇の御楯なのか、自分の助命のためなのかは知らないが、釈放されてから、腹を切ったということもなく、87歳で天寿を全うした。A級戦犯の遺族にも軍人恩給が出ているのに、千島列島でソ連軍の捕虜になった父には、当時国内ということで軍人恩給がつかず、ちっちゃな銀杯でおしまいだった。まあ世の中こんなものだろう。それでも父は生きて帰ってきたが、満州、南方、沖縄で死んだ軍人・女子供の御霊のことを考えると、こんな奴らのために無駄死にしてと、今でも胸が詰まる。
話がそれたが、天皇が腹を切るなど日本史の上ではなかったことなのである。最近、野村ホールディングのCEOが不祥事の責任を取って退任したが、これなどのも最近のことで、西洋に真似たものであろう。もう少し前なら、もっと下っ端の首を差し出して終わりだったのにと、さぞや悔しい思いをしているに違いない。戦争責任についても、臣下の責任であって、軍国主義や侵略を起こしたことではなく、聖戦に勝てなかったことに対する責任であるから、天皇自身が責任を負うという事にはならないという論理である。これでは侵略された国はたまったものではあるまい。本書に「国家の最高位にある政治的・精神的指導者がつい最近の事態に何の責任も負わないのなら、どうして普通の臣民たちが我が身を省みることを期待できるだろう」とある。その通りである。戦争責任について評論家の阿部慎之介が「日本人の大多数は、自分が愚かであったことに対し、責任を負わなければならないのだ」と指摘している。踊らされた国民も責任があるということになる。

 日本人の行動様式として、マッカーサーの股肱の臣であったフェラーズ准将が、戦前にすでに挙げていた15の特徴は、劣等感、軽信、型にはまった思考、物事を歪み伝える傾向、自己演出、強い責任感、常軌を逸した攻撃性、野蛮、頑固、自滅に走る伝統、迷信、体面の重視、感情過多、家庭・家族への愛着、天皇崇拝である。敗戦後半世紀を経て、21世紀の日本人はどのような行動様式を持つようになったのだろうか。

設問)「誰が誰に気があるか教えて」をロシア語にせよ。

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2012年12月16日

●和文解釈入門 第576回

(254) 「日本人も知らなかったニッポン」(増補版)、桐谷エリザベス、吉野美耶子訳、中公文庫、2009年
 著者が日本では外で夫婦が並んで歩かないのはおかしいとある新聞に書いていた。歩きながら話をするときに相手の顔を見れないのは不安という事もあるし、無視されているようだと思っているのかもしれない。まあ日本は道が狭いのと、男尊女卑のならいということもあるのだが、それよりも奥さまがたが自分の安全のために、何が飛び出してくるかもしれない世の中だから、旦那を先に歩かせているのだというほうがありうる話だ。保険もかけてあることだし。

(255) *「美しき日本の残像」、アレックス・カー、新潮社、1993年
達意の日本語で日本人の忘れた日本、日本文化の素晴らしさを客観的な目で教えてくれる名著。今の日本人の頭の固さや、電線を地下に埋めていないのは先進国で日本だけとか、瞬間に集中するのは日本文化の特徴だとか、現代の日本人は(書が)読めないということにコンプレックスをもっているのではないかなどの指摘は面白い。坂東玉三郎との交遊や歌舞伎の見方についても独自のものがある。感覚的というよりは分析的な日本文化の捉え方であり、捨て身にならなければ日本文化の習得は困難であるということがよく分かる。また通好みの大阪・京都・奈良案内も紹介されている。ただ残心については単に終了だと思っているようである。それは違う。通訳だけで実際にやっていないからそういう理解になるのだろう。残心というのは常に攻撃でも防御でも次の動きに移れるような心持で動作を終了するということである。これが日本の芸道に取りいれられたものである。

設問)「余はその者をつかまえた者に3000ルーブルの褒賞を出すと発表するよう命じる」をロシア語にせよ。

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2012年12月17日

●和文解釈入門 第577回

前回の回答にピリオドの代わりに疑問符をつけた方がよいというのを朝のコメントで入れ忘れた。今後のこともあろうと思うので、1、2日してもう一度私のコメントをチェックしてほしい。朝の1回だけでは私の勘違いという事も大いにありうる。間違いはその都度訂正しているので、その点ご理解願う。
12月15日の教育テレビの地球ドラマチックという番組で、「ピダハン 謎の言語を探る アマゾンの民」というの見た。ピダハン語には数、色、左右の概念がなく、時制も現在だけであり、口笛で文が作れるという。一番問題なのは、チョムスキーが唱えた普遍文法の根幹を成す再帰構造recursionがないということである。再帰構造というのは、文を無限に拡張してゆく方法で、「~ということは~であるとAが言っているのをBが聞いたとCが述べている」という類で、ピダハン語にはandやorもないという。ピダハンを紹介したダニエル・エヴェレットは元宣教師で家族と共に30年以上ピダハンと暮らし、外国人でピダハン語を話せるのは彼の元妻を入れて3人だけであるという。ピダハン族は400人余りで、ダニエルは彼らと暮らすうちに、宣教というのは押しつけであり、ピダハンは今のままで十分幸福であるということから、逆に感化を受け、無神論者となり、そのため家族とも別れざるを得なくなったという。チョムスキーはインタビューの中で普遍文法は人間の遺伝子に刻まれているのだとまで言い切っているので、ダニエルの説には非常に不愉快に思っているようだった。マサチューセッツ工科大学では既存のピダハン語の会話の音声テープから、既存のテープをコンピューターで解析した限り、ピダハン語には再帰構造はないと結論付けている。

 人類はアフリカの大地溝帯で生まれ、そこから世界に拡散していった。言葉の話せない人類が各地でそれぞれの言語を形成してゆき、人類の各部族が戦争や交易などで接触するに従い、数や色などの有利な要素を取り入れていき、ピダハン語のように、そうでない言語は消滅して行ったと考える方が自然ではなかろうか。4人の言語学者がダニエルのピダハン入りをさせないようにブラジル政府に手紙を書いた結果、ダニエルとピダハン語を研究しようとするマサチューセッツ工科大学のメンバーが現地入りできなくなったというのは、現代における魔女狩りのようなものである。結果がどうであれ、研究の機会は何人といえど奪われるべきではない。ブラジル政府は世界的な言語学論争に巻き込まれるのを嫌ったという事らしい。ピダハンにはブラジル政府の援助で、電気やテレビも入り、学校もでき、子供達にはポルトガル語が教えられている。これは結構なことだが、言語という観点から見ると、子供達には数や色の概念が入って来るわけで、ピダハン語の将来は暗いと言わざるを得ない。ダニエルには「ピダハン 言語本能を越える文化と世界観」(みずず書房、2012年)があるというので、いずれ読んでみようと思う。

設問)「このような犯罪者とどう向き合えばよいのか?」をロシア語にせよ。

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2012年12月18日

●和文解釈入門 第578回

(258) 「ジャポニズムのロシア」、ワシーリー・モロジャコフ、村野克明訳、藤原書店、2011年
 画家レーリヒとジャポニズムについては日本年鑑の論文で読んだことがあるが、詩人ブリューソフБрюсовが浮世絵の愛好家でロシア語の短歌の創始者とは知らなかった。この後ヴャチェスラーフ・イワーノフВячеслав Иванов, アンドレイ・ベールィАндрей Белый, グミリョーフГумилёв, フリェーブニコフХлебниковが続くという。ジャポニズムとベールィの「ペテルブルグ」の関係なども興味深い。詩人バーリモントБальмонтの1916年の来日の意義についてもよく書かれている。この後1960年から70年代にかけて新しいジャポニズムの時代が来るがそれは日本の技術に対してのあこがれからであり、ゲイシャとサムライの国からアクタガワとパナソニックの国へというのは言い得て妙である。ソ連崩壊後本当の趣味のジャポニズムが空手、生け花、折り紙、和食を通じて起こり、2000年代初めがピークであり、日本趣味が日常生活を構成することになって日本ブームの終焉を迎えたとのいうのは鋭い指摘である。ただジャポニズムのほかにロシアにおける仏教、などテーマが興味深いとはいえ散漫な気もする。

設問)「ご提案は検討中です」をロシア語にせよ。

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2012年12月19日

●和文解釈入門 第579回

「~したまえ」は上司語で、「よくてよ、~だわ」若い女性かおかま、「~あるよ」はアメリカインディアンや中国人を連想させる。実際に上司や、若い女性がこういう言葉を使うかどうか疑問だが、小説などでこういう言葉づかいを見れば、ある特定のイメージが湧くという言葉があり、それを『ヴァーチャル日本語 役割語の謎』(金水敏、岩波書店、2003年)で金水敏先生が役割語と名付けた。殿さまが自分のことを余というかというと、「旧事諮問録」(旧事諮問会編、進士慶幹校注、岩波文庫、1986年、2巻)という将軍家の日常、お庭番、幕末の外交の様子を江戸幕府の役人が証言した本があって、内容は問答の形になっており、現代の話し言葉に近いが、1891年から1892年の第11回までの記録で、将軍は自分の事を「余」ではなく、「こちら、自分」と言い、御台所は「わたくし」と言っていたとある。ロシア語にも、皇帝のмыなど役割語のようなものはあるし、もっと有名なのではкартавить(ラ行の発音が不正確である)というのがある。これはイディシュ語(東欧系のユダヤ人が用いるドイツ語の方言)由来と思われる口蓋垂ふるえ音картавый (грассирующий) звукで、рがгのように発音されるとされる。革命前は日本語でフランスをおフランスというような、似非上流語のような感じだったが、ソ連時代はユダヤ人の役割語のような感じだった。実際のユダヤ人が皆картавитьするとは思えないが、アネクドートでこういう会話を話すのはユダヤ人ということになっている。これまで30年以上ロシアやソ連と付き合いがあるが、картавитьをする、はっきりユダヤ人と分かった人は二人ぐらいだ。現実というのはそんなものであろう。キッシンジャーもкартавитьをすると言われるが、彼もユダヤ系である。

 この口蓋垂ふるえ音を使ったアネクドートがあるので紹介する。

- Надя, откгой, пожалуйста... Надя, это я, Володя, почему ты не откгываешь!.. Надюша, это я, Вовка-могковка!.. Всё, Феликс Эдмундович, она там с Тгоцким, ломайте!..

訳)「ナージャ、開けろってば、お願い。ナージャ、僕だよヴォロージャだよ。どおしてあけねーの。ナージャちゃん、僕だってば、もろ出しヴォロージャだよ。もういい、ジェル人スキー君、あの娘はトドイツキーと一緒だ。ドアを壊せぇ」

解説)レーニンがЧК(後のKGB)長官ジェル人スキーと картавитьして話している。中にいるのはクループスカヤとトロツキー。何万人もの人を盲目から救ったので有名なオデッサの眼科医で、レーニン勲章4度受賞したフィラートフФилатов Владимир Петрович (1875 – 1956)はレーニンやケーレンスキーが通ったシンビールスクの高校を卒業し、高校生ヴォーフカとサーシカгимназисты Вовка и Сашка を憶えていた。レーニンがヴォーフカ、ケーレンスキーがサーシカと呼ばれていたことが分かる。これからヴォーヴォチカの小話が派生したのであろうと推測する。 Вовка-морковка のморковка = мужской половой органで、子供の使う仇名をはやし立てる言葉である。ご参考までに、откгой = открой; откгываешь = открываешь; Вовка-могковка = Вовка-морковка; Тгоцким = Троцкимである。

 レーニンの家系はカルムィク人、モルドヴィン人、カルムイク人、ユダヤ人、バルト・ドイツ人、スウェーデン人による混血であることは広く知られるようになっており、レーニンが少しкартавитьして話したことは、実際に革命前にレーニンとパリで会ったことのある作家のエレンブルグが自伝『人・歳月・人生』Люди, годы, жизньに書いている。

 体の用法から言えば、どうしてоткрывайではなく、откройなのか、和訳する際に訳出できるかどうかは別にして、訳者はその違いを当然理解していなければならないはずである。

設問)「今回の滞在費は貴社負担です」をロシア語にせよ。

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2012年12月20日

●和文解釈入門 第580回

前回の小話の体の用法について、お分かりにならない方もいると思うので、解説しておく。夫が普通に帰宅して、奥さんや家の人に「ドアを開けてくれ」というのは、予想される自然の行為なので、着手の意味の不完了体命令形открывайを使う。9時開店の店が未だ開いていないときに、店を開けろというのは、開けて当然という意識が客の方にあるわけだから、着手の意味で、Открывай!と不完了体の命令形が使われることはお分かりだろう。ところがアネクドートでは、レーニンの妻(クループスカヤ)が愛人(トロツキー)と家の中にいると、話し手であるレーニンは思っているわけで、素直にドアを開けるとは思っていない。浮気している妻が愛人とベッドにいるときに、夫が現場を押さえようとした場合、素直にドアを開けるはずがないと夫の方として思うのが自然であろう。こういうときに、新規の動作である完了体命令形が出てくるわけである。

設問)「行かなくてすみません」をロシア語にせよ。

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2012年12月21日

●和文解釈入門 第581回

40年以上もロシア語を勉強しているので、短文であれば、1分か2分いただければ、ほぼ正確に体の使い分けを示せるという自信はあるが、実際の通訳では、体の使い分けに使える時間というのは、1秒にも満たないであろう。しかも短文だけの通訳というのはほとんどありえない。和文露訳入門に完了体と不完了体を時制や法に分けて書いた参考書などを読めば、どんな動詞も完了体と不完了体を使うチャンスが同じ50%ずつあると勘違いする人もいるだろう。そんなことはないのだ。参考書なので、例外も含めて、できるだけ広く用例を書いているだけである。10万語収録の露和辞典にある単語(動詞も含めて)を40年間で全て出会ったかというと、そういうことはない。1回だけ読んだというのを入れても8割ぐらいだし、通訳や翻訳で使う単語というのは、1万もないと思う。しかもその中でも使う頻度にかなり差が出る。

 通訳するときには時間がないので、確率ということに頼らざるを得ない。この2、3回命令法では完了体不定形を使う事が多いと書いたのはそのためである。不定法を使うなら、まず完了体ということにして、繰り返しや否定なら、例外だから、不完了体に代える訓練をする。他にも切迫とか動作の名指しとかあるが、それを考えている余裕はない。ただ動作の名指しというのは、不完了体が出やすい動詞идти, ехать, делатьなので、これはこれで優先的に使うようにする。時制においても過去と分かった瞬間、完了体を考える。アオリスト的用法が多いからだ。プロの通訳で、体の使い分けを説明できない人でも(する必要もないが)、その通訳が正しいのは、この訓練が自動的にほぼ完ぺきに出来ているからである。これは勘というよりは、長期にわたる体に覚え込ませるような非常に大変な、忍耐の要る学習法であり、誰でもできるわけではない。そこで、何度も言うが、和文露訳入門を手元において、そのたびごとに気になった用法を理解し、例文を暗記する方が大人の学習法だと思うわけである。別に和文露訳入門を買えと勧めているわけではない。自分で文法を究める方法はいくらでもあるし、いい参考書も探せばある。私のホームページにも参考書紹介のコーナーがあるから、それを一部参考にされてもよい。

 ガイドや通訳の仕事が減っている中、新規参入は難しくなっているのが現状である。昔なら先輩の通訳と一緒にという仕事も多かったが、今はいきなり一人前の仕事をこなすことを求められる。しかし、仕事の少ないときだから勉強できるわけで、私の勧める勉強法は、テレビやネット、本などで、気になった短文の述語部分だけを、特に動詞であれば、どのような体になるのかを中心に訳してみる練習をしてみることである。これなら前後の文脈がはっきりしているわけで、このコーナーの短文の露訳よりよっぽど簡単であろう。拙著の和文露訳入門を参考にしていただいてもよい。こういう練習の積み重ねによって、瞬間的に動詞が浮かぶようになってくる。通訳を頼まれた時点でどの分野かはあらかじめ分かる。それから語彙をチェックしても遅くはないが、基本動詞はそう簡単には行かないので、こういう勉強法を勧める次第である。ガイドにせよ、都内か京都観光かは事前に分かるわけで、いきなり日本全国の1か所の観光ガイドをお願いしますという事はまずないだろう。動詞の体の使い分けがある程度分かれば、後は語彙だけ覚えればよいという意味もお分かりだろう。プロの通訳やガイドになりたければ、使う頻度の高い、そして急ごしらえには理解できない動詞の体の用法をまずマスターすべきなのだ。動詞に限らず、基本語彙については、露露辞典を引く癖をつけることをお勧めする。オージェゴフの露露は評判が高いし、手頃なのだろうが、私は使ったことがない。これは用例が極端に少ないためである。しかし、そういう欠点があっても、他に選択肢がなければ、買わざるを得ないと思う。私は例文重視なので、アカデミー露露の最新版を使っているが、第19巻прессまでしか出ていないので、それ以外の単語はアカデミーの古い4巻本を使っている。4巻本の例文は岩波や研究社でよく見かけるので、ザルービンの露和の方が新鮮な例文に出会える可能性が多い。

設問)「3ヶ月に1回以上点検しなければなりません」をロシア語にせよ。

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2012年12月22日

●和文解釈入門 第582回

2012年12月20日放送の、アメリカ女子サッカーのゴールキーパー、ホープ・ソロ選手についてのバラエティー番組を見ていたら、終わりの方で彼女の自伝の一節She said she forgame me.に和訳がついていて、「彼女は許していると言った」とあったように思うが、これは、「彼女は許すと言った」の間違いではないか。時制の一致で過去になっているが、日本語の「許している」というのは現在完了であり、ずっと前から許すという行為は終わっており、それが今に至っているというのだから、訳者は遂行動詞ということを理解していないと思われる。英語の専門家でもないのに、こういう事を書くのは、英語にも遂行動詞があり、forgiveにもそのような用法があると思うからである。ロシア語でも、Извините.と言われて、冗談で、На этот раз я тебя извиняю.(今回は許す)という場合もあるし、Тебя прощаю.(許してあげる)と使う。ちなみにизвинить/извинятьは軽い過失に対して使うとシノニム辞典にはある。許すでも、許可するという意味なら、Ладно иди, я тебя разрешаю.(分かった、行けよ。許可するよ〕)という。これも遂行動詞の例である。

設問)「当直の報告からどうなったかは聞いている」をロシア語にせよ。

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2012年12月23日

●和文解釈入門 第583回

смочь はмочьの完了体だが、смочь独自の意味として、露露辞典に載っているのは、оказаться в состоянии сделать что-либо(~できるようになる); получить возможность сделать что-либо(~する機会を得る)と状態ではなく、動作としてである。過去時制のмогとсмогの違いについては、岩波の露和にも載っているが、Он смог (мог) перепечатать свой доклад.においてсмогが「彼は自分報告をタイプできた」だが、могは「タイプで打つこともできたはずだ(が打たなかった)」という違いがあると指摘している。не могとне смогの違いについては、私見だが、не могが単に動作(可能であるという語義)の否定という不完了体の用法であり、не смогは完了体過去形なので、予想外れというような主観的な、モダリティー(叙想的)な用法であると思う。мочь = быть в состоянии; иметь возможностьという風に、мочьは可能であるという状態(ないしは能力)を示していることが分かる。смочьは未来における(これからの)動作なので、これを意識すればよい。未来の時制で可能という用法を使う場合、мочь の未来形はбудет в состоянииで、可能性の繰り返しか、ある程度の期間を見込んだ動作に使われることが多いので、1回の具体的な可能性にはсмочь + 完了体不定形を使えばよいことになる。

Банк будет в состоянии погасить задолженность через год.(その銀行は1年後に負債を返済することが出来るとしている)

設問)「そんな彼を前にも後にも見たことはない」をロシア語にせよ。

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2012年12月24日

●和文解釈入門 第584回

ある語学校のロシア語通訳コースの案内を見ていたら、ロシア語の文法は難しいので、通訳を目指すのに文法にこだわる必要はない。当学校には優秀なロシア人をそろえ云々とある。どの外国語でも文法は難しいと言えば、難しい。文法を覚えなくていいのは、母国語を覚えるときの幼児だけである。要するに、文法を最小限にするということは、丸暗記を勧めていることになる。特に体の用法は難しそうに見えるが、二十歳前後からそれ以上の年配の学習者に、丸暗記だけでは続かない。続く人もいるがそれは例外で、そういう人は、そういう語学校に入らなくても、一人でこつこつ例文を収集し、それを暗記してものになるのである。文法や、特に体の用法が難しいというなら、それは教える方にも問題があるのである。文法や体の用法をよく理解していないから、教えられないという事になる。教わる方も、語学は暗記だと文法を軽視するという心構えだから、勉強に身が入らない。だから分からないという悪循環である。二十歳を超えた人に理屈が通らない理由がない。そういう文法は不要だという学習者の思い込みをなくすような、もっと実生活に即した、ロシア人との触れ合いに役立つ例文を教える側が用意する必要があるし、何よりも教える側が文法をよく理解し、それを教えるテクニックを身につけるよう日々研鑽するしかないと思う。

 体の用法は基本である。これが分からないと会話での和文露訳は、暗記した文例だけの、応用の利かないものになる。それを語彙だけ暗記すればよいと、語彙集だけ暗記しようとする人は、骨格のない体に粘土を貼り付けるようなもので、全く意味はない。体の用法をマスターしてようやく次のステップ、語彙の習得、発声や聞き取りに進むべきなのだが、その辺を理解していないから、日本語でいえば、いつまでたっても外国人の話すテニヲハがよく分からない、時制もおかしいロシア語のままなのだ。

 上級ロシア語は一部の翻訳者や通訳、ガイドの独占ではない。そういう自称ロシア語のトップにいると思っている人でも、ロシア語の会話などで体が使いこなせないのであれば、ロシア語から日本語、日本語からロシア語への理解が不十分であろうと思うし、それにかかわらず、日本語を外国として見るというアプローチも必要であろう。体の用法を究めることで、普通の学習者にとっても、プロの独占と思われていたロシア語の文や会話の深い味わい方を知っていただけたらと願っている。

設問)「彼女はもう彼らとは二度と会えないという事を知っていた」をロシア語にせよ。

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2012年12月25日

●和文解釈入門 第585回

このコーナーは和文露訳に興味がある方はどなたでも投稿されてよいのだが、個人的には、投稿してくれたらなと私が思っている人たちというのがいる。それは露文解釈を中心に勉強してきた学習者である。こういう人たちは文法をきちんと学び、それなりのロシア語の実力があるはずなのに、ロシア語の会話ができないために実力を発揮できないか、ペラペラとロシア語を話す人たちに引け目を感じている人たちである。ペラペラとロシア語が話せるから、ロシア語ができるというものではない。会話している以上、全く意思疎通ができないという事はないが、7割ぐらい通じているとか、挨拶程度とか、という人が多いように思う。世間はロシア語をペラペラ話せば、ロシア語ができると勘違いするので、ロシア文学の読解が日本文学の読解並にできるような人が、ロシア語の評価という面で割を食っているような気がする。会話も読解も聴解も作文も全て必要である。会話だけの人よりは、コツコツロシア語の読解に精を出してきた人の方が上達の可能性は高い。確かに語彙は読解用の語彙(読んで、聴いて分かる語彙пассивный запас слов)がほとんどだろうが、会話で使われる頻度の高いを中心に優先的に覚えるよう、発話用の語彙(言語運用上の語彙активный запас слов)に変換することは容易である。ただ、単語中心から句動詞、述語動詞が中心となるよう勉強方法を替えることが必要である。その土台となるのが体の用法のマスターである。こういう人たちは、1カ月もしないで完壁に理解するので、あとは和文露訳の練習と、それ用の語彙の暗記だけやれば会話も上達するはずである。聴き取り用に1年間の千時間マラソン(1日3時間ぐらいロシア語のCDを通勤・通学電車でBGM代わりに聞くだけ)もやればよい。

 そういう人たちに対して、読解の中心になるのは露文だけでなく、和文も中心になり得るのだという事を言いたくて、このコーナーを始めたようなものである。日本人だから日本語が分かるのは当然だが、それが異なる言語とどう通じ合えるのか、ロシア語の辞書や文法書のみならず、日本語の文法に対する理解が必要であるという事を訴えたかったわけである。そういう点を理解される人が少ないながらも出てくることを望んでいる。

 文法をきちんとやらなければ、語彙を覚えても挨拶程度以上には進まないのは理の当然である。初級文法を終えて、後はロボットのように例文の丸暗記にひた走るという道しかないと考えている人も多い。そういうのは、まともな大人のすることではないと何度もこのコーナーで申し上げてきた。丸暗記以外にも、文法を通じてロシア語を習得する方法があることをこれまでアピールしてきたつもりである。和文露訳の勉強に例文の丸暗記だけで、なぜこのような体を使うかなど文法について考えないような人は伸びない。

設問)「一番遅いスピードで何ノット出ますか?」をロシア語にせよ。

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2012年12月26日

●和文解釈入門 第586回

『ロシア音声概説』(神山孝夫、研究社、2012年)を読んだ。発音やイントネーションの型の勉強用として音声学関係では一般向けで手に入る唯一の参考書と言える。本書はプロの通訳やガイドを目指すなら必読の書であり、発音面で非常に参考になるので、プロを目指すなら手元に置いておくとよい。всё-такиはвсё-ткиとаを発音しないのが普通だが、これも母音の脱落という事で説明してあるのは初めて見た。こういうところがこのような専門家による一般向け参考書の強みでもある。口蓋垂ふるえ音はドイツなまりで、革命前まで上流階級でおフランス風の気取った言い方で、アメリカのキッシンジャーの話し方がそうであると29ページにあるが、これはкартавый (грассирующий) звукでрやлに関わる音であろう。рがгのように聞こえる。そうであれば、ソ連時代はユダヤ人の役割語みたいなものである。これについて著者が書かなかったのは人種差別的な記述を嫌ったためなのかもしれない。

 若干タイプミスがあるので指摘しておく。72ページбуфはбуффの間違い。99ページТам сидят журналисты.を「あそこに座っているのはブンヤさんたちです」とくだけた訳にしてあるが、журналистはマスコミ、新聞、雑誌の記者であり、ジャーナリストであって、ブンヤというような俗語のニュアンスはない。どうしてここだけこういう訳になるのか理解できない。しかも129ページ、130では記者たちと正確に訳しているのは訳語の不統一と指摘されても仕方がない。102ページквартираをflat, condominiumと英語だけにしているが、アパートないしはマンションのことで、日本語と違い、建物全部を含めないとすればよいのではないか。166ページкуполаの円屋根はともかく、キューポラとあるが、キューポラは溶銑炉のことで、вагранкаと言い、куполаとは言わない。170ページколбасаをサラミソーセージとしているが、有名なдокторскаяという銘柄は脂身のない高級ソーセージでサラミではないし、サラミはсалями、ないしは高級燻製ソーセージならсервелатなので、単にソーセージと訳しておくのが無難だろうと思う。

設問)「きっと朝彼がいないの気がついて、捜索になるよ」をロシア語にせよ。

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2012年12月27日

●和文解釈入門 第587回

露文を読むときに露文解釈のつもりで読むのと、和文露訳に活かそうという意識で読むのとは全く違う。会話の和文露訳で活かそうと思う時は、文体に注意を払い、使える語彙をエクセルで和露の形にまとめておく。そのときにできるだけ例文を収録するとよい。書き言葉でも、スピーチやビジネスなどの公的な交渉ごとで使える場合が多い。俗語や隠語は聞いて分かることは必要だが、自分で使う事はない。しかし、一応語彙集には入れておく。

設問)「分割納入と一括納入ではどちらがよろしいですか?」をロシア語にせよ。

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2012年12月28日

●和文解釈入門 第588回

日本語を勉強しているロシア人が露文和訳をしたとする。その和訳をロシア語を知らないか、日常会話はできるが、ロシア語は読めない日本人がチェックして直したとする。その日本文は正しいだろうか?そのロシア人はロシア語をハイレベルで勉強した日本人に見てもらわないと、正確な訳かどうかは判断できないし、直された日本文と比べて自分の作った元の文のどこがいけないのかが分からないから、次も同じような誤りをするかもしれない。同じことはロシア語を学ぶ日本人学習者にも言える。他に選択肢がないという場合も多いと思うが、ロシア人にチェックしてもらう時は、このことを念頭にいつも置いておいた方がよい。

 若いころ和文露訳をするときに、周りにロシア人が多かったので自分の訳文をよく見てもらった。そのとき、ロシア人が見るのは私の訳文のロシア語である。そのロシア人は日本語が全くできないか、できても日本語が読めないのが普通だからだ。そのロシア語が見てもらうロシア人の考えるロシア語とどう違うかであって、原文の和文との比較ではない。つまり私が日本語から曲がりなりにも訳した露文は、時制や体の用法は基本的に正しいという前提がある。ロシア人にロシア文を見てもらうときに、その前提が問題だという事は、きれいさっぱり無視されているようだ。日本語の時制やテンスはそう簡単なものではないことは、このコーナーの設問の短文でお分かりだろう。日本人だから日本語の時制やアスペクトは分かるだろうが、それをロシア語の時制や体に置き換えるのは、日本語とロシア語の時制が微妙に違っている以上、非常に無理があると思う。そういう意味もあって、ロシア人に頼らずとも、和文露訳のチェックができるような参考書を、体の使い分けを中心に書いて見たかったわけで、その願いが熱心な常連投稿者のおかげもあって叶ったことは非常にうれしく思っている。この参考書『和文露訳入門』はあくまでも私自身用であるが、幾分かでも私の考える体の使い分けに実践で使えると考える人にはそれなりに役に立つと思うし、学習者自身がさらによりものを自分自身のために編み出すことは可能だと思う。私はロシア人を無視しているのではない。私が心の中で師事し、準拠しているのはラスードヴァ先生、ボンダルコ先生、ロゼンターリ先生、ムラヴィヨーヴァ先生、ヴィノグラードヴァ先生、アプレシャン先生、フセヴォロードヴァ先生、パードゥチェヴァ先生、磯谷孝先生、城田俊先生、宇多文雄先生、中沢敦夫先生、原求作先生などのロシア語の権威であって、一般のロシア人ではないといいうことを言いたいのだ。

設問「光と音ではどちらが速いですか?」をロシア語にせよ。

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2012年12月29日

●和文解釈入門 第589回

暮れも押し詰まって残り後わずかである。このコーナーも同様で、短文のネタ切れのためこのまま行くと600回を越えるか越えないかで終了となりそうである。しかし、常連投稿者の投稿を見る限り、正答も増えてきており、これ以上続ける意味もあまりないような気もする。ともあれ、ない袖は振れぬということで、決して出し惜しみするわけではない。7月末に『和文露訳入門』を電子書籍で出した時には、残りの短文は11月中旬で終わるぐらいの分量だったのだが、いくつか面白そうな短文も見つけて、それが12月半ばになり、12月末になり、年を越える気配である。そうはいっても、あと10もない。これまで出題候補としてエントリーした中で、30ぐらいの短文は、同じようなものがあるとか、応用性がないとか、特異すぎるというような理由で没にした。最近も5つ没にして、3つ追加したりしている。短文出題の趣旨は、含まれる文法要素や語彙が応用性があるか、その語句のままでも会話で広く使えるかどうかであって、難問を出して粋がるような、出題者の独りよがりは厳に慎みたいと考えているからである。単数・複数、アオリスト的用法、不完了体未来形などは最初の頃の出題に対する正答率があまりに低かったので、折を見て何度か似たような短文を出題しているが、これは復習として意識的に行ったものである。

 どう出題していいか分からなくて没にしたものもあるので、ご参考のために紹介する。私自身は頭痛持ちではないが、仮に頭痛で、鎮痛薬を飲んだら、すぐに効き目が現れたとする。そのときに、「(この薬)効くね」はロシア語で何と言うかというものである。普通に考えれば、完了体子形の結果の現存の用法を使って、Лекарство подействовало немедленно.(薬はすぐ効いた)とする。無論、これはこれで正しいのだが、Действует.と言う。現在完了が含まれているので、相転移動詞(誤伝の動詞改め)の用法だと思う。栄養ドリンクの宣伝だと思うが、「効くぅー(この日本語は遂行動詞であろう)」というコマーシャルは、「効いた」と同じかというと、よく考えると、同じようなものだが少し違うように思う。結果の現存(現在完了)であるということがДействует.の方に強く感じられる。подействовалは完了体過去形だから、基本的な意味はアオリスト的なものであり、結果の現存というものは文脈に依存する。しかも、「薬がすぐ効いた」という例文は結果の評価とも考えられるので、ある意味で時制に関していえば、現在と関係があるのかどうかが分かりにくい。一方、Действует.の方は不完了体現在形で現在そのものであり、現在の時制と結びついていることを強くアピールできるから、ロシア語でも、日本語でもこちらの方が会話でよく使われるのではないかと思う。

 こういうのは、どうやって見つけるかと言うと、三流の児童用SFやファンタジーの会話の文にこういう例がふんだんに出てくる。魔法の呪文を覚え、その呪文をかけて、呪文通りの効果が出て来たときにとか、光線銃を発射して、対象の物体が消えたときなどに、こう言うのである。三流で、しかも子供向けだから、荒唐無稽であっても文脈ははっきりしている。こういう会話文はドストエーフスキーやチェーホフでは、まずお目にかかれないだろう、和文露訳用の文例を収集するには、歴史や哲学の硬いもの、一流の文学ないしは自分の好きな分野の本(釣りが好きならアクサーコフの釣魚記など面白いと思う)、そして会話の文例収集用に、一流でも、二流でも、三流でもいいから児童向けの会話の多い本がよい。このように硬軟取り混ぜて、広い分野の本を読み、かつファイルするようにすれば、いつか自分だけの宝物ができることになる。人間は忘れるものだから、文例はエクセルに和露で、訳をつけてファイルしておけば、いつか役に立つだろう。私の方は和露形式で項目をつけ、今現在で9万2千項目になった。目指せ10万項目である。cover-to-coverで読んだ本はリストアップしていて、それも740冊になった。これも目標は千冊である。ロシア語の本は辞書も入れて1700冊ぐらいもっているから、半分以上は読んだことになるので、稼ぎの心配さえなければ余生を読書に費やすという手もあるのだが、世の中そう甘くない。

設問)「(本で)読むのと、そのような状況に自分自身が置かれるというのは別だ」をロシア語にせよ。

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2012年12月30日

●和文解釈入門 第590回

(259) 「ビゴーが見た日本人」、清水勲、講談社学術文庫、2001年
 1882年~99年まで日本に滞在したフランス人画家について。著者による日本人に出っ歯が多いのは栄養状態が悪いからだという指摘にはなるほどと思われる。ビゴーの作品が後にメガネ、カメラ、出っ歯の日本人というカリカチュアを世界に発信した先駆けとなったのだとのこと。明治の日本を絵で描いているのでイメージしやすい。他に、「ビゴーが見た明治ニッポン」清水勲、講談社学術文庫、2006年、「ビゴーが見た明治職業事情」清水勲、講談社学術文庫、2009年がある。またビゴー以外にも「ワーグマン日本素描集」(岩波文庫、1987年、1885年初出)も出している。ワーグマン(1832~91)は1861年来日し、1862年から87年までジャパンパンチに絵を載せ、1875年彼の絵が眼鏡と出っ歯という日本人像のルーツになったのではないかと著者は述べている。

(260) 「大昔のモスクワ」Седая старина Москвы, Кондратьев, 1893(リプリントは2003年Цитадель-трейд社より)
 最も人気があったと言われるモスクワ案内。使われる表現がロシア正教と仏教・神道の違いはあるとはいえ、ロシア語での日本観光案内に使える表現の宝庫である。本書でも数多く利用した。郵便、警察、裁判、貴族、貨幣、本の印刷、舗道、アカデミーなどの由来について簡単に説明してあるのが特に良い。

設問)「その結果、お金はロシア貴族の日常生活になくてはならない、切っても切れないものになった」をロシア語にせよ。

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2012年12月31日

●和文解釈入門 第591回

本を読んでいて会話やメール・レターに役に立つと思う表現や文があれば、できるだけ正しい和訳をつけてエクセルで和露の形にアイウエオ順でまとめておけば、将来役に立つと書いた。全部が全部ではないにしろ人間は忘れるものだからだ。このまとめた例文も大事だが、それよりもその過程で、エクセルの表にインプットする、その例文に和訳をつけるという行為自体が、暗記にも役立つし、和訳の練習にもなる。通訳は和文露訳だけでなく、露文和訳もあるわけで、まさに一石二鳥ということになる。こういう表の出だしの項目は、できるだけ短い単語が語句にしておく方がよい。Не угадала её лет.(彼女の歳は分からない)なら、項目は歳とか年齢にしておけば、年齢関係で他の表現もまとめて作ることができ、あとでチェックするのが楽だからだ。表には著者名とページを別項目で入れればよい。私の場合は、見出し、例文、著者名、ページの順であり、Достоевский の項目の隣は22-75で、全集第22巻の75ページに例文が載っていることが分かる。これはタイプミスのチェックや、ごくたまにどうしてこういう体が出てくるのか気になったときに、前後の文脈を調べるときに必要だからである。例文には赤線を入れてあるので、そのページを開けばすぐ分かる。恩師の故飯田規和先生は、本には書き込みをしてはいけないと何度も言われた。これは多分誰かに著書を譲るときにその相手のことを考えてのことだろう。気持ちの優しい先生だった。しかし、私は自分で買った本になら、自分のロシア語向上に役に立つのであれば、何をしてもよいというのが私の主義である。だから図書館で借りた本に書き込みがあるのは許せない。鉛筆の書き込みなら、私も借りている以上、消しゴムで消すことにしている。多分学生が高校か大学の課題図書かなんかで、書き込みをしたり、自分の納得したところを線を入れて強調したりしているのだろう。まったく目障りである。本は白紙の状態で読むものだから、その印象を他人に押し付けるものではないというが分からないのか、あるいは自然とうっかり書いてしまったのかもしれない。厳に慎みたいものである。

設問)「俺はあいつの妹と結婚してもう3年になる」、「1993年からイタリア人と結婚しているの」という二つの文をロシア語にせよ。

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2013年01月01日

●和文解釈入門 第592回

С Новым Годом!(あけましておめでとうございます)

 昨年は仕事の方はぱっとしなかったが、自分のロシア語の方は随分向上したように思う。機会を見て、『和文露訳入門』の増補改訂版を出したいが、追加記載項目が日々加わるので、いつになるやら分からない。

 第589回で相転移型の動詞(誤伝の動詞改め)の話しをしたが、一昨日もう一つ見つけた。子供向けSFを読んでいたら、テレポーテーション(瞬間移動)телепортацияが成功した時に主人公が、Ура, работает!(万歳、やったー〔直訳では「機能している」〕)というが、これも相転移型の動詞だと思う。第589回のДействует.(効いている)を復習すると、Действует.という相転移型の動詞には、結果の評価と結果の現存(現在完了)の両方の意味がある。подействовалは完了体過去形だから、基本的な意味はアオリスト的なものであり、結果の現存というものは文脈に依存し、時制に関していえば、現在と関係があるのかどうかが分かりにくい。一方、Действует.の方は不完了体現在形で現在そのものであり、現在の時制と結びついていることを強くアピールできるから、ロシア語でも、日本語でもこちらの方が会話でよく使われるのではないかと思う。同じことは、バレー、柔道などの技の練習をしているときに、その技ができたときは、Ура, работает!(万歳、やったー)と言えると思うが、このработаетも結果の評価と結果の現存の意味があると思う。

設問)「教師のレベルは、まあ平均より上だった」をロシア語にせよ。

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2013年01月02日

●和文解釈入門 第593回

(261) 「シベリア記」、加藤九祚、潮出版社、1980
シベリア出兵なども含めてウラジオストークを中心としたシベリアと日本人との関わり合いについてダヴィドフとフヴォストーフの末路にも触れており、よく調べていると感心する。自身の抑留経験も交えて描かれている良い作品である。日本人脱走兵の人肉食いが出て来るが、当時のシベリアの収容所からのロシア人脱獄囚事例においてもいくつかあり、別に日本人特有ということではない。黒パンについてもロシア人は白パンを尊ぶというような記述があるが、そうではない。ロシア人にとって黒パンは日本人の米のようなものである。多分フスマ入りパンと混同したのではないか?黒パンと言ってもライ麦100%の黒パンはボロヂンスキーぐらいで、一般に出回っているのは小麦粉が混ぜてある灰色パンсерый хлебである。黒パンだけだと消化が悪い(腹もちはいいが)ということらしい。それゆえ病人には白パンを出す。日本で言うお粥代わりである。

設問)「彼は役人から役人へとたらいまわしされた」をロシア語にせよ。

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2013年01月03日

●和文解釈入門 第594回

(264) 「旅順」Порт Артур, Степанов, Хужожественная литература, 1988(2巻)
 日露戦争における旅順での戦いを扱った1200ページにのぼる長編歴史小説。日露戦争においてロシア側から見た旅順港攻防を描いている。日本人が敵として描かれているのは興味深い。記述が簡潔で読みやすいし、戦闘場面は圧巻で迫力満点であるほかに、女性も大活躍をして彩りを添えている。例えばヒロインのベーラヤ(実在のベールィ将軍の娘がモデル)とか、かかあ天下で有名なステッセル夫人とか、ハルチーナ(実在の女性で、女性ながら一兵士として戦闘に参加するも戦死)などである。大和魂をヤマトダサキと書いているのも御愛嬌。特に知将といわれたマカーロフ海軍司令官(1848/49~1904)のエピソードとそれにからんで広瀬中佐の名が出てくるのも一興である。マカーロフは水兵からたたきあげて提督になった当時のロシアとしては伝説的な人物である。惜しくも日本軍の機雷に船が触れて戦死した。彼が生きていれば旅順攻略にさらに時間がかかったかもしれないと言われている。司馬遼太郎の「坂の上の雲」と併読すれば一層興味が湧こう。私は未読だが、「旅順口」(袋一平・正訳、新時代社、1972年、3巻)という題名で邦訳されており、司馬遼太郎が前書きを書いている。

(265) 「対馬」Цусима, Новиков-Прибой,Узбекистан, 1985
 日露戦争における日本海海戦(対馬沖海戦)を扱ったドキュメンタリー小説。高慢で浅はかな艦隊司令長官ロジェストヴェンスキーの性格や戦闘場面の描写、各艦の艦長、士官、乗組員の人間模様、特に探検家ミクルーホ・マクラーイМиклухо-Маклайの弟で戦艦ウシャコ-フ号艦長の戦死の場面などは優れているが、無理を承知で言えば、日本人や女性がほとんど登場しないこともあって彩に乏しいのが残念である。

設問)「彼女が急に現れたら、ママは何と言うだろう?」をロシア語にせよ。

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2013年01月04日

●和文解釈入門 第595回

(266) 「日本捕虜志」(2巻)、長谷川伸、中公文庫、1979年
 これまでだれも取り上げてこなかった日本人捕虜の歴史であり、戦後占領軍に対して日本の捕虜の扱いにも情があった時代があったということを示すというのが執筆の動機でもある。ロシアとの戦争によるものがほとんどであり、日露戦争時代までは日本人にも、ロシア人にも庶民のいい意味での気質(義侠的武士の)が失われていなかったと同時に、捕虜になるのを忌避する気持ちがあったことが本書を読めばよく分かる。一方ロシアの方でも革命前に庶民の間はあった憐みの気持ち(ロシア正教およびロシア人気質によるものであろう)が、ソ連時代には捕虜をスパイとみなすという考え方に変わったことも窺える。ソ連の社会主義と言う全体主義、戦前の日本の押しつけの皇国史観により、捕虜に対しても気狂いじみたような扱いになったことがよく分かる。日本は戦後、ロシアはソ連崩壊後ようやく対人間的な感情において、まともな国に戻ったことは慶賀の限りである。本書において日露戦争当時ロシアにいてウラル山中に抑留された民間人千人の詳細や、英領カナダでの日本人義勇軍200人(死傷者90%)というのも初めて知った。日露関係を語る上で必読の書であろう。

(267) 「松山捕虜収容所日記」、クプチンスキー、小田川研二訳、中央公論社、1988年
 1906年に出た「В японском неволе」の邦訳。看護婦の献身的な様子などや、捕虜生活の苦しさも含めて概して客観的に日本での捕虜生活について述べている。日露戦争のときの捕虜の日本兵の扱いも同じく人道的であったのは興味深い。それから第2次世界大戦後の日本兵捕虜の収容所での扱い(同胞のソ連人政治犯についても同様だが)を見ると雲泥の差であることが分かる。金沢の収容所を舞台にした恋愛物語としては五木寛之の「朱鷺の墓」がある。

設問)「細かい活字の、200ページの本を書いた」をロシア語にせよ。

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2013年01月05日

●和文解釈入門 第596回

あるドリルメーカーからロシア人の翻訳会社の作った露文の製品カタログの直しを依頼されたことがある。そこの工場見学や技術通訳を何度かしたことがあったからだ。ロシア人ディーラー何社からのクレームがあったかららしい。英文のカタログを露文にロシア人翻訳者がしているから日本人が直しをするというのは普通はあり得ない。何ページか見て、納得が行った。6人くらいの翻訳者が訳語の統一もせずに訳しているのだ。モデル名が同じ製品の訳が6つあるから、少なくとも6人で訳し分けたという事が分かる。そのうち二人は非常にうまい。コピーライターもどきである。別の二人もまあまあだ。ところがもう二人の訳がひどい。ステンレス鋼нержавеющая стальは技術翻訳では専門用語の内に入らないが、それを一人は着色鋼と訳し、もう一人はしみのない鋼と訳している。多分急ぐので手分けしてやったうちのこの二人は大学生で、辞書も見ないか、持っていないというあまりモラルのない翻訳者なのだろう。急ぐ時は何人かで手分けしてやるときもあるが、一番上手なメインの翻訳者が主要な訳語を決めるし、それほどうまくない人は、上手な人に訳語を聞くのが普通なのに、多分まったく知らない同士か、やっつけ仕事なのだろう。これではテニヲハが合っても、ロシア人ディーラーからクレームが来るはずだ。少し時間がかかったが私一人でやったので、訳語の統一は取れているはずだし、製造現場も見ているし、分からないところは製造部長や、技術者にメールして回答を得たので、訳はぎごちなくとも誤訳はないと信じている。

 勉強にもなるからと非常にうまい方の二人の訳を読んでいたら、このドリルは無騒音ドリルで、夜間工事でも、病院でも大丈夫と書いてある。こんな夢のようなドリルがあるのか大したもんだと思い、念のため日本語のカタログを見たら、低騒音と書いてある。確かにロシア語にはодин из лучших(最良の一人、一つ)とか、最上級なら一つのはずなのに、英語のようにこのような誇張表現が多い。だから訳者も読む側にアピールしようとしてこのような表現に変えたのかもしれない。ロシア語と日本語では感じ方が違うし、ソ連時代はクレームというのはロシア側からはほとんどなかった。クレーム処理が面倒だという官僚主義的な感覚からだろう。それに音と騒音は違うという解釈もできるかもしれない。しかし、今やロシアでもクレームは他の資本主義国並みである。カタログをこのような表現にするなら、メーカーの同意が必要なはずである。そこでメーカーに電話し、結局低騒音にすることにした。翻訳者はコピーライターではない。原文と異なる訳語をせざるをえないときは発注者と相談すべきだが、翻訳会社経由ではそうも行かないことも多いと思われる。そうであれば、ロシア語としてはややぎこちなくとも、原文も忠実に訳しておいた方がよいし、訳する側も(通訳も含めて)、クレームの存在を意識した方がよいと思う。

設問)「彼はマルガリータとの間に子供はなかった」をロシア語にせよ。

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2013年01月06日

●和文解釈入門 第597回

大きさを示すのにв + 対格というのを2度ほど出題したが、会話では次に続く数詞などによってвともфとも発音されるはずだが、実際は聞き取れないし、省略されうるという説明もなされることが多い。省略できないのはв + 女性名詞、тонну, тысячуなどで、いきなり女性名詞の対格では文法上おかしいと考えるからかもしれない。似たような表現にв + 前置格がある。露露辞典ではいっしょくたに扱っているし、露和辞典でも扱いが微妙に違う。名詞固有の語結合の問題だとするのが一番簡単な解釈だが、私なりの説を紹介してみたい。собрание сочинений в десяти томах(全10巻の著作集)、драма в пяти действиях(全5場の劇)、комедия в трёх актах(全3幕の喜劇)、фильм в двух сериях(前篇後篇の映画)などを、дом в три этажа(3階建の家)と比べてみよう。в + 前置格は「~から成る」ということで、構成されるもの全てが表されている。ところが、в + 対格は階数で大きさを示しているだけで、他の構成要素である居間、台所、トイレを示しているわけではないことが分かる。手元にあるデータだけで判断しているので、さしあたってこうではないかというだけの話である。

設問)「何度か往復して、割れた石のかけらを自宅に運んだ」をロシア語にせよ。

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2013年01月07日

●和文解釈入門 第598回

ドストエフスキーの作家の日記を読んでいたら、挿入語句で気になるものが出てきた。亡き兄の人柄を紹介するくだりで、И многим из освобождённых через два месяца подверглись бы ей (ссылке) непременно (говорю утвердительно), если б не были все освобождены по воле покойного государя ...(もし亡き帝の意思により全員が釈放されなかったら、2カ月後に釈放されたものの多くが必ずそれ(流刑)の憂き目に遭っていたろう〔と自信を持って言えるが〕)という文の、挿入語говорю утвердительноである。この作品には、他にもповторяю(繰り返しますが)、тут-то я вас и ловлю〔言葉尻をとらえて申し訳ありませんが(на слове, на словахが省略されていると思われる)〕という不完了体現在形の挿入語句が散見されるが、これらは遂行動詞だと思われる。ちなみにговоритьにも遂行動詞としての意味はある、例えば、Я тебе русским языком говорю.(分かるように言っているんだ)とか、Глупости говорю?(馬鹿な事を言っているというの?)などである。挿入語句には、話題の転換であれば完了体未来形を、話しの流れに沿ってであれば遂行動詞として不完了体現在形を使えるものがあるという事になる。露文和訳や露文解釈だけをする人にとっては、どうでもいいことかもしれないが、会話で和文露訳をせざるを得ない者にとっては時制をどうするか、体のどちらを使うのかは非常に重要であり、ご参考のために紹介した。

設問)「テレパシー能力者たちは離れたところで、考えていることを発信したり受信するすることができる」をロシア語にせよ。

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2013年01月08日

●和文解釈入門 第599回

このコーナーで皆さんに伝えたかったことは、和文露訳には語彙を出来るだけ覚えろということではなく、文法を学び、文脈に応じて単数複数の使い分けや、どの体を使うのかを感じ取る能力を磨いてほしいということにある。教師が生徒との面談で、中間テストや期末テストの成績も悪い、遅刻も多いし、欠席も目立つと話していて、「(五段階評価で)2〔不合格点〕をつけるからな。恥かしいと思え〔恥を知れ〕」と言ったとして、それを露訳するとしたら、「2」とか「つける」という語彙が分からなくても、話しの流れに沿ってのことだから動詞は二つとも不完了体が来るという事を感じ取れなければいけない。Ставлю тебе два (двойку). И стыдись.これを、先生が「しかしだ、3〔合格点〕をつける」となれば、話しの流れが変わる(流れと異なる)わけだから、完了体未来形が出てくることになる。
単語集や語彙集の暗記に明けくれることは悪いことだとは思わないし、必要でもあるが、肝心の動詞の使い方が分からずに、単語だけを覚えても、実戦では使えないから宝の持ち腐れだろう。先に体の用法を覚えるべきなのに、頭の使わない丸暗記に走ろうとするのは、あるいはそのような指導をするのは、勉強の順序を間違えているのだと言わざるを得ない。丸暗記などまともな二十歳を過ぎんとする、あるいは超えた大人のすることではない。だから飽きが来て勉強が続かないのだ。ロシア語に興味を持たせるには、話せるロシア語を使える例文を基に、なぜそうなるか、分かるように納得づくで教えることにある。そのあとで一般常識の分野や自分の必要とする分野の語彙を一人で暗記すればよい。

 体の用法の本質はそれほど難しくはないとはいえ、実際に和文露訳するときには大いに迷う。そこで、このコーナーのような練習の場を設け、短文とはいえ実戦的な形式にした次第である。ここで自分の間違いに気づけば、実戦は恐れるに足りない。実際に通訳しなければならない言葉が、全て難しいというものではないし、文脈で分かるものも多いからだ。このコーナーでは600近く例文を紹介しているが、応用性のきくものばかりだと自負しているので、これをランダムに100ぐらい覚えてもかなり実力になるのではないかと思う。残念なのは自分自身でそうだと言えないことである。自分がロシア語を習得した勉強法は語彙や短文の丸暗記と文法精読を併せたもので、このコーナーのやり方ではないからだ。初級の段階から、和文露訳入門で成果を上げる学習者が出て初めて、このやり方は効果があると実証できるのだが、そういう贅沢は言わずとも、だれかがなにがしか勉強に役立ったと思うだけでもこのコーナーをやった甲斐はある。

設問)「知識のレベルでは、お分かりのように、我国はあなたたちのはるか先を行っている」をロシア語にせよ。

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2013年01月09日

●和文解釈入門 第600回

硬軟取り混ぜて幅広くロシア語の本を読むべきだと書いたが、柔らかい方で自分が読むのは警察小説である。隠語が多いが、会話の場面も結構多く 勉強になる。読まないのに進めるのはどうかとは思うが、日本で出ているハーレクイーンのような恋愛小説ロシア版も好きな方には勧める。会話が多いだろうし、決まり文句の宝庫だろうからだ。自分で小説を書くなら別だが、通訳に必要なのは出来るだけ多く決まり文句を覚えることである。正しく使えば、その方が相手の理解が早い。ただ決まり文句を丸暗記するのではなく、一応、単数複数や体の用法について一考してみれば、よりロシア語に興味もわくし、語彙の習得にもよいと思う。

設問)「追うものも追われるものに力ではひけを取らなかった」をロシア語にせよ。

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2013年01月10日

●和文解釈入門 第601回

(270) 「道標」(宮本百合子全集第7巻および第8巻、第1部~第3部)宮本百合子、新日本出版社、1980年
 革命前のロシアからソ連へといきなり生活が切り替わったわけではなく、徐々にいろいろな分野で変化していったわけだが、1930年頃を一つの目安とすることは可能だと思う。ちょうどネップ(新経済政策)が終わり、モスクワでも辻馬車が少なくなり、クレムリン前のオホートヌィ・リャートの市場が廃止された時期である。この時期に宮本(旧姓中條)百合子と湯浅芳子は1927年から3年弱モスクワに滞在した。当時自分の意思で女性がこのような決断をするのは非常に勇気が要ったことで、いい意味での女傑といえる。その体験を小説の形で描いたのが「道標」である。モスクワでの秋田雨雀、鳴海完造、米川正夫との交流も興味深いが、ソ連の作家レオーノフ、ノーヴィコフ・プリボーイ、ヴェーラ・インヴェルとも知己となった。ピリニャークは1925年にヴャチェスラーフ・イヴァノーフとともに来日し、後にその「日本印象記」はすぐに日本でも翻訳されて朝日新聞に掲載されたほど話題になった。小説「道標」ではピリニャークはポリニャークの名で登場する。ある晩彼は自宅に宮本百合子と湯浅芳子を招いた。小説の記述では「二人きりになるやピリニャークは百合子を抱えあげ、寝台へ投げ出して、のしかかってきた。そこへアレクセーエフが入ってきてピリニャークを引きとめたのだった」とある。実際は当日ピリニャーク宅にいたのはピリニャーク夫人も含めて12人で、米川正夫がモスクワを離れるので別離の宴を張ったのだという。宮本と湯浅はモスクワでロシアの辻馬車に乗った最後の日本人かもしれない。

(271) 「ソヴェト紀行」(宮本百合子全集第9巻)、宮本百合子、新日本出版社、1980年
「道標」は小説だが、こちらは事実に基づいた随筆である。やや癖のある文体だが、簡潔で、著者が頭の回転が速い女性であることが分かる。これは滞在直後で文体が十分醗酵していなかったからかもしれない。1948年から書かれた「道標」では違和感のない文章である。モスクワに住んだことのある人なら尚更興味深い。本の市がニキーツキー門にあったとあるが、1990年代にもあったのは面白い。イーリフとペトローフИльф и Петровの「1階建てのアメリカ」Одноэтажная Америкаというアメリカの文明批評(1935年頃3ヶ月アメリカを見物した)と同じ時期に読んだので、一層興味深かった。「ソヴェト紀行」157ページにレニングラードの「学者の家」を訪れた時の文章で「我等の主婦は・・・・・力を入れない握手をしたのだ。まるきり手を握らないことはソヴェトでは珍しくない」という文を見つけた。ロシアの女性が握手する習慣がなかったことがよく分かる。特に西欧の女性と勘違いして、今でも日本人の男がロシアの女性に握手を求めることがあるが、これは非礼なのである。ロシアでは握手は女性が求めたときのみ男性はすべきで、そうでなければ日本人の男は頭を下げておけばよい。無論、海外によく出かけたり、外国人と会う頻度の多い女性、企業の女性幹部は例外である。このようにロシアに長く住んだ湯浅や宮本は、住んでいないと分からないことまで女性らしい繊細さで伝えている。

設問)「その投稿者の方が私に対して気を悪くされないといいのですが」をロシア語にせよ。

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2013年01月11日

●和文解釈入門 第602回

前々回の投稿者の回答を読んでいるうちに、過去の時制の否定の強調について考えてみた。アオリスト的用法というのは、過去の一点において一度具体的な動作が行われたことを示すのだが、これを否定文に使えば、一度も行われなかったということになる。「一度も~ない」というのは否定の強調であり、ゆえに否定の強調もアオリスト的用法だというふうに理解できるのではなかろうか。

 動作の一括化についても出題したが、ほぼ連続して行われた動作が、細かい点のように理解され、それが主観的に大きな一つの点に見立てられるとすれば、それはアオリスト的用法そのものだということになる。ほぼ連続した動作と見なせるための動詞が限られているので、普遍的な完了体の用法とはならなかったのだろう。

 このように和文露訳入門を7月末に出してから今日に至るまで、これまでと本質的に異なるような新しい知見はないものの、体の用法についてより系統的な説明がつくようになったような気がする。このように考え直すきっかけとなったのも、投稿者からのフィードバックのおかげであり、ここに改めて投稿者の皆様に感謝申し上げる。

 ついでだが、いろいろ考えて相転移型動詞(誤伝の動詞改め)を、さらに結果現存兼評価型動詞と名称変更することにした。その方が内容を表していると思うからである。

設問)「妻のつわりはひどかった」をロシア語にせよ。

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2013年01月12日

●和文解釈入門 第603回

(273) 「シベリヤ物語」、長谷川四朗、講談社文芸文庫、1991年
 抑留生活で知りあった素顔のロシア庶民を、淡々と透明な文体で描写し、ロシア人気質を描く上でロシア人の性格に最も肉薄した日本人作家である。文章にはさまれるロシア語も正確である。五木寛之が本作品を「のんきな本で捕虜生活の苦しみが出てないですね」と言ったと解説にあるが、そうであれば、五木自身は当然のことながら捕虜生活を経験していないし、結局のところ彼のロシア人との付き合いも表面的なものだからにすぎなかったからだと思われる。本書の記述は捕虜生活における極限の状態が日常化して、すべてを感覚的に麻痺させて見えるように思えたからではないか。その証拠に五木の小説『さらばモスクワ愚連隊』や『朱鷺の墓』に出てくるロシア人は現実感がまるでない。本書はロシア人気質を知るには必読の書である。

(274) 「シベリアの日本人捕虜たち」、セルゲイ・クズネツォフ、岡田安彦訳集英社、1999年
シベリアの捕虜について客観的に日本人抑留者について、その生の声も収めた労作。元の上司の鶴賀末義氏について2か所好意的に触れられていたのは嬉しかった。ほかにカタソーノヴァの「ソ連における日本人捕虜」(Крафт+, 2003)があるが、学術的で抑留者の生の声は載っていない。

(275) 「ロシア国籍日本人の記録」、川越史郎、中公新書、1994年
 終戦後自らの意思でソ連に残留した川越史郎の自伝。アナウンサー、通訳・翻訳などで活躍された。川越さんとは1980年代中ごろモスクワで何度かお会いしたことがある。ロシアソ連文学にも通じており、歴史小説家のピークリのことをほめておられたような記憶がある。

(276) 「19階日本横丁」、堀田善衛、筑摩書房、1972年
 1960年代モスクワに進出した日本商社の出張者および駐在員の姿をユーモラスに活写している。とくに通訳する場面は秀逸で、元の日本語がロシア語になるうちにだんだん原文から離れ離れになり、通訳の終わるころにようやく日本語原文と一緒になるというくだりでは、自分のスピーチの通訳も多かれ少なかれこんなものだなと思った次第である。それは通訳の問題もあるが、話す方の日本人が自分の話す日本語をちゃんと理解していないことにも原因があるというか、その方の比重が高いと思う。

設問)「この列車はここが終点です」を動詞を使ってロシア語にせよ。

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2013年01月13日

●和文解釈入門 最終回

同じ設問の繰り返しが一度、出題しなかった設問が一度あるから、それらを考えるとこれでほぼ正味600回続けたことになるが、このコーナーもついに出題用短文のネタ切れのため、今回で終了することになった。2年近くにわたって、このコーナーを支えていただいた投稿者の皆様方には深くお礼を申し上げる。おかげで自分のロシア語の勉強にもなり、『和文露訳入門』という電子書籍も出版できた。ひとえにこのコーナーのおかげである。このコーナーを始めたきっかけはいろいろあるが、和文露訳における露文重視はおかしいと常々思っており、和文を主体とし、日本語自体の時制やアスペクト(完了相、進行形など)をよく理解して、対応するロシア語の体の用法に正確に当てはめることが、正しい訳につながるのだということを示したかったからである。いくばくかでもその思いが投稿者や定期閲覧者(いるかどうか知らないが)の方々に伝わればよいし、『和文露訳入門』やその根底にある考え方が、実践における会話での和文露訳の便利なツールの一つにでもなればと願っている。

 これまでのロシア語に関する文法書や参考書は、多かれ少なかれ対象言語のロシア語の時制やアスペクト(完了相や進行形など)を解説するものであり、日本語のそれは学習者が日本人である以上当然理解しているはずだという前提で書かれているように見える。しかし理解すると意識するは同じではない。会話において和文露訳しようとすれば、当然日本語とロシア語の時制やアスペクトの違いを明確に認識する必要がある。それについてはこのコーナーの投稿者の方が一番よく分かっているだろう。『和文露訳入門』では時制やアスペクトを日本語やロシア語のそれ中心ではなく、理詰めに時制やアスペクトを認識すれば、ロシア語の体の使い分けができるようになるよう努めたつもりである。つまり話し手の意識の持ち方によって体の使い方は変わるべきで、本書ではそのように配慮したつもりである。しかしまだ不十分であり、『和文露訳入門』を7月末に出してから現在までの新しい知見、誤植訂正、アクセント表示のアポストロフィーから下線への変更、いくつかの新項目の追加、既存の項目の例文の追加、複合動詞、複合副詞句の追加などページ数にして60ページ以上増訂版の原稿では増えているので、それらを反映した『和文露訳入門』増訂版を出版するような機会もあればいいがと思っているが、こちらのほうはどうなることやら。

 まだ和文露訳の練習を続けたいという向きには、600回を通して投稿した人はいないので、第1回からでも、あるいは自分が投稿しなかった回でトライして欲しい。自分の答えが正解と異なるが、正解かもしれないと思う方、あるいは私の答えに疑問のある方はその回に投稿いただければ、必ずコメントする。最初の30回ぐらいまでは、満を持してという感じて出題を用意したので、役に立つ事柄もより多かろうと思う。設問とは別のロシア語自体に関する質問はこのコーナーに質問していただいてもよいし、ホームページ「ランポポー」のメールというところからメールしていただいてもよい。いずれにせよ、質問があれば、ロシア語質問箱というコーナーで回答することにする。

 このコーナーがロシア人に頼ることなく、学習者自身の力で自らの和文露訳の技術を向上させることに少しでも寄与できたらよいと願うと共に、どなたかがロシア語語用論についての一般向け参考書を書いてくれるきっかけになればと願う次第である。最後に、陶芸家で人間国宝の中島宏氏の「やっているうちに仕事に情が移る」と「毎日同じことをやっていればだれでも一人前になる」を結びの言葉としたい。

設問)「全体のわずか30%の機械だけが実際に稼働している」をロシア語にせよ。

Posted by SATOH at 06:37 | Comments [5]

2013年06月06日

●続和文解釈入門第114回

これらの体の参考書で気になるのは、過去・未来の時制、不定法や命令法において特化した完了体や不完了体の用法が自明(所与)のこととして、書かれていることである。現在の時制では繰り返し、過程などは当たり前の用法として、触れさえしていない。それらを覚えることが体の使い分けをする前提であり、実用的でもあるという事は分かるが、帰納的な仮説の域を出ず、結果の存続、反復、過程などのこれらの用法には、弱い関係性が認められるらしいとはいうものの、不完了体や完了体に共通する何かについてはほとんど触れられていないと言ってよい。

 第107回に紹介した、マフニョーワさんの『男と女のロシア語』(TLS出版、2010年)の文法編にある完了体と不完了体とは何かという定義「ロシア語の動詞は、多くは完了体と不完了体のペアで成り立っています。完了体とは1回限りの動作や、その開始と終了がはっきりと意識できる場合です。不完了体とは、進行・継続・反復する動作、もしくは動作そのものなどを表す場合です」は、非常に簡潔に体の本質を表現していると思われるので、それをもとに話を進める。(次回に続く)

出題)「洗車をお願いします」をロシア語にせよ。

Posted by SATOH at 06:21 | Comments [4]

2015年03月28日

●和文露訳指南第220回

2009年ヤポンチクの暗殺に端を発したハサン老Дед Хасан (Аслан Усоян)とタローТаро (Тариэл Ониани)のヴォールвор в законе同志の抗争は、2013年1月のハサン老の暗殺を以っても止んでいない。ハサン老はグルジア系ではあるが、ロシア系マフィアとも関係がよく、ヤポンチク亡きあと、当時のロシアマフィアのドンと言われていた。グルジア系マフィアを代表するタロー(自身はギリシャ系)とはソチオリンピックの施設の利権を巡って争っていた。タローは服役中であり、ヤポンチクの暗殺を直接指揮したと言われるグルジア系のロフシャンРовшанは未確認情報ながら2013年2月にはトルコで暗殺されたと言われる。ハサン老の跡目を継いで、ロシアマフィアのドンとなると予想されるのは、ヤングシャクロШакро-молодойであろうが、彼は今スペインで服役中である。2013年時点でロシアの犯罪界の実力者はシシュカンШишкан、チューリンТюрин(シベリアを仕切っているとされる)、アクセンАксен、ペートリクПетрикがいるが、じきにヤングシャクロが出獄するはずなので、彼の動向次第である。彼自身も敵も多い。ロシア内務省の資料によれば、2013年現在ヴォールвор в законеの数は、旧ソ連圏で活動しているのが428名、拘置所に入っているのが75名、計503名とされるが、暗殺される者や、麻薬の打ち過ぎで死ぬものもあり、また自派のヴォールを増やすために、新たに多くのヴォールを襲名させるという動きもあり、数は一定しない。最近は中国系やベトナム系のマフィアもロシアに進出しているとされ、既存勢力も安閑としてはいられない。

出題)「その魔法の呪文は効きめがある」をロシア語にせよ。

Posted by SATOH at 07:35 | Comments [0]