2013年01月12日

●和文解釈入門 第603回

(273) 「シベリヤ物語」、長谷川四朗、講談社文芸文庫、1991年
 抑留生活で知りあった素顔のロシア庶民を、淡々と透明な文体で描写し、ロシア人気質を描く上でロシア人の性格に最も肉薄した日本人作家である。文章にはさまれるロシア語も正確である。五木寛之が本作品を「のんきな本で捕虜生活の苦しみが出てないですね」と言ったと解説にあるが、そうであれば、五木自身は当然のことながら捕虜生活を経験していないし、結局のところ彼のロシア人との付き合いも表面的なものだからにすぎなかったからだと思われる。本書の記述は捕虜生活における極限の状態が日常化して、すべてを感覚的に麻痺させて見えるように思えたからではないか。その証拠に五木の小説『さらばモスクワ愚連隊』や『朱鷺の墓』に出てくるロシア人は現実感がまるでない。本書はロシア人気質を知るには必読の書である。

(274) 「シベリアの日本人捕虜たち」、セルゲイ・クズネツォフ、岡田安彦訳集英社、1999年
シベリアの捕虜について客観的に日本人抑留者について、その生の声も収めた労作。元の上司の鶴賀末義氏について2か所好意的に触れられていたのは嬉しかった。ほかにカタソーノヴァの「ソ連における日本人捕虜」(Крафт+, 2003)があるが、学術的で抑留者の生の声は載っていない。

(275) 「ロシア国籍日本人の記録」、川越史郎、中公新書、1994年
 終戦後自らの意思でソ連に残留した川越史郎の自伝。アナウンサー、通訳・翻訳などで活躍された。川越さんとは1980年代中ごろモスクワで何度かお会いしたことがある。ロシアソ連文学にも通じており、歴史小説家のピークリのことをほめておられたような記憶がある。

(276) 「19階日本横丁」、堀田善衛、筑摩書房、1972年
 1960年代モスクワに進出した日本商社の出張者および駐在員の姿をユーモラスに活写している。とくに通訳する場面は秀逸で、元の日本語がロシア語になるうちにだんだん原文から離れ離れになり、通訳の終わるころにようやく日本語原文と一緒になるというくだりでは、自分のスピーチの通訳も多かれ少なかれこんなものだなと思った次第である。それは通訳の問題もあるが、話す方の日本人が自分の話す日本語をちゃんと理解していないことにも原因があるというか、その方の比重が高いと思う。

設問)「この列車はここが終点です」を動詞を使ってロシア語にせよ。

Posted by SATOH at 2013年01月12日 07:46
コメント

(1)Этот поезд доехал до конечной станции.

(2) Эта станция
является терминальной для
этого поезда.
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(1)は運動の動詞を使うというのは評価しますが、完了体というのは主観的ニュアンスを示すものであり、設問にはそういうものはありません。(2)は動詞に繋辞(=記号のようなもので、быть動詞の類)を使っているだけで、これはロシア語では省略可能ですから、本設問の要求に応えているとは言えません。終着駅(終点)はконечная станцияです。私の答えは、Поезд дальше не идёт.  
定動詞の否定文。不定動詞の否定文は動作がそもそもないという事を示すため、それまで動いていたという事を表現できないからこの設問では使えない。

Posted by ブーチャン at 2013年01月12日 09:36

1) Поезд дальше не идет.

2) Поезд прибыл на конечную станцию.
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(1)は正解ですが、(2)は完了体を使っているので、叙想的(主観的なニュアンス)、文脈によりますが、この場合は結果の現存が現れるようで、設問には特にそのような話し手の主観的ニュアンスはありません。

Posted by コーリャ at 2013年01月12日 17:22

Здесь последняя (конечная) станция для этого поезда.
Этот поезд дальше не идёт.
川越史郎さんの本読みました。冷静な書きぶりがリアルでした。他の3冊も読んでみます。
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二つ目の文が正解です。最初の文は動詞がないので設問の指示とは違いますし、直訳です。последняя станцияは映画の題名では見ますが、Его последней станцией был Афганистан.などと使い、確信はありませんが、人生の終着駅という意味ではなかろうかと思います。終点はこれから先に駅がないということではありませんが、последняя станцияは、未確認で恐縮ですが、これから先は汽車や電車が行かないのではなく、行きたくても先に駅がない、その路線の最後の駅だという意味ではないかと思います。

Posted by ゴ at 2013年01月12日 20:17

Конечная станция этого поезда - здесь.
Конечным пунктом этого поезда является эта станция.
Этот поезд отправляется сюда и дальше не идет.
3番目は必ずしも終点を意味しないかもしれないと思いましたが、お尋ねも兼ねて書いてみました。
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最初の二つは動詞がないか、ないと同然なので設問に応えていません。最後の文でотправляется сюдаというのはどういう意味なのでしょう?過程(進行形)として、終点に着く前のアナウンスでしょうか?そうであれば、この列車はここへ出発しつつありますが、先には行きませんという理解しがたい文になります。あるいは予定の意味に取っても、ここに出発するというのはおかしいと思います。ここというのは現在いるところかその近くを示すのであり、そうでない場所を示すならそこ、あそこのはずです。つまりотправляется сюдаを取ってしまえば正解です。理屈に合わないと思ったら、削除してみるということも便法の一つです。
 確かにидтиには、「来る」と「行く」の二つの意味があり、Иди сюда!は「(ここに)来い」となりますから、これと勘違いされたのでしょうか。отправляться = уходить или уезжатьなので、来るという意味はありません。

Posted by hatomame at 2013年01月12日 22:41

① Эта конечная станция поезда.
② Поезд прибыл на конечную станцию.

車掌さんがすでに終点に到着した列車の中で乗客に告げている場面が浮かびました。
自分なら①のように言いますが、動詞を使うとしたら②の結果の現存でしょうか。
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ご理解された通りなのですが、(1)のЭтаでは文になりません。列車のこの終点ということになります。Этоでしょう。直訳的ですし、動詞がないので設問とは違います。(2)は意味はその通りですが、叙想的ニュアンスがあります。設問にそのようなものはありません。

Posted by メイ at 2013年01月12日 23:12
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