2011年12月01日

●和文解釈入門 第195回

この頃テレビで交通事故や地震の遺族の談話を聞くと、「故人も今頃は天国から声援を送っているかもしれません」とか、「いつか天国での再会を云々」というのを耳にする。私の子供のころは「故人もさぞやあの世で云々」だったように記憶している。古代の神道では死者は山や海や森の彼方に去るぐらいで、具体的なあの世観というのはなかったというのを読んだことがある。死んだ直後の霊は荒魂(あらたま)であり、そのため鎮める必要があり、それがだんだんと和魂になり、33回忌を経て先祖と一体化するという説は近代のものらしい。仏教では本来は解脱だが、全部の宗派ではないにしろ一般的にはこれも死ねば西方浄土に向かうという風に受け止められている。現代の日本人の死生観は、桜葬などの樹木葬が増えていることを見ても、墓などのあまり重きを置かないが、それでも死ねば極楽ではなく天国に行って、そこで先祖や先に亡くなった親族と再会できるということらしい。それから先はどうなるのだろう。スウェンデンボルグの云うように霊界があって、死後そこで自分を高めるための修行をして生まれ変わるなどあるのだろうか?まあ証明できないことを考えても仕方がないのかもしれない。
設問)「街は車であふれている」をロシア語にせよ。

Posted by SATOH at 07:29 | Comments [6]

2011年12月02日

●和文解釈入門 第196回

糖化は老化と書いたが、先日NHKの「ためしてガッテン」という番組で人口透析についてやっていた。腎臓は糸球体の孔から血液の中の老廃物を排出して、血液をきれいにしているわけだが、糖が多くなると糖の分子が大きいからこの孔を無理やり壊して出てしまう。そのため健康な糸球体にある孔なら通さないはずのタンパク質まで排出してしまうことになる。いわゆる尿にタンパクが出るという状態である。それで血小板が孔を塞ごうとするが、その前に血管自体を塞ぎ、腎臓自体が機能停止の状態に追い込まれる。そうなると人工透析しか助かる方法がないということだった。腎臓の機能を調べる方法が老廃物の一種であるクレアチニンの量である。私は0.81 mg/dlでこの3年ほど0.83からほんの少し減っている。私の住んでいる東京都葛飾区の基準値は1.09でこれ以下が健康とされる。番組の表で見ると私の腎臓は76%が機能しているとのことで、年を考えればオンの字だろう。糖化が老化という意味がよく分かった。私はここ何年来コーヒーや紅茶には砂糖を入れない。家内が料理で使う砂糖もヨーグルトについている砂糖で十分足りている。さとうは名前だけで十分なのだ。
襟巻やスカーフはкашнеである。платокやшарф(布製ないしはニット製で細長い)でもよいが、この二つは頭や肩にかぶせたりもする。ハンガーはワイシャツや背広、ズボンなどを掛けるものをплечикといい、вешалкаはいくつかあの衣装がかけられる衣装掛けを指す。最近вешалка-плечикиという単語を見かけた。衣装掛けに何本かハンガーがかかっているものだと思う。栓抜きはホテルの備品目録にはоткрыватель (для бутылок)とあるが、この単語を知らないロシア人も多い。口語ではоткрывашка (для бутылок с пивом)〔ビールの栓抜き〕, открывалкаなどといい、ключ для открывания пивных бутылокというのも辞書にはあるが、長いので聞いたことはないし、ключも多義で、鍵のほかにスパナ(レンチ)という意味もあるからこの意味ではここまで長く説明的に書かないとピンと来ないのだろう。
設問)「何年何月何日の7時までに出頭ください」をロシア語にせよ。

Posted by SATOH at 07:52 | Comments [3]

2011年12月03日

●和文解釈入門 第197回

19世紀から20世紀初めのロシア語は現代ロシア語と比べて、それほど変わっていないと言われるが、それでも単語そのものの意味が少しずれてきているものもある。заряは19世紀では夕焼けと朝焼けの両方の意味があったが、現代語では朝焼けの意味が一般的である。
あまり文法書に載っていない基本単語の用法を挙げてみる。ждатьは副動詞とはならない(代わりにожидая, дожидаясьを用いる)し、後に不定形が来ない。знатьの後にも不定形が来ない。любитьの後にはчтобы, когдаは来るが、что, какは来ない。обожатьには命令形がない。слышатьも命令の意味では使わない。слышьというのは俗語で、「あのね、聞いてる、だってよ」という意味である。мочьには命令形がないのでуметьの命令形(сумейと完了体にすることが多い)を使う。Сумей догнать.(追いつけることが出来るようにせよ)となる。またмочьには未来形がないので、в состоянии + 不定形を使い、Банк будет в состоянии погасить задолженность через год.(その銀行は1年後に負債を返済することが出来るとしている)となることは拙著「アネクドートに学ぶ実践ロシア語文法」で触れた。俗語のне могиは女性が痴漢に「ダメ、やめてよ!」という感じで使うне смейと同じ意味で、非常に強い禁止である。このсмейはсметьが不定形であって、суметьではないことに注意。разныйは短語尾では使わない。предметは物主代名詞とは語結合をしない。だからмой предметとは言わない。どうしてもというのならпредмет моего исследования(私の研究対象)とでもするしかない。
設問)「ポケットから時計が掏られた」をロシア語にせよ。

Posted by SATOH at 04:30 | Comments [6]

2011年12月04日

●和文解釈入門 第198回

 体の用法の参考書は例文を見る限り、露文解釈の観点で書いていると思われるので、時制の説明もロシア文が中心であるのも当然である。ただロシア語と日本語は系統が全く違う言語であり、しかも一見して時制が少しずれているのではないかと感じられる表現もいくつかある。例えば結果の存続(「~いらしています」などに完了体の過去形を使う)とか、経験(「~したことがある」に不完了体過去形を使う)などがあり、そのため会話用の和文露訳をする上で、日本語を中心に考えて、ロシア語ではどうなるかという文法的説明が学習者のために必要だと考えた次第である。
 露文解釈は体の用法を特に気にしなくても文脈によっては意味が理解できるし、訳文である和文では特に意味の違いを分けなくても日本語の表現が変わらない場合も多い。露文解釈だけをロシア語の勉強の中心に据えていると、いざロシア語の会話となったときに体の用法に無頓着になりがちである。またプロが行う露文和訳となれば、体の用法を完璧に理解していないとロシア語のニュアンスを理解できないことになる。城田先生によれば文芸書の和訳でも体の用法を無視した誤訳も散見されると言うから素人に限ったことではないかもしれない。会話で体の用法を和文露訳で使う場合、発想を変えて、これまで紹介したように日本語を中心に考えて、用法を整理して覚えれば案外簡単なものであると分かる。
「記念碑」はпамятникとмемориалが考えられるが、памятникは死後の個人を想定していて、生前に銅像を建てると、それはскульптурное изобрежение(彫像), бюст(胸像)という単語を使う必要がある。мемориалは個人には使えず、集団か抽象的なもの(栄光など)で、しかも壮大なというニュアンスがある。サインは書類の署名はподписьで、アイドルなどからもらうのはавтографである。
設問)「湖は南北およそ1200キロと細長く、平均の幅は320キロで、周囲およそ7000キロである」をロシア語にせよ。

Posted by SATOH at 05:36 | Comments [6]

2011年12月05日

●和文解釈入門 第199回

ロシア語でyouを丁寧に表現すればвыである。これはフランス語から来たものだが、その基のラテン語においてローマ皇帝がvos(フランス語のvous)と丁寧語で呼びかけられたいがために、自分の事をnos(フランス語のnous)と呼んだことが、いわゆるимператорское мы(朕)という表現の始まりとされる。
 この他にa-で終わる名詞はインドヨーロッパ語族では元来女性単性形の集合詞だったという事も最近知った。ロシア語だけではないのである。
 テレビのリモコンはпультと言い、これはпульт дистанционного управленияを略した言い方である。塹壕はтраншеяは防御施設の全てのトーチカをつなぐ狭くて深い交通壕であり、окопは塹壕は塹壕でもタコツボ(個人用)などの散兵壕や、掩壕(兵馬を敵弾から守るためのもの)も含む。絞りはカメラのはдиафрагмаで、金属加工ではвытяжка、材料の延性の減面率(断面減少率)のことを相対絞りотносительно сужениеなどという。痰はмокротаで二番目のoに力点が来るが、湿り気のほうはаに力点が来る。
設問)「試験を行うのは国家委員会です」をロシア語にせよ。

Posted by SATOH at 05:29 | Comments [7]

2011年12月06日

●和文解釈入門 第200回

2011年9月14日付の読売新聞に「情報化社会では誰も考えようとはしない」とあった。ニュースなども新聞やテレビを見る時間すらないか、そういう気持ちが元々ないのか知らないが、ネットの箇条書きになっている見出しを読んで終わりということらしい。だからマスコミも如何に簡潔に分かりやすくというのを競っているようである。地震やテロが起きたというような場合はそれでいいだろうが、なぜ起きたのか、またその影響を考えてみるためには、いろいろな識者の見解というのは無視できないはずだ。それも2、3行ではなく、いろいろな人の見解をじっくり読むという習慣をつける必要がある。読書も修行である。こういうのは子供じゃないのだから個人の考え次第である。ロシア語も同じことで、努力を続けさえすれば徐々に難しいと思われた本も読めるようになる。自然にロシア語の本が読めるようになるという事はない。
設問)「彼女はたった今ここにいたよ」をロシア語にせよ。

Posted by SATOH at 07:58 | Comments [5]

2011年12月07日

●和文解釈入門 第201回

和文露訳で正しい答えを提示するのは簡単だが、回答者の作文を見て、それが間違っていれば、どこが違うのか、語法的(文法的、語結合的)にどう違うかを具体的に教えて、正解への道筋を示してやらないと、同じ誤りを繰り返すことになる。それに数学と違い、ロシア語の和文露訳の答えは味絶対に正しいという回答はあまりない。文脈というか、そのときの状況にもよるし、複数ある場合もある。「人の患いは人の師となることを好むにあり」というが、教えたいというのであれば、精神的なものも当然ではあるが、それ以前に生徒が求めているもの、つまり、いかにすればロシア語が話せるようになるか、ロシア語で自分の考えをロシア人に伝えることが出来るようになるかを考えて、それに応えるように自分のレベルを高めるよう不断の努力が必要である。生徒の方も自分の日本語での思考を磨き上げるために、日本語の本をたくさん読む必要がある。通訳をしていると、毎回日本語で何を言っているのかさっぱり分からないいい年をした大人も世の中にけっこういるなと気づかされることが多いからだ。
設問)「汽車は遅れを取り戻してきている」をロシア語にせよ。

Posted by SATOH at 05:45 | Comments [5]

2011年12月08日

●和文解釈入門 第202回

ロシア語では朝出かけるときに挨拶として「行ってきます」とは言わないが、この文字通りの意味をロシア語でいうとすると、Я пошёл.である。ロシア人は実際に出発することを他の人に知らせるために使うのであって、これはロシア語では挨拶言葉ではない。
故障は1回ないしはいくつかの別々の故障が頭にある時はнеисправность, неисправности, неполадка, неполадкиを使い、при неисправности (-тях), при неполадке (-ах)(故障の際は)などというが、停電、断水、遅配など故障が続けて起きるような場合は、перебоиとперебойを複数形で使う。перебои в доставке(遅配)、перебои со светом(停電)、перебои в подаче электроэнергии(停電)、перебои в подаче воды(断水)、などという。сбой = перебой в движении, работе, действииであり、電気のショート、電線の破断とか、コンピューターなどでの不具合を指し、сбой в системах(システムの不具合)などという。
「人の外見」のうち、внешний видは身だしなみ、容姿をいい、внешностьは見かけ(人の本質とは違うというニュアンス)、наружностьは努力しなくても付与されたという意味の外見という意味である。обликは外見のみならずその人の本質も含めた姿かたちという感じで、肯定的な意味で使われることが多い。動物の外見はэкстерьерという。
設問)「長いこと追いつこうとして、ついに追いついた」をロシア語にせよ。

Posted by SATOH at 05:07 | Comments [5]

2011年12月09日

●和文解釈入門 第203回

露文解釈で意味だけ分かればいいのだというのであれば、露和辞典でだけで十分である。しかし文章を吟味して味わいたい、昧読したい、ニュアンスもすべて理解したいというのであれば、またそういう意味でドストエーフスキーなどの19世紀の文学書を読みたいのであれば、ダーリДальの辞典も必要だ。現代文学ならダーリは不要かもしれないが、逆に口語辞典や俗語辞典がないと会話の部分は正確に理解できないだろう。ソルジェニーツィンは故新田實先生も文章が語法から外れているところが多いと指摘されていたし、ロシア人のロシア語文法学者もソルジェニーツィンの例文を挙げてこれは通常こうはいいませんと書いていた。「収容所列島」は隠語辞典があれば、ソルジェニーツィンの中ではドキュメンタリータッチだし読みやすいほうだが、「赤い車輪Красное колесо」となると、擬古文を自分の文体にしているようで、ダーリの辞典のほかに、彼が自分で編んだ辞書Русский словарь языкового расширения, Наука, 1990があった方がいいかもしれない。彼の著書にはそれだけあっても分からない単語というのがたまに出てくるし、文体がくどい感じがするので文章自体はあまり好きではない。昔邦訳で読んだので特にロシア語で読みたいという気も起きない。「200年後Двести лет спустя」はロシアのユダヤ人について書かれたものだが、邦訳もなく(あるのかもしれないが読んだことがないので)必要性があるから読んだぐらいだ。だからソルジェニーツィンはロシア・ソ連文学を原語で読むという(邦訳で読まない)私にとって例外である。
最近ある必要があって「収容所列島」を読みだした。読んでいるうちにКто ж у истока – курица или яйцо? люди иди система?(鶏が先か卵が先か、元々は何なのか?人か体制か?)という文に行きあたった。これは第40回の設問で出した活動体名詞はкто(厳密に言えばчтоで受ける場合も散見される)で受けるという事に対して、この文の鶏は活動体としても、卵はどうなのかとか、活動体である鶏が先に来ているからктоで受けているのかなどといろいろ疑問がわく。これについてはソ連時代のアネクドートに、
- Что было раньше - курица или яйцо?  「鶏が前か、卵が前か?」
- Раньше было всё!          「前には何でもあった」
とあり、これはчтоで受けている。このような文を前にすると、ソルジェニーツィンとてもктоかчтоかどちらにするか多少は迷ったのかもしれないなと思うと少し楽しくなる。
設問)「この家は築何年ですか?」をロシア語にせよ。

Posted by SATOH at 07:14 | Comments [4]

2011年12月10日

●和文解釈入門 第204回

辞書を引かないとロシア語はうまくならない。辞書を引くのが面倒だと言うのは理解できるが、語彙を覚えるための一つの手段と割り切ってやるしかない。露露辞典をできるだけこまめに引くようにすれば、思わぬ発見があることもある。それを自分用に記録しておけば後で役立つこともあろう。

 同僚にはтоварищ по работе, коллега (по работе), сослуживецがあり、仕事仲間という意味だが、товарищは最近使わないようである。коллегаは同僚は同僚でも、知的労働者というニュアンスがあり、同じ会社の人でなくとも、同じ分野の職種の人であれば使える。御者はкучер, возницаが普通だが、昔の辻馬車の御者はизвозчикであり、повозочный, ездовойは軍、軍の衛生部隊の御者を指し、каюрは犬ぞり、トナカイぞりの御者を指す。возчикは荷馬車の御者である。

設問)「待ちぼうけかと思ったわ」をロシア語にせよ。

Posted by SATOH at 05:40 | Comments [5]

2011年12月11日

●和文解釈入門 第205回

「(これから)~します」をロシア語にしようとして未来時制を使おうとすると、完了体未来形を使うべきか、быть の未来形 + 不完了体不定形を使うべきか迷う。第21回本文でもこのテーマについて書いたが、別の角度から選ぶ基準というものはないか考えてみたい。磯谷孝先生の「演習ロシア語動詞の体」(吾妻書房、1977年)を読み直していたら、そのものズバリではないが、быть の未来形+ 不完了体不定形が使えない不完了体動詞の基準らしきものが書いてあったので、ご参考までに私なりに理解し、それを次のようにまとめてみた。不完了体未来形が絶対に使えないものもあるが、優先順序でいえば完了体がよく使われるというものを挙げておく。
a) 不完了現在形で予定を示すことができる動詞群
 「(これから)昼食を2時に取るんだ」いう場合、Я обедаю в два часа.とするのが普通であり、実現の可能性が一番高い。無論不完了体だから「いつも昼食は2時に取る」という風にも取れないことはないが。そこは文脈次第である。頻度は少ないが、Я буду обедать в два часа.も間違いではない。訳は「2時に昼食を取るつもりだ」というふうに意向を示すことになる。さらにЯ пообедаю в два часа.なら、和訳は同じでも、食べ終わるという動作の完了の意味が強くなるか、奴は遊びに行くが、俺は昼食を取るというような新規の事柄というニュアンスが出てくる。こういう動詞群は和文露訳の場合は文脈によるのは当然だが、不完了体現在形を使えばスケジュールに沿ってという感じがして、ビジネス関係などでは多用されるが、使える動詞は限られている詳しくは第177回本文参照のこと。
b) 定動詞
 ехать, идти, лететьなどで、「ペテルブルグへ飛びます〔行きます〕」を何の脈絡もなく(いきなり)×Я буду лететь (ехать, идти) в Петербург.とは言えず、新規の事柄だからЯ полечу (поеду, пойду) в Петербург.と言わなければならない。無論不完了体現在形の予定の用法で、Я лечу (еду, иду) в Петербург.とも言える。しかし、従属文の中のように刺身のつまというか、意味の重心が来ないような文では不完了体未来形も使える。
Когда мы будем ехать мимо водохранилища, я покажу вам прекрасное место для отдыха.(貯水池のそばを通る時に、休むのにすごくいい場所を教えてあげる)
c) 限界を語義に持つ動詞群
кончать, начинать
 これらは完了体命令形が来るのが普通だが、刺身のつまのような用法で、Я буду кончать работу.(仕事を終えます)と言えないことはない。Будем начинать!(始めましょう)というのは、Давайте начнём (начинать)と同じ意味だが、雰囲気的にそうするのが当然という動作の着手というならНачинаем!というのが普通だ。С чего начнём? (= С чего начать?)〔何から始めようか?〕と完了体未来形が来るのは、新規の提案だからである。
d) 持続的動作過程を表すことのできない動詞群
 приезжать, приводить, привозить, приносить, приходитьなどの他にも第177回の表の現在時制のところに過程を表現でいない動詞群を紹介しているので、それも参考になるかもしれない。ただこれらは繰り返しの意味では不完了体未来形を取る。
e) その完了体が繰り返しのきかない1回の動作、意志的・非目的志向的動作を示す動詞群
 видеть, выздоравливать, вылечиваться (лечиться), поправляться, простужаться, погибать, рождаться, умирать, упадатьなど。
f) その完了体が瞬間的に成立する動作を表す動詞群
 брать, давать, изобретать, находить, получатьなど。
※ получатьにはТы будешь сегодня получать стипендию?(お前今日奨学金受け取るつもりか?)という文のように目的志向の意味があるときには、不完了体未来形が使える。
g) その完了体が状態の変化・発生を示す動詞群
 освобождаться, превращаться, становитьсяなど。
h) 無意識にもたらされる否定的結果を表す動詞群
 лишаться, ломать, разбивать, терять, уронятьなど。

上記の不完了体はбытьの未来形とともに不定形は、新規の事柄を示すためにいきなりは使えないし、いかなる文脈においても使えないものもある。逆に考えれば、使えるのは、
1) 動作の有無の確認
Я буду читать.(読みます)
 このように動作に完成がないときや動作がいつ終わるか不明という場合に使う。
2) 継続
Он будет долго уговаривать её.(彼は彼女を長いこと説得することになる)
3) 刺身のつまのような用法(反復や所要時間などを示す用法)
Когда будете приходить на занятия, приносите с собой книги.(授業に来る時は、〔毎回〕本を持って来てください)
Это очень удобный поезд. На нём мы будем ехать до Петербурга всего 6 часов.(これは非常に便利な汽車だ。ペテルブルグまでたった6時間で行くんだ)
- Завтрв я поеду в Москву.「明日モスクに行くんだ」
- На чём вы будете ехать?「何に乗ってで行くんだい?」
- На автобусе.「バスでさ」
4) 順次的用法ではない場合
Когда будете уходить, погасите свет.(帰る時は灯りを消して下さい)
 完了体未来形が続くと、動作が続けて起こるような(順次的)ニュアンスなので、そうではない時間を拘束しないような場合に不完了体未来形が従属節に出てくる。
5) 否定的意図
Я сейчас уйду и не буду мешать вам.(すぐに失礼します。お邪魔をするつもりはありませんから)
6) 着手(ここから予定や目的意識を持つ動作の意味が出てくる)
着手というのは、雰囲気的にこうなるのが自然であるという動作にも用いられるという事を覚えておこう。例えばレストランなどでЧто вы будете заказывать?(御注文はいかがなさいますか?)というのもレストランに入ったら食べ物を注文するのが自然であり、この文は着手を示していることは分かるだろう。
 両方の体が使えるような場合もあるが、ニュアンスの差は存在する。「明日電話申し上げます」という文は、Завтра я вам позвоню.やЗавтра я буду звонить вам.と露訳できる。強いて両者の違いを言えば、完了体未来形は動作実現の強い意志を示し、不完了体未来形は目的志向型(~するつもりである)ということだが、不完了体未来形が口語的だという他にはあまり違いは感じられない。ただ動作の完成時点を限定(期限を明示)する場合には、Я позвоню вам пораньше.(ちょっと早く電話します)と完了体未来形を使う。
まとめとして考えるならば、一般的に気持ちの上で完了体未来形のほうは不完了体未来形に比べて、すぐ行動に移すというニュアンスがあり、動作や行為のきっかけや出だし、ないしはこれまでの動作や行為の流れを変えるような動作や行為を示す。不完了体未来形は動作に一拍置くか期限が明示されないという感じであり、これまでの動作や行為(いわば線路)の延長上にあると思われるような動作や行為を示す。延長上にあると確信できれば、使える動詞の数は限られているが不完了体現在形を使うといういうことになる。
設問)彼はウェートレスから勘定書きをもらって支払を始めた。
「だけど俺も出したほうがいいかもな」
「次の昼食はあなたのおごりですよ」の3つの文すべてをロシア語にせよ。

Posted by SATOH at 06:42 | Comments [5]

2011年12月12日

●和文解釈入門 第206回

ロシア語難語辞典Словарь трудностей русского языка, Розенталь/Теленкова, Русский язык, 1981に基づき、「~の後で」という意味のпосле + 生格とс + 造格の違いについて書いて見る。「母の死後状況は変わった」の露訳として、Положение изменилось после смерти матери.とПоложение изменилось со смертью матери.の違いは、前者が母の死後ある程度の時間が経過したという可能性があるのに対して、後者は母の死の直後というニュアンスである。
鮭は普通はシロザケкетаのことで、ベニザケはнеркаで、べニマスともいう。ヒメマスはその陸封型。ギンザケはкижучで、キングサーモン(マスノスケ)はчавычаである。これらの鮭は太平洋産だが、大西洋の鮭であるタイセイヨウサケ(アトランティックサーモン)はлосось (сёмга, благородный лосось, атлантический лосось)という。水産会社の人によればベニザケが一番おいしいということだったので、ロシアでのお土産は一時неркаの缶詰だったことがある。しかしシロザケとベニザケの違いは後者がオレンジ色が濃いぐらいで、味の方はよく分からなかった。ちなみに寿司ネタのサーモンはサーモントラウトのことでニジマスрадужная форельの商品名である。これは海洋性のサケ科の魚にはアニサキスанисакисなどの寄生虫がいて生食するのは危険だから、陸で養殖した(つまり寄生虫がつかないように管理した)同じサケ科の魚を生食用に使うためである。アニサキスを殺すにはマイナス20度で24時間以上の冷凍、ないしは摂氏60度で数分加熱処理すればよいということなので、サケにルイべという料理があるわけもよく分かる。サケマス科の魚でマスは一般的に陸で一生を終える魚を言い、カラフトマスгорбушаは例外である。イクラはカラフトマスのイクラが一番おいしいという話をマガダンでロシア人から聞いたことがある。カラフトマスの肉の方はサハリンでは、猫またぎならぬ犬またぎで味はまずいとサハリンの人は言っていたが、缶詰で食べる限りよく分からない。これは果たして得な性分なのか損な性分なのか?ちなみに彼の地の犬はカラフトマスなぞには見向きもせず、食べるのはサケの頭を少しかじるぐらいだとか。ヒグマなどもサケの遡上のシーズンで川にサケがたくさんいるときは頭だけを食べて後は捨てていたから同じようなことかもしれない。そういうおいしい目に遭ったことはないので分からないのである。
設問)「経験者の言う事を聞け」をロシア語にせよ。

Posted by SATOH at 06:29 | Comments [5]

2011年12月13日

●和文解釈入門 第207回

20年の時を経てドストエーフスキーの死の家の記録を再度ロシア語で読んだ。20年前には印をつけたのは5、6か所ぐらいだったが、今でも1ページに2、3か所つける。進歩したのだろうが、ちょっと情けない気もする。もっとも印をつける中身がずいぶん進歩したのだと思いたい。当時は内容を追うのに精いっぱいだったし。150年以上前の本だが、この表現は会話に使える(ひょっとしたら哲学的な)というつもりで語彙集にも入れてみた。牢内の動物(犬や鷲など)のくだりが昔は何とも思わなかったが、いま読み返すと描写が淡々としているとはいえ胸に迫るものがある。この調子でチェーホフの短編や同じドストエーフスキーのカラマーゾフの兄弟などを読み返せば新たな興趣や共感も浮かぶのかもしれないが、まだ他に読むものがいっぱいあるのでそうはいかない。後10年も経ったらどうだろう?
設問)「われらは別の道を行く」をロシア語にせよ。

Posted by SATOH at 06:05 | Comments [4]

2011年12月14日

●和文解釈入門 第208回

歴史的過去の用法の一つに劇的過去настоящее сценическоеというのがあり、アカデミー文法ではнастоящее комментирующее(注釈的現在とでも訳すのか)と歴史的現在とは別の項目を立てている。これは脚本のト書きのようにこれから起こる出来事を不完了体現在形で記述するもので、物語をかいつまんで紹介したり、その絵画が何を表しているのかの説明とか、文学作品の中で出来事を時間の流れに沿って描写するときなどに使われる。この用法は歴史的現在と違い、過去の出来事をあたかも目前にあるかのようにするというような状況設定は必要ない。実際の作者が全てを見通していて、ある種の筋書きという線路の上を走るようなものだから不完了体現在形が使われるのだろう。例えば「Москва слезам не верит(原題はМосква слезам не верит, ей дело подавай.「泣き言は言わずにさっさとやれ」という諺から来ていると思われる)」という有名な映画の粗筋紹介では、Действие фильма происходит в 50 – 70 –е гг. ХХ в. Три подруги приезжают в Москву из провинции.(映画の舞台は1950年~70年代。女友達3人が田舎からモスクワにやってくる)と、別段シーンが目の前に浮かんでくるという感じではないが、立派な劇的現在の用法である。
 ロシア語百科Русский язык, энциклопедия, Филин, Советская энциклопедия, 1979で現在時制の説明を読んでいたら、歴史的現在には過去のみならず未来をも不完了体現在形で示す用法があるとして、Через месяц я кончаю институт и начинаю работать в школе.(1ヶ月後大学を卒業して、学校で働き始める)という文を挙げていた。専門家ではないから何とも言えないが、これは不完了体現在の予定の用法にすぎないように思われる。これをわざわざ歴史的現在と呼ぶ必要があるのか非常に疑問だ。
設問)「彼は上司とそりが合わない」をロシア語にせよ。

Posted by SATOH at 05:45 | Comments [6]

2011年12月15日

●和文解釈入門 第209回

「待ちぼうけかと思ったわ」の私の回答(第204回)をА я вас уже не ждала.としたが、これはシーモノフСимоновの長編「生者と死者Живые и мёртвые」にある一節である。ただそれに納得のいかない人もいるかもしれないので、別の面から解説する。レーピンРепинにНе ждалиという有名な絵がある。これは1884年から1886年にかけて製作されたもので、ナロードニキの流刑囚が思いがけずに家族に戻った場面を描いている。この絵の題名からне ждалиという表現は思いがけない出来事について話す時に使われるようになった。絵はネットですぐ検索できるから見てほしいが、それを見ればこの絵の題名が「来るとは家族のだれも思っていなかった」という意味になることがよく分かるだろう。
 日ソ図書のホームページに「ロシア語類義語語義・用法解説辞典(動詞・名詞・形容詞・副詞)」スレサーエヴァ、3780円とあるが、これが私のいう類義語辞典の一つである。ご参考までにお知らせする。
設問)「そのゴルフクラブは炭素繊維製だ」をロシア語にせよ。

Posted by SATOH at 05:59 | Comments [5]

2011年12月16日

●和文解釈入門 第210回

大学を出てからある商社に勤め始めて1年後、名古屋の知多(ソ連のではなく)でソ連向け浮きドック建造の通訳見習いを1カ月ほど出張するよう会社から命じられた。そこで日本語の本はすぐ読んでしまうので、その頃すでに買い始めていたゴーゴリ全集から「検察官」の原書を暇つぶしに持っていくことにした。休みの日に読み始めたが1ページで20回か30回辞書を引く。これでは無理だとあきらめた。それからは技術ロシア語(船舶や鉄鋼)、ビジネスロシア語、諺、慣用句の勉強に専念することにしてロシアソ連文学を読むのはやめにしてしまった。そのころソ連通商代表部とも仕事上付き合いがあり、担当のロシア人の家族ともたまに会う。ところが5、6歳の子の言うロシア語がさっぱり分からない。大学を出て商社に入ったが、仕事上のロシア語の会話は専門用語以外まったく問題なかったのにである。今考えれば、子供の頭というのは自分の世界中心に回っており、それを理解するのは日本の子供の日本語だって難しいと思うのだが、そのときはとてもショックだった。それで初めてのモスクワ駐在(1983~88年)のときに、テレビの子供番組Спокойной ночи, малышиを毎晩見た。そういえば大学受験でリスニングの試験があると聞き、高校3年の春からNHKの基礎英語を聞くだけずっと聞いていたが大学のリスニング試験はそれで通った。だめなら恥も外聞もかまわず一番優しいものに的を絞ればいいのである。女房はモスクワ駐在のときにで私がテレビの子供番組をつけるのは、その頃小さかった娘のためだとばかり思っていたようだ。大学でロシア語を専攻した亭主がまさか会話の勉強にとは夢にも思わないだろう。さにあらずである。
設問)「ロシア人は1月13日から14日にかけての真夜中に旧正月を祝う」をロシア語にせよ。

Posted by SATOH at 05:41 | Comments [6]

2011年12月17日

●和文解釈入門 第211回

1983年から1988年までモスクワに第1回目の駐在をした。当時子供向けの番組でオズの魔法使いの翻案のようなものをやっていて、それが面白かったので、その原作Волшебник измрудного города, Волковを買ってきて読み始めた。これなら面白いし、はかがゆく。前回も書いたが大学でロシア語を専攻して、ロシア文学が読めなかった私である。自慢ではないが在学中にガイド試験には受かっていたのでロシア語には自信があったつもりがこの体たらくである。しかし、語学の上達にはそんなことにはかまってられない。現状を打破していかにうまくなるかである。うまくなれば仕事にも役立つ。それで必死でいろいろな絵本を読み続けた。2年ぐらいで絵本も卒業し、ついに駐在3年目にしてパルノーフЕ. Парновの歴史小説3部作「マリア・メディチの長持Ларец Марии Медичи」、「シバ神の第三の目Третий глаз Шивы」、「マルタ騎士団の錫杖Мальтискицй жезлを、辞書を引き引き読めるところまでになった。この本のおかげでмедвежатникというのが俗語で金庫破りだと知った。当時露和辞典には載っていなかったように思う。
面白いのは家にアルバイトで手伝いに来ていたロシア人のアパート管理人の奥さんがこの本を貸してくれとと言ってきたことである。映画化もされたから有名な本らしかったが、かような犯罪小説は普通の本屋では人気が高くすぐ売れるので庶民にはまず手に入らない。外国人向けのベリョースカ(外貨専門店で本屋もあった)なら売っていた。1カ月ぐらいして返しに来たのだが、「佐藤さんは外人なのによくこんな難しい本を読めますね」と真顔で言ったのには本当にびっくりした。私にすれば簡単にではなく、辞書を引き引き読んでいるのだが、日本で言えばミステリーの文庫本みたいなものでロシア人にすれば単なる娯楽本ではないか。読書好きといわれるロシア人にとっても読書術というのがあって、だれでも黒帯や師範というわけでもないのだなと実感した次第である。そのころ彼女はエレベーター管理士の試験勉強中だと旦那さんから聞いた。まあまじめで感じの好い人だった。この旦那さんには私の(会社の)車の洗車を頼んでいたが、夫婦共働きが普通なので、資格を取ってもっといい仕事について家計を助けようとその奥さんは考えていたのだろう。そういう意味で向上心の強い女性だったわけである。
設問)「飛行服の形には宇宙飛行士のコメントと希望が考慮されている」をロシア語にせよ。

Posted by SATOH at 06:13 | Comments [3]

2011年12月18日

●和文解釈入門 第212回

ロシア語の勉強にと思って、ロシア文学の原文とその訳文を使おうと思う人もいるかもしれない。カラマーゾフの兄弟の露文とその邦訳を手に入れて、邦訳を見ながら露文を文章ごとにチェックするというやりかたである。しかし、気をつけないといけないのは、ロシア語にも日本語にもそれぞれ文章にはリズムというものがあり、そのリズムを壊さないように意訳をせざるを得ない個所だって多々あると思うからである。そうなるとどうしてこのロシア語の語句が日本語でこうなるのか、なかなかすっきりとは理解できないことがある。場合によっては時制だって変わっているかもしれない。そこが露文和訳と露文解釈の違いである。和文露訳と和文解釈も同じことで、日本語で書いたものを縦のものを横にするようにはロシア語にできない場合が多いし、訳者のロシア人が日本の庶民的な文化や常識を知らないと、ロシアの常識に合わせてしまう可能性だってある。ロシア語の会話で活用しようとして、ロシア語の原文を勉強するのであれば、結局自分で読まなければいけない。そうすればその語彙が使われている背景なども文脈などもよく分かり、会話のときにもあまり変な訳はしなくなるはずだ。
「~の方向で」はпо направлению к + 与格、ないしはв направлении + 生格でよいが、на напрвлненииは軍事用語で「方面で」という意味である。на берлинском направлениииベルリン方面でということで、この方面の意味のнаправление = участок фронта, ориентированный на какой-либо стратегический пунктという意味である。
設問)「手術が遅れるぞ」をロシア語にせよ。

Posted by SATOH at 08:46 | Comments [6]

2011年12月19日

●和文解釈入門 第213回

39歳のとき(この時すでに最初の5年間のモスクワ駐在を終えていた)にハバロフスクに出張した時、飛行機の関係で1週間ホテル待機となった。仕方がないので、ベリョースカ(外貨店)Берёзкаでパステルナークのドクトルジバゴを見つけ、することもないので、ホテルに帰ってから持っていた露和辞典で読み始めたところ、面白くなり、途中で辞書を引くのをやめて二日ほどで読み終わりった。ここでようやくロシア文学の面白さに目覚め、今に至るまで700冊以上は読んだことになる。この中の語彙や表現を会話に役立てようと思い、エクセルに和露語彙集として書き抜いているので、1日40~50ページくらいと遅読である。それでもその語彙集が8万項目を越えた。目指せ10万項目である。ようするに自前の和露辞典を作っていることになる。人には役に立たないかもしれないが、自分専用なので技術関係も、一般向けも区別はない。結構面倒で根気のいる作業だが40年近く続けている事になる。もっともエクセルにインプットしだしたのはこの13年ほどである。語彙をエクセルにインプットする過程で少しはスペルを覚えるという利点もある。文例は一つの項目でゼロのときもあるが、6つや7つというものもある。すべて和訳し、それもベストの和訳するように心がけているので、それが露文和訳の練習にも、日本語の勉強にもなっていると思うし、そのおかげで通訳していても日本語が出てきやすいような気がする。むろん活用を考慮して、語幹だけで引くようにすればロシア語からの検索も可能であるし、できるだけ引用する作者やその本のページも入れるようにしているので、その作者ごとに並べ替えも可能であるし、スペルや訳がおかしいなと思えば、面倒だが原資料をチェックし直すことも可能である。
設問)「最近の出来事について一言申し上げます」をロシア語にせよ。

Posted by SATOH at 06:25 | Comments [6]

2011年12月20日

●和文解釈入門 第214回

ナウーモフНаумовという人との書いた「ピョートル大帝とその股肱の臣の日常生活Повседневная жизнь Петра Великого и его сподвижников, Молодая гвардия, 2010」という本の中に面白い記述を見つけたので、かいつまんで書いて見る。ピョートル大帝には最初の妻エウドキーヤとの間にアレクセーイ皇太子(1690~1718)と娘がいる。アレクセーイは後に父への謀反のかどでピョートルの面前で拷問を受け、死刑執行の朝謎の死を遂げた。死因は死刑を恐れるあまりの脳卒中とも言われている.一方二番目の妻エカチェリーナ(1684~1727、後の女帝エカチェリーナ1世)の間には12人の子ができだが、成人したのはアンナ(1708~28)とエリザヴェータ(1709~61/62)後の女帝エリザヴェータ・ペトローヴナ)の二人の娘だけである。二人は年子погодокだった。アンナはピョートル似で、やせて背も高く、知的好奇心が強く、頭の回転も速かった。ピョートルも世継にと考えた男の子が次々と早死にするので、ピョートルもいずれは彼女に国を任せたいという意向もあったようだ。若くして亡くなったのは惜しまれる。
 当時のロシアの上流階級では幼い娘にはハレの席では天使の白い羽根крылышкиをつけた衣装をつけさせた。成人になるとこの羽根を折る儀式が行われたという。最も成人といっても、もう嫁に出してもいい年ごろとみなすということだから13歳ぐらいのようである。1721年アンナの婿候補であるカルル・フリードリヒ・ホルシュテイン・ゴットループ(時のスウェーデン王カルル12世の甥で、ピョートルはスウェーデンと対トルコ同盟を結びたいと考えていた)がペテルブルグに来た時、アンナとエリザヴェータも宴席に出た。服装は同じだったがエリザヴェータの背には天使の羽根があり、アンナは最近この羽根が折られ、ひもで結んであったとカルルは書いている。エリザヴェータの羽根はピョートルにより1721年9月11日に折る儀式が執り行われた。アンナはカルルより賢く、博識であり、まじめだったので、カルルとしては何となく煙たく思い、個人的には妹のエリザヴェータ(ぽっちゃりして生き生きしていた)の方が気にいったのだが、彼は将来の国王としての立場をよく理解していたから、不満を口にせず、1725年アンナと結婚することになった。二人の間にできたのが後のピョートル3世であり、この人がエカチェリーナ2世の夫で、彼女に王位を追われ殺された。もう一人有名な方のアンナは女帝として有名なアンナ・イワーノヴナ(1693~1740)である。父はピョートルの異父兄で、ピョートルの共同統治者となったイワン5世(1666~96)であり、実権は姉のソフィア(1657~1704)が握った。
設問)「はたから見れば同じことが起こっているかのように見えたかもしれないが、そうではなかった」をロシア語にせよ。

Posted by SATOH at 05:26 | Comments [5]

2011年12月21日

●和文解釈入門 第215回

победитьには1人称単数形はないが、1人称複数形はある。これについて作家のシーモノフは冗談めかして、戦争からこの動詞は発生したのかもしれないと述べている。喧嘩はともかく、戦争は1対1ではしないものだからである。戦争で思い出したが、умеретьはумер при исполнении служебных обязанностей в действующей армии(正規軍における職務遂行中戦死)ともいうので、自然死以外にも、それ以外の死も含めて死一般について使える。
「~の前日に(~の前の日に)」にはв канун + 生格とнакануне + 生格があるが、前者は祝日や重要な日の前日にということであり、後者はそういうニュアンスはない。かさぶたはструпだが、硬くなったものはкоркаといい、膿んだかさぶたはкоростаという。
Рука руку моет (и белы бывают).は「持ちつ持たれつ、相身互い」という意味で、本来悪い意味で用いるが、現在では時によりけりであるとメル友のヒサムヂーノフさんは言っていた。長寿にはдолгожительствоとдолголетие(многолетие は古語)があるが、долгожительство はдолгожитель (= человек в возрасте 90 лет и старше)は長寿者であることを指し、долголетие (= долгая жизнь)ということなので、人間のことを言う時は前者の方がよいだろう。
設問)「二つの機能を兼ねるのは物理的に無理だった」をロシア語にせよ。

Posted by SATOH at 06:20 | Comments [4]

2011年12月22日

●和文解釈入門 第216回

ロシア語の文法書や小説などを読んで体の用法をマスターできたと思っても、実際に会話やレターで使ってみないと本当にマスターできたどうかは分からない。もっというとそれでも分からないことが多い。体の用法を間違えても、それを指摘してくれるロシア人はまずいないからだ。日本語を勉強しているロシア人の日本語がおかしくても、ある程度意味が分かるのなら、また関係のない話なら、いちいち目くじらを立てるようなことはしないのと同じである。だからロシア人同士の会話に耳を澄ましたり、ロシア語の小説で、自分なりにチェックしてみることになる。それにロシア人自身の話すロシア語でも体の用法が間違っているだろうと思う事もある。これは日本人の中にも日本語の微妙なニュアンスの使い方に鈍感な人がいるのと同じことである。相手に理解してもらうというよりは自分の話を聞いてもらうというタイプに多い。そうなると自分の体の用法が正しいかどうかチェックしてもらう場が必要なはずだが、ロシア語の学校では例文を挙げて体の用法を教えてはくれるだろうが、ロシア語作文の時間で、生徒の体の用法の間違いを先生がいちいち直してくれる講座があるのかどうかは寡聞にして知らない。
体の用法は実際に使ってみて、その間違いを指摘してもらわないとうまくならない。また体の用法は文脈(コンテキスト)によっても違ってくる。ロシア文だけでは元の和文がどういう文脈で使われているかによって使われる体が異なる場合も多々ある。無論ロシア人はそのロシア文の体の用法が正しいかどうかは判断できるし、頼めば直してもくれるだろう。しかし、それはそのロシア語が元の和文を正しく反映しているという前提の下でしかない。和文露訳では和文が主体故、ロシア人にできたロシア文だけ見せても体が正しく使われているかどうかは、そのロシア人が日本語を文法も含めてマスターしているならともかく(ガイド試験に受かっているロシア人なら話は別だが)、判断できないのだ。このコーナーはそういう意味で、自分が体の用法を正しく理解しているのか知る一つのチャンスだと考えて活用してもらえればよいと思っている。もっともいつまでこちらの気力が続くかは保証の限りではないが、続く間は利用してもらえれば何かいいこともあるだろう。
設問)「その川は世界の十大河川に入る」をロシア語にせよ。

Posted by SATOH at 06:46 | Comments [8]

2011年12月23日

●和文解釈入門 第217回

技術関係やビジネスのロシア語でよく使うознакомитьсяは、何となく意味が分かるような分からないような単語だが、ロシア人ビジネスマンはどう言うつもりで使っているのだろう?よく書類に上司らしい人がОзнакомлёнとタイプされた所にサインしてある書類を見ることがある。これは「承認した」という意味ではなく、「読んで理解した」とい言う意味であり、会社などでは回覧済(回覧の欄に判をついた)と訳せる場合もある。
主催者はустроительとорганизаторが和訳として考えられるが、устроительは期間限定のもの、例えばустроитель выставки (поездки, бала, аукциона)〔展示会(旅行、舞踏会、オークション)の主催者・幹事〕を指す。だから多くの場面においてустроительの方がふさわしいような気がする。「跡」はследだが、涙の跡のように、液体や塗料の流れた跡はпотёкиという。カットは卓球などカットされた球はрезаныйを使い、映画のカットはкинокадр, монтажный кадрといい、髪型のカットはТакую стрижку носили десять лет назад.(こんなカットは20年前だよ)などという。
設問)「もうその気がなくなった」をロシア語にせよ。

Posted by SATOH at 07:41 | Comments [5]

2011年12月24日

●和文解釈入門 第218回

どの分野のロシア語の単語がむずかしいのだろう?政治や経済だろうか?しかし対応する日本語自体の意味が分かれば、そのロシア語は通常訳語は一つである。対応する訳語が一つしかないなら(1対1なら)機械的に覚えればいいから簡単だと言える。技術用語にしても基本語は少しは厄介かもしれないが、基本的には意味は一つだから覚えるのは簡単である。難しい言葉と言うのは多義語である。どの状況でどの語彙が出てくるのか、文脈を見極めるのに修練が要るからだ。しかもそれは露文和訳であって、それなら露和辞典や露露辞典とにらめっこすればほぼ解決できる。ところが会話での和文露訳なら、今度は日本語の多義語も相手にせざるを得ない場合もある。日本語のどの語彙がどのロシア語の語彙に合うのか、類義語中から選択しなければならないからもっとややこしい。
日本人が不得手なロシア語の用法は体の他に、複数・単数もあるが宇多文雄先生の「ロシア語文法便覧」(東洋書店、2009年)などを理解すれば、あとは実戦で鍛えるだけであるから問題そのものは解決したと言える。最大の問題は私の見るところ、類語の使い分けである。ロシア語、日本語のそれぞれに類語がある場合もあるし、多義語が相手という事もある。例えば第23回でпричинаには原因と理由という意味があると説明した。一方日本語の理由には根拠と口実という意味がある。だから数学の集合の解ように、互いの語のオーバーラップする部分を如何に訳出するかが通訳の腕の見せ所という事になる。причинаのように意味が違うと結びつく前置詞が変わったり、あるいは文脈によってはその日本語に対して別の類語を持ってきたり、日本語は名詞1語なのに、ロシア語では句動詞にしたり、名詞句、形容詞句にしたりということが現実に起こる。和文露訳でも露文和訳でも双方の言語に精通していないと正確な訳ができないというのはそういう意味である。
設問)「外科の治療を受けたことがおありになりますか?」をロシア語にせよ。

Posted by SATOH at 06:51 | Comments [4]

2011年12月25日

●和文解釈入門 第219回

ロシアで一番多いと思われる名字はイワノフだが、力点には二つの可能性がある。イワノーフとイワーノフである。後者は貴族由来であり、数の上では少ない。イワーノフで有名なのは「民衆の前へのキリストの出現Явление Христа народу」を書いた画家やチェーホフの戯曲の題名「イワーノフ」である。この題名をイワノーフと発音すると、平民というニュアンスになってしまい、ひょっとするとチェーホフの意図とは主人公の設定自体が違ってくるのかもしれない。だからロシア人でイワノフというのを見つけたら、イワノーフと発音した方が当たる確率は高いように思われる。山﨑さんという取引先の人に「やまざき」さんと呼びかけたら、すぐに「やまさき」ですと返された。大阪方面に多い名字らしい。病院の待合室で佐藤さんと呼ばれても、すぐに反応しない私なんかとはわけが違う。そういう人の方のが普通のようだ。私なんぞは名字に誇りなど持てないのだから。そうはいっても名字はロシア語でも日本語でも正確に発音するに如くはない。
 Люди должны голосовать за идею, а не за Иванова, Петрова, Сидорова.という文をある通訳は、「人々はイワノフとか、ペトロフとか、シードロフにではなく、思想に賛成投票を投じなければならない」と訳して、あとで失笑を買ったという。Каждый Иванов, Петров, Сидоровは英語ならevery Tom, Dick and Harryということで、強いて直訳すれば、「どこの佐藤とか、鈴木とか、田中とか)〔どこのだれ(馬の骨)〕と言う意味だからである。この場合イワノーフと発音しないとなおさら意味が通らないと思う。
設問)病院の診察室で、「上半身裸になってください」をロシア語にせよ。

Posted by SATOH at 06:06 | Comments [7]

2011年12月26日

●和文解釈入門 第220回

個人的に断片的に覚えたものではあるが、あまり知られていないと思われるロシア語の単語の用法について書いて見る。
比較級がない形容詞はвозможный(比較級が一般的ではない), гигантский, исполинский, мыслимый, невысокий, неглупый, неподъёмный, непокрытый, неутешительный, низенький, оголённый(比較級が一般的ではない), подобный, постижимый, потенциальный, присущий, скоростной, сходный。
短語尾のない形容詞はбезволосый, маленький, непредвиденный, низенький, скоростной。
長語尾のない形容詞はневелик。
оченьとは結びつかない形容詞 скоростной。
対応の不完了体のない完了体動詞はвспылить, засмеять, напророчить. пригрозить, припозднться, расквитаться, силиться, торжествовать。
対応の完了体のない不完了体動詞はбахвалиться, бренчать, брюзжать, вертеться, винить, восторгаться, враждовать, вращаться, выглядеть, глумиться, грозить, грозитьсся, грызть, докучать, дребезжать, заблуждаться, заклинать, издеваться, измываться, капризнчать, конфликтовать, корить, кружить, кружиться, крутиться, крыть, ломаться, обожать, пилиить, повествовать, подмывать, позвякивать, поносить, порицать, почитать, преследовать, привередничать, притерпеться, прорицать, пророчествовать, сдаваться(思われるという意味で), терпеться (неとともに), уважать, угрожать, хаять, хулить, чтить, шелестеть, шуршать。
1人称単数肯定文では使われない動詞はкичиться。
命令形のない動詞 はвидеть, превозмочь, прождать, спустить(許すという意味で)。
受動相で使わない動詞はзасмеять, заставлять, понуждать, советовать, спустить(許すという意味で)。
ся-動詞の受け身の意味がない動詞はзнать, считать。
副動詞がないか、使わない動詞はждать, писать, превозмочь。
設問)「知っていて言わなかったのか?」をロシア語にせよ。

Posted by SATOH at 07:30 | Comments [6]

2011年12月27日

●和文解釈入門 第221回

体の用法においてどちらの体を使った方が、その文脈でより適切かということはあるが、それほど絶対的なものではないこともある。その動詞を使う人の意識の問題もあるからだ。その人の当然と思う意識が、回りの人の意識と異なれば、その体の用法が礼を失していると受けとめられることもありし、わざとそういう効果を狙う事も可能である。第二次世界大戦直後にできた歌に「聖戦Священная война」というのがあって、その出だしは、Вставай, страна огромная; Вставай на смерный бой.(決起せよ、広大なる国、決起せよ、決死の戦に)と不完了体命令形が来ているのは、作詞者に決起して当然という意識があるからである。つまり、この動作、ないしはこの動詞を使うのが当然であるとか、自然に出てくるという感覚があるときに、つまり動作が自然体であるというような感覚のいうときに不完了体を用いる。今までは体の用法の学習において、新規の事柄や動作のときに完了体を用いるという完了体主体の指導法だったように思える。私は視点を変えて、完了体のみならず、不完了体の用法の意味に光を当てて、より多面的にアプローチをした方が、体の用法を体得しやすいと考える。
そう口で言うのは簡単だが、実際に使いこなせないと体の用法を会得したとか、その用法を悟ったとは言えないし、悟った思っても、その検証に、また自分なりに納得するのに時間がかかる。その当然とか、自然と言うのがロシア人の感覚と未だ一体化していないとか、その感覚が違うと考える人もいるかもしれない。個人的にはロシア人の感覚も日本人の感覚も本質的には同じだと思うが、その感覚の現れ方がやや違うということはあるかもしれない。ロシア語をやる以上ロシア人のそれに合わせるしかない。第117回の表は細かく作ってあるし、その利用は体の用法を勉強したいという人の好きなように使ってもらって構わないが、私としては、体の用法について大きく本質的なものを俯瞰してとらえ、そのいくつかの頂(体にはいくつかの用法があるが、山体としては一つである)に到達したときに、自分なりにその用法を悟ったと感じた時の検証用として使ってもらえればよいと思う。分かったと思った瞬間から、やっぱりわかっていなかったという別の山の頂が見えてくる。しかし、トライを続けてゆけばいつか分かる時が来る。体の用法を参考書で理解するというのは、例えて言えば外から山を仰ぎ見るだけのことで、山は登ってみなければ、体の用法は使ってみなければ分からないのである。
設問)「ルーシという民族の起源についての論争は、18世紀にミーレルとロモノーソフの間で始まり、現在に至るまで続いている」をロシア語にせよ。

Posted by SATOH at 07:30 | Comments [4]

2011年12月28日

●和文解釈入門 第222回

「~のついた、~がついている」という意味ではкниги с закладками(しおりの入った本)というように前置詞с + 造格を使うのが普通であるが、支え、台、裏地などしっかりついている場合はна + 前置格を使う。сапоги на маленькой каблуке小さな踵の長靴とか、занавеска на кольцах(リングのついたカーテン)などと言う。подушечки пальцевというのは指の腹(指紋側)のことだが、мягкая рука с подушечками на пальцахとすると「指がふっくらとした柔らかい手」となり、сとнаの使い分けにこの作者(シーモノフ)なりに考えていることが分かる。つまり指に指の腹がクッションのようについているかのような感じがする。ダニはклещだが、比ゆ的に言う場合は、пиявки капиталистического строя(資本主義体制のダニ)という具合にヒルを使う。
акклиматизироваться в новых условиях(新しい〔気候〕状況に慣れる)であって、адаптировться в новым услових (к новым условиям)となるのは、к + 与格のほうが積極的に慣れようとするというニュアンスなのに、в + 前置格はそういう意味はないからである。
集中はконцентрация(他に濃縮、濃度、集結という意味がある)だが、意識の集中はнарпяжение памятиという。
設問)「ちょっとよろしいでしょうか。私、残ったほうがいいですか?」
「いいですよ、残りなさい」を(二つの文を)ロシア語にせよ。

Posted by SATOH at 05:54 | Comments [6]

2011年12月29日

●和文解釈入門 第223回

「司会者」はテレビやショーの場合もведущий, ведущаяだが、司会者がサーカスの司会のように面白おかしくショーを進めていく場合や日本のバラエティー番組の司会者などもконферансьеという。

 「断崖」や「絶壁」はобрывだが、кручаはもっと高い断崖を、ярや крутоярは岸の断崖絶壁を指す。

 テンプレートшаблонは型紙のようなもので、工場ではチェック用に使う。темплетは機械試験用に切り出した試験片を言う。またステンシル(製品に番号などを入れるための型抜き板)はтрафаретという。

 ロシアのпельмениは水餃子だがуши-пельмени (cauliflower ears) というと耳介血腫、俗称柔道耳、ギョウザ耳という柔道、レスリング選手などの練習でつぶれた耳をいう。пельмениはシベリアの民族から入ってきた料理でコミ語やウドムルト語でパン生地の耳ということだから関係ないこともない。甲は足の甲はподъёмないしはтыл стопыでВ подъёме жмут туфели.(靴は甲のところがきつい)などといい、手の甲はтыл ладони (руки)またはтыльная сторона руки (ладони)という。

設問)「患者は術後10日目に退院した」をロシア語にせよ。

Posted by SATOH at 06:23 | Comments [5]

2011年12月30日

●和文解釈入門 第224回

交通機関など移動手段を示すには造格にするか、на + 前置格にするが、машинаはна машинеであって、造格にしないと教えられた。ところが、シーモノフというソ連時代かなり有名だった作家の「生者と死者」という長編の中でセルピーリン将軍が自分の父親を車でモスクワに呼び寄せる場面で、Чего же машиной не поехал?(何でまた車で行かなかったんだ?)という場面がある。ちなみにここで完了体過去形が来ているのは来るのを予定していたのに来なかったという期待外れの意味を示す。さらに医学系の会話集で、Больной доставлен в приёмное отделение (в отделение неотложной помощи) машиной скорой помощи.(患者は救急車で受付(救急科)に運び込まれた)という文も見つけた。こういう文を見つけたからмашинойと造格でも使えると言うつもりはない。こういうのは例外であって、我々外国人が使うべきではないという事はよく理解しているつもりだが、ただこの40年で初めて、しかも続けてこういう例を見つけたのでご参考まで挙げておく。

 車がスリップするに相当するロシア語で、буксоватьはタイヤなどが空回りして、その場から進まないことを示し、заноситьは車などが走行中にあらぬ方向を向くことであり、идти юзомは車輪が空回りして、地面や線路などをそのまますべることを指す。セットはテニスのならсет、バレーボールならпартия、工具などの用途が決まっているもののセットはнаборやкомплектで、運動の1セットはподходで、映画のセットはстудийные павильоныとなる。病気でположение больногоというのは病状ではなく、ベッドに寝たきりпассивное положениеであるとか、体中にチューブをつけられて身動きできない状態вынужденное положениеということで、активное положение больногоというのは、一人で自由に出歩ける患者の状態を指す。一方 состояние больногоが病状のことである。

設問)「シカは呼びかけに応えて私たちに近寄り、撫でさせてくれた」をロシア語にせよ。

Posted by SATOH at 06:34 | Comments [4]

2011年12月31日

●和文解釈入門 第225回

体の用法の使い分けというものはロシア人が無意識に行っているわけで、それを知ることにより、ロシア人個人もそうだが、ロシア民族(もっというとロシア語を母語とする人たち)のその場での意識や心理状態を解明できるというところにある。言葉は意識の表れであり、体の用法を究めることにより、ロシア語の楽しさをもっと理解し、ロシア人そのものにもっと興味を持てるのではないかと思う。実際の会話ではイントネーションなども重要であはるが、それが伝わらないような場合、ロシア文学や、普通のロシア人との会話の何気ない一言だって、別の面からロシア人の全体的な意識(あるいは無意識)の表れを知ることができるようになると思う。

 уметьというのは現代ロシア語では練習してできるようになる動作を示すから後に不完了体の動詞の不定形を取るのが普通である。しかし、この完了体のсуметьはудаться, смочьと同義であり、状況的可能性を示す。Я не сумею.はЯ не смогу.と同義で、能力的にできないのではなく、なんらかの状況下では「できない」という意味である。ちなみにне уметьはЯ не умею покупать вещи.(僕は買い物下手なんだ)のように使い、「買い物ができない」という意味ではない。

 「生まれ変わり」はпереселение душだと「魂の入れ替え」で、переход духаも転生という感じであり、перерождениеは比ゆ的に、つまり精神的に別人になることであり、реинкарнация (意味はперевоплощение)は欧米の映画の題名から来ているようで、最近はこれが一般的のようだ。

 群れには、стадо(動物の群れ), табун(馬の群れ), косяк(牝馬と子馬の群れ)があり、человеческие отары(人の群れ)、гурт(牛、羊、カモなど家畜の群れ)、стая акул(鮫の群れ)で、鳥の群れはстая, станица(渡り鳥の群れ), косяк(渡り鳥で角度を持って群れる鳥の群れ)となる。またстадо, табунは鳥の群れにも使える。魚の群れと言えばстая, косяк(産卵期)で、рой пчёл(蜂の群れ)のように空中に飛ぶ昆虫や鳥の群れはройである。稀にрои облаков(雲の群れ飛ぶ姿)という表現もある。

設問)「悪性細胞(ガン細胞)があるかどうか注意して(見て)ください」をロシア語にせよ。

Posted by SATOH at 08:35 | Comments [5]