2010年08月25日

●日本の心 第1回

NHK放映のワーキングプアについての番組を見ていたら、その失職した日本の若者は、運命ではなく、自分の努力が足りないと自分を責めていた。このような状況であれば、1990年代のロシアを知る自分が考えるには、ロシアならすぐに暴動になったろう。そのような心構え(心映え)をもつ若者を職のないまま放置してよいはずはない。政府がいの一番に取り組まなければならない課題であり、政府が就職の保証人になるなり、住居の保証をすべきであると考える。これは徳議論だけで言っているわけではない。我慢にも限度があるわけで、そのうちこういう弱者が暴発したら、行政や経済界、社会の被る被害大変なものになるだろう。正社員でも帰宅が夜中というのは異常であり、こういう若者の救済や女性、中高年の活用のためにワークシェアに本気で政府や財界は取り組むべきだ。ちょっと話がそれた。言わんとするのは戦後日本は変わったというものの、このように変わっていないと思われるものもある、その変わっていない日本的なものというのは何かを調べてみたいという気がしてきたということである。
自分の若いころの経験から言うとある程度通訳ができるようになると、今度は雑談が苦痛になる。通訳の言い回しや語彙は必至で覚えるが、通訳ではなく、自分の考えで話すとなると、それなりに素養がいる。歳をとればそれなりに雑談もできるようになるとはいえ、初対面のロシア人と趣味が一致することは稀である。そうなると相手にも喜ばれ、時間稼ぎにもなるのは文化も含めて日本独特なものを話柄にすることである。その勉強を少しずつでも若いころから意識しておけばよかったのにと思う今日この頃である。それとロシア人のガイドをして常日頃思うのは、日本のよさや、日本らしさを説明するためには、日本人の観点ではなく、日本に特に興味もない、またパナソニック、トヨタ、寿司程度しか知らないロシア人にも興味をもってもらえるような説明が必要だということである。我々が日頃当然だと見なして顧みないものが何かということは一見簡単なようで非常に難しい。ガイドのように日本的なものをそのようなロシア人に伝えるには、ロシア語が出来るだけではだめで、一般大衆の、伝統的、現代の日本の文化を深く知ることが大切である。そこでいろいろ考えた結果、温故知新、つまり外国の影響を受けていない頃の日本や日本人について理解を深めることが必要なのではないかと考えるに至った。つまり日本や日本人と外国ないしは外国との出会いを記録したものを調べるという事である。これには二つあって、外国人が日本に来る場合と、日本人が外国に行く場合のがある。前者の開国当時の日本を訪れた外国人(ロシア人も含めて)の受けた印象の方が、現代の日本人の考え方に近いと考えた次第である。なぜなら当時の日本人にとって当たり前の事柄は当時の日本人の著作からはうかがい知ることが出来ないのに対し、外国人は自国との比較で説明してあることが多いので大いに参考になる。無論150年ぐらい昔のことなので、外国人とはいえその頃の人達の気質とは違うだろうとはいえ、鎖国直後の日本人よりは世界的視野に立ってものを考えるのに慣れていたヨーロッパ人の著作の方が、比較の問題とはいえ現代の我々の考え方により近いと考えてもいいと思われる。前者に比重を置いたとはいえ後者のも参考のために挙げてある。私は北海道の函館生まれなので、函館(幕末まで箱館)に関する記述には無関心ではいられない。そういう意味で昔の生まれ故郷がどうだったのか知ることが出来て本当によかったと思う。今後週1回ぐらい更新したい。

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2010年08月28日

●日本の心 第2回

ロシア語の本は別にして、次回以降に挙げる日本語の本の8割か9割は図書館にあるものである。現に私は東京都葛飾区に住んでおり、区内には11の図書館があるが、インターネットで書籍の貸出予約が出来、最寄りの図書館で受け取ることができる。しかも区内の図書館になければ区外に問い合わせてくれるサービスもある。頼む本が古い本が多いからか、面白くないから借りる人がいないのか、ほぼすべて貸出順位1位で、だいたい翌々日には最寄りの図書館に届き、私の個人メールに知らせが届くという便利な時代である。これを利用しない手はないと思う。読みだして気に入らなければ図書館に返せばいいだけである。葛飾区内の本屋に私の著者は置いていないので、1冊でも置いてもらうのが当面の私の目標であるが、区内の図書館には8冊もある。そういうこともあって葛飾区の図書館は目が高いな、葛飾区に住む価値はあるなと思う今日この頃でもある。幕末・明治の自伝で、とくに文語調のものなどを読むときに当方の浅学非才のため、随分広辞苑や新字源の世話になった。歳のことを考えると何か情けない気がしないではないが、辞書を引いて分かるなら死ぬまで勉強だし、それもよしと考える次第。最近新聞の新刊紹介蘭が充実しているが、既刊の方にこそ良書が多いのはものの道理で、テーマ別にどういう本があるという紹介をした方がよいと思う。
ガイドの勉強のために当然日本の文化そのもの(もののあはれ、侘び寂び、幽玄、禅の悟り、粋、義理と人情)、外国人の書いた日本史についての本も読んでおり、参考となると考えたのを挙げてある。それが第一部「日本の心」である。第二部は「外国人の目で見た日本、および異国の日本人」であり、基本的に明治前後とし、その時代の雰囲気を窺う事が出来る聞き書き、実話、自伝なども必要に応じて配した。このほかに日ロ関係の文学も大いに参考になる。井上靖の「おろしゃ国酔夢譚」、司馬遼太郎の「坂の上の雲(日露戦争)」とか「菜の花の沖(高田屋嘉兵衛)」が有名だが、筆者が読んだもので、ガイドの業務にも役立つと考えられるものを、ロシア語で日本について書かれた文献や日本語の文献を小説も含めて参考のため挙げたのが第三部「その他」である。特に重要と思われるものは*を付した。この半年でこれに関する200冊を超える文献を読んだが、ここにガイドをするうえで第一部の方が参考文献としてはより役に立つ(即効性がある)と考えたのでこのように分けた次第である。拙著「ロシア人と日本観光案内」の中で書いた「観光案内のための参考書」は紙数の関係で、すべてを書ききれなかった。開国前後で外国の影響を比較的受けていないものをより多く読んだ。ただ日本独自の文化や日本人気質を知るため、上流階級の考え方については主に当時の自伝を、一般的な日本人のそれについては来日した外国人の記述や、篠田鉱造、下母澤寛などの聞き書きを、下層階級については、「職工事情」や「明治東京下層階級生活誌」などを読んだことを付記しておく。

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2010年09月03日

●日本の心 第3回

第一部 日本の心
 日本的な美(侘び寂び、義理人情など)をロシア語でどう言うかについて手っ取り早い方法は、ロシア人の日本研究家の本をロシア語で読んで、侘び寂び、幽玄などを説明しているものを書き移せばよいと若いころ考えてきたが、どうもその訳がそれでいいのか、つまりその研究者が正しく日本の美を理解しているのかとか、理解していてもそのようにロシア語で訳していいのか年を取るにつれて種々疑問が起きてきた。そこでまず自分が日本の美とは何か日本の識者が説明してあるものを理解するのが先決であるという、極めて当たり前のことに気がついた。そこでこれまで読んで、外国人に日本の美や心を伝えるべきかでの参考となりそうな文献を挙げる。併せて貧民の状況や、外国人の書いた日本史や日本事情についての本も挙げる。

(1) *「日本人の精神史」(4巻)、亀井勝一郎、講談社文庫、文芸春秋、1959~66年
本書は、丸山真男「日本の思想」や福田恆存「日本および日本人」に啓発されて、一つの答として書かれたものである。第一部「古代知識階級の形成」(7世紀初め~8世紀後半)は神人分離による精神の流離がテーマで、仏教の受容と東大寺の創建の意味についてなるほどと考えさせられた。第二部「王朝の求道と色好み」は女房文学(土佐日記、かげろう日記、源氏物語)、浄土教、藤原の造形美が叙述されているが、極楽と地獄、源氏物語についてが味わい深い。第三部は「中世の生死と宗教観」で、浄土宗、浄土真宗、日蓮宗、禅宗を基に叙述され、第四部は「室町芸術と民衆の心」は太平記、蓮如など非常に参考になった。ただ著者が急逝したため7巻予定されたが4巻で終わり、茶の湯や国学について書かれなかったのが残念である。ただ日本の美が完成されたとされる室町時代まで著述されたことは非常に良かったと思う。著者は戦前マルクス主義より転向し、日本ロマン主義派として京都哲学派とともに戦後戦争協力者として批判された。本書を読めば一通り日本の美について理解できると思う。

(2) 「日本人の「あの世」観」、梅原猛、中公文庫、1993年
 日本のあの世観の根源にアイヌや沖縄のあの世観を挙げ、あの世はこの世とあべこべであり、天国と地獄の区別がない(死後審判もない)、アイヌはあの世を山の彼方にありとし、沖縄では海の果てにあるとしたというのは、縄文文化の担い手がアイヌであるということが定説となっている以上首肯できる。人が死ぬと魂は肉体を離れてあの世へ行き、あの世で死後先祖の例と暮らすが、一定の期間の後この世へ生まれて来るという指摘は新鮮だった。悪人や憾みを残した人間はこの世に執着の強い人間は、すぐにはあの世に行けないが、遺族が霊能者を呼んで供養すれば、あの世に行けるとして、仏教や神道もこういうあの世観を体してくるようになったということを論証している。著者には他に「地獄の思想」(集英社、1981年)もあり、地獄と極楽が結び付いたのは源信の往生要集によってであり、仏教において地獄と極楽は別の思想であり、しかも地獄は極楽より広くて極楽より近いとある。

(3) 「公と私 - 義理と人情」、有賀喜佐衛門、戦後思想体系15、筑摩書房、1974年
1955年初出、1973年補訂。義理と人情について上下関係と平等対等関係に分けて説明している。中国とは違い忠は孝に優先したとか、究極の目的は一家・子孫の繁栄であり、上位優先の考えが外国文化の輸入を容易にしたなどの指摘はなるほどと思われる。みそぎと祓いは自己を純化して理想的な神々に近づこうとする強烈なあこがれの表現であるなどが特筆される。

(4) 「義理と人情」、源了圓、中公新書、1969年
 義理は「好意に対するお返し」に発し、それが、「信頼(信義)に対する呼応」となり、「意地としての義理(自己の名誉を重んずるという意味で)」という分析は興味深かった。心中も浄土教信仰(西方浄土への憧れ)から来ていて、キリスト教の自殺に対する考え方とは違うというような指摘もなるほどと思う。人情は共感 empathy、思いやりsympathyであり、過度の共感能力から生まれたものが義理であるとしている。

(5) *「菊と刀」、ベネディクト、角田安正訳、光文社、2008年
日本人の恥の概念をどう見るかというアプローチは外国人と付き合う我々ガイドにとって非常に参考になる。文化人類学者がこれまでの素人の外国人の訪日談ではなく、プロとして、日米の文化の差異を系統的にまとめたものであり、第2次世界大戦のため日本で実地の研究ができずに日系人の助力を得て完成した。本書のテーマは戦前、戦中、戦後直後の日本であり、戦後65年経った現在の日本と比べてみると、たとえば長幼の序とか、捕虜になるよりは死を選ぶとか、天皇絶対化などアナクロとしか感じられないものもある。敗戦によって180度日本人の価値観が変わったわけで、軍国主義アレルギーも顕著であるし、恩や義理の希薄化、欧米化ということもある。しかも戦争を知らない世代が大半を占めた日本では新たな日本人観の創設が求められる。昨今問題となっているワーキングプアの若者たちのことを念頭に置くと、本書にあるような日本的なもの(「日本人は、失敗すること、また人から悪く言われたり、拒絶されたりすることに対して傷つきやすい」など)は確かにあると感じざるを得ない。失職した日本の若者は、それは自分の努力が足りないからだと自分を責めるが、このような状況であれば、ロシアやアフリカであれば社会が悪いとして暴動になったろう。現代の日本でも規律の順守、個を無にしての全体への奉仕(過労死などそうであろう)、臨機応変の現実主義などは指摘の通りである。また日本人は分相応(応分の場を占める)ということが頭にあるのだろう。第11章「鍛錬」の章が特によい。第12章「子供は学ぶ」は書いてある通りだとは思うが、外国人が読めば誤解するだろう。現にオフチンニコフの著作(菊と刀の影響を受けているからか)多くのロシア人が幼児まで日本人は子供を非常に甘やかすが、それ以降は厳しく育てるというのは本当かと聞いてくる。ただ日本人の日本人の程度もグローバル化の時代均一ではない。平均的な日本人というのはいないのである。神道を国旗のへの敬意と比べるなど非常に面白い指摘もある。米国が本書の内容(特に当時の天皇の日本国民における重要性)を理解していれば、原爆投下の必要はなかったと思う。

(6) 「恥の文化再考」、作田啓一、戦後日本思想体系14所載、筑摩書房、1970年
 ベネディクトの恥の文化に対して、公恥だけではなく私恥というものも考える必要があり、普遍化と個体化という二つの思考が自己と他者との間で食い違うとき羞恥が生じるとしている。

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2010年09月12日

●日本の心 第4回

露文のものは除いて、観光ガイドの参考になると思われる200冊ほどこの半年に読んだ。それらを紹介するつもりだが、行き当たりばったりに読んだわけではない。一つ読めば、その後書きや解説に、似たような参考文献について書かれてあるのが普通なので、それを参考に読み進んだわけである。読んだものをテーマ別に分けて挙げる。

(6) *「タテ社会の人間関係」、中根千枝、講談社現代新書、1967年
 日本の社会を個人的な資格よりも会社などの場を優先にするタテの社会としたのは非常に先見の明がある指摘である。そのため日本では能力主義が極めて限定された枠内で行われているとか人間平等主義が日本人の民主主義であるという主張には考えさせられる。ただタテの社会を上意下達としている指摘は、稟議制に触れてはいるものの、そのチェック機構や、根回しに全く触れていないということで、それは著者が研究者であって、実際に日本の会社で働いたことがない所以であろう。義理人情の理解には必読の書。

(7) 「日本および日本人」(福田恆存評論集第4巻)、福田恆存、新潮社、1966年
 日本人は和合と美を生活の原理とする民族である、日本人は化に論理的に正しくても全体の調和を欠いたものに対しては本能的に疑いを持つ、自己主張は日本人の道徳観にとって醜いなどの指摘は参考になる。

(8) 「日本の思想」、丸山真男、岩波新書、1961年
1957~58年初出。日本では思想が伝統として蓄積されないとして、西洋のササラ文化に対して日本の文化をタコ壷文化と称しているのは面白い。そのタコ壷をつないでいたのが天皇制であり、臣民意識であるとしている。五輪の君臣、父子、夫婦、兄弟にタテの関係を、朋友にヨコの関係を見ているのも中根千枝よりも先に指摘している。

(9) *「日本美の再発見」、ブルーノ・タウト、篠田英雄訳、岩波新書、1939年
 本書で感銘を受けるのはいわゆる「桂離宮の(美の)発見」というよりは裏日本や東北の紀行文である。当時の日本の様子が分かって面白い。

(10) 「ニッポン」、ブルーノ・タウト、森とし郎訳、講談社学術文庫、1991年
 日本的なものに対しより客観的な見方で見るとどうなるかというのは大いに参考になる。他に、「日本文化私観」、ブルーノ・タウト、森とし朗訳、講談社学術文庫、1992年がある。

(11) 「つくられた桂離宮神話」、井上章一、講談社学術文庫、1997年
いわゆる日本趣味(質実、簡素、明快)もモダニズムの影響を受けているという指摘は非常に参考になった。東照宮など華美過ぎて日本趣味ではないというロシア人に説明するのも今後考えざるを得まい。

(12) *「能芸論」、戸井田道三、勁草書房、1965年
幽玄は詩歌・管弦の道とともに能から来ているため、この理解には本書を読むのがよい。離見の見など能のみならず日本文化の理解には不可欠な書。

(13) 「面とペルソナ」、和辻哲郎、講談社文芸文庫「偶像再興・面とペルソナ」所載、2007年
1935年初出。「表情を抜き去ってあるはずの面が実に豊富極まりのない表情を指名し始めるのである」や「顔面は人格なり」も玩味すべき言葉である。

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2010年09月23日

●日本の心 第5回

(14) *「陰翳礼讃」、谷崎純一郎、中公文庫、1975年
 1933年に書かれた60ページほどの名文である。蒔絵というものが暗い所で見てもらうように作られており、能の衣装も金銀が多く使われているのはそのためであり、きらびやかな歌舞伎の衣装を現代の照明で見ると何か違和感があるとか、鉄漿や眉を剃ることも女性の顔を際立てる手段という主張も始めて聞くものであり、日本の美という観点からは拝聴に値する説である。鉄漿(お歯黒)は現代の時代劇では見られないが、明治大正の活動映画で見ることが出来る。非常に不気味な感じがするものである。暗いところで見ればよく見えるのかもしれない。鉄漿をしたのは歯の衛生のためという説もあるが、三田村鳶魚曰く享保8年に大岡越前守が当時非人の火付け(放火)多く、非人とそうでない人を区別するために、非人には頭をざん切りにさせ、非人の女には眉もそらせず、鉄漿もさせないようにした。これから判断すると鉄漿をしなければ非人に見られ、それを庶民が嫌ったことからではないかと思う。ちなみに鉄漿は結納を取り交わした時点で女性がつける。縁づけば島田を髷に替え、眉を剃り落とし、これが女性の元服というと矢田挿雲は述べている。日本文化を理解するのには必読の書であり、幽玄とは何かについて示唆に富む文章である。

(15) *「「いき」の構造」、九鬼周造、藤田正勝全注釈、勁草書房、2003年
 いき(粋、意気)について哲学的分析的解釈を行った名著。いきは媚態を基調として、意気地と諦めの上になっているという。二元性の平行線がいきであり、無目的性、無関心性でもある。つまり複雑な模様、絵画的模様、曲線、雑多な色どり、派手な色どりはいきではない、いきな色というのは黒味を帯びたもので、鼠色、褐色、青色系であり、茶室建築の間接照明や半透明のガラスがいきであると述べている。

(16) 「しぐさの日本文化」、多田道太郎、筑摩書房、1972年
「生け花は初対面などで目のやり場のないことを避けるためであり、対話の強制を避け、自然をクッションとして主人と客は気持ちが通い合うのを知る」とか、「目立った身振りのないというのが、日本人の身振りの一特徴である」、「身のこなしはなるべく目立たず、控えめがよいとされる、つまり美を誇示するのははしたない」、「家族間の呼び名は生まれたばかりの赤ん坊を基準にする、自己を相手の立場から規定しているとする」など日本文化の特性に触れている。家族化の呼び名は子供中心というのはロシア語にもある。子供のいる家庭では、Подожди, мать.(お母さん、ちょっと待てよ)などと亭主が妻に呼びかけることも多いし、старуха(婆さん)などと同じ亭主が30代の妻に呼びかけることも珍しくない。他に、「遊びと日本人」、埼玉福祉会、2006年や「身辺の日本文化」、講談社学術文庫、1988年があるが、雑学的。

(17) 「武士道」、新渡戸稲造、岩波文庫、1938年
 1899年初出。グリフィスの緒言がある。武士道とは何かを西洋の木指導などと対比させて説明したもの。「我が国民の笑いは逆境によって乱されし時、心のバランスを恢復せんとする努力を隠す幕であり、悲しみもしくは怒りの平衡錘である」とか、「夫もしくは妻が他人に対し、その半身(妻ないしは夫)のことを愛らしいとか、聡明だとか、親切だとか何だとかというのは我が国民の耳には極めて不合理に響く」など興味深い指摘もある。武士の意地(意気地、いき)を説明している

(18) 「茶の本」、岡倉覚三、岩波文庫、1929年
 1906年初出。人は独立の家を持つべきである、茶室は個人的趣味に適するように建てられている、いずれの家も家長が死ぬと引き払うことになっているなど、神道との関連であろう。均斉と言うことは完成を表すのみならず、重複を表すものとしてことさら避けていたというのは参考になる。他に「東洋の理想」、講談社学術文庫、1986年(1903年初出)がある。侘び寂びとは何かについて教えてくれる。

(19) *「茶道の歴史」、桑田忠親、講談社学術文庫、1979年
 茶道の歴史を軽みのある文章で詳述。各流派の関係がよく分かるし、現代の茶道が第二芸術化している(筆者は必ずしもそうはいっていないが)についての建設的な批判もある。

(20) 「茶器と懐石」、桑田忠親、講談社学術文庫、1980年
 茶器と懐石について分かりやすく解説した書。茶道の基本を理解するには必読の書。

(21) *「禅と日本文化」「続禅と日本文化」(鈴木大拙全集第11巻)、鈴木大拙、北川桃雄訳、岩波書店、1970年
1938年英文で出版されたものを本人が和文で著したもの。比喩や寓話の多用は禅が直感でしか理解できないという著者の主張を裏付けるものである。禅と日本文化を学ぶ人の必読の書。不立文字を文字で説明しているわけで、説明は分かりやすいとはいえ、禅自体が相互に矛盾し、その矛盾を止揚するわけであり、座禅を組まないと理解の端緒にも就けないであろう。でも禅には端緒というものはない。禅は分かるか分からないかの世界であるとされるからだ。禅と武士道の項を読むといわゆる剣豪小説の剣の奥義の説明はここが出所と知れる。

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2010年09月28日

●日本の心 第6回

(22) 「日本の仏教」(鈴木大拙全集第11巻)、鈴木大拙、岩波書店、1970年
浄土教、特に真宗を論じて日本の仏教とは何かということを説いた書。日本の仏教を知るための必読の書。大乗仏教や原始仏教を知りたい向きには「般若経」(梶山雄一、中公新書、1976年)を勧める。

(23) 「無心ということ」、鈴木大拙、角川ソフィア文庫、2007年
 1939年初出。禅浄一致の思想を展開させて無心について述べている。

(24) 「禅と日本文化」、柳田聖山、講談社学術文庫、1985年
鈴木大拙より分かりやすく禅について解説し、師の久松真一(1890~1980)の日本文化の特色が完全なものを抑えたつやけしの美しさ、未完成の完成にあるという説を紹介している。竜安寺の石庭の石の見える数や東照宮の日暮らしの門の模様などを考えるとなるほどと思われる。「心は本来落ち着いているのが自然である」として、「人本来だれもがみな仏である」というように、原罪を負うキリスト教的な考え方とは違うというようなことが分かりやすく説かれている。本来の正道に立ち返るのを助けるのが禅ということであり、座禅は本当の自分は何か問う非日常的な方法で本当の自己との対話であると説いている。代表的な禅の三派、曹洞宗、黄檗宗、白隠の臨済禅についても分かりやすく説明しているのはありがたい。

(25) *「日本宗教史」、末木文美士、岩波新書、2006年
日本の宗教とその歴史を分かりやすく説明したものだが、レベルは高い。同じく、「日本仏教史」、新潮文庫、2008年がある。他に神道や仏教関係の本で初級用としては、「日本の神々」、谷川健一、岩波新書、1999年、「別冊歴史読本記紀神話の秘密」、新人物往来社、1997年、「知っておきたい日本の仏教」、武光誠、角川ソフィア文庫、2008年、「知っておきたい日本の神様」、武光誠、角川ソフィア文庫、2008年、「神と仏の道を歩く」、神仏霊場会、集英社新書、2008年、「日本仏教派のすべて」、大法輪閣、1981年、などがある。「和のしきたり」、新谷尚紀、日本文芸社、2008年、「日本の神様がよくわかる本」、戸部民雄、PHP文庫、2004年

(26) 「日本文学の古典」(第二版)、西郷信綱、永積安明、広末保、岩波新書、1966年
記紀から、万葉集、源氏物語、平家物語、能と狂言、方丈記・徒然草、俳諧、歌舞伎まで日本の古典を扱っており、もののあはれ、幽玄などの理解に役立つと思う。幽玄が詩歌・管弦の道のみならずということが分かる。

(27) *「勘の研究」、黒田亮、講談社学術文庫、1980年
 武道における極意や無心無念を、禅や能の幽玄などを踏まえて、より理詰めに説明しようという試みは高く評価されるべきである。

(28) *「甘えの構造」、土居健郎、弘文堂、1971年
 義理人情、禅の悟り、遠慮、とらわれ、判官びいきなど甘えとの関連で説明されている。ロシア語にもあるが、単語一つで表現されているのは日本語だけであり、それが日本人の特徴であるということなのだろう。

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2010年10月02日

●日本の心 第7回

日本人や日本の美については数多くの本がこれまで出版されているし、ある意味で埋もれている本も多いと思う。ガイドをする上で参考になる本で、図書館で読むことのできるような本を自分の経験から紹介しようとするのがこの企画である。
(29) 「古寺巡礼」、和辻哲朗、岩波新書、1979年
 仏寺、仏像を美術や芸術の観点で見るならば、この書がベストであろう。亀井勝一郎「大和古寺風物詩」(新潮文庫、1953年)のように仏像とは拝むものだというという観点は説得力があるが、意を尽くしているとは言い難い。これについてはやはり亀井の「日本人の精神史」第1部「古代知識階級の形成」を読むべきである。堀辰夫の「大和路・信濃路」(新潮社、1955)もよい。これは1941年ごろの随筆で、浄瑠璃寺のところの文章が特に好きだ。ただ全体を俯瞰したものではない。

(30) 「風土」、和辻哲郎、岩波文庫、1979年
 1935年補筆とあるので、時代がら仕方がないと思うが、著者の対象とした国はせいぜいエジプト、ドイツとインドと中国、日本である。そのため現代の目で見れば、アフリカも南北アメリカも、インドや中国以外のアジア、ロシアなども抜けている。ピラミッドにしてもその起源からすればナイル川の辺に建設されたわけで、砂漠云々だけを取り上げるのはどうかなという気はする。ただ注目すべきは日本に関する項であり、男女や家族の間柄を全然隔てなき結合と喝破しているのはさすがである。内と外の区別などは今でも十分に感心させられる。これだけでも本書を読む価値はある。

(31) 「日本精神史研究」、和辻哲郎、岩波文庫、1992年
 1926年初出。ここでいう精神とはその時代の風潮を指しているというが、他の著者の精神史もそういう意味で取るのが正しいのだろう。竹取物語、枕草紙、源氏物語についての評論がよい。もののあはれ(ああと感嘆されるもの、永久を慕う無限の感情)、禅の悟り(道元を通じて)についても参考となるが、一番感心したのは、伝統という事で歌舞伎の演目自体が固まってしまったことは(無論戯曲の筋が人間の心情とかけはなれたものは、省略されるなり、上演されなくなったのだろうけど)、舞踊という面ではよかったかもしれないが、劇としては醜悪なものもあるという点を具体的に指摘していることである。伝統芸能にこのような見方があるという事に新鮮な驚きを覚えた。昨今中村勘三郎などが歌舞伎に新風を吹き込もうとしているのもこの辺の批判に応えてのことだろうと気がついた。

(32) *「日本人の人生観」、山本七平、講談社学術文庫、1978年
質のよい記憶の量を増やせばふやすほどその人間の発想の量は増えて行く、記憶の量がその人の発想の範囲を決めてしまう、人は言葉で生きる、人間の発想というのは自分の持っているその記憶と記憶をどのようにつないで新しい回答を見つけるかにある、などなるほどと感心した。日本人の宗教は個人ではなく家に関わる概念であり、宗教は何ですかと日本人に問えば、私はともかく、両親は真宗ですなどといい、これが日本人が無宗教であると外国人に思われる理由であると述べている。

(33) 「空気の研究」、山本七平、文春文庫、1983年
KYというのは空気が読めないということで、今の若者が使う言葉だが、その空気を日本人の特徴の一つとして論じている。日本は西洋の一神教的ではなく、伝統的に汎神論的であり、絶対化の対象があらゆるところにあるという意識に慣れており、水(自由なる思想)をさすという意識の切り替えで絶対化の対象を変えることをやってきた。その前提は一君万民でという一種の平等思想である。自由なる思想というのには、自分で考える頭が必要で、多くの人は考えるのを嫌がる。だれかに考えてほしいのだ。これは日本人に限らない。ロシアでも、庶民に結論の身を聞きたがる人は多い。白黒はっきりつくことないという事が理解できないという事ではなく、根気をもって考えるのが嫌なのか、そういう習慣がないからだ。考える癖というのは本を読むことでしかつかないが、その読書を嫌がる人がこの娯楽の多い(ゲームなどの)時代には多い。この空気は物事は理屈ではないとて、感情移入の絶対化で、対立概念で対象を把握することの排除であり、切除的否定(切り捨て)とある。「言必言、行必果、コレ小人」(やると言ったから必ずやるさ、やった以上はどこまでも)というのが日本人の特性であるというのにはなるほどと思った。物事は白黒つくのはあまりないわけで、それを白か黒かと即断するのを決断する(責任を取る)のをエライと日本人は考えるわけで、日本では途中で立場を変えるのが男らしくないと見なされるから、優柔不断であり、付和雷同ということになるのだろう。ほかに差別の道徳(知っている者には手助けをするのに、知らない者にはしらんぷり)、他者と自己の区別がつかなくなった状態(著者はそう言ってないが、甘やかされた子供やペットも含まれるだろう)など面白かった。もうひとつ面白かったのは、「天皇家は仏教となりや?」という問いかけである。仏教の最初の信者の一人は聖徳太子であり、奈良の大仏を作るよう命令したのは聖武天皇であるし、神仏習合ということもあり、答えは明らかなはずだが、著者によれば、1871年までは宮中の黒戸の間に仏壇があり、歴代天皇の位牌があったが、これ以降千年続いた仏式の行事はすべて停止されることになった。天皇家の菩提寺は京都の泉涌寺だったが、1873年宮中の仏像その他一切はこの寺に移され、天皇家とは縁切りとなった。皇族には熱心な仏教徒もいたが、その葬式すら仏式で行う事は禁じられたという。

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2010年10月07日

●日本の心 第8回

(34) *「東山時代における一縉紳の生活」、原勝朗、現代思想体系27所載、筑摩書房
 1917年初出。三条西実隆(1455~1537)の日記のうち1474年から1535年までの生活を描いたもの。連歌師の宗祇との交遊など当時の貴族の生活が窺える。著者の原勝男(1871~1924)は日本中世史の泰斗である。似たような本に「ピープス氏の秘められた日記」(臼田昭、岩波新書、1982年)があるが、速記号で書かれたこともあり本書よりプライベートな面もさらけ出す記述になっている。貴族と平民の違いか。

(35) 「月と不死」、N・ネフスキー、岡正雄編、東洋文庫、1971年
 ネフスキー(1892~1938)はロシアの民俗学者および言語学者で1915年来日、1929年帰国。日本語の文章を日本人以上にマスターしていたことがうかがわれる。変若水(ヲチミヅ)と死水に関してはロシア民話との違いもあり興味深い。ロシアでは死の水でばらばらになった体の部分をつなぎ、その後生(命)の水で生き返らせるが、若水は不死(蛇の抜け殻)に関連し、死水は死すべき人間にということである。加藤九祚のネフスキーに関する解説が非常によい。

(36) 「日本精神」、W・モラエス、花野富蔵訳、講談社学術文庫、1992年
モラエス(1854~1912)はポルトガル人で1889年訪日。初代副領事。「日本歴史」という著書もある日本通。日本女性と結婚し徳島に住んだ。本書は「大和魂」ということが主題のようだが、読んでゆくと、やはり「日本精神」のほうが題名としてはよいと思う。書いてある内容はいわゆる大和魂とは違う。ポルトガル語と比べて、日本語には人称代名詞がないとした後、「尊称動詞と卑称動詞とを用いるが、尊称の助辞を使うか使わないかが、叙法上における人称を区別する所要な手段となっている」と書いてあるのは当時としては卓見である。また、名詞に性がないから没個性的であり、「日本語には侮辱や下司の言葉がなくて、日本人の口にしうる最も下品な言葉が〔馬鹿〕なのだ」とある。多分モラエスだけが、心中、特に一家心中が日本的であることを指摘している。ただ一家心中を家族(子供も含めて)納得ずくの自殺だけであって、無理心中というものについては含めていないようだ。また算盤で平方根も解けるというのは感心している。日本の美は仏教により覚醒されたという趣旨で書いてあるのは穏当なところであろう。当時の日本についてはなるほどと思うところが多いが、一つだけ、「日本人は瞑想がないし、瞑想をしない。さほど苦悩もしない」というのは、死に対する諦観からそう思っているようだが、座禅などは知らなかったのだろうか?日本の児童はその行動において野放しである。学校でも体罰はない。ただ上級に進むにつれて、標準型(集団に対する没個性)が望ましいことがそれとなく教えられてゆくと書いてある。

(37) 「神国日本 - 解明への一試論」、ラフカディオ・ハーン、柏倉俊三訳注、東洋文庫、平凡社、1976年
 コーネル大学で予定された講義原稿を基にしたとされるラフカディオ・ハーン(1850~1904)の著作。1896年日本に帰化してから小泉八雲となった。初版は1904年で、この出版をハーンは見ることがなかった。本書の半分ほどは宗教、特に神道についての述べており、その祖先崇拝に多くページを割いている。残りは日本史、その当時の日本の産業などである。仏教の大乗仏教については、庶民多くはその本質を知悉しておらず、輪廻の否定、霊魂の存在の否定、人格の否定、いわゆる一元論であり、人体は常に細胞が入れ替わっており、人間で残るものは記憶という意識であり、ランプの芯から芯へと移る炎のようなものだと述べているのは卓見である。切支丹についても、なぜ切支丹が日本で急速に力を得たのかという問いについては、カソリックの祖先崇拝の黙認、領主の改宗への強制があったからではないかと述べるに止まっている。しかし、当時の仏教の堕落(男色、僧侶の教義の不勉強)、日本人の新し物好き、イエズス会のもたらした豪華な装飾物(十字架も含む)などであろう。仇討についても慰謝慰撫の行為であり、遺恨を晴らす、慰霊の意味合いであると忠の観点から述べているが、孝と忠のどちらが上かについては述べていない。日本では中国と違い、孝より忠が重かったのである。孝についても日本では藩士の藩主への孝はあるが、それは将軍家や天皇に対するものではなく、非常に狭い範囲のものであったとあるが、幕末には勤王思想が広がり、必ずしもそうとは言えないと思う。日本の女性については、道徳的精神的な美しさもうすでに消え滅んでしまった世界にある美しさであるとか、日本の女性の女らしさは親切心、従順さ、同情心、やさしさ、細やかな心遣いにあり、仕草も典雅であるとか、肉体的美しさは幼年期の魅力であるとか、手放しの褒めようである。ただ最後に、「この驚異に値する(美しさの)型はまだ消滅してはいない。- 隔日に消えゆく運命をもっているけれども」とは書いている。日本では子供は大事にされ、鞭打ちは普通やらないし、その代わりにお灸をすえられる。子供にはとことんまで辛抱する。そして、「七つ八つは道端の穴さえ憎む」という諺を引いて、6~7歳の子供は腕白盛りで、いたずらをしても叱られないというようなことが書いてある。小学館の故事俗信ことわざ辞典を見てみたが、該当することわざはなかった。しかし、似たようなものとして、「七つ八つは近所の嫁を追い出す」、「七つ八つは憎まれ盛り」があって、これは6~7歳の子供は腕白盛りだという意味であり、わがままや非礼はとがめないという意味のことわざは、「七つ前は神の子」だけである。ただこの3つはことわざとしても一般的とは思えない。ハーンのこの著作が、日本の女性の淑やかさという魅力を世界に広めるのに役立ったろうし、日本では子供を3歳までは徹底的に甘やかし、その後厳しくしつけるなどロシア人から聞く質問のもとはこの本にあるのかもしれない。よく読まなくてもハーンは日本では子供は大事にされると言いたかっただけであることが分かる。小泉八雲の日本に関する印象を描いたものは「Glimpses of Unfamiliar Japan, 1894」(2巻)がある。キリスト教嫌いであり、実際に日本に住み、日本人以上に日本の美や文化を愛したという事がよく分かる名作である。非常に優美な文章だと思う。ただこの日本は1890年前後の日本、それも松江を通しての日本ということになる。邦訳は講談社学術文庫の「神々の国の首都」(1990年)、「明治日本の面影」が3/4を収録している。「盆踊り」という小編が特に好きだ。

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2010年10月10日

●日本の心 第9回

(38) 「ヨーロッパ文化と日本文化」、ルイス・フロイス、岡田章雄訳注、岩波文庫、1991年
1585年にフロイス(1532~97)が著した彼我の違いを箇条書きにして訳者が注を加えたもの。日本には散歩の習慣はないとか、日本人は犬の肉を食べるとか、蹄鉄がなく藁靴を馬に履かせているなどとあるのは面白い。「完訳フロイス日本史」の日本とヨーロッパの違いについてまとめたものといえる。

(39) *「完訳フロイス日本史」(12巻)ルイス・フロイス、松田毅一・川崎桃太訳、中公文庫、2000年
ルイス・フロイスはイエズス会のポルトガル人宣教師であり、1563~92年および1595~97年に滞日した。足利義輝や義昭、織田信長、豊臣秀吉、大友宗麟、大村純忠、有馬晴信、細川ガラシアなどと面識を得たときの経験をもとにしている。本書は3部作4巻からなり338章(1,214枚)で、日本通史ではなく、1549~93年までのキリシタン布教という観点からの編年史であるが、文庫版では歴史的人物毎に編集し直している。第2巻から6巻が日本史という点からみるとより興味深い。鼻紙、灸がすでに当時使われていたことが分かる。通りや家も清潔というのも日本の特色であり、後代の外国人が述べているのと一致しているのが興味深い。非常に格調高い現代語訳である。

(40) *「日本切支丹宗門史」(3巻)、レオン・パジェス、クリセル神父校閲、吉田小五郎訳、岩波文庫、1938年
 フランスの日本研究家レオン・パジェス(1814~86)による日本史の1598年から1651年の部分の翻訳。1869年初出。これはカソリックの日本殉教史といえるが、ルイス・フロイスの日本史が1593年に終わっているので、ほぼこれを継ぐものと考えてもよい。両書に書かれていないこの間の有名な出来事としては1597年の26聖人の殉教がある。本書に書かれた処刑は非常に残酷な殺され方ばかりだが、処刑リストに入っていない年端もいかない子供まで、母親が天国に一緒に行けるようにと役人に突き出すというのは無理心中そのものであり、このようなことを許容する宗教というものの恐ろしさも同時に窺われる。これは当時のロシアにおいても古儀式派は自ら家に火をかけて信徒もろとも死ぬというのと同じである。迫害をしたのは加藤清正(法華経の信者であった)、有馬家、将軍家の意向を体した長崎奉行長谷川権六(キリスト教からの改宗者)などで、同じような狂信的宗教を信じるものや改宗者のほうが迫害の程度が強いことが分かる。1604年当時日本には123名(ビベロによれば信徒数は180万人)のイエズス会員がおり、1605年にはキリスト教信徒数は75万人とある。信者数が正しいかどうかは別にして、キリスト教への大量の改宗者が出たのは事実であり、このように大量の改宗者が出た理由を個人的に考えると、
・当時の庶民や武士の死生観を想像するに、死ねばあの世に行き、そこで子孫を見守る。そのため先祖を祀ることが重要で、家を絶やさないのが子孫の義務であった。これぐらいであとは死後どうなるのか曖昧模糊としていたが、キリスト教に受洗すれば天国に行けるとか未来における救済など死後の世界が体系だって具体的に教えられている。
・キリスト教は一夫一妻を主張し、蓄妾や衆道(男色)の禁止によって女性の支持を得た。
・キリスト教による悪魔祓い(当時狐憑きなどが女性の間には多かった)
・教会による喜捨の実施、らい病患者への手厚い介護
・最新の知識(天文、科学、数学)の紹介、教育の実践
・領主からのその領国での全員の強制改宗
・教義が仏教などに比べても論理的であること。
・僧侶の堕落(教義の知識もなく、金を取ることばかりを考え、僧侶が酒や男色にふけるなど)
・儀式の荘厳さ、きらびやかな衣装や聖具
・イエスの処刑(犠牲となって処刑されることに対する共感)
 同時に殉教者が多く出たのは、
・殉教すれば間違いなく天国にいけるという考え方が日本的な潔さと一致したこと。
・だれもがいつでも英雄になれるわけではないが、殉教者は死ぬことにより女性でも英雄になれると考えたこと。
・殉教に生きがいを見出したこと。
・先に苦労すれば後で報われるという考え方(それが死後であっても)
 1607年ヨハネ・ロドリゲス師が家康に謁見すべく江戸に行く途中で鎌倉大仏を見て、それが田んぼの中に放棄されや蝶の休場となっていたとある。日本のイエズス会出身で聖アウグスチノ会の日本人ニコラス修士は1597年ニコラス・メーロ師と共にローマに遣わされたが、途中モスクワで宗教上のことから1611年ニスナ(ニージュニー・ノーヴゴロドであろう)で処刑されたとある。これなどロシアに行った日本人では早い方であろう。幕末時代に言及されるパッペンベルグ(高鉾)島では、1617年伝道士アンデレア吉田とガスパル彦次郎が斬首され、遺骸は海中投棄された。

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2010年10月14日

●日本の心 第10回

(41) 「醒酔笑」(2巻)、安楽庵策伝、鈴木棠三校注、岩波文庫、1986年
 戦国・安土桃山時代の笑話集。男色(寺院における)が広く行われていたことがよく分かる。解説を読めば落ちが分かるような気がするが、二つの話を除いて面白いとはいえないと思う。

(42) 「江戸怪談集」(3巻)、高田衛編・校注、岩波文庫、1989年

(43) 「嬉遊笑覧」(5巻)、喜多村筠庭、岩波文庫、2002 – 2009年
 江戸時代の百科辞典。

(44) 「近世風俗史(守貞謾稿)」(5巻)、喜田川守貞、岩波文庫、1996年
 喜田川守貞(18110~?)による江戸時代風俗の絵入り百科事典。

(45) 「耳嚢」(3巻)、根岸鎮衛、岩波文庫、1991年
 江戸時代の珍談奇談を集めた随筆集。

(46) 「江戸の夕栄」、鹿島萬兵衛、中公文庫、1977年
 鹿島萬兵衛(1849~1928)は紡績業界の先達で江戸の生まれで、維新のときに19歳だった著者の幕末小百科。江戸には犬公方のおかげで犬も、その糞もが多く、小便用のトイレはあったが立ち小便も絶えず、ドブなどで臭気はものすごいものだったという。土蔵の白壁、板塀に焼瓦、墨、白墨で書かれた落書きに相合傘があり、おまつ竹吉、お染久松などがすでにあったという。江戸気質の弱きを助け強きをくじくという勧善懲悪は講談のおかげであり、野天講釈も大いに力があずかったものという。著者は6~7歳のときに大名行列を横切ろうとし先頭の徒士に連れ戻され事なきを得たという。下手をすれば手討ちになりかねないところだった。面白い出来事としてせんべいの方職人の倅繁が強風のとき雨戸につかまり芝口から神田のお玉ヶ池まで約3キロ飛ばされたが無事だったと書いている。まるで飛行機である。

(47) 「幕末百話」、篠田鉱造、岩波文庫、1996年
 篠田鉱造(1871~1965)の幕末古老からの聞き書き。

(48) *「明治百話」(2巻)、篠田鉱造、岩波文庫、1996年
 首斬朝右衛門(高橋お伝の斬首のくだりなど)や明治の掏りの話が特に面白い。他に、「明治女百話」(2巻)、篠田鉱造、岩波文庫、1997年がある。

(49) *「江戸から東京へ」(9巻)、矢田挿雲、中公文庫、1998年
矢田挿雲(1882~1961)は作家であり、報知新聞の記者をしていた。本書は1920年から大震災のときまで同紙に連載したもので、江戸(東京)のガイドブックの草分けである。美人で有名な笠森おせん姉妹の最後など興味深い。浅草寺の秘仏は金無垢5センチほどで628年に隅田川で漁師の兄弟と僧が見つけ、小さな祠を立てて守り、942年平公雅が武蔵守に昇任したときに観音様の堂楼を建てたという。そこから浅草寺が発展してきたが、実際に秘仏を見た人はないと言われている。浅草寺はよく焼け、11世紀までに6~7回焼けていた。御本尊はというと、その都度自ら飛んで行って火炎を逃れたので失われずに済んだという。浅草寺に御本尊がおわすかどうか世間でも疑問に思っていたようで、一説には実は御本尊は長昌寺においてあり、儀式のときだけ動座する決まりになっていたが、長昌寺の住職が金に困り、あろうことか御本尊を質入れした。ただいつのまにか(川で見つかったものゆえか)流れてしまい、今は不明であるというその質屋の話がある。明治維新になって廃仏毀釈のせいもあるのか、ある役人が秘仏臨検使として、内陣に進み、須弥檀に足をかけて、お厨子の錠を開きかけたとたん、もんどりうって内陣の畳の上に転落し、うんと一声悶絶したとある。政府の方はこれであきらめたが、寺側としても秘仏の有無を確認しておきたいと住職の唯雅僧正が一念発起した。当時秘仏を見れば眼がつぶれといわれたくらいで大層な勇気である。お厨子には、初めから開帳仏と称して、御本尊の10倍の大きさの替え玉の立像(これがいわゆる身代わりの開帳仏)が安置されていた。そこで奥山の念仏堂を預かっていた片山周諦坊と、大橋亘という役人に証人として立ち会ってもらい秘仏を見ることにした。秘仏の安置場所は替え玉の胎内であり、この立像の差し込みになっている首を外し、1300年ぶりに布に巻いた日にも水にも溶けぬ閻浮檀金(えんぶだごん、白金のこと)の金仏様を見たのだという。白金の仏像をだれが作ったのかと考える輩には観音様の仏罰が当たるかもしれないと著者は書いている。類書にないものとして「いなせ」の定義があることで、粋の次にイナセやキャンが来て、その次にイサミとなるという。イナセは1855年ごろの新内の流しがもとで、こはだの鮨売りや鳥追い女に代表され、侠艶ということのようだ。辰巳芸者(後に柳橋の芸者が引き継いだという)もそうで、これは房総、常磐、仙台や松前の船頭衆が常花客だったから威勢がよいのだとある、お話としては面白いし、非常に読ませるが、いくつか誤りがある。3巻104ページの和蘭の船長とあるのはカピタンで商館長のことであるし、5巻17ページのお稲が石井某に嫁して、二男一女を儲け、シーボルトの血筋を伝えているとあるのは、間違いで、一女(お稲)のみである。それも石井(宗謙)がお稲を強姦した結果であって、当時の石井の妻女がお稲の母に謝りに来たという。石井などに比べてこの妻女の方がよほど人間が出来ている。5巻140ページのポルトガル人、オランダ人、支那人にキリストの踏み絵を強制したという事実はない。6巻229ページ「ヘナチョコ」を造語したのは仮名垣魯文ではなく、弟子の野崎左文とその友人たちである。7巻222ページのレサノット(レザーノフの誤り)がペテルブルグへの帰途非業の自殺を遂げたというのは誤りであって、病死した。同じく233ページにサガリン島が樺太とカムチャッカ半島の間にあるというのは、サガリン(サハリン)島を千島列島と間違えたものか?ちなみにロシア語のサハリーンは樺太のことである。8巻305ページの箕作阮甫が1853年筒井・川路使節に随行したというのはどうか。随行したのは荒尾土佐守や古賀謹一郎ではなかったか。私のような素人が見てもこのくらいあるから、専門家が見ればもっとあるかもしれない。しかし、誤りについて訂正するなど謙虚かつ良心的である。間違いを指摘した人の方が間違うという事や、異説というこもあるので、このぐらいにしておく。助六などの歌舞伎の題材の実話、東京各所の由来、言い伝え、特に震災直後の名所の惨状などに詳しく、東京のガイドを志す人の必読書といえる。

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2010年10月24日

●日本の心 第11回

(50) 「明治風物詩」、柴田宵曲、ちくま文芸文庫、2007年
 柴田宵曲(1897~1966)の明治に関する小百科。他に「明治の話題」、ちくま文芸文庫、2006年がある。

(51) 「明治のおもかげ」、鴬亭金升、岩波文庫、2000年
 金升(1868~1954)は団々新聞を振り出しに半世紀を新聞記者として過ごした。明治の東京のおもかげを淡々と語っている。左団次の自伝によれば金升の雑俳の運座で17歳ころ二世市川左団次が小山内薫と知り合ったとあり、後の自由劇場の発端である。まさに縁は異なもの乙なものである。

(52) 「明治人物夜話」、森銑三、岩波文庫、2001年
 森銑三(1895~1985)。円朝の話が特に面白い。

(53) 「明治世相百話」、山本笑月、中公文庫、1983年
 山本笑月(1873~1936)はジャーナリストで、弟は大正デモクラシー時代の論客長谷川如是閑(1875~1969)。1936年初出。文体は連体止め、連用止めが多く、きびきびというよりは舌足らずの感がある。観工場ができて正札付きの値引きなしが広まったなど朝日新聞の記者として文字通り明治の世相を我々に感じさせてくれる。

(54) 「開化異国助っ人奮戦記」、荒俣宏、小学館ライブラリー、1993年
 幕末明治のお雇い教師に焦点を当てていて、なかなか面白い。

(55) 「異国遍路旅芸人始末書」、宮岡謙二、中公文庫、1978年
 宮岡謙二(1898~1978)が維新前から海外へ渡った旅芸人たちの歴史について書いたもの。すでに1867年にパリ万博を目指して日本の芸人が海外渡航をしていたというのには驚く。キモノの語源が1877年のパリ万博で前田正名の発案で三井物産パリ支店長伊達忠七の厚意で旧幕御殿女中の衣装を外人に着せ、オデオン座で忠臣蔵を前田の舞台監督で上演した。この後有名な川上貞奴が英国王室、米仏大統領の前で芸者に絡んだ劇をし、特に流行の中心パリで奴服を京都西陣の川島甚兵衛に頼んで取り寄せて以来キモノが国際語となったというのは面黒い。ハラキリも流行らせたのは川上音二郎の芝居であろう。好評で立ちハラキリなどまでやってみせたという。芸者の海外渡航第一号はパリ万博で茶汲み女をした1867年の柳橋芸者おすみ、おかね、おさとと言われるが、踊りも紹介したとなると1900~02年までパリ万博を目的に渡航した新橋烏森の千芳亭の芸者8名(総勢15名)であろう。これには落語家の三升屋小勝が宰領として参加している。小勝の女房の姉が千芳亭の女将だった関係である。1901年にはモスクワで5週間の公演をしている。場所は不明だがヨーロッパのどこかの博物館で十字軍時代の貞操帯を見たらしく、「腰から下へはめた人間の錠」と帰国後語っているという。他に1901年ロンドンで19歳の柔術家谷幸雄は、レスラーやボクサーと他流公開試合をして100ポンドの賞金をかけられたが無敵だったという。コンデ・コマ(前田光世)の先輩か。宮岡には「娼婦海外流浪記」(三一書房、1968年)という好著もある。

(56) 「明治を駆け抜けた女たち」、中村彰彦編著(他に清野真智子、錦仁)、ダイナミックセラーズ、1984年
明治を彩った山本八重(1847~1932)、高橋お伝(1851~79)、下田歌子(1854~1936)、ラグーザお玉(1861~1939)、川上貞奴(1871~1946)、与謝野晶子(1878~1942)、松旭斎天勝(1884~1944)、平塚らいてう(1886~1971)、乃木静子(1858~1912)についてつぼを抑えた文章である。いずれも当人の写真がついており、お伝の写真は初めて見た。特に興味深いのは乃木静子で、愚将といわれた乃木大将の素顔、それに耐え、晩年になってお互いの心が通じる様子が悲しい中に美しい。

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2010年10月31日

●日本の心 第12回

(57) *「チェンバレンの明治旅行案内(横浜・東京編)B・H・チェンバレン、楠家重敏訳、新人物往来社、1987年
1873年お雇い外国人として来日したチェンバレン(1850~1935)の日本観光案内。宿代が20~50銭で、茶代(チップ)も同じくらい出さないといけない、家では靴を脱げ、夜窓を開けたままにしてはいけない(強盗に入られるから)、日本人は名刺交換好きなので、名刺を持って行け、短気になるなとか100年前の日本にタイムスリップした感じにさせる好著である。日本の観光案内をする場合、神仏についてできるだけ多く知識があった方がよいが、では具体的にどのくらい知っていればいいのだろう。明治時代英語で日本の観光案内を書いたチェンバレンによれば、50項目ぐらいある。ご参考までに挙げると、愛染明王、浅間、天照大神、阿弥陀仏、阿難、弁天、ビンズル、毘沙門、梵天、菩薩、大黒、大日如来、道祖神、恵比寿、閻魔大王、不動明王、普賢菩薩、福禄寿、五智如来、権現、八幡、布袋、仏、稲荷、イザナギとイザナミ、地蔵、寿老人、神、迦葉、鬼子母神、金毘羅、庚申、観音菩薩、摩利支天、摩耶夫人、弥陀、尊(命)、弥勒菩薩、文殊菩薩、仁王、如来、大国主命、羅漢、シャカムニ、舎利弗、七福神、四天王、三途の河の婆、少彦名、スサノオノミコト、帝釈天、多聞天、天神、東照宮、豊受姫、薬師如来である。

(58) *「日本事物誌」、チェンバレン、高梨健吉訳、1969年、東洋文庫
 明治の日本に関する201項目の小百科。1939年の最終第6版の訳。「子供」(日本の子供がおとなしいのは、日本人があまり頑健でないから)とか、「算盤」(日本の算盤には暗算がない)の項目は自分がよく理解していなかったのであろうが、こういう例外を除けば、「美術」(日本美術史)など分かりやすく解説している良書。霜柱がヨーロッパにない(米国バージニア州にはあり、frost flowerという)など目には鱗のである。

(59) 「ヤング・ジャパン」(3巻)、J・R・ブラック、ねず・まさし、小池晴子訳、東洋文庫、1970年
1861年~76年滞日した英国人ブラック(1827~80)が書いた1858年から74年までの当時横浜で刊行されていた英字紙や史料に基づく幕末・明治小史。ペリーの来航から始まっており、開国させたことは正しいが、そのやりかたが強圧的なのは問題だと指摘している。小見出しが多く読みやすい。1864年のアイヌの墓の盗掘事件など興味深いものもある。大事件と三面記事が交互に出て来るが、三面記事の方が他の史料では調べにくいので重宝する。彼の息子が落語家の快楽亭ブラック(ヘンリー・ジェームズ・(石井)ブラック、1858~1923)である。1896年日本初とされる催眠術の公開実験を行った。自ら改良落語を行うだけでなく、1903年から1908年ごろまでの落語名人芸をレコードに残すため大活躍をした。

(60) 「日本文化史」、G・B・サンソム (Sansom)、福井利吉朗訳、東京創元社、1976年
1931年初出。著者は1906年長崎、函館、東京の英国領事館に勤務、第一次世界大戦のとき一時帰国。その後1920~40年まで滞日。上古から1868年までを扱っている。武士道は鎌倉時代を淵源に求めるが、完成したのは江戸時代であり、それを中世の平家物語などからこの時代に武士道は存在したというのは無理があろう。武士は鎌倉時代から戦国時代にいたるまで土地に対しては忠実だったが主君に対してはもっとドライであったはずである。一所懸命という言葉もある。北朝と南朝対立の経緯は略述しすぎてさすがに筆が疲れた感じが否めない。日本人には原罪の意識がないため形而上学的思索の性向がないとか、文字というのは長く使われているからにはそれぞれに長短があるはずなのに、漢字に対して西洋のアルファベットはおそらく人間精神の最大の勝利であるとか、キリスト教や西洋文化の優越性の根本的にあるにせよ、それはそれで一本筋が通っていて、歴史の流れにおける原因と結果について明確に叙述してある名著。文化史には政治史、行政史、経済史の観点が必要であることを本書は教えてくれる。また達意の名訳であるが、385ページの「四つ裂き、田楽刺し(串刺しのことか?)」にしても、日本はヨーロッパのような野蛮国ではないから、江戸時代においてもそのような刑罰はなかった。妻はキャサリン・サンソムで「東京に暮らす」という良書を書いた。

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2010年11月06日

●日本の心 第13回

(61) 「明治大正見聞史」、生方敏郎、中公文庫、1978年
ジャーナリストでユーモア作家の生方敏郎(1882~1969)が1926年に出版。明治学院の学生だった著者によれば、明治時代の蛮殻は薩摩の学生を真似たもので、日露戦争ごろまでは男色(稚児や念者)の弊害もあり、池田侯爵の分家の若者が短刀で脅して少年を鶏姦し放校されたという事件が1899年にあり、他に賄い征伐など寮の料理人いじめのようなこともあったとある。1902年ころから学生街にミルクホール(今でいう喫茶店)が起こり、実はマーガリンをつけたバタつきパンとか、豆の黒焼きを煎じた珈琲と称する飲み物を提供したとあるのも興味深い。コンパというのは本書から明治時代はコンパニーと言っていたことが分かる。とはいっても異性がらみではなく、アミダを引いて金を出し合いパン菓子を買い、皆で食べるというものだったようだ。ニコライ堂の鐘についても西洋式の、撞木でつくのではなく、いわゆる舌を鐘の内側に当てるものだから音が騒がしく感じたようで、ニコライは露探だという噂が流れたことがよく分かる。また明治天皇の御大葬のとき著者は朝日新聞の記者で、皇居近辺で洋傘の袋のような小便袋を売っていたとある。決して臨時トイレがなかったわけではないが数が少なかったのだろう。乃木夫妻の殉死のときには朝日新聞内では応召した記者もいたので、203高地の采配(これだけではないが)の不手際から愚将呼ばわりする空気が一般的だったが、翌日の新聞にはどこも軍神とあったのを皮肉とみたようだ。

(62) 「明治大正史」(世相編)、柳田國男、講談社学術文庫、1993年
本書は1930年の著作である。題名はともかく、日本らしさ、日本人らしさというものについて論じている。1901年の東京における裸足禁止令、なぜしゃもじが平べったいか、明かり障子は明治からなど、われわれが日本的と考えているものが案外明治以降のものであることに気づかされる。解説者の桜田勝徳氏が柳田のいう日本人らしさというのは開港以前からあったもののことだと指摘されているのも興味を引く。本書は朝日新聞の毎日の記事からテーマ毎にその当時の社会の底流に流れるものを記述したものだが、枝葉にわたることを恐れて具体的なデータの提示がまったくなされていないため、記述が一般化し過ぎて聞こえるところもある。特に後半の「貧と病」からはそのような印象を持つが、前半部はガイドの必読書と思う。一人の個人名も挙げず、個別な事例を日時など具体的に示さないということは読者に判断のよすがを与えないという事であり、ある面で自分の要約や結論の押し付けという事にもなる。事例の羅列は生データの開陳となるわけで、少なくとも後者はそこから何か拾えるものがある場合もある。

(63) *「おもひ出す人々」、内田魯庵、明治文学回顧録(一)、明治文学全集98、筑摩書房、1980
 1914年初出。二葉亭四迷、尾崎紅葉、山田美妙などの横顔がうかがえて、良質の明治文学史と言える。美妙も自分で微妙と名乗るならともかく、軽薄人士だったことが分かる。大杉栄と親交があり、その虐殺前後について記載されている。

(64) 「私の見た明治文壇」(2巻)、野崎左又、校訂青木念弥・佐々木亭・山本和明、東洋文庫、平凡社、2007年
 1927年初出。著者はジャーナリストで仮名垣魯文の弟子。明治の新聞草創期が特に興味深い。著者はへなちょこという言葉を友人と共に造語したので有名である。日清戦争での死んでもラッパを離しませんでしたの木口小平にしても、某社の従軍記者が倒れているラッパ卒を見ての話で、実際に死ぬまでラッパを吹いていたかは分からぬし、名無しの権兵衛では困るので名前をつけたのだと書いている。

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2010年11月17日

●日本の心 第14回

(65) 「明治精神史」(2巻)、色川大吉、岩波現代文庫、2008年
 1968年の増補版による。民衆精神史の草分けとされ、蘇峰や北村透谷などや自由民権運動を軸にその民衆精神史を叙述している。本書の文体は、通常漢字とするような語彙(、ふかい、つくる、かれ、しめす、いみ、たいほ、とつぜん)を平仮名で示しているのは、漢字が続くと生硬な文体になるのを避けるためか。1885年の朝鮮革命計画である大阪事件は、軍用金調達のための強盗であり、ロシアのエクスに先行するものと思われる。これに北村透谷は誘われたが断ったという。読後の感想として、本書は第一部と第二部で止めておけばよかったのと思う。第三部の「歴史家の宿命について」は本書のテーマと関係ないし、「明治文化史の構想について」は本書のテーマに関係ありといえども他の著者の書評ではないか。随分チェルヌィシェフスキーを持ちあげているようだが、彼の著作は「何を為すべきか」であって、「我々が何を為すべきか」ではない。これも社会主義の美化というか理想化というか、内容の構成も薄弱で、小説と呼べるものではない。この書が決してレーニンたちに道を準備したというものではない。そう聞いたらレーニンがびっくりするだろう。本書を著者がいうほど「理解しにくいとは思わない」、ただ書名の明治思想史というのは大げさであろう。明治の一部の時代(明治20年代)を取り扱ったものであり、ほめるとすれば、富豪民権家に光を当てたという事である。題名は「豪農民権家の思想」とでもした方が読者に変な予断を持たせなくてよい。

(66) 「明治の文化」、色川大吉、岩波現代文庫、2007年
 1970年初出。1884年の秩父事件の評価など民衆(文字の読み書きできるクラス)の側から見た近代史の一章。本書を「明治の文化」と題するのには違和感がある。明治の精神の一断面を描いたにすぎないからであるが、こういう視点で書いたものは他にないと思われるので挙げておく。明治時代に「農民が自分の村の村人に対しては、どんなに窮迫しても憐みを乞うたり、さげすまれたりすることを身を切られるよりも辛いとする観念」というのは、現代のワーキング・プアの心理と共通するものがあると感じた。著者の責任ではないと思うが、チェーホフの「6号室」は、「第6病棟」が正しいので念のため。

(67) *「職工事情」(3巻)、犬丸義一校訂、岩波文庫、1998年
 1900年ごろの工場労働事情の実態調査報告書。1903年農商務省商工局に依る。工場調査掛長は窪田静太郎(1865~1946)で、友人の経済学者桑田熊蔵(1868~1932)が手伝った。戦前は禁書であり、初出は1947年。山川菊栄が大震災のころ知合いの役人から特別に本書を見せてもらったと自伝に書いてある。上巻中巻は職種別の労働時間、住居・食事、賃金、衛生、雇用、休日、徒弟制度、風紀など概説しており、端に調査だけではなく、その害や改善策について区々論じている。白眉は下巻で虐待の実情、女工や職工からの聞き取り調査がそのまま取られている。女工は寮が主だが逃亡を恐れてほとんど外出させないか、制限があり、タコ部屋同然であったことが分かる。7、8歳の幼児労働も雇用者としては別に望んでおらず、母親が子供を預ける先がないためだったというのは知らなかった。貧民の相長屋の者ども情誼というものは普通人民よりは一層強きが如く感ぜられるなどという印象も書かれている。当時の庶民の生活を知るには必須の書と言える。当時女性に文盲が多く、爪印を用いたとある。これは江戸時代、印判を持たない女性などが印章の代わりに押したもので、拇印と違い、爪印は指先に印肉や墨をつけて爪先を円弧の形に押したもので、拇印のように指の腹は使わない。指は親指で、男は左、女は右の親指を用いることになっていたという。幕末ポンぺが日本では眼病が多いゆえに盲目になる人が多いと書いたが、その状況は織物工場などで劣悪な労働条件のもとで一層ひどくなり、トラコーマなどは流行っていたが、それに対して雇用者側も何もしなかったことが分かる。工場で給される食事が栄養不足(南京米中心のご飯と塩汁のようなみそ汁と香のものだけという場合もあった)のため盲目になった女性も多い。女工は騙されて連れてこられるものが多く、14歳ごろから工場に出るために、料理や裁縫が出来ないものが多く、すれていて嫁の貰い手がなかったようである。また風紀も悪く、工場主としても逃亡を考えないのであればそれを歓迎する風さえあったという。風紀が悪いのは相手もあるわけで、寄る辺なき寂しさを考えれば哀れでもある。勉強の機会を与えても、少ない場合で11時間労働であり、昼夜勤が交互に来るため、眠くて勉強する気になれなかったようである。

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2010年11月24日

●日本の心 第15回

(68) 「最暗黒の東京」、松原岩五郎、岩波文庫、1988年
 松原岩五郎(1866~1935)は内田魯庵、幸田露伴、二葉亭四迷とも知己であり、北海道の大雪山(アイヌ語でヌタクカムウシュペの命名者)で、1892年~93年ごろの東京三大貧民窟である四谷鮫が橋、芝新網町、下谷万年町を中心に東京下層民の生活実態をルポした。兵隊飯と呼ばれる残飯売りは19世紀ロシア(モスクワやペテルブルグ)の残飯売りにも似ている。車夫の飯は女工よりもはるかに良いことが分かる。車夫がこのんで食べた深川飯(アサリではなくバカガイのむき身にネギを添えたもの)、丸三蕎麦(小麦の二番粉とソバの三番粉を合わせて打ち出した粗製のそば)、馬肉飯(脂臭くて一般人には食えたものではないという)、煮込み(これも生臭いという)、焼き鳥(鳥の臓物が主)で、作る方も衛生観念がまったくなかったわけで今のと同じではない。フグ鍋も下層民が金のあるときに食べるもので、一般の人は当たるのが怖さに食べなかったという。貧民である車夫などは大食いで早食いのため消化不良となり、それで病気になるのだと述べているのは、女工哀史で細井が述べているのと一致する。楽しみを食べることのみに向けざるを得ないからか。叙述は文語体で、やや誇張があるが悲壮感はない。

(69) *「日本の下層社会」、横山源之助、岩波文庫、1949年
 横山源之助(1871~1915)による1900年ごろの労働者、貧民の実態調査。横山は「職工事情」の調査にも嘱託として参加した。本書も数字のデータが多い。横山は富山県魚津町出身で、彼の死の3年を経て米騒動が同地で起こったのも故なしとしない。

(70) 「明治東京下層生活誌」、中川清編、岩波文庫、1994年
 横山源之助、幸徳秋水の緒作や桜田文吾の「貧天地饑寒窟探検記」抄他が入っており、明治に書かれた東京の下層階級に関する生活記録。ロシアや諸外国(シャーロックホームズにも似たようなことが書かれている)同様、乞食が職業であったことなど分かる。

(71) 「女工哀史」、細井和喜蔵、岩波文庫、1954年
 1925年初出。明治末から大正時代の紡績女工や織布女工の実態を15年間紡績工場の下級職工として働いてきた細井和喜蔵(1897~1925)がその目で女工の惨めな実態を描く。実際に内部で働いた人でないと分からないことばかりである。年季が3年で、ほとんど会社の外に出してもらえず、綿ぼこりを吸うため肺病になりやすい。無論プライバシーもなく、普通の娘だったらこのときに裁縫を習うのだが、裁縫を習う時間もない(あったとしても12時間労働で眠くてそれどころではない)、昼食の休憩時間は15分で、それも機械の掃除が済まないと食べることができず早食いになり、消化不良に陥る、などである。細井は官製の女工調査には反感を持っているようだが、それは無理もないと思う。職工事情のように良書もあるが、女工の心理などは本書が一番であろう。女工特有の表情動作として、顔つきが暗い、ごく些細な事柄で起こった場合、普通人の倍くらい厭味な顔つきをして、目を三角にして睨みつける、別段おかしくない事柄も、実にキャラキャラと笑いこける、何事につけても億劫らしいしなを作る、人に冷やかされたときに「あんまり、しゅっと」と言いながら、中指と人差し指の2本で自分の鼻の前を受けから下へ斜めにかすめる、男工に冷やかされたときに、「生意気だ、こんちきしょう」と脚を上げ馬の如く後ろへ蹴ってばしっと音を立てるとか、袴の前をめくって太ももをすこし出し右手でピシャリと自分を叩く、機械が長いのでカニ歩きをせざるを得ないので外輪に歩く、立ち仕事が長いので長座ができない〔30分が限度〕、機械の騒音から声が高く悪くなるし、大きく口を動かす〔口元の動き具合で談話する、手真似で話し合う〕というのを上げている。特有の言葉でもさぼる、エライ人、渋チンなどは現代語になっている。

(72) 「東京の下層社会」、紀田順一郎、新潮社、1990年
 明治から終戦までの東京の下層社会について、上記の著名な本のみならず幾多の文献をもとに、街娼なども含めて描いている。本書を読めば明治から戦前までの貧民というものがどんなものか概観できるし、どのような著書を読むことができるか指針になる。下谷万年町がJR上野駅浅草口近辺だとか具体的である。山谷についても警視庁により1907年と1919年に東京のスラム街の郡部移住の指令を発し、多くは日暮里、三河島千戸長屋、西巣鴨に移させ、1928年、1933年さらに荒川放水路以北に住宅改良計画のためだったというのを知らなかった。スラムは公営建築からはじまるとか、初等教育を受けていない女子は裁縫ができないというも私にとって初めての知見である。私の住む葛飾区の亀有、立石、新小岩というのは戦時下産業戦士慰安所があったところというのも初耳である。川端康成の浅草紅団に載っている当時の浅草の名物女お金(本名八木下キン1869?~1932)についても書かれているのが興味を引く。彼女は幕府直参の娘に生まれ、16歳で色街に売られた。乞食はしなかったが、私娼としてのたれ死んだ。

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2010年12月04日

●日本の心 第16回

(73) 「漢字」、白川静、岩波新書、1970年
原始の文字は神の言葉であるということから、漢字が単なる形を真似た象形文字というよりは神との祝詞、呪術、占いと深い関わりがあることが本書を読めば深く理解できる。特に口は祝詞を入れた器が由来というのには驚いた。ただ著者である白川静(1910~2006)の自伝「回思九十年」(平凡社、2000年)にあるように、本書は新書のため図版とページ数とを制限したため解説文字の史料が十分に見えないという憾みがある。

(74) 「日本語の正体」、金容雲、三五館、2009年
 日本語と韓国語は同根で漢字の受容態度の違いが、現代の両国語が相互に通じないということにつながるという非常に興味深い著書。

(75) 「日本語横丁」、板坂元、至文堂選書、1974年
 菊間敏夫の「タバコの名付け方」(婦人公論1972年4月号)には、「ラ行はきれいな感じを与えるし、歯切れがよくなる。バ行は力強く感じる」とあるという。「ありがとう」に「ございました」が付くようになったのは大正時代からだとか、「けり」は「き」より過去として近いとある。このように雑学的なものが多いが非常にためになる。読んでから動詞の後につける「た」や「だ」は、ロシア語の完了体動詞の結果の存続に近いなと感じた。

(76) 「日本語とはどういう言語か」、三浦つとむ、講談社学術文庫、1976年
 「は」と「が」、「ある」と「いる」など完全でないにせよ、納得できる解説がある。

第二部 外国人の目で見た日本、および異国の日本人
 戦国時代から明治末まで外国人の見聞記や幕末明治の日本人の聞き書き、日本人の自伝などから私が読むべきであると考える本を挙げる。外国人の日本紀行で参考になりうるのは実見記のみであり、歴史、宗教、風俗について伝聞によるものは間違いも多いという事を理解しておく必要があるのは当然である。ここで扱っている日本人の自伝は功成り名を挙げた著者そのものよりも、当時の世相や、日本人庶民の心映えがよくあらわれていると思われているものを紹介した。それは点景やエピソードに出て来る名もない庶民の生き方の方がより興味深いと思うからである。また自伝において自らを私小説の主人公であるかのように、心の内面を描くのは私の好みではないということでもあるからである。

(77) 「東洋遍歴記」(3巻)、フェルナン・メンデス・ピント、岡村多希子、東洋文庫、平凡社、1979年
ピント(1509?~83)は16世紀中葉のポルトガルの冒険商人。インド、スマトラ、シャム、中国、日本の間を何度となく往来したという。ザビエルに会って、改心しイエズス会に入会した。1537年から21年間東洋にて13回捕虜になり、17回身を売られたというが、本書は事実とフィクションを巧みに織り交ぜた文学作品と見るべきであるという。いろいろな船乗りの話を自分の体験と交えて作った物語というところらしい。本書の半ばごろに種子島が登場する。著者は種子島で日本人に鉄砲を渡した一人であると主張している。本書は1574年ごろ成立、1614年リスボンで刊行された。最初にプレスティ・ジョン(エチオピア)の母親が支配する国が出て来て、1/3ぐらいは海賊や戦争については残虐な話だが、叙述は淡々としている。ポルトガル人同士の仲間割れの話が3度出て来るが、それはそれで本書の信憑性を高めているような気がする。漂流して人肉食いでもカフル人の死体は食うが、ポルトガル人は食わないとか当時の人間に対する意識が分かる。それから中国(北京や南京)での囚人としての暮らしが続く。その後海賊と共にピントも含めて3人のポルトガル人が種子島に流れ着き、仲間の一人ディオゴ・ゼイモトが領主に鉄砲を献上する。ピントのみは豊後に派遣され、鉄砲を紹介し、その後中国に戻り、琉球に辿り着く。鹿児島湾でアンジロ主従(後のパウロ・デ・サンタ・フェとジョアネ)を救い、彼らがザビエルのお供をして鹿児島に到着する。最後の1/6からはザビエル(メストレ・フランシスコ・シャビエル)の日本におけるキリスト教布教が述べられている。「日本人は世界のどの民族よりも名誉心が強い」とか、法螺貝は喧嘩、火事、泥棒、謀反のときにそれぞれ1回、2回、3回、4回と狼煙のように人づてに鳴らされるとか、ホントのことも、雨熱川しいことも書かれているのはご愛嬌か。日本の僧正がザビエルに宗教問答を挑み、その中で、キリスト教の神をディウサ(大嘘)ということからして、その宗教自体まやかしだと指摘し、ザビエルから冷静にそれはポルトガル語で神をデウスというのだと言いまかされるところがある。これは実際にイエズス会の伝道士が伝えるところと一致するが、これでは仏教側の論争も失笑を買うだけだったろう。今ならザビエル来日前に死んだ先祖は極楽に行けないのかとでも、尋ねたほうがよかったろうという智恵も出るがそれは無理というもので、論争慣れしていなかったからということと、僧侶の堕落があったのは確かである。アンジロはフロイスによればその後倭寇に参加し、殺されたとのことである。

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2010年12月15日

●日本の心 第17回

(78) 「ザビエルの見た日本」ピーター・ミルワード、松本たま訳、講談社学術文庫、1998年
 1549年日本に初めてカソリック教を伝えたイエズス会のバスク人宣教師フランシスコ・ザビエル(1506~52、バスク語ではシャヴィエルで、かれが離日したのは1551年)の書簡を中心にした日本とのかかわりについての好著。イエズス会の創始者ロヨラもまたバスク人である。鹿児島上陸後、山口、京都を訪問したが、日本人を改宗するという強い意志のためか、当時の日本の外面的な文化に関しては何も述べられていない。高く評価したのは、日本人が我慢強さ、清貧、好奇心(知識欲)の強さ、合理的な話を好むという点である。洗礼を受けずに死んだ人はキリストが創立した教会には入れず、永久の呪を受けるというザビエルの無慈悲な教えに、当時の日本人は先祖が救われないと大いに嘆いたという。当時の日本の僧侶はデウスのことをダイウソ(大嘘)と非難したなど面白い話もある。

(79) 「日本巡察記」、ヴァリニャーノ、松田毅一他訳、東洋書店、1973年
ヴァリニャーノ(1539~1606)はイタリア人でイエズス会の司祭であり、巡察師として1579~82年、1590~92年、1597年から1603年訪日した。本書は当時の日本人について、清潔で、廉恥の気持ちが強いが、胸中をなかなか表に出さないなどの指摘もある。基本的にローマの上司に関する日本のイエズス会の実情、今後の提案について述べたものである。本書においては訳者による解題(アレシャンドゥロ・ヴァリニャーノの生涯、ヴァリニャーノの第一次日本巡察)が非常に優れている。これによって当時のキリスト教布教における内部事情(日本におけるイエズス会内部、日本人修道士とイエズス会修道士、およびスペイン人とポルトガル人との反目など)も俯瞰的に見ることができる。

(80) 「デ・サンデ天正遣欧使節記」、泉井久之助・三谷昇二・長澤信壽・角南一郎訳、雄松堂出版、1969年
 1590年マカオで出版された天正遣欧使節との欧州見聞録に関するラテン語の質疑応答録の和訳。主に千々石ミゲルが日本に残った近親者に答え、残りの三人が補足する形で話は進む。著者はポルトガル人ドゥアルテ・デ・サンデ。実質的にはヴァリニャーノを中心にイエズス会が総力を挙げて書き上げたものとされる。正使節主席伊東マンショ(1569~1612、後に司祭、日本で死す)、正使節千々石ミゲル(?~1633、後に棄教したという)、副使中浦ジュリアン(1569~1633、後に司祭、長崎にて殉教。その際我こそはローマに使いした中浦ジュリアンなりと叫んだという)、原マルチノ(?~1629、後に司祭、マカオに追放)、メスキータ師、ジョルジュ・ロヨラ(日本人イルマンで本書の和訳の途中で死去したという)、他に巡察使ヴァリャーノはゴアまで自らが引率し、ゴアからはロドリゲス師が加わった。1582年出発、途中セントヘレナ島に立ち寄り、1584年ポルトガルのリスボン着。マドリード、ローマ(1585年法王グレゴリオ13世とシスト5世に拝謁)、ベニス、ミラノなど各地で大歓迎を受け1590年に帰国した。なぜ白人黒人の区別があるのかは聖書には触れられていないとか、なぜポルトガルは植民地を持つのかなど、天皇が合法的な本当の日本国主であるとか面白い指摘、質問もある。特に漢字についてはラテン字母の学習の容易さを挙げつつも、いくつか漢字にも効用があるとして、我が国の語詞はおおむね音がたがいに類似しているために紛らわしいのであるが、これらを漢字にすれば便利に何の紛らわしさもなく示しうる。ただこれとてラテン字母にパードレが種々のアクセント符や記号を使って表すことに成功なさるだろうとも書いている。日本人は西洋の学問やキリスト教がないのに高尚、都雅の程度と品位の高さでは大したもんだと宣伝もしてくれている。本書の日本語訳が完成していたら、当時の日本に大いに寄与していたと思うと非常に残念である。

(81) 「セーリス日本渡航記」、村川堅固訳、岩生成一校訂、
  「ヴィルマン日本滞在記」、尾崎義、岩生成一校訂、雄松堂出版、1970年
「セーリス日本渡航記」アーネスト・サトウ校訂(1900年)、和訳は1644年初出。
ジェームズ1世の親書を携えてイギリス東インド会社貿易船隊司令官セーリスCaptain John Saris(1579または1580~1643)は1613年条約締結のため来航。主目的はインドのスーラトだったが、それが達せられず日本に向かった。途中および日本国内で砲手エヴァンスなどの反抗に手を焼いていることがよく分かる。船員虐待もあったらしい。ウィリアム・アダムズ(三浦按針)の案内により一行70名は平戸から駿府(静岡)で家康に、江戸で秀忠に謁見し、商館設立と関税免除の許可を得た。この頃から切支丹弾圧が強まったことが本書から窺える。家康は宗教と貿易を切り離し、外国貿易は富国の良策と考えていたようである。駿府から江戸の途中で鎌倉の大仏を見学した。一行の中には大仏の胎内に入って大声を出したりしたのもいるし、すでに大仏にいたずら書きがあり、自分たちの従者が書き加えたと書いている。京都も訪れた。セーリスとアダムズは相性が合わないのか(アダムズの使用人がセーリスの船の物品購入で何度か賄賂をもらったことなど)、アダムズは家康から帰国の許可を得ているのにもかかわらず、セーリスの船では帰国しないとした。その後も死ぬまで機会がありながら帰国しなかったのは日本に家族もできたし、待遇もよかったからだとサトウは書いている。初代商館長にはリチャード・コックスが任じられ、アダムズも東インド会社に雇われることになった。セーリスの江戸行きのときにコックスが留守を任されたのだが、船員が勝手に陸に上がって酔っ払うは、互いにケンカや決闘をするは、脱走をするはで大変な様子がよく分かる。1623年イギリス商館閉鎖。
「ヴィルマン日本滞在記」
スウェーデン人ヴィルマン(1623?~1673?)は1651~52年オランダ東インド会社に勤務し、従僕長として来航、オランダ使節アドリアーン・ファン・デル・ブルフに従って、大坂から乗物で、箱根経由江戸にて4代家綱に拝謁した。箸で刺身も食べた。スウェーデン人で初めて来日した。

(82) 「日本大王国志」、フランソア・カロン、幸田成友訳、東洋文庫、1967年
 フランソア・カロン(1600~73)は1619年来日し、1634年家光にも謁見した。第8代商館長として1641年帰任。日本語も堪能であり、日本女性を妻とし、6子もある。本書には訳者による「フランソア・カロンの生涯」が載せられており、鎖国前後の日本を知る上で大いに参考になる。本書は日本の鎖国直後1645年に発表された。きびきびした訳者の文体には感嘆するほかない。

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2011年01月09日

●日本の心 第18回

(84) 「阿蘭陀商館物語」、宮永孝、筑摩書房、1986年
出島(でしまDesimaと発音)や歴代の商館長に関して詳しい。本書で初めて知ったことだが、日本初の女性産科医でシーボルト(ジーボルトとも書かれる)の娘楠本イネ(1827~1903)は、ジーボルトの弟子の石井宗賢に船中で強姦された。この石井はシーボルトの弟子で、酒癖が悪かった。この後石井の妻がイネの母に謝りに来たという。イネは出産のとき赤ん坊のへその緒は自分で切り、こういうことも女医になろうとした原因であると言われる。彼女はポンぺの下で学び、彼の行った解剖にも女性として初めて立ち会った。イネは石井を憎んだが、その一回で、石井との間に高子が出来た。その高子も三瀬諸渕と結婚し、三瀬が亡くなった後、船中で片桐重明に強姦されて、一子をもうけたが、山脇泰助と結婚した。親子二代にわたっての不幸には言葉もない。

(85) 「オランダ風説書」、松方冬子、中公新書、2010年
 鎖国とはいっても4口(李氏朝鮮との対馬口、琉球との薩摩口、アイヌとの松前口、オランダ人や唐人〔中国人主体だが、シャムなど東南アジアの人を含む〕との長崎口)があったとか、ペリーの来航についてもオランダ風説書で1年前に情報を得ていたなど非常に興味深い内容である。

(86) *「江戸参府旅行日記」、ケンぺル、斎藤信訳、東洋文庫、平凡社、1977年
 ケンぺル(1651~1716)はドイツ人の植物学者。1683年スウェーデン使節としてロシアやペルシアも訪問している。訪日期間は1690~92年。2回参府したが、1回目の参府で赤尾浪士に討たれた吉良上野介の行列とも行き合わせ、立派な人物と評しているのも面白い。日本の鍼やもぐさを「10の珍奇な観察」という学位論文でヨーロッパに紹介している。5代将軍徳川綱吉に拝謁し、綱吉からオランダ風の踊りを踊れとか、いろいろ芸人のようなまねを強要されたということを書いている。当時の生類憐みの令の実態についても少し記述がある。密輸が多く、その刑死者の様子なども書かれている。ケンぺルは嫌いだった妻と喧嘩して激怒して腹痛の発作が高じて死去したというのも面白い。

(87) 「西洋紀聞」、新井白石、大岡勝義・飯盛宏訳、教育社、1980年
1708年鎖国後切支丹禁令を犯して潜入したヨハン・シドッチの尋問にあたった。当時の世界事情紹介とキリスト教批判の書。理詰めでのキリスト教批判についてはいかに白石の知性が当時の水準を抜いているかが分かる。

(88) 「ベニョフスキー航海記」、水口志計夫・沼田次郎編訳、東洋文庫、平凡社、1970年
ベニョフスキー(1746~1786)はハンガリー人で、本名はマウリティウス・アウグストゥス・ド・ベニョフスキーと言い、日本ではハンベンゴローという名でロシアの日本に対する野望を警告したので有名である。ただ本書は誇張が多く、どこまでが本当なのかという問題があり、本書に添えられた解説に沿って見てみると、ベニョフスキーはポーランド軍に入ってロシアと戦い、エカチェリーナ2世によりカムチャッカに流刑となった。1771年仲間と共にカムチャッカを脱出、千島列島を経て、同年阿波の日和佐、土佐湾、奄美大島近辺に停泊した。後に台湾、マカオを経て、アフリカを回り、フランスに渡ったというのが本書の内容であり、後にフランス政府からマダガスカルに派遣され、さらにアメリカを行き、再度マダガスカルで今度はフランス軍相手に戦い、流れ弾に当たって死んだ。注が完備しており、富永文蔵覚書、林子平の海国兵談、工藤平助の赤蝦夷風説考の所要個所が転載されている。

(89) 「蘭学事始」、杉田玄白、片桐一男全訳注、講談社学術文庫、2000年
 1771年より前野良沢(1723~1803)、中川淳庵(1739~86)とともに解体新書の和訳にあたった杉田玄白(1733~1817)の苦心談。

(90) 「江戸参府随行記」、ツュンベリー、高橋文訳、東洋文庫、平凡社、1994年
ツュンベリー(1743~1828)スウェーデン人の植物学者。1775~76年訪日。日本に初めて水銀による性病治療法をもたらした。当時の日本では梅毒(ロンドンでもモスクワでも流行っていたことは言うまでもない)と眼病(トラコーマならクラミジアという細菌が引き起こすもので、眼病のほかに性器クラミジア症の原因ともなるいわゆる性病で、感染すると数年後に卵管の通過障害となり不妊の原因となり、昔娼妓は妊娠しにくいといわれたが、クラミジアが原因だったのかもしれない)が流行っていた。これは劇的に効いたようで、蘭学を学ぶ動機の一つになったと言える。本書の日本および日本人に対する解説は簡にして要を得ている。10代将軍徳川家治に謁見した。船長は商館長と共に身体検査を受けないという特権を持っていたが、1772年台風で五島列島に流された船で禁制品が見つかり、それまでは腹の出張った船長しかいなかったが、その後は痩せた船長ばかりなので日本側が驚いたという。服の中に大量に禁制品を隠していたわけである。ツュンベリーは中川淳庵、桂川甫周とも接触があった。ツンベルグと表記される場合もある。

(91) 「ティチング日本風俗図誌」、沼田次郎訳、雄松堂書店、1970年
 イザーク・ティチング(1744ないしは1745~1812)はオランダ人で、1779年出島の商館長として赴任、1780年江戸参府、家治に謁見し、帰任した。1781年再度商館長として赴任、1783年帰任。1784年再び来日、同年帰任。結局3年8カ月日本に駐在した。本書は1822年出版で2部より成り、第一部は「将軍家家伝とその逸話」であり、1651年の由比正雪事件、綱吉の生類憐みの令、赤穂浪士、高尾、佐倉宗吾、田沼意知、吉宗時代の逸話など取り上げられており、切腹の作法、天皇と公方の関係など典拠が物語本からの翻訳のため、ティチングの日本語読解能力による誤解もあり、史実と異なるものがあるが、それなりに紹介している。第二部は「婚礼と葬儀」で、土砂という死体の死後硬直を解く薬について詳述している。当時の日本の棺は丸い桶か高い四角の箱だったので、死体を折り曲げる必要があった。死体の耳、鼻孔、口に土砂を入れると、すぐに手足が驚くほど曲げやすくなるのだという説明を日本人から受けたという。これは弘法大師の発明になるもので、砂に光明真言の加持を施したもので、死後硬直を解くのみならず、眼病に効き、分娩をしやすくするという。ティチングは1783年出島で死んだオランダ人に土砂で実験したところ、20分もしないうちに死体は軟らかさを取り戻したとのことである。ただ後にティチングよりベンガルでこの土砂を譲り受けたフランス人のシャパンティエ・コシーニュによれば、実験したが、死体は固いままだったとのことである。当時死後硬直のメカニズムは知られておらず、死後硬直の進展は環境温度等の影響を受けるが、通常死後2時間程度経過してから徐々に脳から内蔵、顎や首から始まり、半日程度で全身に及ぶ。30時間から40時間程度で徐々に硬直は解け始め、90時間後には完全に解ける。これをうまく利用したか、死後硬直した死体をそれとなく骨折させて、柔らかくなったように見せたのかもしれない。なにせ死人に口なしだからである。本書は図版も多い。ティチングは桂川甫周や中川淳庵とも親交があった。

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2011年01月26日

●日本の心 第19回

(93) 「漂流民とロシア」、木崎良平、中公新書、1991年
 日露交流について漂流民からとらえた好著。有名な大黒屋光太夫以前および以後の日本人漂流民についても詳しく書かれているし、漂流民ではないが、最初に(1600年)モスクワにたどり着き、ニジューニー・ノーヴゴロドで受難したニコラス・デ・サン・アウグスティノ(洗礼名)など初めて知った。後に調べたところ、これについては中村喜和教授が「おろしや盆踊考」(現代企画室、1990年)の「モスコーヴィヤの日本人」という論考で詳細に述べておられる。日本のイエズス会出身で聖アウグスチノ会の日本人ニコラス修士は1597年ニコラス・メーロ師と共にローマに遣わされたが、途中モスクワで宗教上のことから1611年ニスナ(ニージュニー・ノーヴゴロドであろう)で処刑されたとある。これなどロシアに行った日本人では早い方であろう。

(94) 「北槎聞略」、桂川甫周、亀井高孝校訂、岩波文庫、1990年
 1782年駿河沖で遭難した大黒屋光太夫(1751~1828)一行のロシア漂流記で、約10年に及ぶロシアでの体験を帰国できた磯吉(1765~1838)とともに語っている。ペテルブルグで囚人が物乞いのため(当局は当時囚人に食事を支給しなかったので)に外に出されたなど同時代人として実際に現地で見聞したことや、最初に上陸したアムチトカ島で同じ小屋に寝起きしていた酋長の娘が口封じにロシア人たちに殺された現場にいたとか、光太夫や磯吉と共に帰国の途につき根室で死亡した小吉がその死体を埋めるのを手伝わされたとか、当時のロシア人と原住民との争いの様子も彼らは垣間見てきたのである。当時のロシアの状況を著したもので、他の書物にないのは、ペテルブルグでは糞尿を夜中に海上遠くに捨てていたとか、刑罰としての鼻ぎり(鼻そぎ、鼻裂き)は鋏にて鼻の穴をタテに裂くなりとか、ネヴァ河の氷上のアイススケート(木履の裏に鉄の半月形の歯をタテにつけたものとある)や、そのレンタルもあったことなどである。またモスクワの大富豪ジェミードフ(デミドフ)の招待の宴のひどさにエビヲナマチЕбёна мать (= Ёб твою мать 英語のFuck your mother!) と罵詈雑言を言っているのでこういう卑語も知っていたことが分かる。帰国の時の通訳のトゥゴルーコフТуголуковについては、彼の言葉は南部なまりの、しかも誤り伝えたることども多かりし故、初めのほどはよく聞き取れなかったと述べている。トゥゴルーコフの日本語の先生は南部生まれの漁師だったことが分かる。文体は古文だが分かりやすい。後ろの注も非常に詳しく丁寧である。

(95) 「初めて世界一周した日本人」、加藤九祚、新潮選書、1993年
 環海異聞(仙台若宮丸漂流民の書きとり)や新発見の史料をもとに描いた労作。人間は常に善だとか、常に悪だということはあまりなく、状況によって、また味方によって変わるわけとはいえ、著者が自らの収容所体験とダブらせて、感情移入が過ぎて多少漂流民びいきの描写のあるのはやむを得ないのかもしれない。

(96) 「ドゥーフ日本回想録」、ドゥーフ、永積洋子訳、雄松堂出版、2003年
 1833年初出。長崎出島のオランダ商館長ドゥーフ(1777~1835)の回想録。ジャワのバタビアもイギリスに占領された19世紀初め唯一長崎出島だけにオランダ国旗が翻っていたがその時の商館長。1799年から1817年まで滞日。1803年からは商館長としてロシアのレザーノフ訪日や1808年のイギリスのフェートン号事件、ジャワのイギリス副総督(ラッフルズ)からの使節応接など本書に詳しい。レザーノフ訪日のときに禁裏の宮廷の意見を求められたとある。ロシア人からは幕府の味方として嫌われたようだが、彼としてはオランダの代表としての言い分もあるし、それはそれでよく理解できる。ハルマ蘭仏辞書から蘭和対訳辞書を1817年作成した。これについてフィッセルやシーボルトが一言も触れておらず恰も自分たちが辞書を作ったかのように著書に載せているのには憤慨しているがこれももっともなことである。ゴロヴニーンの著作についても事挙げしてやや大人げないような気がするし、性格的にやや線が細いような気もする。参府の記録も細かい指摘もあり、将軍に謁見したときに正座が出来ないので横座りして、非礼なので足の裏を見せないようにマントでおおったとある。高橋景安、桂甫賢や馬場佐十郎らと交友があった。

(97) 「金谷上人御一代記」、横井金谷、日本人の自伝第23巻所載、平凡社、1982年
 一代の破戒坊主という言葉では破天荒な画僧横井金谷(1761~1832)のスケールの大きさを表すことはできない。いったいにユーモラスな筆致であり、母が夢に松茸を呑む夢を見て懐妊、2歳で乳母が誤って雪隠に取り落とし、糞松と称されると、のっけから驚かされるが、9歳で大阪の宗金寺に小僧として出され、木魚に小便、花瓶に糞をたれるなどイタズラ三昧。11歳ですでに女出入りがあり、すぐ草津まで放浪して、いったん寺に戻されるが、14歳で江戸の芝増上寺へ。しばらく勉強するも、18歳で江戸を逃げ出し、願人坊主などするが、それなりに僧としての学問をして21歳で北野金谷山極楽寺の住職になる。貧民を助けたりもするが、放浪の気持ちもだしがたく、九州まで遍歴し、その間浄瑠璃、絵、博打、水主兼船主、山伏も一流というのだからスーパーマンである。天草は女護が島であり(山多くして田畑少なく、男は舟手としてよそに出てしまうため)、船も女ばかりが水主であり、強チンされたとある。1794年四十七士の原惣右衛門の孫の4女久と結婚。惣右衛門の腰刀をもらい、ブタを連れて伊勢参宮をしたりして、後にこの豚が狼や野犬に襲われ尻を食われたときも、その刀で狼や野犬をぶった切るなど起伏ある出来事が続く。1804年三宝院御門主の大峰入御修業に鉞持ちとして参加、葛城、熊野三山を経巡る。文章は古文だが分かりやすく、面白い描写が多い。晩年息子の福太郎とともに富士登山をするが、嵐に遭ったときに、戸を開きて尿をすれば面にかかるなどと書いてある。鎌倉は藤原鎌足が霊夢により鎌を埋めた地なりとか、伊豆は湯出ずるの意味であるなど書かれている。同書には、「大崎辰五郎自伝」(1903年口述、林茂淳速記)も載っており、大崎辰五郎(1839~?)は江戸本郷生まれの大工だが、最後は家作をもつまでになったから庶民とはいえないが、キレやすく、やられたらやりかえせという主義で、悪い奴にひと泡吹かすのが趣味のような人である。著名な人物が出てこないという点でも自伝としては珍しい。同じく同書には壮士節の演者であり演歌者、社会運動家である添田唖蝉坊(1872~1944)の「唖蝉坊流生記」(1941年初出)も載っている。壮士節や流行節の歌詞も載っているのがよい。1906年ごろより社会運動に乗り出し、堺利彦とも知り合いであった。

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2011年01月28日

●日本の心 第20回

(98) 「日本滞在日記」、レザーノフ、大島幹夫訳、岩波文庫、2000年
 レザーノフ(1764~1807)は使節としてクルゼンシュテールンとともに日本と通商条約を結ぶべく、1804年長崎に赴いたが、結局ことはならず失意のうちに亡くなった。このレザーノフの日記を和訳したもの。内容も興味深いが、和訳も注が完備しており見事である。ただ力点が示されていないものが多いのと、クルーゼンシュテルン(クルゼンシュテールンが正しい)、ゴローヴニン(ゴロヴニーンが正しい)など重要人物の力点が、これまでの和訳を踏襲したためか間違っているのが惜しい。

(99) 「最初のロシアによる世界周航記」Первое Российское плавание вокруг света, Крузенштерн, Дрофа, 2007
 有名なクルゼンシュテールン(1770~1846)の1803年から1806年までの世界周航記。彼の任務の一つにレザーノフと日本人漂流民を乗せて日本に赴き、日本との貿易の可能性を探ることだった。ただ、日本人漂流民が航海中わがままであったとして、彼らに対する評価は低い。水の制限をしたときも文句を言いだしたのは日本人漂流民であり、日本人漂流民は怠惰で、不潔であり、衣服にもかまわず、常に陰気であり、性悪で、助けが必要な時にも働こうとしないとし、一人60歳の老人(津太夫)のみが例外であると書いている。ロシア正教に改宗した通弁キセリョーフ(善六)も同様よくなく、日本人漂流民といがみあっていると書いている。これは禁制のキリシタンになったころびバテレンを嫌ったからであろう。クルゼンシュテールンは長崎からの帰途、蝦夷と南樺太も訪れ、そこのアイヌについては控え目で温厚であると好意的な評価をしている。本書のオランダ語訳を手に入れることがシーボルト事件の一因というのも、本書を読む上で感慨深い思いを抱かせる。邦訳には「クルウゼンシュテルン日本紀行(上・下)、羽仁五郎訳注、雄松堂出版、1966年があるが、筆者未見。これは独訳からの重訳のように見えるが、著者がドイツ系ロシア人であり、原書はドイツ語とロシア語と同時に出たのでロシア語だから特によいというわけではないようである。

(100) *「世界周航記」Путешествия вокруг света, Головнин, Дрофа, 2007
 ヂアーナ号艦長だったГоловнинゴロヴニーン(1776~1831、これまでゴロウニンと訳されてきた)の世界一周に関する回想録で、1811年から1813年日本の捕虜となったときの回顧談が1/3ぐらい含まれている。フヴォストーフХвостовとダヴィドフДавыдовによる2度のサハリンおよび択捉における日本の番所の襲撃にからんで、松前藩の役人にクナシリ島で部下6名(士官2名水兵4名)とともに捕らえられ、箱館(現函館)および松前で監禁された。函館は私の故郷なのでなおさら興味深かったが、箱館での食事はそこまでの道中の食事に比べてひどかったと書いてあるのを見るとがっかりする。不法に拉致され監禁されたわけだが、これに対して特に怒りを見せるわけではなく、冷静に当時の日本および日本人を観察描写しているのは人間的にも尊敬できる人柄だからであろう。当時の日本人は好奇心に満ちており(鎖国していたから尚更であろうが)、ロシア文字の揮毫をロシア人に求めたのに対し、水夫は文盲のため断ったことに日本人は非常に驚いたとゴロヴニーンは述べている。彼もある意味でショックだったのだろう。この牢を間宮林蔵も訪れ天文学機器の使い方などを尋ねたが、手元に換算表がないことや通訳の未熟さからゴロヴニーンたちが断ったところ、間宮が腹を立てたなどと記している。日本人は読書好きであり、平の兵卒ですら警護の任についているときも立ったままで読書している。ただ歌うように音読するのでこれには閉口すると書いているが、謡の練習でもしていたのだろうか。チェッカーもゴロヴニーンと一緒に捕虜になったロシア人水兵が日本人に広めたという。用語はロシア語なので、後世の学者がロシア語と日本語は同根であると誤解を招かねばいいがとユーモアたっぷりに注をしている。同じく捕虜になった士官のムールは脱走に反対で、日本側と通じようとしていると仲間割れについて書いているのも生々しい。この後脱走するのだが、結局失敗し日本側に捕まってしまう。ナポレオンのモスクワ侵攻(その後のモスクワ焼き打ち、逃避行)についても高田屋嘉兵衛から聞いて驚いている。これはリコールト(これまでリコルドと書かれてきたが、発音通りならリコールトである)Рикорд船長からの話を伝えたものである。離日の前日女子供を含む庶民にもヂアーナ号船内を夜中まで見学させたとある。リコールトは1950年に自分を主席として日本との通商条約締結に派遣するよう政府に進言したが、すでにプチャーチンに大命は下っていた。リーコルトの通弁のキセリョーフはレザーノフの通弁でもあった。この部分の邦訳として、「日本俘虜実記」(2巻)ゴロウニン、徳力真太郎訳、講談社学術文庫、1984年がある。プチャーチンによれば、ゴロヴニーンは1814年自分を日本知事に任命し、箱館を極めて重要な軍事拠点として占領せよと提言したという。

(101) *「ロシア士官の見た徳川日本」、ゴロウニン、徳力真太郎訳、講談社学術文庫、1985年
 ゴロヴニーンの手記「日本国および日本人論」と、海軍少佐リコールトの「日本沿岸航海および対日折衝記」の訳。前者はゴロヴニーンが日本語の敬語についても、ロシア語のспать/почиватьやесть/кушатьと同じだとしていることから、やはり並の人ではないことが窺われる。訳の日本語は簡にして要を尽くしている。似ているロシア語と日本語の単語(деньгиと「銭」、якорьと「錨」)に対してどうしてだろうと首をかしげている。また「火」の発音が出来なかったと言っている。これはロシア語にhiの発音がないためである。一つだけ43ページに「何の益もない感応薬」とあるが、多分симпатическое средство(気休めの薬)のことであろう。日本人は天下で最も教育のある国民であるとか、下層のものでも礼儀正しく、罵り合ったり、喧嘩したりするのを一度も見たことがないなどと述べ、非常に高く評価している。ゴロヴニーンに付いた通訳に元々アイヌ語通訳だった上原熊次郎というのがいて、娘を嫁にやったと言って泣く熊次郎に、目出度い話で得心の行かなかったゴロヴニーンが尋ねたところ、娘の行く末のことを不安に思って泣いたのだと言われ、その言葉に胸を打たれたと書いている。この人はあまりロシア語の通訳がうまくなかったらしい。もっともオランダ語の素養があった幕府役人村上貞助(1780~1846)の方がうまいといっても、ゴロヴニーンから口伝えで習ったのだからたいしたことはなかったようである。後者の本はゴロヴニーンの引き渡しに力のあった高田屋嘉兵衛とリコールトの友情がよく描かれている。ともに時と場所を得た逸材であったことがよく分かる。

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2011年03月17日

●日本の心 第21回

(105) 「日本風俗備考」(2巻)、フィッセル、庄司三男・沼田次郎訳、東洋文庫、1978年
 1820~29年まで長崎の出島に勤務したオランダ人事務官フィッセル(1800~48)の日本見聞記。1822年ブロンホッフ商館長と共に江戸参府。ジーボルト(シーボルトともいう)とほぼ同じ時期に出島に勤務した。間宮林蔵が隠密として長崎に来ていたなどその後ジーボルト事件について密告する下地があったようである。当時死者は桶に入れられたので、死者を折り曲げるための死後硬直を解く砒石やネコイラズに触れている。

(106) *「江戸参府紀行」、ジーボルト、斎藤信訳、東洋文庫、平凡社、1967年
ジーボルト(1796~1866)とはいわゆるシーボルトのことでドイツ人の植物学者。1823~29年、1859~62年の2度にわたって訪日。本書は1826年の江戸参府の記録。ここの通詞がどんな人物だったか簡潔に記載されているのが興味を引く。11代将軍家斉に拝謁した。シーボルトはオランダ語読みで、ドイツ語の発音ではジーボルトだが、彼の生まれた南ドイツのバイエルン州ではシーボルトと発音したというからややこしい。

(107) 「ジーボルト最後の日本旅行」、A・ジーボルト、斎藤信訳、東洋文庫、平凡社、1981年
 ジーボルトの長男アレクサンダー(1846~1911)が1859年13歳のとき63歳の父とともに訪日し、1862年父が離日するまでを記したもの。彼は1887年ドイツに居を定めるまで日本の外交に尽くした。漢字については部首を先に覚えたが、結局わずかな数しか習得できなかったと述べ、「日本の文学は漢字が使われるようになって駄目になった」とやけくそになって書いているが、体罰については「私たちの国でよくやる鞭打ちを私は一度も見たことはなかった。お灸が体罰の代わりで、子供には痛いのでそれを恐れて悪さをせず、また灸をすえられたとしても身体にもよいし、道徳的見地からもよい」とも述べている。日本の義理の姉や母に対する記述はない。日本では果物が未熟のままで食用に供するので味がないと書かれている。特に梨がまずかったらしい。柿やビワは評判が良かったようだ。

(108) 「無酔独言」、勝小吉、勝部真長編、東洋文庫、平凡社、1969年
勝海舟の父で御家人の勝小吉(1802~50)が1843年これまでの人生を振り返って書いた半生伝。従兄弟は直心影流の達人男谷精一郎信友で自身も剣をよく使った。無学だが当時の御家人の言葉遣いがよく表されており、現代の口語とあまり変わらない。剣の師は平山行蔵。平山は雷電と胸押しをして勝ったという。小吉は14歳で出奔、ゴマのはえに身ぐるみはがれるなどしたが、4カ月乞食をして伊勢の方を回り江戸に戻った。21~24歳まで座敷牢に押し込められ、37歳で隠居。八方破れの生き方だが、世に受けられないのをすねていたようである。「気は長く、心は広く、色薄く、勤めは固く、身をばもつべし」や「学べただ、夕べに習ふ道のへの、梅雨の命の明日消ゆるとも」が座右の銘のようである。幕末の日本人の心情がよく分かる。

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2011年03月20日

●日本の心 第22回

(109) *「ペリー艦隊日本遠征記」(2巻)、オフィス宮崎編訳、万来舎、2009年
ペリー艦隊の正式報告書3巻のうち第1巻の新訳(第2巻は動植物、第3巻は黄道光に関したもの)。一般大衆をも対象にしているようで、読みやすくしかも徹底している。シーボルトとの確執が面白い。本書を読む限り、ペリー提督(1794~1858、正確には代将)はプチャーチンなどと比べても戦略的に抜きんでていたといえる。すべては結果がその戦略(一種の砲艦外交)の正しさを証明している。ただその高圧的態度から日本側が親近感を持ったとは思われず、後に英国が幕末の日本の外交を主導してゆくことになるのである。日本への遠征目的を、表面上は捕鯨船保護・物資補給としつつ、水面下では海軍省所管の郵船長官として蒸気郵船の太平洋航路開発と、その燃料(石炭)確保をもくろんだのみならず、訪れる各地の生活や自然、なかでも鎖国日本の実情などを広く政界に伝えることを構想したと本書にあるのは興味深い。このほかにもペリー側の交渉の内情など興味は尽きない。外国人が日本の事を「日出ずる国」とする表現は、このペリー艦隊日本遠征記の「日出ずる王国」から広まったといえるのではないか。

(110) *「フリゲート艦パラーダ号」(6巻本全集の第2巻および第3巻)Фрегат «Паллада», Гончаров, Правда, 1972
 「オブローモフ」という小説で有名な作家ゴンチャローフ(1812~1891)がプチャーチン提督の秘書官として1852~55年に航海した時の印象記。ケンぺル、ツュンベリー(彼の作った辞書も持参した)やシーボルトの著作他をすでに読んでいたことが分かる。文化的な後進国において形式主義ばかりで物事が進まない、彩のない日本に嫌気がさしているのがよくわかる。日本女性のことを、「みな色黒で、不美人であり、鉄漿をつけていて、じろじろロシア船の方を見て、笑いさざめいている」と書いている。鉄漿(多分そのうえ眉をぬいていたろう)というのだから年配者であろう。戦前の白黒の時代劇の映画には鉄漿の女性が見られるが、やはりかなり気色悪い。鉄漿なしだったらとか、若い娘だったらもっと印象はよかったろう。内容的に特に面白いのは幕府全権で正使の一人だった川路聖謨から招待された日本式会食の様子である。ゴンチャローフは刺身も含めてすべて平らげたが、オランダ語の通訳を務めたポシエート大尉(既存の訳書で彼の姓をポシェットとするのは力点が違うというほかに、婦人の小物入れみたいな感じがする)が、刺身と知らずに半分食べ、後でゴンチャローフから生の魚だと告げられた時に苦い顔をしたとあるのは、現代のロシア人の寿司好きを考えると面白い。当時の日本では食事が終わった後に白湯を飲む(口をすすぐためだろう)とか、燗酒はうまいが、気の抜けたラム酒のような味がすると書いている。鯛も抹茶も味わったが、日本料理は美しいとはいえ、ミニチュア的で量も少なく、料理が目を楽しますというのは料理の本道ではないと述べている。ロシア側が接待したときには、羊肉(牛肉がなかったので)やハムのピラフや、酒に対抗してグリントウェイン(ドイツ起源の赤ワインにクローブ、砂糖、シロップなどをいれたホットワイン)を供したことが述べられている。日本については内戦をせずに、軍事技術をヨーロッパから学び、港の防備を固めれば発展してゆくだろうとも書いている。幕府の代表者であった川路聖謨については洞察力、機知、経験に富むと高い評価を下している。ちなみに川路はロシア側に自分の佩刀を贈ったが、そのとき後述の長崎日記に、「この刀にて、ためしに人を切りみるに、三人並べてこころよく胴切りにし、車骨(骨が固くて切りにくい部分)を瓜の如くに切りたり」と述べ、処刑された罪人で試し切りすること説明した。川路は文武の達人であり、特に柳生新陰流をよくした川路がこう言ったのは日本人をなめるなよという気概からだったのかもしれない。一方ゴンチャローフも川路から贈られた刀は、通訳曰く、3人の罪人の首(?)を切ったと書いている。邦訳には「日本渡行記」井上満訳、岩波文庫(昭和16年、昭和34年)があるが、筆者未見。
 琉球については下巻150ページに1853~54年長崎や琉球の首里(那覇)に来航したときの著述が参考になる。その島民はまるで子供の夢にいるような、穏やかだが、発展がそこで止まったような印象を受けると書いている。島でベッテルハイムという宣教師に会うが、宣教師曰く琉球人は殺伐としている、その証拠に自分は殴られ、ペリーの船で帰郷するというくだりがある。シュワルツの「薩摩国滞在記」によれば、彼はハンガリー系のユダヤ人で1846年琉球に来たが、当時はキリスト教が禁教であり、しかも布教の仕方がかなり強引だったようで、住民と敵対関係に陥っていたようである。この点は「ペリー艦隊日本遠征記にも記載がある。

(111) 「長崎日記・下田日記」、川路聖謨、藤井貞文・川田貞夫校注、東洋文庫、平凡社、1968年
プチャーチン一行が長崎および下田に来航したときに、幕府を代表して応接し、下田にて日露和親条約を締結した勘定奉行川路聖謨(1801~1868)の家族に宛てた日記で、長崎と下田時代に関したもの。プチャーチンについて、「この人、(使節の)第一の人にて眼差しただならず、よほどの者なり」と評し、「妻はイギリスの女なりと承り候」とあり、ゴンチャローフについては、この人、無官なれど、セキレターリス(秘書)のことをなす。公用方取扱というがごとし。常に使節の脇に居て、口出しする者なり。謀主という体に見ゆ」と長崎日記に書き、軍師とも記している。会食事には、「軍師はよほどのシャレものというがごとき風なる男なるが、いささか酒きけし体にて、夥しく頂戴という手真似をしたり。そのさまのどのところへ手やり、又頭へ手やり、やがて頭上へ高く手を差し上げて、うなずきたり」とあり、ゴンチャローフがひょうきんだった様子を伝えている。大通詞の森山栄之助(後、多吉郎、1820~71年)については、「死を決して申し談じをもなしたるとのことなり(この者別段なるものにて、左もあるべし)」とほめているが、ゴンチャローフは、何度か会談してその終わりごろ、「態度が最悪なのは栄之助である。川路の通訳、つまり一番重要な通訳をしているため、つけ上がって、川路がいないと椅子にどかっとすわり、シャンパンを飲ませろと無心したり、中村為弥(川路随行員の筆頭)のいる前で4杯シャンパンを続けて飲み、通訳せずに、自分で論じようとして、そんなことなら通訳を代えるぞと言われたことがあった」と評判が悪い。上司へのごますりがうまかったわけだ。そのおかげか下田での交渉のときには御普請役に出世している。しかしその後の外国のとの交渉には通訳として関わっており、ペリーや英国公使のオールコックの評判も良く、当時は若気の至りだったのだろう。中村の評価は非常に良い。中村は後に下田で下田奉行としてプチャーチンと再会を果たしている。ゴンチャローフの本と長崎日記を読み比べると日ロ交渉への臨場感が増すのみならず、下田日記もそうだが読み物としても非常に面白いし、家族への思いやりなど心温まる感じがする。
1955年下田での第1回和親条約交渉の翌日下田は安政の大地震(マグニチュード8.8、死者下田で85人)に見舞われ、ロシア人が日本人3名を救助したことを川路は感謝しており、結局プチャーチンのヂアーナ号は沈没するに至るのだが、それに屈せず新船建造を決意したプチャーチンに対して、日頃は布恬廷(プチャーチン)を布廷奴(フテイヤツ)などと陰口を言ったりしたが、「実に左衛門尉(川路のこと)などに引き競ぶれば、真の豪傑である」とプチャーチンを誉めている。下田日記では、このほかにもう1か所プチャーチンを豪傑なりと書いている。よほど感心したのであろう。川路は1868年江戸城開城の知らせを聞いて切腹の後ピストルで(2年前に中風で半身不随だったので)自害した。真の武士といえよう。

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2011年03月24日

●日本の心 第23回

(112) 「ハイネ世界周航日本の旅」、中井晶夫訳、雄松堂書店、1983年
 ペリー艦隊に画家として同行したドイツ人ヴィルヘルム・ハイネ(1827~85)の日本紀行。原文はドイツ語。ハイネの父は大音楽家ワグナーの幼友達。アメリカに帰化し、ペリー提督の船で1853年、54年訪日。ペリーの遠征記録と似たようなものだが、箱館では流砂に腰まではまり死にかけたとか、クマ狩り(熊には出会わなかった)をしたとか現在の函館とは想像もできないことが分かる。ペリー艦隊が水や燃料の基地を琉球においたが、1854年残留した米兵の3人が那覇で民家に押し入り泥酔し、しかもその中の一人が別の民家で50歳の女性を強姦し、そのため親族や村人に石で打たれ、溺死したという事件があった。殺人事件としてペリーは犯人の処罰を求めたが、事件の内容が分かるにつれて、犯人の引き渡しではなく、琉球での処罰(流罪)で合意した。現在の基地問題の原点である。これについて本書ではある事件が起きたぐらいの記述だが、原因はその頃立ち寄ったプチャーチン率いるロシア船の船員たちがこれら米兵を甘やかした(酒を飲ますことを覚えさせた)事に原因があると書いているのには驚く。アメリカの水兵がお歯黒を自分で試してみて、8日の間口がパンケーキのように腫れ、歯茎が侵されほとんど歯がなくなったと書いており、鉄漿の使い方を聞かなかったものらしい。しかしこの何でも試してやろうという気構えには感心する。ハイネはオイレンブルクの訪日にも乞われて参加したが、アメリカに帰化したという事で使節団中では浮いていたらしくオイレンブルクとの関係も冷ややかなものだった。

(113) 「グレタ号日本通商記」、リュードルフ、中井赳訳、小西四朗校訂、雄松堂書店、1984年
 アメリカに用船されたドイツの帆船グレタ号の荷物上乗人(代理人)リュードルフの函館及び下田の日記。1857年初出。グレタ号(船長はタウロフ)は1855年日米和親条約直後箱館に5週間滞在、後に死も他6カ月滞在した。通商条約が結ばれていないために貿易はできないはずだったが、身の回りに必要なものであるとか、下田の地震で沈んだヂアーナ号の乗組員の残り270名をロシアに運んでほしいという日本側の要望につけこんで、積んでいた荷物を引き取ってもらう条件をつけるなど、なかなかの商人ぶりを発揮する。リュードルフは英語、オランダ語に堪能であり、日本に対しても偏見を持っていない。函館には犬が多く、スピッツに似ているとか、若い娘はほうとうにきれいな外貌をしていて、抜けんばかりの白い顔をしているとか、日本人の皮膚は明褐色とか、既婚婦人は鉄漿や眉を剃っており、ひどく嫌らしい感じがするなどと記している。本書ではイギリスのジェームズ・スターリング提督の和親条約を結ぶための長崎や箱館訪問についても触れている。日本側は交易品として武器を欲しがったことが分かる。ヂアーナ号のロシア人(最初のグループ)を運んだカロライン・フート号のリードやドハティの夫人同士の軋轢などについても触れているのは面白い。下田で船長とともにドイツにも和親条約締結について進言しているのは愛国的行為である。奉行の答はドイツからしかるべき使節が来ればドイツとも条約が結ばれるだろうとのことだった。祭りや盆についても実見したと記載している。日本の葬式も見ており、死後硬直を解く土砂について書いてある。土砂を手に入れようとしたが果たせなかったと言い、その効き目については疑問をもっている。日本の葬式は秩序もなく、結構騒がしいと書いている。グレタ号には樽に隠した橘耕斎を運び入れた。これをタウロフ船長は見たと書いている。ロシア人をのせたグレタ号はオホーツク海で英国の軍艦バラクータ号に拿捕され、ロシア人は香港に連れ去られた。リュードルフは日本に小銃を売り、日本の商品を買うため日本に残っていたため難を逃れた。日本人は知識欲の強い国民だとしている。末尾に独和語彙集がついていて、日本語の単語にアクセントがふられているのはご愛嬌。

(114) 「ハリス日本滞在記」、タウンゼンド・ハリス、坂田精一訳、岩波文庫、1944年および1954年
 1856~62年日本に滞在した初代駐日アメリカ総領事タウンゼンド・ハリス(1804~78)の日記(1856~58年)。ハリスは散歩の好きな人で日本および日本人を非常に注意深く観察している。ハリスは13代将軍徳川家定に謁見した。日記を読む限り滞日中は体調不良が続いたようで、ハリスが重篤なチフスで重体に陥った時にヒュースケンの依頼で下田の芸者唐人お吉(1841~1890)がハリスの世話をしたというが、ハリスの年齢(当時52歳)、病気であったこと、ハリスは生涯独身で厳格なキリスト教徒(プロテスタント監督派であり、日曜は公務を断り祈祷書を読んで過ごした)であったことから、性的関係はなかったと思われる。もっともヒュースケンの日記にもヒュースケン自身の愛人の記載はないが、3人日本女性の愛人がいたことが分かっている。まあ普通下半身の事柄については自分の後世読まれるだろうという日記には書かないだろうけど。

(115) 「ヒュースケン日本日記」、ヒュースケン、青木枝朗訳、岩波文庫、1989年
アメリカ側全権使節ハリスの通訳兼書記オランダ人ヒュースケンの1855~1961年の日記(1856~61年滞日)。彼は1961年浪士の襲撃に遭い虐殺された。最初の通商条約交渉についての外交上の苦心が主で、観光案内の類は非常に少ない。おおざっぱな人柄のようだ。

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2011年04月08日

●日本の心 第24回

(116) 「エルギン卿遣日使節録」、オリファント、岡田章雄訳、雄松堂出版、1968年
1860年初版。1858年イギリスとの通商条約締結のために派遣された使節の日本訪問記。筆者オリファント(1829~1888)はエルギン卿の秘書として参加、長崎、下田、江戸(浅草、日本橋、王子、飛鳥山)を訪問した。使節は天津条約を清と締結後日本に来たため、中国に比べ日本を高く評価している。ただ女性の鉄漿や眉剃りはせっかくの美貌を台無しにすると批判している。2週間の滞在中一度も女の口汚く罵る声は聞いたことがなく、子供は無数にいるけれども、叩かれたり、何か虐待を受けているのを一度も見たことがないと書いている。ユーモラスな筆致で、人柄がしのばれる。1861年2度目に書記官として来日したときに東禅寺で水戸藩士の襲撃に遭い、左腕に重傷を負った。

(117) *「大君の都」(3巻)、オールコック、山口光朔訳、岩波文庫、1962年
英国初代駐日公使オールコックの滞日記録(1859~1962)。著者自身のスケッチも含め図版が多いのもよい。外国人で初めて富士登山をしたエピソードなど面白いし、内省的なコメントもしばしば見られるのも本書の特徴。13代将軍徳川家定に謁見した。

(118) 「オールコックの江戸」、佐野真由子、中公新書、2003年
オールコックの著書「大君の都」を読み解きながら、イギリスの領事制度に対する解説、開港地が神奈川から横浜に変更となったいきさつ、オールコックが自分の日本での収集品をもとに日本に強く1862年のロンドン万国博への参加を積極的に働きかけて、日本が初めて世界デビューを果たし、しいてはそれがヨーロッパにおけるジャポニズムの礎石になったなど分かりやすく説明しており、参考になる本である。

(119) *「一外交官の見た明治維新」(2巻)アーネスト・サトウ、坂田精一訳、岩波文庫、1960年
 1862~69年までの幕末史を研究する上では不可欠な文献であるが、著者はイギリスの外交官で日本語や日本文化についても精通しており、ガイドにも大いに役立つ。戦前は元勲についてざっくばらんに書いているため禁書とされたとある。語学勉強として、「高岡(サトウの当時の日本語の先生)は、私に書簡文を教え出した。彼は、草書で短い手紙を書き、これを楷書に書き直して、その意味を私に説明した。私はそれの英訳文を作り、数日間はそのままにして置いて、その間に原文の写しのあちこちを読む練習をした。それから、私の英訳文を取りだして、記憶をたどりながら、それを日本語に訳し直した」を奨めているが、もっともだと思う。幕末の要人との付き合いや外交関係、切腹や浪士による襲撃に遭う場面も無論興味深いが、東海道や新潟から大阪への旅行の記述(人力車の前身についても)なども大いに興味をそそられる。サトウSatowという姓は、無論佐藤とは何の関係もなく、お父さんがスウェーデン生まれのソルブ系ドイツ人であり、スラブ系の希少姓とある。フィンランドのトラック会社の名称にもSATOというのがあり、フィンランドではスウェーデン語も国語の一つだから、サトウと関係があるのだろうか。ロシアではСатовский という姓はまれだが、ないことはないし、インターネットで調べたらСатовといいうのもあった。今後これを使ってみようかしらん。

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2011年04月13日

●日本の心 第25回

(120) *「ホジソン長崎函館滞在記」、多田實訳、雄松堂出版、1984年
 1859~1860年ホジソンHodgson(1821~1865)はアイルランド人で、1859年3ヶ月長崎で、また1860年1年間箱館(現函館)でイギリスの領事を家族(妻と娘とともに)勤めた。ただ内容的には長崎滞在中のホジソン夫人の母への手紙の方が面白い。蛇やムカデに悩まされたが、寺が領事館だったということもあって(当時の日本人は特に)日本人がそれらを殺さなかったと言ってカンカンのご様子。朝起きたらベッドのそばにマムシを見たり、自分の服の上をムカデが這っているのを見たら夫人の言うのもごもっともと思う。家主の和尚や尼僧などからもよくしてもらい、特に娘は多くの日本人から可愛がられたようである。このように当時外国人の中で家族で赴任した人は珍しく、しかも女性の目からの日本の印象というのは大いに参考になる。箱館では奉行夫人と夫人同士の付き合いもあった。ホジソンは函館で競馬(1時間の耐久レース)と打毬(日本式ポロ)を見ている。4回箱館奥地旅行をしているが、2回は家族も含めてである。1回目はフランスのイエズス会のカション神父、4回目はロシア領事官のナジーモフも同行した。ギリシャ神話や聖書からの引用が多く知識のひけらかしという憾みもあるが、非常に日本に好意的な筆致である。払子をmosquito whip蚊叩きと称している。これで悪霊を寺から追い出すのだと説明を受けたとのことである。また日本には死人の死後硬直を解く土砂というものがあり、葬式の時棺桶に入れれば死体を好きな姿勢に変える(当時は屈葬だった)ことができると日本人(坊主)から言われたという。これは密教の土砂加持に関係があるのかもしれない。こういう土砂のことを書いている当時日本に滞在していた外国人は多い。「ご機嫌いかがですか」の挨拶の後、イギリスと同様いつも天気の話で始まるのは奇妙であるとも書いている。彼は日本に好意的で挙げくにはノアの箱舟日本漂流説なども述べている。ただ本書では分からないが、ホジソンは酒乱で、朝から泥酔し、酔って日本人を鞭で殴るなど乱暴が続き、とうとう箱館のイギリス人商人3人から領事の義務を果たしていないと告訴され、病気休暇願を出し、後に外務省を辞める羽目になった。いわゆる「ホジソン氏事件」である。後任はモリソン。詩人肌で早世したのも酒によるものだろう。本書は1861年出版された。

(121) 「東方にてНа Востоке」、マクシーモフСергей Максимов, Книжный клуб Книговек, 2010
 セルゲイ・マクシーモフ(1831~1901)はロシアの旅行家・民俗研究家で、1860~61年東シベリア、東洋を旅行し、1860年日本(第5章)にも立ち寄った。日本と言っても箱館(後の函館)だけで当初4日の滞在予定だったが、興味がわいて結局10日間見聞することになった。当時函館は商業の町で人口が6000人で、彼の推定によると遊女が600人いたという。彼の驚いたのは遊女が午前中読み書きや踊りを習い、4年の年季があけた後普通に結婚もでき、遊女を特にさげすむ風もなかったことと、女性の地位が他の東洋諸国に比べて高く、女性が自ら自発的に商売をし、自宅に客を招きいれたりすることだった。また障子を開ければ家の中全部が見渡せることなどプライバシーもないことに一驚している。混浴についても書いているが、当時ペテルブルグやモスクワは別にして、ロシアの田舎では混浴は当然だったので、アメリカ人やその他のヨーロッパ人ほど驚いてはいない。当時奉行所で開催された日本のポロである打毬(だきゅう、うちまり)についても記してあるが、退屈だとある。放火で火刑になった若い男の処刑の模様も描いている。じたばたせず潔い最後だったようで、火刑というのは火であぶられて死ぬのではなく、窒息死するのだと書いている。

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2011年04月24日

●日本の心 第26回

(122) 「函館・ロシアその交流の軌跡」、清水恵、函館日ロ交流史研究会、2005年
若くして世を去った清水さんの生涯をかけた力作。この著書のおかげで、幕末の箱館奉行所のロシア語通訳志賀浦太郎がロシア語の通訳者育成を命じられ、合田光正(1847~1908)がその門下生となったことが分かる。当時ロシア語の通訳となって箱館奉行所に採用されたのは、志賀を除き、合田、千葉弓雄、若山弁太郎のみであり、ニコライ師も彼らにロシア語を教えたという。北洋漁業のメッカだった函館についていろいろな事柄が丹念に裏付けされているが、特に湯の川のトラピスチヌ修道院の近くに旧教徒が住んでいたなど知らなかったことが多く、教えられ、ほんとうに惜しい人を亡くしたと思う。本書の初めに出て来る「2人のマホフとフィラレート司祭」について、同じ函館のロシア人を扱った「函館や北海道のロシア人、欄外のメモРусские в Хакодате и на Хоккайдо, или заметки на полях」, Хисамутдинов, Издательство Дальневосточного университета, 2008の中で、著者のヒサムヂーノフはワシーリー・マホフとロシア文字を函館で出版したイワン・マホフは親子関係になく、ワシーリーは戸田で遭難したヂアーナ号の司祭であって、函館とは関係がないと書いており、また修道司祭иеромонахフィラレートは1860年函館で最初の教区を開いたが、函館が嫌いだったようで、1861年10月31日にはウラジオに戻っているとある。その後のフィラレートについても若干記載されており、このことを清水さんは知らなかったようだが、いろいろな知見を組み合わせてもっといろいろな研究が清水さんの手で世の中に出たのではと夭折が本当に惜しまれる。いずれにせよこの二つの書を通じて19世紀中ごろの函館の様子がロシア側の資料からよく分かるといえる。

(123) 「ロシア艦隊幕末来訪記」、ヴィシェスラフツォーフ、長島要一訳、新人物往来社、1990年
1859年ムラヴィヨーフ東シベリア提督のひきいるアムール艦隊の船医として訪日した著者の日本印象記。このときにロシア人士官1名と水兵1名が浪士に暗殺された。外国人襲撃事件で犠牲者が出た最初の例である。本書の訳者の長島要一氏の訳文および解説や注が非常に良い。

(124) 「ロシア人の見た幕末日本」、伊藤一哉、吉川弘文館、2009年
 幕末の日ロ関係を知る上で欠かすことができない人物である初代駐箱館領事ゴシュケーヴィチ(1814~75)について、ロシアの史料を駆使してその人物像を描いた傑作。ゴシュケーヴィチはプチャーチンとともに1852~55年および領事として1858~62年夫妻で滞日し、和魯通言比考(橘耕斉との共著)などの著作もある。、また1860年江戸から箱館までの陸路(駕籠での)の旅行や対馬事件、1862年の徳川家茂への謁見など貴重な記述がある。ロシアの史料館で行われている特殊な分類法の説明など、こぼれ話も非常に面白い。

(125) 「開国―日露国境交渉」、和田春樹、日本放送協会、1991年
 プチャーチン使節を中心に、日露国境交渉の歴史を分かりやすく説明したもの。プチャーチンとペリーの競争意識、当時の米露日の状況がよく分かる。

(126) 「ロシア人の日本 Русская Япония」、ヒサムヂーノフА.А. Хисамутдинов, Вече, 2010
 著者はすでにこのテーマで「箱館や北海道のロシア人、ないしは欄外の注Русские в Хакодате и на Хоккайдо или заметки на полях, Издательство Дальневостоного университета, 2008や「ロシア人の長崎、ないしは稲佐での最後の停泊Русский Нагасаки или Последний причал в Инасе」, Издательство Дальневостоного университета, 2009を書いており、まだ横浜と東京編の出版を予定されていると聞く。私は函館生まれであり、個人的に内容が興味深いのは当然だが、末尾の取材日記は外国人による最高級の日本印象記であり、日本の観光案内としても大いに役に立つと思う。本書は箱館(現函館)、長崎、横浜、東京など日本に足跡を残したロシア人についてまとめたものである。惜しまれるのは日本語の読みについて20か所近く間違いがあることである。これについては著者に指摘し、感謝され、お付き合いをいただくきっかけとなった。今回の大震災についても丁寧なお見舞状をいただいたことを申し上げておく。

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