2013年10月01日

●続和文解釈入門第231回

(「調べようか?」と俺はヴィーチカに尋ねた)Проверим? – спросил я у Витьки.
(「俺がもう調べた」とサーシカが言った)Я уже проверял – сказал Сашка.

 二番目の文は既知の動作(動作の有無)の確認であり、動詞の語義については最初の文で明示されている以上、二つ目の文では動作がなされたことだけを述べているため、強めに発音したり、イントネーションを変えるなどして強調のニュアンスを出す場合が多い。

(「その時に申請すべきだった」と彼は言った)Надо было заявить тогда же, – сказал он.
(「申請したさ」)Я заявлял.

 フォーサイス先生は不完了体が上の文において非常に強い論理的強調性を帯びていると述べておられるが、語義そのものではなく、動作があったことを強調しているということになる。

出題)「一度彼は溺れて死にかけた」をロシア語にせよ。

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2013年10月02日

●続和文解釈入門第232回

体の用法における完了体未来形の完遂の用法について突きつめて考えた結果、完了体の定義に若干手を入れることにした。
「完了体は話し手が動作の結果として、時間軸の特定かつ不動の一点をイメージする」に変更する。ゆえに、完了体未来形の完遂の用法においても、動作の達成(完遂)をイメージするということ自体が、意識しても、しなくても自動的に時間軸の特定かつ不動の一点を特定することにつながることになる。始発の動詞について言えば動作の開始イコール動作の達成(完遂)ということである。

出題)「私が裁判費用すべてを負担する」をロシア語にせよ。

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2013年10月03日

●続和文解釈入門第233回

『新訂和文露訳入門』に下記追記したい。
7-1-1 志向

 7-1項の不完了体動詞群は目的や対象に対する志向(~しようとしている)を示し、動作の完遂を示さない用法であり、умиратьのように完遂を目指す過程だけの用法、過程と反復を組み合わせたもの、даватьのように反復では使えるが、過程では使えないという動詞がある。過程(2-1-4項参照)や継続の用法(2-1-7項や3-1-3項参照)に似ているが、志向の用法には終着点があるか、暗示されているが、それらにはない。また予定の用法(4-1-2項参照)には反復の意味がないのが志向の用法との違いである。未来の時制では不完了体未来形が文脈によるのでなければ具体的な1回の行為を扱いにくいため、反復の用法と区別しにくい。

(私たちは通りを〔車で〕走っている)Мы едем по улице. <過程>
(私たちは浅草に〔車で〕行く)Мы едем в Асакса. <予定、ないしは志向>

 上記の文では同じедем(車で行く)という過程の動詞が、в Асакса(浅草に)という状況語がつくことで、浅草が終着点となり、志向のニュアンスをもつことになるが、ехать自体の語義に志向の意味はない。本項で問題にしている志向の動詞というのは、語義自体に終着点を目指す志向が含まれているものである。умирать(死ぬ)という不完了体動詞は、どの生物もいつかは死ぬわけであり、Он умирает.という文は、単に死の過程を示しているというよりは、死へ向かっていることを意味している。7-1項の不完了体動詞群はこのような志向の意味を担っており、умиратьは1度の過程だが、この動詞群の他の動詞は、動作を反復して、目的に到達しようという動作を示すものも多い。

(私たちは彼を捕まえようとしたが、だめだった)Мы ловили его, но не поймали. <反復も含まれる>
(長いこと追いつこうとして、ついに追いついた)Долго догонял и наконец догнал. <反復も含まれる>
(一度彼は溺れて死にかけたことがある)Раз он тонул, погибал.
(もう1時間も彼女をつかまえようとしているが、ずっと話し中だ)Я уже час её добиваюсь, но всё время занято. <反復も含まれる>
(彼は苦しみはしまいが、死ぬのに長い時間がかかる。)Он будет умирать долго, но без мучений.

出題)「彼が忘れるのはもう3度目だ」をロシア語にせよ。

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2013年10月04日

●続和文解釈入門第234回

『新訂和文露訳入門』の2-2-1-3項にある創作者としての資格に関連して、もう少し説明しておきたい。下記はすべて正しい露文だが、ニュアンスが違う。完了体過去形の方は、アオリスト的用法で、過去の明確なある時点で動作がなされたという事を示し、作品が現在に残れば結果の存続という解釈も可能である。これは文の焦点が動詞にあるということを意味する。一方不完了体は疑問詞に文の焦点があり、動作の有無の確認ということで不完了体過去形が来ている。『カラマーゾフの兄弟』にしろ、『戦争と平和』にしろ、有名な文学作品と知っている人は、何らかの思い入れがあり、主観的ニュアンスを帯びて完了体過去形を用いるが、そういう人は少数派であろう。いい悪いは別にして、ロシア文学なんかよりもファッションやコンピューターの方に関心がある人の方がはるかに多いはずだ。そのような人たちにとっては、『戦争と平和』など聞いたこともなく、これらが書名であるかどうかすら怪しい人にとっては、これらは名作ではなく、単なる「もの(ないしは、記号)」に過ぎない。そうであれば、「昼ごはん食べましたか?Вы обедали?」と同じレベルで、主観的ニュアンスがない不完了体過去形の動作の有無の確認を選ぶことになる。つまりこのように話し手の文の見方によって体の用法が決まる場合も多々ある。一般的に言えば、自分が書いたメールも含めて、文学作品のような話し手が主観的に思い入れのある作品に関しては、創作者の資格(アオリスト的用法であり、結果の存続の用法でもある)として、完了体過去形が使われると言える。

(長編小説『カラマーゾフの兄弟』を書いたのはだれですか?)Кто написал роман «Братья Карамазовы»? <話し手が名作と理解している場合>
(『戦争と平和』を書いたのは誰ですか?)Кто писал «Войну и мир»? <話し手が名作かどうか知らないか、関心がない場合>
(『戦争と平和』を書いたのはトルストイです)Толстой писал «Войну и мир». <同上>
(この映画の監督は誰ですか?)Кто снимал этот фильм? <同上>

出題)「彼はどの位置からでも(バスケット)リングにボールを放った」をロシア語にせよ。

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2013年10月05日

●続和文解釈入門第235回

『新訂和文露訳入門』6-1-4項の動作の開始(促し)・継続・終了に下記追記する。
運動の動詞(接頭辞のつく運動の動詞も含む)の後に続くのも、不完了体不定形が多い。これも始発のニュアンスがあるからだと考えれば分かりやすい。

(服を着に行くよ)Пойду одеваться.
(彼は別れのあいさつのために車に近寄った)Он подошёл к машине прощаться.

 上記の不定形も目的であるが、чтобыの後では、運動の動詞の動きと目的を別々に強調するという点から完了体不定形が来る。これに似た用法として、8-2-5項が参考となる。

(この忌まわしい牝馬を売るために出かける)Я еду, чтобы продать эту проклятую кобылу.

出題)「もう一度お邪魔しなければならなくなっても、悪く思わないでください」をロシア語にせよ。

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2013年10月06日

●続和文解釈入門第236回

前回の「悪く思うな、悪く思わないでください」の露訳については、きまり文句のようなもので、次のように、完了体と不完了体の両方があるが、違いはあるのだろうか?
<完了体の例>
Прошу не взыскать.(*= не взыщите = только без обиды = не осудите)
Нас не обессудьте, в этом не обессудьте.
Виноват, не попомните.(ごめん、悪く思わないで)
Я возьму, чтобы не раздражать вас.(あなたが悪く思わないよう私が取りましょう)

<不完了体の例>
Не поминайте меня лихом.(私のことを悪く思わないで)
Не держи зла на этих.(奴らのことを悪く思わないで)
Не думайте про меня плохо.(私の事を悪く思わないで)

完了体のНе обессудь(те) はアカデミー版露露の説明では、просьба проявить снисхождение, не отнеситесь слишком строгоであり、不完了体のНе поминай(те) лихомはВспоминая, не думай(те) плохо о ком, чём-либоということであり、このことから完了体は体の本質を踏まえて具体的な1回の行為に用いられるということが分かる。一方、不完了体の方は動作の否定の命令だから、いつも、一般的に、動作がなかったことにしてほしいという意味である。そのため前回のように、具体的な文脈では完了体の方を使わざるを得ないということになる。

出題)「どうして私を殺そうとするのですか?」をロシア語にせよ。

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2013年10月07日

●続和文解釈入門第237回

 マリーニナМарининаのミステリー『他人の仮面Чужая маска』の中に、歴史的現在を用いて、偶発的反復(完了体未来形)と規則的反復(不完了体現在形)が一つの文脈で出てくる例文があるので紹介する。

(本当のところ古書保管部での仕事は多くないし、給料もこれっぽっちよ。でも私いつもアルバイトしていたの。出社するときは、すべての書類を整理したり、ファイルにとじたりしたり、勝手に座って編物をしていたわ)В архиве работы немного, правда, и зарплата крошечная, но я всегда подрабатывала. Приду, все бумажки в порядок приведу, журналы заполню, папки подшью – и сижу себе, вяжу. <座って編物をするというのは常にしていた動作だが、それ以外の動作は偶発的(例示的用法)であることが分かる。それ以外のПриду以下が偶発的動作だというのは毎日の出勤ではなく、出社した時はというニュアンス>

出題)「約束したことは守る」をロシア語にせよ。

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2013年10月08日

●続和文解釈入門第238回

不本意と嫌気・不適切を混同していたようなので訂正する。不本意というのは『新訂和文露訳入門』6-2-6-3項のように完了体不定形を用いるもので、「~するにしても、それは本意ではない」という意味で例示的用法であり、嫌気・不適切は「したくない、するべきではない」という意味で、不完了体不定形が来る。第205回の出題も嫌気・不適切の例である。
леньには述語的用法があり、意味はне хочется, нет желанияで、まさしく嫌気そのものだが、不完了体不定形のみならず、例示的用法として完了体不定形を取ることもある。

(彼は話すのも、聞くのも、見るのも嫌だった)Говорить ему было лень, слушать лень, смотреть лень.
(その場所から動くのも嫌だ)Лень с места сдвинуться. <仮に動くとしてもという例示的ニュアンスがあるので完了体不定形が来ている>

出題)「ポンプステーション内でガス漏れが検知された」をロシア語にせよ。

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2013年10月09日

●続和文解釈入門第239回

〔выполнять/выполнитьの後にчто以下の節が来ないとロンさんやゴさんへの第237回の回答に書きましたが、Russian verbs in speech, Merzon/Pyatetskaya, Russky Yazyk, 1983を読み直しましたら、Я выполнил всё, что наметил на эту неделю.(今週やろうとしていたことはすべてやった)という例文が挙げてあり、то, что(тоは省略不可)やвсё, чтоという節は可能であるとあるのを見つけました。間違ったコメントをお詫びすると同時に、コメントは訂正しましたので、ご一読ください〕

(昼食を取ったら、すぐにもどれ)Пообедай и сейчас же возвращайся. <切迫感>

上の文でその前の文と同じсейчас жеという、あたかも時間を示す語句があるのに、不完了体命令形が続くのは、私の唱える説「不完了体は話し手が動作遂行の結果として、時間軸の特定かつ不動の一点をイメージしない」と矛盾すると思われるかもしれない。сейчас жеは「今すぐ」という意味であって、今というこの瞬間を示していない。仮に示しているとしたら、今というこの瞬間は常に動いているわけで、不動の一点ではないから問題ないし、今を広く解釈して、一瞬後のいつかとすれば、1分後か、2分後か、はたまた10分後か知らないが、特定できない以上不動の一点ではないことは明らかである。そのため不完了体が用いられても問題は生じない。この用法は命令法の切迫感か動作の様態の強調、ないしは両方合わさったものであろう。次の完了体命令形の例文と比較してほしい。

(この通知はメールで届いた。すぐ返事を用意しなさい)Это сообщение получили по электронной почте. Срочно подготовьте ответ! <Срочноが来ているのに完了体命令形が来ているのは、新規の情報だからである。切迫感の用法は動作が行われるのが周囲の状況において自然であるという前提が必要>

出題)「前菜は何がありますか?」をロシア語にせよ。

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2013年10月10日

●続和文解釈入門第240回

拙著『新訂和文露訳入門』を訂正したので、ご紹介する。
6-2-6-3 遺憾・不本意 → не + 完了体不定形

 「~したい」というのは主観的動作であり、完了体不定形がつくのが一般的である。その否定形не захотеть、не хотетьやне хотетьсяは「~することを欲しない」ということで、主観的ニュアンスの否定であり、嫌気(6-1-8項)のように不完了体不定形が来るのが普通である。ところが、同じ「~したくない」でも、動作が終了してしまえば、過去の時制では遺憾の意や不本意というニュアンスになる。これは「~するにしても、それは本意ではなかった」というように例示的であり、またそれが主観的ニュアンスであるため、完了体不定形が用いられる。

(騙すつもりはなかったんだ)Я не хотел обмануть вас.
(あなたを怒らせるつもりはなかった)Мне не хотелось вас обидеть.

 条件法でも使われる。

(遅れたくなければ、急げ)Если ты не хочешь опоздать, поторопись.
(寝坊したくなければ、目覚ましをかけなさい)Если вы не хотите проспать, заведите будильник.

 ここから発展して非難の意味にもなる。

(私と口を聞くのも、話を聞こうとするのも嫌なんですね)Вы не хотите даже поговорить со мной, даже выслушать меня.

 стремиться(目指す)、стараться(~に努める)、думать(思う)、предполагать(予定する)+ не + 完了体不定形も、不本意や遺憾という主観的ニュアンスがある。しかし、не + 不完了体不定形ならそういうニュアンスはないということになる。

(うっかりして〔他〕人の感情に障らないように努めている)Стараюсь не задеть чувств другого.
(空き巣の多くは警察が「お宮(迷宮)入り」を避けるために受け付けない。それらは警察の統計を大いに損ねるからである)Большинство квартирных краж милиция старается не регистрировать во избежание "висяков" - они изрядно подмачивают милицейскую статистику. <不完了体不定形の否定>

 不定形の動詞の語義によって、遺憾のニュアンスとなるのか、切迫のニュアンスとなるのかが決まっているように思われる。

(それを思い出さないのはよくないことだった)Грешно было о ней не вспомнить. <遺憾>
(捨てるのは惜しい)Жаль выбросить. <遺憾>
(彼と別れるのは残念だ)Жаль с ним расставаться. <切迫>
(立ち去るのは残念だ)Жалко уезжать. <切迫>

出題)「彼は古い小説から抜け出たよう(な人)である」をロシア語にせよ。

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2013年10月11日

●続和文解釈入門第241回

「行って来る」は不定動詞や接頭辞のついた運動の動詞でも表現できるが、過去の時制が一般的で、未来の時制の例は少ない。

不定動詞の未来形も使えるが、これだと「すぐに行く」というようなニュアンスはない。

(タクシーの金がないなら、バスで行って来よう)Раз нет денег на такси, будем ездить на автобусе. <文の焦点は行くという動作ではなく、交通手段にある>

 しかし、時間が限定されると、不完了体は使えない。

(彼は10分で新聞を取りに行って来た)Он сходил за газетой за 10 минут.

出題)「お客様は神様です」をロシア語にせよ。

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2013年10月12日

●続和文解釈入門第242回

ウェード先生のA comprehensive Russian grammer読んでいたら、部分生格のところで、次のような例文を見つけた。

(彼はちょっと水を飲んだ)Он выпил молока. <He drank some milk.>
(彼はその水を飲み干した)Он выпил молоко. <He drank the milk.>
(彼は水を飲んだ)Он пил воду.
(彼は〔何度も〕水を飲んだ)Он выпивал воду.
(彼は水をコップ1杯飲んだ)Он выпил стакан воды.

 上から二つ目の文については原求作先生が『ロシア文法の要点』(水声社)の42ページで、〔Он выпил воды. この場合водаを生格にするのはвыпитьという動作がводаという「物質」の「一部」に及んだからです。たとえば、コップの中にある水を全て飲み干したとしても、やはり、водаはという名詞は、「コップの中に入っている水」を表しているのではなくて、「水一般」という抽象的な物質をさしている、という意識があるからです。だからОн выпил воды.というときには、「コップの中に入っている水の一部を飲み干した」という意味ではなく、「水という抽象的な物質の一部を飲み干した」という意識が働いています〕と述べておられ、45ページに〔выпитьやиспитьとか接頭辞をもっていれば部分生格を使いますが、接頭辞のない場合は対格になります〕とある。個人的には原先生の説明の方が納得がいくが、語結合辞典ではвыпить что: (о жидкости液体に関して) ~ воду, чай, молоко, квас, пиво, вино, водку, коктейль, пуншとあり、部分生格の例としてвыпить (только сов完了体のみ) чего: ~воды, чая, молока, пива, винаという例が挙げられている。現実的には部分生格で使う方が多いのだろうが、対象全部を飲む場合には対格を使えということのようだ。
「食べる」の場合は、不完了体はесть что: (о пище食べ物に関して) ~ суп, мясоと、対格がそのまま補語になり、完了体の方もсъесть что: яблоко; целое яблоко, всё яблоко, тарелку чего-либо (щей), порцию чего-либоと対格であるが、поесть は語義からしてпоесть супа/супуのように部分生格しか来ないようである。

出題)「彼女には虫唾が走る」をロシア語にせよ。

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2013年10月13日

●続和文解釈入門第243回

 不完了体過去形の否定は動作が起こらなかったことを示し、完了体過去形の否定は、動作が始まったが完遂していないか、結果が出ていないことを示す。これは『新訂露文和訳入門』2-1-2-2項の追加であり、3-1-8項の動作の否定や4-2-1項を参照のこと。

(どうしてスイカを売らなかったのですか?)Почему вы не продавали арбузы? <スイカをもって来ていなかったから>
(どうしてスイカを売り切らなかったのですか?)Почему вы не продали арбузы? <熟れていないスイカが売れ残ったから>
(この本が見つからなかった)Я не нашёл эту книгу.

出題)「彼とは関わりにならない方がよい」をロシア語にせよ。

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2013年10月14日

●続和文解釈入門第244回

一般的にアオリスト的用法で完了体過去形と共に用いられるвдруг(突如)、неожиданно(不意に)、внезапно(突然)、сразу(すぐ)、сразу же(すぐに)、мгновенно(瞬間的に)、вмиг(一瞬)、немедленно(ただちに)、и вот(その結果ほら)、и тогда(そのときに)、и тут(その瞬間)、наконец(ついに)も、下記のように動作の反復の意味の不完了体と共に用いられることがあるので注意が必要である。

(ユーモラスな短編用に題辞が必要になった時は、すぐにクルィローフの小冊子からすぐに見つけたものだ)Когда мне нужен был эпиграф для юмористического рассказа, я сразу же находил его в томике И. А. Крылова.

出題)「彼は(いつも)人の一歩先を行っていた(比ゆ的に)」をロシア語にせよ。

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2013年10月15日

●続和文解釈入門第245回

 和文解釈入門の最初の頃に出題した、次のような会話における不完了体過去形は、英語の代動詞の用法に似ている。語義は最初の文で分かっているのだから、語義よりも動作をというものである。代動詞というのは、Do you have a pen? – Yes, I do.におけるI doのdoである。

「このバッグ買ったの」- Я купила эту сумочку.
「どこで買ったの?」- Где ты её покупала?

 ロシア語のделатьは複合動詞としても使われるが、代動詞としての用法はない。下記の例は「任された(意図する)ことを遂行する」という意味であり、新規の情報が含まれているので完了体動詞過去形になっている。организоватьの過去形は完了体のみであり、順次的用法ととらえることができる。

(私たちはプーシュキンゆかりの地の観光をアレンジした。これは外国人学生の要望で行った)Мы организовали экскурсию по пушкинстким местам. Мы это сделали по поросьбе студентов-иностранцев.

出題)「これについては僕は彼にかなわない」をロシア語にせよ。

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2013年10月16日

●続和文解釈入門第246回

どの宗教でも善悪はあり、人を殺す事は悪いことである。人は善をなさなければならず、悪を為すのは悪人か悪魔のはずである。そこで思うのだが、悪魔は悪だけを為さねばならないのだろうか?そうであれば、悪魔という生業も大変である。まず善とは何かという事を理解して、不善の中の悪を規定し、その枠内で悪事をしなければならないことになるからだ。しかし、世に言う悪魔、悪人というのはそうではあるまい。私は悪魔は何をしてもいいと感じているから悪魔なのではないかと思う。つまり善とか悪とかの区別をしないのである。だから気分次第では善事もするというのが悪魔であるはずだ。考え方としてはアナーキズムに近いが、無政府主義は私の理解では、まずすべてを破壊して後、一切の権力や強制を否定し、個人の自由を拘束することのない社会を実現しようというのだから、これとも違う。悪魔は世界の破滅を望んでいるとか、究極的に世界をよくするとか、悪くするとかには全く関心がないのである。悪魔は結果を全く顧みずに行動するのだと思う。神は秩序そのものだと考えると、悪魔は無秩序ということになり、どの宗教宗派でも無秩序を嫌うというのは理解できる。

 殺人はどの宗教でも禁じられているはずなのに、世界中で宗教がらみで殺人が絶えないのは、善を為すのはその宗教、その宗派内だけに限られているからである。他の宗教の人を助けることはあるが、幸福になるため、あるいは人が救われるためのの唯一の道である自派に取りこむ、つまり正しい教えを伝えるためだからである。ここに一神教には異教徒は悪魔と同じという極端な考え方が発生する素地がある。善を為そうとすることが、必ずしも善につながらないのは、ロシア語でも地獄への道は善意で敷き詰められているБлагими (добрыми) намерениями ад вымощен.という言葉でも分かる。日本の神道は神仏習合ということもあるように、廃仏毀釈ということは何度かあったかもしれないが、基本的に他の宗教を受け入れるという考え方だから、このような考え方は欧米の人には理解しにくいと思われる。明治時代に日本に来た旅行家バード女史も敬虔なキリスト教徒であり、日本もキリスト教を受容しなければならないと考えていたが、ロンドンなどに比べ、日本人は邪教で暮らしている割には、秩序があり、犯罪が少ないと驚いている節がある。神道も仏教も多神教というとらえ方ができるが、一神教であるはずのキリスト教でも特にマリアを尊崇する人たちや、聖ニコラスを拝む人などがあるように、庶民のレベルではあまり変わらないように思われる。

出題)「どこに何があるか、そもそもあるのかをいつも精確に知っているとは限らない」をロシア語にせよ。

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2013年10月17日

●続和文解釈入門第247回

2013年の6月末に『新訂和文露訳入門』を上梓したが、このコーナでの投稿をチェックするうちに、反復の命令、動作の否定、志向や切迫感、不定法の項目の説明に不備や不満があったのと、通訳やガイドをする上でより実践的に、どの状況語ならこの用法の体を使うというような、体の使い分けの目安を付け加えたり、もっと分かりやすい例文に差し替えたりした方がよいのではと考えるようになった。また新訂版以降今日までこのコーナーの本文に書いた文法に関する雑文を次の版に反映させたいという気持ちもあり、変更したり、削除したり、書き加えていったら、463ページになってしまった。3ヵ月半で70ページくらい増えた勘定になる。今のところ本質的に訂正しなければならないようなところはないので、三訂版を出すかどうかは分からないが、体もやればやるほど、きりがないなという気はする。

 最近インターネットで1部(1冊)からでも製本してくれるところを見つけたので、三訂版463ページを20部くらい製本で出すとして、その見積もりを頼んだら、1部(1冊)3千円くらいかかる上、送料を考えると、3,500円ぐらいになってしまうという。初版ではないので、買ってくれそうな人を10人や20人見つけられる可能性もなく、現状では無理のようなのであきらめた。それに新訂版を出して以降の新しい知見については、まとまりがないとはいえ、その都度このコーナーの本文で発表していることもあり、電子書籍で三訂版を出す意義があるのかもよく分からないので検討中である。

出題)「そのときもそれが分からなかったし、今に至るも理解できないわ」をロシア語にせよ。

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2013年10月18日

●続和文解釈入門第248回

和文露訳の参考書に求められるものは、総花的なものではない。中級や上級の文法書は初級の文法書の記述をそのまま繰り返す必要はない。著者が学習者の理解が難しいと思うところに焦点を当てて解説すればよいのである。そういう意味では、『現代ロシア語文法』(城田俊、東洋書店)や『ロシア語文法便覧』(宇多文雄、東洋書店)は初級・中級混淆の文法書であり、『ロシア文学観賞ハンドブック』(中沢敦夫、群像社)は露文解釈用に徹しているとはいえ、上級用の文法書である。たとえて言えば、会話での和文露訳では、被動形動詞過去短語尾について完璧に理解することは重要だが、他の形動詞や副動詞については露文解釈ほどで重要ではない。必要に応じて文法の本を読めばよい。しかし、体の用法については、上記の参考書では記述が不十分である。少なくともA Comprehensive Russian Grammar, Terence Wade, Wiley-Blackwell, 2011やA grammer of aspect, Forsyth, Cambridge University Press, 1970は読みこむ必要があると思われる。余裕があれば、『ロシア語動詞 体の用法』(ラスードヴァРассудова、磯谷孝訳編、吾妻書房)に進めばよいのである。

出題)「家中忘れないよう紙をぶら下げておくよ」をロシア語にせよ。

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2013年10月19日

●続和文解釈入門第249回

日本語の手には腕、手首、手のひら、手の指という意味があり、ロシア語のрукаは腕の関節から指の先までという意味がある。しかし、腕と手の区別が前置詞で分かることがある。

(彼らを腕を組んで散歩した)Они прогливаются под руку.
(彼を両脇で支えた)Его поддерживали под руки.
(私はイーンカの手を取った)Я взял Инку за руку.

 他にも、в руке, в рукахなら「手(のひら)に」だし、на руке, на рукахなら「腕に」という意味になる。
с карандашом в руках(手には鉛筆をもって)、В правой руке держит скипетр.(右手に笏杖を持っている)
На руках она держит котёнка.(彼女は腕に子猫を抱えている)
щупая пульс на руке(手〔腕<実際は手首>〕の脈をとりながら)

出題)「誰が走るのが早いの?」をロシア語にせよ。

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2013年10月20日

●続和文解釈入門第250回

(何という苦しみ!)Что за мука!というように、что за + 主格だとばかり思っていたが、ウェード先生のロシア語文法にはこの句は格の影響を受けないとある。Век живи, век учись! である。原求作先生はчто за = какойということで、これはドイツ語からの借用表現であると『ロシア文法の要点』(原求作、水声社)で述べておられ、что за + 主格であり、次のように対格が来るのは文法的には誤りで、口語体であるとしている。что за の後には主格以外に、せいぜい対格しか例を見ないことを踏まえると、個人的には原先生の説の方が納得がいく。

(どんな本を彼女は買ったのですか?)Что за книгу она купила?

出題「家を出る時は、戸締りをしたか、窓を閉めたか、ガスを切ったかがいつも気になる」をロシア語にせよ。

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2013年10月21日

●続和文解釈入門第251回

命令法では二人称の主語をつけないが、тыやвыをつけると、命令、助言、鼓舞などに断固たる調子を加味することになる。

(いっそドアを開けたほうがいいですよ)А вы лучше открывайте дверь.

出題)「お宅の息子さん、どこの大学に行くかもう決めましたか?」をロシア語にせよ。

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2013年10月22日

●続和文解釈入門第252回

ロシア語での犬への命令の言葉を見てみると、体の用法に例外がないことが分かる。

Ап!(跳べ)、Апорт!(= Принеси, Подай持ってこい)、Дай лапу.(お手)、Ищи.(探せ)、Ко мне!(来い)、Лежать!(伏せ)、Назад!(戻れ)、На место!(居場所に戻れ)、Подай!(取ってこい)、Пиль!(〔猟犬に対し野鳥に〕飛びかかれ)、Рядом!(ヒール、飼い主の左側に、ツイテは右側に陣取ること)、Стоять!(待て)、Сидеть!(お座り)、Фас!(= Схвати! 捕まえろ)

不定形は断固たる命令を示す。不完了体不定形は、その状況下ではどの動作をするのが当然と話し手が考えていることを示す。完了体不定形は新規な動作であるから、話し手にとって恣意的な動作(聞き手にとって恣意的な動作なら不完了体)であることが、「お手」などから分かる。

出題)「ターニャが地下鉄の方へ歩いてゆくのを違うクラスの男の子が見た」をロシア語にせよ。

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2013年10月23日

●続和文解釈入門第253回

犬への命令で気になることがある。Лежать!(伏せ)、Сидеть!(お座り)は状態の動詞であるのに、動作の指示に使われている。トロエポーリスキーТроепольскийの『片耳の黒い白犬ビームБелый Бим Чёрное ухо』には、Лежать!と言われて、Бим лёг.(ビームは伏せた)とあり、Сидеть, - попросил Толик. (Бим сел)〔「お座り」とトーリクが頼んだ。(ビームはお座りした)〕とあるので、動作の意味の命令法として使われているのは間違いない。これは動作だけではなく、その動作をした後、その状態を維持せよという意味で状態の動詞が使われているのかもしれない。人間対して伏せろはЛожись.と言うが、強調すればЛежать!である。同様に、(止れ〔動くな〕)Стоять!<= прекратить движение>ということであり、警察官が犯人に対してなどのように、話し手がその場で当然取るべき動作と考えている場合には、このように不完了体が使われ、促し、または切迫感を示す。このように状態の動詞が使われると、現時点の前からこの動作が行われることが当然という意識が出て、強調の意味合いを持つ。

出題)「彼はたくさん働いた(準備に頑張った)。なぜなら日曜に大観衆の前で演説することになっていたからだ」をロシア語にせよ。

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2013年10月24日

●続和文解釈入門第254回

結果の存続という用法に、結果の現存という言葉を使いたくないのは、文字通り、この用法が必ずしも現在ということではなく、発話の時点に関係するからである。次の文は過去の時制の文であるが、発話の時点が過去であり、結果の存続の用法である。

(雨が降り出したので、我々は散歩に行くことができなった)Пошёл дождь, и мы не могли идти гулять.

出題)「彼はモスクワ国立大学を受験したが、不合格だった」をロシア語にせよ。

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2013年10月25日

●続和文解釈入門第255回

 不完了体過去形の否定は動作が全くなかったということから、思いがけない行為の断固たる否定を示す場合がある。その場合никакойのような否定の強調する語句か、否定の動詞を強いイントネーションで発話すことになる。

(あなたのものを取ってなんかいませんよ)Я не брал ваших вещей.
(私たちはいかなる電報も受け取ってなんかいません)Мы никакой телеграммы не получали.

出題)「無理に今決めても欲しいということではないのです」をロシア語にせよ。

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2013年10月26日

●続和文解釈入門第256回

頭はロシア語でголоваだが、ロシア語の方は厳密に言えば、顔と頭蓋の上部を指し、後頭部затылокは含まない。首は日本語では頸部だが、他に頭(首を切るなど)という意味もある。шеяというのはголоваとтуловище(胴体)の間で、正に首(頸部)を指すが、斬首というときには、отсечение головыとなる。загривокは首の後部で、首筋(襟首)を指す。

出題)「株は暴落している」をロシア語にせよ。

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2013年10月27日

●続和文解釈入門第257回

一人称単数形のない動詞というのがあり、そうは言っても使わなければならない状況というのが数少ないながらあるかもしれず、その時はどうするのかなと思っていたら、ウェード先生の A comprehensive Russian grammerに、その場合は言い換えればよいということで次のような例が載っていたので、ご参考までにお知らせする。

дерзить (говорю дерзости生意気な口を利く〔держатьの一人称単数形と同形になる可能性があるからだろう〕)、очутиться (могу очутиться 気がつくといるかもしれない)、победить (я смогу победить勝つことができる)、убедить (Мне удаётся его убедить. 彼を説得するのに成功する)、чудить (я не думаю чудить変な真似は考えていない)
さらに、次のような一人称やニ人称単数形が使えない動詞についても同様な発想だとのことである。течь(звучать「立て板に水のように話す」を使う)、значить (хочу сказать, хочешь сказать, означать「意味する」)

出題)「地下鉄から展示ホールへの行き方はすぐ分かりましたか?」をロシア語にせよ。

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2013年10月28日

●続和文解釈入門第258回

『新訂和文露訳入門』第1章の最初の方に若干手を入れたので、お知らせする。

 体の本質とは何かを追求していくうちに、ロシア人が無意識とは言え、どのように体の使い分けをしているのかに興味をもち、自分なりにいくつかの作業仮説を立てた。それを著者自らが収集した9万4千項目に及ぶ語彙集の例文に基づき、時制、法により体の本質について検証してきた。動作の一瞬をイメージするのであれば、イメージした瞬間の動作のイメージが固着する。動作がその一瞬に止まるのなら、その一瞬を時間軸の不動の一点でイメージすることになるが、過程のようにその一瞬にイメージが止まらないのであれば、時間軸の不動の一点にはなり得ないことになる。その動作のイメージをするのが誰かと言えば、それは話し手である。

 動作の遂行は完了体でも不完了体でも表現できるが、遂行という動作は動作の終了であるから、厳密に言えば、過去か未来であり、その時点での動作の一瞬や過程(経過)を示す事はない。過程というのは常に動作が一瞬一瞬動いているわけで、完了体が過程を示せないという事実は、

完了体は話し手が
動作遂行の結果として、時間軸の特定かつ不動の一点をイメージする

 ということを意味する。同様に継続を示す完了体(про-という接頭辞のついた動詞群)はあっても、継続中の動作を完了体は示せない。反復も、偶発的反復を除いて完了体は表現できない。完了体は話し手が動作遂行の結果として、時間軸の特定かつ不動の一点をイメージすることから、完了体には具体的、主観的(叙想的、意識的)ニュアンスが出て来る。これは、懸念、期待、動作の完了、新しい情報や事態の出現、新規の(追加的、より詳細な)動作の可能性とか、否定文では不可能、否定の強調などという、話し手の考える主観的なものを指し、具体的な1回の行為などもそうである。現在の時制では、完了体は結果の存続(現在完了)や広い意味での今(一瞬後の未来)という形でしか現在と関係を持てない。回りの状況に左右されないために、感情的には超然とした感じを受けることもある。

出題)「アガニョーク誌を取り寄せるのと買うのとどちらがいい?」をロシア語にせよ。

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2013年10月29日

●続和文解釈入門第259回

動詞の体についてはロシア語の文法書で必ず取り上げられているし、体専門の参考書まである。しかし、体の本質に関して触れているものでも、完了体と不完了体別々に特徴を挙げるのがせいぜいで、体全体の本質について扱っているものはなく、ラスードヴァРассудова О. П.先生ですら、体全体の特質について完了体と不完了体を別個に述べているにすぎない。和文露訳でも、英文露訳でもよいが、露文を作る際に体の選択をどうするかという観点で、体の本質を述べたものは皆無と言える。オッカムのカミソリの意味する「必要がないなら多くのものを定立してはならない」とか、「少数の論理でよい場合には、多数の論理を定立してはならない」、つまり、「必要以上に多面化するな。事実に則した最も単純な説こそ最善の説である」という点を踏まえて、体の本質というのはもっと単純化できるのではないかと私は考え、不完了体に共通する特質を持たないものが完了体であり、あるいはその逆であるというふうに体を全一的なものとしてとらえることができるはずだと考えた。

 ラスードヴァ先生は著書『ロシア語動詞 体の用法』(磯谷孝訳編、吾妻書房)の結論において、「完了体の主要機能は情報伝達的機能であり、不完了体の主要機能は、信号報知的機能と呼ぶことができよう。不完了体命令法によって名指される動作は、シチュエーションによって示唆される場合が一番多い」と書かれている。そのあと「実質的な情報をもたらす完了体と異なり、(不完了体)は独特な信号の役割を果たしているということができる」と一種の不完了体信号説を唱えている。それゆえ、不完了体の根源的意味は過去の時制の動作の名指し(動作の有無の確認)にあると示唆されていることはよく理解できる。『演習ロシア語動詞の体』(磯谷孝編著、吾妻書房)にスパーギスСпагис А. А.先生が「不完了動詞の主要な本質は、動作の名指しという非体的意味(体とは無関係の意味)の伝達であり、延長、未完、反復といった体の意味は不完了体の動詞そのものの中には与えられていないので、不完了体は文脈によってそれらの意味を表す」にあるのと同じである。それゆえ、『和文露訳入門』を出版するまでは、ラスードヴァ先生などの著作から「不完了体の本質が動作の名指し(動作の有無の確認)である」としたかったのであるが、動作の名指しは過去の時制が分かりやすく、現在の時制(動作の様態)、未来の時制、不定法、命令法(動作の様態)では分かりにくい。また動作の名指しには動作の遂行も含まれており、完了体の動作の完遂と紛らわしく、和文露訳の際にどう区別をつければいいか学習者には理解しにくいだろうということであきらめた。

 そこで『和文露訳入門』の初版を出した時に、体の本質を「不完了体は客観的な動作や状態を、完了体は主観的なそれを示す」とした。よく考えると、初版にある客観的、主観的というのも不適切な言葉遣いであり、新訂版を出す時に、完了体を中心に体の本質を説明できるのではないかと考えた。それが「完了体の本質は話し手が時間軸の特定かつ不動の一点での動作をイメージする」である。ラスードヴァ先生の『ロシア語動詞 体の用法』(磯谷孝訳編、吾妻書房、1975年)の過去の時制における体の用法という章の中に、「話し手の注意が、場所、時間、動作の主体に向けられている時には不完了体が必須となる」とあり、これは不完了体が文の焦点にならないことを意味している。これと完了体は過程を示さない(示せない)ということを出発点に、過去の時制におけるアオリスト的用法の時間のとらえ方を現在や未来の時制にあてはめ、体の本質の説明に時間軸という概念を導入したわけである。また個々の用法からこの体の本質の定義が検証できるようその項目に体に関する解説を加えた。

 しかし、新訂版を出してから、この定義では完了体未来形の完遂の用法での説明が心もとない事に気がついた。それと検証にあたる各章の解説部分もより分かりやすい納得がいくものにして、三訂版を出す事とし、「完了体は話し手が動作遂行の結果として、時間軸の特定かつ不動の一点をイメージする」と変えた。これまで時間軸の面から体の本質を説明した本はないと思う。本書では和文露訳において一番分かりにくい動詞の体を中心に説明しており、本書で動詞の体の用法が占める割合は全体の2/3あり、体の参考書と言えなくもない。

出題)「俺も今日は金に困っている」をロシア語にせよ。

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2013年10月30日

●続和文解釈入門第260回

『新訂和文露訳入門』への追加。

6-1-3-1 пробовать, пытаться, стремиться, стараться

 пробоватьとпытатьсяは「ためす」という意味での類義語だが、特に目標の設定を意味したりはしない。пробоватьはあまり深く考えずにトライしてみるという感じであり、пытатьсяは結果は分からないがやってみるということで、こちらの方が粘り強さ、熱心さが感じられる。「一生懸命やる」という意味ではочень старатьсяということになり、старатьсяよりは強意である。стремитьсяは書き言葉で「目指す」という意味であり、一般的・抽象的なニュアンスを持ち、そのためスローガンを除き命令形にはならず、対応の完了体はない。старатьсяは口語的であり、目標を設定して目標実現に努力するが、結果は分からないという意味であり、具体的、日常的動作に用い、否定の不定形がつきやすい。これらの不完了体は文脈によって、完了体動詞不定形も不完了体動詞不定形も取るが、これらの完了体попробовать、попытаться、постаратьсяには完了体動詞不定形が来ることが多い。

(時々彼はちょっと走ってみようとしたりした)Иногда он пробовал делать небольшие пробежки.
(私たちは彼を説得しようとした)Мы пытались уговорить его.
(諸民族は平和を守ろうと努めている)Народы стремятся отстоять мир.
(辞書を使わないでこのテキストを訳すようにしています)Я стараюсь перевести (переводить) этот текст без словаря. <完了体動詞不定形は具体的な一回の動作遂行を、不完了体動詞不定形は動作の継続を示す>
(細かいことにこだわらないようにしないと)Надо стараться не обращать внимания на мелочи.
(残念ながら不快な出来事が起きた。でも早く忘れるようにしなさい)К сожалению, случилась нерпиятность. Но постарайся её поскорее забыть.
(努力はしますが、保証の限りではありません)Постараемся, но не гарантируем.

出題)「僕は新聞を取っている」をロシア語にせよ。

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2013年10月31日

●続和文解釈入門第261回

『るいごプラス!』のサービスの項にも書いたが、услугаとобуслуживаниеの違いについて、より分かりやすく書いて見る。услуга他人や困った人への援助、便宜であり、医療や福祉を含み、медицинские и социальные услуги(医療及び社会的サービス)などと言う。обслуживаниеは日常的な便宜、機内、ホテルなどの接客、メンテナンスなどを指す。

Я остался доволен обслуживанием.(サービスには満足しております)

出題)「彼は猿のように木登りをする」をロシア語にせよ。

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