2011年11月01日

●和文解釈入門 第165回

歴史的現在を初学者に教えることに難色を示す方もいるかもしれないが、生徒に対して知的好奇心を如何に呼び起こすというのも大事であり、歴史的現在が日常会話で多用されることや日本語にも似た用法があることを伝えれば、ただ語彙の暗記の授業よりは面白いのではないかと考える次第である。ピョートル1世は少年の頃兵隊ごっこに夢中になり、потешные роты(兵隊ごっこ中隊とでも訳すのか)を創設し、各中隊300名ほどの少年兵士を擁していた。大砲の発射練習をしたときに、着弾距離が分からないために火薬の量などをどうすればよいか分からない。偶然当時の外交官ドルゴルーキーが居合わせ、外国にはастролябияという測角儀の一種があり、それによって距離も測れるという事を知った。ピョートルは早速注文したが、ドルゴルーキーが手に入れて帰国したのは2年後だった。すぐに使ってみようと思うが使い方を知る者がいない。それで当時ドイツ人居住区に住んでいたオランダ人フランツ・チンメルマンというのが知っているというので習う事にした。ところが当時16歳のピョートルは算数(数学というよりは)の基礎(加減乗除)を知らなかった。それでそこから算数を学びこの測角儀も使いこなせるようになったという。ピョートルは天才で直情径行型であるとはいえ、分からないことは分からないとして尋ねる素直さがあった。こういう風に何でも自分の興味が何かはっきり分かっていればロシア語も上達するのは早いがそういう人はほとんどいない。それでもロシア語を学ぶ人にロシア語に興味を持たせるようなそういう秘密のボタンというものがあるような気がする。その一つの可能性として、人があまり知らないような歴史的過去で興味を持たせるようにしてはどうかと考える次第である。
設問)「さっきの人だれ?」をロシア語にせよ。

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2011年11月02日

●和文解釈入門 第166回

第21回の完了体のсобратьсяのところにミスを発見したので下記のように訂正し、追加する。完了体のсобратьсяは不完了体のсобиратьсяと違い、完了体ゆえにニュアンスが出てきて、「前は~するつもりはなかったが、今は~するつもりである」という意味と、「長い事~するつもりだったが、ついにした」という意味がある。前者の例は、Реветь, что ли, собралась!(わんわん泣く気になったのかい)というのは「それまで泣くつもりがなかったのに、急に(話を聞いて)泣く気になる」というニュアンスである。А я как раз собрался (собирался) вам звонить!(ちょうどお電話差し上げようと思っていました)は両方の体が使えるが、それでもニュアンスの差はある。後者の意味の例文は、Извиинте, что только сейчас собрался вам позвонить, был очень занят.(申し訳ありません。ようやく今お電話できました。忙しかったので)」である。もちろん、Она сделала, как собиралась.(しようと思っていたことを彼女はした)としてもよい。ところが否定の»не собрался (не собралась, не собралось, не собрались)»では「~しようとしていたが、しなかった」という意味である。Он так и не собрался купить новый телевизор.(彼は新しいテレビを買おうとしていたが、結局買わなかった)であり、完了体未来形を否定するとНикак не соберусь пришить пуговицу – уже неделю собираюсь.(もう1週間ボタンを縫い付けようとしているんだけど、だめだ〔できない〕)と不可能の意味が出る。また、厳密に言えばнамереваться に対応する完了体ではないが、意味が近い完了体であるвознамериться + 不定形は = начать иметь намерение「~する気になり始める」という意味で、これもニュアンスが入る。
 スタンプにはштамп、штепель、печатьがあるが、штампは会社名や組織名だけのスタンプで、штемпельは図柄や文字の入った記念スタンプであり、штепель с переводной календарной датойは日付スタンプの事である。печатьは記号だけのいわゆる印で、道具だけではなく押した印影оттискも指す。またгаситься штемпелемといえば消印が押されるという意味だし、гашёная марка 消印のある切手ということになる。
設問)「気分転換に散歩しましょうか?」をロシア語にせよ。

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2011年11月03日

●和文解釈入門 第167回

ロシア人で一番日本語の上手な人たちというのは、私が思うにはガイド試験に合格した人たちである。すでに3~4人の方が合格していると聞く。このような人たちは本を読まない日本人よりよほど書くのも話すのも日本語がしっかりしているし、知る限り英語も堪能なようだ。そういう人でもこのコーナーの設問の露訳が全問正解できるとは限らない。設問は概ね平易なよく使われる日本語であって、直訳的日本語ではない。ロシア語でも日本語で簡単な言い回しほど訳すのが難しいし、いわゆる日本語の難しさとして挙げられる「は」と「が」、「ある」と「いる」、敬語や漢字の使い分けや読みのほかに、日本語にも現在完了や歴史的現在があり、、さらにと普通(辞書)形の現在形は予定の意味でも使う。例えば、普通形の「読む」の「彼は明日本を読む」は予定と解すのが普通だろう。
 ロープはканатで、тросは船舶用語で一般的にはワイヤロープを指す。アルバムはальбомで、写真やレコードのアルバムもこれでよいが、ロシア語には画帳という意味がある。日本語のアルバムにはこの意味はない。「同じ」というのはодинаковыйだが、「皆の願いは同じだった」とか「皆の願いが一つになった」というのはЖелание у всех сделалось общим.となる。
 Как дела?(どうですか御商売の方は?)と聞かれて、Не жалуюсь.という返事を聞くと、ニュアンスとして、「不平をいうほどではない」という感じで、文句を言うほど悪いわけではないと思いがちだが、これはВсё в порядке.という意味で、日本語の「文句なし」に近い表現である。さらにЯ не могу жаловаться.ともいえる。これを「文句を言う筋合いはありません」と訳してもよいが、意味は、Нет оснований жаловаться.(不平を言うなんてばちがあたる)ということで、文字通りГрешно было бы жаловаться.という表現もある。「まあまあです」はНормально.でよいが、悪い場合は、Дела как сажа бела.(最悪)と答える。
設問)「彼は息子をモスクワに留学させた」をロシア語にせよ。

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2011年11月04日

●和文解釈入門 第168回

設問への解答は一つでもそれ以上でも構わない。それに応じてコメントをつけるようにしている。ただ基本的に体の用法についての出題が多いので、体と言えば基本的に不完了体か完了体かどちらかが正解となる(一応そのように設問の構成を考えている)。両方の体が使える場合は回答で使う文脈をできるだけ説明するようにしている。両方の体を二つ以上の文に分けて回答すれば、この投稿者はこの設問の体の用法に自信がないと判断せざるをえないわけで、そうなると体の用法の正解率は何も考えなくても50%だから、その設問につき体の用法を理解していますねとは書けないわけである。自信があるならあるほうだけを、あるいは自信はこちらの体が70%ぐらいと書いてくれてもよい。むろん書かなくてもよいが、和文露訳の際、迷うとはいえ瞬間的にどちらかに決める練習を積まなければいけない。実戦では通訳でも翻訳でも二つ同時には使えないのだからである。
どういうふうに読むべきロシア語の本を選んでいるかというと、まあ好きな本を気が向くままにということになる。ユーモア作家Севела, Веллер, Жванецкийが好きだし。他にМолодая гвардия社の「~の日常生活Повседневная жизнь」というシリーズはロシア関係だけで40冊ぐらい出ているが、これを読むことにしている。これはロシアだけでなく、欧米や日本のある分野の日常生活ということで、「ロシア大統領の日常生活」とか「ロシア宇宙飛行士の日常生活」などで語彙を増やすにはもってこいである。それと19世紀末から20世紀初頭までのモスクワの庶民生活やロシアの犯罪が個人的に大好きなテーマなので、これに関するものは読むようにしている。
この他は天の声を聞くようにしている。天の声というと神がかっているのではと警戒されそうだが、最近の例を引くと、邦訳で「ロシアとジャポニズム」という本を読んでいたら、ベールィの「ペテルブルグ」がジャポニズムを扱っていると書いてあった。その直後に読んだロシア文学史の本には、ロシアソ連文学の代表作は19世紀半ばのトルストイ、ドストエーフスキー、ちょっと遅れてチェーホフぐらい、ベールィの「ペテルブルグ」もよい本だが、やや劣ると書いてあった。ベールィについては象徴派の詩人・作家であり、その自伝3部作は読んだが、象徴派ということで分かりにくいのだと勝手に思い込んでいて、本は「銀の鳩」、「モスクワ」、「ペテルブルグ」と持っているが、読んだことはなかった。それでこれは天の声であろうと思い「ペテルブルグ」を読んだ。しかし、会話の部分を除けば、彼の自伝の方が面白かったように思う。個人の好みだろう。
シーモノフの人間的側面についても、スターリンに可愛がられたが、スターリンの死後、改心してブルガーコフの「巨匠とマルガリータ」、マンデリシュタム他の出版に助力したというのを「囁きと密告」で読んで、代表作の「死者と生者」を読むことにした。この本は当たりで、文学的価値は「ペテルブルグ」より落ちるのかもしれないが、個人的には読みやすく、面白かったし、特に会話の部分が和文露訳に大いに役立っているのを評価する。本はソ連崩壊前後に古本屋で1冊100円くらいで売っていたから、その時買った本が今私の宝である。文学作品もいつか読むこともあろうと思い買っておいたのが1400冊ぐらい、辞書は440種(冊数はもっと多い)ぐらいある。700冊は読んだが、後700冊はある。というわけで「ペテルブルグ」もシーモノフの本も20年くらい読まずに放っておいたことになる。買っても相性が悪い本というのはあるもので、В. Максимов, Платонов, Федин, Пелевинなどのは本は持っているが、まだ読んでいない。強制されて読んでいるわけではないので10ページ読んで面白くなければ読まないことにしているということもある。いずれは読むことになるのだろうけども、文学の専門家になるつもりもないし、ただ楽しみで読んでいるので、読んで文字通り面白いもの、ロシアやソ連の日常的庶民生活の知識が増えるもの、会話で使える言い回しが多いものが優先となるのはやむを得ないと自分では思っている。
設問)「彼女は元気な時の彼を知っていた」をロシア語にせよ。

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2011年11月05日

●和文解釈入門 第169回

設問は短文ということもあって文脈自体がないと同然のため、体の用法がつかみにくい。だから逆に投稿者の側としては、今回は完了体を使っているが、それはこういう文脈を想定して使っているのだという意思表示ができれば、投稿する際にそれを書くか書かないかは別にして、それだけ体の用法に対する理解も確かなものになるはずだ。そういう意識がなくて設問の日本語の感覚だけでなんとなく完了体にしたり、不完了体にしたりして和文露訳をしても、実戦はゲームではないのだから、この文脈ではこの体をという確信が持てなければいつまでたっても外国人の話すロシア語のままということになる。
大学を出てから小さな商社に入って2、3年経って、ソ連向けに作業船を建造していたある造船所で通訳見習いをしていた頃、造船技師から「ブームのヒショウって何だ」と聞かれた。ヒヒョウとは飛翔という事だと分かったが、浚渫船に飛翔という組み合わせがよく分からない。技術条件の和訳がおかしいらしい。それで原文に当たって見ることにした。そのロシア語はвылет стрелыである。стрелаはブームboomでクレーンなどの腕に当たる部分である。露英船舶辞典を引くと、вылетは旋回半径のことで、訳した人は技術関連の辞書も引かないような素人のようだった。造船所の外国船建造の部署は書類は英語だけで作るわけで、当時現場では通訳の合間に技術書類の英文露訳をこなさねばならず、露英や英露の船舶用語辞典、技術辞典が会社にもあったし、自費でも購入していた。和露の技術辞典というのもあったが、量が少なく訳も正確さを欠いていて使いものにならなかった。当時ロシア人の技術者でドイツ語を知っている人は結構いたが、英語となるとあまりいなかったし、それもあってか契約の段階で英露の書類提出となっていた。技術関係は英語を知らないと訳せないのである。しかも現場の叩き揚げの職人は英語が出来ない。それで日本語、英語、ロシア語の船舶用語(船殻〔船体のこと〕、機関、電気、コンピューター用語)を覚えざるを得なかった。ギャレー(英語のgalleyから来ている)というのは船内の厨房だがロシア語ではкамбузと言って、кухняではない。この船舶用語には悩まされた。英露や露英の船舶用語辞典で調べ、さらに日本の船舶用語辞典(これは和英・英和でも引けるように成っている)と2回重い辞書を引かなければならなかった。そのため結局自分で語彙集を3カ国語で作り、それが今の自分の和露の語彙集のもとになっている。この20年くらい船舶関係の通訳をしたことがないので、無駄な事をしたようにも思うが、船舶もプラントなので、船体(船殻)用語以外の機関や電気、コンピューター用語は他にも使えるので勉強してよかったと思っている。何が役に立つか分からないし、現場で若いころ技師や職人に現場の用語を親切に教えてもらったようには、今の若い人にそういう機会が与えられないという事を考えれば幸運だったというしかない。
設問)「父は息子を後継にと考えていた」をロシア語にせよ。

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2011年11月06日

●和文解釈入門 第170回

ロシア語の意味が感覚的に分かるようになるというのを目指すのだという方もいるかもしれない。素人はそれでいいかもしれないが、プロの通訳や翻訳者はロシア語から正しい日本語へ、日本語から正しいロシア語に訳してお金をもらっているわけで、両方の国の言葉がかなり高いレベルで理解できるようにしなければならないのは当然である。そのためには必ずしもそのときには完璧に訳せなくても、的確な訳語とそのニュアンスを習得するよう常に努力する義務はあるはずだ。そのためにも体の用法をマスターする必要があるといえる。
露文和訳はロシア語のできる(?!)日本人がやり、和文露訳は日本語のできる(?!)ロシア人にやらせれば安心と考えている翻訳会社も多いと思うが、露文和訳であれ、和文露訳であれ、両方の言語に高いレベルで精通していないと翻訳や通訳はできないはずだという当たり前のことが通らないのはおかしいと思う。
できるだけ自分のロシア語をバイリンガルのレベルに高めるために、これまでしてきたことは、
1. アネクドートには政治小話ばかりではなく、いろいろなジャンルがあり、各ジャンルのアネクドートの由来について調べてまとめあげたこと、考えオチやダジャレなどもロシアでは人気のあること、ロシア語のダジャレも漢字を使えば和訳できるものもあるし、あるいはまったく別の小話に化けることもあることを「アネクドートに学ぶ実践ロシア語文法」で示すことができた。
2. アネクドートが露文解釈や文法の解説に使えることを「黒帯研究会」、「新帯研」の添削指導によってその効果を実証しようと努めた。
3. ロシアの大衆文化を理解するのは、アネクドートから入るのが近道であることを「ロシア小話アネクドート」、「ロシアのジョーク集」で示そうとした。
4. ロシア語で一番難しいと思われる体の用法の理解に基づき、不完了体ライン説を軸にして、時制(過去、現在、未来)、命令法、不定法の用法をさらに細かく分けることで、ある程度、会話における和文露訳の用法をまとめ、実際に添削指導を通じて、会話における和文露訳の習得に短文が有効かつ効果があることを実証しようとしている。
成果は如何?
設問)「これは数ページ前に触れてある」をロシア語にせよ。

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2011年11月07日

●和文解釈入門 第171回

распознать её миссию(彼女の使命を理解する)という語句を見て、распознатьを「見てとる」ぐらいの意味だなと思えば(確認のために露和や露露を引く人もいるだろうが)、露文解釈ならこれで終わりである。ところが和文解釈に活かそうと思うと、露露を引いてопределить, узнать по каким-либо признакамというところまで読み、何らかの特徴を見て知るのだな、つまり類義語の使い分けを確実にする必要がある。この動詞を会話で使うためには、узнатьなどとの違いというのを、常に頭の中では気にかける必要が出てくるわけである。これはロシア語だけではなく、日本語にも及ぶ。なにせ和文解釈だからだ。日本人だから日本語はすべて類義語のニュアンスにいたるまで人に講釈できるほどできると考えるのはおかしいわけで、それができる人というのは国語辞典の編纂者を除き、そういるものではない。だから広辞苑(電子辞書だが)は手放せないし、英和辞典、露露、露和とともに日常的に非常によく使う。
設問)「タバコの吸い殻のポイ捨て禁止」をロシア語にせよ。

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2011年11月08日

●和文解釈入門 第172回

「ロシア語が話せる」というのは目標を低く設定すればするほど可能である。挨拶やホテルにトラブルなくチェックインできる(予約してあれば、名前を言えば会話の必要は特にないはずだが)というのも、それはそれでロシア語がペラペラだという解釈もできる。これは思いつきで書いているのではない。あるロシア人が彼の友人で日本語がぺらぺらな人の事を話してくれたが、彼が思うペラペラというのは、日本のホテルにチェックインできるレベルだったのだ。そこまでいかなくても、自分の趣味や自分の言いたい事を話せるというのがぺらぺらだというのなら、1年か2年まじめにロシア語を学べば達成できるレベルである。ところが見知らぬ人の言うことを正確に通訳できるというのは、ロシア語をプロで20年やっても、30年やっても、あるいは40年やってもできるという保証はない。どんな趣味の人か、どんな話題をするのかまったく分からないからだ。いきなり日本語で仲間内のジョークでもされた日にはどうしようもないという気にもなる。だから取りあえずどの辺に「ロシア語が話せる」という目標を置くかによって勉強の仕方も変わる。この辺をよく考え、目標が具体的であればあるほどその実現の可能性は高くなり、それによって自ずから勉強の方法も決まってくるというものである。
体の用法の参考書を読んでなるほどと思い、分かったような気になるが、いざ会話でロシア語を話そうとするときにどちらの体を使ったものか迷うという事が多々ある。そういう場合、体の用法をマスターしたかどうか調べるのは簡単である。試しにどんな露文でもいいから一節(文脈が分かるぐらい)読んでみて、その中にある動詞がどの体の用法を使っているのかその動詞の体の用法が分かることと、日本語の新聞や小説(会話の多いものがよい)の一節を仮にロシア語に訳すとして、動詞の具体的なイメージがわかなくても、どの体を使えばいいか分かったのなら、体の用法を理解したことになる。また体の用法を自分なりに理解したと思うのと、それを他人に伝えるというのは別物である。真に理解するという事は、他人にも説明して理解してもらうだけの確信がなければ、本当に理解したことにはならないと思う。自分がこのコーナーを続けているのも、自分が本当に体の用法を理解したのかの実証実験でもある。人が分かってくれなければ、本当に体の用法を理解したとはいえないからだ。そのためロシア語の例文を多用することにしている。
設問)「遅れますからと電話してください」をロシア語にせよ。

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2011年11月09日

●和文解釈入門 第173回

過去を示すのであればどんな文脈でも歴史的現在が使えるのかというと、完了体過去形の結果の残存は現在と直接つながる故、使えないことが分かる。同じ完了体過去形のアオリストならどうだろう。一見すべて使えそうだが、歴史的現在というのは、「過去の出来事を眼前にあたかも現在そうであるかのようにありありと再現する」という用法のため、Падучева Е.А.が指摘しているように、心理的距離(第120回本文参照)のあるものは使えないとしている。歴史的現在とは、フォークロア的なものから発達したものであり、民衆的な用法、ナレーション的用法であり、私の考えではこの用法の上記のような定義と矛盾するような用法、例えば、統計的データを羅列するような文章では使えないと思う。日本語の歴史的現在(見かけが似ているからこう呼んでよいのかは分からないが)では、語調を整えるという大義名分があれば、このような用法の制限はない。
 さらに、私の考えでは、歴史的現在というのは見かけが不完了体現在形による現在時制の過程や状態と似ている。だから文脈的にどちらか分からないときは、歴史的現在ではなく、現在時制の過程や状態と理解される可能性が高いので、使えないか使いにくいはずだ。Бондаркоは歴史的現在に転換できない例としてНаконец он опомнился.(ついに彼の意識が戻った)を挙げている。これを歴史的現在の意味で不完了体現在形の*Наконец он опоминается.にはできないという。Бондарко曰く、どうしても歴史的現在を使いたいというのなら、Наконец он приходит в себя.というように別の動詞句を使う必要があるという。私が思うには、опоминатьсяはОн постепенно опоминается.(彼は徐々に意識を取り戻している)のように過程でも使うので、Наконец он опоминается.は「ついにかれは意識を取り戻しつつある」という意味に取られる可能性があるが、приходитьはпри-という接頭辞のついた運動の動詞であり、そのため過程では使われないのが明らかだからであろう。
ただ原求作先生の「ロシア語の体の用法」137ページに、приходитьは過程では用いられないが、приходить в себяなど抽象的な意味で使われている時には、начинать приходить в себяなどで過程を表しうると書いてある。これは語義の体の用法に対する影響の問題であって、体そのものとは関係ないとも書いてあるからこの場合とは違うと考えられる。ただ似たような文例で、Я начинаю думать ...は以降の過程(~と考え始めつつある)というよりは、「もうそういう考えになった」というニュアンスであるから、これを過程と考えるのはどうかなという気もする。例えば、「シンプルなものはごまかせない」という、このコーナーの標語にもピッタリとしそうな化粧品のCMがある。「シンプルなものはごまかせないと考え始める」と一見言えそうだが、考えるときに、「シンプルな」、「ものは」、「ごまかせない」と、歩いていて景色が変わるようには我々の頭でとらえているわけではない。ロシア語のначинаю думать, что ...というのは「シンプルなものはごまかせない」で一つの考えであって、細切れの「シンプルな」とか「ものは」とか「ごまかせない」では考えとしての意味を成さない。考えというものは、あるいはある考えを考えるという事は、考えをひとまとまりで考えるということであり、せいぜいのところ、その考えに対して確信を持ち始めるということだと思う。イメージと思考は別物なのだ。
設問)「グズグズ手間取るのだけはやめてくださいね。さもないと私たち汽車に乗り遅れますよ」をロシア語にせよ。

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2011年11月10日

●和文解釈入門 第174回

メル友のヒサムヂーノフさんが私の原稿「ロシア人の疑問」のロシア語の部分をチェックしてくれたことは前に書いた。お返しに私の方も「長崎の稲佐のお松(レストラン〔ボルガ〕の経営者)について(これは偶然手元に資料があったので答えられた)」とか、「長崎弁と標準語はどのくらい違うのか(これは長崎弁をよく知らないので答えられない)」、「オペラ蝶々夫人について普通の日本人はどう考えているのか(オペラは普通の日本人は見ないぐらいの返事)」とか、かなり専門的な質問の返事を書いたりしている。その他にも、私の原稿の中に「リンゴの蜜」について書いたものがある。彼曰く説明はわかるのだが、リンゴの蜜自体見たことはないと書いてきた。リンゴのフジは中国産のがウラジオなどにも入ってきているが、蜜の入ったものは全体が甘い(蜜のところは甘くない)とはいえ、腐りやすいから果物屋が嫌うのかもしれないから出回らないのかもしれないなと考えた次第。一応リンゴの蜜の正体を科学的に説明すればソルビトールсорбитだが、まあこう説明もしてもね。それとも、彼は男で、しかも学者だから知らないのかしらんとも考える次第。リンゴの蜜なんて文化とはいえないかもしれないが、リンゴを買うときには一応考慮に入れる。これだって日本の庶民の常識であるといえないこともない。仮に日本研究家であるロシア人が知らないのなら、こういうような文化のニッチを埋める作業も必要ではなかろうか?
ソ連時代の辞典の大きな問題は、イデオロギーに毒されている、庶民文化の軽視、ユートピア的発想(犯罪など現実の無視)などが挙げられるが、ソ連の露露辞典に準じて作られていた当時の日本の露和辞典作成にもそれが少なからず反映されている。例文も19世紀ロシア文学に偏重しており、露文解釈をする上では問題ないのかもしれないが、和文解釈をする上では、口語、俗語表現が十分に採られていないため、利用するに際して、廃語と常用語の区別をどうするかなど大きな問題だと思う。今後露和辞典を作ることがあれば(需要がないから国からの援助がない限り無理だろうが)、口語を中心とした語彙の採取、類語の使い分けについての細かい注釈などを入れてもらいたいものだ。
ところがこの頃のロシアで出るロシア語の辞典はイデオロギーの行き過ぎに配慮して、強い愛国心は感じられるものの(当然と言えば当然だが)、冷静にロシアやソ連の過去について叙述されているものが増えている。黒田龍之介先生の勧める「Россия. Большой лингвостраглведческий словарь」, Прохоров, АСТ-ПРЕСС, 2009を今1日10ページずつ読んでいるが、ロシア式のサウナや身近なパン、ポピュラーだった映画などや、そこに由来する故事成句の解説なども含めて分かりやすく説明しており、ロシア語学習者には必読だと思う。ただロシア人からの視点なので、われわれ日本人が知りたい、靴のサイズなどの換算表の類はないらしいのがやや不満と言えば不満である。もっとも読み始めたばかりだから悪口は早すぎるのかもしれない。しかし、ロシア語中級レベルの人で何かロシア語で読むものがないか探している人には、本書を大いに勧める。ただ価格が1万円ぐらいと高いが、図版も多くページも600ページを超えるからそんな悪い買い物だとは思わない。何冊かまとめてロシア語の本を買うよりははるかに幅広い内容を取り扱っていて、記述もバランスのとれている本書が座右の書になることは疑いない。この他に、かなり古くなったとはいえ、また解説が英語だが、The Russina's World, Life and language, Genevra Gerhart, Harcourt Brace Jovanovich, Inc, 1974がソ連の庶民文化を知るにはベストだ。日本人でこのような現代ロシアの庶民文化について本を書く人はいないものか?衣服や身の回りの細かいこともあるのでロシアで長く暮らし、ロシアの現実をよく知る女性の方がより適任と言えるだろう。こういう本が「ロシア・ソ連を知る辞典」で足りないロシアの庶民文化について知る機会を増やしてくれるものと信じている。
設問)「スープを室温までさまして下さい」
「牛乳を体温までさまして、赤ちゃんにあげてください」という二つの文をロシア語にせよ。どっちか一つにしようかと思ったが、室温とか体温とかというのを出題するのも面白いかもしれない。

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2011年11月11日

●和文解釈入門 第175回

最近大きな勘違いをしていたことに気がついた。Роман «Братия Карамазовы» был написан в 1878 - 1880 гг. и печатался в журнале "Русский вестник" в 1879 - 1880 гг.(長編「カラマーゾフの兄弟」は1878~80年に書かれ、「ロシア報知」に1879~80年の間載った)という文で、был написанとなっている。これを能動文に直せば、(Достоевский) написал роман «Братия Карамазовы».となる。この能動文を完了体過去の結果の現存と思っていたのである。ところが受け身の文でбыл написанとなっているからには、これはアオリスト(アオリストには過去の動作について総括的に、また完結した出来事として述べるという意味であるが、「過去における繰り返しのきかない唯一の行為」という意味でここでは使っている)である。ラスードヴァ先生の「ロシア語動詞 体の用法」には「創作者としての資格духовное авторство」という用法として、過去における事件の発生(とその報告)という用法(私がいうところのアオリスト)の中の一つの用法として挙げている。しかし、Доктор Живагоの解説でНаписан в 1946 – 1956 гг.(1946~57年に書かれた)という文は結果の現存であろうから、能動文にしたПастернак написал «Доктор Живаго» в 1946 – 1956 гг.も結果の現存であろう。だから「書いた」や「描いた」がすべて創作者の資格(アオリスト)の用法だとはいえないと思う。ついでにバレーの「白鳥の湖」の解説の出だしには、(Балет) Написан в 1876 г., впервые поставлен В. Рейзингером в феврале 1877 г. в Большом театре.(1876年に書かれ、レイジンゲルによって1877年2月に初めてボリショイ劇場で上演された)とある。これらは結果の現存の用法もあるというのが私の考えである。それに、「作品を書いた、描いた」という文の解釈は結果の現存かアオリストかは露文解釈のときには重要かもしれないが、和文露訳ではнаписал(а, о, и)を使えばよいからこれまではあまり深く考えて来なかった。結論として、結果の現存という用法もないことはないが、やはりここはアオリストと考えるのが自然のような気がする。それゆえ第15回の回答のヨシダさんにはお詫びして訂正する。
部分否定(必ずしも~ではない)というと не всегда, не обязательно, не очень, не слишком, не совсемが思い出される。Надя его не очень любила.(ナーヂャは彼の事をそれほど好きではなかった)という例のほかに、部分否定の例としてОстальные чувства не обязательно проявляют внешне.(その他の感情は必ずしも外に現れない)を挙げておく。
「負ける」は、「競争(ゲーム)に負ける」はпроиграть соревнованиеとかпроиграть в конкуренцииを使う。「劣る」という意味ではОн проиграл Сталину по многим параметрам.(彼は多くの点でスターリンに劣った)とかЯпония значительно уступает по объёму инвестиций США.(日本は投資量において米国に著しく劣る)と言い、уступитьも使える。「(感情に)負けるな、屈するな」と言いたければ、Не поддавайте страху.(恐怖に負けないでください)、Не поддавайтесь на этот шантаж.(この脅しに負けるな)、Не поддавайтесь печали.(悲しみに負けないでください)というようにподдатьсяが使える。
設問)「彼は今によくなる」をロシア語にせよ。(病院でのお見舞いのときなど家族への慰めの言葉として)

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2011年11月12日

●和文解釈入門 第176回

米国の言語学者サピア(1884~1939)の「言語」(安藤貞雄訳、岩波文庫、1998年)を読んだ。原書は1921年に出版されたものである。ヨーロッパ系の言語(ロシア語も含む)のみならず中国語やアメリカのインディアン諸語を縦横に引用して言語とは何かについて書かれており、特に第二部の「こども」が非常に参考になる。その中に「体(アスペクト)」についての記述があるのでここに紹介する。「体(アスペクト)というのはスラブ語の文法から借りた術語で、連続性の観点から、行為の経過、その性質を示す」とあり、英語のcry(アスペクト的には不定としている)の例に挙げて、次のように体の用法の種類を挙げている。be crying(継続的), cry out(瞬時的), burst into tears(始動的), keep crying(持続的), start in crying(持続的・始動的), cry now and then(反復的), cry out every now and then (cry in fits and starts)(瞬時的・反復的)、〔ここで足りなくなったと感じたのか、別の動詞で補充している〕、to put an coat(瞬時的), to wear coat(結果的)として、「以上の例が示すように、アスペクト(体)は、英語では整合的に練り上げられた文法形式の集合によるよりも、むしろ、あらゆる種類の慣用的言い回しで表現される。多くの言語では、アスペクト(体)は、時制よりもはるかに重要的な形式的意義を持っているが、初学者はこれを時制と混同しがちである」と結んでいる。「泣く」という動詞はплакать/наплакать/заплакать/проплакатьぐらいは浮かぶが、この動詞はロシア語では体の用法の実例を示すものとしてはあまり良くないような気がする。
設問)「母はこの2年の間に10歳も老けた」をロシア語にせよ。

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2011年11月13日

●和文解釈入門 第177回

このコーナーのナビゲーション用の表は第233回本文を参照願います。

設問)「御乗客の皆様は搭乗口の方へお進みください」をロシア語にせよ。

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2011年11月14日

●和文解釈入門 第178回

40年ロシア語をやっていると、露和辞典にもいい和訳がない(乃至は載っていない)語句と言うのがあるように思える。いくつか例を挙げると、в свою очередь, раньше времени, в очередной разなどである。в свою очередьは大学のときに故高崎経済大学学長の岡本正巳先生から「(それ)は(それ)で」と教わった。これは英語のin turnと同じ発想であり、тоже, в ответと言う意味である。Он наблюдал за ребятами и видел, что они в свою очередь наблюдают за ним.(彼は連中を観察し、連中は連中で彼を観察していることに気づいた)。その他は自分で和訳がひらめいたものである。раньше времениは、「あせって、早まって」などと訳せる。Не надо её волновать раньше времени.(早まって彼女を不安がらせる必要はない)。в очередной разは「また、次に」と訳せる。Троицкий собор недавно в очередной раз отреставрирован.(トロイツキー大寺院はまた修復された)とかВ очередной раз нырнув в щель рядом с полковномком-артиллеристом, Синцов улыбнулся, несмотря на серьёзность положения.(次に砲兵大佐と並んで隙間に潜り込んだときに、事態の深刻さにもかかわらずシンツォーフはほほ笑んだ)
ロシア語の中級以上の参考書の内容を100%覚えるというのは不可能に近い。私がやっているのは参考になった項目や分かりにくい内容をページ数とともに、後ろや前の見開きに書きこむことである。こういう自分なりの索引を作っておけば、忘れたときなどすぐ肝心の個所が分かり、内容も取り出せ、記憶に残りやすくなる。覚えるところはすぐ覚えるが、相性の悪いものもあるもので、そういうのはいつになってもこの索引のお世話になることになる。しかし、参考書の数が多くなると、どこにその肝心の索引を書きこんだかがわからなくなる。それで、何度も書いたが、エクセルで和露の語彙集の中に例文として放り込めるものは放り込んでおくのである。そこに自分なりの目印(相対時制など)を書いておけば後で検索がきく。
設問)「この近くに住んでいるんです」をロシア語にせよ。

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2011年11月15日

●和文解釈入門 第179回

被動形短語尾についてはアカデミー文法でもそんなに詳しくは書いていない。せいぜい動作主体の造格がなければ、動作というよりは状態の意味が強いというぐらいである。例を挙げると、В 1985 г. композитором П.К. Щедриным написан по рассказу балет.(1985年作曲家シシェドリーンによってその短編ついてのバレーが書かれた)とКлуб постороен.(そのクラブは建てられている)。第175回で被動形短語尾にはアオリストと結果の現存があるという事を書き、その区別はアオリストにはбытьの過去形がついていて、結果の現存にはつかないとも書いた、ところが、そうなると、ある百科事典で見たДоктор Живагоの解説の (Роман) Написан в 1946 – 1956 гг.(1946~57年に書かれた)という文は結果の現存であろうから、能動文にしたПастернак написал «Доктор Живаго» в 1946 – 1956 гг.も結果の現存であろう。だから「書いた」や「描いた」がすべて創作者の資格(アオリスト)の用法だとはいえないと思う。ついでにバレーの「白鳥の湖」の解説の出だしには、(Балет) Написан в 1876 г., впервые поставлен В. Рейзингером в феврале 1877 г. в Большом театре.(1876年に書かれ、レイジンゲルによって1877年2月に初めてボリショイ劇場で上演された)とある。しかし、これだけあからさまに過去の目印である1946年~56年とか1876年という語句が来ているのに、結果の現存というのはおかしいとも感じる。これらはアオリストの用法のはずだ。この他にも(Поэма) В СССР издана в 1987 г(〔物語詩〕は1987年に出版された)という文もある。ただ上記の3つの文は作品が今に残っているから結果の現存と考えてよい。
問題なのは、ヴォルクターВоркута市に関する記述で、Строительство шахт началось только в 1931 г. В 1934 г. выдан на-гора (то есть на поверхность земли) первый промышленный уголь.(立て坑の建設は1931年にようやく始まった。1934年に最初の産業用石炭が出炭された)では、明らかに順次的用法、つまりなアオリスト的なものであり、まさかその最初の石炭がまだ現在残っているという事ではないだろう。これは最初の出炭という記憶が今に至るまで残っている(結果の現存)というふうに理解するしかない。私が考える被動形過去の典型的なアオリストは、ガガーリンに関する記述で、В 1960 г. был зачислен в отряд космонавтов.(1960年宇宙飛行士の部隊に編入された)である。
 бытьの過去形 + 被動形過去はアオリストないしは、現在に至らない過去のある時点までの継続や状態を示すと考えてもよい。この用法では起点のみを示すことができる。例えば、Одна концелярия была создана в июле 1713 года.(ある官房は1713年7月に設立されている)
設問)「この辺はとても物騒です」をロシア語にせよ。

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2011年11月16日

●和文解釈入門 第180回

英語とロシア語は同じインドヨーロッパ語族だから似ているとはいえ、体の用法というのはスラブ語独自のものであるとイェスペルセンも具体的な例を挙げて説明していることは第176回に紹介しておいた。英語では体の用法を慣用句でカバーしているわけである。むろん慣用句を多数覚えるというのも大変だが、しかし、それはある意味で機械的作業と言える。体の用法の理解というのはその本質を理解することであり、機械的に単語を覚えるのとはわけが違い、難しい。ロシア語の学者でも体の用法の重要さを指摘している人は少ないように思われる。指摘している人でも、それはあくまで露文解釈の観点からであって、通訳やガイドの経験がほとんどないからか、和文露訳のそれではない。イェスペルセンは教養のない農民でも25,000ぐらいの母国語の語彙はもっていると述べている。一概にデンマーク語や英語と比較できないけれども、同じ論法でいけば、ロシア語だって辞書1冊とは言わないまでも、その1/4ぐらいの語彙を覚えないとロシア語を最低限理解したとはいえないことになる。英語は初歩の文法と語彙をある程度覚えたら、その後、慣用句を大量に覚えればそれでマスターという事になるのかもしれないが、ロシア語ではそうはいかない。露文解釈はまだそこに、普通は正しいロシア語が書かれているから体の用法を特に気にしなくても訳せるかもしれないが、和文露訳では体の本質を理解しないと、1万か2万の語彙を覚えても、結局はロシア語がよく分からない、朦朧とした状態が続くことになる。しかもその語彙がたんに覚えるだけでなく、使えるようになるまでには何年かかることか。それゆえロシア語をマスターするためには、初級の段階で体の用法の本質を理解する重要性が理解されるはずだ。体の用法さえマスターすれば、後は類語と語彙を機械的に増やして行くだけでよい。
ロシア語の住民名で、モスクワや東京などは露和辞典にも載っているからいいが、他の都市ではどういうのか想像はつくもののはっきりとは分からない。それで何年か前から自分でエクセルに読んだ小説の中に都市の住民名が出て来るものは別にリストアップすることにした。しかし、私のコレクションは外国の都市名も入れているとはいえ、179と大した数ではない。最近黒田龍之助先生の「ロシア語の余白」(現代書館、2010年)を読んだら、Русский названия жителей, словарь-справочник, И.Л. Городецкая/Е.А. Левашов, Астрель/АСТ, 2003という辞書のあることが紹介されていた。早速ナウカに注文し、購入した。これはロシアの都市の住民名を用例と共に約14,000収録している。これまでロシア語関係の辞書は320種集めたが、これは知らなかった。いろいろな辞書があるものである。黒田先生は言語学者でもあり、ロシア語についてはオーソドックスなアプローチで、初心者にロシア語をどう教えるかということのエキスパートだが、私は、一度(あるいは一度ならず)ロシア語を諦めた人たちにロシア語会話で実際にロシア人と会話するにはどうしたらよいかを文法を軸に趣味としての再学習を勧めるという立場である。一度ロシア語を諦めた人は都市鉱山のようなもので、その埋蔵量というか可能性は非常に大きいと思う。私のコーナーはこういう人たちに、ロシア語を趣味や生きがいにしてもらおうという試みの一つである。
設問)「前を失礼します」をロシア語にせよ。

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2011年11月17日

●和文解釈入門 第181回

イェスペルセンの「文法の原理」(安藤貞雄訳、岩波文庫、2006年、3巻)は名著で、例文は英語が多いが、ロシア語のも少しはある。ただその中には若干納得のいかない説明もある。例えば、Дом нов.とДом новый.の違いで前者は「家が新しい」であり、後者は「新しい家」と説明している。こういう訳も間違いとは言えないが普通ではない。前者は形容詞の短語尾だから、一時的な質を表すのが普通であり、家のようなものに、つまり新築だと言えるのは一日二日ということはありえず、2~3年は新築と言えるかもしれないものに短語尾を使うのはどうかなという気がするし、私なら使わない。後者こそ「家は新しい」と解釈するのが普通で、詩か何かで語順を変えるのならともかく、新しい家ならНовый дом.となるのが普通だろう。
またThere is a boy.という構文を説明して、ロシア語ではБыл мальчик.と主語と繋辞 (be動詞など)は倒置(語順を反対にする)にすることにより「~がある」という存在の意味になると説明している。確かにБыл мальчик.が語順的にはノーマルだが、Мальчик был.だって文法的には正しく、意味に変わりはないはずだ。「~がある」という存在の意味は過去や未来時制においてはбыть動詞によるのであるというのは初級文法である。本書は名著ではあるし、時制など非常に参考になる記述があるが、ロシア語の理解は表面的なものだけで、無理やこじつけがあるように思われる。それと訳注にロシア語ではчетыре годаだが5以上からはгодовが使われると今時初級者でも間違えないようなことを書いているのは如何なものだろう?ロシア語のできる人に見せなかったのだろうか?
設問)「自動車の生産にはロボットが使われている」をロシア語にせよ。

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2011年11月18日

●和文解釈入門 第182回

 もともとアオリスト相というのは動作が単純で列挙的、瞬間的という意味だが、私が使っているアオリストの意味は、過去の動作について総括的に、また完結した出来事として述べるということであり、「過去における繰り返しのきかない唯一の行為」で、ある動作がある過去の一つの時点で事件が発生(その報告)するという、また現在と関係のない過去の具体的動作を示していると、このコーナーでは理解してほしい。私の言う典型的なアオリストの文と言うのは、Восстание произошло в Петербурге 14 декабря 1825 г.(反乱は1825年12月14日ペテルブルグで起こった)である。
過去のある時点から現在までの継続の意味は不完了体現在形で示すことができると第11回の回答で述べた。復習すると、С 1995 г. святой Георгий снова избражается на гербе Москвы.(1995年から聖ゲオルギーは再びモスクワの紋章に描かれている)などであるが、これは繰り返し(何度も何度も)という意味にも取れるかもしれない。その他に現在から未来への継続という意味でも不完了体現在形が使え、用法的には予定の意味である。今現在2011年として、С 20 января 2012 года запрещается курение в общежитиях.(2012年1月20日から寮での喫煙は禁止する)などは動詞によっては可能である。過去のある時点からある時点までの継続はふつう不完了体の過去形で示される。Храм существовал с 15 до 19 века.(寺院は15世紀から19世紀まで存在した)。
また過去の特定のある時点から開始したということはアオリストで示すことができる。В крупных размерах выпуск медных монет начал осуществляться с 1705 г.(大規模に銅貨の発行が行われ始めたのは1705年〔から〕である)。このような用例は始めたことが現在まで継続していないか、話し手がそれに関心がないということを意味する。またбытьの過去形 + 被動形過去はアオリストないしは、現在に至らない過去のある時点までの継続や状態を示すと考えてもよい。この用法では起点のみを示すことができる。例えば、Одна канцелярия была создана в июле 1713 года.(ある官房は1713年7月に設立された)。
бытьの過去形 + 被動形短語尾で思い出したが、Роман И. Ильфа и Е. Петрова, входящий дилогию «Двенадцать стульев» и «Золотой телёнок». Романы были написаны соответственно в 1927 – 1928 и в 1930 – 1931 гг.(2部作「12脚のイス」と「黄金の子牛」に入るイーリフとペトローフの長編小説。それぞれ1927~28年および1930~31年に書かれた)という文で、どうしてнаписаныの前にбылиが入るのだろう。この作品は現存するから、なければ結果の現存になるのにそうなっていない。たんにその年代に書かれたという意味のアオリストなのだろうか?そうかもしれないが、私の考えでは最初の文でその小説ということがすでに触れてある。だから不完了体過去形のような刺身のつまのような用法、つまり動作自体に文のアクセントがなくて(作品が現存する以上、書かれたという事は理の当然だから)、書かれた年代に文のアクセントが来るから、былиを入れたのではないかと推測する。
設問)「風がとても強くて屋根の瓦も飛ばされた」をロシア語にせよ。

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2011年11月19日

●和文解釈入門 第183回

 ロシア語に入った日本語というのはあまりないが、今でもロシアでよく見る単語にивасиがある。これは商品名をсельдь-ивасиといい、マイワシのことである。評論家蔵原惟人(1902~91)は1930年非公式にソ連を訪問しているが、その「ソヴェート旅行記」の中で。イワシという名は沿海州由来(つまり日本人が漁業を通じて伝えた)だろうと述べている。ちなみに、それ以外の種類のイワシであるカタクチイワシはанчоусで、ウルメイワシはсельдь-круглобрюшкаである。ちなみに蔵原は同書で柿は日本から南カフカーズへ入ったもので「カキ」と呼ばれていたとある。それが本当だったかどうかは知らないが、柿はロシア語では今やхурмаである。
 猛暑をロシア語にするとжараとзнойが頭に浮かぶが、знойというのはイメージとして乾燥、陽炎、農村、開けた場所というのがあり、日本のように湿度が高いところのものはжараである。жарは猛暑と言う意味では廃用である。
 Лидерство сохраняет сеть «Евразиа». Доля рынка компании увеличивается.という文があったとして、このкомпанииをどう訳すかである。「〔ユーラシア〕チェーンが首位を保っている。同社のマーケットシェアは伸びている」と「同社」とするのも和訳のコツである。
層にはслойとпластがあるが、基本的にпласт = плотный слойということで地層などの堆積層に使われる。слойの方はверхние слои атмосфера(大気の上層)やвсе слои населения(住民のすべての層)という使われ方をする。толщаは厚い層のことで、толща воды水の厚い層などという。なお厚さはтолщинаだが、層の厚さにはмощностьを使うので注意の事。多層構造の多層をмногослойная структураとすると、層と層がぴったりとくっついている感じがする。だから立体駐車場をмногоуровневая парковкаとするのは、これは階層がたくさんあり、層と層との間に空間があるということで、層がぴったりくっついていない場合はこちらが使えると思う。他にмногоуровневая структура рестранного маркета(レストランマーケットの多層構造)などとマーケティング用語では使う。многоярусная структура(五重塔など)や многоплановая структураなども似た和訳で使えそうだ。
設問)「その映画の出演者はニコライ・チェルカーソフ、アンドレイ・アブリコーソフ、ニコライ・オフロープコフ他だった」をロシア語にせよ。

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2011年11月20日

●和文解釈入門 第184回

山本夏彦の「私の岩波物語」(文春文庫、1997年)に哲学叢書や翻訳文学の影響で日本語がだめになったというところがある。哲学叢書は訳語の定義を徹底すると、新たに用語を作らざるを得ないと考えたのか、定立、措定など一般的な日本語ではない言葉を使ったことが日本語を悪くしたということらしい。ドイツ語原文では分かりやすい言葉で哲学を説いているのに、日本語では難しく言うことがあたかも高邁な説を言うという誤解が行われており、これが博士論文などの日本語にも反映されているのかもしれない。定義を明確にするために哲学用語を新たに作るという安易な方法が日本語を毒したと言えないこともない。
翻訳文学については、奴隷的逐語訳という言葉を使い、大正年間はトルストイの翻訳の、昭和に入ってはドストエーフスキーの翻訳の影響があるという。つまり訳者である米川正夫、原久一郎、中村白葉は原文に忠実なあまり、また文法的に正しくありたいあまり、日本語のリズムを失ったとある。しかし、ロシア語も知らない人がどうしてこう言い切れるのか理解できない。誤訳についても「カラマーゾフ兄弟の翻訳をめぐって」(大島一矩、米陽出版社、2008年)で詳細に比較検討しているからこういう人が云うなら話は別だ。文法に関する理解が現在より進んでいなかった当時、誤訳がないとは言い切れないはずだ。ロシア語が分からないなら、単に日本語として読みにくいと書けばよい。
ただ、暮らしの手帖の編集者の花森安治の述べたという「英和辞典に出ている言葉は日本語だと思うな」というのは、大いに参考になる意見である。辞書の訳はあくまで参考であり、それに基づいて文脈による日本語らしい日本語を書くのは当然であり、それには日本語の文章修行が必要である。辞書の編纂者だって全ての文脈に即した訳語を提供できるはずもないし、語義をできるだけ分かりやすい日本語で伝えることに努めているのは当然である。文章修業というのは、語学以前というか、あるいは平行して個々人が勉強しなければならないものである。
 文章の達人とも言える丸谷才一の「文章読本」(中公文庫、1980年)にも、「美文というのは多義性、つまり曖昧ということが情緒を生む」、「たとえば、過去のことを述べる場合にもところどころ現在形を混ぜるのはすこぶる有効な手だろう。日本語にはもともと欧文ふうの厳密な時制の習慣はないのだから、これでいっこう差支えない場合が多いし、情景はむしろいっそう鮮明にさへなるかもしれない」とか、「〔だった〕、〔あった〕、〔行った〕と文章の終わりの音がみなそろう直訳風の文章の欠点」、「〔である〕づくめを止める」と述べ、体言止め、文語体、口語的口調の混用だって効果もあるかもしれないと述べているのは日本語の文章を書く上で大いに参考になる。
話がややそれたので元に戻すと、山本の言わんとすることは分かる。この3氏の翻訳を読んだことがないので、この3氏に対しての批判は避けるが、トルストイやドストエーフスキーは著作集のそれぞれ20巻ずつぐらいは原書で読んだが、結構読みやすかった記憶がある。それを活かしきっていないのなら、それは翻訳の問題だと言える。もっとも読みだしたのはロシア語を始めてから20年ぐらいしてだから、大して自慢にもならない。名作というのは難解だから読むのではなく、名作そのものが読者を惹きつけるのだと思う。Платонов, Пелевинを読むのを最初の10ページぐらいで自分が飽きるのは、文体の好みもあるのだろうが、トルストイやドストエーフスキーなどと比べると作品自体のレベルが落ちるのだろうと思っている。
設問)「何年生まれですか?」をロシア語にせよ。

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2011年11月21日

●和文解釈入門 第185回

「たった今」とか「~したばかり、~したての、~ほやほや」というのは、только что погашенные пожары(たった今消し止めた火事)、только что купленная вещь(たった今買ったばかりのもの)、только что изготовленный(作りたての、できたばかりの)、только что отпечатанный журнал(刷りたてほやほやの雑誌)などと言えるが、свеже- + 被動形(能動形)過去形からでも作れる。свежевыстиранное бельё(洗いたての洗濯物)、свежезаваренный кофе(いれたてのコーヒー)、свеженаезженные дороги(車がたくさん通りだしたばかりの道)、свежестроганные блоки(かんなで削ったばかりのブロック)、свежесрезанные(切りたての)、」свежеотрубленная голова(斬ったばかりの首)、свежемороженый тунец(急速冷凍マグロ)、свежескошенная трава(刈ったばかりの草)、свеженапиленные доски(のこぎりで切ったばかりの板)、свежевскопанная земля(掘り起こしたばかりの土)、свежевырытые могилы(掘り返したばかりの墓)、свежевыкопанныя траншея(掘ったばかりの塹壕)、свеженадоенное молоко(しぼりたてのミルク)、свежевзятый подследственный(収監されたばかりの被告)、свежевыпавший снег(降りたての雪)、свежеарестованный(逮捕されたばかりの人)、свежеосаждённая двуокись марганца(沈殿したての二酸化マンガン)、свежевыстроенный домик(たて終わったばかりの小さな家)、свежеиспеченные пирожки(焼きたてのパイ)、свежевыловленные живые раки(取りたての生きたザリガニ)、свежепогибшие(死んだばかりの人)、свежеструганный столб(削りたての柱)、свеженарезанные стебли(切ったばかりの茎)、свежеприклеенное воззвание(貼ったばかりのアピール)、свежепросольные огурцы(浅漬けのキュウリ)、この他に、новоиспечённый профессор(できたてホカホカの教授)、нововышедшие из-под его карандаша стихи(できたての彼の手になる詩)という言い方もある。
設問)「友情は別にして、処置は取らないといけない」をロシア語にせよ。

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2011年11月22日

●和文解釈入門 第186回

同時通訳と言っても露文和訳なら、分野を限定して、語彙を増やすことと聞きとりの練習をすることである程度は可能かもしれないが、和文露訳となるとまずほぼ完ぺきにロシア語が話せるという事が前提となる。大人になってからロシア語を始めた外国人に果たして同時通訳でそういうことが本当に可能なのだろうか?これは瞬時に体や類語の使い分けを決めなくてはならないことを意味する。無論同時通訳をやる前に、事前にテーマの勉強はするだろう。テーマを離れた同時通訳にはならないのが普通だし、使う文体は公的なビジネス的なものだということなのだろうが、かなり難しいと思う。事前に何の準備もせずにこれが出来る人はロシア語を究めたということになるのだろうが、自分はまだとうていそういうところまでは行っていない。
「斬る」はрезатьでもいいのだろうが、Тот ударил его ножом (мечом).(その人はナイフ〔刀〕で彼を切った〔斬りつけた〕)という表現のほうをよく見る。これだとナイフをもって体当たりとか突くなど何でも使えそうだ。また日本語も人の場合は「切る」よりも「斬る」のほうが刃物で相手を傷つけるという感じが出るように思う。рубитьだと「思いっきり」というニュアンスで、斬り落とすに近い感じである。
設問)「だってそれは今に始まったことではない」をロシア語にせよ。

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2011年11月23日

●和文解釈入門 第187回

この頃はあまりお金もないので日本語の本も買わない。それにロシア語の本が2000冊ぐらいあるし、数えたことはないが日本語の本もある。これ以上本を置く余裕は狭い我が家にはないので、要らない本は図書館の「誰でも持っていってください」というコーナーにもってゆくことにしている。そうなると日本関係の一般的な資料調べに便利なのは図書館である。私の住んでいる東京都葛飾区の図書館はインターネットで予約ができるし(まあ特に驚くことでもないとは思うが)、ない本は都内なら都内の図書館から借りだしてくれるサービスもある。村山春樹の本は15年ぐらい前に出たのならともかく、最新版では1年以上待たされそうだ。だから私の借りるような本は偶然かどうか知らないないが、貸出順位1位のものばかりだ。つまり人気のない本とか、閉架や保存庫にあるものばかりだ。その人気のない本にもたまには鉛筆で書き込みがあるのを見ることがある。ここを読めということらしい。余計なお世話だ。どうも学生が試験の課題図書として借り出したらしい。それで無料で借りていることもあって(区民税は納めているが、多分それほど多額ではないので)、鉛筆で線を引いているところや書いてあるものは消しゴムで消すようにしている。ところが、けっこう力を込めて線を引いているものが多い。これはこの場所のコピーを取るつもりだったのかもしれない。消しゴムで消すのにもけっこう力がいるのに気がついた。
設問)「次の青森行きはいつですか?」をロシア語にせよ。

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2011年11月24日

●和文解釈入門 第188回

会話で自然に使えるような、語結合もすべてそろっているような例文を文学作品の中から見つけのは難しい。それに文学は一般的に平板的な表現や使い古された表現を嫌う。しかし私が会話用に求めているのは、それこそ使い古された、平板で違和感のない日常的表現なのだ。
「火を起こす」はразвести (разжечь) огонь(разложить огоньは古い言い回し)だが、「こするか火打ち式で火を起こす」はдобыть огонь трением или высеканием искрыという。「涙を流す」は一見проливать (лить) слёзыでよいようだが、これはдолго плакатьと言う意味なので、「さめざめと泣く」などの訳を考える必要がある。駅のプラットホームにはплатформаとперронの二つの訳が 考えられるが、перронは旅客列車が止まるプラットホームを指す。платформаは貨物列車用にも使える。ダムはплотинаで、小さいダムをзапрудаという。日本語の発音に似たдамбаは堤防や土手を指す。плохойとнехорошийはシノニムだが、нехорошийの方が悪い程度がそれほど強くはなく、道徳的な性質、素行、関係などで用いられる。日本語の「よくない」と感じが似ている。худойはне говоря худого слова(余計なことは言わずに、さっさと), быть на худом счету(評判が悪い)という表現を除いて現代では俗語としてしか使われない。
設問)「この単語をどう発音するのか辞書を引かなくては」をロシア語にせよ。

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2011年11月25日

●和文解釈入門 第189回

〔訂正とお詫び〕
第186回で設問)「だってそれは今に始まったことではない」の答えをЭто ведь не теперь начиналось.としましたが、これは私の勘違いで Это ведь не теперь началось.が正しい。結果の現存の用法です。MIさん、ラーポチカさん、メイさんには深くお詫びするとともに該当のみなさんへの回答部分を訂正しました。これは定型表現です。私のように間違って覚えてしまうと後まで祟ってかかなくてもよい恥をかくという好例です。

単語を覚えるときにできるだけぴったりの訳語を覚えるのは当然だが、なかなかぴったりのが見つからない。それで本義(本質的な意味)を覚えることになる。無論訳語は文脈によって変わるのだが、会話で使うのは挨拶などの定型表現клишеや自由表現といっても慣用表現が多い。時間のあるときにそういうぴったりとした訳を見つけて暗記しておけば、この状況ではこうと後で通訳する時の負担が少なくなる。露和辞典だけではなく国語辞典が手放せない理由でもある。
帽子はデパートなどにある表示(つまり一般的に言う場合)ではголовной уборだが、ロシア人はつばがある帽子шляпаか、つばなしшапкаか、あるいは野球帽のようなкепкаを分けて考えるようである。防寒用の毛皮の帽子ならшапкаと考えるのが普通である。シルクハットはкотелокとか шляпа-цилиндрという。カウボーイ(テンガロンハット)ハットはковбойская шляпаとかковбойкаという。前回出た強盗に関連して、盗難кражаも、車の盗難(自動車泥棒)はугон машиныといい、これは家畜泥棒угон скотаの類推であろうと思われる。つまり盗むものが交通手段の場合にはугонが使われるということである。これから派生して、угон самолётаというと飛行機のハイジャックとなる。
設問)「彼は雷に打たれて死んだ」をロシア語にせよ。

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2011年11月26日

●和文解釈入門 第190回

80年代家族とともにモスクワに駐在して気がついたのは、アスパラспаржаや生姜имбирьが手に入らないことである。近く(Проспект мира)に植物園の分館があり、休日に行ったら、竹のように生い茂っていたアスパラを見つけた。当時アスパラというのは植物園で見るものだったのである。生姜も和風料理には不可欠なもので、モスクワで見かけなかったのでヨーロッパに出るときなど必ず買い求めたものだ。пряникというのはジンジャーブレッドみたいなもので、革命前の製造法などを見ると生姜が入っているが、革命後は生姜なくなったのであろう、風味だけ生姜まがいのまま、有名なトゥーラТулаのものですら未だに生姜が入っていないようだ。まあ無しで済むならというか、ないのが伝統になったのだろう。ところが1999年2度目のモスクワ駐在のときはスーパーにアスパラも生姜も出回っていた。隔世の感がある。
設問)「学部事務局に試験が何日になったか聞いてください」をロシア語にせよ。

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2011年11月27日

●和文解釈入門 第191回

前にプロになるためには何万の語彙や表現を覚えなければならないと書いたが、しかしそういう役に立つ表現というのは通訳やガイドの現場でロシア人とのやり取りの中で覚えることが多いので、勉強する気のある、できる人はますますうまくなって行き、中級者の人でもプロ志望者には以前と違いそのような機会がないような気がする。その現場に立つにはある程度プロとしてやれる実力がなければならず、まるで悪循環である。そういうこともあって、このコーナーはプロを目指す人の入門編として、ガイドや通訳でよく使う表現もできるだけ取り入れるようしている。その中には一見簡単だが会話集などには載っていないものもいくつかあるはずである。勉強はやみくもに暗記すればいいというものでなく、要は自分にあった学習法と、どんな通訳やガイドでも使う一般語彙(そうはいっても会話集にあるものや参考書にあるものとは違うかもしれない)、それと自分の仕事や専門(あるいは好きな分野)に必要な語彙というものがあるので、そういうのを集中して覚えればよい。その一つとしてご利用いただければ幸いである。
 露文解釈は単語の意味が一つぐらい取れなくとも、文脈によっては理解できるが、和文露訳となると体の用法や基本的な類語が分かっていないと和露辞典だけで露訳するのは無理だと思う。和露辞典のロシア語を見ていると、シソーラスтезаурусのように、類語の羅列だけで使い分けの説明がないから、読む人は皆同義語で、同じように使えると思ってしまう。そういう場合もあるかもしれないが、まったく同じ同義語というのはないわけで、同じように見えても用法が文体的、状況的に違うのもあるし、多義語では中の意味の一つが同じだというのもある。これからも自分が会得したシノニムのうち説明しやすいものを選んで書いていくようにしたい。
設問)「参考のためご意見をお聞かせ願います」をロシア語にせよ。

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2011年11月28日

●和文解釈入門 第192回

革命前の小説などにたまにボトヴィーニヤботвиньяというスープが出てくる。キュウリ、氷、白身魚の入った夏の料理である。2000年ごろ二度目のモスクワ駐在のときに駐在事務所と同じビルのレストランで食べたが名は同じもののたんなるキャベツスープだった。まあこういう料理の伝統は富農や中農が革命で絶滅したので、それと共に滅びたのであろうし、作り方を知っていた人も材料がないのだから作りようがなかったから正統派のものは伝わらなかったのだろう。сбитеньは蜜湯などと訳し、各種の香草や蜂蜜を水に入れ温めたもので、18世紀初頭に紅茶が流行るまで庶民の飲み物だった。これを私が初めて飲んだのは1985年ごろクレムリン近くの軽食レストランでである。今でもロシア料理店で飲ませてくれるところもあるようだ。結構おいしいものだが、レストランによって味が全く違う。
設問)〔ドアにノック。「お入りください」〕をロシア語にせよ。

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2011年11月29日

●和文解釈入門 第193回

清水幾太郎(1907~1988)の「私の文章作法」の中に文章の書ける人(文章に縁のある人)と書けない人(縁のない人)とあって、文章の書ける人とというのは、文字や言葉や文章に相当好き嫌いのある人とある。次いで文章修業というのは自分の好きな文体の所有者の文章を徹底的に真似ることである。かなり英語ができる日本人でも、また一般のロシア人でも、ことロシア語となると、このような文章修業とこのコーナーで出題しているような作文の勉強は違うという事を認識していない人が多い。だから外国語であるロシア語で作文しても、文法や語法が間違っているのを直してもらうのは当然だが、文章が下手だからこう直したらいいというのは、直すロシア人がよほどロシア語の文章の達人でも御免蒙った方がよい。文章修業と作文の勉強を取り違えているのである。我々は日本語でもロシア語でも実用文で平明達意の文を書けることを目指すが、ロシア語の学習者として、とりあえずは文法や語法にできるだけ間違いがなく、白を黒と言わないようにということを心がける。基礎ができないでいきなり応用とはいかないからだ。基礎も応用もごっちゃにして説明しているロシア人の先生もいるように見受けるが、この二つは別物であり、応用の、いわゆる文章修業というものは人から手を取り足を取りして習うものではない。文章というのは人によって好みが違うし、よい文章にもいろいろなものがあるからだ。
 設問)「壁は緑色に塗られている」をロシア語にせよ。

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2011年11月30日

●和文解釈入門 第194回

「ロシア語の体の用法」(原求作、水声社、1996年)は名著だが、その123ページのПриезжайте в Осаку.(大阪にお越しください)という命令形は、「過程を表現できない動詞ですから、当然動作への着手も表現できない、ということになるのですが、命令形で使われる場合は例外、ということになります」とある。приходи(те)だって、Приходите и приводите друзей, если вам так хочется познакомиться с нашим заводом.(当社の工場をそんなに見たいとおっしゃるなら、いらしてください、ご友人もご一緒に)などと使う。これも着手の用法から派生した促しという用法である。これは動作の時間と回数の制約がない「いつか」という意味の着手と考えてもよいような勧誘的意味合いを持つ動作の要請で、相手を拘束しないような動作の時に用いられる。さらに、Белые братья – Наливайという歌の歌詞にНаливай, выпивай, кайф поймай, и еще раз...(注げよ、飲めよ、ハイになれ、そしてもう一度)のвыпивайは多回体だから過程の意味は表すことができないが、この場合明らかに着手の用法である。過程と着手の用法は関係ないのではないかというのが私の考えである。
 приезжай(те)という命令形はприезажатьという不完了体だけでなく、完了体のприехатьの命令形でもある。Приезжайте в Осаку.は通常の会話の文脈から考えると明らかに不完了体の命令形で着手の用法だが、そのため用例としてはあまり適切とはいえない。
それと同書に「普通の状況では不完了体の命令形が使われるのが当たり前であるような動詞というのは、おのずと決まっています。以下のような表現は、そのまま、丸暗記しておけばよろしい。Входите. Проходите. Приезжайте. Приходите. Раздевайтесь. Садитесь.」と書いてある。むろんこれに反対するものではないが、露文解釈の専門家やロシア語の会話は原則としてしないという人であればこれでよいかもしれないが、通訳やガイドといった和文露訳の専門家のみならず、ロシア語の会話に興味があるような人に対してはこのようなアプローチはよくない。着手の用法は不完了体の基本的な意味でもあるので深く理解していないと、命令形といえば完了体しか出てこなくなるというような弊害を生むことになる。
本書とは関係がないが、思い出したのでついでに書いておく。при-という接頭辞のつく動詞は過程を示すことができないから、そこから派生すると考えられる予定の意味では使えないと考えられるが、L. MuravyovaのVerbs of motion, Русский язык, 1975の184ページにприходит, уходит, выходит = собирается прийти, уйти, выйтиとあり、
- Вечером у нас будет весело.(夜は楽しくなるわ)
- Кто-нибудь приходит к вам?(誰かお宅にいらっしゃるの?)という例を挙げている。
設問)「スーズダリはロシア有数の古い都市で、1024年から知られている」をロシア語にせよ。

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