2010年02月01日

●新帯研 第95回

旧ソ連では1階や2階は泥棒に入られやすい。ガイダールという最近亡くなったロシアの元首相も1階にマンションに住んでいて、危険だからといってエリツィンに新しい住まいを提供するように頼んでいる。カザフにいるときある日本の商社の所長の家が2回連続泥棒にやられた。マンションの2階である。ただこの所長単身赴任で、地方に出張した時に入られたらしいが、どうして2回も留守だとわかったのか日本人会で不思議がられた。どうもこの所長、部下には厳しい人で、会議中こっくりしようものならボールペンを居眠りしている部下にぶつけるという人だったらしい。前の駐在は東南アジアで現地人の部下を下に見るという癖がついていたようだ。旧ソ連ではそうはいかない。現地の人をなめるとえらい目にある。多分、それとなく出張の日が漏れていたのかもしれない。今回の課題は、
Детям дали задание узнать, какого роста был Владимир Ильич. Если не найдут в книжках, спросить у родителей. На следующий день на уроке.
Маша: У него был рост 168 см.
Петя: У него рост был 169 см.
Вовочка: Он был карлик. Я у папы спросил, а он ответил: «А мне – по хую».

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2010年02月03日

●新帯研 第96回

ロストフ・ナ・ダヌーРостов-на-Донуは20世紀初めからロストフ・パパと言われ、オデッサに並ぶ犯罪都市だった。カフカスからのロシアへの出口に位置しており、グルジア人、アルメニア人、ユダヤ人も多かったことによる。残念ながらロストフ・ナ・ダヌーには行ったことはないが、現在もロストフの公園にはブジョンヌィ将軍(第一騎兵軍1-я Конная армияの指揮官)の乗馬像が立っており、「6時にタマの下で会おうぜ」といった表現も現地では聞かれるとのこと。是非どなたか行くチャンスがあれば確かめてほしい。
Памятник С.М. Буденному в центре города
Говорят, что великий скульптор Вучетич изначально изобразил Буденного на кобыле, но затем, по указанию «сверху» срочно переделал кобылу в жеребца, приляпав к статуе исполинские яйца. Теперь монумент (а точнее его незначительная часть) - одна из достопримечательностей города. Дом Советов, находящийся за монументом, часто называют «домом под яйцами». «Встретимся под яйцами» - означает свидание возле этого памятника. Еще говорят, что иногда шутники красят эти яйца в яркие, веселые цвета.
(市の中心に立つブジョンヌィの銅像
大彫刻家のヴチェーチチは最初牝馬にまたがったブジョンヌィを作った。しかしながら、後になって上からの指令により、銅像に巨大なタマをくっつけて、早急に牝馬を雄馬に作り変えた。いまや記念碑(より正確にいえば、その微々たる部分)は市の名所の一つである。記念碑の後ろにあるソビエト会館はしばしば「タマの下の家」と呼ばれる。「タマの下で会おうぜ」というのは、この記念碑のそばでのデートを意味する。さらに、ときどきイタズラ者がこのタマを明るい、楽しい色に塗ることもあるという)
ロシアにはтаксофонというのがあるが、長いことタクシー呼び出し電話だと思い込んでいた。ソ連はさすがに進んでいると思ったのものだったが、最近になって何のことはないтелефон-автомат公衆電話のことで、таксо-というのは時間単位で課金されるという意味だということが分かった。今回の課題は、
На призывной комиссии:
- Ваша фамилия?
- Ба... Бабах...Бабахин
- В пулеметную роту!
設問1)和訳せよ。
設問2)次の語句のうちどれが正しいか?
a) спускаться с лестницы
b) спускаться по лестнице
c) во дворе
d) на дворе

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2010年02月04日

●新帯研 第97回

カザフに駐在していた頃カザフスタン東部の都市アクチュービンスクの近くのクロム鉱山に出張することがよくあった。1996年の冬でカザフの経済もあまり芳しくなく、ホテルも鉱山経営のが一つあるきりで、客も少なかった。あるときカザフ人の部下と一緒に昼食食べていた。客は他にはロシア人女性の技師が二人。私の座っているところから料理が出てくる廊下が見える。廊下には黒っぽい影が見え、猫がいるのかなと思った。料理を食べていたら、部下が肘でつく。「佐藤さん、佐藤さん、ドブネズミкрысаだ」。女性もいるのだから大きい声は出すなと言った瞬間、魂消るような悲鳴のあとに、なんとそのロシア人の女性は二人ともぴょんとイスの上に飛び乗り、ナイフとフォークを振り回していた。猫と思ったのはドブネズミだったのである。人間というのは必死になると神業みたいな真似ができるなと感心した次第。
1985年頃Бородино「ボロヂノー」というボロヂノーの戦いに関する本を「軍事図書」という本屋で買った。当時2万円ぐらいした豪華本で挿絵が豊富だった。買う時に売り子がわざわざ上司のところに行って外国人にこのような本を売っていいのかとお伺いを立てていたのを思い出す。軍事図書は紫色の建物でサドーヴァヤ環状道路沿いにあったが、7、8年前につぶれてしまった。今回の課題は、
Чукча идёт по улице: на шее у него полотенце намотано, на плече висит огромная бас-труба, а за собой он тянет на верёвке двух коров.
- Чукча, ты куда это собрался?
- Чукча в баня звали.
- А труба и коровы тебе зачем?
- Мне сказали, что в баня пойдём с тёлками гудеть.
設問)和訳せよ。

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2010年02月09日

●新帯研 第98回

モスクワの冬は寒い。そのため寒暖計に必需品である。ただどこにかけるかが問題である。あるときの昼間、外に出ようとして、寒暖計を見るとプラス15度ある。雪が積もっていたが、さんさんと日光が降り注いでいる。オーバーも着ないで外に出た瞬間、間違いに気づいた。マイナス15度だったのである。寒暖計がこわれていたわけではなく、寒暖計のかける場所に日光があたって、寒暖計を温めていたわけである。寒暖計は日陰におかないといけない。
男装で戦った女性は何人かいるが、旅順攻防戦の女性英雄ハルチーナ(?~1904) Хартина Евстафьевна Короткевичはほとんど知られていない。ハルチーナは第13東シベリア連隊第7中隊兵卒として勤務。トボーリスクの農民の子として生まれ、6歳で母をなくす。すぐに女中や乳母を経て、1902年ヤーコフ・コロトケーヴィチに嫁ぐ。夫が1904年2月に召集されると、夫の後を追って前線へ向かう。男装して夫の任地にたどり着く。場所は日露戦争の旅順。1904年4月4日連隊勤務許され、同年10月3日日本軍の砲弾の爆発により戦死。旅順攻防戦の英雄としてスチェパーノフの「旅順」にも描かれている。今回の課題は、
Перекличка:
- Петров!
- Я!
- Иванов!
- Я!
- Череззаборногузадирищенко!
- Я!
- Ни фига себе фамилия!
- Я!
設問)和訳せよ。

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2010年02月11日

●新帯研 第99回

アネクドートもさまざまで人により好みも違う。私の好きなのはロシア語のダジャレкаламбурで、しかもその和訳が日本語でもダジャレになるもの、もっというとそこから派生して、まったく別の日本語のダジャレになるものである。つまりロシア人には結果的にそのオチが分からなくなるというのが好きだ。そうなるとオリジナルのロシア語の小話がまったく別の小話に変身するということになる。第98回の課題も、成功しているとはいえないまでもこれに近いと思う。第100回のものなどトライされるとよい。
ロシアでは春か夏にボイラーの予防点検をする。そのため3週間ぐらい風呂が使えない。真冬に暖房が壊れてはこまるのでやむを得ないが、この3週間は真夏でもない限り困る。ロシア人の出張の必需品に電気ヒーターがある。これは金属の電熱コイルがむき出しで、これを水が入ったカップに入れて温めて紅茶などを作る。この大型のも売っていて、我が家ではこれをバスに入れ、お湯を沸かしていた。ただ漏電しないのだろうかといつも気になっていたが特にそういうこともなかったが、暖かくなるのに1時間以上かかるのにはまいった。今回の課題は、
設問)和訳せよ。
Килька и тюлька вышли замуж за рыб еврейской национальности и стали мойвой и сайрой.

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2010年02月15日

●新帯研 第100回

例えば、Это проблематично в свете решений, принятых на собрании.という文があったとして、в светеの意味が分からないとしよう。岩波の露和辞典を引くと、в свете чегоで「~にかんがみて、~の見地から見て」という訳が載っている。これで終わりにしてもいいのだが、言語運用(発話)能力向上用の語彙(通訳をするための和文露訳用の語彙)を増やそうと考えるなら、さらに露露辞典を引いてみるべきだ。露露には、с учётом чего-л., в соответствии с чем происходит что-л., с точки зрения чего-л.と説明してある。辞書の説明は普通分かりやすい語句を使うのが当然で、説明にある語句を知らなかったのならこれも暗記してしまうとよい。с точки зренияは「~の見地から見て」ということだし、с учётомは「~を考慮して」(上の例文では意味が取りにくいが)であり、в соответствии сは、「~に基づいて、~に一致して」ということである。例文の前置詞句の中にсвет(光)が入っているので、これをもとに訳がずれないように和訳すれば、「会議で採択された決定に照らして、これは問題だ」というのも可能である。
外国人には風呂敷が珍しいらしいということはいろいろ書かれている。アーネスト・サトウの「一外交官の見た明治維新」(岩波文庫、1960年)にもそのようなことが書かれている。確かに一升瓶を風呂敷で包むとかいろいろな包み方があるというのは外国人にとって驚きであろう。19世紀のロシアの役人に関する本を読んでいたら、その頃の小役人は勤務時間が午前9時から午後3時で、家族持ちは в узелке из платка(プラトークを包みにして)残業の書類を持ち帰ったとあるから風呂敷ではないかと考えた次第。この時代取っ手のついたハンドバッグはまだない。今回の課題は、
設問1)和訳せよ。
-Скажите, пожалуйста, здесь живёт Эдита Пьеха?
- Нет, здесь живёт Иди Ты на Хуй.
設問2)次の語句は正しいか?
в отсутствии отца

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2010年02月23日

●新帯研 第101回

ドイツの外交官ゲルベルシュテインГерберштейн(1486~1566)はヴァシーリー3世治下のモスクワを2度(1517年と1526年)訪問した。そのときに大公(ツァーリを名乗るのは息子のイワン4世以降)であるワシーリー3世に謁見したわけだが、呼びかけのときにワシーリー3世の全肩書きを読み上げられるわけで、それにかなり時間がかかり、外国の使節は閉口したようである。16世紀末になると、最初の呼びかけのときだけ帝の全部の肩書が読み上げられ、二回目からは「帝と大公がおつかわしになるцарь и великий князь подаёт」と短くなった。大公がパンを外国の使節や臣下に下げ渡すときも同様で、このときの白パンは形状からカラーチのようである。パンを下げ渡すのは大公からの恩顧を示し、特に塩は最高の名誉とされた。宗教上肉の許される日には、一番目に出てくるのは焼き白鳥だった。あまりうまいものではなかったらしい。これを酢、塩、コショウ、酸乳(液状ヨーグルト)をつけて手で食べた。ナイフを出されたのは特別な貴賓のみで、後の人には手で食べれるようあらかじめいくつかに切って出された。西洋のようにソースとかサラダオイルのようなものは知られていなかったとゲルベルシュテインは書いている。この食事は長く、終わるのが午前1時ということもあった。政務はこの昼食前に終わらせる決まりなので、終わるまでは食事ができなかった。この食事のあとは政務はしなかったとある。
 ちなみにイワン雷帝の書簡から肩書を抜き書きしてみる。
Великий государь, царь и великий князь Иван Васильевич всея Руси, Владимирский, Московский, Новгородский, царь Казанский и царь Астраханский, государь Псковский и великий князь Смоленский, Тверский, Югорский, Пермский, Вятский, Болгарский и иных, государь и великий князь Нижнего Новкорода, Черниговский, Рязанский, Полоцкий, Ростовский, Ярославский, Белозерский и отчинный государь и обладатель земли Лифляндской Немецкого чина, Удорский, Обдорский, Кондинский и всей Сибирской земли и Северной страны повелитель(全ルーシ、ウラジーミル、モスクワ、ノーヴゴロド大君主、帝にして大公イワン・ワシーリエヴィチは、カザン帝にしてアストラハン帝、プスコフ君主、スモレンスク、トヴェーリ、ユゴール、ペルミ、ヴャーツク、ボルガール他の大公にして、ニージュニー・ノーヴゴロドの君主にして大公、チェルニゴーフ、リャザン、ポーロツク、ロストフ、ヤロスラーヴリ、ベロゼール世襲領地の君主にして、リフリャンジアドイツ位の所有者にして、ウドール、オブドール、コンヂン、全シベリア領土および北方の統治者)今回の課題は、
В Шотлландии разводят лохнесских чудовищ в пропорции: два лоха на одну Нессии.
設問)訳せ。

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2010年02月28日

●新帯研 第102回

間宮海峡のことをロシア語でТатарский проливというが、ただ漠然とサハリン近辺にタタール人が住んでいたのだろうと思っていて深くは考えなかった。クルゼンシュテルンの「最初のロシアによる世界周航記」によると、レザーノフ使節とともに日本を離れた後、蝦夷、千島列島、サハリンを経てカムチャッカ半島に戻ったわけだが、そのときサハリン南部に住むクリール人(アイヌ人のこと)とは明らかに種族が違うサハリン・タタール(またはアムール・タタール)人について記している。つまり18世紀末から19世紀前半まではニヴヒ人(旧ギリヤーク人)をタタールと呼んでいたことが分かる。間宮海峡をタタール海峡とロシア語で呼ぶのはそのためである。今回の課題は、
Парфюмерные товары к ленинскому юбилею: одеколон «Ленинский дух», пудра «Прах Ильича», мыло «По лениским местам».
設問)訳せ。オチを別に解説してもよい。

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