2014年01月01日

●続和文解釈入門第323回

明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願い申し上げます。『三訂和文露訳入門』を上梓した後も、和文露訳をする際に、より分かりやすい体の使い分けという観点から、まだしつこく体の本質について考えております。

 磯谷孝先生は『演習ロシア語動詞の体』(吾妻書房、1977年)で、「完了体は完成(全一性、一体性)をはっきり打ち出すのに対し、不完了体は、この完成という特徴があるともないともいわない、ということによって完了体、不完了体は対立する、というのが、現在、最も有力な体の理論となっている」と述べている。この通りだとは思うが、これでは文字通り漠然としていて、和文露訳における実戦的な体の使い分けには使えないことが分かる。そこで、「和文露訳から考えた体の本質は、完了体は話し手が動作遂行の結果として、時間軸の特定かつ不動の一点をイメージする」と私は提唱したわけだが、これと磯谷先生の説との整合性について、より突きつめて考えてみたい。

 前にオッカムのカミソリの意味する「必要がないなら多くのものを定立してはならない」とか、「少数の論理でよい場合には、多数の論理を定立してはならない」、つまり、「必要以上に多面化するな。事実に則した最も単純な説こそ最善の説である」という点を踏まえて、私は体の本質というのはもっと単純化できるのではないかと書いた。2013年12月にNHKBS1で4夜連続放送していた番組「神の公式」に、物理学で美しいというのは対称性があることを意味するというのが記憶に残った。対称性というのは、ある変換に対して不変である性質であり、よく知られている線対称の他に、ある図形をある回転角で回転したときに、もとの図形に重なる場合、その図形は回転対称性を持っているという。他に、ゲージ対称性、非可換ゲージ対称性、カイラル対称性がある。ロシア語の体も自然に出来上がったものである以上、当然美しいはずである。そうであれば、これをロシア語の体に当てはめて検証することが可能ではないかと考えた。マースロフМасло Ю. С.先生が提唱されたように、完了体と不完了体が体のペアかどうかを決める際に、一つの文で完了体動詞過去形が歴史的現在の不完了体動詞現在形と置き換えられれば、体のペアであるという考え方が一般的である。体のペアであるということは、意味が完全に重なる(同義である)ということに他ならない。つまり不完了体現在形の歴史的現在と完了体過去形のアオリスト的用法において、完了体と不完了体は時間軸の対称性があると言うことができる。

 和文露訳から考えた体の本質は、「完了体は話し手が動作遂行の結果として、時間軸の特定かつ不動の一点をイメージする」と私は考えるが、不完了体は不動の一点をイメージしない、つまり不動の一点を意識しないのだから、意識せずとも動作が時間軸の特定かつ不動の一点を通過する(関係する)場合がある。例えば、「本を今日読みます」という文は、ニュアンスの差はあるとはいえ、次のように両方の体を使って露訳可能である。

Сегодня я прочитаю книгу. <本を全部読む>
Сегодня я буду читать книгу. <本を全部読むかどうかは不明>

 これを両体の同義的使用というが、このように二つの体が時間軸において交差する場合には時間軸の対称性が成立するということになる。この場合の同義性というのは、意味が完全に重なるということではない。もしそうであれば二つの体が存在する意味がない。この場合は不完了体の動詞が持つ語義自体(動作)の意味を完了体は包括しているが、完了体にはその他に文脈(状況)に依存しない、つまり新規の何か(プラスアルファ)というニュアンスが付加されているということに他ならない。図式で示せば、下記のようになる。

完了体 = 動作の有無の確認(不完了体) + α(文脈に依存しない)

 磯谷先生の説を私なりに噛み砕いて言うと、「完了体は動作の曖昧さの排除、つまり今ここでの具体的な1回の動作を表現するものであり、なじみの動作を表現する不完了体と対立する」となる。これは完了体のもつ具象化(意識化)と不完了体のもつ抽象化(一般化、自動的処理、機械的処理、無意識化)の対立と言い換えてもよい。ここで言う意識化というのは時間軸の特定かつ不動の一点をイメージすることに他ならず、そのような動作に完了体が用いられるのである。こうすれば私の提唱する考えと、磯谷先生の説につながりを見いだせることになる。

出題)「説得したが、だめだった」をロシア語にせよ。

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2014年01月02日

●続和文解釈入門第324回

『三訂和文露訳入門』3-1-8項に下記追記願う。

過去から現在に至る動作の否定には、不完了体過去形の動作の無の確認を用いるべきである。動作の無の確認においては大過去(過去完了)、つまりある過去の一点から別の過去の一点まで動作がなかったことを示す他に、過去から現在に至るまでの動作がなかったことを示す事ができるからである。つまり過去から現在に至る動作の否定は、3-1-7-2項の経験の否定と同じである。

(彼は火曜から電話して来ないのかい?)Он не звонил со вторника? <現在に至るまで動作がない、なかったことを示す>
(家賃をもう2カ月溜めている。そこに行くのが怖い)А за квартиру я уже два месяца не платил. Боюсь туда идти.

 забыть忘れる、потерять失う、разбить割る、сломать壊す、убить殺す、ударить殴る、уронитьなくす、などの瞬間動作動詞(瞬時の移行・変化を示す動詞)の不完了体は過程を示す事ができないが、このような動詞を除き、過程や状態を示す不完了体動詞現在形の否定で、過去から現在に至るまでの動作の否定を示す事ができる。この場合今現在その動作がないことに話し手の関心が向いている。

(コンピューターが昨日から動かない)Компьютер не работает со вчерашнего дня.

出題)「(私は)もう寝ていましたが、それはお気になさらないように」をロシア語にせよ。

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2014年01月03日

●続和文解釈入門第325回

時事用語を露訳するのは簡単だという例として、今流行りの防空識別圏を挙げてみようか。今はまだ話題になったままなので、ロシア語で中国と日本でニュース関係のサイトを見てもいいし、同様に英語を調べて、Air defense identification zne (ADIZ)から、этоを最後につけて、ヤンデックスなどで検索すれば、зона идентификации противовоздушной обороныというのに行きあたるだろう。ところが、露訳するので難しいのは日本の文化関係である。例えば、最近ユネスコの無形文化遺産нематериальное культурное наследие Юнескоに登録された和食の中に出てくる、「うまみ」と「こく(酷)」である。うまみは日本人が見つけた第5の味ゆえか、英語でもumamiとなっており、ここからумамиと最近ロシア語でも見かける。だからといって、これで一般のロシア人が分かるとは思えない。知日派のロシア人では後にмясной вкусと付け足す人もいる。私も以前はвкус, похожий на отварと訳したこともある。こくについては、日本語よりも意味が広いとはいえ、現段階ではбукетが一番近いのではないかと思っている。букет = совокупность ароматических вкусовых свойств чего-либоであり、風味(上品な味わい)と芳香を合わせたような意味であり、букет сыра(チーズの風味)、букет табака(タバコの風味)、букет водки(ウオッカのこく、body)、вино с букетом(こく(酷)のあるワイン)、букет чая(茶の風味)などという語結合がある。

 コクで思い出したが、たまに酒蔵ツアーのお供をしていて、麹の訳について考えたことがある。日本で麹といえば米麹であり、日本独自のもので和食の基本である。一応рисовый солодと訳したが、солодは麦芽や麦麹であり、語結合も大麦が基本で、ячменный солодであり、ржаной солод, пшеничный солодと麦関係である。こういうのは適訳がなければ、できるだけ類似したもので訳し分ける必要があると思う次第。

出題)「住民の大多数は洪水の被害を受けた」をロシア語にせよ。

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2014年01月04日

●続和文解釈入門第326回

最近テレビや雑誌で「神の手」という言葉をよく聞く。天才的な医療テクニックをもった医師を指すようだが、直訳しても面白くないなと思っていた。マリーニナの「他人の仮面Чужая маска」というミステリーを読んでいたら、非常に高い技術を持つ医師のことをврач от бога と書いているのを見つけた。これなども神の手という意味で使えるかもしれない。

出題)「二つのことをいっぺんにはできない」をロシア語にせよ。

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2014年01月05日

●続和文解釈入門第327回

否定文というのは動作自体を否定するのだから不完了体が使われるのが普通である。つまり動作の有無の確認に不完了体が使われるということから、否定文こそ動作の無の確認に他ならない。そのため否定文に完了体を用いるというのは、具体的な1回の動作が否定される場合であり、何らかの主観的なニュアンスを付加することになる。

 完了体未来形の否定というのは、未来の時制における具体的な1回(この1回)の動作を否定するということであり、現在の時制(一瞬後とはいえ)の否定の強調なのか、不可能なのか、未来の時制の完遂の用法(具体的な1回の動作)の否定なのかを文脈によって区別することになる。それに対して、不完了体未来形の否定は未来において動作が今後一切ないことを示すわけで、それが否定の意図につながる。приходитьは過程を示せず、反復のみを示す動詞ゆえ、下記の二つ目の文では未来の時制における反復動作を否定しており、そこから否定の強調、否定の意思を示している。

Он не придёт. <彼は今回は来ない>
Он не будет приходить. <彼は今後来ない>

出題)「写真は5年前のものだった」をロシア語にせよ。

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2014年01月06日

●続和文解釈入門第328回

遂行動詞というのは目的達成の過程や反復を示す。そのため不完了体だが、даватьのように反復だけを示して過程を示せない動詞もある。стремитьсяは遂行動詞だが、対応の完了体がない。старатьсяやпробовать、пытатьсяは動作を志向するが、必ずしも目的達成というニュアンスはないので遂行動詞ではない。それは対応の完了体の語義にある志向自体が目的となり、志向の具体的な動作が完遂されたかどうかとは関係ないということでも分かる。つまり動作も含めて達成の意味がある完了体動詞のペアの不完了体には、志向の用法があり得るということになる。

出題)「おかげで思い出しました」をロシア語にせよ。

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2014年01月07日

●続和文解釈入門第329回

死というのは誰にとっても普通は青天の霹靂だが、ある程度の歳になると、自分の人生を振り返って、自分の死を受け入れる心の準備をする必要があるとこの頃考えるようになった。別に死に際にじたばたしてもいいわけだが、自分の人生を振り返ってみてやり残したことがないか、あるなら、そしてやり遂げる可能性があるならトライしても悪くないと思うからである。その人生を振り返る年齢が60なのか、70なのか、それ以上なのかは本人次第であるのは言うまでもない。自分の人生を振り返って、やりたいことはやったかと思うと、それほど欲のある方ではないと思うので、個人的にはいい人生だったと思う。若い時にロシア語という生きがいを見つけたのがラッキーだったとも言える。ロシア語やそれを通じてロシアに興味をもったわけだが、ロシア語を学ぶ上で3つ突きつめてやってみようと思ったことがある。一つはヴォールвор в законеの起源で、これはこの40年調べてだいたい分かったと思うし、それを本に書いたりもした。二つ目は露文をニュアンスも含めて100%日本語に翻訳できるのかということである。これもロシア語の文法を極め、ロシア文学をできるだけ多く精読し、日本語の文章を多く書いて、自分なりに磨きあげるということで可能であろうと考えるようになった。文学作品を完璧に翻訳するにはこのような努力すれば可能だと思うが、卑近な例ではアネクドートのようなロシア語の地口や洒落は和訳可能かということだが、これは100%は無理でも、限りなく近くは訳せるというのが私の考えである。三つめは日本人が和文をニュアンスも含めて100%ロシア語にできるかということであり、これも日本語やロシア語の文法、特に体の用法を極めることで、日本語とのニュアンスを理解すれば可能であるというのがこの1年ぐらいで得た私の結論である。この3つを40年かけてコツコツやってきたわけで、自分なりの大体の結論は得たわけだから、これで良しとすべきだろう。細かい点ではいろいろ疑問も浮かぶこともあるが、それについての回答を考えるのも楽しい。

出題)「戦争はドイツの負けだ」をロシア語にせよ。

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2014年01月08日

●続和文解釈入門第330回

生まれてから土地を持ったことがないので、地主の気持ちはあまりよく分からない。父が小さな区画を持っていたが、私が上京するときにその費用に充てるために手放したという。今なら一財産らしい。しかし、全く分からないかというとそうでもない。子供の頃石蹴り遊びをしたが、私のところ(北海道の函館)では、6 x 2、つまり12の区画を線で引く。それに月から土と書き入れてゆき、土の隣が日である。日で方向的には戻るわけだが、日の次は川なので、けんけんするか飛ばなければならない。川には縦に線が入っていたように思う。月に石けりの石を入れ、その石を拾ってけんけんして日まで行き、日で両足がつける。そこで月の隣の区画に石を投げ入れ、石が飛びださなければ、月は自分の区画になる。自分の区画になると他の子は踏んではいけないという決まりである。つまり区画を所有できるわけである。他の子が入ってはいけない、入れるのが自分だけだというのが土地の所有ということなのだろうと何となく感じていたが、本当の意味での地主の気持ちは結局分からずじまいで終わりそうだ。

出題)「我々は後ずさりしながら未来に進んでいる」をロシア語にせよ。

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2014年01月09日

●続和文解釈入門第331回

DLmarketで扱う電子書籍は10回までダウンロードできるが、『和文露訳入門』(初版)を購入したお客様より、『三訂和文露訳入門』も初版のダウンロードの回数内でダウンロードできるかという問い合わせをいただいた。DLmarketで回答済みだが、別の視点から書いてみたい。一般書籍であれば、初版を買った人に改訂版や増補版をタダでくれることはないからこういう疑問は起きないと思うが、電子書籍は販売形態がダウンロード形式なので、こういう質問をなさったのだろう。『和文露訳入門』(初版)(276ページ)に比べて『三訂和文露訳入門』(467ページ)は、ページ数も200ページほど増えており、内容的に、初版の誤植訂正は当然のことながら、動作の否定、遂行動詞、志向、切迫感、動作の無効など追加したり、内容を大幅に充実させたものである。しかも、類書と異なる点は、このコーナーに毎日出題する和文露訳の短文問題に投稿者から回答をいただき、それにコメントすることで学習者が和文露訳で何がよく理解できないかを著者が知ることができることである。そのフィードバックをできるだけ早く反映させたいと考え、初版発売から1年4カ月という短期間の間に三訂版を出さざるを得なかったわけである。和文露訳する上で一番重要なのは語彙そのものではなく、体の使い分けであるとした参考書は他になく、そのため試行錯誤をせざるを得ない状況であるとも言える。これも和文露訳をする上でのスタンダードとなる参考書を出したいという著者の強い願いからである。ちなみに、私の手元にある四訂版の原稿も477ページと2カ月ほどで10ページほど三訂版より増えているが、これは私の備忘録であり、今のところ出版の予定はない。

 初版を買った方が三訂版を買うのが馬鹿らしいという気持ちも分かる。そのために発売後も本コーナーで和文露訳に役立つと思われる新たな知見を発表してきた。2012年7月半ばから第288回までの本コーナーをチェックされれば、概ね紹介されている。ただそれをいちいち見るのも面倒な方には三訂版を新たにご購入いただいた方がよいと思う。電子書籍ということもあり、内容はともかく、ページ数に比べれば価格も1,050円と低く設定されているということもご考慮願いたい。本来本コーナーの定期閲覧者や投稿者(せいぜい数人だろう)向けなので、タダでお渡しすべきだとは思うが、ファイルが勝手に手直しされたり、出会い系のサイトに誘導されたり、ということで閲覧者や投稿者に迷惑をかけたくないし、自分も厄介な目に遭うのは避けたいということもあるというのは前に書いた。また投稿者の匿名性や閲覧者の秘密を守るにはDLmarket経由での販売の方が、それなりに暗号も取り入れられているようでイタズラされる可能性はほとんどゼロに等しいだろうから、今のところ最善であると考えているわけである。またしおり機能代もご購入者にご負担いただくということもあり、このように有料販売となったということを御理解いただきたい。

出題)「奴はいつも反応がとろかった」をロシア語にせよ。

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2014年01月10日

●続和文解釈入門第332回

世界中どこでも子供は野菜が嫌いである。自分も会社に勤めるようになって、一人暮らしだったせいもあるが、栄養に気を配るようになった。食べ物は味を楽しむ以上に、日々のエネルギー補給だけでなく、薬でもあると考えて、嫌々食べているうちに、好きになってきた野菜もある。ロシア人一家のガイドをすることもあるが、これまで出会ったロシア人の子供は明るくて、親子との対話もうまくいっているようで感じがいい子が多い。一つだけ気になるのは、野菜に関しては親が甘やかしているような感じを受けることである。肉を頼んでも、子供は食べないから、野菜を入れないでくれとか、ステーキの上にかかっている野菜ソースみたいなものもつけないでくれと親の方がうるさい。自分の子供の頃は、特に母親の方が嫌いな野菜を子供に食べさせるために、脅したり、すかしたり、騙したりといろいろなテクニックを使ったのを覚えている。私は今でもナスビが嫌い(今は食べようと思えば食べられるが、あの歯ごたえがなさが嫌いだ)だが、母親が私の好物の大根の味噌汁に、大根の代わりにナスビを千切りに切って、出したことがあるが、泣きわめこうが、結局は無理やり食べさせられた。

 私の知っている多くの大人のロシア人は食べ物に好き嫌いがなく、食べ物への好奇心も旺盛で、野菜の好きな人が多く、サラダは必ず注文するという人が多いのに、不思議な現象である。もっとも私がガイドしたロシア人一家というのも、数の上でたかが知れているので、例外なのかもしれない。しかし、国立がん研究センターが2013年12月9日に発表した研究では、野菜や果物を多く摂る人に自殺をする割合が半分以下とか、生活習慣病(これが今のところアルツハイマー病の主たる原因と考えられているらしい)を克服するためにも野菜を摂れとのことである。平均寿命の少ないロシア人などはこの点に留意して、子供に野菜を摂らせるように少なくとも親が努力するようにすべきだと思う。

出題)「彼の願いはまず逃げることだった」をロシア語にせよ。

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2014年01月11日

●続和文解釈入門第333回

『三訂和文露訳入門』8-1-1項に下記補足願う。これは第318回の本文にも関係する。

(彼はモスクワにいる)Он в Москве.
(彼はモスクワに〔明日〕行く、〔明日〕モスクワにいる)Он будет в Москве (завтра).
(今行くよ)Я сейчас буду.

しかし、上記のように現在形だけが一見「行く」というニュアンスがないように思われる。ところが、下記のように必ずしもそうは言い切れない例にぶつかることがある。

(私は家にいる)Я дома.
(今すぐ行きます)Я сейчас.

上記の最初の文はという文は文脈によっては、「ただいま」、「故郷に戻った」というようにも訳せる。これは3-1-6-2項に挙げたように、状態の動詞が結果の存続の意味を出せることから「来た」という意味を示す事ができるからである。二つ目の文もбудуなどが省略されているとも理解されるが、素直に、現在の時制でも「行く」という意味になるという例ととらえることもできる。

出題)「彼女は夫の喪に服している」をロシア語にせよ。

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2014年01月12日

●続和文解釈入門第334回

『三訂和文露訳入門』9-9-2項に下記追記願う。

 этоもчтоのように前の文全体を受けるときには主語や述語となるという関係代名詞的な役割を果たす時があり、「このこと、そのこと」という意味で主格として主語に立つときは動詞または形容詞であらわされた述語はэтоに対応し、中性単数形を取る。

(前線へ、弾丸の下へ(行け)!これで高慢ちきがちゃんと直るというものだ)На фронт! Под пули! Это хорошо лечит от зазнайства.
(春が来る。我々にはそれが嬉しい)Начинается весна. Мы радуемся этому.

これから派生した用法だと思われるものに、関係代名詞から同格(イコールという記号を思い浮かべるとよい)へと移行したと思われる9-7項の強調構文がある。

(朕は国家なり)Государство – это мы. <9-6項の人称の転用の例でもある>

 ここから先行詞を取ると、あたかもэтоが主語のように見えるが、上の例から分かるように同格由来の述語だが主格であり、不変化の指示代名詞となったと考えることもできる。ゆえに文法上の主語は下に示すような文で示されることになる。

(これが私の子供たちだ)Это мои дети. <文法的には「私の子供たち」が主語である>
(これは教科書だった)Это были учебники. <文法的には「教科書」が主語である)>

これは〔私は医者です〕Я врач.のような合成名辞述語は、過去や未来の時制において造格を取るのが普通だが、過去の時制ではЯ был врачом.と造格を取る場合もあるし、Я был врач.と同格を意識して主格を取る場合もあるが、口語では造格を取る場合が多い。永続的な状態を示す名詞では主格が、一時的・暫定的状態を示す名詞の場合は造格が来るのが一般的である。未来の時制では未来自体が不確定ということもあってか、造格を使う場合がほとんどであり、主格を使えば古めかしい感じがする。造格は格自体、主格と形が違うということから、一時的な変化のニュアンスを担っているということかもしれない。ちなみに述語が形容詞なら永続的な状態を示す場合は形容詞の長語尾となり、主格でも造格でもよい。一時的・暫定的な状態は一般的に形容詞短語尾を使う。

(好天だった)Погода была хорошая (хорошей). <口語では主格、書き言葉では造格を用いるのが普通である>

出題)「お時間の方はどうですか?」をロシア語にせよ。

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2014年01月13日

●続和文解釈入門第335回

前回の本文に関連してだが、『ロシア語文法便覧』(宇多文雄、東洋書店)の169ページに、「名辞部分が抽象的なことがらを示す名詞の場合には造格も使われる。その場合、бытьの形は主語のэтоと一致する(すなわち単数中性)」とあり、「それは大きな喜びだった」の例を挙げている。

Это была большая радость. <主語はбольшая радость>
Это было большой радостью. <主語はЭто>

 しかし、これは形式だけを見て比べているのではないか?二つ目の文は、この文単独で存在できるのではなく、次のような先行する文が不可欠だと思う。つまり、二つ目の文のЭтоは文全体を受けており、単に主語としての役割を果たしているに過ぎないことと思われる。

(彼は何週間も後に来るはずだったが、彼は母をびっくりさせたかった。それは大きな喜びだったから)Он должен был приехать недель позже, но ему хотелось сделать матери сюрприз. Это было большой радостью.

出題)「はっきりしたことは軽々には言えない」をロシア語にせよ。

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2014年01月14日

●続和文解釈入門第336回

再度前回の続き。前々回の本文に関連してだが、『ロシア語文法便覧』(宇多文雄、東洋書店)の169ページに、「名辞部分が抽象的なことがらを示す名詞の場合には造格も使われる。その場合、бытьの形は主語のэтоと一致する(すなわち単数中性)」とあるが、文全体を受けるэтоなら、「(文全体を示して)そのこと、このこと」という意味なので、それが主語になれば、名辞部分である述語も抽象的な内容にならざるを得ないということにすぎないのではないか。

出題)「その上彼の血圧は150から180へと急上昇した」をロシア語にせよ。

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2014年01月15日

●続和文解釈入門第337回

ロシア語は初級の段階から暗記を強要されることが多いというのは事実だが、どの言語で学習の困難はさまざまである。ロシア語には格が6つもあり、数字の1にも男性、女性、中性があり、しかも複数まであるというのは一見驚くような事実だが、数字の1が24変化するというわけではなく、同形のものを除けば、その半分の14であり、日常会話でよく使うのは3~5ぐらいであろう。確かに名詞には男性、女性、中性、複数があるが、男性と中性は主格が違うくらいで、後はほとんど同じだから、それほど丸暗記の量が多いということにはならない。格の変化にせよ、日本語のハ格(ガ格)はロシア語の主格であり、ノ格は生格で、ニ格は与格で、ヲ格は対格で、「~によって」は造格で示し、~については前置格で示すと考えればよい。文字だってローマ字に似ているものも結構あるから、アラビア文字や漢字を覚える手間を考えたら、文句は言えまい。

出題)「その記念碑はソ連館の屋根の上に、たった11日間という記録的な短い期間で組み立てられた」をロシア語にせよ。

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2014年01月16日

●続和文解釈入門第338回

『現代ロシア語における時の関係の表現法Способы выражения временных отношений в современном русском языке, М. В. Всеволодова, Издательство Московского универститета, 1975』を書かれた、時の状況語の泰斗フセヴォーロドヴァ先生も、срокの単数と複数の使い分けについては特に述べておらず、同じ意味で使えるものもあるとして、次の例を挙げているのみである。単複両方使えるものはв короткий срок (в короткие сроки)〔短期間で〕, в сжатый срок (в сжатые сроки)〔短期間で〕, в кратчайший срок (в кратчайшие сроки)〔最短で〕であり、複数形のみのはв жёсткие сроки〔ぎりぎりの期間で〕, в обозримые сроки〔先の見通しがつく期間で(多分1年以内)〕、一方заは単数対格のみで、за короткий срок〔短期間で〕, за такой долгий срок〔そのような長期間で〕とある。

 このсрокの単複の使い分けについて長いこと考えてきたが、私なりの考えを述べてみたい。срокというのは期日(期限)という意味で、その他に、ある期日から別の期日までの間、つまり期間という意味がある。期間という意味では、служить два срока(2期勤める)というように、明らかに複数の期間という場合を除いて、普通は複数にはならない。一方、期日もдата(日付)という意味で、普通はполедний (крайний) срокというように、締め切り(最終期限)を示すので、単数形が普通である。ところが、よく考えると期間というのは二つの期日、開始の時期と終わりの時期から成っていることが分かる。初めと終わりの期日が分かりやすいのは、終始が見通せるような、それを意識できるような短い期間である。だから、短期間には複数が出やすいということが言えると思う。また短期間の方がより具体的である(漠然としていない)ことから、в установленные сроки(所定の期間内で)のようなものにも複数形が使われるということになるのではなかろうか。

出題「その雪上車は1回の給油で120キロの距離を人間二人と500キロの荷物を積んだトレーラーを運ぶことができる」をロシア語にせよ。

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2014年01月17日

●続和文解釈入門第339回

合気道の創始者植芝盛平の師である大東流合気柔術の祖武田惣角は礫(つぶて)の名人だったという。鳥や獣を小石で倒して、食料としたとある。そうでないと当時貧乏人は武者修行を続けられなかった。勝海舟の剣術の師である島田虎之助は街中でも、散歩しながら、芋虫や蝶などをそのままむしゃむしゃと食べて回りを辟易させたという。変わり者だったかもしれないが、武者修行するには文字通り食べ物に好き嫌いは言っていられないという例である。ところが、『剣術修行の旅日記』(永井義男、朝日新聞出版、2013年)を読むと、これは佐賀藩の牟田文之助(1830~1890)が藩から正式の許可をもらっての武者修行ゆえ、宿は基本的にタダで、家からの送金を受け、珍しい流派(鉄人流という二刀流)や人柄も、また腕も立ったということもあろうが、かなりの接待を受け、酒の切れる間もなかったようだ。現代も官費留学、私費留学(親が金持ちか、現地でアルバイトするか)で違いがあるのと同じだろう。牟田も米食修行人という剣術修行というよりは旅を楽しむだけの修行者もいることを書いているから、現代も同じである。武田惣角や島田虎之助などは野性そのもので、それこそ生きるか死ぬか(飢えるか死ぬか)の修行をしてきたから、修行を無事終えた時点ならその技の凄みも違っただろう。これはロシア語にも言える。楽してうまくはならないが、それでもその環境をうまく利用できるなら利用した方がよいということは言える。

出題)天気予報の「場合によっては夜までに雪」をロシア語にせよ。

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2014年01月18日

●続和文解釈入門第340回

正しい方向で勉強すれば1~2年で自分の言いたいことを話したり、よほど通訳やガイドが使うような特殊な語彙でなければ聞いたり、書いたりできると述べたが、語学にも向き不向きはある。別に内向的な人は向かないということではない。向かないのは語学に限らないが、一つのことに集中できない人である。正しい方向でというのも特に難しいことを言っているのではない。半年間NHKのラジオ講座のテキストを1週間ごとに丸暗記し、発音もラジオやテレビをできるだけまねるようにするということだけである。これができれば基礎ができたことになり、あとはロシア語の文法書(Wade先生のがよいが、城田先生のでも宇多先生のでもかまわない)をやり、さらに半年ラジオ講座のテキストを1週間ごとに丸暗記する。これで自分の言いたいことはほぼ言えるようになるはずである。

出題)「ご自身をご自身の手にかけるということに関しては、そうはさせないよう努めます」をロシア語にせよ。

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2014年01月19日

●続和文解釈入門第341回

可能の意味のときに完了体を使うか、不完了体を使うのか迷うときがある。具体的な1回の動作の時は完了体でよいが、繰り返しの場合はどうだろう?不完了体と考えるのが普通だろうが、そうでない場合もある。『三訂和文露訳入門』8-9項に下記のことを書いたが参考になるかもしれない。

 動詞の語義に能力という意味が含まれていれば、他の動詞や助動詞を使わずにそれを表現できる。「彼は全部で500 kg持ち上げられる」はОн поднимает в сумме 500 кг.も、完了体動詞未来形の、Он поднимет в сумме 500 кг.も可能である。二つの体のニュアンスの違いは、不完了体の方は彼が500 kg挙げた事があるという知識に裏付けされているのに対し、完了体の方はその日の彼の姿を見た印象で大丈夫挙げられるなという感じであり、これは完了体動詞未来形の例示的用法の一つである。

 第338回の回答にもあるが、同様に不定法での可能の用法の時に、「いつも」とか「毎回」というニュアンスがあれば不完了体を使うのだが、最大の能力というニュアンスがあれば、最大の場合はとなり、それが例示的用法である。体の使い分けは話し手のとらえ方次第というのはそういう意味である。

出題)「幸せといってもいろいろであり、同じものがあるはずがない」をロシア語にせよ。

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2014年01月20日

●続和文解釈入門第342回

前回の二つの投稿に対するコメントの内容が表示できなくなっています。ろしあんピロシキ側に問合わせ中ですが、このコラム全体で見ると1,000回以上となり、メモリーに問題が出てきたのかもしれません。私のコンピューターだけの問題なら、それでいいのですが。これまでのエントリーの保存が1回ではできず、2回しなければならないとか、コメントも1回では保存できないという不具合はありましたが、今回のようなのは初めてです。後二カ月ちょっと、つまり68回やれば通算千回目前にしての不具合であり、和文露訳短文問題集千問ができたのですが、これもやめろという天の声か、あるいは何かの巡り合わせかもしれません。一応次回の出題だけはしておきます。投稿者の答えは私には届き、私もコメントしているのですが、それがこの場で発表できないというのは困ったものです。それゆえ便法として、この本文に回答を書いておきます。

ブーチャンさんの投稿
Во слове "счастье"
есть разные нюансы и
не должно быть
одинакового.
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В словеでしょうね。ただ後ろの文を考えると、特にсловоとする必要はないように思います。счастьеは出題では複数の意味ですが、この単語が複数で使われる例を知りません。それでブーチャンさんはсловоという可算名詞を使ったのだと推定できます。私の答えはКаждое счастье - разное, одинаковых не бывает.


ゴさんの投稿
Когда речь идёт о счастье, оно бывает по-разному, и не должно быть одинаковое счастье.
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意味は分かると思いますが、счастьеが二度続きますので、その処理をどうするかということと、複数回の否定はбыватьを使ったほうが強意で使えます。

ソ連時代の日用品について書かれた『ソ連製 ソ連時代のシンボルСделано в СССР Символы советкой эпохи』(Мир энециклопедий Аванта+, 2012)を読んだが、その中に下着の話が出てくる。これについては第176回で『パンツの面目ふんどしの沽券』(米原万里、ちくま文庫、2008年)に書かれてあるエピソードを紹介したが、これを裏付けるように、トロツキーの『日常生活の諸問題Вопросы быта』(1923年刊)に「農民と労働者には下着を履きたくないという気持ちがある」と述べていると本書にはあり、下着は衛生のため2セット持つべきで、1セットは今穿いている分で、もう1セットは洗濯用とすべきだと力説しているが、これは当時のソ連の農民や労働者には下着を履く習慣がなかったということを意味している。

出題)「文学者の義務とは何だと思いますか?」をロシア語にせよ。

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2014年01月21日

●続和文解釈入門番外

投稿できないという不具合については、現在ロシアンぴろしきの主催者の方で調査中です。本コーナーの和文露訳の短文出題について回答し、コメントをもらいたいという方は、私のサイト「ランポポー」にメールというのがあり、ここから私宛にメール可能です。匿名でよいのですが、そうなると投稿者のメール番号が私に分かってしまうということになるます。プライバシーについては慎重に取り扱うつもりではありますが、メール番号が私に分かってもよいという方はこのメールで、私に出題に対する回答願います。コメントについては、当分このコーナー本文で発表します。

 できるだけ早く不具合が直ってくれるといいのですが、投稿者も2~3人ですし、定期閲覧者もそのくらいでしょうから、匿名ですが、メール番号が私に知られてもいいという人たちだけで、和文露訳の出題を続けてもよいかなとは思います。無料の会員制のようなものですが、定期的に閲覧する人はごく少ないと思いますので、そういう形でも実質的には変わらないような気がしますし、それとて希望者がいればの話です。出題回数も千題に迫っており、かなりの分野やバリエーションで出題しているので、この辺でやめにしてもいいかなという気はしないでもありません。おかげで『三訂和文露訳入門』も出版できたことですから、投稿者の皆さんのおかげで、私にとっては所期の目的以上のものが達せられたと思います。

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2014年01月22日

●続和文解釈入門第343回

前回の番外編のコメントは正常に表示できるので、342回だけがコメント表示の不具合があったのかもしれないし、今後あることなのかもしれない。342回について投稿したい人は番外編のコメントを利用ください。2、3回はメールと併用されてもよい。コメント表示できるなら、メールは後で破棄するのでご安心を!
ゴさんからメールで第342回の回答がメールで来たので、コメントする。

Как вы считаете, какие обязанности у литераторов?
いつもありがとうございます。HP運営、凄いですね。私にはとてもできません。ゴ
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義務にはобязанность, долг, повинностьが考えられますが、その違いはобязанностьは振る舞いや、何かの要求に基づいてなさなければならないことであり、долгは確信や内なる声によってなされるобязанностьであり、повинностьは重いか、不愉快か、退屈なобязынностьで口語ないしは俗語です。обязанностиと複数にすると、その人の仕事や肩書に関係した任務の総称ととらえられるので、この場合は単数がよいと思います。このように二つの文に分けるというやり方もあります。私の答えは、В чём вы видите долг литератора?
第287回で性質や評価を示す抽象名詞はЧто вы думаете о +(前置格)?という構文では共には使えないと書いたが、その場合どうすればよいかの一つの解決策выход。この場合видеть = находитьである。

未来の時制における動作の否定は、完了体未来形の否定、不完了体未来形の否定、予定の用法の否定(『三訂和文露訳入門』では予定の用法の否定の例を挙げている』)がある。定動詞の不完了体未来形は使いにくいということは、4-1-1-5項で述べてある通りであり、それゆえ否定文でも予定の用法を使うのだというのは理解できる。

(ニコラーエフには明日誰も行かないの?)В Николаев никто не едет завтра?
(明日我々と行かないならそうすればいい)Пусть не едет завтра с нами.
(彼は明日釣りには行かない)Он не пойдёт завтра на рыбалку.

ちなみに遂行動詞は否定の意味では使えないことは『三訂和文露訳入門』で触れておいた。

出題)「彼はアルバムのしおりを入れたページを開いた」をロシア語にせよ。

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2014年01月23日

●続和文解釈入門第344回

コメントが表示できない、コメントが受け取れないという今回のトラブルは、ロシアンピロシキの主宰者の説明では特定の回にサーバーの不具合が発生したということで、原因がまだよく分からない。だから再発の可能性もある。よかったのはトラックバックのところも含めてコメントのところに大量に最近押し寄せたスパムが来なくなったことだが、今日は早速7つものスパムを削除した。ゴキブリと同じでしぶとい。このコラムも全体では千回以上になる。そこで『和文解釈入門』は600回を超えているので、まだ不具合が続くようならこれを全面削除して具合を試してみるというのも一つの手であろう。どのみち昔のものを読むような酔狂な人はもういないだろうし、和文露訳の問題集が欲しいというなら、『和文露訳問題集千』とでも銘打って、前編に和文の短文だけを千並べ、後篇に和文とのその回答を解説付きで『三訂和文露訳入門』の参考の項目番号をつけて電子書籍にするという手もある。順番はシャッフルするとか、これまで気に入らなかったものは新しいものに差し替えるというのいい。ただこれには手間もかかるので、希望者が最低10人くらいはいないとやる張り合いがない。投稿部分やそのコメントは解説に反映させるが、匿名とはいえ著作権のからみもあり、載せないことになろう。このようなことを今考えている。

 全く自分が知らない分野というのがあって、例えば『美しすぎるロシア人コスプレイヤー』(西田祐稀、ユーラシアブックレットNo. 190、東洋書店、2013年)は最新のロシアのコスプレについて解説した良書である。ロシア人の若者をたまにガイドすることがあるが、彼らが日本のアニメ(ナルト、セーラームーンなど)に詳しいことは知っていたが、2012年9月1日に発効した法律により日本のアニメも規制対象になったというのは知らなかった。ロシア人は十代の子でも島国の日本人よりある意味、精神的に大人の人が多いのに、政府は上から愚民を統制する(物事のいい悪いは当局が判断する)というのは、このインターネットの時代に時代錯誤そのものである。この他にも『住宅貧乏都市モスクワ』(道上真有、ユーラシアブックレットNo. 185、東洋書店2012年)など、ロシア関係で最近のものにも読むべきものはある。

出題)「今日は収容所全体が食事抜きだ」をロシア語にせよ。

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2014年01月24日

●続和文解釈入門第345回

『ソ連製 ソ連時代のシンボルСделано в СССР Символы советкой эпохи』(Мир энециклопедий Аванта+, 2012)の中に、結婚式などでガラスや陶器の食器をなぜ割るのかその由来が書かれていたので紹介する。ピョートル1世に初めてロシアで作ったガラスのコップを、ウラジーミルのガラス職人エフィーム・スモーリンЕфим Смолинが割れないコップだという触れ込みで献上した。ピョートル1世は中に入っていたお酒を賞味した後、そのコップを床にたたきつけた。もちろんコップは粉々になったが、帝はガラス職人を罰せず、»Стакану – быть.»(コップは〔かく〕あるべし)と述べたが、それを»Стаканы бить.»(コップは〔かく〕割るべし)と聞き間違えたというものである。それともコップが割れても帝が職人を罰しなかったので、それは吉ととらえてのことかもしれない。

出題)「福音書にのみ彼は救いを見出そうとした」をロシア語にせよ。

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2014年01月25日

●続和文解釈入門第346回

体のペアではないが志向に似て非なるものとして、искать(探す)とнайти(見つける)がある。искать にはстараться найти, обнаружить〔探す〕、добиваться чего-либо, стремиться к чему-либо, хотеть чего-либо, стараться получить что-либо〔得ようとする〕、стремиться к чему-либо новому, совершенному (о науке, искусстве и т. д.)〔目指す〕と3つの意味があり、このうち、〔探す〕の意味では志向の動詞ではない。これは動作の到達点が含意されていないからである。『三訂和文露訳入門』6-1-3-1項で示したようにстремитьсяは志向の動詞だが、стараться = очень пытатьсяであり、志向の動詞ではない。しかし、находить/найтиのнаходитьは志向の動詞である。定動詞とпри-のついた運動の動詞、例えばидтиとприйтиの関係もそうであるが、идти в школу(学校に行く)のように目的地が示されれば、志向の動詞となる。

(福音書にのみ彼は救いを見出そうとした)Только в Евангелии он находил спасение.

出題)「他にどんな案がありますか?」をロシア語にせよ。

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2014年01月26日

●続和文解釈入門第347回

和文露訳もロシア語のテスト形式としてはよく出題されるが、出題する側にとって一番楽な出題方法は露文の中で適当と思える短文を和訳し、それを出題するというものである。もっと楽なのは、知り合いのロシア人に頼んでの和文露訳の分業をするのである。つまり和文を日本人でロシア語のできる人が訳し、それをロシア人にチェックしてもらうというやりかたである。その時に、その日本人、ないしはロシア人が日本語とロシア語両方にかなり深く精通していないと、日本語だけ、ロシア語だけを見て適否を判断しがちである。ただ両方に深く精通しているのなら、分業する必要はないから、そこに問題の根が生じる。

 いずれにせよ、一般の和露の問題集同様、後ろにポツンと模範解答があるだけのものが多いようで、学習者に模範解答を丸暗記せよと言っているようで感心しない。自分の経験に照らしてみると、こういう模範解答だけでは学習者はフラストレーションがたまるだろうと思う。だいたい和文露訳に一つの回答しかないということはあまりないはずだし、文法的なミス、タイプミス(書き間違い)ついて指摘するのは、出題するぐらいのロシア語のレベルの人にとっては難しいことではない。しかし、そういうミスの類がないような回答が出てきたときに、その適否を判断し、語結合が適切かどうかも含めて、学習者が納得のゆく説明ができるかどうかということが大事であり、それが学習者のやる気や語学力を高めるのに役立つものだと思う。そのためにはこの種の和文露訳問題集には、できるだけ多くの考えられる回答のバリエーションを載せるのが理想だが、紙幅の関係から無理だろうから、メールでするのかブログでするのかは別にして、読者向けの無料の添削サービスが欠かせない。この添削は出題者にとっても見返りが非常に大きいことは自分の経験からも言える。そういうサービスがないと思われる現在、模範解答だけの和文露訳の問題集を前にすれば、学習者は自ら自分の回答の適否について調べなければならなくなる。そういう意味では、インターネットの発達した時代とはいえ、やはり手近のロシア人に聞くのが一番近道なのかもしれない。そうなると、その時に、そのロシア人が日本語に精通していないと、ロシア語だけを見て正否(適否ではなく)を判断しがちであるというような問題が起こる。どういうことか説明しよう。

 例えば、「被疑者はここに来ている」という文を、和文の末尾が現在形だから被疑者が今現在そこにいると解釈した場合、Подозреваемый здесь.と訳しても、日本語をあまり知らないロシア人ならOKというだろう。しかし、これは主語が被疑者だから、被疑者がその辺にうろうろしているのかという素朴な疑問もあり、文脈によっては正解の可能性が低い。この他の露訳として考えられるのは、次の通りである。

Подозреваемый приехал сюда.(〔1回だけ〕被疑者はここに来たことがある) <これはアオリスト的用法での解釈だが、無論文脈によっては結果の存続(意味的にはПодозреваемый здесь.と同じ)ということで「被疑者は〔今〕ここに来ている」という解釈も可能である>
Подозреваемый приезжал сюда.(〔何度も〕被疑者はここに来たことがある) <経験の用法である。ただこの露文は= Подозреваемый приехал сюда и уехал.(被疑者はここに来ていた〔が、今はいない〕とも解される)

 和文露訳の場合もニュアンスも含めて正しく、日本語をロシア語に表現できるかということであり、日本語やロシア語の文単独で正しいかどうかではないということを、訳す人がどれだけ肝に銘じているかということのほうが大事である。

出題)「どうしたの?どうして学校に行かなかったんだい?」をロシア語にせよ。

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2014年01月27日

●続和文解釈入門第348回

 『三訂和文露訳入門』にて「不完了体は話し手が動作遂行の結果として、時間軸の特定かつ不動の一点をイメージしない」と定義したが、これをいろいろな例文で証明するためには、一見例外的に見えるものでも、この定義が正しいのであれば、その定義に沿ったその説明をしなければならない。つまりこの定義はそのような一点を示す時の状況語と不完了体は相性が悪いと言っているわけで、そういう場合なぜそういうことが起こるかその理由を明確に説明する必要がある。それは不完了体の文で一見時間軸の特定かつ不動の一点をイメージしているかのように見えるものもあるからである。

(10時までに来て下さい)Приходите к десяти.
(明日遅くとも10時には来て下さい。お願いしますよ)Я попрошу вас: придите завтра не позже 10 часов. <『三訂和文露訳入門』3-1-4-6項に書いたように、попроситьには強制的ニュアンスがある。>

 初めの文では動作は10時までにある時間軸の任意の一点で行われ、二つ目の文では動作は10時までの時間軸の特定かつ不動の一点で行われる。つまり不完了体は任意性を示し、完了体は具体性を示すという体の本質を表していることになる。

出題)「俺が犯罪者になるところまで奴らは俺を追い込んだ」をロシア語にせよ。

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2014年01月28日

●続和文解釈入門第349回

時間軸の不動の一点を示す時の状況語と不完了体の相性が悪いというテーマの続き。『三訂和文露訳入門』にて「不完了体は話し手が動作遂行の結果として、時間軸の特定かつ不動の一点をイメージしない」としたが、そうすると不完了体現在形の予定の用法でも、一見奇妙に見える例文がある。

(彼は明日来る)Он приходит завтра. <予定の用法>
(汽車は9時に到着する)Поезд придёт в 9 часов. <完遂の用法>

最初の文は明日を時間軸の特定かつ不動の一点というよりは、期間とみて、明日は明日でも、「明日中」という意味ということになる。特定かつ不動の一点を数学的に大きさのないものととらえれば、完了体的アプローチであり、その点に大きさがあると感じれば、不完了体的アプローチということになる。二つ目の文のように明日завтраという時の状況語を点ととらえるか、明日中という期間ととらえるかということであり、体の用法は話し手の伝えようとする事柄への意識に関わってくるというのはそういう意味である。

 しかしムラヴィヨーヴァЛ. Муравьёва先生はприходит, уходит, выходит, переходит, переезжает = собирается прийти, уйти, выйти, перейти, переехатьであるとしているので、予定の意味の場合完了体不定形の代用(精確に言えば完了体が要素として組み込まれている)ということであれば、特定かつ不動の一点を示す時の状況と共に用いられても問題ないことになる。この不完了体による完了体の代用というのが目下の研究課題でもある。その他にも時の状況語と不完了体の組み合わせでは次のようなものがある。

(オーリガは2年前は母のところに遊びに来たものだったが)Ольга приезжала два года тому назад гостить к матери... <2年前のある期間における反復>
(私たちは土曜お宅にお邪魔して、ご本を持っていきます)Мы придём к вам в субботу и принесём ваши книги. <未来の時制における順次的用法>

出題)「昨日僕のところに友人たちが来ていた」をロシア語にせよ。

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2014年01月29日

●続和文解釈入門第350回

『三訂和文露訳入門』の5-2-1項に下記追記願う。
 接頭辞в-, вы-, за-, пере-, при-, про-のついた運動の動詞では、完了体命令形は要請から派生した命令などのような強制的なニュアンスを帯び、それが不完了体命令形の任意のニュアンスと対照を示す場合もある。

(来週来て下さい。ご注文をお受けますから。でも水曜は来ないでください。水曜には工房は〔注文〕受理はしないので)Придите на следующей неделе, мы примем ваш заказ. Но не приходите в среду: в среду в мастерской приёма нет. <行かざるを得ないわけで、強制的ニュアンスがある。また動作の否定には不完了体命令形を使うことが分かる>
(可能なら明日来て下さい。10時でもいいですし、御希望なら11時でもいいです)Приходите завтра, когда сможете. Можете - в 10, если хотите - в 11 часов. <5-1-2項の勧誘なども考え方は同じである>
(日曜にうちに来て下さい)Приходите к нам в воскресенье. <どちらでもいいという任意のニュアンスであって、強制のニュアンスはなく、また日曜に文の焦点がない>

出題)「人の顔を覚えるのが苦手です」をロシア語にせよ。

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2014年01月30日

●続和文解釈入門第351回

シュチールリッツМакс Отто фон Штирлицというのはアネクドートでもよく耳にするが、本来は『Семнадцать мгновений весны(春の17の瞬間)』という1969年に出たЮлиан Семёновのスパイ小説(シリーズ第2作)の主人公で、映画化され有名になった。最近シュチールリッツもの14冊のうち4冊を読んでみて、シュチールリッツに関して、拙著『ロシア小話アネクドート』(ブックレット、東洋書店、2004年)に少し書いたが、新事実もあるので補足しておく。小説のシュチールリッツはドイツ系ロシア人で1920年代からジェルジンスキー(ЧК)の下で働いていた虚構の人物。本名はВсеволод Александрович Владимировで、後にМаксим Максимович Исаевに改名した。父はロシア文学の教授であり、レーニンを知っているが、メンシェヴィキーだったという設定であり、1922年ごろ極東でゲリラに赤軍人民委員と共に処刑される。シュチールリッツは1945年のとき45歳という年齢設定である。ナチの対外諜報部の長であるワルター・シェーレンベルグの部下であり、階級は大佐。息子はАлександр максимович Исаевで1923年生まれ、1940年モスクワ大学物理学部入学。1941年前線へ志願。1944年ドイツ占領下のポーランドのクラコフに潜入。シリーズ第1作で作戦中にシュチールリッツと出会うことになる。妻はАлександра Николаевна Гаврилинаでシュチールリッツがウラジオを離れてから23年会っておらず、文通もなく、息子があることを彼は知らなかった。『Семнадцать мгновений весны(春の17の瞬間)』はマリーナ・リョッカというハンガリー系のドイツの女優兼歌手の歌に由来する。1945年の戦争の17日間を指しているという。

出題)「私はこれについて考えないようにした」をロシア語にせよ。

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2014年01月31日

●続和文解釈入門第352回

ある機縁で1996年初出の『弟』(石原慎太郎、幻冬舎文庫、1999年)を読んだ。弟の石原裕次郎(1934~1987)との思い出について、二人の交わりを淡々と、弟を思う心温まる筆致で描いており、裕次郎の演技や歌について覚めた目で見ているのには共感が持てる。歌手の石原弘(初対面から裕次郎といきなり言われ、礼儀のうるさい裕次郎は生涯口を利かなかったという)、俳優の三船敏郎(性格的には見かけと違い線の細い)、渡哲也との関わりに、より裕次郎とは何かを鮮明に浮き上がらせている。天才横山やすしのように我がままなので、裕次郎に惚れん込んだ人には良いのだろうが、そうでなければそばにいて疲れる人のようである。渡哲也のように惚れ込んだゆえに、大動脈解離で死にかけた裕次郎がぼけてまで生きのびて名を汚してほしくないと実力行為をほのめかしたエピソードなど興味深い。子供ができなかったので、著者の4人の子息のうち3人とのエピソードも面白い。いずれにせよ太く短くという人生の裕次郎に対するオマージュとも言える。新しい時代を切り開いた二人の交情がせつない。石原慎太郎の小説は読んだことがないし、これからも読むことはないだろうが、本書を読んでプロの小説家の文章はこういうもので、自分にはとても書けないと感じたことも確かである。
 著者が都知事選に出ることになった時に、当選を危ぶんだ裕次郎が現金2億円をカバンに詰め込んで持ってくる場面がある。慎太郎は好意だけを受け取って、裕次郎には帰ってもらったとあるが、その時に裕次郎は小佐野賢治と会えと勧めたという。裕次郎の持ってきた2億の金の出処については書いていないが、想像はできる。小佐野とは会ったがそれだけだという。慎太郎はそれまでに代議士を務めており、金にはもらっていい金とそうでないものがあるということも含めて、政治家と金についてはよく知っていたろう。猪瀬元知事もベストセラーだったこの本を読んでいたと思うが、このくだりは失念したのだろうか?政治家としての修業を積まないで、いきなり政治の中枢に入る危うさを感じる。青島幸男は議員も経験していたが、そういう意味での政治家としてのキャリアはゼロに等しかったように思え、都知事としても何の業績も残していない。石原慎太郎は東京のディーゼル車排ガス規制などのプラス評価もあり、新銀行東京などのマイナス面もあるが、知事としての存在感を示したということは言える。

出題)「私は問題を具体的に提起します。彼を信じていらっしゃいますか?」をロシア語にせよ。

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