2011年01月28日

●日本の心 第20回

(98) 「日本滞在日記」、レザーノフ、大島幹夫訳、岩波文庫、2000年
 レザーノフ(1764~1807)は使節としてクルゼンシュテールンとともに日本と通商条約を結ぶべく、1804年長崎に赴いたが、結局ことはならず失意のうちに亡くなった。このレザーノフの日記を和訳したもの。内容も興味深いが、和訳も注が完備しており見事である。ただ力点が示されていないものが多いのと、クルーゼンシュテルン(クルゼンシュテールンが正しい)、ゴローヴニン(ゴロヴニーンが正しい)など重要人物の力点が、これまでの和訳を踏襲したためか間違っているのが惜しい。

(99) 「最初のロシアによる世界周航記」Первое Российское плавание вокруг света, Крузенштерн, Дрофа, 2007
 有名なクルゼンシュテールン(1770~1846)の1803年から1806年までの世界周航記。彼の任務の一つにレザーノフと日本人漂流民を乗せて日本に赴き、日本との貿易の可能性を探ることだった。ただ、日本人漂流民が航海中わがままであったとして、彼らに対する評価は低い。水の制限をしたときも文句を言いだしたのは日本人漂流民であり、日本人漂流民は怠惰で、不潔であり、衣服にもかまわず、常に陰気であり、性悪で、助けが必要な時にも働こうとしないとし、一人60歳の老人(津太夫)のみが例外であると書いている。ロシア正教に改宗した通弁キセリョーフ(善六)も同様よくなく、日本人漂流民といがみあっていると書いている。これは禁制のキリシタンになったころびバテレンを嫌ったからであろう。クルゼンシュテールンは長崎からの帰途、蝦夷と南樺太も訪れ、そこのアイヌについては控え目で温厚であると好意的な評価をしている。本書のオランダ語訳を手に入れることがシーボルト事件の一因というのも、本書を読む上で感慨深い思いを抱かせる。邦訳には「クルウゼンシュテルン日本紀行(上・下)、羽仁五郎訳注、雄松堂出版、1966年があるが、筆者未見。これは独訳からの重訳のように見えるが、著者がドイツ系ロシア人であり、原書はドイツ語とロシア語と同時に出たのでロシア語だから特によいというわけではないようである。

(100) *「世界周航記」Путешествия вокруг света, Головнин, Дрофа, 2007
 ヂアーナ号艦長だったГоловнинゴロヴニーン(1776~1831、これまでゴロウニンと訳されてきた)の世界一周に関する回想録で、1811年から1813年日本の捕虜となったときの回顧談が1/3ぐらい含まれている。フヴォストーフХвостовとダヴィドフДавыдовによる2度のサハリンおよび択捉における日本の番所の襲撃にからんで、松前藩の役人にクナシリ島で部下6名(士官2名水兵4名)とともに捕らえられ、箱館(現函館)および松前で監禁された。函館は私の故郷なのでなおさら興味深かったが、箱館での食事はそこまでの道中の食事に比べてひどかったと書いてあるのを見るとがっかりする。不法に拉致され監禁されたわけだが、これに対して特に怒りを見せるわけではなく、冷静に当時の日本および日本人を観察描写しているのは人間的にも尊敬できる人柄だからであろう。当時の日本人は好奇心に満ちており(鎖国していたから尚更であろうが)、ロシア文字の揮毫をロシア人に求めたのに対し、水夫は文盲のため断ったことに日本人は非常に驚いたとゴロヴニーンは述べている。彼もある意味でショックだったのだろう。この牢を間宮林蔵も訪れ天文学機器の使い方などを尋ねたが、手元に換算表がないことや通訳の未熟さからゴロヴニーンたちが断ったところ、間宮が腹を立てたなどと記している。日本人は読書好きであり、平の兵卒ですら警護の任についているときも立ったままで読書している。ただ歌うように音読するのでこれには閉口すると書いているが、謡の練習でもしていたのだろうか。チェッカーもゴロヴニーンと一緒に捕虜になったロシア人水兵が日本人に広めたという。用語はロシア語なので、後世の学者がロシア語と日本語は同根であると誤解を招かねばいいがとユーモアたっぷりに注をしている。同じく捕虜になった士官のムールは脱走に反対で、日本側と通じようとしていると仲間割れについて書いているのも生々しい。この後脱走するのだが、結局失敗し日本側に捕まってしまう。ナポレオンのモスクワ侵攻(その後のモスクワ焼き打ち、逃避行)についても高田屋嘉兵衛から聞いて驚いている。これはリコールト(これまでリコルドと書かれてきたが、発音通りならリコールトである)Рикорд船長からの話を伝えたものである。離日の前日女子供を含む庶民にもヂアーナ号船内を夜中まで見学させたとある。リコールトは1950年に自分を主席として日本との通商条約締結に派遣するよう政府に進言したが、すでにプチャーチンに大命は下っていた。リーコルトの通弁のキセリョーフはレザーノフの通弁でもあった。この部分の邦訳として、「日本俘虜実記」(2巻)ゴロウニン、徳力真太郎訳、講談社学術文庫、1984年がある。プチャーチンによれば、ゴロヴニーンは1814年自分を日本知事に任命し、箱館を極めて重要な軍事拠点として占領せよと提言したという。

(101) *「ロシア士官の見た徳川日本」、ゴロウニン、徳力真太郎訳、講談社学術文庫、1985年
 ゴロヴニーンの手記「日本国および日本人論」と、海軍少佐リコールトの「日本沿岸航海および対日折衝記」の訳。前者はゴロヴニーンが日本語の敬語についても、ロシア語のспать/почиватьやесть/кушатьと同じだとしていることから、やはり並の人ではないことが窺われる。訳の日本語は簡にして要を尽くしている。似ているロシア語と日本語の単語(деньгиと「銭」、якорьと「錨」)に対してどうしてだろうと首をかしげている。また「火」の発音が出来なかったと言っている。これはロシア語にhiの発音がないためである。一つだけ43ページに「何の益もない感応薬」とあるが、多分симпатическое средство(気休めの薬)のことであろう。日本人は天下で最も教育のある国民であるとか、下層のものでも礼儀正しく、罵り合ったり、喧嘩したりするのを一度も見たことがないなどと述べ、非常に高く評価している。ゴロヴニーンに付いた通訳に元々アイヌ語通訳だった上原熊次郎というのがいて、娘を嫁にやったと言って泣く熊次郎に、目出度い話で得心の行かなかったゴロヴニーンが尋ねたところ、娘の行く末のことを不安に思って泣いたのだと言われ、その言葉に胸を打たれたと書いている。この人はあまりロシア語の通訳がうまくなかったらしい。もっともオランダ語の素養があった幕府役人村上貞助(1780~1846)の方がうまいといっても、ゴロヴニーンから口伝えで習ったのだからたいしたことはなかったようである。後者の本はゴロヴニーンの引き渡しに力のあった高田屋嘉兵衛とリコールトの友情がよく描かれている。ともに時と場所を得た逸材であったことがよく分かる。

Posted by SATOH at 13:35 | Comments [0]

2011年01月26日

●日本の心 第19回

(93) 「漂流民とロシア」、木崎良平、中公新書、1991年
 日露交流について漂流民からとらえた好著。有名な大黒屋光太夫以前および以後の日本人漂流民についても詳しく書かれているし、漂流民ではないが、最初に(1600年)モスクワにたどり着き、ニジューニー・ノーヴゴロドで受難したニコラス・デ・サン・アウグスティノ(洗礼名)など初めて知った。後に調べたところ、これについては中村喜和教授が「おろしや盆踊考」(現代企画室、1990年)の「モスコーヴィヤの日本人」という論考で詳細に述べておられる。日本のイエズス会出身で聖アウグスチノ会の日本人ニコラス修士は1597年ニコラス・メーロ師と共にローマに遣わされたが、途中モスクワで宗教上のことから1611年ニスナ(ニージュニー・ノーヴゴロドであろう)で処刑されたとある。これなどロシアに行った日本人では早い方であろう。

(94) 「北槎聞略」、桂川甫周、亀井高孝校訂、岩波文庫、1990年
 1782年駿河沖で遭難した大黒屋光太夫(1751~1828)一行のロシア漂流記で、約10年に及ぶロシアでの体験を帰国できた磯吉(1765~1838)とともに語っている。ペテルブルグで囚人が物乞いのため(当局は当時囚人に食事を支給しなかったので)に外に出されたなど同時代人として実際に現地で見聞したことや、最初に上陸したアムチトカ島で同じ小屋に寝起きしていた酋長の娘が口封じにロシア人たちに殺された現場にいたとか、光太夫や磯吉と共に帰国の途につき根室で死亡した小吉がその死体を埋めるのを手伝わされたとか、当時のロシア人と原住民との争いの様子も彼らは垣間見てきたのである。当時のロシアの状況を著したもので、他の書物にないのは、ペテルブルグでは糞尿を夜中に海上遠くに捨てていたとか、刑罰としての鼻ぎり(鼻そぎ、鼻裂き)は鋏にて鼻の穴をタテに裂くなりとか、ネヴァ河の氷上のアイススケート(木履の裏に鉄の半月形の歯をタテにつけたものとある)や、そのレンタルもあったことなどである。またモスクワの大富豪ジェミードフ(デミドフ)の招待の宴のひどさにエビヲナマチЕбёна мать (= Ёб твою мать 英語のFuck your mother!) と罵詈雑言を言っているのでこういう卑語も知っていたことが分かる。帰国の時の通訳のトゥゴルーコフТуголуковについては、彼の言葉は南部なまりの、しかも誤り伝えたることども多かりし故、初めのほどはよく聞き取れなかったと述べている。トゥゴルーコフの日本語の先生は南部生まれの漁師だったことが分かる。文体は古文だが分かりやすい。後ろの注も非常に詳しく丁寧である。

(95) 「初めて世界一周した日本人」、加藤九祚、新潮選書、1993年
 環海異聞(仙台若宮丸漂流民の書きとり)や新発見の史料をもとに描いた労作。人間は常に善だとか、常に悪だということはあまりなく、状況によって、また味方によって変わるわけとはいえ、著者が自らの収容所体験とダブらせて、感情移入が過ぎて多少漂流民びいきの描写のあるのはやむを得ないのかもしれない。

(96) 「ドゥーフ日本回想録」、ドゥーフ、永積洋子訳、雄松堂出版、2003年
 1833年初出。長崎出島のオランダ商館長ドゥーフ(1777~1835)の回想録。ジャワのバタビアもイギリスに占領された19世紀初め唯一長崎出島だけにオランダ国旗が翻っていたがその時の商館長。1799年から1817年まで滞日。1803年からは商館長としてロシアのレザーノフ訪日や1808年のイギリスのフェートン号事件、ジャワのイギリス副総督(ラッフルズ)からの使節応接など本書に詳しい。レザーノフ訪日のときに禁裏の宮廷の意見を求められたとある。ロシア人からは幕府の味方として嫌われたようだが、彼としてはオランダの代表としての言い分もあるし、それはそれでよく理解できる。ハルマ蘭仏辞書から蘭和対訳辞書を1817年作成した。これについてフィッセルやシーボルトが一言も触れておらず恰も自分たちが辞書を作ったかのように著書に載せているのには憤慨しているがこれももっともなことである。ゴロヴニーンの著作についても事挙げしてやや大人げないような気がするし、性格的にやや線が細いような気もする。参府の記録も細かい指摘もあり、将軍に謁見したときに正座が出来ないので横座りして、非礼なので足の裏を見せないようにマントでおおったとある。高橋景安、桂甫賢や馬場佐十郎らと交友があった。

(97) 「金谷上人御一代記」、横井金谷、日本人の自伝第23巻所載、平凡社、1982年
 一代の破戒坊主という言葉では破天荒な画僧横井金谷(1761~1832)のスケールの大きさを表すことはできない。いったいにユーモラスな筆致であり、母が夢に松茸を呑む夢を見て懐妊、2歳で乳母が誤って雪隠に取り落とし、糞松と称されると、のっけから驚かされるが、9歳で大阪の宗金寺に小僧として出され、木魚に小便、花瓶に糞をたれるなどイタズラ三昧。11歳ですでに女出入りがあり、すぐ草津まで放浪して、いったん寺に戻されるが、14歳で江戸の芝増上寺へ。しばらく勉強するも、18歳で江戸を逃げ出し、願人坊主などするが、それなりに僧としての学問をして21歳で北野金谷山極楽寺の住職になる。貧民を助けたりもするが、放浪の気持ちもだしがたく、九州まで遍歴し、その間浄瑠璃、絵、博打、水主兼船主、山伏も一流というのだからスーパーマンである。天草は女護が島であり(山多くして田畑少なく、男は舟手としてよそに出てしまうため)、船も女ばかりが水主であり、強チンされたとある。1794年四十七士の原惣右衛門の孫の4女久と結婚。惣右衛門の腰刀をもらい、ブタを連れて伊勢参宮をしたりして、後にこの豚が狼や野犬に襲われ尻を食われたときも、その刀で狼や野犬をぶった切るなど起伏ある出来事が続く。1804年三宝院御門主の大峰入御修業に鉞持ちとして参加、葛城、熊野三山を経巡る。文章は古文だが分かりやすく、面白い描写が多い。晩年息子の福太郎とともに富士登山をするが、嵐に遭ったときに、戸を開きて尿をすれば面にかかるなどと書いてある。鎌倉は藤原鎌足が霊夢により鎌を埋めた地なりとか、伊豆は湯出ずるの意味であるなど書かれている。同書には、「大崎辰五郎自伝」(1903年口述、林茂淳速記)も載っており、大崎辰五郎(1839~?)は江戸本郷生まれの大工だが、最後は家作をもつまでになったから庶民とはいえないが、キレやすく、やられたらやりかえせという主義で、悪い奴にひと泡吹かすのが趣味のような人である。著名な人物が出てこないという点でも自伝としては珍しい。同じく同書には壮士節の演者であり演歌者、社会運動家である添田唖蝉坊(1872~1944)の「唖蝉坊流生記」(1941年初出)も載っている。壮士節や流行節の歌詞も載っているのがよい。1906年ごろより社会運動に乗り出し、堺利彦とも知り合いであった。

Posted by SATOH at 12:46 | Comments [0]

2011年01月20日

●21.間違いやすいロシア語

「お忙しいところご足労いただき」というのは面談のときの決まり文句だが、忙しければ来るはずはないという理屈をつけて(日本語は非論理的だからとか)省略する通訳もいるやに聞く。レターなどではОбращаюсь к Вам с надеждой, что, несмотря на всю Вашу занятость, Вы нас примите.(お忙しいにもかかわらずお会いいただけるという希望を抱いてお願い申し上げます)とか、Отрываю Вас от Ваших дел своим письмом, но мое положение вынуждает меня к этому.(お忙しいところ恐縮ですが(この手紙でお手間を取らせて恐縮ですが)、私の置かれている立場もありやむを得ずお手紙を書きました)という文は見ないこともない。だが会話では、Мы вам благодарны за ваше внимание, за то, что вы нашли вреия нас принять .(お忙しい中お会いいただき感謝申し上げます)とか、что以下をвы уделили нам ценное (ценнейшее) время.とでもするのが普通だ。「はるばる」という表現も日本人はよく使いたがるが、これも無視する通訳もいるかもしれないが、私はСпасибо за то, что вы приехали из далёкой России (из далёкой Москвы).(はるばるロシア(モスクワ)からよくいらっしゃいました)などと訳すようにしている。この他にも、「この場をお借りして」などは、Пользуясь (этим) случаем, мы хотели бы выразить Вам нашу благодарность.(この場をお借りしてみなさまに感謝の意を表したいと思います)と訳せる。ご参考になれば幸いである。
さて和文露訳(和文解釈)における類語の使い分けを続けて書いて見る。シミュレーションもимитация термического воздействия(熱作用のシミュレーション)などと言うが、コンピューターを使ったものはмодель математического моделирования экономики(経済の数理シミュレーションモデル)と言うので注意が必要。日本語の穴は「くぼんだ所」という意味と、「向こうまで突き抜けたところ(小さなものは「孔」」という二つの意味があるが、ямаは前者で、地面の穴という意味が主であり、同義語のвыемкаやвпадинаだと、人体のくぼみにも使える。くぼみという意味でより一般的なのはуглублениеで、掘りごたつの下にあるくぼみにも使える。лунка はゴルフコースのホールやビリヤードのポケット、釣り用に氷に空けた小さい穴、後者の「孔」はотверстиеが技術用語としては普通である。дыра はотверстие と同義語だが日常語、пробоина は事故で船体に開いた大きな穴、дупло は虫歯の穴や木のうろ、прорубь 氷面にあいた大きな穴)である。

Posted by SATOH at 13:09 | Comments [2]

2011年01月17日

●20.間違いやすいロシア語

若者が使う俗語で「高っ」とか「低っ」というような言葉はロシア語の形容詞の短語尾に似ているなと最近気づいた。この俗語も修飾はできず、述語として用い、しかも「高い」とか「低い」という意味よりは、「高すぎる」とか「低すぎる」という意味で使うようだ。これなどロシア語のЭти туфли велики.(この靴は大きすぎる)などと同じような用法だなあと考えた次第。
和露辞典がプロの仕事をする上で頼りにならないとすれば、ロシア語の語彙収集にはいろいろな露文を読むしかない。時事ロシア語だけではなく、文学も、取扱説明書でもなんでもということで、重要なのは収集した単語をエクセルでもなんでもデータとして保存し、後でその訳が正しいかどうかチェックするという事である。例えばサービスも日本語ではタダというニュアンスもあるから露訳しにくい語である。接客や保守点検という意味ではобслуживаниеといい、アフターサービスпослепродажное обслуживаниеというが、товары и услуги(商品とサービス)のように、目に見えない商品や業種という意味ではуслугаを使う。службаは英語ではserviceのいう意味でも使うが、兵役とか仕事(肉体労働ではないいわゆるサラリーマンの仕事)という意であり、技術用語ではсрок службыは機械の寿命という意味で使う。ただ似た響きを持つ語のсервизはчайный сервизティーセットという意味である。タダという意味の「~はサービスです」と言いたいときは、例えばПри заказе любого горячего блюда из меню, суп и гарнитур – в подарок.(メニューから温かい料理をご注文下されば、スープと付け合わせはサービスです)のようにв подарокとも言える。グラフはграфикとдиаграммаは同義語だが、マーケッティングリサーチなどでは前者は折れ線グラフの意味で、後者は円グラフや棒グラフ(厳密には棒グラフはгистограмм)の意味で多く使うようだ。前置詞はнаを使う。日本語の開発には、天然資源を生活に役立つようにすることという意味と、実用化するや知識を開き導くことという意味がある。前者の意味ではосвоение〔освоение космоса(宇宙開発)〕を使い、後者の意味ではразработка〔разработка новой технологии新技術の開発〕となる。人材開発はразвитие людских ресурсовとするが、新規顧客の開拓ならпривлечение новых клиентовとなる。развитиеは発展という意味だが、展開や振興という意味でも使える。развитие сети ресторановはレストランチェーンの展開となり、региональное развитиеは地域の振興となる。

Posted by SATOH at 14:18 | Comments [0]

2011年01月09日

●日本の心 第18回

(84) 「阿蘭陀商館物語」、宮永孝、筑摩書房、1986年
出島(でしまDesimaと発音)や歴代の商館長に関して詳しい。本書で初めて知ったことだが、日本初の女性産科医でシーボルト(ジーボルトとも書かれる)の娘楠本イネ(1827~1903)は、ジーボルトの弟子の石井宗賢に船中で強姦された。この石井はシーボルトの弟子で、酒癖が悪かった。この後石井の妻がイネの母に謝りに来たという。イネは出産のとき赤ん坊のへその緒は自分で切り、こういうことも女医になろうとした原因であると言われる。彼女はポンぺの下で学び、彼の行った解剖にも女性として初めて立ち会った。イネは石井を憎んだが、その一回で、石井との間に高子が出来た。その高子も三瀬諸渕と結婚し、三瀬が亡くなった後、船中で片桐重明に強姦されて、一子をもうけたが、山脇泰助と結婚した。親子二代にわたっての不幸には言葉もない。

(85) 「オランダ風説書」、松方冬子、中公新書、2010年
 鎖国とはいっても4口(李氏朝鮮との対馬口、琉球との薩摩口、アイヌとの松前口、オランダ人や唐人〔中国人主体だが、シャムなど東南アジアの人を含む〕との長崎口)があったとか、ペリーの来航についてもオランダ風説書で1年前に情報を得ていたなど非常に興味深い内容である。

(86) *「江戸参府旅行日記」、ケンぺル、斎藤信訳、東洋文庫、平凡社、1977年
 ケンぺル(1651~1716)はドイツ人の植物学者。1683年スウェーデン使節としてロシアやペルシアも訪問している。訪日期間は1690~92年。2回参府したが、1回目の参府で赤尾浪士に討たれた吉良上野介の行列とも行き合わせ、立派な人物と評しているのも面白い。日本の鍼やもぐさを「10の珍奇な観察」という学位論文でヨーロッパに紹介している。5代将軍徳川綱吉に拝謁し、綱吉からオランダ風の踊りを踊れとか、いろいろ芸人のようなまねを強要されたということを書いている。当時の生類憐みの令の実態についても少し記述がある。密輸が多く、その刑死者の様子なども書かれている。ケンぺルは嫌いだった妻と喧嘩して激怒して腹痛の発作が高じて死去したというのも面白い。

(87) 「西洋紀聞」、新井白石、大岡勝義・飯盛宏訳、教育社、1980年
1708年鎖国後切支丹禁令を犯して潜入したヨハン・シドッチの尋問にあたった。当時の世界事情紹介とキリスト教批判の書。理詰めでのキリスト教批判についてはいかに白石の知性が当時の水準を抜いているかが分かる。

(88) 「ベニョフスキー航海記」、水口志計夫・沼田次郎編訳、東洋文庫、平凡社、1970年
ベニョフスキー(1746~1786)はハンガリー人で、本名はマウリティウス・アウグストゥス・ド・ベニョフスキーと言い、日本ではハンベンゴローという名でロシアの日本に対する野望を警告したので有名である。ただ本書は誇張が多く、どこまでが本当なのかという問題があり、本書に添えられた解説に沿って見てみると、ベニョフスキーはポーランド軍に入ってロシアと戦い、エカチェリーナ2世によりカムチャッカに流刑となった。1771年仲間と共にカムチャッカを脱出、千島列島を経て、同年阿波の日和佐、土佐湾、奄美大島近辺に停泊した。後に台湾、マカオを経て、アフリカを回り、フランスに渡ったというのが本書の内容であり、後にフランス政府からマダガスカルに派遣され、さらにアメリカを行き、再度マダガスカルで今度はフランス軍相手に戦い、流れ弾に当たって死んだ。注が完備しており、富永文蔵覚書、林子平の海国兵談、工藤平助の赤蝦夷風説考の所要個所が転載されている。

(89) 「蘭学事始」、杉田玄白、片桐一男全訳注、講談社学術文庫、2000年
 1771年より前野良沢(1723~1803)、中川淳庵(1739~86)とともに解体新書の和訳にあたった杉田玄白(1733~1817)の苦心談。

(90) 「江戸参府随行記」、ツュンベリー、高橋文訳、東洋文庫、平凡社、1994年
ツュンベリー(1743~1828)スウェーデン人の植物学者。1775~76年訪日。日本に初めて水銀による性病治療法をもたらした。当時の日本では梅毒(ロンドンでもモスクワでも流行っていたことは言うまでもない)と眼病(トラコーマならクラミジアという細菌が引き起こすもので、眼病のほかに性器クラミジア症の原因ともなるいわゆる性病で、感染すると数年後に卵管の通過障害となり不妊の原因となり、昔娼妓は妊娠しにくいといわれたが、クラミジアが原因だったのかもしれない)が流行っていた。これは劇的に効いたようで、蘭学を学ぶ動機の一つになったと言える。本書の日本および日本人に対する解説は簡にして要を得ている。10代将軍徳川家治に謁見した。船長は商館長と共に身体検査を受けないという特権を持っていたが、1772年台風で五島列島に流された船で禁制品が見つかり、それまでは腹の出張った船長しかいなかったが、その後は痩せた船長ばかりなので日本側が驚いたという。服の中に大量に禁制品を隠していたわけである。ツュンベリーは中川淳庵、桂川甫周とも接触があった。ツンベルグと表記される場合もある。

(91) 「ティチング日本風俗図誌」、沼田次郎訳、雄松堂書店、1970年
 イザーク・ティチング(1744ないしは1745~1812)はオランダ人で、1779年出島の商館長として赴任、1780年江戸参府、家治に謁見し、帰任した。1781年再度商館長として赴任、1783年帰任。1784年再び来日、同年帰任。結局3年8カ月日本に駐在した。本書は1822年出版で2部より成り、第一部は「将軍家家伝とその逸話」であり、1651年の由比正雪事件、綱吉の生類憐みの令、赤穂浪士、高尾、佐倉宗吾、田沼意知、吉宗時代の逸話など取り上げられており、切腹の作法、天皇と公方の関係など典拠が物語本からの翻訳のため、ティチングの日本語読解能力による誤解もあり、史実と異なるものがあるが、それなりに紹介している。第二部は「婚礼と葬儀」で、土砂という死体の死後硬直を解く薬について詳述している。当時の日本の棺は丸い桶か高い四角の箱だったので、死体を折り曲げる必要があった。死体の耳、鼻孔、口に土砂を入れると、すぐに手足が驚くほど曲げやすくなるのだという説明を日本人から受けたという。これは弘法大師の発明になるもので、砂に光明真言の加持を施したもので、死後硬直を解くのみならず、眼病に効き、分娩をしやすくするという。ティチングは1783年出島で死んだオランダ人に土砂で実験したところ、20分もしないうちに死体は軟らかさを取り戻したとのことである。ただ後にティチングよりベンガルでこの土砂を譲り受けたフランス人のシャパンティエ・コシーニュによれば、実験したが、死体は固いままだったとのことである。当時死後硬直のメカニズムは知られておらず、死後硬直の進展は環境温度等の影響を受けるが、通常死後2時間程度経過してから徐々に脳から内蔵、顎や首から始まり、半日程度で全身に及ぶ。30時間から40時間程度で徐々に硬直は解け始め、90時間後には完全に解ける。これをうまく利用したか、死後硬直した死体をそれとなく骨折させて、柔らかくなったように見せたのかもしれない。なにせ死人に口なしだからである。本書は図版も多い。ティチングは桂川甫周や中川淳庵とも親交があった。

Posted by SATOH at 11:36 | Comments [0]

2011年01月01日

●19.間違いやすいロシア語

С Новым годом! 九州の由緒ある神社に志賀海神社というのがあり、昔鹿の角を祈願成就の御礼に奉納され1万本あるという。また戦国時代の武将が兜に角をあしらったものも多数見受けられ、古来から角は日本人にとっては力や権力の象徴であったことが分かる。19世紀中ごろのロシア人作家で1880年代に訪日したこともあるクレストーフスキーは、長崎の諏訪神社を訪れたときに鹿の角のお供えを見て、Это жертва радости по случаю смерти супруги.(これは奥さんが亡くなったことへ喜びの供物である)と思ったと冗談めかして書いている。рогатый муж (рогоносец) というのはロシア人に限らず西洋では「寝取られ夫(妻に浮気された夫)」ということで、由緒ある武将の角の生えた兜を見て、西洋人がどう思うかはこれで分かる。「世界の」という形容詞にはвсемирныйとморовойがあるが、同義語で若干の例外を除き、語結合にはどちらも使われる。その例外というのは、мировая война(世界戦争)、всемирная история(世界史)、всемирная литература(世界文学)である。вселенскийやвсесветныйも同義語だが、文語ないしは皮肉交じりに使われる。

Posted by SATOH at 10:15 | Comments [0]