2011年01月09日
●日本の心 第18回
(84) 「阿蘭陀商館物語」、宮永孝、筑摩書房、1986年
出島(でしまDesimaと発音)や歴代の商館長に関して詳しい。本書で初めて知ったことだが、日本初の女性産科医でシーボルト(ジーボルトとも書かれる)の娘楠本イネ(1827~1903)は、ジーボルトの弟子の石井宗賢に船中で強姦された。この石井はシーボルトの弟子で、酒癖が悪かった。この後石井の妻がイネの母に謝りに来たという。イネは出産のとき赤ん坊のへその緒は自分で切り、こういうことも女医になろうとした原因であると言われる。彼女はポンぺの下で学び、彼の行った解剖にも女性として初めて立ち会った。イネは石井を憎んだが、その一回で、石井との間に高子が出来た。その高子も三瀬諸渕と結婚し、三瀬が亡くなった後、船中で片桐重明に強姦されて、一子をもうけたが、山脇泰助と結婚した。親子二代にわたっての不幸には言葉もない。
(85) 「オランダ風説書」、松方冬子、中公新書、2010年
鎖国とはいっても4口(李氏朝鮮との対馬口、琉球との薩摩口、アイヌとの松前口、オランダ人や唐人〔中国人主体だが、シャムなど東南アジアの人を含む〕との長崎口)があったとか、ペリーの来航についてもオランダ風説書で1年前に情報を得ていたなど非常に興味深い内容である。
(86) *「江戸参府旅行日記」、ケンぺル、斎藤信訳、東洋文庫、平凡社、1977年
ケンぺル(1651~1716)はドイツ人の植物学者。1683年スウェーデン使節としてロシアやペルシアも訪問している。訪日期間は1690~92年。2回参府したが、1回目の参府で赤尾浪士に討たれた吉良上野介の行列とも行き合わせ、立派な人物と評しているのも面白い。日本の鍼やもぐさを「10の珍奇な観察」という学位論文でヨーロッパに紹介している。5代将軍徳川綱吉に拝謁し、綱吉からオランダ風の踊りを踊れとか、いろいろ芸人のようなまねを強要されたということを書いている。当時の生類憐みの令の実態についても少し記述がある。密輸が多く、その刑死者の様子なども書かれている。ケンぺルは嫌いだった妻と喧嘩して激怒して腹痛の発作が高じて死去したというのも面白い。
(87) 「西洋紀聞」、新井白石、大岡勝義・飯盛宏訳、教育社、1980年
1708年鎖国後切支丹禁令を犯して潜入したヨハン・シドッチの尋問にあたった。当時の世界事情紹介とキリスト教批判の書。理詰めでのキリスト教批判についてはいかに白石の知性が当時の水準を抜いているかが分かる。
(88) 「ベニョフスキー航海記」、水口志計夫・沼田次郎編訳、東洋文庫、平凡社、1970年
ベニョフスキー(1746~1786)はハンガリー人で、本名はマウリティウス・アウグストゥス・ド・ベニョフスキーと言い、日本ではハンベンゴローという名でロシアの日本に対する野望を警告したので有名である。ただ本書は誇張が多く、どこまでが本当なのかという問題があり、本書に添えられた解説に沿って見てみると、ベニョフスキーはポーランド軍に入ってロシアと戦い、エカチェリーナ2世によりカムチャッカに流刑となった。1771年仲間と共にカムチャッカを脱出、千島列島を経て、同年阿波の日和佐、土佐湾、奄美大島近辺に停泊した。後に台湾、マカオを経て、アフリカを回り、フランスに渡ったというのが本書の内容であり、後にフランス政府からマダガスカルに派遣され、さらにアメリカを行き、再度マダガスカルで今度はフランス軍相手に戦い、流れ弾に当たって死んだ。注が完備しており、富永文蔵覚書、林子平の海国兵談、工藤平助の赤蝦夷風説考の所要個所が転載されている。
(89) 「蘭学事始」、杉田玄白、片桐一男全訳注、講談社学術文庫、2000年
1771年より前野良沢(1723~1803)、中川淳庵(1739~86)とともに解体新書の和訳にあたった杉田玄白(1733~1817)の苦心談。
(90) 「江戸参府随行記」、ツュンベリー、高橋文訳、東洋文庫、平凡社、1994年
ツュンベリー(1743~1828)スウェーデン人の植物学者。1775~76年訪日。日本に初めて水銀による性病治療法をもたらした。当時の日本では梅毒(ロンドンでもモスクワでも流行っていたことは言うまでもない)と眼病(トラコーマならクラミジアという細菌が引き起こすもので、眼病のほかに性器クラミジア症の原因ともなるいわゆる性病で、感染すると数年後に卵管の通過障害となり不妊の原因となり、昔娼妓は妊娠しにくいといわれたが、クラミジアが原因だったのかもしれない)が流行っていた。これは劇的に効いたようで、蘭学を学ぶ動機の一つになったと言える。本書の日本および日本人に対する解説は簡にして要を得ている。10代将軍徳川家治に謁見した。船長は商館長と共に身体検査を受けないという特権を持っていたが、1772年台風で五島列島に流された船で禁制品が見つかり、それまでは腹の出張った船長しかいなかったが、その後は痩せた船長ばかりなので日本側が驚いたという。服の中に大量に禁制品を隠していたわけである。ツュンベリーは中川淳庵、桂川甫周とも接触があった。ツンベルグと表記される場合もある。
(91) 「ティチング日本風俗図誌」、沼田次郎訳、雄松堂書店、1970年
イザーク・ティチング(1744ないしは1745~1812)はオランダ人で、1779年出島の商館長として赴任、1780年江戸参府、家治に謁見し、帰任した。1781年再度商館長として赴任、1783年帰任。1784年再び来日、同年帰任。結局3年8カ月日本に駐在した。本書は1822年出版で2部より成り、第一部は「将軍家家伝とその逸話」であり、1651年の由比正雪事件、綱吉の生類憐みの令、赤穂浪士、高尾、佐倉宗吾、田沼意知、吉宗時代の逸話など取り上げられており、切腹の作法、天皇と公方の関係など典拠が物語本からの翻訳のため、ティチングの日本語読解能力による誤解もあり、史実と異なるものがあるが、それなりに紹介している。第二部は「婚礼と葬儀」で、土砂という死体の死後硬直を解く薬について詳述している。当時の日本の棺は丸い桶か高い四角の箱だったので、死体を折り曲げる必要があった。死体の耳、鼻孔、口に土砂を入れると、すぐに手足が驚くほど曲げやすくなるのだという説明を日本人から受けたという。これは弘法大師の発明になるもので、砂に光明真言の加持を施したもので、死後硬直を解くのみならず、眼病に効き、分娩をしやすくするという。ティチングは1783年出島で死んだオランダ人に土砂で実験したところ、20分もしないうちに死体は軟らかさを取り戻したとのことである。ただ後にティチングよりベンガルでこの土砂を譲り受けたフランス人のシャパンティエ・コシーニュによれば、実験したが、死体は固いままだったとのことである。当時死後硬直のメカニズムは知られておらず、死後硬直の進展は環境温度等の影響を受けるが、通常死後2時間程度経過してから徐々に脳から内蔵、顎や首から始まり、半日程度で全身に及ぶ。30時間から40時間程度で徐々に硬直は解け始め、90時間後には完全に解ける。これをうまく利用したか、死後硬直した死体をそれとなく骨折させて、柔らかくなったように見せたのかもしれない。なにせ死人に口なしだからである。本書は図版も多い。ティチングは桂川甫周や中川淳庵とも親交があった。