2009年02月03日
●新帯研 第43回
原求作先生の「ロシア語の体の用法」の読者の書評に「誰にでも分かるような用法なら、「整理して、まとめて書く」ことも簡単ですが、いわば、用法の端っこの方になればなるほど、「まとめて書く」なんてことは難しくなります。この本は、そんな、ちょっと向こうの方の用法を、分かりやすく解説した本で、体の基本的な使い方をマスターした人には大いに役に立ちます」とあった。体の基本的な用法というのは、完了体は完了を示し、不完了体は、過程、習慣、一般的なできごとを示すということなのだろうか?ロシア語で道を尋ねたり、ホテルのチェックイン程度できればよしとする、いわゆる趣味や余技のロシア語程度なら、その通りかもしれないが、プロを目指すなら、少なくとも本書に書かれているようなことは体の基本的用法であり、最低限マスターすべきである。本書は、「ロシア語の運動の動詞」とともに必読書である。この体の基本的用法を理解しないと、ロシア人の使う簡単な言葉のニュアンスすら分からず、しかも、会話や作文でもほぼ不完了体の現在形(「いつも~である」とか、「一般的に~である」)しか使えず、いつまでも外国人のロシア語から離れることができずに、一方通行の子供の会話のままで終わることになりかねない。今回の課題は、
Мать со взрослой дочерью входят в кабинет к врачу.
- Попрошу раздеться, - говорит врач девушке.
- Но больна не дочка, а я, - поясняет мать.
- Ах, Вы! В таком случае покажите язык.
設問)和訳せよ。
2009年02月10日
●新帯研 第44回
パオロ・トゥルベツコーイПаоло Трубецкой (1866 – 1938)は、公爵とはいえロシアの貧乏外交官だった父とイタリア人の母の間に生まれたイタリアの彫刻家・画家である。ロシア語は話せなかったが、召使はみなロシア人であり、ロシア的なものを好んだ。ベジタリアンであり、客(多くは女性)を自宅に招待しても、客には肉料理を出すのだが、その牛や豚がどのような悲惨な思いで死んでいったかを長々と話し、そのため肉料理は手つかずであることが多かった。シベリア犬(ジャーナリストのドロシェーヴィチによれば飼い馴らした狼ではないかという)をペットとして飼っていたが、丸丸と太ったそのペットもベジタリアンであると吹聴し、「肉というのは犬にとっても悪い習慣にすぎない」と言ってのけた。ところが、ある朝、隣の工場の料理女がかわいそうに思ってか、その犬に骨や余った肉をやっているのを見つけたパオロは、ひとこと、「えい、獣めが」と言ったきり絶句し、この料理女を誘惑者イブであるかのように憎悪したという。
パオロは読書をしたことがなく、あるとき有名なトルストイの彫刻をすることになり、イタリアに来たトルストイが、その頃フランスで出版された「芸術について」というトルストイの書いた本を読んだかと問うたところ、否とのことだった。トルストイはこの本はパオロにとっても興味深いのではないか、読んでみたらと述べ、次の日に読んだかどうか聞いてみたところ、
「2ページ読みました」
「気に入らなかったのかね?」
「眠ちゃったんです」
これにはさすがのトルストイも大笑いだった。自分は理論家ではなく、芸術家なのだという矜持を持っていたのだろう。今回の課題は、
Стук в кабину туалета:
- Товарищ...
Ещё более нетерпеливо:
- Товарищ...
Можно сказать отчаянно:
- Товарищ, у меня понос.
Из кабины скрипучий, кряхтящий голос:
- Счастливчик.
設問1)オチが分かるように訳せ。
設問2)поносは医療用語だが、日常では普通何というか?
2009年02月12日
●新帯研 第45回
1990年代初め、ハバロフスクに出張した時にそこのイントゥーリストホテルにお客さんと一緒に泊まった。当時日本のラーメンが合弁会社で進出し、なかなかおいしいと評判だった。カニも安く、博物館に飾るようなでかいカニが二人で1杯2,000円くらいだったと思う。いつもは食事のときにいろいろ話をするのだが、このカニのときは二人とも無言で、しかも手を血だらけにして食べた。食べるのに夢中でカニのトゲの痛みに気がつかなかったのである。宿泊していたホテルで夕食を食べようと思っていると、スウドンとロシア語で書いてある。ラーメンの次はうどんかと思い、二人で頼んだ。見た目は月見うどんのようである。食べてみて驚いた。酸っぱいのである。酢うどんだったのである。嘘のようなホントの話。今回の課題は、
О происхождении языка.
Сидят папуасы. Один: «Ба-ба-ба-ба». Другой: «Бу-бу-бу-бу». Третий: «Ба-бу бы»
設問1)オチが分かるように和訳せよ。
設問2)высотаとуровеньの違いを分かりやすく説明せよ。
●ロシア語質問箱 第5回
千夜一夜物語というとバートン版が有名だが、最初のモスクワ駐在の時(25年前)に本のベリョースカ(外貨店)でサーリエСальеという人がアラビア語からロシア語に訳した4巻本(Правда, 1986年)を買った。第1巻は読んだのだが、そのまま放置してあったのを思い出し、最近20年ぶりに手に取って読みだしたら、結構面白い。バートン版を読んだわけではないが、第1巻には「アラジンと魔法のランプРассказ про Ала ад-Дина и волшебный светильник」、「アリババと40人の盗賊Рассказ про Али-Баба и сорок разбойников и небольницу Марджану, полность и до конца」などが収められている。アラジンの方は童話やアニメで聞いたり、見たりしたものとは幾分違う。アラジンは中国生まれであり(その中国の様子はアラブとしか思えないけれど)、悪童で街の悪ガキと遊ぶのが大好き。とうとう父親が心配のあまり死んでしまった。16歳のとき今のアフリカのリビアから魔法のランプを求めてやって来た魔法使いに言いくるめられて、ランプのある地下の洞窟に入る。魔法使いから魔法の指環をもらい、それをもってランプをもって地上に戻ろうとするのだが、ランプを渡そうとしない(ランプをポケットの奥にしまい、そこに宝石を詰め込んだのですぐには出せないため)アラジンに業を煮やした魔法使いは、洞窟の出入り口を魔法で封鎖してしまうが、魔法の指輪の精の力で、外に出る。その後、母親の勧めでランプを売ろうとしては汚いランプを母親がこするとランプの精が現れるという次第である。このランプの精は顔がさかさまについているという恐ろしい魔神だったが、言う通りに豪勢な料理をアラジンと母の前に出してくれた。最後はめでたしめでたしなのだが、その魔神が、アラジンの要求に愛想を尽かすというもの。アリババにも息子がいたりして面白い。
(質問)う~ん、難しい。やっぱり完了体・不完了体は奥が深いですね。これだからわからなくなってしまうのです。でも、私などは言われるまでそんなところに気づきませんでした。これは文法的にはどうとらえればいいのでしょうか。その行為をしっかり完了して下さいということを頭において言っているととらえてもいいですか? by メイ(新帯研第44回へのコメントから)
(回答)「トイレはどこか教えてください」と言う意味でГоворите, где туалет? は文法的に成り立たないと前に書いたが、厳密に言うと、文脈次第でちゃんとしたロシア語として通用するときもある。露訳された千夜一夜物語の中で、女詐欺師に騙された染物屋が、これも騙された将軍の妻や若い商人を共犯者だと勘違いして、二人に対して開口一番、Говорите, где она!という。この場合は、相手を共犯者だと思い込んでいるから、質問は「あの女詐欺師はどこだ?」というこれしかない。それで不完了体が出てくる。Говорите, где туалет?も、駅でトイレがしたくて股間を抑えているようなときに、その駅の職員が通りがかったら、駅員は駅のトイレの場所を知っているのが当然で、しかもただならぬ様子を見れば、察するはず。そういうときは、不完了体が出てくる。Скажитеという完了体は、新しい情報を得たいときに使う(これが質問するときの一般的な形態である)。つまり、完了体と不完了体の用法の違いを一言で言うと、完了体は「新規なもの、想定外のもの、場違いなもの」に用いられ、不完了体は、「その場では意識にのぼらないほど当然であることに用いられる」となるが、初級者・中級者では、具体的に命令法、不定形、過去形、未来形、現在形に分けて、それぞれ勉強した方が分かりやすいと考える次第。完了体は完了を意味し、不完了体はそれ以外と考えると一部の体の用法しか理解できないことになる。体の用法は露文解釈で基本を覚えるのが重要だが、そこで止まっていては畳の上の水練と同じである。ロシア人と会話するときに意識的に納得のゆく体を使えるよう積極的に心がけることである。