2012年05月02日
●和文解釈入門 第348回
「彼は通学している」を露訳するとして、小中学校なら簡単である。Он ходит в школу.とすればよい。ところが大学となるとそう簡単ではない。小中学校なら普通は歩いて通うから問題がないが、大学生が大学に歩いて通えるとしたらよほど稀な現象であろう。普通はバス停や駅まで歩き、その後電車か地下鉄か、バスに乗り、着いたらまた歩いて大学に行くというのが普通であろう。となるとОн ездит в университет.としなければならないのだろうか?こういう疑問の答えは露和辞典や参考書を見ても出ていない。Учебный словарь сочетаемости слов русского языка, Денисов, Русский язык, 1978という語結合辞典があり、ходитьの2番目の語義にбывать где-либо, посещать кого-что-либо, отправляться куда-либоという意味を与え、それには歩いて(1番目の語義にはдвигаться шагомとある)という意味が書いておらず、ходить в школу (в институт, в университет, в цирк, в театр, в парк, в ресторан, в гости), ходить на работу (на завод) という語結合の例が載っている。こうなると仕事に歩いて行ける人とか、レストランに歩いて行けるレストランというのは限られるわけだから、歩くという事を度外視してもよいのではと考えるようになった。
念のためガイドの仕事をしていたときに、ロシア人のインテリ女性に「彼は大学に通学する」という最初の段落の例をどうロシア語でいうのか聞いて見たら、一番論理的なのは Он добирается к университету.であろうが、一番ロシア語で聞くのはОн ходит в университет.である。Он ездит в университет.というのはdoor-to-doorで、車とか自転車で通学する場合ではないかとのことだった。добратьсяは苦労して到達するというニュアンスが普通はある。無論露露辞典には、そのようなニュアンスのない例もあるから使えることは使える。一人のロシア人の答えを鵜呑みにするつもりはないが、そばで聞いていた二人のロシア人も特に異論は述べなかったし、語結合辞典にもそう書いてあるので、そのように理解してよいのではないかと思う。この点につき何かコメントがあれば投稿願う。
設問)「降りるときになったら声をかけてください」をロシア語にせよ。
2012年05月03日
●和文解釈入門 第349回
電話の(佐藤さんをお願いします)Господина Сато, пожалуйста.に対して、(どちら様ですか?)Кто его справшивает?のспрашиваетは一見「過程」の用法のように見える。このспрашивать = просить позвать кого-либо или дать субъекту возможность войти в контакт с кем-либо「呼んでくれるように頼む」という意味で、動作の終了を意味している。このような動詞は過程の意味では使えない。過程というのは動作が終了していないその途中だからだ。論理的に言えば完了体過去形を使って結果の現存の用法を使うべきだが、そうはなっていないし、不完了体の現在形を使っている。つまりこの動詞は動作遂行型の動詞ということになる。
設問)「家々は窓まで水浸しだった」をロシア語にせよ。
2012年05月04日
●和文解釈入門 第350回
ロシア人観光客を地下鉄や電車、新幹線に乗せようとすると、まず自動改札口の通り方を説明しなければならない。簡単なようだが、体の用法から見ると、「切符を入れて、取ってください」に3つの言い方が考えられる。
Вставьте билет (в щель турникета) и его заберите.
Вставьте билет (в щель турникета) и его забирайте.
Вставляйте билет (в щель турникета) и его забирайте.
最初のは動詞が両方とも完了体未来形で、順次的用法である。切符を入れて、すぐ取るという感じである。これは一人、ないしはグループの代表の人に通り方を教えているという感じがする。3番目のは一般的に自動改札口はこう通るのですという説明の感じがして、ガイドや通訳の現場で使うには、やや抵抗がある。何人かのロシア人の前でという事なら可能かもしれない。問題は2番目の文である。最初に完了体命令形が来るのは、新しい事態の生起だからである。次に不完了体命令形がなぜ出てくるのだろう?これは切符を自動改札機のスリットに入れると、別のスリットから切符が勝手に出てくるわけで、その切符というのは、出てきた以上、そのまま取りなさいという状況(回りの環境に合わせて動作をしなさいという正に不完了体の用法)を示していると考えられる。ガイドや通訳というのは、「今~せよ」というような具体的な動作を指示することが多いので、個人的には2番目で言う事が多い。
設問)新聞の見出しにある「原発停止」をロシア語にせよ。
●和文解釈入門 第351回
試合という意味のсоревнованиеは普通複数で用い、サッカーの試合はсоревнования футболистов, соревнования по футболу (в футболе)とする。他にвстреча по хоккею(ホッケーの試合)、схватка(レスリングや柔道などの勝負)という言い方もできる。матчならматч по футболу (футбольный матч)となる。フェンシングならバウトбойという。
騎手はвсадник, наездникが普通だが、наездникにはサーカスの曲馬乗りという意味もある。競馬ではжокейだが、競馬の中のチャリオットの騎手はподдужныйという。
「味見する」はпробовать (на вкус) = отведатьだと、試飲、試食両方に使える。откушатьは試食のみで、дегустироватьはワイン、茶、タバコのみに使う。「制限時間」はスポーツなどではконтрольное времяというが、発表や発言の制限時間はрегламентである。
設問)「お支払はどの通貨でなされますか?」をロシア語にせよ。
2012年05月06日
●和文解釈入門 第352回
不完了体未来形については第351回にも出題したが、疑問詞があれば不完了体未来形を使うと考えるのは必ずしも正しくない。あくまでも論理的アクセントが動詞に来ないというのが前提である。そういう説明では分かりにくいと思うので、実際にビジネスのクレーム(損害賠償請求)の交渉のときに完了体未来形を使った例があるので、その参考に供したい。当時問題になったのは地震で日本側の設備のデリバリー(納入)が遅れたことにある。自然災害は不可抗力条項(免責条項の一つ)として、納入が遅れても売主は責任を取らなくてもよいように普通は具体的に例を挙げて、契約書に記載されている。しかし、当時契約書の書式はソ連側のものを使う事になっており、その例の中に地震の記載がなかったわけである。交渉の中でКакие меры вы примете в связи с форс-мажорными обстоятельствами?(不可抗力状況に際してどのような措置を取りますか?)という発言があった。この文には完了体未来形を使っているが、この時点では双方とも不可抗力条項が発動されるかどうかについては合意してはいない(ソ連側がOKしない)。そのため具体的な措置を取るとかどうかさえ分からず、不可抗力条項が適用されないかもしれないという懸念が日本側にもあったのである。使われている動詞はразбитьのような瞬間動詞でもないから、形式的に言えば不完了体未来形も使えるはずである。
ここで第351回の設問を見てみたい。「お支払はどの通貨でなされますか?」となっている。つまりこの場合は支払するのは当然であって、問題なのは支払う通貨がドルか、ユーロか、円かということが明らかである。しかし、この不可抗力条項についての交渉の場合は不可抗力については解釈がいろいろある場合もあるから、このビジネスの文言は「どんな措置」ではなく「なんらかの措置を取ってくれるか」という事自体が話し手の関心事であることが分かる。当然措置を取ってくれるという前提なら、聞き手の関心は「どんな措置」に論理的アクセントが来て、不完了体未来形が来るはずだからだ。こういう懸念は後で述べる叙想的ニュアンスの一つである。
同じ「支払う」と疑問詞の組み合わせ、例えば、А кто оплатит расходы, если такая ситуация возникнет?(このような状況が起こったら、だれが費用を払ってくれるのですか?)という文でも、一番の問題は「誰が」ではなく、「払ってくれるか」という動作そのものが問題であることが分かる。払ってくれないかもしれないという懸念と、誰も払ってくれないという反語的ニュアンスも前後の文脈によっては感じ取れるのである。しかも、еслиの節に完了体が来ているから、例示的用法(もしそういう事態があるとしたならば)であることも分かる。このように動作自体が問題であれば、(瞬間動詞の場合だって必然的に動作自体に注目が集まるから完了体が来ると言えないこともない)、完了体未来形が来る。
このように露文解釈で見る分には割合簡単に推測できるが、自分が会話で即座に和文露訳するとなると、常に自分たち(通訳する相手の)の利害(特に金銭的な)に関わるかどうかを常に念頭に置いて、そうであれば動作そのものに論理的アクセントが来る可能性が高いので、完了体未来形を使う可能性が高いという風に理解しておくとよい。利害に関係しないなら不完了体が来るという風な理解でもよい。
完了体には叙想的ニュアンスがある。ところで、この「叙想」という語は広辞苑を引いても出ていないが、意味するところは「思うところを述べる」という感じである。述べる内容は、話者の思いであるので、個人的で主観的な事柄となる。つまりしばしば現実とも乖離し、婉曲な表現を取ることもある。このような主観的なことを言う時には、「直接法」は用いないで、「叙想法」(仮定法)を使うのである、という説明を聞いたことがあり、なるほどと思ったので今後完了体のニュアンスについてはこの語を用いることにした。第300回の表にも今後の改訂版では叙想的ニュアンスという言葉で説明することにするので、一応ここに書いておく。
一方不完了体は動詞の語義が生(き)のまま出ているもので、虚心坦懐とか無心の心ということで、上記のような懸念や雑念(?)も含めた叙想的ニュアンスがないものだということをよく理解してほしい。そうすれば単に事実の有無の確認なら不完了体未来形(過去形)を、叙想的ニュアンス(主観的な想い)があると思えば、完了体未来形(過去形)が出てくるというように、ある程度体の使い分けができるのではないかと考える。
設問)「人の足が踏みいれたことがない野生のツンドラで彼らは暮らしている」をロシア語にせよ。
2012年05月07日
●和文解釈入門 第353回
資金はсредства, денежные средстваだが、国家や企業の場合はфондが使える。費用や出費は一般的にはрасходыを使い、тратыは日常的な出費に対して用い、издержкиは予想外とか、余計な出費というニュアンスがある。затратыの使用は稀である。ただビジネス関係ではиздержки, затратыもそういうニュアンスなく使っているようである。衝突はстолкновениеだが、文語ではколлизияを使う。脱走はпобегが普通だが、бегствоも使える。ただбегствоはより広義で、本義が逃亡という意味である。手形はвексельで、約束手形はпростой вексельといい、為替手形はтратта = переводный вексельという。摩耗はизносだが、回転による摩耗をвыработкаという。無視は無関心という意味ならпренебреждениеだし、規則の不履行という意味ならнесоблюдениеとなる。
設問)「ご両親は血圧が高めでしたか?」をロシア語にせよ。
2012年05月08日
●和文解釈入門 第354回
前置詞のвやнаは対格と結びつくと移動の方向を、前置格と結びつくと位置(所在)を示すというのは初級のときに習う。ところが動詞によっては、通常は移動の方向を示すのには対格が来るが、意味によっては例外的に前置格が来る場合があるものもある。これは多義語の動詞の場合、状態の意味が強く出る語義には位置(所在)を示すものがあるという事からだろう。
поместить/помещатьは新聞や雑誌に載せるという意味ではпоместить статью в журнале(記事を雑誌に載せる)のように前置格が来る。смотреть/посмотерьも同様である。
смотреть галстук в магазине(店でネクタイを見る)
смотреть новое слово в словаре(新しい単語を辞書で調べる)
лечь/ложитьсяは眠るという意味では前置格を、移動の方向を示す時は対格となる。
Я хочу лечь в саду.(庭で寝たい)
Собака легла на пол.(イヌは床で横になった)
класть/положитьでは一定の時間置いておく、一定の時間残しておくという場合や、寝かしつけるという意味では前置格が来る
Книги для тебя я положу на подоконнике.(お前のために本は窓台に置いたよ)
В тёплые дни можно класть ребёнка на балконе.(暖かい日は赤ん坊をバルコニーで寝かせてもよい)
ставить/поставитьでは部屋の中という意味なら前置格が来る
В столовой поставили ёлку.(食堂にクリスマスツリーを置いた)
ついでにв/на + 対格とк + 与格の違いを和文露訳するときによく理解していない人がいるかもしれないので書いておく。例えば、「駅に行く」という文にはидти/ехать к станцииとидти/ехать на станциюが考えられるが、後者は駅のテリトリーに入るという意味で、前者は入るということを意味しない。к + 与格は人にだけ使うと勘違いしている人もいるかもしれないので念のため書いておく。
設問)「ここを触ると痛いですか?」をロシア語にせよ。
2012年05月09日
●和文解釈入門 第355回
思うところがあって第341回にかなり手を入れたので、ご興味のある方はご一読願う。
日記を毎日ロシア語でつければロシア語の和文露訳の力が向上すると思う人もいるかもしれない。基本的な文法をやり、和露辞典を片手に毎日2行か3行でも続けるのはそれほど難しくはないだろう。しかし、ロシア語の場合はすぐに体という問題が立ちはだかる。何も考えずに不完了体だけで書いて行くという考え方もあるが、添削してもらわない限り、間違った用例を覚えてしまい、結局徒労という事になりかねない。
ロシア語で日記をつける前提というのは、日本語の作文が書けるということである。しかし、誰でも日本語で正しい文が書けるというわけではないのである。ロシア語にせよ、外国語の勉強をするなら、それと並行して正しい日本語を話す・書く練習というのも不可欠である。通訳すると分かるが、訳のわからない日本語を話す人がたまにいる。自分の考えるがままに、相手との意思疎通を考えないで喋りまくるタイプである。相手の言う事を聞いていないのだ。英語など外国語のできる人の通訳はしやすい。区切って、論理的に話してくれるからだ。そうでないと、こちらが頭の中で、わけの分からない日本語を正しい日本語へ翻訳してから、それをロシア語にするという二度手間をせざるを得ないし、訳が正しいかの保証もない。
体の用法と単数・複数は自学自習が非常に難しいものである。体の用法の参考書は少ないとはいえ、いくつかあるが、いずれも露文解釈用であり、これを会話の和文露訳用に読み替えるのは初級者や中級者には無理だと思う。単数・複数の使い分けについては比較的簡単だが、単数か複数か漠然としたものには複数を使うということを指摘した文法書はないと思う。これは文法書の観点も露文解釈用だからだ。プロとしての会話での多年にわたる和文露訳の経験がなければ、そういう観点を持てないと思う。ただそういう観点だけでも和文露訳の指導はできないことも確かである。確かな文法の知識が不可欠であることは言うまでもない。
体の参考書所載の用例にも純粋に一般的な会話で使われるものはあまりない。一番良いのは、市販の会話集にある用例を体の用法に沿って細かく説明することだが、会話集というのは、私の書いたのも含めて、丸暗記用だから、この点の配慮がまったくない。なぜ別の体ではいけないのか、あるいはニュアンスが変わるのかを徹底的に説明してもらわないと、少しでも動詞が変わると、これでいいのか不安になる。一般のロシア人は体の用法については正しく使えることはもちろんだが、なぜその体を使うのかについては自分の推測は言えても、正しい説明することはできないだろうし、その説明ができるロシア人のロシア語学者が日本に在住としている可能性はほとんどないに等しい。また仮にいたとして、日本語で初級者や中級者向けに丁寧に説明できるのかというなら、それはまったく無理だろう。
日本語のできない、あるいはかなりよくできるにせよ、ロシア人に露文を見てもらうのは、あくまで露文のチェックであり、和文露訳のチェックではないということと、チェック結果が原文の和文とかけ離れていたり、ニュアンスが異なる場合もあるという事を常に念頭に置いておく必要がある。
設問)デパートの衣服コーナーで「夏ものを何か見せてください」をロシア語にせよ。
2012年05月10日
●和文解釈入門 第356回
未来時制においてбыть動詞の未来形 +被動形動詞過去短語尾は、動作主を明示したくない場合に使える。動作主があれば動作を示すが、なければ、結果の存続から派生して、動作ではなく、質的状態の意味を持つ。過程を無視して結果を重視するときにこの用法を使う。
(請負業者は全てに必要な取り扱説明書を作成し、発注者に引き渡す)Подрядчиком будут разработаны и переданы заказчику все необходимые нгструкции по эксплуатации.
この文には動作主があるので、未来時制における動作を示すとともに、二つの文の主語を一つにまとめるということと、順次的な用法として被動形動詞過去短語尾が未来時制で使われている。不完了体未来形では未来での繰り返しを除いて、これを表現できない。
(ご要望は設計書類作成のときに考慮します)Ваша просьба будет учтена при разработке технического прокета.
(技師には全ての作業の検査と査察ができるようにする)Инженеру будет предоставлена возможность осмотра и инспектирования всех работ.
(スペアパーツの件はどう片をつけますか?)Как будет решён вопрос с запасными частями? – 解決済みにすることに文のアクセントがある。
(高圧線の建設は8カ月後に終了します)Строительство линии высоковольтной передачи будет завершено через 8 месяцев.
ся動詞の不完了体未来形も動作主を明示しない場合に使えるが、状態ではなく、動作やその過程のニュアンスが出てくるとき、動作の繰り返し、文の論理的アクセントが動詞に来ない場合に使う。
(下請けの人に住居を確保する件はどう片をつけますか?)Как будет решаться вопрос обеспечения персонала Подрядчика жильём? - 文のアクセントはКакに来ている。
(その施設の最終検収〔立ち会い試験〕は設計指標達成後に行われる)Окончательная приёмка объекта будет осуществляться после достижения им проектных показателей.
(口銭はどのように支払われるのですか?)Как будут выплачиваться комиссионные? – 未来における繰り返し、それとКакに論理的アクセントが来ている。
(作業の指導はどのように〔今後〕行われるのですか?)Как будет осуществляться руководство строительством? – 文の論理的アクセントはКакに来ている。
(全ての作業は労働安全要求事項に基づき〔これから〕行われる)Все работы будут выполняться в соответствии с требованиями техники безопасности.
(テスト実施期限が近づくに伴い、そのような材料の明細〔リスト〕を貴社に渡します)По мере приближения сроков проведений испытаний будут вручаться вам ведомости таких материалов. – 過程なので不完了体以外は使えない。
不完了体未来形3人称を使っての不定人称文でも表せる。用法的にはся動詞と同じだが、不定人称文は現在の時制では受け身の代わりとして広く用いられるのに対し、未来の時制での使用は、ся動詞に比べるとそれほど多くない。これは未来というものが基本的に不確定であるのに、さらに主語を明示しないという用法が不確定さを増すと考えるからではないかと思う。
(お迎えが来ますか?)Вас будут встречать? – 動作の有無の確認
(わが市にも繊維コンビナートが建設される)В нашем городе будут строить тексильный комбинат.
設問)修理スペック(仕様書)にある指示「バルブを組み立て、元の場所に設置すること」をロシア語にせよ。
2012年05月11日
●和文解釈入門 第357回
この和文解釈入門を始めた動機はいろいろあるが、主なものは、会話で和文露訳をするときに動詞が出てくれば、どちらかの体を選ばなければならないわけで、その判断を即座に行うために、これまで勉強した点を整理してみよう、そうすればほぼ瞬間的に体の選択ができるようになるかもしれないと考えてのことである。
ロシア語の本や新聞などを読んでいて(露文解釈していて)、体については特に気に留めなくても、単語の意味が分かれば前後の文脈で、なんとなく意味は分かる。体の重要性ということを主張するロシア語の翻訳家というのは聞いたことがないから、ロシア人も日本人と同じ感性であろうという大前提のもと、前後の文脈で翻訳しているのだろう。
しかし、和文露訳ではそうはいかない。どんな初心者だって、どんな簡単な文だって、動詞がある限りは、普通は完了体か不完了体かを選ばなければならない。これまでは、多くの文例を暗記して、漠然と自分の勘を磨いて、自然と体の用法を体得するかのような学習法しかなかったように思う。つまり普通のロシア人が幼いころ、我々が母国語の日本語を習得するような、コミュニケーションの中でロシア語を覚えようというものである。しかし我々は、いい意味でも悪い意味でも、赤ん坊ではない。もうそのような方法は、限定的にしか頭が受け付けないのである。ロシア人も、英米人の英語のように、コミュニケーションの中で会話を教えたがる、これがいわゆる母語話者至上主義というものである。普通の学習者はロシア語漬けの生活を送る環境にはないし、あったとしても頭が赤ちゃんのように全てを吸収するような白紙の状態にはないという事に気がつかないのだ。大人には大人の学習方法がある。それが丸暗記のみに頼らない、理詰めの文法中心の学習法である。この和文解釈入門はその一つのアプローチである。
話がそれたが、第300回の表を会話のたびに思い出すのは至難の業である。会話の露文和訳の際に、瞬間的に体を選択するためには、体の本質を理解することが必要だろうと思う。普通、完了体は完了、不完了体は繰り返しと覚える。しかし、Садитесь!(おかけなさい)という会話では非常によく使われる動詞の命令形で、頓挫してしまう。これは動作の完了を意味していないのか?そんなはずはない。そこで、これはこれとして、体の用法について別の解釈を探さざるをえなくなる。
だったら、不完了体を日常(ルーチン、日常業務)と考え、完了体を非日常と考えるのである。ルーチンというのは決まりきった仕事が毎日繰り返されるわけである。不完了体が繰り返しであり、その場の雰囲気に合わせて、波風立てないというイメージが出来上がるはずだ。イメージするなら、不完了体はどんよりした穏やかな海で、完了体を波風が立っている海としてもよい。最近、未来の時制などの説明で、不完了体の動作の有無の確認(動作の名指し)という言葉をよく使っているが、要は不完了体というのはその動作が起ころうと起こるまいと、どうでもいいという客観的ニュアンスなのだ。同じ動作の有無でも、完了体には起こって欲しい(期待)、起こってもらっては困る(懸念)という主観が入る。新しい事態の生起は完了体の特性だが、これも、波風の何も起こらない静かな水面に、突如嵐が起こるというのが完了体のイメージである。我々は日本語でいろいろな会話を毎日聞いているが、そのときに動詞が出たときに、どちらかのイメージがすぐ湧くような訓練をしてはどうだろう。有難いことに毎日日本語漬けになっていることだけは間違いないことなのだから。
ルーチンが不完了体、非ルーチンが完了体という区別は、ロシア文をチェックすれば、ご理解いただけると思うが、会話で和文露訳をするときに、瞬時に体の選択をしなければならないわけで、これが5分後に分かったのでは遅すぎる。そのため第300回の表の例文を見て、瞬時に体を識別する訓練をするわけである。あの表は個々の体の用法を例文によって理解してもらうための勘を養うためのものである。
設問)「この小さなベルの音はふつう半径数キロまで聞こえた」をロシア語にせよ。
2012年05月12日
●和文解釈入門 第358回
未来の時制における不完了体の用法について補足する。
第356回に書いたような動作主を明示しない未来の用法は、日常会話ではあまり聞かないが、ビジネスなどの交渉ごとの通訳では頻発する。なぜかというと、動作主を明示するという事は、責任(ビジネスで言えば金の支払)に直結するからである。一人称は当然のこと、二人称でも相手の責任をあからさまに云々するようなニュアンスがあって無作法と思われるから、動作主を明示しない三人称が好まれるわけである。通訳を目指す人はこの用法と、それに関連して、受け身で使える機能動詞(第300回の表参照)をマスターすることが肝要である。ただ同じビジネス関係でも、プレゼンテーションの通訳となると、一人称であるмы(弊社、当社)を使って文を作るようにといわれる。つまり肯定的な事、つまり自社をアピールすることなら、逆に動作主は明示しないといけないという事になる。
質問があって、それに答えるときに、質問と同じ動詞で答える場合は、不完了体を使うというのは刺身のつまの用法としてお分かりだろうが、それ以外の動詞を使うときもその動詞は不完了体にするのが普通である。(貨物はどのように受け渡されるのですか?)Как будут поставляться грузы? はКакに論理的アクセントが来ているから不完了体が用いられているが、その回答(鉄道で発送します)Мы будем отправлять их по железной дороге. にも不完了体が用いられるのが普通である。これは答えの場合、動詞自体について尋ねているのではなく、Какの説明に当たる部分が論理的主体だからである。動詞自体に論理的アクセントが来るとしたら、それは質問のところの「受け渡しするかどうか、本当に受け渡してくれるのか」というニュアンスとなり、そのときはКак будут поставлены грузы?となるだろう。
設問)「ロシアではツンドラが全国土のおよそ5分の1を占め、西から東へ何千キロも北極の海沿いに延びている」をロシア語にせよ。
2012年05月13日
●和文解釈入門 第359回
通訳やロシア語で会話をする際に、瞬間的に完了体か不完了体かを決めなければ、正確な和文露訳ができないことは前に述べた。その目安として、日常(不完了体)か、非日常(完了体)か、動詞に論理的アクセントが来なければ(動詞が従なら)不完了体、来るなら(動詞が主なら)完了体とか、流れのままなら(回りの雰囲気を読むなら)不完了体で、新しい事態が起こるなら完了体とか、客観的なら不完了体、主観的なら完了体とか、それらの組み合わせとか、自分なりにいろいろな指標が考えられる。体の本質は一つでも、それを多面的に表現できるということでもある。
最近通訳してみて思うのだが、通訳する瞬間にどちらの体を使えばいいかはだいたい分かる。そのときに上記の目印が頭に浮かぶのかと言われれば、多分浮かんでいないと思う。なにせ40年ロシア語をやっているので、覚えている例文もかなりの量である。だからそれらの文例のおかげで、自分なりにどちらかの体を選択していると思う。体の選択がほぼ自動的になってきていて、ロシア人に限りなく近づいてきているのである。これは私だけではなく、他の通訳の人も同じだろう。例文を多く覚えることと、恥を多くかくことでみんな会話ができるようになって来るのである。
このように、会話をマスターする上で役に立つ伝統的な例文丸暗記法にも大きな欠点が二つある。一つは習得に時間がかかるということである。10年、20年、30年、40年と完全を目指すならきりがないことになる。二つ目は、体の用法を決める拠り所(例えば第300回の表)がないので、100%完全に体の用法を習得できたどうかがいつになっても分からないということである。多くの例文を覚えるにつれて、似たような文で完了体と不完了体を両方使う例文がいくつも出てくるのである。同義だと決めつけるならそれはたやすい。しかし、それではロシア人からは直されることもある。直されてもなぜ直されるのかその根拠が分からないから、次にも同じようなミスをする可能性がある。
恥をかけばその前後の文脈も覚えているが、普通は例文だけを暗記するので、前後の文脈はとっくの昔に忘れてしまっているし、例文第一だから、前後の文脈まで頭においておく余裕はない。結局肝心なところはロシア人に聞かないと分からないことになるし、そのロシア人の文脈の解釈もいろいろで、ロシア語の体の用法の研究家ならともかく、その文が正しいかどうかは言えても、ロシア語上級者にどのように体を区別しているのかを教えることができないのである。
そこで、40年かけて諸先生の体の用法の参考書を基に自分なりに体の用法についてまとめたものが第300回の表である。完全なものではないので、投稿者からのフィードバックを参考にして、ほぼ毎日手を入れている。自分が体の用法について何か疑問が起こった時の拠り所となっている。
話は戻るが、体の本質を理解してから語彙を覚えた方が、むやみに例文を暗記するよりは会話の上達が早いと思う。これは体の本質(体の仕組み)を体系的に理解しないで、ただ「こういう体の使い方は間違いである」というような個別的な知識を寄せ集めても役に立たないし、応用力も身につかないからである。しかし、それを自分では実証できない。上に書いたように過去の例文が無意識のうちに顔を出すのだ。結果オーライという事で自分についてはいいのだが、若い学習者のみなさん(ロシア語をやっている人はほとんど私より若いだろうから)に、是非このような体の本質を先に理解するという学習法をやってみてほしいものである。私が死ぬまでに、この方法が効果があったと言ってくれる人が一人でも出てくれば、嬉しい限りである。中級者以上の方は私と同様この方法の効果を実証できないとはいえ、効果はすぐ表れると思うし、なによりもロシア人に頼らずともどちらの体を使えばいいかが判断できるようになるのである。
設問)「2012年2月15日付貴信拝受。(その中で)発電機の故障につきご連絡いただき、また故障した発電機の不具合を速やかになくすようにとのご要求がなされております」をロシア語にせよ。
2012年05月14日
●和文解釈入門 第360回
体の用法の違いについては、日常(不完了体)か、非日常(完了体)か、動詞に論理的アクセントが来なければ(動詞が従なら)不完了体、来るなら(動詞が主なら)完了体とか、流れのままなら(回りの雰囲気を読むなら)不完了体で、新しい事態が起こるなら完了体とか、客観的なら不完了体、主観的なら完了体であるなどと書いたが、その使い方を間違えると、その文を聞いた人は、程度の差こそあれ、違和感を感じる。単なる文体上の差に留まるのもあれば、理解の許容範囲を超えるものもある。そのため、作家によってはわざと体を入れ替えて、粗雑な人柄を表したり、ユーモラスな表現として工夫したりする手だてとすることもある。
「敬語」(菊池康人、講談社学術文庫、1997年)の中に、敬語をわざと間違えて使う事により、文体的意味を変えている例が挙げられている。「とんでもないことをしてくれた」や「先輩がせっかくいらっしゃったんだ、酒ぐらいふるまえ」などである。日本語には体というものはないが、ひょうきんさ出したり、深刻さを和らげたりなどという、文体の差を変える一つの手段として敬語が使えるわけである。外国人が日本語を話す時に敬語を間違っても意味が通じる限り、特に咎めだてをすることはしない。しかし変な日本語だなという感じはつきまとうし、外国人でも敬語をうまく使えば、かなり日本語ができるという人だという印象を抱くことになる。
体の用法もそれと同じではないだろうか。長年ロシア語に携わっていても、言葉というのは基本的意味が通じればよいのだと、体の用法に無頓着な人もけっこういるようだが、日本語の敬語に置き換えてみれば、そういう考え方は間違いであることが分かる。そういう人たちは、語彙も多く、体の用法の参考書を一読するだけで、体の用法をマスターすることができるのだろうから、その手間を惜しむというのは、誠に残念な話である。
設問)「設備の通関をするのは貴社ですよ」をロシア語にせよ。
2012年05月15日
●和文解釈入門 第361回
動作遂行動詞については第359回の設問でも取り上げたが、よく分からない人もいるかもしれないので、もう少し具体的に書いて見る。なぜしつこく書くかというと、日本語では「ます」や「する」という助動詞や動詞で終わる文をロシア語にする場合、どの時制を使うのかという問題が起きるわけで、その区別のために必要だからである。動作遂行型の動詞ならロシア語では不完了体現在形を、それ以外の動詞は未来形(完了体乃至は不完了体)を使う事になるからである。
デパートの案内などで、「~をご案内(連絡)申し上げますСообщаем, что」という文を耳にする。これは共に動作遂行型の動詞であって、動作の過程や状態の動詞ではない。動作遂行型の動詞は動作の始まりと終わりがある。過程や状態の動詞にはそれがない。「案内(連絡)する」は動作に始めと終わりがあって、過程ではないし、状態でもない。「~している」という過程や状態を示す助動詞をつけてみると、日本語の「案内している」や「禁止している」は状態であって、過程ではないことが分かる。これらは日本語の過程を示す助動詞「~しつつある」と比べると、その違いが分かる。
一方「階段を上るподниматься по лестнице」、「昼食を食べるобедать」は動作の始めも終わりも意味しないし、「上っている」や「食べている」は状態ではなく、過程を示している。ロシア語でも、Я сейчас поднимаюсь по леснице.(私は今階段を上っている)は過程である。ただобедатьの現在形には予定の意味もあるので、文脈によってはЯ сейчас обедаю.(私は今昼食を食べている)とも、「彼は今すぐ昼食を食べます」とも解せるが、予定の意味に使える動詞は限られているからその区別は可能である。
「階段を上ります(上る)」や「昼食を食べます(食べる)」という文は、ロシア語では未来の時制であり、Я поднимусь по лестнице. (Кто будет подниматься по леснице? 階段を上るのは誰だ?)や、Я пообедаю. (Я буду обедать в ресторане. 彼はレストランで昼食を食べる)や、予定の用法のЯ обедаю через час.(1時間後に昼食を食べる)と未来の時制で示す。未来の時制における完了体と不完了体の用法違いについてはすでに述べたので割愛する。
このように動作遂行動詞は、日本語で「~です、ます、だ、~する」という助動詞の文をロシア語に訳す時は不完了体現在形で示し、過程を示す動詞は未来の時制を使う。動作遂行動詞は動詞が動作の初めと終わりを示し、「~している」という助動詞との組み合わせでは状態を示す。一方それ以外の動詞は意味的には過程を示すという違いがあるから区別できるはずだ。
設問)「ここは長いのですか」をロシア語にせよ。
2012年05月16日
●和文解釈入門 第362回
不完了体未来形についてよく理解している人が少ないようなので、念のため、会話における和文露訳で不完了体未来形を使う基準を書いておく。
・論理的アクセントが動詞にないことだが、動詞は動作の有無の確認(名のみの存在と考えてもよい)のみの役割は果たす。
・動作の有無の確認する場合(特に疑問文では分かりやすいし、出やすい)、これは論理的アクセントを示すような補語がない場合の見分け方でもある。
・使おうと思う動詞が瞬間動詞ではないこと。つまりニュアンス的にある程度は過程の意味を持つ動詞は不完了体未来形が使える。瞬間動詞 (разбить など)は、論理的アクセントが来る動詞だからという考え方もできる。瞬間動詞や、他の動詞でも完了を強調する場合は、論理的アクセントが来るのだから、その場合は完了体未来形を用いる。
・機能動詞は名詞や名詞句との組み合わせなので、動詞そのものは動作(する)という意味だけで、動詞句の意味は名詞ないしは名詞句が担っているので、完了を強調するのではない限り、未来では不完了体として使われることが多い。機能動詞は不定法では具体的1回行為なら完了体不定形との結びつきが多く、繰り返しなら不完了体との組み合わせが多い。
・予定の意味の不完了体現在形を使うのは、運動の動詞など不完了体未来形では使うのに制限がある動詞とか、近接未来で、動作が起こるのが当然という場合に使われることが多い。そうでない場合は不完了体未来形か、文脈によって完了体未来形を使う。これは未来の意味の副詞がないときや、前後が予定の意味の文脈でない場合に、不完了体現在形を使うと繰り返しの意味と判断されるのが普通で、意味に曖昧さが出るからだと思われる。
本来は使われる動詞が動作の有無の確認の場合は不完了体未来形を使うという事なのだが、(予備品をご注文なさいますか?)Вы будете заказывать запасный части? のような疑問文でなければ、平叙文では特に動作の有無の確認なのか、そうでないのかが分かりにくい。動作の有無の確認というのは動詞が叙情的ニュアンスを持たないということで、文中の動詞に論理的アクセントが来ずに、補語や主語に来るということになる。論理的アクセントがどこにくるかを見た方がどの体を用いるべきかが分かりやすいので、不完了体未来形を使うのは、動詞に論理的アクセントがないときと目印にしたわけである。要は「文の中の動詞に論理的アクセントが来なければ不完了体未来形を使う」という一点に尽きる。この点をよく理解してほしい。過去の時制における刺身のつまのような用法と同じ考え方である。
設問)「みぞおちに不快感(特に食後胃もたれや胃が張った感じ)がありますか?」をロシア語にせよ。
2012年05月17日
●和文解釈入門 第363回
接続詞как と чтоの違いについて第206回の回答で述べたが、若干補足したい。какはговорить, спрашивать, рассказывать, знать, понимать, думатьがあると、従属文を結ぶ接続詞として働き、論理的アクセントを持って発音され、従属文ではこの語は様態の状況語の役割を果たす。Он спросил меня, как я решил эту задачу.(彼は私がどのようにこの〔算数や数学の〕問題を解いたのか尋ねた)。これに関連して、Как вы думаете? とЧто вы думаете о + 前置格? はどう違うのか説明してみたい。Как вы думаете? は単独でも、尋ねる文脈がはっきりしていれば、「どう思いますか?」と意見を尋ねる場合に使われる。そうでない場合は、Как вы думаете (ты думаешь) は疑問文の前置き(挿入文)となり、「~すると思いますか」と意見を尋ねる場合に使う。これは第33回回答にも書いたようにдумать系統の語句がзнать系統と異なり間接疑問文を支配できないことと関係がある。前に設問で回答した「日本を台風が襲うと思いますか?Как вы думаете, обрушится ли тайфун на Японию? もその例の一つである。一方、同じく意見を尋ねる意味では同じだが、Что вы думаете о спектакле?(その劇についてどう思いますか?)は具体的な対象(名詞)について、突っ込んで(より具体的な)意見を尋ねるときに使うという違いがある。節とも使え、(若者がインターネットのためにテレビを完全に拒否しているという点についてどう思いますか?)Что вы думаете о том, что молодёжь полностью отказывается от ТВ в пользу интернета?
「ご意見はどうですか?」と尋ねるときの他の表現としては、
А каково ваше мнение по поводу развития событий в германском вопросе?(ドイツ問題における出来事の推移についてのご意見は?)
Какое ваше мнение о трассе?(コースについてのご意見は?)
Что вы можете сказать о роли?(その役割についてのご意見は?)
Что можно сказать о характере данного состояния?(この状態の特徴についてのご意見は?)
Каково ваше мнение об уровне выступления?(演技のレベルについてのご意見はいかがですか?)
設問)「午後は雨の見込みです」をロシア語にせよ。
2012年05月18日
●和文解釈入門 第364回
体の本質は何かということについて、だいたいのところは分かるし、用法の基準というのもだいたい分かっているつもりである。しかし、なかなかすっきりした説明はできない。この頃考えるのは、「不完了体の本質は、動作の名指しにある」ということである。こう考えれば、3つの時制、命令法、不定法の全ての用法について説明がつくのではないかと考えるようになった。動作の名指しを動作の記述そのものと考えるのである。動作の記述そのものだから無色であり、何のニュアンスもつかない。それ自体ニュアンスがないのだから回りの雰囲気の影響も受けやすいということになる。Садитесь!(おかけください)もそういうことで説明できるのではなかろうか。不定法で不完了体が出にくいのは、不定法は具体的な1回行為のために用いられることが多いから、無色な不完了体は使いにくいのだと思う。未来時制においても自分自身の色がないのだから、注目はそれ以外の補語に移るのは自然のことであろう。動詞に論理的アクセントが来ないから不完了体未来形を使うというのはその意味である。不完了体はこのような控え目な性質のため、目立たないことで目立つ時以外は用法が分かりにくい、ある意味でカメレオンのようにも見えるのが不完了体なのだと思う。
設問)「便に血や粘液がついているのに気がつきませんでしたか?」をロシア語にせよ。
2012年05月19日
●和文解釈入門 第365回
「不完了体の本質は、動作の名指しにある」としても、会話での和文露訳をする上では、曖昧としていて実用的には役に立たない。そのためには「文の中心的役割を動詞が担わない場合は、不完了体を用いる」とすればよいのではないかと思う。なぜ不完了体にこだわるかといえば、ロシア語の動詞で他の動詞のもととなったと思われる無接頭辞単純動詞делать, писать, читать, строить, гулятьが不完了体だからである。文の中心的役割を動詞が担わないということは、文の中で動詞がその存在を無視されるという事ではない。その場合動詞は何のニュアンスも持たず、基本的意味だけでその文の述語としての役割を果たしているという事を意味する。中心的ではない、二次的、三次的な役割、例えて言えば、通訳やガイドの様な裏方としての働きをしていると言ってもよい。主語 + 述語という、動詞を含む最小単位の文では、主語を強調しない限り、動詞の基本的意味である動作の有無の確認(その動作があるかないか、動作の名指しобщефактическое значение)という目立たない部分が表面に出てくるわけである。そのように考えれば、
Я не понимаю вас.(おっしゃることが分かりません)
Больше не буду (делать этого).(もうしませんから)
Говорите громче.(もっと大きな声で話して下さい)
Я хожу в университет каждый день.(毎日大学に通っています)
上記の例文にしても、文の中心的役割を果たしているのは、最初の二つでは否定詞неであり、次のではгромчеで、最後のではв университетないしはкаждый деньであって、動詞ではない。ゆえに不完了体が用いられていると考えるわけである。
ちなみに、Я не пойму.(理解できない)やЯ не скажу.(言えない)の場合は、時制的には現在(未来の時制も否定されていると考えることもできる)であり、不可能や否定の強調という叙想的ニュアンスが付加されている、つまり述語である動詞に文の中心的意味があるということで、完了体が用いられているのである。Я не буду говорить, куда вам нужно идти.(あなたがどこへいらっしゃるべきかは言いません〔言うつもりはありません〕)では、неおよび(ないしはand/or и/или)куда以下が文の中心的役割を果たしているから不完了体が用いられているということになる。
もう一つ例を挙げよう。完了体過去形を用いる結果の評価と不完了体命令形を用いる動作の様態の強調という用法の違いである。それは動作の様態の強調という用法では、動詞は文の中心的役割を果たさないが、結果の評価の用法ではその役割を果たすということにある。
(彼は全ての単語をよく暗記した)Он хорошо выучил все слова. – 結果の評価
(もっと大きな声で〔話して下さい〕(Говорите) громче! – 動作の様態の強調
結果の評価の用法では動詞を省略すれば意味が通じなくなるが、動作の様態の強調という用法では動詞を省略しても意味は通じる。
尚、これまで論理的アクセントと表記してきたが、曖昧でもあり、今後は文の中心的意味(役割)という表現に変えた。ご了承願う。
設問)「だって裁判にかけられるのはほかならぬ私なのよ」をロシア語にせよ。
2012年05月20日
●和文解釈入門 第366回
研究社の露和辞典にбытьの未来形будетは未来の時制以外でも推測で使えるとして、Сколько будет два полюс три?(2足す3はいくつになりますか?)という例が挙げられている。無論これは研究社だけではなくて、アカデミーの文法書にもそう書かれている。思うに、「2 + 3」は現在の時点であり、その答えは推測ではなく、当然(一瞬後かもしれないが)未来になるというのは子供でも分かる理屈である。日本語でも「なる」と訳すのだから、未来の出来事であり、推測という用語を用いるのはおかしいように思う。同じく、Вы кто будете?(どちらさん?)も答えが一瞬後とはいえ未来になるからбудетеが用いられているのではないだろうか。Давно ли ты здесь?(ここは長いのかね?)の答えであるС месяц будет.(1か月ほどになります)は答える人が問いの立場に立つと考えると、未来の時制が出てもおかしくはない。推測ということについてはс + 対格で「だいたい」という意味があるし、答えるのが問いの後、つまり未来だからという解釈である。Сколько, дедушка, тебе лет?(お爺さん、年はいくつ?)の答えЛет сто будет.(百歳ぐらいかな)も、「だいたい」という推測の意味を担っているのは、Лет стоであり、будетが来ているのは、問いの答えが一瞬とは言え未来に来ているからではないか?このようなбудетは推測を示すというよりは、問いの後の答えだから、答える側が問いを出す立場に立って未来時制を用いるのだと考える方が無理がないと思う。
設問)「この発疹が出たのは何のせいだと思いますか?」をロシア語にせよ。
2012年05月21日
●和文解釈入門 第367回
不完了体は動詞が文の中心的役割を果たさないときに使われると書いたが、Скажите, пожалуйста, где туалет?(トイレはどこか教えてください)という文に、なぜ完了体命令形が使われているのだろう?гдеが文の中心的意味を担っているように見えるからだ。検証してみよう。この文は二つの文から成っている。そのうちの一つГде туалет?は単独でも使える。街でГде туалет?といっても、答えてくれるかもしれないし、無視されるかもしれない。面と向かってなら、尋ねる相手が特定されているから答えてくれるかもしれない。そういう曖昧さを避けるために、Скажите, пожалуйстаをつけることによって、相手に声をかけ、特定し、丁寧に問いかけていることになる。つまり相手に声をかけることによって、叙想的ニュアンス(新たな事態の生起)が付加され、この文の中心的役割は動詞が担っていることが分かる。だから完了体が使われているのである。
設問)「2位につけているのは誰ですか?」をロシア語にせよ。
2012年05月22日
●和文解釈入門 第368回
書くこともなくなったので、1年前に日本の心というコーナーでガイドが読んだ方がよいと思われる本について書いたが、その続きを時々は書いて見たい。
「幕末出島未公開文書(ドンケル=クルチウス覚え書)」、フォス美弥子編訳、新人物往来社、1992年
1852年から59年まで日本に滞在した、最後のオランダ商館長であり、初代オランダ理事官ドンケル・クルチウス(1813~79)の未公開文書。大通詞西吉兵衛の死の様子、プゥチャーチン来航など当時長崎奉行に外国人応接の助言をしていたドンケル・クルチウスが本国に送った覚え書きの翻訳である。下田村でのロシア人一行と日本人の触れ合いから、「ロシア人は概してアメリカ人よりも日本人の気質に合っているようだ。ロシア人は礼儀正しく、陽気であり、アメリカ人は横柄である」と書き、プゥチャーチンは漆器を熱望しているとも書いている。Opper-banjoostは大検使または検使のことだとある。クルチウスは踏み絵を止めさせた。また幕末に駐在していた欧米の外交官は為替差益でかなり儲けたが、そういうことに外交官として関わらなかったのはこのクルチウスとプロイセンのブラントだけだったという。非常に清廉潔白な人柄のようである。
「オランダ領事の幕末維新」、A・ボードウァン、フォス美弥子訳、新人物往来社、1987年
1859年から1874年まで滞日したオランダ貿易会社代表兼領事アルベルト・ボードウァン(1829~1890)の私信105通を紹介したもの。兄のアントニウス・ボードウァン(1820~1890)も1862年から71年まで滞日、ポンぺの後任でもある有名な医者で、上野公園設立を実現させたので有名である。弟である彼は「女の着物は膝のあたりで細身にするように重ねるので、歩きにくそうです。内またで歩くので身のこなしが優雅には見えません。私は彼女たちを美しいとは思いません。たいていはかなり色白で、両頬に紅をはいています」とあり、ポンぺとは違う日本女性観を持っている。彼は一生独身だった。ポンぺについても「かなりお金を蓄えたようです」とか、シーボルトについても「老獪な古狐」と評するなど私信ならではの味わいがある。
*「ポンぺ日本滞在見聞記」、ポンぺ・ファン・メールデルフォルト、沼田次郎・荒瀬進共訳、雄松堂出版、1968年
1857年から1862年まで滞日したオランダ海軍軍医ポンぺ(1829~1908)の日本見聞記。帰国後榎本武揚などオランダ留学生の面倒もみた。本書の前半はペリー来航前後と帰国直後までの日本の政治的出来事について述べ、後半で長崎医学校(1857年創立)や1861年に設立した日本最初の西洋式病院に触れていて、政治、貿易などはドンケル・クルチウスが書いていいような内容である。本書執筆の動機にオールコックやハリスなどの幕末における日本開国に果たしたオランダの役割の無視があったと思われる。スイス、ポルトガル、デンマークなどの日本との通商条約についてもオランダは陰日向によく支援していることは確かである。病院関係は松本順(時に良順)がよく手伝ったという。日本には胸部疾患が多く、これは着物がまえをはだけているからだろうとか、心臓病が多いのは強い酒の飲み過ぎ、熱い風呂に入ること、放蕩のせいであると書いている。生活習慣(運動不足や寄生虫)による眼病のせいで盲人も多いとも書いている。売春禁止の提言をしているのは当時としては目新しい。ただ貧乏が売春の原因であると指摘しているが、禁止してそれでどうするのかというのは書いていないが、このようにあげつらうのは多くを求めすぎるのかもしれない。コレラ対策、死体解剖実習など日本における医学上の功績は大きい。ただポンぺの遠出の範囲は鹿児島をカッテンディーケと共に訪れたのを除けば出島のみで、その実際の日本見聞の範囲は狭いということを理解しておく必要がある。岩倉具視の米欧使節がオランダを訪れたときにライデンを案内した。
設問)「その費用は貴社負担となります」をロシア語にせよ。
2012年05月23日
●和文解釈入門 第369回
「長崎海軍伝習所の日々」、ファン・カッテンディーケ、水田信利訳、東洋文庫、平凡社、1964年
1857~59年まで日本に海軍に関する教育をするために派遣されたオランダ第二次海軍派遣隊の班長で二等尉官(?~1866)の滞日印象記。日本では婦人は丁寧に扱われ、下層階級でも淑やかで動作は優美であるが、あまり美人は見かけなかったとある。若き頃の勝海舟、榎本武揚の様子、島津斉彬、鍋島閑叟などの横顔も分かる。勝海舟はペリーのことをせっかちだと評したという。アメリカのビジネスライクなやりかたが日本の形式主義と合わなかったことがよく分かる。
「赤松則良半生談」、赤松範一編注、東洋文庫、平凡社、1977年
赤松則良(1841~1920)は幕府御家人の子として生まれ、13歳にして父ととともに下田にプゥチャーチンのヂアナ号遭難を見、長崎の第3回海軍伝習生に選ばれ(カッテンディーケがその教師でもあった)、咸臨丸の遣米使節の一員に選ばれ、1863年から69年まで榎本武揚、西周、津田真一郎らとともにオランダ留学生にも選ばれた。途中ナポレオンの流されたセントヘレナ島にも立ち寄っている。オランダではカッテンディーケ海軍卿の指示のもと日本に駐在した医師のポンぺなどが彼らの世話にあたった。赤松は後に新政府に仕え、日本の海軍の礎を築いた。
「氷川清話」、勝海舟、江藤淳・松浦玲編、講談社学術文庫、2000年
流布されている吉本襄編ではなく、徹底的に洗い直した元の勝海舟(1823~99)談話に近くしたものだという。勝の後援者として箱館の商人渋田利右衛門の存在を知った。非常な本好きで貧乏だった勝に本代を後援したという。大半は幕末の人物評であり、この部分は興味深いが、勝一流のはったりもあるようだ。勝の評価する人物は西郷隆盛、横井小楠の二人を別格にして、大久保利通の果断を買い、松方正義や樺山資紀であり、大嫌いなのは伊東巳代治、末松謙澄であり、伊藤博文や陸奥宗光に対しても点が辛い。残りの部分は時局談で、何でも昔がよいというのは年寄りの繰り言と取られても仕方あるまい。幕末ロシアから幕府へ外債の申し出があったのは初めて知る話だ。文学でいうと幸田露伴を高く評価し、尾崎紅葉は単なる才子と見ている。勝の句で面白いものを挙げておく。時鳥不如帰遂に蜀魂(ホトトギスホトトギス遂にホトトギス)。これは時流に乗る己も失意(故郷に帰るに如かず)の己も結局は変わらぬ己だということのようだ。
「海舟座談」、巌本善治編、勝部真長校注、岩波文庫、1983年
1895年~1898年の聞き書き「海舟余波」に後に手を入れたもの。海舟の口調や肉声がよく分かる。海舟の剣の師匠は島田虎之助で、父の小吉とも親しかった。島田が海舟に将来は蘭学をやるように勧めたという。子母澤寛の幕末奇談によると、島田は歩きながら毛虫でも、セミでもなんでも口に入れたのには一緒にいた人が閉口したとある。こうでないと今と違って道中食料確保のできない昔に武者修行はできなかったのだろう。大東流合気柔術の武田惣角(合気道の植芝盛平の師匠)も各地を回ったが、若いころはつぶてで鳥を落とすのは百発百中と言われた。無論武術の鍛錬というよりは食べるためである。
設問)「鼻づまりによくお悩みですか?」をロシア語にせよ。
2012年05月24日
●和文解釈入門 第370回
熱心な投稿者のおかげでこのコーナも続いているが、この2年間にわたる体の研究の自分なりの成果と投稿者からのフィードバックを参考にして、体の用法に基づく「和文露訳入門(仮題)」の原稿を第300回の本文などを中心に整理中である。出版の見通しは全く立たないが、シーザーのThere is a tide in the affairs of men.(物事には潮時がある)という言葉を信じたい。今のところ粗原稿でA4にすると100ページぐらいになっているので、このコーナーでは全部紹介しきれない。基本的には第300回の本文と同じだが、~参照というのを全て整理して、本文に組み込むつもりである。そうすればいちいち前の(それも複数あるものも多い)回のを見なくても済むし、第一説明が矛盾しているところも散見されるから、そういうところも直していきたい。第300回の本文にある不完了体未来形についての項は大幅に書き改めたので、それだけを下記に紹介する。それ以降の不完了体現在形による予定の用法は第345回を参照願う。それ以外は基本的に変わらないので割愛する。
このコーナー他に書き散らした類語、書き散らしたがゆえに使う方も大変だろうと思い、エクセルでアイウエオ順に和露類語集として整理したら390の語彙となった。これも出版したいが、世の中すべて需要と供給である。ロシア語が不人気で、且つ景気が悪いのではどうしようもない。
和文露訳入門(仮題)
はじめに
(略)
ラスードヴァРассудова О. П. 先生の「ロシア語動詞 体の用法」(磯谷孝訳編、吾妻書房、1975年)の過去時制における体の用法という章の中に、「話し手の注意が、場所、時間、動作の主体に向けられている時には不完了体が必須となる」とある。これは未来の時制でも、動作の名指しに使われる動詞に制限があることを別にすれば、使えるのではないかと考えた。それとこれまでの40年にわたってロシア語に携わってきた経験と、自分でその間に収集した9万の語彙を吟味した結果から、体の本質を一言で言うなら、「不完了体は動作の名指しである」ということではないかと考える。ゆえに完了体は自動的にそれ以外ということになる。動作の名指しというのは動作の一般的(基本的)意味であり、それゆえ無色であり、何のニュアンスもつかない。それ自体ニュアンスがないのだから回りの雰囲気の影響も受けやすいということになる。Садитесь!(おかけください)も、座ると言う動作の指示があり、座るのがその場の雰囲気から考えて妥当であるということで、着手の意味が出てくるのだと思われる。不定法で不完了体が出にくいのは、不定法で使われる動詞は具体的な1回行為のために用いられることが多いから、無色な不完了体は使いにくいのだと考える。未来時制においても自分自身の色がないのだから、注目はそれ以外の補語に移るのは自然のことであろう。動詞に文の中心的意味(役割)が来ないから、不完了体未来形を使うというのはその意味である。不完了体はこのような控え目な性質のため、目立たないことで目立つ時以外は用法が分かりにくい、ある意味でカメレオンのようにも見えるのが不完了体なのだと思う。(以下略)
第2章 未来の時制
第1節 未来における不完了体の用法
1. 単一動作に用いられる不完了体未来形
1-1 未来における動作の有無の確認
動作の名指し(動作の有無の確認)の意味がよく分かりやすいのが疑問文である。会話でその動作がこれから起こるのかどうかを確認するときにこの用法が用いられ、そのため口語的表現とされる。動作の有無を尋ねるだけであって、完了体のような叙想的ニュアンスがない場合に使われる。次の文でも聞き手は注文するかどうか、お迎えの人が来るかどうかを単に聞いているだけで、注文してもらわなければ困るとか、来なければ困るというニュアンスはない。
(塗料をご注文なさいますか?)Вы будете заказывать краски?
(〔空港や駅などで〕お迎えがいらっしゃいますか?)Вас будут встречать?
似たような意味にВы хотите заказать краски? と不定法を使うと、具体的な動作を示す完了体不定形が来ることに注意。この場合は欲求(~したいと思う)という叙想的ニュアンスが加わることになる。同様にсобиратьсяを使って、意志(~するつもりです)という叙想的ニュアンスを加えてもВы собираетесь заказать краски?と完了体不定形が来る。これで分かるように完了体というのは、動詞本来の語義に叙想的ニュアンスを付加するときに使われるのである。
また、これから行われる(ないしは行われない)動作が問題となっている以上、動作の有無の確認に意図というニュアンスが加わるのは当然とも言える。
(〔地下鉄などで〕お降りになりますか?)Вы будете выходить?
現実的には地下鉄において動作の有無を尋ねるという動作よりは、予定の用法であるВы выходите?という会話が圧倒的に多い。車両の出口のそばに立っていたら降りるのは当然と考えるのが普通だからだ。
「お座りになりますか?〔電車、バスの中で〕」Вы будете садиться?
выходить, садитьсяにしても語義に過程的ニュアンスがあるから用いられるのであろう。
1-2 動詞に文の中心的意味(役割)が来ない場合
話し手の注意が、場所、時間、動作の主体、手段や様態に向けられている時には不完了体が用いられる。
(何をお飲みになりますか?)Что вы будете пить?
(何を召し上がりますか?)Что вы будете есть?
「今晩何をなさるおつもりですか?」Что вы будете делать сегодня вечером?
これはレストランなどでよく聞く表現だが、文の中心的意味(役割)が動詞ではなく、чтоにあるから、つまり動詞は刺身のつまのようなものなので不完了体未来形が使われている。この他に考えられるのは、回りの雰囲気を読むということで、レストランに入ったら飲み食いするのは当然ということから不完了体が出てくるのだろう。さらに、二つ目の文で完了体のсъестьを使うと「全部食べる」という意味になってしまって、意味が違ってくるということなど、不完了体が使われるのは、不完了体の出現を促すいろいろな要素がこのように複合的に絡み合っている場合もあると思われる。
動作の有無の確認というのは動詞が叙情的ニュアンスを持たないということで、文中の動詞に文の中心的意味(役割)が来ずに、補語や主語に来るということになる。文の中心的意味(役割)がどこにくるかを見た方が、どの体を用いるかが分かりやすい。それゆえ、不完了体未来形を使うのは、動詞に文の中心的意味(役割)がないときというのを目印にしたわけである。刺身のつまのような用法で、不完了体の特徴である回りの雰囲気に合わせて動作を行うという意味の用法である。不完了体は叙想的ニュアンスのない、動作そのものを示す(叙実的なニュアンス)であるのが本義なので、既存の事実の有無の確認という概念の延長上にある用法であろう。つまり、この用法は過去時制の不完了体過去形の動作の名指しの用法や不完了体命令法の着手の用法の類推から、未来時制の動作の名指しの用法(未来の動作の有無の確認)となったものだと思われる。
未来における動作の有無の確認だから、文脈によっては、意図(~するつもりである)という風に理解されることもあるが、こういう不完了体の意図の用法は完了体のような新しい事態の生起というような叙想的ニュアンスはない。回りの雰囲気や状況を無視して、勝手に「~するつもりです」とは使えないのである。「止まれ、撃つぞ」Стой! Стрелять буду! という文は意向を示す文だが、「止まれ」が中心的意味を持っているのは明らかであり、それゆえ不完了体未来形が来ている。
(何に乗ってお出かけですか?)На чём вы будете ехать?
(だれが歌い始めるのですか?)Кто будет начинать песню?
1-3 未来時制の動作の有無の確認(動作の名指し)に使える不完了体動詞(動詞の語義による)
同じ文でも過去時制に事実の有無の確認に不完了体が用いられる場合、未来時制では体が入れ替わることがある。過去時制では動詞の制約は特にないが、未来の時制ではこの用法に使われる動詞は限られている。
(私は教授に会った)Я видел профессора.と(教授に会います)Я увижу профессора. や、(私は彼の意見を知っていた)Я знал его мнение. と(彼の意見を聞いてみます)Я узнаю его мнение. などである。
この用法が使えるものは、まず第一に、無接頭辞単純動詞(гулять, делать, жить, играть, писать, пить, строить, читатьなどで本源動詞ともいう)である。これらは対応する完了体がない場合はもとより、対応する完了体がある場合でも、不完了体の方が使われる頻度がはるかに高いということもあって、比較的自由に使える。第二は動作の過程、持続性、延長性を示すことのできる動詞で、語義に瞬時的移動・変化を示すようなものを含むものは使えない。例えば、получатьは具体的なものを受け取る(ないしは「叱られるполучить выговор」など)という意味では、動作が一気に終わる(過程ではない)のでこの用法は使えないが、特典を得る、交付を受けるというようなある程度過程のニュアンスがある語義の時は使える。даватьは過程の意味では用いないのでこの用法には使えない。захватыватьも未来時制では「つかむ、とらえる」という繰り返しの動作(過程、持続性、延長性を考慮しない動作)を示すのでこの用法では使えず、完了体のзахватитьを使う事になる。
(彼は叱責を受ける)×Он будет получать выговор. → Он получит выговор.
(こういう助言をさしあげよう)×Я буду давать вам такой совет. → Я дам вам такой совет.
(パレルモはサイトの読者にスタイルに関する助言を与えます)Читателям сайта Палермо будет давать советы по стилю.(未来における繰り返し)
(太陽は2060年までに世界のエネルギーの50%を供給することになる)Солнце будет давать 50% мировой энергии к 2060 году.(未来における繰り返し)
「どのように」というような様態を示す語句か、疑問詞が来れば(前述)、意味の主体を担わないという事で不完了体が使われることになる。この用法をよく示すものとしてещёとの組み合わせがある。この副詞があることで、繰り返しを暗示しているわけだから、言外に同じ動詞を二度使うというのと同じである。
(注意して作文を写します)Я буду внимательно переписывать сочинение.
(まだあなたに反論しますよ)Я ещё буду возражать вам.
(何を変えることができるかさらに調べてみます)Мы ещё будем узнавать, что можно изменить.
(夜もう一度薬を飲みます)Я буду ещё раз принимать лекарство вечером.
仮に、同じ動詞が2度続けて使われたとしたら、最初は新しい情報の提示(新しい事態の生起)ということで、完了体の動詞が来るのが普通である。しかし、2度目の動詞はその動作について新しい情報を提示しない、つまり動作には主体的意味が来ないというわけで不完了体が出てくると言う事が言える。これは過去時制においてужеやоднаждыがあれば、動作の有無の確認を補強してくれるのと同じ発想である。
質問があって、それに答えるとき、質問と同じ動詞で答える場合は、不完了体を使うというのは上記からお分かりだろうが、ロシア語では同じ動詞の繰り返しを避ける傾向があるので、動詞を言い換えた場合でも、その動詞は不完了体にするのが普通である。
(貨物はどのように納入されるのですか?)Как будут поставляться грузы?
Какに文の中心的意味(役割)が来ているから不完了体が用いられているが、その回答である次の文でも、動詞が文の中心的役割を果たしていないので不完了体が用いられるのが普通である。
(鉄道で発送します)Мы будем отправлять их по железной дороге.
1-4 未来時制において動作の有無の確認(動作の名指し)の意味で使えない不完了体動詞
・状態の変化・発生を示す動詞 освождаться, преобращаться, становиться
次のような未来における過程の意味では使える。
(有料教育はますます値段が高くなってゆく)Платное образование будет становиться всё более дорогим.
・瞬間的に成立する動作 брать, давать, изобретать, находить, получать
・無意識にもたらされる否定的結果を示すもの лишаться, ломать, разбивать, ронять, терять
・繰り返しのきかない単一的動作、意志的、非目的志向動作を示す動詞 видеть, выздоравливать, вылечиваться, погибать, поправляться, простужаться, рождаться, умирать, упадать
1-5 運動の動詞と不完了体未来形
始発という概念自体は3つの解釈が可能である。一つは新たな事態の生起で、この意味は完了体が担っている。もう一つは予定、3つ目は動作の着手という回りの状況や雰囲気により行われるもので、後の二つは不完了体の領域である。露露辞典ではпойти/поехатьに別項目を立て、それぞれначать идти/начать ехатьと語義を与えている。つまりидти/ехатьには新たな事態の生起という意味での始発の意味はない。「行く」という一般的事実の意味か、過程の意味だけである。だからбытьの未来形 + идти (ехать)を使う場合に、例えば「薬局に行って来る」(新規の事柄、新たな事態の生起を示す)という露訳に、いきなりЯ буду идти в аптеку. とは使いにくい。動作自体が新規であり、動作が文の意味の中心であるような文なので完了体未来形を使う。
(薬局まで行って来る。薬局までは歩いて15分だ)Я пойду в аптеку. До аптеки я буду идти 15 минут.
同じ動詞が二度使われる場合、最初のがふつうは新しい話題の提起(新しい事態の生起)であり、そうであれば二度目に使われる動詞は既知のものであるゆえに、中心的役割は果たすことはない。いわば刺身のつまのような用法だから不完了体を使うのである。ただ同じ始発でも予定であれば、それは不完了体現在形で示すことができ、(1時間後に薬局に歩いてゆく)Я иду в аптеку через час.となる。
不完了体未来形がいきなり出てくるように見える文でも、例えば、
(普通列車でお行きになるのですね)Вы будете ехать в обычном пассажирском поезде.
普通列車に文の中心的意味が来ているから不完了体未来形が使われている。
レーニンの言葉とされる(我らは別の道を行く)Мы пойдём другим путём. にせよ、行くという動作について何の前提がない(これまでとは違う別の道を行くということ)のだから、完了体未来形を用いる。つまり、そういう動作が起こる事が当然という意識がない以上、不完了体は使えないことが分かる。
(この場合は費用はすべて貴社負担となります)В этом случае вы будете нести все расходы.
нестиも運動の動詞であるが、上記の場合は機能動詞(後述)であり、文の中心的な意味を果たしているのは、文脈によるが、вы(貴社)、расходы(費用)の方であって、нестиではないので、不完了体が来ている。
「明日モスクワに立ちます」という文を露訳すれば、新しい事態の生起(新しい情報の提示)であるから、Завтра я поеду в Москву. と完了体未来形を使うのが普通である。Завтра я еду в Москву. と不完了体現在形の予定の用法を用いると、同じ日本語でもモスクワ行きを前から予定していたということになる。あまり言わないが、不完了体未来形を使ってみよう。ただし、завтраがあると出発するに意識が行ってしまって完了体未来形の領域なので、これを外して文を作ると、Я буду ехать в Москву. となり、「車や電車で(飛行機ではなく)モスクワに行く」というニュアンスになる。
при-という接頭辞のつく運動の動詞は過程の意味がないので、この用法では使えないが、
(お降りになりますか?)Вы будете выходить?
(多分、年の暮れはあなたが会社から最後に帰ることになります)Возможно, накануне Нового года вы будете уходить с работы последним.
上記のように動作の有無の確認で使うвыходитьや、動詞に文の中心的意味の来ない用法のуходитьは運動の動詞だがこの用法で使える。
1-6 否定的意図 → не + бытьの未来形(не + статьの未来形) + 不完了体動詞不定形
これから起こる動作の否定の確認ゆえに、否定詞のнеが動詞の語義そのものを否定しているので不完了体未来形が来る。また不完了体本来の用法である、回りから依頼されたり、命令されたりという状況があって、その状況に合わせて、「~しない」ということで不完了体未来形が使われるとも言える。не стоит + 不完了体不定形(意味がない、値しない)の意味に近い。動作の否定の確認ゆえに「~するつもりはない」という意向の意味になる場合も多い。否定詞と完了体未来形の組み合わせは、不可能ないしは否定の強調の意味となる。не буду говорить とне скажуの違いは、前者が「言うつもりはない」という意志を示し、後者は「言わない」という未来の動作の否定の強調であると同時に、「言えない」という不可能をも表せる。どちらかは文脈による。
(お前を騙すつもりなんかない)Я тебя обманывать не буду.
(お手間〔お時間〕は取らせません)Я не буду отнимать ваше время.
(俺にかまうな。俺もお前には手をださないから)Ты меня не трогай, и я тебя не буду трогать.
(結婚を急ぐつもりはない)А я торопиться с женитьбой не стану.
(彼にご馳走を勧めないでください。食べませんから)Не угощайте его, он не станет есть.
(だって人を密告するつもりなんかないよ)Ведь не стану де я доносить на других.
не браться + 完了体不定形は「~しようとは思わない、その任にあらず」ということだが、自分の能力、自信、希望に対する疑念を示す。
(被害の全体の規模を計算しようと思う人は今のところいない)Общий размер аварии пока никто не берётся подсчитать.
1-7 両方の体がほぼ同じ意味で使える場合
平叙文においては不完了体未来形の動作の名指しと完了体未来形の具体的単一動作の実現の区別がつかない場合もある。
「彼に明日電話する」をЯ позвоню ему завтра.やЯ буду звонить ему завтра.としたり、
「助けてくれるよう彼に頼もう」をМы попросим его помочь нам.やМы будем просить его помочь нам.としてもニュアンスを別にすれば意味は変わらない。不完了体の方が口語的というだけである。しかし、他の動詞では、単一動作の伝達という行為自体が、一つの点となるような動作(過程を意味しない一気に終了するような動作)が多いために、完了体未来形を使う方が多いようである。単一動作の伝達は文脈によっては意図(意志)の意味になりやすいという事は言えるが、はっきりと意図であることを示したいのなら、собираться, намеренなどを用いた方が誤解が少ない。
(建設現場への救急手配はどうするつもりですか?)Как вы собираетесь организовать первую медицинскую помощь на площадку?
上記のように両方の体が使えるのは、動作が始まって終わるというニュアンスのある動詞である。始まりだけとか、終わりだけを意味するとか、過程を示すような動詞は両方の体はほぼ同じ意味では使えない。писать, обедатьなどは可能である。つまり、後述のзвонить/позвонитьとписать/написатьの動詞群がほとんど当てはまるということになる。
Завтра я буду писать письмо домой.(明日家に手紙を書くつもりです)
Завтра я напишу письмо домой.(明日手紙を家に書きます)
начать/начинатьとкончить/кончатьのように始めと終わりを示す動詞は、完了体が具体的1回の動作を示し(新しい事態の生起、動作の完了)、不完了体は動作の名指しから派生した動作の着手、ないしはそれから派生する意志の用法となり、ニュアンスがかなり変わる。
Я кончу работу.(その仕事を終わりまでやってしまうよ) - 新しい事態の生起、動作の完了。
Я буду кончать работу.(〔とりあえず今日は〕仕事を終えるつもりだ) - 動作の着手ないしは意志の用法。
1-8 動作の着手(意志)
不定期の、あるいは持続的な過程を示すのであれば、動作の着手にも不完了体未来形が使える。これは不完了体の機能の一つで命令法に現れやすいが、未来の時制でも示すことができる。一人称の場合は動作の着手から派生して意志のニュアンスが出やすい。着手といっても、新たな事態の生起ではなく、状況に身をゆだねた形での着手である。
(じゃあ集会を始めよう)Ну, будем начинать собрание!
(そう願いたいものです)Будем надеяться!
(その辞典は近日発売される)Словарь будет продаваться в ближайшие дни.
(問題を出します)Я буду задавать вопросы.
(来月エニセイ川に水力発電所を建設します)В следующем месяце мы будем строить ГЭС на Энисее.
(いただきます)Я буду есть.
1-9 未来時制においてесли, когдаに導かれる複文での時間にとらわれない一般的事実の表示
命令法の促しという用法に似ている。この用法には1-4, 1-5で使えない、あるいは使いにくいとされた動詞も一般的事実の意味ということで用いることができる。例えば、
(もしこの方法を使うのが初めてなら、CDをドライブに入れなさい)Если будете использовать это средство впервые, вставьте компакт-диск в привод.
という文ではеслиと一緒だと一般的事実の意味が出てくるし、不完了体の未来形では、二つの動作が何ら拘束し合わずに、時間的に共存する動作が名指しされていて、広く使われる用法である。
(映画館のそばを通る時に、明日の切符を買います)Когда мы будем идти мимо кинотеатра, мы купим билеты на завтра.
(出かけるときは、ガスを消して下さい)Когда вы будете уходить, выключите газ.
(貯水池のそばを車で通る時に、一休みするのに素晴らしい場所を教えてあげますよ)Когда мы будем ехать мимо водохранилища, я покажу вам прекрасное место для отдыха.
これを完了体未来形にした文を見てみると、
(もしレバーを右にいっぱい回すと、目盛には緑色が光ります)Если вы повернёте ручку направо до отказа, на шкале вспыхнет зелёный свет.
повернётеという動作が実現してからвспыхнетという動作が成立する、しかも最初の動作と次の動作が(あまり間をおかずに)行われるという動作の順次性が示されている。この使い分けは、二つの文の時間的関係である。次々と動作が起こるのであれば、完了体を続けることになるし、時間的拘束がなければ、если, когдаを含む節ではбытьの未来形 + 不完了体不定形を使う事になる。
(左に曲がれば、駅が見えますよ)Если вы повернёте налево, то увидите станцию.
次のような現在における繰り返しの文では不完了体現在形が用いられる。
(もし膜が破れたら、どんな措置をとりますか?)Какие принимаются меры, если лопается мембрана?
1-10 完了体未来形、不完了体動詞現在形、不完了体未来形の使い分け
意味やニュアンスが体の用法を決めるわけだから、話し手(通訳、ガイド)が、新しい情報を提示するのだという意識があれば、完了体未来形を使うだろうし、動作が予定の行動であるという認識なら、使える動詞は限られているが予定の意味の不完了体現在形を使うだろう。また単に動作がこれから起こるかどうか知りたいという疑問文や回りの雰囲気に合わせてということなら不完了体未来形を使うという事になる。
例えば、「報告(講演)するделать/сделать доклад」という動詞を未来時制で使うとすると、機能動詞のделатьであるために、珍しいことだが完了体未来形、不完了体動詞現在形、不完了体未来形の3つが使える。普通は完了体未来形か不完了体未来形の二つのうちいずれかであり、動詞によっては完了体未来形、ないしは不完了体未来形だけというのもある。未来時制で和文露訳をする場合、どちらを使うか悩むところだが、単一の動作を意味し、新しい話題の提示ということであれば完了体未来形を用いるのが普通である。ゆえにЯ сделаю доклад о танках.(戦車について報告します)とするのが一般的であろう。不完了体現在形を用いるのは予定に組み込まれているときで、Я делаю доклад на пленарной сессии.(本会議で報告します)となる。はっきり動作の延長上にあると確信できるなら、使える動詞は限られているとはいえ、予定という意味で不完了体現在形を使う事になる。
動詞自体に中心的な意味がない、動作の有無のみを示すような、ないしは刺身の付け合わせのような文、例えばЯ буду делать доклад на русском языке.(報告はロシア語でします)というような場合に用いられる。そうでない場合は時間の長さを意識するような動作である。完了体未来形が動作を「すぐ~する」というイメージがあるのに反し、бытьの未来形 + 不完了体はこれまでの動作や行為の延長上にあると思われるような動作、また時間的には一拍おいた感じか、期限が明示されないような場合に使われると考えればよい。обедать, заказыватьも上記のように3つの使い分けが可能である。
しかしучаствовать(参加する)のように対応する完了体のない動詞もある。近接未来の場合のように、文脈によっては現在形でЭта команда впервые участвует в Олимпийских играх.(このチームは初めてオリンピックに参加します)と予定の意味でも使えるが、未来時制の場合はВы будете участвовать в этом заседании?(この会議に参加しますか?)とбыть動詞の未来形との組み合わせが多い。このように完了体がない動詞(питьなどの接頭辞のない単純動詞)では、対応する完了体がない以上、быть動詞の未来形と組み合わせて、「~するつもりである」という意図の意味で使わざるを得ない。участвоватьでどうしても新規という事を強調したいという場合はどうするかというと、同義語を用いるしかない。Приму участие в семинарах.(セミナーに参加します)とするか、少し意味は変わるがПоучаствую в семинарах.(ちょっとゼミに参加します)となる。完了体と不完了体が同程度に使われる動詞というのは少ない。どちらかがメインで使われる場合が多いし、上に挙げたように不完了体しかないもの、完了体しかない動詞もある。そう考えれば動詞によって未来時制で使われる用法というのもある程度決まってくるという事になる。不完了体の程度というのも動詞によって異なることが分かる。動詞によっては文脈によって、程度によっては新しい事態の生起という事柄にも対応できるものもあるという事が分かる。
2. 予定 →不完了体現在形(以下略、第345回参照)
設問)「積み込みの責任者にはだれがなるのですか?」をロシア語にせよ。
2012年05月25日
●和文解釈入門 第371回
*「名ごりの夢」、今泉みね口述、東洋文庫、1963年
今泉みね(1855~1937)は幕府蘭医桂川甫周の娘。桂川甫周の弟は木村摂津守で遣米使節である。この縁で福沢諭吉はアメリカに連れて行ってもらうことができた。幼少の折、洋学者の宇都宮三郎、柳田春三、成島柳北、福沢諭吉に遊んでもらった思い出などを幕末の江戸情緒を踏まえて描いている。非常に優雅でたおやかな文体で、人柄がしのばれる。中にはこっけいな話もあり、明治の化学に寄与した宇都宮三郎がアンモニアの実験で、試験管におならを仕込んで大隈重信にかがし、さすがの大隈も苦笑せざるを得なかったという。夫は副島種臣に師事し、その書も残っているようである。副島の書は近代の書家の中でも非常に有名である。
「懐旧九十年」、石黒忠悳、岩波文庫、1983年
1936年初出。石黒忠悳(ただのり)(1845~1941)は陸軍軍医制度の確立に一生を捧げた。ちなみに海軍軍医制度を確立したのは薩摩出身の高木兼寛である。薩長土出身でないものが、己が才能一つで道を切り開いた姿には感動を呼ぶ。早くから勤皇の志をもち、佐久間象山に師事し、その教えにより洋楽・医学を学んだ。長寿の人ゆえ幕末から明治時代の風習などにも詳しく説明している。大西郷の逸話なのも面黒い。
ボードウァンに上野に温泉療養所付きの病院について意見を求めたところ、ボードウァンは公園を作ることを勧め、結局それが実現したことで、自分の非を認め、後にボードウァンの銅像が上野に建つことに助力した。もっともその銅像はボードウァンはボードウァンでも弟の方だった。弟はオランダ領事で頭が禿げていたが、医者の兄は毛はあった。八方美人ではなく、理のあると思うところは上司にもつっかかったようである。松本順や山県有朋などから可愛がられた。本文にはないが森鴎外をドイツに留学させたが、幸田露伴が指摘しているように、石黒はうるさく指示してきたらしく、鴎外は石黒のことを目の上のこぶと思っていたようだし、原首相とも衝突した。明治の最初の女医荻野吟子(1851~1913)が医術開業試験合格するのにも助力した。
陸軍を辞めた後は日本赤十字社長を勤めた。日韓併合についても韓国人の気持ちを考えると一概に喜べないと書いている。日清戦争講和で来日した李鴻章狙撃(小山六太郎による)のときも李鴻章の手当てを明治天皇から命じられている。非常に細かいことに気の付く人のようで、洋行者の手引き「洋(なだ)の灯」という本を書いている。脚気論を書くぐらい脚気には関心があり、森鴎外にも脚気の研究をさせたが、鴎外自身は麦飯が経験的に脚気に効くと言う事を信じず、そのため陸軍では何千人も脚気で死んだ。脚気はビタミンB1不足で起こるのだが、海軍の高木軍医医長は経験的にタンパク質不足が脚気の原因と考え、パン食や麦飯の導入で劇的に脚気患者は減少した。ただ兵の間では銀シャリをありがたがる風が強く、パンや麦飯は非常に不人気で、高木の後任者からこれを減じ、そのため脚気の患者は増えたという。こういう点について石黒は自伝では何も触れていない。
「自歴譜」、加太邦憲、岩波文庫、1982年
加太邦憲(1849~1929)は桑名藩出身で、司法省法学校正則第1期生。大津地裁裁判長、京都地裁裁判長、東京地裁裁判長、大阪控訴院長を歴任した。幕末に実見した打ち首の様子、安政の大地震や関東大震災の記述など興味深い。陪審員制度を、フランスのパリ大学から招いたボワソナードは治罪法草案に入れていたが、大木司法卿はこれを削除。後に原首相のときに法律となったという。加太は1886年から法学関係を究めるため欧州留学した。モスクワにも行き、上の威圧甚だしければ人民の未開なるも故なきにあらずとか、上流・下流の社会あれど、中流社会なし、上流社会は奢侈を極むる弊風ありと述べており、独仏よりだいぶ遅れていると述べている。
設問)「発明の使用権取得とノウハウの違いは何ですか?」をロシア語にせよ。
2012年05月26日
●和文解釈入門 第372回
*「後は昔の記他」(林董回顧録)、由比正臣校注、東洋文庫、平凡社、1970年
林董(1850~1913)は1866年の幕府の英国留学生で後、外交官。明治の条約改正についても詳しい。伊藤博文や陸奥宗光系統の人なので、山県有朋系統の青木周造自伝や陸奥宗光の蹇蹇録なども参考にする必要がある。佐倉の木内宗五郎は幕府に直訴して子供ともども磔になったが、長子(12歳)のみ男で、残りは女子(8歳、6歳、4歳)だったが、当時は女子は死刑にできなかったので、わざわざ男子として処刑したなどと書いてあり、佐倉の堀田家には宗五が祟ったという言い伝えもあるという。1860年の生麦事件については殺されたリチャードソンより数分前に島津公の行列で下馬したヴァンリード(ジョセフ・ヒコの旧友)という米国書記官には何事もなかったが、日本人を中国人と同様と見て不遜だったリチャードソンは下馬せず、それで奈良原喜左衛門の初太刀を浴び、久木村利休により深傷を負い、死亡したという。ポンぺもリチャードソンの伯父から彼が傲慢だったために報いを受けたのだという話をオランダでの汽車の中で聞き、同じようなことを書いている。1864年のボールドウィン中佐・バード中尉の暗殺についても下手人は清水清次(晒し首の写真が残っている)ではなく、本当は彼は別件の強盗強姦事件で死罪となるべきところ、武士として潔く死ねと因果を含められたからとも聞く。
大津事件の背景についても書いてあり、明治までは英国の皇族が訪日しても歓待したが、小松川殿下訪英の際はつれなくあしらわれ、それでコンノート卿が訪日した時にあまり歓迎しなかった。それでニコライ皇太子が来日の折は、駐日ロシア公使夫人が、身分の関係でロシア宮廷には拝謁できなかったので、手柄を立てて拝謁できるようにするため、熱心に歓待を、夫を通じて勧めた。それで、英国側が、皇太子は日本占領の下見に来たなどと流言を流したために、それが新聞にも取り上げられ、それを津田が信じたことによるという。大津事件については小説形式で書いた吉村昭の「ニコライ遭難」がよい。林の兄は松本順(時に良順)で、姉ふさは山内作左衛門(幕末のロシア留学生)に、妹多津は榎本武揚(幕末のオランダ留学生、後外務大臣)、妹貞は赤松則良(幕末のオランダ留学生)に嫁いだ。父は順天堂塾の創始者であり、義父は順天堂病院を創立した。
「アメリカ彦蔵自伝」(2巻)、中川努・山口修訳、東洋文庫、平凡社、1964年
初出は1895年。ジョセフ・ヒコ(1837~1897)。1850年江戸の帰りに遭難。救助されサンフランシスコへ。人柄のせいかいろいろな人に親切にされ、アメリカの学校で2年ほど学ぶ。1854年受洗、1857年アメリカに帰化。1859年帰国。神奈川領事の通訳を1860年までと1862~63年勤め、その後はビジネスを始める。下関戦争のときはアメリカのワイオミング号に乗船していた。その実見談は面白い。上巻は自分の経験談が中心で面白いが、下巻では風聞や当時の新聞に載っていた記事が多い。ただ校注が詳しいのでそれはそれで勉強になる。当時の政治状況をアメリカ人側から語っているのも興味深いが、当時の日本について当たり前のことは日本人なので、触れられていないのは残念である。ヒコは3人の米国大統領と会っている。ピアース、ブキャナン、そしてリンカーンである。リンカーンと会った唯一の日本人と言える。主家のために、あるいは家系を守るために責めを負って腹を切ることを、英語で当時happy dispach「有難きおいとま」と名付けたという。これは日本語にないと書いているが(オールコックも同様に書いている)、要は詰め腹であり、もう少し詳しく言えば商腹(あきないばら)である。
設問)「どちらの目の見え方がよくないですか?」をロシア語にせよ。
2012年05月27日
●和文解釈入門 第373回
不完了体の本質は動作の基本的意味にあり、行雲流水のようなもので、回りの雰囲気に合わせるというニュアンスがある。それがよく現れるのが、動作の名指し(動作の有無の確認)である。これは過去の時制全般、未来の時制の疑問では分かりやすい。しかし、未来の時制では分かりにくので、便宜的に、動詞が中心的意味を担わないときは不完了体が来ると書いた。第346回にも書いたように、結果の現存というニュアンスがあれば、疑問詞との組み合わせでも完了体が来る。このように、疑問詞というのは本来意味の中心を担うはずなのに、そうではない例である。今回は疑問詞以外でも、動作主体の強調などの場合でも、結果の現存というニュアンスがあれば、完了体過去形が来る。こう書くと
例外ばかり覚えなければならないようだが、それは違う。動作の名指しでないものには完了体を使うのだというだけのことである。
否定文においても不完了体過去形は、動作(事実)の名指し(動作の有無の確認)であり、それに対して完了体過去形は期待、失望などの叙想的ニュアンスを持つ。ただ動作の主体を強調する(主体的意味を担う)場合で、結果の現存の意味があれば、完了体過去形が来る。
(教室にペンをお忘れになりませんでしたか?)Вы не оставляли ручку в аудитории?
(教室にペンをお忘れになったのはあなたではないですか?)Не вы ли оставили ручку в аудитории?
上の文では両方とも誰がペンを大学の教室に置き忘れたかを聞いているのだが、前者では単に動作の有無の確認を、後者では動作がすでに起こっていて(結果の現存)、動作主体そのものに注意が向けられているとはいえ、叙想的ニュアンスが感じられる。そういう場合には完了体が来るのである。
(僕はテレビをつけなかった)Я не включал телевизор.
(テレビをつけたのは僕じゃない)Телевизор включил не я.
この場合も前者は事実の確認であり、後者は動作はすでに起こっており、それに対する叙想的ニュアンスが感じられる。
設問)「長距離と短距離ではどちらが好きですか?」をロシア語にせよ。
2012年05月28日
●和文解釈入門 第374回
体の本質を理解したからと言って、実際の会話での和文露訳において、正しい体を使ってロシア語が話せるわけではない。反射的にロシア語が口をついて出る練習が不可欠である。体の用法の中でも相性の悪いというか、不得意なものが当然あるはずである。本コーナーの項目にある短文をできるだけ多く暗記して、いつでも口をついて出るようにすることが必要である。体の用法を理解した上での暗記は反射神経を鍛えることにもなる。そのために用例はできるだけ短く、応用力のある豊富なものを配した。例文は日常会話、医療ロシア語、観光ロシア語、技術ロシア語、スポーツロシア語、ビジネスロシア語から広く渉猟し、実戦でも十分役に立つものばかりであると自負している。
ロシア語で話すというのと、会話で和文露訳をする(通訳する)というのを同じだと考える人もいるかもしれない。ガイドと通訳の違いである。名所を案内するときにガイドはロシア語で説明するわけだが、日本語の説明内容がそのままのロシア語では変なロシア語になるなと思えば、ロシアの習慣やロシア語にできるだけ違和感のないように変更する。そのロシア語を和訳したとすれば、日本語としておかしいということもありうる。通訳でも言っていることそのまま通訳すれば、表面的には正しくとも、言わんのすることとは違うという場合には、言わんとする本質に合わせて訳を変えるか、説明を加える。その他に通訳は露文和訳と和文露訳を交互にするが、ガイドは自分の頭の中での和文露訳がほとんどであるという違いがある。
この通訳とガイドの違いというのを理解せずに、ロシア語が話せれば通訳もガイドもできるというのは考え違いである。両者とも内容の本質の正確さを目指すのだが、できるだけ余計な説明とかは少なくして、純粋に表面上の訳が、言わんとすることにできるだけ近づけるように努力する必要がある。それを究めるためには体の用法や類語に対する理解、日本の文化、通訳する相手に対する理解が欠かせない。
設問)「助けが必要であればお声をおかけください」をロシア語にせよ。
2012年05月29日
●和文解釈入門 第375回
日本語の敬語はロシア語の体と似ている。どちらも外国人には理解が難しい。それでこの頃敬語を勉強している。その中で気がついたのだが、「声をおかけください」と「お声をおかけください」とでは、どちらが敬語として正しのだろう。ある企業では前者が規範という指導していると聞く。自分なりに双方の理屈を考えてみた。もともとこの動詞は「声をかける」(知らせる)という意味の熟語であることが、二重敬語の問題と相まって問題をややこしくしている。「敬語」(菊池康人、講談社学術文庫)によれば、尊敬語と尊敬語のように同じ種類の敬語が続くのを二重敬語として、過剰使用ということから避けよということである。ゆえに、「お読まれになる」や「お読みになられる」は、「読まれる」と「お読みになる」の二つの尊敬語が使われているからいけないということになる。一方「お荷物をお預けになる」では、「荷物」の尊敬語「お荷物」と「預ける」の尊敬語「お預けになる」が、それぞれ別々に尊敬語になっており、それは正しい用法であると書かれている。
しかし、「声をかける」と「荷物を預ける」は同じではない。前者は熟語だが、後者は補語を変えることができ、「鍵を預ける」と言える。そのため「声をかける」を「お(ご)~くださる」という謙譲語Ⅰの命令形に直すと、「お声をかけてください」か、「声をおかけ〔になって〕ください」にしかならないという理屈になる。そのため一つ「お」を取らなければならないが、動詞の方は構文なので外せないから、名詞の方の「声」から取ったということなのだろう。ちなみに、最近は敬語を尊敬語、謙譲語、丁寧語の3つにわけるのではなく、謙譲語を二つに分け、丁寧語から美化語を分けて5つにするとしている。謙譲語Ⅰというのは「申す(普通は丁寧語のついた「申します」)のように1人称を絶対的に低めるが、謙譲語Ⅱは「申し上げる」のように1人称を相対的に低め、補語を高めるものである。
一方「お声」にはの尊敬語(意味上の主語を尊敬する)と謙譲語Ⅰ(受け手尊敬)の意味があるが、この場合は動作の向かう先や者受け取り手を高めるものという謙譲語Ⅰの機能であろう。それゆえ、動詞が謙譲語Ⅰの「おかけ〔になって〕ください」となっているが、「荷物をお預けになる」が二重敬語ではないという理屈で、日本語としておかしくないことになる。ただ明らかな熟語を普通の補語 + 動詞とする見方自 体には大いに問題があるといえる。
最初の方は、敬語の作り方から見て理論的に正しいが、発話の最初に出てくる「声」が相手の「声」であることを考えると、「お声」としないと十分敬意が伝わらないのではないかという気もする。
設問)「常習的に規律を乱したり、常に不成績であれば、その研修生は帰国してもらいます」をロシア語にせよ。
2012年05月30日
●和文解釈入門 第376回
「幕末日本探訪記」、ロバート・フォーチュン、三宅馨訳、講談社学術文庫、1997年
英国人園芸学者フォーチューン(1813~80)の日本滞在記。外交官とは観点が違うのが面白い。彼は1860年に鎌倉の大仏を訪れているが、シドモアが描いたような大仏に対する外国人による不敬な行為の記述はない。もっともその頃は攘夷の時代で生麦事件など外国人が殺害される事件が多発していたからそのような不敬なまねはしなかったろうし、当時日本に来ていた外国人は観光客ではなく、役人か軍人だということもある。大仏の胎内に15メートルほどの礼拝堂があったというが、現在胎内に入ることはできるものの、このような御堂はない。鎌倉の大仏で今の観光客がよくするのは、当時の外人がしたように御手によじ登るのではなく、手乗り大仏の写真を撮るくらいだから可愛いものである。フォーチュンの本には駄馬が草鞋を履いている絵が載っている。日本に蹄鉄がちょうど入ってきたころである。シーボルトが二度目に来日した時に、シーボルトの留守中無断で何かの植物を持ち去り、あとでシーボルトともめたというシーボルトの長男の話がある。学術上の功名争いかもしれない。本書はソメイヨシノで有名な染井村の盆栽売買の様子など興味深い。
「オイレンブルク日本遠征記」(2巻)、中井晶夫訳、雄松堂出版、1969年
著者は不明だが、第5章以降、つまり本書の2/3は随員のベルク(1825~1884)の作とされるプロイセン使節一行の公式記録。1860年オイレンブルク全権公使(1815~81)、フォン・ブラント(1872年から駐日公使、1835~1920)、画家のベルク、スケッチ画家のハイネ(1827~85、ペリーの日本遠征にも同行した)、リヒトフォーヘン(1833~1905、近代地理学の祖)他というメンバーで条約交渉を行った。ドイツ人の性格もあり、非常に細かく具体的に当時の状況などを述べていて、通貨問題などは特にわかりやすい。当時の江戸観光案内としても使える。通訳には森山多吉郎がメインで、福地源一郎は買い物の手伝いなどしていたようだ。堀田織部正の切腹(安藤対馬守との確執とも言われている)やヒュースケンの臨終の様子は痛ましい限りである。犯人は薩摩藩士の伊牟田尚平らで、彼は1868年京都において別件にて詰め腹を切らされた。江戸の後長崎に寄港し、ポンぺ、フォン・シーボルトや松本良順と親しくし、松本は離日の際漢詩を作って贈った。
設問)「絶え間ないひどい目のかゆみがありますか?」をロシア語にせよ。
2012年05月31日
●和文解釈入門 第377回
「ドイツ公使の見た明治維新」、M・V・ブラント、原潔・永岡敦訳、新人物往来社、1987年
1863~1875年まで日本に滞在したブラント(1835~1920年)の手記。文章が理詰めであり、紛争に巻き込まれるのを恐れて幕府にも諸藩にも中立を通した。大阪城を逃げ出した後、自害もしなかったことなどから徳川慶喜を好感の持てない人物と書き、大久保利通を高く評価している。堺事件、これは1868年フランス水兵殺害に関わったとされる土佐藩士20名が切腹を命じられ、11名が切腹したところで中止となった事件だが、これには一人が腸を掴みだすなど凄惨を究めたためとも、暗くなってきて立会いの外国人が襲われる可能性があったためとか、切腹したものが英雄視されるのを嫌ったなどの説がある。後に助かった9名のうち1名が割腹した。その知見などからかなりの事情通だったことがうかがわれる。堺事件については森鴎外の「堺事件」(1914年刊)の資料の読み方を批判して、大岡昇平が「堺港攘夷始末」(中央公論社、1989年)を書いている。ブラント1865年および1867年蝦夷地に旅しているのが特筆され、その中で箱館(現在の函館で、私の故郷でもある)は当時人口25,000人で住民は不潔だと書いている。1868~74年の日本の出来事に対し当時の外国人の書いた類書にはない記載も散見され、興味深い。彼は後に中国公使も勤めた親中派であり、日本を嫌っていたようであり、三国干渉のときの立役者の一人でもある。
「幕末外交談」、田辺太一、坂田精一訳・校注、東洋文庫、平凡社、1966年
田辺太一(1831~1915)は外国奉行支配となりパリ万博において、薩摩藩出品をめぐってモンブランとやりあった。幕府側から見た幕末の外交交渉の内情(幕府や諸藩藩主の)について述べた得がたい書。洋銀の為替レートについての説明は秀逸である。また注も詳しくて非常に良い。黒船の来航で幕府側が決して周章狼狽していたわけではなく、ただ指導層が目まぐるしく変わって決断力に欠ける憾みがあったということのようである。
「モンブランの日本見聞記」、C・モンブラン、森本英夫訳、新人物往来社、1987
本書には3人のフランス人と1人のイタリア人の日本見聞記が都合4編収められていて、モンブランは1867年のパリ万国博覧会の出店をめぐり幕府と薩摩藩との間でひと悶着あったが、この時の薩摩藩の代理人を務めたので有名である。1861~62年来日。他にデュパン(1861年訪日)、ボヌタン(1886年訪日)、カヴァリヨン(1891年訪日、彼はイタリア人)で幕末明治の日本についての印象記を読むことができる。
設問)「患者の目が変だ(何かおかしい)」をロシア語にせよ。