2012年05月06日
●和文解釈入門 第352回
不完了体未来形については第351回にも出題したが、疑問詞があれば不完了体未来形を使うと考えるのは必ずしも正しくない。あくまでも論理的アクセントが動詞に来ないというのが前提である。そういう説明では分かりにくいと思うので、実際にビジネスのクレーム(損害賠償請求)の交渉のときに完了体未来形を使った例があるので、その参考に供したい。当時問題になったのは地震で日本側の設備のデリバリー(納入)が遅れたことにある。自然災害は不可抗力条項(免責条項の一つ)として、納入が遅れても売主は責任を取らなくてもよいように普通は具体的に例を挙げて、契約書に記載されている。しかし、当時契約書の書式はソ連側のものを使う事になっており、その例の中に地震の記載がなかったわけである。交渉の中でКакие меры вы примете в связи с форс-мажорными обстоятельствами?(不可抗力状況に際してどのような措置を取りますか?)という発言があった。この文には完了体未来形を使っているが、この時点では双方とも不可抗力条項が発動されるかどうかについては合意してはいない(ソ連側がOKしない)。そのため具体的な措置を取るとかどうかさえ分からず、不可抗力条項が適用されないかもしれないという懸念が日本側にもあったのである。使われている動詞はразбитьのような瞬間動詞でもないから、形式的に言えば不完了体未来形も使えるはずである。
ここで第351回の設問を見てみたい。「お支払はどの通貨でなされますか?」となっている。つまりこの場合は支払するのは当然であって、問題なのは支払う通貨がドルか、ユーロか、円かということが明らかである。しかし、この不可抗力条項についての交渉の場合は不可抗力については解釈がいろいろある場合もあるから、このビジネスの文言は「どんな措置」ではなく「なんらかの措置を取ってくれるか」という事自体が話し手の関心事であることが分かる。当然措置を取ってくれるという前提なら、聞き手の関心は「どんな措置」に論理的アクセントが来て、不完了体未来形が来るはずだからだ。こういう懸念は後で述べる叙想的ニュアンスの一つである。
同じ「支払う」と疑問詞の組み合わせ、例えば、А кто оплатит расходы, если такая ситуация возникнет?(このような状況が起こったら、だれが費用を払ってくれるのですか?)という文でも、一番の問題は「誰が」ではなく、「払ってくれるか」という動作そのものが問題であることが分かる。払ってくれないかもしれないという懸念と、誰も払ってくれないという反語的ニュアンスも前後の文脈によっては感じ取れるのである。しかも、еслиの節に完了体が来ているから、例示的用法(もしそういう事態があるとしたならば)であることも分かる。このように動作自体が問題であれば、(瞬間動詞の場合だって必然的に動作自体に注目が集まるから完了体が来ると言えないこともない)、完了体未来形が来る。
このように露文解釈で見る分には割合簡単に推測できるが、自分が会話で即座に和文露訳するとなると、常に自分たち(通訳する相手の)の利害(特に金銭的な)に関わるかどうかを常に念頭に置いて、そうであれば動作そのものに論理的アクセントが来る可能性が高いので、完了体未来形を使う可能性が高いという風に理解しておくとよい。利害に関係しないなら不完了体が来るという風な理解でもよい。
完了体には叙想的ニュアンスがある。ところで、この「叙想」という語は広辞苑を引いても出ていないが、意味するところは「思うところを述べる」という感じである。述べる内容は、話者の思いであるので、個人的で主観的な事柄となる。つまりしばしば現実とも乖離し、婉曲な表現を取ることもある。このような主観的なことを言う時には、「直接法」は用いないで、「叙想法」(仮定法)を使うのである、という説明を聞いたことがあり、なるほどと思ったので今後完了体のニュアンスについてはこの語を用いることにした。第300回の表にも今後の改訂版では叙想的ニュアンスという言葉で説明することにするので、一応ここに書いておく。
一方不完了体は動詞の語義が生(き)のまま出ているもので、虚心坦懐とか無心の心ということで、上記のような懸念や雑念(?)も含めた叙想的ニュアンスがないものだということをよく理解してほしい。そうすれば単に事実の有無の確認なら不完了体未来形(過去形)を、叙想的ニュアンス(主観的な想い)があると思えば、完了体未来形(過去形)が出てくるというように、ある程度体の使い分けができるのではないかと考える。
設問)「人の足が踏みいれたことがない野生のツンドラで彼らは暮らしている」をロシア語にせよ。
Они живут в
неосвоенной дикой
тундре.
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正解と言えば正解ですが意訳です。私の答えは、Они живут в дикой тундре, где не ступала человеческая нога.
ロシア語が論理的だと思うのは、ロシア語では足が1本であるということである。二本ならジャンプでもして足跡をつければ別だが、二本だと先に入った一本目と後のもう一本というのがあるからかと思った次第。「彼は目が肥えている」というのはУ него намётанный глаз.というが単数なのは、片目でも十分という事かしらん?この語句を見かけるたびに職人が片目で何かを鑑定している様子が目に浮かぶ。
設問は動作の名指しの中の経験という用法なので不完了体過去形を使っている。
Они живут в дикой тундре, где человек ещё не вступил.
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вступить в/на + 対格でないと語結合的におかしいと思います。設問は「踏み入れたことがない」というのですから、普通に考えれば、経験、つまり動作の名指しということで、不完了体が来るはずです。
ところが過去の時制や現在の時制において、否定を強調するときには完了体も使うことができます。никогда(過去の時制では比較的少ないと思いますが), ни разу, ни один (одна, одно)という副詞と結び付いて、単一の事実を否定することによって否定を強調するのです。ещё неもある意味で、そのような副詞句と言えます。ですから、お答えのように完了体過去形を強調するような副詞句とともに使えば正解となります。
Они живут в дикой
тундре, никем
посещенной до сих пор.
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посещённойの前にнеが必要です。発想としては最初のよりはよいと思います。意味は分かりますが、посещать = быватьで、この言葉自体、未開の地に足を踏み入れるというニュアンスはないと思います。無論、быватьの否定と同じことで、こうすると意味が強くなるということは分かりますが、こういう場合は私の回答のように決まった言い方があるのでそれを覚えたほうがよいと思います。
Они живут(обитают) в диком тундре, куда не ступала нога человека.
人跡未踏の地というかぎり、「彼ら」とは動物だと思いましたので обитать でもいいのかなと思いました。
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惜しい。кудаではなくгдеです。この主語は未開の民族です。動物が生息しているという意味で、もっとも一般的なものはводитьсяです。обитатьは文語。житьはあまりこの意味では使いません。使うとすれば、繁殖の場所というよりは繁殖の条件に重点を置いた文においてです。населятьだとその地域の大部分で繁殖しているというにニュアンスになります。