2012年05月18日

●和文解釈入門 第364回

体の本質は何かということについて、だいたいのところは分かるし、用法の基準というのもだいたい分かっているつもりである。しかし、なかなかすっきりした説明はできない。この頃考えるのは、「不完了体の本質は、動作の名指しにある」ということである。こう考えれば、3つの時制、命令法、不定法の全ての用法について説明がつくのではないかと考えるようになった。動作の名指しを動作の記述そのものと考えるのである。動作の記述そのものだから無色であり、何のニュアンスもつかない。それ自体ニュアンスがないのだから回りの雰囲気の影響も受けやすいということになる。Садитесь!(おかけください)もそういうことで説明できるのではなかろうか。不定法で不完了体が出にくいのは、不定法は具体的な1回行為のために用いられることが多いから、無色な不完了体は使いにくいのだと思う。未来時制においても自分自身の色がないのだから、注目はそれ以外の補語に移るのは自然のことであろう。動詞に論理的アクセントが来ないから不完了体未来形を使うというのはその意味である。不完了体はこのような控え目な性質のため、目立たないことで目立つ時以外は用法が分かりにくい、ある意味でカメレオンのようにも見えるのが不完了体なのだと思う。

設問)「便に血や粘液がついているのに気がつきませんでしたか?」をロシア語にせよ。

Posted by SATOH at 2012年05月18日 05:56
コメント

Вы не заметили, что
к испражнениям
прилипает кровь или
слизь ?
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これはまずい。動作の名指し(動作の有無の確認)という体の基本的用法が分かっていないということと、お答えを訳すと、一つの解釈として、「排泄物には血、または粘液がくっついているのに、(当然)気がつきませんでしたよね?」というような、主観的ニュアンスをもった文になってしまいます。設問の「便に血や粘液がついているのに気がつきませんでしたか?」の述語を取ってみると、「便に血や粘液?」となりますが、これでも意味は分かります。つまり動詞は文の中心的役割を果たしていないことになります。このような場合、動詞は基本的意味だけで、何のニュアンスもなく、動作があるかないかだけを示していることになります。こういうときに不完了体が用いられるのです。私の答えは、Не замечали ли вы крови и слизи в стуле?
過去における典型的な動作の名指し(事実の有無の確認)の用法であり、当然不完了体過去形が来る。стулは便という意味もあるが、便通(お通じ)のことで、Сколько раз был стул?(お通じはどのくらいの回数ありましたか?)やСтул бывает ежедневно?(お通じは毎日ありますか?)などと使う。また便そのものは検便などで病院で使うのはкалである。こういう文字通り下がかった語彙を入れるとますます投稿者が増えない(減らないように希望するが)ような気がするが、今後需要があると思われる医療関係のロシア語では、血圧などと並んで必要な語彙だと思うので入れておく。

Posted by ブーチャン at 2012年05月18日 08:43

Вы не замечали примесь крови и слизи к испражнениям(в испражнениях)?
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設問は血と粘液であって、血と粘液の混合物ではありません。便の中で混合していたら見分けがつかないと思います。しかし、これらは瑣末なことです。体の本質である動作の名指しを理解されていることは非常に重要です。未来の時制についても同じことで、動詞が文の中で中心的役割を果たすかどうかでどちらの体を選ぶかが決まるといってもよいと思います。

Posted by メイ at 2012年05月18日 22:15

Не заметили ли кровь или слизь в стуле?
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血や粘液ですからилиではなくиです。他動詞の否定の場合は否定生格を用いるのが基本です。とくに存在の否定を意味するときは、生格の方がよいと思います。そうでない倍は口語では対格も多く使われます。語彙は正しいのですが、肝心の体の用法の基本が分かっていないようです。次回の本文に体の本質に書いておきますのでご一読ください。
 не заметилиが用いられないという事ではないのです。設問の露訳としてはおかしいですが、警察の違法賭博場への手入れのときに、Все были так увлечены, что даже не заметили вошедших...(みな、入ってきた人に気づかないほど熱中していた)とあるのは、否定の強調というニュアンスがあるから完了体が用いられているのでしょう。

Posted by asuka at 2012年05月18日 23:30
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