2012年05月19日
●和文解釈入門 第365回
「不完了体の本質は、動作の名指しにある」としても、会話での和文露訳をする上では、曖昧としていて実用的には役に立たない。そのためには「文の中心的役割を動詞が担わない場合は、不完了体を用いる」とすればよいのではないかと思う。なぜ不完了体にこだわるかといえば、ロシア語の動詞で他の動詞のもととなったと思われる無接頭辞単純動詞делать, писать, читать, строить, гулятьが不完了体だからである。文の中心的役割を動詞が担わないということは、文の中で動詞がその存在を無視されるという事ではない。その場合動詞は何のニュアンスも持たず、基本的意味だけでその文の述語としての役割を果たしているという事を意味する。中心的ではない、二次的、三次的な役割、例えて言えば、通訳やガイドの様な裏方としての働きをしていると言ってもよい。主語 + 述語という、動詞を含む最小単位の文では、主語を強調しない限り、動詞の基本的意味である動作の有無の確認(その動作があるかないか、動作の名指しобщефактическое значение)という目立たない部分が表面に出てくるわけである。そのように考えれば、
Я не понимаю вас.(おっしゃることが分かりません)
Больше не буду (делать этого).(もうしませんから)
Говорите громче.(もっと大きな声で話して下さい)
Я хожу в университет каждый день.(毎日大学に通っています)
上記の例文にしても、文の中心的役割を果たしているのは、最初の二つでは否定詞неであり、次のではгромчеで、最後のではв университетないしはкаждый деньであって、動詞ではない。ゆえに不完了体が用いられていると考えるわけである。
ちなみに、Я не пойму.(理解できない)やЯ не скажу.(言えない)の場合は、時制的には現在(未来の時制も否定されていると考えることもできる)であり、不可能や否定の強調という叙想的ニュアンスが付加されている、つまり述語である動詞に文の中心的意味があるということで、完了体が用いられているのである。Я не буду говорить, куда вам нужно идти.(あなたがどこへいらっしゃるべきかは言いません〔言うつもりはありません〕)では、неおよび(ないしはand/or и/или)куда以下が文の中心的役割を果たしているから不完了体が用いられているということになる。
もう一つ例を挙げよう。完了体過去形を用いる結果の評価と不完了体命令形を用いる動作の様態の強調という用法の違いである。それは動作の様態の強調という用法では、動詞は文の中心的役割を果たさないが、結果の評価の用法ではその役割を果たすということにある。
(彼は全ての単語をよく暗記した)Он хорошо выучил все слова. – 結果の評価
(もっと大きな声で〔話して下さい〕(Говорите) громче! – 動作の様態の強調
結果の評価の用法では動詞を省略すれば意味が通じなくなるが、動作の様態の強調という用法では動詞を省略しても意味は通じる。
尚、これまで論理的アクセントと表記してきたが、曖昧でもあり、今後は文の中心的意味(役割)という表現に変えた。ご了承願う。
設問)「だって裁判にかけられるのはほかならぬ私なのよ」をロシア語にせよ。
Ведь именно меня отдадут под суд.
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困りましたね。ロシア語の語彙も十二分にあり、文法の実力も上級レベルなのですが、体の用法に関する限り、完了体に対する思い込みが強すぎるようです。実力はおありになるのですから、第365回や第341回の本文を少し離れた視点から見れば、不完了体が文の中心的役割を果たさないときに現れるとか、その中心的役割を果たさないというのが、動作の名指しであり、それは動作の基本的意味であるということがよく分かると思います。その証拠に、設問で強調されているのは、動詞ではなく「私」だということはименноをお使いになっていることで、ご自身もよく分かっているはずです。完了体への思い込みを捨てれば、ご自身の実力から考えて、分かろうと思えば、30分や1時間で体の本質が会得されると思います。私の答えは、Я ведь буду судиться, а не кто другой.
動詞が文の中心的役割を果たしていないのだから、不完了体未来形が用いられる。
Ведь будут судить именно меня.
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正解です。
Отдадут под суд ведь меня.
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困りましたね。強調されているのは「私」だとご理解されているわけです。そうなるとこの文の中心点的役割を果たしているのは「私」であり、考え方によりますが、その次はпод судです。動詞をなくしてもこの文の意味が分かるとはいいませんが、動詞は最低限の基本的意味「渡す、差し出す」という意味しかないのは明らかです。もっと分析的に言うと、「裁判にかける」というのは一瞬にして決まるものであはりません。ある程度の過程が必要です。そうなると完了体を使うとしたら、動作自体に何か主観的なニュアンスが必要ということになります。設問でこのような主観的ニュアンスがあるとしたら、動作ではなく、「私」です。
考えすぎのように思います。空手などでは守・破・離といいますが、最終段階の離がうまくいっていないようです。上記では理詰めに説明しましたが、個々の例文にとらわれると体の本質は見えません。禅問答のようですが、少し離れた視点から見てみることが必要です。いずれにせよ、体得されるのは時間の問題です。
意向の提示が不完了体未来形の主要な意味であるように、第300回までの表では書いていますが、それは間違いです。次回訂正します。不完了体未来形は未来における動作の有無の確認ですから、平叙文では、未来に動作が起こることを確認するということで、文脈によっては意図(~するつもりです)の意味が現れることがあるというだけで、絶対に現れるということではありません。一方完了体未来形には新しい事態の生起という叙想的(主観的)ニュアンスがありますから、まわりの雰囲気や状況を無視して「~する」という意向の意味で使えますが、不完了体未来形はこういう風には使えません。「今晩何をなさるおつもりですか?」Что вы будете делать сегодня вечером? と聞かれて、(劇場に行くつもりです)Я буду посещать театр.となるわけです。
Ведь под судом попадает некто иной кроме меня.
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「ほかならぬ」はне кто иной, какです。お答えの部分で「裁判にかけられる」はпопадает под судであり、попадатьが予定の意味で使えるかというと使えないと思います。そうなるとВедь я буду попадать под суд, не кто иной. とすれば正解です。語彙はほぼ正しいのですが、体についてはもうひと頑張りといったところです。
確かに修行が足りませんね。今回は отдать にやられました。дать から派生した動詞なんだから瞬間的動作だと機械的に考えてしまいました。思い込みのくせがあることを肝に命じなければと思います。守・破・離 、よくわかりませんがおもしろそうですね。禅の世界は普遍的ですからしばらくロシア語から離れて禅の世界で真理を探求したいものです。
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守・破・離というのは空手では形(自由組手〔試合形式の稽古〕ではなく)の稽古の重要性を説くときに使われます。始めの修行時代は師の教えた形や技をひたすら守る(練習する)、その次は教えられた形や技を破る工夫をする。修行の最終段階は、教えられた技すべてを、放念して(離れて)、新しい技を工夫するという風に私は理解しています。
отдатьは瞬間動詞(具体的なものを渡す)でもありますが、抽象的な意味で使うときは違います。この動詞は具体的なものを渡す時に、даватьとは違って、過程の動詞としても使えます。動詞というのはполучатьのように使う局面によって瞬間動詞だったり、そうでなかったりするわけで、一概に決めつけるのは簡単ですが、実際と異なることがままあります。