2011年01月26日

●日本の心 第19回

(93) 「漂流民とロシア」、木崎良平、中公新書、1991年
 日露交流について漂流民からとらえた好著。有名な大黒屋光太夫以前および以後の日本人漂流民についても詳しく書かれているし、漂流民ではないが、最初に(1600年)モスクワにたどり着き、ニジューニー・ノーヴゴロドで受難したニコラス・デ・サン・アウグスティノ(洗礼名)など初めて知った。後に調べたところ、これについては中村喜和教授が「おろしや盆踊考」(現代企画室、1990年)の「モスコーヴィヤの日本人」という論考で詳細に述べておられる。日本のイエズス会出身で聖アウグスチノ会の日本人ニコラス修士は1597年ニコラス・メーロ師と共にローマに遣わされたが、途中モスクワで宗教上のことから1611年ニスナ(ニージュニー・ノーヴゴロドであろう)で処刑されたとある。これなどロシアに行った日本人では早い方であろう。

(94) 「北槎聞略」、桂川甫周、亀井高孝校訂、岩波文庫、1990年
 1782年駿河沖で遭難した大黒屋光太夫(1751~1828)一行のロシア漂流記で、約10年に及ぶロシアでの体験を帰国できた磯吉(1765~1838)とともに語っている。ペテルブルグで囚人が物乞いのため(当局は当時囚人に食事を支給しなかったので)に外に出されたなど同時代人として実際に現地で見聞したことや、最初に上陸したアムチトカ島で同じ小屋に寝起きしていた酋長の娘が口封じにロシア人たちに殺された現場にいたとか、光太夫や磯吉と共に帰国の途につき根室で死亡した小吉がその死体を埋めるのを手伝わされたとか、当時のロシア人と原住民との争いの様子も彼らは垣間見てきたのである。当時のロシアの状況を著したもので、他の書物にないのは、ペテルブルグでは糞尿を夜中に海上遠くに捨てていたとか、刑罰としての鼻ぎり(鼻そぎ、鼻裂き)は鋏にて鼻の穴をタテに裂くなりとか、ネヴァ河の氷上のアイススケート(木履の裏に鉄の半月形の歯をタテにつけたものとある)や、そのレンタルもあったことなどである。またモスクワの大富豪ジェミードフ(デミドフ)の招待の宴のひどさにエビヲナマチЕбёна мать (= Ёб твою мать 英語のFuck your mother!) と罵詈雑言を言っているのでこういう卑語も知っていたことが分かる。帰国の時の通訳のトゥゴルーコフТуголуковについては、彼の言葉は南部なまりの、しかも誤り伝えたることども多かりし故、初めのほどはよく聞き取れなかったと述べている。トゥゴルーコフの日本語の先生は南部生まれの漁師だったことが分かる。文体は古文だが分かりやすい。後ろの注も非常に詳しく丁寧である。

(95) 「初めて世界一周した日本人」、加藤九祚、新潮選書、1993年
 環海異聞(仙台若宮丸漂流民の書きとり)や新発見の史料をもとに描いた労作。人間は常に善だとか、常に悪だということはあまりなく、状況によって、また味方によって変わるわけとはいえ、著者が自らの収容所体験とダブらせて、感情移入が過ぎて多少漂流民びいきの描写のあるのはやむを得ないのかもしれない。

(96) 「ドゥーフ日本回想録」、ドゥーフ、永積洋子訳、雄松堂出版、2003年
 1833年初出。長崎出島のオランダ商館長ドゥーフ(1777~1835)の回想録。ジャワのバタビアもイギリスに占領された19世紀初め唯一長崎出島だけにオランダ国旗が翻っていたがその時の商館長。1799年から1817年まで滞日。1803年からは商館長としてロシアのレザーノフ訪日や1808年のイギリスのフェートン号事件、ジャワのイギリス副総督(ラッフルズ)からの使節応接など本書に詳しい。レザーノフ訪日のときに禁裏の宮廷の意見を求められたとある。ロシア人からは幕府の味方として嫌われたようだが、彼としてはオランダの代表としての言い分もあるし、それはそれでよく理解できる。ハルマ蘭仏辞書から蘭和対訳辞書を1817年作成した。これについてフィッセルやシーボルトが一言も触れておらず恰も自分たちが辞書を作ったかのように著書に載せているのには憤慨しているがこれももっともなことである。ゴロヴニーンの著作についても事挙げしてやや大人げないような気がするし、性格的にやや線が細いような気もする。参府の記録も細かい指摘もあり、将軍に謁見したときに正座が出来ないので横座りして、非礼なので足の裏を見せないようにマントでおおったとある。高橋景安、桂甫賢や馬場佐十郎らと交友があった。

(97) 「金谷上人御一代記」、横井金谷、日本人の自伝第23巻所載、平凡社、1982年
 一代の破戒坊主という言葉では破天荒な画僧横井金谷(1761~1832)のスケールの大きさを表すことはできない。いったいにユーモラスな筆致であり、母が夢に松茸を呑む夢を見て懐妊、2歳で乳母が誤って雪隠に取り落とし、糞松と称されると、のっけから驚かされるが、9歳で大阪の宗金寺に小僧として出され、木魚に小便、花瓶に糞をたれるなどイタズラ三昧。11歳ですでに女出入りがあり、すぐ草津まで放浪して、いったん寺に戻されるが、14歳で江戸の芝増上寺へ。しばらく勉強するも、18歳で江戸を逃げ出し、願人坊主などするが、それなりに僧としての学問をして21歳で北野金谷山極楽寺の住職になる。貧民を助けたりもするが、放浪の気持ちもだしがたく、九州まで遍歴し、その間浄瑠璃、絵、博打、水主兼船主、山伏も一流というのだからスーパーマンである。天草は女護が島であり(山多くして田畑少なく、男は舟手としてよそに出てしまうため)、船も女ばかりが水主であり、強チンされたとある。1794年四十七士の原惣右衛門の孫の4女久と結婚。惣右衛門の腰刀をもらい、ブタを連れて伊勢参宮をしたりして、後にこの豚が狼や野犬に襲われ尻を食われたときも、その刀で狼や野犬をぶった切るなど起伏ある出来事が続く。1804年三宝院御門主の大峰入御修業に鉞持ちとして参加、葛城、熊野三山を経巡る。文章は古文だが分かりやすく、面白い描写が多い。晩年息子の福太郎とともに富士登山をするが、嵐に遭ったときに、戸を開きて尿をすれば面にかかるなどと書いてある。鎌倉は藤原鎌足が霊夢により鎌を埋めた地なりとか、伊豆は湯出ずるの意味であるなど書かれている。同書には、「大崎辰五郎自伝」(1903年口述、林茂淳速記)も載っており、大崎辰五郎(1839~?)は江戸本郷生まれの大工だが、最後は家作をもつまでになったから庶民とはいえないが、キレやすく、やられたらやりかえせという主義で、悪い奴にひと泡吹かすのが趣味のような人である。著名な人物が出てこないという点でも自伝としては珍しい。同じく同書には壮士節の演者であり演歌者、社会運動家である添田唖蝉坊(1872~1944)の「唖蝉坊流生記」(1941年初出)も載っている。壮士節や流行節の歌詞も載っているのがよい。1906年ごろより社会運動に乗り出し、堺利彦とも知り合いであった。

Posted by SATOH at 2011年01月26日 12:46
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