2011年01月28日

●日本の心 第20回

(98) 「日本滞在日記」、レザーノフ、大島幹夫訳、岩波文庫、2000年
 レザーノフ(1764~1807)は使節としてクルゼンシュテールンとともに日本と通商条約を結ぶべく、1804年長崎に赴いたが、結局ことはならず失意のうちに亡くなった。このレザーノフの日記を和訳したもの。内容も興味深いが、和訳も注が完備しており見事である。ただ力点が示されていないものが多いのと、クルーゼンシュテルン(クルゼンシュテールンが正しい)、ゴローヴニン(ゴロヴニーンが正しい)など重要人物の力点が、これまでの和訳を踏襲したためか間違っているのが惜しい。

(99) 「最初のロシアによる世界周航記」Первое Российское плавание вокруг света, Крузенштерн, Дрофа, 2007
 有名なクルゼンシュテールン(1770~1846)の1803年から1806年までの世界周航記。彼の任務の一つにレザーノフと日本人漂流民を乗せて日本に赴き、日本との貿易の可能性を探ることだった。ただ、日本人漂流民が航海中わがままであったとして、彼らに対する評価は低い。水の制限をしたときも文句を言いだしたのは日本人漂流民であり、日本人漂流民は怠惰で、不潔であり、衣服にもかまわず、常に陰気であり、性悪で、助けが必要な時にも働こうとしないとし、一人60歳の老人(津太夫)のみが例外であると書いている。ロシア正教に改宗した通弁キセリョーフ(善六)も同様よくなく、日本人漂流民といがみあっていると書いている。これは禁制のキリシタンになったころびバテレンを嫌ったからであろう。クルゼンシュテールンは長崎からの帰途、蝦夷と南樺太も訪れ、そこのアイヌについては控え目で温厚であると好意的な評価をしている。本書のオランダ語訳を手に入れることがシーボルト事件の一因というのも、本書を読む上で感慨深い思いを抱かせる。邦訳には「クルウゼンシュテルン日本紀行(上・下)、羽仁五郎訳注、雄松堂出版、1966年があるが、筆者未見。これは独訳からの重訳のように見えるが、著者がドイツ系ロシア人であり、原書はドイツ語とロシア語と同時に出たのでロシア語だから特によいというわけではないようである。

(100) *「世界周航記」Путешествия вокруг света, Головнин, Дрофа, 2007
 ヂアーナ号艦長だったГоловнинゴロヴニーン(1776~1831、これまでゴロウニンと訳されてきた)の世界一周に関する回想録で、1811年から1813年日本の捕虜となったときの回顧談が1/3ぐらい含まれている。フヴォストーフХвостовとダヴィドフДавыдовによる2度のサハリンおよび択捉における日本の番所の襲撃にからんで、松前藩の役人にクナシリ島で部下6名(士官2名水兵4名)とともに捕らえられ、箱館(現函館)および松前で監禁された。函館は私の故郷なのでなおさら興味深かったが、箱館での食事はそこまでの道中の食事に比べてひどかったと書いてあるのを見るとがっかりする。不法に拉致され監禁されたわけだが、これに対して特に怒りを見せるわけではなく、冷静に当時の日本および日本人を観察描写しているのは人間的にも尊敬できる人柄だからであろう。当時の日本人は好奇心に満ちており(鎖国していたから尚更であろうが)、ロシア文字の揮毫をロシア人に求めたのに対し、水夫は文盲のため断ったことに日本人は非常に驚いたとゴロヴニーンは述べている。彼もある意味でショックだったのだろう。この牢を間宮林蔵も訪れ天文学機器の使い方などを尋ねたが、手元に換算表がないことや通訳の未熟さからゴロヴニーンたちが断ったところ、間宮が腹を立てたなどと記している。日本人は読書好きであり、平の兵卒ですら警護の任についているときも立ったままで読書している。ただ歌うように音読するのでこれには閉口すると書いているが、謡の練習でもしていたのだろうか。チェッカーもゴロヴニーンと一緒に捕虜になったロシア人水兵が日本人に広めたという。用語はロシア語なので、後世の学者がロシア語と日本語は同根であると誤解を招かねばいいがとユーモアたっぷりに注をしている。同じく捕虜になった士官のムールは脱走に反対で、日本側と通じようとしていると仲間割れについて書いているのも生々しい。この後脱走するのだが、結局失敗し日本側に捕まってしまう。ナポレオンのモスクワ侵攻(その後のモスクワ焼き打ち、逃避行)についても高田屋嘉兵衛から聞いて驚いている。これはリコールト(これまでリコルドと書かれてきたが、発音通りならリコールトである)Рикорд船長からの話を伝えたものである。離日の前日女子供を含む庶民にもヂアーナ号船内を夜中まで見学させたとある。リコールトは1950年に自分を主席として日本との通商条約締結に派遣するよう政府に進言したが、すでにプチャーチンに大命は下っていた。リーコルトの通弁のキセリョーフはレザーノフの通弁でもあった。この部分の邦訳として、「日本俘虜実記」(2巻)ゴロウニン、徳力真太郎訳、講談社学術文庫、1984年がある。プチャーチンによれば、ゴロヴニーンは1814年自分を日本知事に任命し、箱館を極めて重要な軍事拠点として占領せよと提言したという。

(101) *「ロシア士官の見た徳川日本」、ゴロウニン、徳力真太郎訳、講談社学術文庫、1985年
 ゴロヴニーンの手記「日本国および日本人論」と、海軍少佐リコールトの「日本沿岸航海および対日折衝記」の訳。前者はゴロヴニーンが日本語の敬語についても、ロシア語のспать/почиватьやесть/кушатьと同じだとしていることから、やはり並の人ではないことが窺われる。訳の日本語は簡にして要を尽くしている。似ているロシア語と日本語の単語(деньгиと「銭」、якорьと「錨」)に対してどうしてだろうと首をかしげている。また「火」の発音が出来なかったと言っている。これはロシア語にhiの発音がないためである。一つだけ43ページに「何の益もない感応薬」とあるが、多分симпатическое средство(気休めの薬)のことであろう。日本人は天下で最も教育のある国民であるとか、下層のものでも礼儀正しく、罵り合ったり、喧嘩したりするのを一度も見たことがないなどと述べ、非常に高く評価している。ゴロヴニーンに付いた通訳に元々アイヌ語通訳だった上原熊次郎というのがいて、娘を嫁にやったと言って泣く熊次郎に、目出度い話で得心の行かなかったゴロヴニーンが尋ねたところ、娘の行く末のことを不安に思って泣いたのだと言われ、その言葉に胸を打たれたと書いている。この人はあまりロシア語の通訳がうまくなかったらしい。もっともオランダ語の素養があった幕府役人村上貞助(1780~1846)の方がうまいといっても、ゴロヴニーンから口伝えで習ったのだからたいしたことはなかったようである。後者の本はゴロヴニーンの引き渡しに力のあった高田屋嘉兵衛とリコールトの友情がよく描かれている。ともに時と場所を得た逸材であったことがよく分かる。

Posted by SATOH at 2011年01月28日 13:35
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