2014年01月24日

●続和文解釈入門第345回

『ソ連製 ソ連時代のシンボルСделано в СССР Символы советкой эпохи』(Мир энециклопедий Аванта+, 2012)の中に、結婚式などでガラスや陶器の食器をなぜ割るのかその由来が書かれていたので紹介する。ピョートル1世に初めてロシアで作ったガラスのコップを、ウラジーミルのガラス職人エフィーム・スモーリンЕфим Смолинが割れないコップだという触れ込みで献上した。ピョートル1世は中に入っていたお酒を賞味した後、そのコップを床にたたきつけた。もちろんコップは粉々になったが、帝はガラス職人を罰せず、»Стакану – быть.»(コップは〔かく〕あるべし)と述べたが、それを»Стаканы бить.»(コップは〔かく〕割るべし)と聞き間違えたというものである。それともコップが割れても帝が職人を罰しなかったので、それは吉ととらえてのことかもしれない。

出題)「福音書にのみ彼は救いを見出そうとした」をロシア語にせよ。

Posted by SATOH at 2014年01月24日 05:42
コメント

Лишь в евангелиях он пытался искать помощь.

よろしくお願いします。
----------------------------------------
お答えを直訳すると、「複数の福音書のみに助けを得ようということを彼は試みた」となり、пытатьсяが志向の動詞ではないので、多分救いは見つからなかったという風にとらえられます。それと、искатьの補語の原則は、具体的なものは対格、助けのような抽象的なものは生格であり、特に助けは、最新版のアカデミー露露でもискать помощиとなっています。помощьは救いは救いでも、救助の方であり、魂の救済ではないと思います。私の答えは、Только в Евангелии он находил спасение.
志向の用法。

Posted by yama at 2014年01月24日 06:52

Он пробовал найти
руку спасения только
с помощью евангелии.
---------------------------------
пробоватьも志向の動詞ではないので、試みたが、救いは得られなかったいう気がします。救いの手というのであれば、протянуть руку помощи(救いの手を差し出す)が普通です。これだと、具体的に救助の場面など頭に浮かびますが、спасениеという単語に手をつけて、救いの手を差し出せるのは神仏だけだと思いますし、救いというのは他力と自力がありますしね。

Posted by ブーチャン at 2014年01月24日 08:58

Только в евангелии он пытался найти спасительность.
-------------------------------------
спасительностьはспасительный = дающий спасение(救済をもたらす)の性質を示す名詞で、救済をもたらすこととなり、抽象名詞です。спасениеは逃れさせるもの(人)、救うもの(人)ですから、こちらを使ったほうがくどくないことは確かです。пытатьсяは志向の動詞ではありません。

Posted by ゴ at 2014年01月24日 23:43
コメントしてください