2013年10月16日

●続和文解釈入門第246回

どの宗教でも善悪はあり、人を殺す事は悪いことである。人は善をなさなければならず、悪を為すのは悪人か悪魔のはずである。そこで思うのだが、悪魔は悪だけを為さねばならないのだろうか?そうであれば、悪魔という生業も大変である。まず善とは何かという事を理解して、不善の中の悪を規定し、その枠内で悪事をしなければならないことになるからだ。しかし、世に言う悪魔、悪人というのはそうではあるまい。私は悪魔は何をしてもいいと感じているから悪魔なのではないかと思う。つまり善とか悪とかの区別をしないのである。だから気分次第では善事もするというのが悪魔であるはずだ。考え方としてはアナーキズムに近いが、無政府主義は私の理解では、まずすべてを破壊して後、一切の権力や強制を否定し、個人の自由を拘束することのない社会を実現しようというのだから、これとも違う。悪魔は世界の破滅を望んでいるとか、究極的に世界をよくするとか、悪くするとかには全く関心がないのである。悪魔は結果を全く顧みずに行動するのだと思う。神は秩序そのものだと考えると、悪魔は無秩序ということになり、どの宗教宗派でも無秩序を嫌うというのは理解できる。

 殺人はどの宗教でも禁じられているはずなのに、世界中で宗教がらみで殺人が絶えないのは、善を為すのはその宗教、その宗派内だけに限られているからである。他の宗教の人を助けることはあるが、幸福になるため、あるいは人が救われるためのの唯一の道である自派に取りこむ、つまり正しい教えを伝えるためだからである。ここに一神教には異教徒は悪魔と同じという極端な考え方が発生する素地がある。善を為そうとすることが、必ずしも善につながらないのは、ロシア語でも地獄への道は善意で敷き詰められているБлагими (добрыми) намерениями ад вымощен.という言葉でも分かる。日本の神道は神仏習合ということもあるように、廃仏毀釈ということは何度かあったかもしれないが、基本的に他の宗教を受け入れるという考え方だから、このような考え方は欧米の人には理解しにくいと思われる。明治時代に日本に来た旅行家バード女史も敬虔なキリスト教徒であり、日本もキリスト教を受容しなければならないと考えていたが、ロンドンなどに比べ、日本人は邪教で暮らしている割には、秩序があり、犯罪が少ないと驚いている節がある。神道も仏教も多神教というとらえ方ができるが、一神教であるはずのキリスト教でも特にマリアを尊崇する人たちや、聖ニコラスを拝む人などがあるように、庶民のレベルではあまり変わらないように思われる。

出題)「どこに何があるか、そもそもあるのかをいつも精確に知っているとは限らない」をロシア語にせよ。

Posted by SATOH at 2013年10月16日 07:50
コメント

Не всегда точно знать, где что есть,
или есть ли на самом
деле.
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否定文で不定法文を使うと、不可能か、禁止かとなり、前者は完了体、後者は不完了体が普通です。不完了体でも不可能は表現できますが、その場合は人知を超えたものということになります。そのため、この場合は不定法は避けたほうが賢明です。それとна самом делеというのは、基本的にв действительности(実際は、本当は)という意味ですから、「そもそも」と意味が一致するのかという疑問もあります。私の答えは、Не всегда точно знаем, что где находится и есть ли оно вообще.

Posted by ブーチャン at 2013年10月16日 08:44

Не всегда точно понимают, что где есть и вообще есть или нет.
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正解です。重箱の隅をつつくようなことを言えば、出題を考えるとзнаютの方がよいのと、естьが繰り返されているので、別の動詞に代える工夫が必要です。

Posted by ゴ at 2013年10月16日 23:24

(お題)
どこに何があるか、そもそもあるのかをいつも精確に知っているとは限らない
(コーシカ訳)
Не всегда узнать точно то, где и что находится, и есть или нет.

узнатьは可能性を示す完了体不定形です。
研究社の辞書の説明を参考にしました:
всегда+完了体未来・不定形は「仮定的、潜在的可能性」を表わす。
たとえば、「必要とあれば、いつでも」といったように
(研究社、272頁)
находитсяはものが位置している状態そのものですから不完了体現在です。
さて、正解は
完了体不定形では不可能=絶対わからないになってしまうのですね。
「どこに何が」はчто гдеの連続でいけるのですね。
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узнатьは「知る」という動作で、знатьは「知っている」(状態や反復、一般的動作)という違いがあります。ですからこの出題に不可能は使えず、一般的動作の部分否定をつかうということになります。

Posted by コーシカ at 2013年10月18日 00:15

宗教については信心している本人はもちろん
信じるかどうか(入信する、あるいは引き続き信心するか)を決めるに当たっても
次の2点を覚悟しておく必要があると自分では感じています:
1. ある事柄が正しいと自分で確信していても
それをそのとおり100%再現することは人間には出来ないこと
(列王第一8:46; ガラテア3:10)
2. 何が正しいかを判定するのは自分ではなく神(ないしそれに相当するもの)であること
(伝道12:14; コリント第一4:4)

Posted by コーシカ at 2013年10月18日 00:19
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