2011年12月13日
●和文解釈入門 第207回
20年の時を経てドストエーフスキーの死の家の記録を再度ロシア語で読んだ。20年前には印をつけたのは5、6か所ぐらいだったが、今でも1ページに2、3か所つける。進歩したのだろうが、ちょっと情けない気もする。もっとも印をつける中身がずいぶん進歩したのだと思いたい。当時は内容を追うのに精いっぱいだったし。150年以上前の本だが、この表現は会話に使える(ひょっとしたら哲学的な)というつもりで語彙集にも入れてみた。牢内の動物(犬や鷲など)のくだりが昔は何とも思わなかったが、いま読み返すと描写が淡々としているとはいえ胸に迫るものがある。この調子でチェーホフの短編や同じドストエーフスキーのカラマーゾフの兄弟などを読み返せば新たな興趣や共感も浮かぶのかもしれないが、まだ他に読むものがいっぱいあるのでそうはいかない。後10年も経ったらどうだろう?
設問)「われらは別の道を行く」をロシア語にせよ。
Мы идем разными
путями.
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これは非常にまずい回答です。完了体と不完了体の使い分けがよく分かっていないようです。たしかに「キエフに行きます」というような文では予定の意味の不完了体現在形や完了体未来形が使えますが、使うべき状況や用法の差はあります。それを分からないといつまでも外国人のロシア語から抜け出せません。私の答えは、Мы пойдём другим путём.設問はレーニンの有名な言葉ですが、これまでとは違った道を歩む、つまり新規の事柄を示しているわけですから、これには不完了体は来ません。ご回答は、予定の意味で書かれたのでしょうが、「我々は別々の道を歩いている」という過程の意味にしか取れないでしょう。ご回答を予定の意味で理解してもらうためには、その前でこの事柄に触れる必要があります。そうなら可能かもしれません。
設問)「われらは別の道を行く」
Мы идём другим путём.
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体の用法の未来時制の用法についての理解があやふやなようです。べつにあやふやでも意味は通じるから問題はないのかもしれませんが、根本的な問題ではあります。ただ根本的といっても、ロンロンさんやラーポチカさんにはこれまでの積み重ねがありますから、この用法を理解するには概念として非常に簡単なので1時間もかからないでしょう。ただ本当に理解したかどうかは、これから自分でいろいろな機会に実証実験をしていく必要があります。
Мы пойдем каждый своим путём.
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体の用法の理解は正しいし、これが出題の眼目ですからいいのですが、問題はкаждыйとмыがそのまま並列して用いられるかということです。каждыйは各人で、мыは我々(私 + だれか)ですから意味的に両立はしないでしょう。そうなると解決策は一つ、каждый из нас пойдёт своим путём.とするしかないと思います。
われらは別の道を行く
1) Мы идем другим путем.
2) Нам с вами не по пути (или не по дороге).
さて、正解は
これから新たな道をゆく=新規、で完了体を使うのですか!
びっくり、でも納得です。
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1)は無論不正解ですが、2)も「あなたと私は進むべき道がすでにちがっている」という現在の状態を示しているので不正解です。