2012年11月06日

●和文解釈入門 第536回

(238) 「新編東京繁昌記」、木村荘八、尾崎秀樹編、岩波文庫、1993年
 画家木村荘八(1893~1958)の下町の風俗と歴史をつづったエッセーであり、1955年の東京から明治ごろまで時代をさかのぼっており、観工場がどんなものであったか、銀座の歴史なども面白い。1872年の鉄道開通について、すてん所、火輪車、蒸汽車を出す見世(駅)、必客館(旅客ホテル)などという初期の訳語や、鉄道旅客規則は英国ではなくセイロンの規則の翻訳であるとか、外国人のために人も乗らぬ先から犬の汽車賃を決めたなども面黒い。

(239) 「喜劇こそわが命」、榎本健一、日本人の自伝第22巻所載、平凡社、1981年
 エノケンこと榎本健一(1904~1970)は日本の喜劇王の自伝。1967年初出。小さいころから運動神経は抜群で小学生でコンクリートの塀の横腹を駆け足で10メートル以上走ることが出来たという。17歳で根岸歌劇団のコーラス部員となり浅草オペラで田谷力三などと知り合った。田谷力三の美声を妬んだ人が、田谷の湯飲み茶碗に水銀を入れてのどをつぶそうとした事件があったという。これは江戸時代、明治時代にも行われたことである。大震災後オペラが下火になった後、日本最初のレビュー劇場カジノフォーリーに参加した。この頃「金曜日になると踊り子がズロース(下ばきの一種で太ももまで覆うもの)を落とす」というズロース事件が起こる。全くのデマで、ある踊り子の胸のさらし(当時ブラジャーはなかった)がゆるんで落ちそうになって、あわてて前かがみのまま顔を赤らめて引っ込んだのが、面白好きの観客がそれにヒントを得て作り話として吹聴して回ったのが真相だというが、客は大入りとなった。こういうことで警察に目をつけられ、警察ではえろケンと呼ばれたりした。サトーハチローのセンチメンタルキッスという出し物では、象潟警察でカジノの踊り子がズロースの又下を物差しで計測されるという珍事が起こったりしたという。しかもそのズロースにはキスマークが真っ赤に書いてあるという大胆なものだった。エノケンは後に自分で劇団を作るが、戦後ソニーの井深大がエノケンの映画の録音技師をしていたこともあるという。喜劇の出し物では「らくだの馬」が有名だが、これを見て実際に笑い死に(心臓マヒ)した40代の客がいたというから驚きだ。エノケンは長男を肺結核で失い、右足も特発性脱疽で失った。劇団では天才にありがちなように専制的だったという。この自伝を読むとエノケンの若いころ、大正のころの東京の人情というのがよく分かる。

 エノケンと比べるられるのは古川ロッパ(1903~61)だが、その自伝「あちゃらか人生」(日本図書センター、1997)は質、量ともに劣るが、面白いところもある。ロッパも毎日スコッチウィスキーを1本空けた酒豪だが、戦時中は酒にも食にも苦しみ、「ブルトーゼだのバンミョウチンキなんてのは酔えます。ひどいのになると頭髪へ振りかけるローション、ヨーモトニックなどにもアルコールが入っているからといって、飲んでいた奴がいる。僕は流石に養毛液は飲まなかった。胃袋の中に毛が生えるのが怖かったからである」というのは、ゴルバチョフ時代のソ連に似ているなと思った次第。ロッパので面白いのは「ロッパの非食記」(ちくま文庫、1995年)で、1944年の1年間、1958年の文字通り自分が食べたものについての悲壮なまでの記述である。文章は軽妙で独特の味がある。明治、大正、昭和の流行語を挙げていて、それぞれ「なんてマがいいんでしょう」、「イヤじゃありませんか」、「心臓が強いわね」とある。「アノネーオッサン、わしゃカナワンヨ」という戦前戦中に流行った高瀬実乗(たかせ・みのる)のギャグを、当時の皇太子殿下が学校で真似をして、当局よりこの言葉が禁じられたという噂があることもロッパは書いているから、庶民の歴史を知る上では重要な史料である。

設問)「余(朕)は(ここに)彼を大臣に任命する(ものである)」をロシア語にせよ。

Posted by SATOH at 2012年11月06日 06:19
コメント

Я тут назначаю его
министром.
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яは間違いですが、設問の狙いは伝達型動詞なので、それは正解ですから問題ないと思います。ただтутは「ここに(~を任命する、証明する)」という意味では使いません。訳さないか、レターであればнастоящим(本来は次のписьмомが略されたもの)となります。30年前モスクワ駐在の時に私がビジネスレターを習ったソ連の工作機械公団の副部長がいました。その人とは取引で親しくしていて、ついでにビジネスレターの分からないところも尋ねました。貿易公団なので公団内にビジネスレターの書く基準のようなものがあり、それは見せてくれませんでしたが、具体的に私のビジネスレターを直したり、アドバイスしてくれたりしてくれましたが、その時に彼は古い表現なので、表題のкас.: + 生格(О + 前置格に代える)やнастоящимは省くというのが公団のビジネスレターの指針にあると言っていました。
 私の答えは、Мы назначаем его министром.
これはмы = яであり、императорское «мы»というフランス語から入ったと思われる用法である。第199回本文にも書いたが、ロシア語でyouを丁寧に表現すればвыである。これはフランス語から来たものだが、その基のラテン語においてローマ皇帝がvos(フランス語のvous)と丁寧語で呼びかけられたいがために、自分の事をnos(フランス語のnous)と呼んだことが、いわゆるимператорское мы(余、朕)という表現の始まりとされる。ゆえに、余や朕はмыとなる。こういう人称の転用は和文露訳で使う事はないであろうし、できなくても気にすることはない。今回の設問の狙いは伝達型の動詞である。設問から見て、述語は過程をも、状態を示すものではないことは一見して理解されるだろう。伝達型の動詞は不完了体であり、現在時制においては動作の内容を示す補語(ないしはчтоを含む従属節)を必要とする。そのような補語があっても、未来を示す語句と一緒には不完了体である伝達型の動詞は使えない。その場合は完了体未来形を使う事になる。назначатьも伝達型の動詞なので、「任命する」と言い終わった瞬間、彼は大臣になったことになる。
一方Мы назначили его министром.(彼を任命した)なら、結果の現存か文脈によってはアオリスト的用法ということで、彼が大臣になったのは、この発話の以前(直後かもしれないが、それ以前)ということになる。
назначимと完了体命令形を使えば、日本語では同じ「任命する」でも、一瞬後か、明日か1年後かもしれないが、とにかく未来において彼は大臣になるという事になる。だから、未来を示す語句や文脈と一緒に使われるのが自然である。
И как только мы победим на выборах, мы назначим его министром.(選挙に我々が勝ったらすぐ、彼を大臣に任命する)<完了体未来形を使うためには、未来を示す時間を示す語句や文脈が必要である>

Posted by ブーチャン at 2012年11月06日 07:21

Я сейчас назначаю его министром.
今この場で任命するから不完了体にしました。朕…えっ?!
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яは間違いです。それは大したことではないのですが、それ以外の和訳は正解です。

Posted by ゴ at 2012年11月07日 00:18
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