2011年07月12日

●和文解釈入門 第63回

ロシア人とロシア語の会話をしているように見せかけたいのなら、ロシア人に立て続けに質問し続けることである。これならボロは出ない。相手の言う事を聴きながら当意即妙の相槌を入れられればそれは本当にロシア語が出来るということになる。つまりシンポジウムの通訳は事前に用意してあるなら原稿の棒読みであるから楽なようだが、いくら事前にお願いしても、たまに原稿と違う事や順番を変えて言う講師がいる。そうなると原稿を見ないで通訳した方がはるかにましということになる。だから技術通訳で難しいのはシンポジウムそのものというよりは、その後の質疑応答の通訳である。慣れない通訳は質問を紙に書いてもらって、回答は後日などとお茶をごまかそうとするが、質疑応答の時間が限られていればともかく、主催者が気を利かして十分時間を取っていたら悲劇的展開となる。
設問)〔「禁煙は難しくない。私自身20回くらいやめたよ」とマーク・トウェインは語った〕をロシア語にせよ。

Posted by SATOH at 2011年07月12日 06:28
コメント

(1) Марк Твейин
рассказал, что
бросить курить не
так трудно, я сам
бросал курить раз
двадцать.

(2) Марк Твейин
рассказал, что
бросить курение
очень легко, так как
я сам мог бросать
курить около
двадцать раз до сих
пор.
-----------------------------------------
(1)は正解です。(2)も悪くはないのですが、説明が過ぎてくどい感じがしますし、могはсмогと違い、過去の可能性だけで実際はしていないということですから設問とは意味が違ってきます。それとマーク・トウェインはМарк Твенとロシア語では書くようです。私の答えは、«Бросить курить не трудно, — говорил Марк Твен, — я сам раз двадцать бросал».
これはアメリカのジョークの露訳である。アネクドートとしても面白いとは思えないが、体の用法の復習には役に立つかと思い採録した。オチсоль(下げ)は、結局のところ禁煙できなかったということである。禁煙するというときには完了体を使う。完了体過去形にすれば禁煙した状態が続いて今も喫煙していないという結果の現存である。ところが、不完了体過去形を使うと、不完了体は繰り返しという用法がメインなので、何回も禁煙した、つまり禁煙に何度も失敗したというニュアンスになるということがお分かりになるだろう。говорилとしたのはマーク・トウェインが何度も言ったという意味である。無論完了体過去形でもよい。それならアオリストか、結果の現存(マーク・トウェインが生前こう言ったときに居合わしたという意味で)となる。またговоритと現在形を使えば歴史的現在の用法で、意味はアオリストと変わらない。体の用法を変えると意味やニュアンスに違いが出るわけだから、訳に表現できるかどうかは別にして、その点をしっかり意識することが重要である。

Posted by パラショーノク at 2011年07月12日 08:38

(訳)
禁煙は難しくない。私自身20回くらいやめたよ」とマーク・トウェインは語った
Марк Твен сказал:
бросить курение - это не трудно. Я сам так делал раз двадцать.

う~ん、体の選択で迷いました。
броситьは「やめる」というのが(普通は)1回きりかつ具体的な動作なので完了体、
делатьは過去に禁煙したことはあるけど今は知らんで、
という経験の有無を表わすと思われるため、不完了体をそれぞれ選びました。

さて、正解は
うわぉ、разは複数生格でもразのままでразовとはならんのですね。
基本語とは言えこれはびっくり。

マーク・トウェインを露語でどう綴るかを調べる過程で
他の格言もたくさん見つかりました:

・死にそうな犬を拾って助けてやればその犬が君にかみつくことはない。
  そこが犬と人間の大きな違いだ
  →金属や技術に自分の関心が広がっていっているのは
   ひとつにはそれらが(あるいは自然や物理法則が)
   決して嘘をつかないから、という側面があるのは否定できません…

・我々は虹を見ても、未開人が抱くような敬虔な気持ちを持つことがない。
 なぜならば、虹がどうしてできるのかを知っているからだ。
 我々はそうしたものを詮索することによって獲得したのと、同じだけのものを失っている。
  →科学と畏れの気持ちとが共存できないというのがそもそもおかしい
   この問題に対しイスラーム世界は、
   ルネサンス以後の教会(というよりは盲信を要求する権威)vs科学(ないし理性)
   の不毛な対立を見ているせいか、もともと懐の深い宗教だからか、
   なかなか巧く対処しているように思えて興味深いです。
   ルネサンスの知見も実はイスラーム世界を通じて欧州に里帰りした
   ギリシア・ローマの知であった、と聞きますし
   (アルゴリズムやアルカリ、化学[chemistry]、ナフサといった言葉は
   アラビア語起源なのだそうです)。
   (参考:小杉泰『イスラーム世界を読む(NHK人間講座)』日本放送出版協会、2002年)

・多数派は常に間違っている。自分が多数派にまわったと知ったら、
 それは必ず行いを改めるか、一息入れて反省する時だ。
  →911テロの時にNHKの報道にまんまと乗せられたのは苦い思い出です…

・やむを得なければ服装には無頓着だっていい。
 しかし、いつでも心はきちんとすべきだ。
  →ぼろは着てても心は錦!

Posted by コーシカ at 2011年07月16日 01:43
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