2011年07月13日
●和文解釈入門 第64回
江戸時代の日本では銀の方が金より高く評価された。それが江戸時代を通じて大量の金が海外へ流出した大きな原因である。これは日本人の渋好みと関係があるのかもしれない。我々は日光や金閣寺よりも桂離宮や銀閣のほうを好むのと関係がありはしまいか。
地下水もロシア語では二つある。広義の意味の地下水はподземные водыで、これはпочвенные воды(土壌水), грунтовые воды(表層地下水), межпластовые напорные воды (артезианские воды深層地下水)に分かれる。狭義の地下水は表層地下水のことである。また地下水の水位はгоризонт грунтовых водという。
「作る」でラブレンチェフの和露辞典に出ていないものを挙げる。составить предложение, список, таблицу(文を、リストを、表を作る)で、сделать предложениеは「見積もり(オファー)を作る」となる。
「構造」というのはстроение, построение, структураを使い、строениеはстроение мозга(脳の構造)のように、生物学的、物理学的なものに使うが、построениеはпостроение характера(性格の構造、構成)など数学、言語や芸術の分野で使う。структураはструктура металла(金属の構造)など、科学、経済、社会的組織(機関)の構造として使われる。
設問)「いつでも連絡の取れるようにしておいてください」をロシア語にせよ。
(1) Готовьте всегда,
чтобы я мог с вами
контактировать
любое время.
(2) Будьте в готовом
состоянии, чтобы
я мог держать
контакт с вами любое
время.
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どちらも意味は分かります。времяは修飾して副詞句として用いるときにはв любое времяとвを入れるべきです。контактировать (これは不完了体だけですが、контактироватьсяなら完了体・不完了体同形です)というのは病人に接触(感染しているかどうか)するとか、やくざと付き合うとか、友人として接するとかそういう意味合いの文例が多いようです。二つ目のдержать контактのほうがよいでしょう。поддерживать контактでもいいかもしれません。контактには人間的なつながりや、взаимопонимание(相互理解)という意味のほうが強いような気がします。私の回答は、И всегда будьте на связи.
この構文は露和辞典にはないが、雑誌、本、ネットなどでよく見られる表現である。多分「無線で連絡を取る」выходить на связь という言い回しから派生したのではないかと思われる。связьには、これよりもОн не может самостоятельно передвигаться в связи с отказом ног.(足がいう事を聞かなくて自分で彼は動けない。〔Ноги отказываются.というのは「足が動かなくなる」という意味〕)とか、Объём выручки в 2009 г. проседает в связи с влиянием кризиса.(2009年の売上額は危機の影響の関係で落ち込む)や、В связи с изменением спроса на рынке, фирма лишена возможности принять сверла по спецификации.(市場需要が変わったため、当社は仕様にあるドリルを引き取ることができなくなりました)などの、理由を示す前置詞句として使う事が多い。связиの力点はいずれもиに来る。
Всегда будьте
связанными со мной.
Прошу вас
находиться со мной
в связи всегда.
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構文的にはこっちのほうがよいような気がしますが、связан、в связиというのは「関係がある、関連がある」というですからもうひと工夫必要です。
(訳)
いつでも連絡の取れるようにしておいてください
Будьте(, пожалуйста,) всегда можно с Вами связываться.
今回は裏らしい裏付けを出せません…
связыватьсяは露国の地下鉄の非常電話の箱に書かれていたのを思い出しました。
бытьは無人称文の未来に該当すると思われます。
さて、正解は
быть на связи ですか!
連絡[の取れる状態]にあれ
うむ、簡潔。
>江戸時代の日本では銀の方が金より高く評価された。
>これは日本人の渋好みと関係があるのかもしれない。
>我々は日光や金閣寺よりも
>桂離宮や銀閣のほうを好むのと関係がありはしまいか。
今日(って日付変わっとるで!)聴いた独語講座ではカール・フローレンツが取り上げられました。
大変興味深い洞察でしたので引用します:
日本人の心情のあり方は平均して見ると、
まじめなものよりはユーモアに傾きがちである。
…
月と雪と花は日本人が人生を楽しむ上での三大要素であるが、
わけても花は、花見客の感覚を常に軽やかで快活なものにしてくれる。
もっとも、その者が桜の花と同じように、
時に栄華の短さに思いを致すというなら話は別であるが。
しかも、時々生ずるこうしたメランコリックな情緒ですら、
真に日本的なものとは言えないのであって、
むしろそれは、中国や仏教の影響の下で、日本の魂の陽気に芽吹く若枝の上に
接ぎ木された部分に過ぎないように、私には思われる。
(カール・フローレンツ『日本文学史』より)
(NHKまいにちドイツ語2011年7月号のテキストより孫引き:87頁)
日本人ないし日本語の起源については、これまでも何度かブームが起きているように思います。
曰く、日本人は氷河期の地続きを利用して歩いて北からきた者の子孫なのか、
あるいは、黒潮に乗ってやってきた南方系の民の末裔なのか
恐らく、遺伝的にも言語学的にもこの両方が入り混じって現代日本を構成している、
というのが最も正解に近いのではないか、と考えています。
してみると、
渋いものに惹かれ露語にどっぷり入り込んで違和感のない人間は、
あるいは大陸の血が強いのかもしれませんね。