2013年01月04日

●和文解釈入門 第595回

(266) 「日本捕虜志」(2巻)、長谷川伸、中公文庫、1979年
 これまでだれも取り上げてこなかった日本人捕虜の歴史であり、戦後占領軍に対して日本の捕虜の扱いにも情があった時代があったということを示すというのが執筆の動機でもある。ロシアとの戦争によるものがほとんどであり、日露戦争時代までは日本人にも、ロシア人にも庶民のいい意味での気質(義侠的武士の)が失われていなかったと同時に、捕虜になるのを忌避する気持ちがあったことが本書を読めばよく分かる。一方ロシアの方でも革命前に庶民の間はあった憐みの気持ち(ロシア正教およびロシア人気質によるものであろう)が、ソ連時代には捕虜をスパイとみなすという考え方に変わったことも窺える。ソ連の社会主義と言う全体主義、戦前の日本の押しつけの皇国史観により、捕虜に対しても気狂いじみたような扱いになったことがよく分かる。日本は戦後、ロシアはソ連崩壊後ようやく対人間的な感情において、まともな国に戻ったことは慶賀の限りである。本書において日露戦争当時ロシアにいてウラル山中に抑留された民間人千人の詳細や、英領カナダでの日本人義勇軍200人(死傷者90%)というのも初めて知った。日露関係を語る上で必読の書であろう。

(267) 「松山捕虜収容所日記」、クプチンスキー、小田川研二訳、中央公論社、1988年
 1906年に出た「В японском неволе」の邦訳。看護婦の献身的な様子などや、捕虜生活の苦しさも含めて概して客観的に日本での捕虜生活について述べている。日露戦争のときの捕虜の日本兵の扱いも同じく人道的であったのは興味深い。それから第2次世界大戦後の日本兵捕虜の収容所での扱い(同胞のソ連人政治犯についても同様だが)を見ると雲泥の差であることが分かる。金沢の収容所を舞台にした恋愛物語としては五木寛之の「朱鷺の墓」がある。

設問)「細かい活字の、200ページの本を書いた」をロシア語にせよ。

Posted by SATOH at 2013年01月04日 07:52
コメント

Я написал книгу с
мелкими шрифтами из
200 страниц.
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шрит = комплект типографических литер、つまり活字の1セットとか、字体を指します。いくつかの字体で印刷した本というのもありますが、通常はひと組のはずです。それとкнига из белых страниц(なにも書かれていないページの本)というような句は詩などではありえますが、これはページの性質を述べています。大きさはв + 対格で示すべきだと思います。私の答えは、Написал книгу в двести страниц убористого шрифта.
Моя жизнь, Лев Троцкийからの出題。 トロツキーはオデッサで学生時代を送ったせいか、たまに標準ロシア語ではないような前置詞の使い方をする。第24回本文にも書いたが、オデッサでは今に至るもウクライナ語ではなく、ロシア語を使うが、そのロシア語は独特であるという。トロツキーという人間は嫌いだが、彼の文章は読ませるし、革命時代の内戦や、スターリンやレーニンとの関係を知る上では彼の自伝は必読文献と言える。

Posted by ブーチャン at 2013年01月04日 08:39

Я написал двухсотстраничную книгу с мелким шрифтом.
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正解です。

Posted by コーリャ at 2013年01月04日 11:06

Я написал книгу в 200 страниц с мелким шрифтом.
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正解です。

Posted by メイ at 2013年01月04日 22:01

Я написал двухсотстраничную книгу с маленькими буквами.
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шрифт = комплект типографических литер (букв, знаков препинания, математических и других знаков)とあり、文字と句読点、数学などの記号を分けて考えていることが分かります。маленькийとмелкийの違いは、мелкийは小粒ということで、るいごぷらす!の「大きい」のкрупныйと考え方は同じです。

Posted by ゴ at 2013年01月04日 23:30

Я писал книгу с мелким шрифтом на 200 страницах.
動作の有無の確認という意味で不完了体にしましたが、完了体にして、書き上げたばかりで手元にあるという意味にすることも可能に思えました。
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これはまずい。動作の有無の確認というのは動作に焦点が来ないということですが、書いたという行為はここで初めて知らされる行為ではないでしょうか?不完了体過去形を使うと、1度以上書いたが、いつか、どのようなものかは特には問題にしないという前提があります。ですから設問には完了体過去形を使うべきです。本が残っているということで、結果の現存という説明をしてきたときもありますが、やはり書き上げたのは過去の一点に動作が起こったということから、アオリスト的用法というのが正しいと思います。例えば、何百年か前に書いた本が今に伝わっていないとしても、その本を書いたというのは完了体過去形を使いますから、結果の現存にこだわると、体の用法の本質を見失うことになります。和文露訳入門2-2-2の創作者としての資格という項目を参照ください。それだけ文法を勉強していれば、これなどは覚えるのは1分もかからないでしょう。次は間違えることはないと思います。
 不完了体を使うのは、「毎月メールを300本書いている」、「たくさん論文を書いた」というような具体性のない文脈でしょう。メールでも、「昨日彼にメールを書いた」なら、これは具体性がありますから完了体過去形を使います。書いた、描いたという動作には完了体過去形を使うのが普通だというふうに取りあえず覚えるのもよいかと思います。
 それと大きさを示すにはв + 対格を使うべきです。

Posted by hatomame at 2013年01月05日 00:22

解説ありがとうございます。一回の具体的行為なので完了体、と即思ったのですが、裏があるかも・・・と調べたのが仇になりました。「創作者としての資格」の項目、見落としていました。次からは間違えません(多分)!
毎度ながら、今更誰かに聞けないような点がすっきりして嬉しいです。

Posted by hatomame at 2013年01月06日 00:15
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