2013年01月10日

●和文解釈入門 第601回

(270) 「道標」(宮本百合子全集第7巻および第8巻、第1部~第3部)宮本百合子、新日本出版社、1980年
 革命前のロシアからソ連へといきなり生活が切り替わったわけではなく、徐々にいろいろな分野で変化していったわけだが、1930年頃を一つの目安とすることは可能だと思う。ちょうどネップ(新経済政策)が終わり、モスクワでも辻馬車が少なくなり、クレムリン前のオホートヌィ・リャートの市場が廃止された時期である。この時期に宮本(旧姓中條)百合子と湯浅芳子は1927年から3年弱モスクワに滞在した。当時自分の意思で女性がこのような決断をするのは非常に勇気が要ったことで、いい意味での女傑といえる。その体験を小説の形で描いたのが「道標」である。モスクワでの秋田雨雀、鳴海完造、米川正夫との交流も興味深いが、ソ連の作家レオーノフ、ノーヴィコフ・プリボーイ、ヴェーラ・インヴェルとも知己となった。ピリニャークは1925年にヴャチェスラーフ・イヴァノーフとともに来日し、後にその「日本印象記」はすぐに日本でも翻訳されて朝日新聞に掲載されたほど話題になった。小説「道標」ではピリニャークはポリニャークの名で登場する。ある晩彼は自宅に宮本百合子と湯浅芳子を招いた。小説の記述では「二人きりになるやピリニャークは百合子を抱えあげ、寝台へ投げ出して、のしかかってきた。そこへアレクセーエフが入ってきてピリニャークを引きとめたのだった」とある。実際は当日ピリニャーク宅にいたのはピリニャーク夫人も含めて12人で、米川正夫がモスクワを離れるので別離の宴を張ったのだという。宮本と湯浅はモスクワでロシアの辻馬車に乗った最後の日本人かもしれない。

(271) 「ソヴェト紀行」(宮本百合子全集第9巻)、宮本百合子、新日本出版社、1980年
「道標」は小説だが、こちらは事実に基づいた随筆である。やや癖のある文体だが、簡潔で、著者が頭の回転が速い女性であることが分かる。これは滞在直後で文体が十分醗酵していなかったからかもしれない。1948年から書かれた「道標」では違和感のない文章である。モスクワに住んだことのある人なら尚更興味深い。本の市がニキーツキー門にあったとあるが、1990年代にもあったのは面白い。イーリフとペトローフИльф и Петровの「1階建てのアメリカ」Одноэтажная Америкаというアメリカの文明批評(1935年頃3ヶ月アメリカを見物した)と同じ時期に読んだので、一層興味深かった。「ソヴェト紀行」157ページにレニングラードの「学者の家」を訪れた時の文章で「我等の主婦は・・・・・力を入れない握手をしたのだ。まるきり手を握らないことはソヴェトでは珍しくない」という文を見つけた。ロシアの女性が握手する習慣がなかったことがよく分かる。特に西欧の女性と勘違いして、今でも日本人の男がロシアの女性に握手を求めることがあるが、これは非礼なのである。ロシアでは握手は女性が求めたときのみ男性はすべきで、そうでなければ日本人の男は頭を下げておけばよい。無論、海外によく出かけたり、外国人と会う頻度の多い女性、企業の女性幹部は例外である。このようにロシアに長く住んだ湯浅や宮本は、住んでいないと分からないことまで女性らしい繊細さで伝えている。

設問)「その投稿者の方が私に対して気を悪くされないといいのですが」をロシア語にせよ。

Posted by SATOH at 2013年01月10日 08:16
コメント

(1) Боюсь, что так я
обижу этого
участника.

(2) Хорошо было бы,
если этот участник
на меня не обиделся.
--------------------------------------
ほぼ正解なのですが、あえて重箱の隅をつつくようなことをすると、обидеть = прчинить обидуで、обида = чувство душевной боли, горечи, досадыで不当な仕打ちに対する恨みですから、強すぎるような気がします。あとучастникはучастье = совместнаяс другими деятельностьする人ということで、大会や競技への参加者ですから、このコーナーの投稿者とは違うように思います。(2)はХорошо быとбылоを除くほうが口語的で、会話ではよく耳にします。それと仮定法なので、если бы などとеслиの節にбыを入れるべきです。私の答えは、Надеюсь, что корреспондент на меня не посетует.
仮に~するとしても~しないという例示的用法の否定の例。посетовать = выразить сожалениеで、出題はドストエーフスキーの作家の日記から。корреспондент = тот, кто находится в переписке с кем-либо(手紙のやりとりをしている相手、文通の相手、投稿者)であり、作家の日記では読者からの投稿の例を挙げ、投稿してくれた人をкорреспондентとドストエーフスキーは呼んでいる。他にも、А царя он судить не посмеет, потому что царь сам над всеми начальник.(帝自身が全員の上に立つ長だから、奴が帝を裁こうという気にはならないさ) 
боятьсяを使っても可能だが、構文の違いをよく理解のこと。
Боюсь, что он приедет.(彼が来ることを恐れる → 彼が来はしないか心配だ)
Боюсь, что он не приедет.(彼が来ないことを恐れる → 彼が来ないのではないかと心配だ)
Боюсь, чтобы (как бы) он не приехал.(ひょっとして彼が来はしないか心配だ)

Posted by ブーチャン at 2013年01月10日 09:10

Хотелось бы надеяться, что сотрудник на меня не обидится.
---------------------------------------
構文自体は問題ないのですが、сотрудникというのは、一般的に平社員のことです。

Posted by メイ at 2013年01月10日 21:15

Я надеюсь, что этот отправитель не возмутился мной.
-----------------------------------
構文自体は問題ありませんが、возмущаться = испытывать крайнее недовльство , приходить в негодованиеということであり、возмущаться, негодоватьは二つとも倫理的、社会的(公的であって個人的ではない)に問題がある事柄、極めて強い、長引く否定的感情を示します。ですから冗談っぽくは使えない言葉です。この類のシノニムで一番おだやかなのはсердитьсяで、この動詞は感情が特定の個人にも向けられ、額にしわを寄せたり、唇をつぼめたり、視線が険しくなったりすることで示すのが普通です。отправительはよいと思いますが、肝心の何のが抜けています。

Posted by ゴ at 2013年01月11日 00:05

Не обиделся бы на меня этот участник.
----------------------------
обдитеться, участникが問題です。ただ投稿者については、アンケートの回答者をреспондентとか、участник опросаと言いますから、絶対だめだということにはならないでしょうが、участник, участиеの定義を考えるとどうかなという気はします。

Posted by コーリャ at 2013年01月11日 00:35

Надеюсь, что этот читатель, который писал нам не обиделся бы на меня.
具体的(今回一回の投稿を問題にしている)動作と考えると、писалではなくて、написалがよいのでしょうか?
何度もご説明いただいているのに、すみません。
----------------------------------------
具体的なら完了体という感覚がついてきているので、本質的なところは理解されていると思いますが、そうであればなぜписалとなるのでしょう。悟るまで迷いが出るのは当然のことです。あと一歩で体全体の使い分けが得心されるようになります。一つが分かれば、それは本質の理解ですから、他の時制や命令法、不定法についてもおのずから分かるようになります。理屈はやや違いますがнаписалとすべきです。これは書いた(書きあげた)のが過去の一点に起こったからで、これをアオリスト的用法と言います。書いたものが現在まで残っていれば、結果の現存とも理解しても結構です。しかし、基本はアオリスト的用法です。писалとすれば、書いたというだけで、書いたのが1回以上(1回かそれ以上かを区別しない)であり、書いた時期も頭にない、具体的な書いた対象も特に意識しないということになります。1年前は毎日何通もメールしていたというような繰り返しの文ではписалが出てきますが、昨日メールを友人に書いたという具体的な文では Вчера я написал другу почту.というように完了体になりますし、書いたという動作自体が、繰り返し以外は具体的なもの(メール、投稿)を意味するのが普通ですから、過去の時制では完了体を用いるのが普通です。しかもнаписал нам и не обиделсяと完了体過去形が続けば、順次的用法であり、動作が次々と起こるわけで、より自然な感じとなります。читательは読者であって、投稿者ではありませんが、написалとすることで、投稿者という意味を出そうとした問うことは理解できます。

Posted by hatomame at 2013年01月11日 05:04

連日励ましの言葉とともに、詳細なご説明、ありがとうございます!めげずに頑張りたいと思います。

Posted by hatomame at 2013年01月12日 04:09
コメントしてください