2012年02月25日
●和文解釈入門 第281回
ロシアの結婚式では瀬戸物やガラスの器を割るという風習があるが、この由来らしきものについて18世紀中ごろのロシアの上流階級の結婚式を、オランダの旅行家ヤン・ストレイスという人が書いているものがあるので紹介する。聖職者より赤ワインの入れてあるコップを渡された新郎新婦は、これを飲み干し、新郎がコップを床に落とし、「われらの間に敵意と憎悪の種をまこうと考える全ての我らが敵が、このように我らの足元にひれ伏すよう」と言いながら、二人してふんづけるとある。
慣用句のлёгок (легка, легки) на поминеは「噂をすれば影」と訳すが、これは昔ロシアでは法事поминで、この世を去った人に対しても、その人がすぐ戻ってくるようにと願ったことによる。
вылететь в трубуという慣用句がある。これはпрогореть, оказаться на мели, разориться, обанкротиться(使い果たす、蕩尽する、破産する)という意味だが、なぜこういう意味になるのかその由来が長いこと分からなかった。влететь в трубуなら話は分かるが、このタイプミスか、それとも慣用句だから理屈に合わないのもしかたがないものとあきらめていたところ、これはペーチカ(暖炉)печьに関係した言い回しで、要するに暖炉で薪が燃えて熱を出して煙突から外に出るわけだが、その薪がなくなって、全部熱として外に出てしまうと、凍死するしかないわけで、その薪の大事さを表現したものであることを最近知った。
設問)「見つけた方にはお礼を差し上げます」をロシア語にせよ。
Нашедший моей потерянной вещи будет
вознагражен.
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少し説明的ですが意味は分かると思います。私の答えは、Нашедшего ждёт вознаграждение.
Тот, кто нашёл, получит подарку в знак благодарности.
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これで意味は分かると思いますが、プレゼントの可能性がないとはいえませんが、もらうものは普通はお金です。そうなると報酬としたほうがよいでしょう。
ただ構文的には正しいと思います。普通は、Тот, кто найдёт для этого время, будет вознаграждён.(そのために時間を見つけてくれた人は報われる)とかТот, кто найдёт собачку, получит денежное возграждение.(小犬を見つくてくれた人には報酬を差し上げます)というようになるのでしょう。後者は完了体の未来における順次的用法のようなものです。時間的に先に行われるということで日本語通り完了体過去形を使っても間違いではないのですが、この文脈ではどの動作が先かはっきりしているので、特に使う必要はないと思います。使うのはどちらの動作が分かりにくいときのほうが普通だと思います。
前回の単数・複数のご説明はとてもありがたいです。いつもどっちかわからず、一度ロシア人(ウクライナ人)に聞いたことがありましたが、その人に、わからなければ複数にするといいよ、などと言われてしまったのを思い出します。いちいち説明するのが煩雑だったのでしょうね。
Нашедшему обещано вознаграждение.
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そのウクライナ人の方の説明は簡にして要を得たものです。つまり一つと分かっているもの以外は、複数と考えたほうが当たる確率的には高いという指摘で、私の考えもそうです。その確率を高めるために、一見物質名詞や抽象名詞と見えるもので複数を取れるものは何かというのが、医療関係に絞っていますが、前回のテーマでした。無論同じことは技術関係(例えば鉄鋼)にも言えますが、通訳で使うとすればかなり特殊ですし、関心を持っている人もいないと思いますので、書きませんでした。それにその理解には単語だけではなく、技術に対してのある程度の理解が前提になるからでもあります。より広範囲に考えるなら、スポーツ(オリンピックも近いですし)、観光でどのようなものが一見単数しかないように見えるが、複数も可能かということで、これは現在研究中(それほど熱心ではありませんが)で、ある程度まとまったら発表したいと思います。
ご回答の意味は分かると思います。
Нашедшему вознаграждение.
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個人的にはбудетを入れないと、一般的にこうだという文に見えます。しかしそれでも説明不足になるような気がします。