2012年06月21日
●和文解釈入門 第398回
「外国語としての日本語」(佐々木瑞枝、講談社現代新書、1994年)によれば、日本語を学ぶ外国人の理解しにくい構文として、迷惑(被害)の受け身というのがあるという。「木が倒された」というのは、能動態として「(だれかが)木を倒した」とできるから、これは通常の受け身(直接受け身)である。ところが、「雨に降られた」は能動態に直せない。このようなものを迷惑(被害)の受け身(間接受け身)というのだとある。これをロシア語にしてみよう。Я попал под дождь.などどうであろう?попастьはоказаться(その場にいる〔ある〕ことになる)という意味だが、通常は偶然とか、予期に反してというニュアンスである。完全にうまく訳せるとは思わないが、これなども候補の一つになりうると思う。この他にподвергаться/подвергнутьсяもиспытать на себе действие(自分に何かの作用を受ける)という意味だが、その作用というのは好ましくないことが普通である。Мой дом больше всех подвергался ветру.(私の家はどこよりも風にやられた)というような文も可能である。
市販の和露辞典には、類義語の使い方について記載がないとかという問題の他に、語彙の露訳がほとんどで、日本語の構文自体には目を向けて来なかったということも欠点としていえる。あたかも、それは文法書の管掌範囲であるといわんばかりである。ところが、文法書は文法書で、露文解釈ばかりに目が行くものだから、日本語とロシア語の時制や法(命令法や不定法)の用法の違いについて、和文露訳の観点からはほとんど説明していないように思われる。ロシア人と意思を交わす上で、露文解釈も和文露訳も両方必要なわけで、これまでほとんどなされているとは思えない和文露訳の視点に立った学習法の確立が必要だと考える次第である。そのためには日本人だから日本語は当然理解しているという観点ではなく、日本語とロシア語の構造的な差異に注目した指導法を確立しないと、いつまでたっても挨拶程度のロシア語だけで、ロシア人に自分の考えを伝えるという、コミュニケーションという道具としてのロシア語が使えないままであると思う。日本語自体を客観的に見つめるには、外国人に教える日本語というのが大いに参考になる。自分なりに思うのだが、その根幹となるのが、時制であり、命令法や不定法であろう。
設問)「彼らにどう対処すべきか明日決めなければなりません」をロシア語にせよ。
Нам необходимо
решить завтра как
справиться с ними.
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これでもよいと思いますが、時制はどうなのでしょう?決めるという動作はいつ行われるのでしょう?今でしょうか、それとも未来でしょうか?私の答えは、Завтра вы должны будете решить, как следует с ними поступить.
動作の時点が今ならбудетеはつけず、設問のように未来ならбудетеをつける。過去ならбылиとなる。Расходы на национальную оборону должны были составить 3,5 процента ВВД.(国防費はGDPの3.5%でなければならなかった)。
しかし、会話ではбудетеは省く場合が多いと、原先生の「ロシア語の体の用法」(水声社)の180ページにある。個人的には、我々外国人の場合には、明らかに未来ならつけたほうがよいように思う。завтраのように明らかに未来であることを示す語句がない場合でも、動作の開始時期が今なのか、未来なのか、はたまた過去なのかを、意識して使い分ける訓練として、つけるようにすべきだと思う。
Завтра нужно определить наше отношение к ним.
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これでもよいと思いますが、動作はいつ起こるのでしょう?