2012年06月20日
●和文解釈入門 第397回
会話でロシア語を話す場合、我々は原始人ではないのだから、動詞なしでは会話は済まされない。またバイリンガルでもないから、頭の中で母国語の日本語からロシア語に訳すことになる。そうかといって、語彙さえ知っていれば、右から左へと簡単に露訳できるかというとそうではない。日本語とロシア語は全く系統の違う言葉なのだから、日本語を外国語として客観的に見つめ直す必要があると考える。「外国語としての日本語」(佐々木瑞枝、講談社現代新書、1994年)を基に、和文露訳という面からその内容をアレンジして考えてみた。
「カレーを食べます」は、毎日か、これからかでは、動詞の体が違うし、「カレーを食べています」、「学校に通っています」、「車は止まっています」、「座っています」、「一度見ています」でも、同じ「~しています」ではあるが、ロシア語にするときには動詞の体や時制を変えなければならない。これは日本語の「~しています」が、過程、繰り返し、現在完了、状態、経験の意味を担っているからである。「~した」も「歩いた」や「歩いて来た」のように、日本語では過去と現在完了の意味がある。つまり日本語の動詞を分析的に理解して、それに対応するロシア語構文を知らないと簡単な文も作れないという事になる。これは語彙だけの問題ではない。我々は日本人だから、日本語の具体的な文の意味もニュアンスも分かるし、分析的に考えることができる。だから、このような和露の分析的な対応する構文表があれば、後は、話し手が日本語で何を、どのようなニュアンスで伝えたいのかを分かりさえすればよいことになる。つまり、体の本質を理解することにより、対応の体を日本語の構文分析表に当てはめていけば、ロシア語にすることは難しいことではない。
しかし、ロシア語の会話をマスターしようとする人は、できるだけ語彙と文例を覚え、その文例から応用して自分なりに会話をひねり出そうとしてきたし、今もそうである。そのまま文例が使えればなお結構という具合である。落ちこぼれる人がほとんどだが、中には運と根性に恵まれ、上達する人も少ないながらいる。しかし、これが、二十歳を超えた、あるいは越えなんとする人の勉強法だろうか?こういう迂遠な、場当たり的な学習法ではなく、より根源的な、体の本質に迫る学習法の方が、落ちこぼれのない学習法なのではないかと確信している。そこで、先学の業績を基に、自分なりに40年以上かけて集めた文例を、動詞という観点から和文露訳用に、三つの時制(未来、現在、過去)と二つの法(不定法、命令法)を中心にして、系統的に整理した構文表が本コーナー(第300回、第345回、第370回)に試みとして載せてある。体の本質の理解に少しでも役立つとよいと心から願っている。
設問)「明日お閑でしたら、市内観光に連れて行っていただけませんか?」をロシア語にせよ。
Если завтра у вас будет свободное время, не можете ли показать город?
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動作は未来の動作の遂行なので、не сможетеとすべきだと思います。私の答えは、Если вы свободны завтра, не смогли бы вы сопроводить меня на экскурсию по городу?
「閑である」という意味のсвободенは明日との組み合わせでも未来時制にはならない。Завтрашний вечер у меня совершенно свободен.(明晩は僕のところは全く閑だ)。私が思うには、думать(思う)というような動詞が省略されているように見える。明日が閑かということは神様でない限り、確言出来ない。我々ができるのは、多分とか、予定ではというように、その時点で「明日は閑だ」と思うことしかできないからではないかと思う。他に何かお考えのある方は遠慮なく投稿願う。口語では現在時制と未来時制について、不完了体現在形の予定の用法のように現在時制で代行するという傾向が出始めているのかもしれない。ただу кого свободное времяでは未来の文脈でбудетを省くことはあまりないように思う。これはбудетに文のアクセントくるからであり、かといって文のアクセントの関係上省略するのもどうかとか、естьにわざわざ換えるのもどうかとか考えるからだろうと思う。
смочьは不完了体不定形と共に、未来時制での繰り返しや、一定の時間の過程を示す意味での可能性には使えるが、 смочь自体は完了体であり、新しい事態の生起とか例示的用法となる場合が多い。Хорошо зная русский язык, ты сможешь работать переводчиком.(ロシア語がよく分かるのだから、通訳としても働けるよ)。その状況によっておこる未来での可能性ならば、бытьの未来形 + в сотоянииを使うことになる。Банк будет в состоянии погасить задолжнность через год.(銀行は1年後には負債を返すことができる)
Если завтра у вас найдется свободное время,вы не могли бы взять меня с собой в осмотр города.
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не смогли быでないと、未来の動作の遂行の意味にはな要りません。в осмотрという語結合はないでしょう。для осмотраならまだ分かります。
Если завтра у вас свободное время, будьте добры, не поведёте ли меня на городскую экскурсию?
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これでも分かると思います。市内見物とか市内観光はэкскурсия по городуというのが自然です。городская экскурсияとすると市主催の観光という意味にも取られるかもしれません。
質問です。よろしくお願いします。
не сможетеで未来の動作の遂行を表すとのご指摘ですが、мось, смочьの使い分けがよくわかりません。
以下の4つの文ではどの用法が正しく、また意味上の違いはあるのでしょうか。
1) Ты не можешь завтра ко мне прийти?
2) Ты не сможешь завтра ко мне прийти?
3) Ты можешь завтра ко мне прийти?
4) Ты сможешь завтра ко мне прийти?
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4つの文とも正解と言えば正解です。疑問文と否定疑問文は、否定疑問文の方が丁寧な感じがしますが、意味するところは同じです。叙想語であるмочьとсмочьの違いの一つは、動作の行われる時点が今か未来かということです。設問にможетеとか仮定法のмогли быを使えば、明日閑があれば、「今案内することは可能ですか」という事を意味することになり、非論理的です。そのためсможете, смогли быを使うべきだと思います。一般にмочь/смочьの組み合わせでは、мочьの使用が圧倒的に多いので、завтраとの組み合わせでも、口語ではмочьが出やすいということは言えますが、我々外国人は、文法的には2)か4)を使うべきだと思います。そうすれば、依頼というニュアンスも伝えられます。もっというと、完了体を二つ続けるよりは、Ты придёшь?(来る?)とするほうがロシア語としては、より自然に来てほしい(期待)というニュアンスを(イントネーションにもよりますが)出せると思います。前にも書きましたが、мочь/смочьを区別しないで未来の時制で使うことになれば、御呈示の文のようにзавтраというような明らかに未来という文言がないときに、時制の観念が伝えられなくなります。ロシア語と日本語の時制は微妙な点で異なります。正しく意思をロシア語で伝えるということを重要視するなら、伝えようという動作がいつなのかを常に意識すべきだと私は考えます。しかし、そうではない、そういうマニアックな重箱の隅をつつくようなことは、結局のところ木を見て森を見ずということであって、ロシア人と言っても、同じ人間同士なのだから必ず分かりあえるという考え方もできます。ロシア語に対するアプローチの仕方だと思います。
しかし、プロアマを問わず、話し手の意思を正しくロシア語で伝えるために、我々はロシア語を学んでいるのではないでしょうか?このコーナーの設問は読んでお分かりの通り、基本的なものばかりです。決して哲学や、思想、外交問題を取り上げたものではないのです。このような基本的な短文で、意思を明確に、そして正確に伝えられないのであれば、ロシア人とのどう向き合えるというのでしょう?露文解釈では独りよがりの解釈でよいかもしれませんが、会話での和文露訳や露文和訳は、特にプロのように報酬を得る場合にはそれは許されることではないと考えます。