2012年08月03日

●和文解釈入門 第441回

(195) 「1876ボンジュールかながわ」、エミール・ギメ、青木啓輔訳、有隣新書、1977年
 フランスのエミール・ギメ(1836~1918)と画家フェリックス・レガメーは1876年来日、新聞記者で画家のワーグマン(1832~91、早くから日本人に油絵の手ほどきをした)と一緒に日本を旅した。本書では日本到着後すぐの横浜、鎌倉、藤沢方面の紀行文である。本書はレガメーの挿絵が豊富で、これも当時を知るよすがとなる。日本人は中国人に地面につくまでお辞儀するが憎んでいるとある。この中国人は仲買人(コンプラドール)であり、彼らは英語が出来、日本語も漢字の部分は読めるので、外国人と日本人の取引にはなくてはならない存在だった。名所旧跡に興味を持ち、僧に寺や仏像の由来を聞くもほとんどの僧が答えられなかったという。鎌倉の大仏では僧侶がビールやシャンパンを売っており、シャンパンのフランス語のラベルがさかさまであり、僧侶もシャンパンも信用できないなとユーモラスに描いている。下駄は小さいベンチの形をしており、足が蒸れないという長所はあるものの、履くと必ずころぶので、特殊な平衡感覚が必要だとある。山地で用いられる下駄は高さ50センチとあるが、いかな足駄(高下駄)でもこういうのはないと思う。宿屋で女中が湯で足を洗ってくれる描写は本当に気持ちよさそうだし、寝る場所を女中が緑色のガーゼの檻で囲うとあるのは蚊帳であろう、ただ、枕(箱枕だろう)は高さが15~20センチあり、とても眠れるものではないと不平をこぼしている。日本で盗賊はめったにないし、乞食に出会わないのは300年にわたって国民に初等教育を、それもただで授けたからだといううがった見方もある。鎌倉で海水浴を勧められ泳いだが、電気クラゲ(カツオノエボシ)にさされ、日本人が海水浴をしない理由がよく分かると書いている。他にもオオダコもいるしとある。横浜で芝居も見たようで、女役は男がするし、女だけの一座も、子供だけの一座もあると書いているのは興味深い。

(196) 「ギメ東京日光散策・レガメ日本素描紀行」、青木啓輔訳、雄松堂出版、1983年
「ギメ東京日光散策」
 フランスのエミール・ギメ(1836~1918)と画家フェリックス・レガメは1876年来日、画家のワーグマンと一緒に日本を旅した。本書では品川、上野、浅草、芝、日光についての旅について書かれている。手ぬぐいについて、ポケットには決して入れず風邪をひいても日本人は決して洟をかまないし、かまないように気をつけている。日本人はそのために鼻紙を用いるのだが、これは現代のロシアでもロシア人はハンカチで洟をかみ、日本人はティッシュで洟をかむのと同様である。日本画家の河鍋暁斎(1831~89)を訪れ、レガメとお互いに絵を描き比べたことが書かれている。本書は挿絵が豊富である。
「レガメ日本素描紀行」
 画家フェリックス・レガメ(1844~1907)が1899年日本の美術教育視察のため再来日した時の紀行文。長崎、瀬戸内海、神戸、横浜、東京を巡った。本書も挿絵が多い。日本では盲人が多く、せむしが少ないとか、おかねは汚いものと考えられており、心付けやチップは紙につつまれて渡されるとか、日本の子供は甘やかされ、そして楽しまされ、日本はまさしく子供の楽園であり、非常にまれにしか日本の子供が泣くのは見られないと指摘している。

設問)「お客様にこれをお渡しするようにとのお言伝がありました」をロシア語にせよ。

Posted by SATOH at 2012年08月03日 05:41
コメント

Меня просили передать вам это.
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正解です。меняは文法的には正しくとも、私ということは、実際の会話では目の前のことですから、当然分かるので、不要です。私の答えは、Вам просили передать вот это.
設問から判断して、ホテルのフロントか秘書の発言であり、お客様や上司に対して、何か指図がましいことは言うはずがない。指図がましいという事自体がニュアンスが出て来るという事であり、完了体の領域である。つまり事実の有無の確認だけということになるので不完了体過去形が使われている。他にもВас просил зайти господин Иванов.(お立ち寄り下さるようにとのイワノフさんからお言伝です)とか、Вас спрашивали.(どなたさまからかお客さんがいらしているかとお問い合わせがありました)などが使える。
Вам звонил господин Иванов.(イワノフさんから電話がありました)でも、позвонилиと完了体を使うと、折り返し電話しなさいとか、〔待っていた〕電話があってよかったというようなニュアンスが文脈によって感じられる。不完了体のほうは、電話があったという事実を淡々と述べているだけに過ぎない。

Posted by メイ at 2012年08月03日 22:28

Мне передали, чтобы я вам подал это.
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передалиと完了体過去形を使うと、何らかのニュアンスが感じられることになります。文脈によりますが結果の現存だったりということです。ところが設問から見る限り、渡されたのは、今の時点より過去です。つまり結果の現存というのは論理的におかしいということになります。アオリストかというと、設問は発話の時点では現在です。となると、アオリストは過去の一点を問題にするのですから、これも不可です。そうなると依頼されたという事実があったという動作の有無の確認をしていることになります。
 手渡すはпередатьでよいのですが、податьは提供する(配車する)というようなサービスとして出すという意味ですから、この場合は不適当のような気がします。伝言を伝えるというのも業務範囲と考えればそうですが、だれでもできそうな動作にподатьを使うのはどうかなという気はします。多分、同じ動詞を続けたくはなかったのだろうと推測します。

Posted by asuka at 2012年08月03日 22:55
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