2011年09月26日
●和文解釈入門 第129回
丸谷才一の「文章読本」の中に、「日本語はほとんど述語動詞がおしまいにゆく」、「たった、あった、行ったという文章の終わりが皆そろうのが直訳風の文章の欠点」であり、これの対処法として、「たとえば、過去の事を述べる場合にもところどころ現在形をまぜるのはすこぶる有効な手だろう。日本語には元々欧文ふうの厳密な意味での時制の習慣はないのだから、これで一向差支えない(場合が多い)し、情景はむしろいっそう鮮明にさえなるかもしれない」、「日本語には論理性が不足しているので、近代西欧語のうち何か一つを一応勉強すること」とある。日本語が時制や論理性を欠く言語だとは思わないし、そうだというのであればそれはそういう日本語の話し手や書き手の問題であると思うが、「文章のリズムを自由に変えるために過去形の続く文に適度の現在形の挿入は必要である」と三島由紀夫と同じことを言っているのは参考になる。日本語では過去時制において文の調子を整えるために「~した」と言う文末を続けずに、「~である」というような現在時制をはさんだ方が文章としては耳に響きがよいということである。つまりロシア語で過去の時制だから、日本語でも自動的に過去時制に訳すというのは悪文になる可能性があるわけで、文の調子も考える必要があるということだろう。日本語の時制はある程度は文脈で分かるものだからであろうから、それに屋上屋を架すのはくどいというのもあるのかもしれない。翻訳の上で何か一つ参考になったような気がする。逆に言えばロシア語の歴史的現在をそのまま日本語の現在で訳す必要はないわけで、文脈で生き生きとした感じが出せれば過去の時制で訳してもよいという事で、日本語として不自然かどうかが重要だということになる。丸谷はさらに続けて「である」づくめも止め、「〔なのに〕、〔だけれど〕、〔~のだから〕を活用すべきであり、体言止、文語体、口語的口調の混用だって効果があるかもしれない」と言っている。同じ観点からであろう。
今読んでいる木村毅の「小説研究十六講」(恒文社、1980年)は松本清張が小説家を志すに当たって重宝したというものだが、その中に偶然中村白葉による罪と罰の翻訳が人物・性格・心理の例として1ページほど挙げられていた。試しに12行ある文の文末を見てみると、「~た」ばかりである。確かにこれでは機関銃のようで芸がない。露文は過去時制なのだろうが、完了形も不完了形も、быть動詞もあるようなのだからおかしいように思う。山本夏彦が「本来、血沸き肉踊る大河ドラマであるはずのロシアの大作を、無味乾燥で晦渋な文章にしたのは岩波お抱えの米川正夫以下の翻訳者が「文法的に正しくありたいあまり、日本語のリズムを失ったからだ」と批判しているのも分かるような気がする。この山本がロシア語を知っているというのではなく、多分文末の調子などから判断したものだろう。私はロシアソ連文学の翻訳は読むつもりはないが、みなさんがお読みなるときや露文和訳するときに心の隅に留めておいてもいいかもしれない。
設問)「立ち話も何ですから、おかけ下さい」をロシア語にせよ。
Так как просто не
удобно стоя
разговаривать,
садитесь, пожалуйста.
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意味は通じると思います。私の答えは、В ногах правды нет, садитесь.
諺もある程度は勉強しておいた方がよいという意味で挙げた。
Так как я заметил
свою простую
ошибку в переводе,
я переделаю как
нижеследующее;
(1) Что-то неудобно
стоя разговаривать.
Давайте садитесь.
(2) Просто неловко
стоя разговаривать.
Садитесь,пожалуйста.
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(1)のДавайте садитесь.というのは、Давайте садиться.とかДавайте сядем.というなら分かりますが、文法的におかしいと思います。Давайте, садитесь.というのならまだ分かります。(2)は意味は分かります。あと細かいようで恐縮ですが、"я переделаю как нижеследующее;"とありますが、文法的におかしい。確かにпедеделатьにはизменитьという意味ですが、語結合がКабина экипажа орбитальной станции переделана из двузместного космического летательного аппарата.(軌道ステーションの乗組員のキャビンは二人乗りの宇宙船から改造された)のようになります。ですからисправляю следующим образом:とした方がよいと思います。
ロシア人の文章のなかで同じ言葉を使うのを避けるというのは、徹底しすぎだと思えるときがあります。日本人の私は、ほんとに前述のことばと同じものだろうかと悩んだりしながら読んでいます。
回答です
Стоя разговаривать не удобно, присядьте, пожалуйста.
присаживайте とどっちにしようかと悩みましたが、ここでは話し手の願望・助言等のニュアンスが入っているので完了体と理解しました。
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体の用法がすこしこんがらがっていいるようです。まずприсестьの不完了体は「しゃがむ、膝を曲げる」という意味ではприседатьで、「ちょっと座る」という意味ではприсаживатьсяです。まあスペルミスでしょう。この場合は不完了体を使った方が自然です。この動詞を完了体の命令形で見たのは、あるロシア人の日本研究家がロシア正教会を訪れたときに、中の造作を見ていたときに、日本人牧師が説明を加えていて、途中で何か用事が出来て、「ちょっと座っていてください、すぐ戻りますから」というきに、Присядьте!と使ったのが記憶に残っています。このように「話し手の助言とか願望」というのではなくて、「本来であれば座った方が自然であるときは不完了体命令形を、そうでないときは完了体命令形を使うべきで、完了体は新規の事柄に使われるということを理解してください。つまり牧師との場合では、立ったままでいても自然です。そこで「おかけなさい」とそれまでと違うことを勧めるのですから完了体命令形となります。願望・助言で体の用法を分けるのでは、なかなか理解しにくいと思います。Садитесь.だって願望や助言と言われればそうです。日本語の「立ち話は何ですからおかけください」というのも、立ち話が不自然なので(座るのが自然なので)、座りなさいの合図であり、着手以外の意味はないと思います。それ以外の文の意味は分かります。
考えすぎでした。だいぶ悩んだのですが、まさかことわざがメインだとは思わず体の用法ばかりにとらわれわけがわからなくなってしまいました。楽しい経験でした(笑)。同様の文では次回からけっして間違わないと思いますが…