2012年12月15日
●和文解釈入門 第575回
(253) 「敗北を抱きしめて」(2巻)、ジョン・ダワー、三浦陽一・高杉忠明訳、岩波書店、2004年
日本の庶民の視点で、日本の戦後のアメリカ軍占領時代についてあらゆる事項から、日本とは、日本人とは何かを追求した良書。日本人の大勢順応主義、悔恨共同体、被害者意識により他国にかけた損害について考える余裕はなかったなどの、今に続く鋭い指摘がなされている。特に天皇の戦争責任が追及されなかったのは、マッカーサー司令部による日本支配を円滑に進めたいという駐留軍側の意向の賜物であったことが分かる。しかし、著者が理解していないと思われるのは、日本においては幕末の頃から、トップは敗戦の責任を取らないという事が常態化していたということである。徳川慶喜が腹を切ったということもなかったし、京都守護職であった会津藩の藩主なども、結局は華族に列せられて命を全うしている。詰め腹を切らされるのはせいぜいのところその家老ぐらいのものだ。天皇が退位しないことで、当時の日本人で遺憾に思った人がいたかもしれないが、庶民にとってはどうでもよいことであり、ましてや、近衛公が戦犯に指定されて毒を仰いだというのも、基本的に彼は家老クラスで、トップではなかったからという事で説明がつく。近衛は戦争責任を東条英機に押し付けて、自分はその責任から逃れようとしたが、そうは問屋がおろさなかったわけだ。東条と違って自殺できただけでも後世の受けはよい。
戦陣訓で「生きて虜囚の辱めを受けず」と軍人に訓諭した東条英機も、たぶん(?)自殺しようと4発ピストルで撃ったが、死に切れず、回りにいた米兵の医者の輸血(血はもちろん米兵の)が成功して命を取り留めた。しかし、4発も撃って、死なない(死ねない)というのは不死身の体(?)というしかない。作家の高見順は、「なぜ東条大将は、〔自決した〕阿南陸将のごとく日本刀を用いなかったのか」と言い、フランス文学者の渡辺一雄は日記にこのドタバタ劇を愉快がり、「この不運な大将が今や混血児となる」と記している。海軍は陸軍に戦争責任を押し付け、天皇を有罪にしないためという大義名分に隠れて、嶋田繁太郎大将などはA級戦犯だったが、1948年終身禁固刑を受け、1955年釈放、1976年92歳の長寿を全うした。頭がよくて、偉いのは腹など切らないのである。戦争責任は軍部であって、天皇にはないと占領軍に働きかけたのは、田中隆吉少将、天皇の側近である木戸幸一であり、これは天皇に戦争責任を取らせたくないGHQの意向とマッチしていた。特にA級戦犯27名のうち15名が木戸によって名指しされたのである。密告者というべきか、天皇の御楯なのか、自分の助命のためなのかは知らないが、釈放されてから、腹を切ったということもなく、87歳で天寿を全うした。A級戦犯の遺族にも軍人恩給が出ているのに、千島列島でソ連軍の捕虜になった父には、当時国内ということで軍人恩給がつかず、ちっちゃな銀杯でおしまいだった。まあ世の中こんなものだろう。それでも父は生きて帰ってきたが、満州、南方、沖縄で死んだ軍人・女子供の御霊のことを考えると、こんな奴らのために無駄死にしてと、今でも胸が詰まる。
話がそれたが、天皇が腹を切るなど日本史の上ではなかったことなのである。最近、野村ホールディングのCEOが不祥事の責任を取って退任したが、これなどのも最近のことで、西洋に真似たものであろう。もう少し前なら、もっと下っ端の首を差し出して終わりだったのにと、さぞや悔しい思いをしているに違いない。戦争責任についても、臣下の責任であって、軍国主義や侵略を起こしたことではなく、聖戦に勝てなかったことに対する責任であるから、天皇自身が責任を負うという事にはならないという論理である。これでは侵略された国はたまったものではあるまい。本書に「国家の最高位にある政治的・精神的指導者がつい最近の事態に何の責任も負わないのなら、どうして普通の臣民たちが我が身を省みることを期待できるだろう」とある。その通りである。戦争責任について評論家の阿部慎之介が「日本人の大多数は、自分が愚かであったことに対し、責任を負わなければならないのだ」と指摘している。踊らされた国民も責任があるということになる。
日本人の行動様式として、マッカーサーの股肱の臣であったフェラーズ准将が、戦前にすでに挙げていた15の特徴は、劣等感、軽信、型にはまった思考、物事を歪み伝える傾向、自己演出、強い責任感、常軌を逸した攻撃性、野蛮、頑固、自滅に走る伝統、迷信、体面の重視、感情過多、家庭・家族への愛着、天皇崇拝である。敗戦後半世紀を経て、21世紀の日本人はどのような行動様式を持つようになったのだろうか。
設問)「誰が誰に気があるか教えて」をロシア語にせよ。
(1) Расскажи, кто к кому
дружелюбно
расположен.
(2) Покажи, кто кому
нравится.
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設問は名前聞いているだけです。動詞はназовиで十分のはずです。ところが、(1)のрассказатьはシノニム辞典ではрассказать = излагать, описывать более или менее подробно какие-нибудь факты, событияであり、рассказ(物語)と関係のある言葉でしょうから、恋の物語とかいわれを聞いているわけではありません。ただрасположенは使えるかもしれません。
(2)のпоказатьは身振り手振りか、図を書いて示せということでこれも違います。露和辞典は編者がベストを尽くして限られたスペースの中で、説明しているわけで、その説明が、日本語の短い語句では説明しにくいものもあります。このような基本語については露露を頻繁に引いて見るようにすべきだと思います。私の答えは、Скажи, кто к кому неравнодушен?
「気がある」というのは、「好きである」や「愛している」とは違い、「ほのかな恋心が芽生えている」という意味での「心穏やかではない」「平静ではない」ということである。неравнодушный = испытывающий чувство симпатии, любви к кому-либоであり、неравнодушный = относящийся с участием, интересом к кому-либо, чему-либо; небезразличныйという意味もあるので、日本語の「心穏やかではない」という訳語としてはぴったりだと思う。
お答えには疑問符をつけたほうがよいと思います。
(1) Скажи, кто кому
интересен.
(2) Расскажи, кто о ком все время думает.
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(1)はいろいろ考えましたが、正解とします。Я тебе интересен?(俺に気があるのか?)という表現があるからです。
(2)расскажиが問題なのは前に指摘した通りです。常に考えているというのがどうやってわかるのでしょう?テレパシーでしょうか?独り言を言うのをそばで聞いていたということでしょうか?говоритのほうがよいかもしれません。
いずれにせよ疑問符をつけたほうがよいと思います。
Скажи, кто к кому неравнодушен.
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正解です。ただ、あえて重箱の隅をつつくようなことを言えば、疑問符をつけたほうがよいと思います。間接疑問文には疑問符をつけないが、強い疑問のイントネーションがある場合は疑問符をつける、それは主文にскажи(те)やя спросилがある場合だと、ロゼンターリРозенталь先生のПунктуация и ударение в русском языке, Книга, 1988にあります。
これはскажи(те)やя спросилがなくとも、文の主体が疑問文だからでしょう。
Расскажи, кто кого любит.
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любитьは愛しているということですから、違うと思います。рассказатьはアカデミー版の4巻本を見ても、устно сообщить, изложитьとなっていて、説明不足の感が否めません。露露辞典でも項目によっては説明の出来不出来があるので、ご回答はやむを得ないという点はありますが、設問で要求しているのは、名を挙げてということだけです。расскзатьはрассказとの関連ということを考えるのもよいかもしれません。
お答えの末尾にはピリオドではなく、疑問符をつけたほうがよいと思います。
Скажи, кто кому нравится.
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正解にしてもいいのですが、нравитьсяには恋愛感情がない場合も往々にしてありますから、どうでしょう?
いずれにせよ、お答えの末尾にはピリオドではなく、疑問符をつけたほうがよいと思います。
Скажи мне, кому кто нравится.
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正解にしてもよいのですが、これだと好きだということが恋愛だけではなく、漠然としています。何か前後に文脈があれば別でしょうが。いずれにせよお答えの末尾にはピリオドではなく、疑問符をつけたほうがよいと思います。
「敗北を抱きしめて」、読んでみたいと思いました。阿部氏の、踊らされた国民にも責任がある―という点、同意します。何とかなるだろう、とか、そういう難しいことは・・・と避けているのも、ことによると重大過失の同罪かも。ご紹介文だけでも、考えさせられました。