2011年10月13日

●和文解釈入門 第146回

前回で不完了体線路説(レール説改め)を唱えたが、これは過去の出来事を眼前で起こっているかのようにまざまざと描くという歴史的現在にも当てはまる。つまり線路を仮想のものと考えるのである。目には見えるが実体がないというようなものだ。実体がないのだから、用法は一見不完了体ではあるが中身は完了体と同じという事になる。
初学者のためにсмотретьとвидетьの違いを書いておく。前者は「視線を向ける」ということで、対象が見えていることを必ずしも意味しない。一方後者は視線を向けることを意識しないが、対象は目に捉えているという意味である。だから、Глаза смотрят, но не видят.(見れども見えず)とか、И она смотрела на него и не видела.(彼女は彼の方を見ているようで見ていなかった)などは、「視線を向ける」と「見て気がつく」の違いであり、他にもЯ просто глазел, но не видел.(私はただ見てはいましたが、気がつきませんでした)がある。また目に対象をとらえていても本質的な意味では理解していないという意味で、Он очень много видел, но почти ничего не "увидел".(彼はとても多くのものを見ていたが、ほとんど何も見つけることができなかった)というのもある。слушатьとслышатьの違いも同様である。
設問)「どこを怪我なさったのですか?」
「胸と肩と顔です」をロシア語にせよ。

Posted by SATOH at 2011年10月13日 05:16
コメント

(1) Где у вас рана ?
У меня ранены грудь,
плечо и лицо.

(2) Какие места у вас
ранены ?
Грудь, плечо и лицо.

(3) Какие места вы
ушибли ?
Я ушиб грудь, плечо и
лицо.
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(3)は打撲ですから、文脈によるでしょう。傷は複数も可能です。例えば、Раны в грудь и живот были нанесены из револьвера.(胸と腹への傷はリボルバー〔回転式拳銃〕によるものだった)。怪我をするはполучить рану (раны) в + 怪我の場所(対格)とするか、раненый в + 怪我の場所(対格)とします。私の答えは、- Куда вас ранили?
- В грудь, в плечо и в лицо.
このранитьは完了体と不完了体が同形である。この例文は完了体の過去形だが、文脈によってアオリストとも結果の現存とも取れる。

Posted by カジューシャ at 2011年10月13日 06:14

Что у вас ранено ?
У меня ранены грудь,
плечо и лицо.
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これはまずいでしょう。Куда вы ранены?
Я ранен в грудь, плечо и лицо.とすれば文法的にも正しくなります。раненыйは被動形過去というよりはすでに形容詞と扱うほうが多いようです。そういう意味では動作というよりは状態を示すことになり、ずっと前から怪我をしているという感じです。

Posted by カジューシャ at 2011年10月13日 08:42

「不完了体レール説」,納得できておもしろいですね。ちょっと横道にそれますが,原先生の「体の用法」で「不完了体未来形の特殊な用法」としてあげられている「~するつもりだ」という意味で不完了体未来形がよく使われる(140p)とありますが,こういうのもレールの上に乗れるのでしょうか。

-- Куда вы ранены?
-- В грудь, плечо и лицо.
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正解です。不完了体レール説について考えさせられるコメントいただきありがとうございます。このコーナーを立ち上げてよかったと思うのは、数少ない全国のロシア語文法好きと直接込み入った話もできるということもあります。さて私なりに考えてみましたところ、быть動詞の未来形 + 不完了体の用法は、過去の不完了体過去形の事実の確認の用法や不完了体命令法の着手の用法から「~するつもりである」という意味に発展した用法だと思われます。それは口語で主に使われるということからも判断できます。この用法は既存という概念の延長上にある用法でしょう。動作の過程、持続性や延長性を示すことが出来る動詞、ないしは無接頭辞単純動詞や、特に疑問文でよく使われます。不完了体レール説では、電車の後方にレールを見るのではなく、前方にいくつかの既に存在するレールを見て、そのうちの一つを、例えば乗り換えのために選ぶという感じではないかと思います。だから全部の不完了体にこの用法があるわけではないという動詞による制限があるのも納得されるでしょう。高村光太郎の詩に「僕の前に道はない。僕の後に道はできる」というのがありますが、新たにレールを敷設するというならそれは完了体の考えで、不完了体においては、レールはレールでもあくまで既存のレール(路線)ということになります。こう考えてみると「不完了体レール説」よりも「不完了体線路説」のほうがぴったりくるみたいなのでそのように改めますj。

Posted by メイ at 2011年10月13日 20:22

「不完了体線路説」のコメントありがとうございました。
確かに「過去の事実の確認」は,「未来の事実の確認」(~するつもりですか?~するつもりです。)と同じレールの上にありますね。行為への着手も,お互いが「当然やるべきものである」と認識しているかぎり不完了体レールの上を走っていることになりますね。「電車の後方にレールを見るのではなく、前方にいくつかの既に存在するレールを見て、そのうちの一つを、例えば乗り換えのために選ぶ」とありますが,この「幾つかの既に存在するレール」というのがまだ理解できていません。「~するつもり」にしても「行為への着手」にしても過去から未来に続いている同じレール上では説明できないのでしょうか。
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着手についてはその通りですが、上記の「するつもり」の動作はこれまでの動作の延長上にあるとは言えないと思います。これが言えるのは不完了体現在形で予定を表す用法だと思います。ただ乗り換え説にも確かに無理があるなと思い、この用法もについてはさらに「不完了体路線・線路説」を考えて見ました。
 бытьの未来形 + 不完了体不定形で「~するつもりである」という未来時制の用法の場合は、駅である路線の電車に乗るという事を想定すればよい。あとは身を任せて目的駅まで行くという事になる。この用法は口語的用法で標準的にはсобираться 他 + 不定形を使う、つまりどの不完了体動詞でも使えるというわけではない。これは駅というのはどこにでもはないし、駅があっても路線が一つの場合が多い。完了体未来形で意志を示せる場合があるが、それなどは車を使うようなものだろう。車は道路がなければ走れないという制限はあるというものの、自宅から目的地まで基本的に行けるというのが電車などとは大いに違うから体の用法もこれに似ていると言える。この他にも、この不完了体の用法は、電車の後方に線路を見るのではなく、いくつかの既に存在する路線を見て、そのうちの一つに乗り換えるという感じと考えてもよい。高村光太郎の詩に「僕の前に道はない。僕の後に道はできる」というのがあるが、新たに線路を敷設するというならそれは完了体の考えで、不完了体においては、路線は路線でもあくまで既存の線路(路線)ということを意味する。
 三人寄れば文殊の知恵といいますから、この説を発展させる上でコメントを今後ともお願いします。説といっても新学説を唱えようというものではなく、あくまで会話で和文露訳をするときにどちらの体を選べばいいかの一つのよりどころになればよいという実用的な観点からの話です。

Posted by メイ at 2011年10月15日 00:40

なかなか理解できずお手数をおかけします。
最初,「~するつもり」は意志なのだからレール説にそぐわないのではないかと思って投稿させていただいたのですが,手持ちの文法書を読むにつれて,もしかしたら過去から続くレールの上を今後も走っていくことに変わりはないのではないかと理解し直したので,二度目の投稿は最初の自分の投稿に矛盾するような内容となりました。
体の用法については帯研を通じての勉強のみですので知識が少なく右往左往の状態です。ですので,しばしば自説に矛盾したり,とんでもないことを言い出すかもしれませんが,そこはすべて無知から生じたことと,ご寛容のうえ,気長いご指導をよろしくお願いいたします。
さとうさんは,「するつもり」の動作はこれまでの動作の延長上にあるとは言えないと述べられていますが,逆に最初のさとうさんの説明 ↓ と矛盾しませんか。(быть動詞の未来形 + 不完了体の用法は、過去の不完了体過去形の事実の確認の用法や不完了体命令法の着手の用法から「~するつもりである」という意味に発展した用法だと思われます。それは口語で主に使われるということからも判断できます。この用法は既存という概念の延長上にある用法でしょう。動作の過程、持続性や延長性を示すことが出来る動詞、ないしは無接頭辞単純動詞や、特に疑問文でよく使われます。)
「過去の不完了体過去形の事実の確認の用法や不完了体命令法の着手の用法から「~するつもりである」という意味に発展した用法」であるならば,そのまま未来へと続くレールではないのでしょうか。「~するつもり」を単純に未来形における「事実の確認=~する予定」ととるならばですが。「~する予定」以外の「~するつもり」にはたとえばどんなものがあるのでしょうか。
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「~するつもりである」というのは本来新しいことするわけで、これまでしていることを続けるという意味ではないことはお分かりになると思います。この意味で不完了体を用いるのは体のもっている本来の意味からしておかしいと思います。それは私の理解するところ不完了体はその場の雰囲気に合わせて、~するという意味だからです。だからсобираться + 完了体不定形や完了体命令形を使うほうが体の用法としては自然なのです。それにбытьの未来形 + 不完了体不定形を使うのは、本来標準用法ではないのです(口語的用法だというのもこの辺にあります)。ところが用例があって文法があるわけで、その逆ではないために、文法で解釈していかざるをえません。この用法は同じ「~するつもり」でも日常的によく使われる事柄から派生したのではないかということが、無接頭辞単純動詞(一番本源的な動詞と言えましょう)で多く見られることから分かります。つまり過去時制の動作の確認(名指し)、現在時制の過程(進行形)からほぼ確実に起こる予定(不完了体現在形)が発生し(これとて全部の不完了体の動詞ではなく、確認されているのは動作の開始の意味のあるものだけです)、そして未来時制であっても、表面上はいつもと同じ動作の延長上であって(新しいことではないという建前)から、それともっと大きな理由としては、この用法ではбытьの未来形をつけるだけという簡便さがこの用法の成り立ちだと思います。心理的にいえば、人は~するつもりだとは大声では言いたくない、いつもと同じようなことをするのだから注目しないでほしいという心理が働いているような気がします。

Posted by メイ at 2011年10月15日 14:41

明瞭なご説明ありがとうございます。ご説明が非常に理論的なのですっきり受け入れられそうです。
ただ,бытьの未来形 + 不完了体不定形は非常に限定的であるとはいえ,さとうさんもおっしゃっていますが(過去の不完了体過去形の事実の確認の用法や不完了体命令法の着手の用法から「~するつもりである」という意味に発展した用法),О.П. Рассудова氏は下記のようにまとめています。私はそこから,やっぱり最初の自分の疑問が解けた気がしましたのでレールも同じでいいかもと投稿させていただきましたが,さとうさんはもう少し深めていらっしゃるようですので,レールに関してはこれで最終投稿にさせていただきます。毎回詳しい解説をありがとうございました。
Бросается в глаза сходство коммуникативной роли глагола несовершенного вида в процессе речевого общения в прошедшем и будущем времени. Отмечая в прошлом, было действие или не было, говорящий употребляет глагол несовершенного вида. Подобно этому и в будущем времени несовершенный вид сообщает, что данный факт действия будет иметь место.

Сопоставьте предложения:
★В прошлом месяце мы устраивали вечер встречи с поэтами.
★Вы будете устраивать в этом месяце вечер встречи с поэтами?

Точка зрения говорящего на действие в обоих предложениях одинакова. И эта точка зрения обычно связана с проявлением общефактического значения в будущем времени.
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この「不完了体路線・線路説」は私自身には不要なものです。今までの40年にわたる用例の蓄積とこれまでの参考書の説明により実用的にどう体を使い分けるかはあらかた分かっているつもりだからです。この説は初学者の人で完了体・不完了体という名称に騙されて、体の用法は完了とそうでないものという単純に割り切って考えている人たちに、実際的に使えるかどうかなのです。そういう意味でメイさんのご指摘は、быть + 未来形 + 不定形に用いられるかについてはすっかり失念していましたし、これがこの説の弱点であり補強の必要を痛感しております。また何かアイデアがあれば投稿ください。またご指摘の部分はすっかり忘れていて、磯谷先生の翻訳したものを取り出してその個所を見ています。この本は体の用法の根源的な意味を考える意味で時々は取りだして読み直しています。ついでに今読み直したところ、ラスードヴァ先生は結論で、「完了体の主要機能は情報伝達的機能であり、不完了体の主要機能は、信号報知的機能と呼ぶことができよう。不完了体命令法によって名指される動作は、シチュエーションによって示唆される場合が一番多いと書かれています。そのあと「実質的な情報をもたらす完了体と異なり、(不完了体)は独特な信号の役割を果たしているということができる」と一種の不完了体信号説を唱えておられました。説は説として、体の用法に迷っている人に実際どう役に立つかだと思います。

Posted by メイ at 2011年10月16日 21:50
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