2011年02月10日

●和文解釈入門 第1回

題名を和文露訳としなかったのは、露文和訳と露文解釈の違いを当てはめてみたかったからである。露文解釈というのはロシア語の勉強を始めたその瞬間から始まり、プロであろうと素人であれやっていることだが、露文和訳は文学であれ、技術であれプロでしかやれない。正しい日本語が文字に現れるプロの職業である。和文解釈ならみな頭の中でやっているわけで、厳密な、そして美しいロシア語でなくとも、文法的に正しいロシア語であればよいと考えてこういう題名にした。頭の中のロシア語ではテレパシーができるわけではなく誰にも分からないので、プリントアウトのような形になってしまうのはやむを得ない。形式はいつものように雑文と今年の自分のテーマでもあるロシア語や日本語の類語(類義語)のあとに和文解釈の設問を入れ、読者の回答があれば、回答に私のコメントと答えを書くし、読者の応募がなければ、次回回答を紹介すると言う形にしたい。和文解釈はロシア語の日常会話でも必要だし、プロを目指す初級(年齢を問わず)の方にも必要だと思う。まあしばらくは続けてみよう。
「古語の謎」(白石良夫、中公新書、2010年)の中に、古文辞学の荻生徂徠の主張として「古語の語義・用法を知っただけでは、ほんとうの古語の理解とはいえない。古語を使って詩や文章が書けてはじめて古語が理解できたと言えるのであり、また古人の心を知ったといえるのである」とあり、さらに「英文学者が英語の文章を書けなければおかしいように、漢文を書くことは儒者なら当然のこととされる」という文章が続く。英文学者をロシア語研究者と読み替えても何らおかしくはない。ロシア語の研究をしていてロシア語の文章が書けず、会話ができない人がいれば、それは常識的におかしいと言わざるを得ない。何も通訳やガイドのまねをしろといっているのではない。自分の研究分野、たとえばドストエーフスキーの研究をしているなら、ドストエーフスキーに関してロシア人の研究者とロシア語でやりあえるくらいの語学力がなければ、また実際にそういうやり取りをしなければその研究も進んでいかないのではないかと考えるからである。実際のところはどうなのだろう。ロシア語の研究者は少なくとも自分の研究分野はロシア語で書いたり話したりできるのだろうか。技術通訳を長年した経験から言えばシンポジウムでの発表をロシア語ですることはそんなに難しいことではない。前もって準備できるからだ。難しいのは質疑応答である。その場でのロシア語の質疑応答が自分の得意分野でこなせるかどうかということである。
「長い」を日本語に訳せと言われても、ロシア語では物体の長さについてか、時間の長さかによって訳が違う。使い分けは物体の長さならдлинныйを、時間の長さならдолгийが一般的で、долгийの類語としてдлительный やпродолжительный は書き言葉や演説に、またこの二つは動名詞(хранение, изучение)などとの語結合が多い。длинныйは時間的なものにも使えるが、длинный разговор(長い話)というようなニュアンスである。долгий разговорといえば(話せば長くなるが)と言う意味になる。直接時間の単位に関係したものならдолгие минуты, долгие неделиなどといい、продолжительныйとдлительныйの違いは、それぞれの固有の語結合があるものでしか区別できないが、продолжительныйは音に関してпродолжительные аплодисменты(長く続く拍手)のように用いられ、またпродолжительна болезнь(長患い)も決まった言い方である。длительныйは時間的に長いということでдлительное воздействие(長期にわたる作用)などという。
設問)「イワノフさんがいらっしゃっています」をロシア語にせよ。

Posted by SATOH at 2011年02月10日 22:35
コメント

またもご無沙汰しております…
продолжительныйの例は興味深いですね。感覚は何となくつかめるものの、日本語に訳すとなると難儀しそうです。

おっ、読者参加型コーナですね。
さっそく1番乗りを

イワノフさんがいらっしゃっています。
Господин Иванов приехал (к нам).
場面は会社でのアポイント/来客、という想定です。
文は完了体の結果の存続、と考えました。

(ただいま)到着されました、なら
Господин Иванов (сейчас) приезжает (к нам).
となるのでしょうか。
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このたびも一番乗り誠にありがとうございます。回答は解説も含めて正解なのですが、完了体過去形の結果の存続(現存)перфектについてよく理解されていないようです。設問はご指摘の通り、イワノフさんはだいぶ前に来て、待っているという状況です。そして「イワノフさんがいらっしゃいました(来られました)」というのは、たった今到着してイワノフさんはそこにいるわけですから、これもГосподин Иванов приехал.となります。この二つの文を区別するには、後者にтолько что(たった今)を付け加えるか、前者にдавно(ずっと前に)などを追加するしかないと思います。過去を示す語の「~た」にも、おおざっぱにいえば、このように結果の現存(直後)という意味と、「イワノフさんがいらしてました」(つまり今はいない」という意味があり、その露訳は、Господин Иванов приезжал.となるわけです。「日本語と時間」(藤井貞和、岩波新書、2010年)では日本語の古語にも、「き(その連用形の「し」」は現在と関係ないことを示し、「ぬ」、」「つ」は完了(結果の存続)を示すということを示唆する記述があります。コーシュカさんの訳Господин Иванов приезжает.では「イワノフさんがこれから来ます」という予定の意味か、通勤のように現在の繰り返しの意味にしかなりません。到着していないわけです。

Posted by コーシカ at 2011年02月10日 23:05

ご説明ありがとうございます。
到着して現在もそこにいる、という場合は
(修飾の違いはあるにせよ)結果が残っているため、いずれも完了体、と理解しました。
もっと意識して露文を読むようにします。

ありがとうございました。

Posted by コーシカ at 2011年02月15日 22:33
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