2012年03月20日
●和文解釈入門 第305回
過去の時制においてアオリストと結果の現存(存続)について、直近の過去では区別がよく分からないという質問が来たので、一応回答しておいたが、その答えを若干分かりやすく書き直してここに挙げる。ロシア語に関する疑問や質問はどんなもので受けるので、遠慮なく投稿願う。
「問」たとえば、「彼はここへ昨日来ていた(けれど今日はいない)」というときに、он приехал сюда вчера. と、昨日という具体的な日時に1回来ていた、という意味で完了体のアオリストとして、「昨日」という具体的な副詞をつけたとしても、これは結果の存続、という意味で昨日来てからずっといる、ととられてしまうのでしょうか?こういった場合は、он приезжал сюда вчера.とするべきなんでしょうか?文脈によりますか?時間が近い場合におけるアオリストと現在存続の違いの使い分けというのが未だよく分からなくて若干混乱中です。
「答」結論から言えば、その通りで、露文解釈の場合、露文の文脈によりますし、会話での和文露訳の場合は話者の気持ちとか意識次第です。ただいずれにせよ動詞群を二つに分けて考える必要があります。一つはприехать/уехатьのような反意語として対応するものがある動詞(第300回の表で過去の時制のところの往復w)で、もう一つはそれ以外です。w)に書いた動詞群は不完了体過去を用いると、つまりприезжалの場合、приехал и уехалという反対の意味の結果の現存の意味(今いない)になる可能性が高いということです。逆の例を使えばуезжалだとуехал и приехал(今いる)という感じです。しかしこういう動詞の完了体の過去形を使えば、その語彙の意味での結果の現存の意味となる可能性が高いということになります。ただ可能性が高いというだけのことで、絶対そうなるということではありません。あくまでも文脈によります。特に直近の過去の場合はより可能性が高くなると言えます。それとприезжалとвчераという時間の副詞の結びつきはおかしいと思います。不完了体過去形にとって後述するようにこのような結びつきは一般的ではありません。ですから答えは、Он вчера приехал сюда и уехал.とすべきです。
それ以外の動詞群で完了体過去形を用いれば、アオリストか、結果の現存か、二つの可能性が出てきます。それも文脈や話者の意識によるのです。露文解釈ではその見分け方はある程度重要ですが、和文露訳ではどちらにせよ完了体過去形を使うので、あまり深く考えなくともよいということになります。日本語でも過去時制におけるアオリストと結果の現存の区別はそれほどはっきりしていません。例えば、
「昨日イワノフさんは本を買いました」は結果の現存(今ここに本がある)という意味の可能性が高いとはいえ、(本があるかどうか不明)というアオリストの意味に取れないこともないのです。これをロシア語にして、Он вчера купил книгу.で本があるかどうかは100%確実にはだれにも分からないのです。しかし現実にはこの文だけが独立して存在することは普通ありえません。会話などではその前後の会話や状況というのが必ず存在しますから、それで分かることが多いですし、昨日買ったのであれば、今イワノフさんの手元にあると考えてよいと思います。第一本があるかどうかということすら問題にしないというのが現実かもしれません。
ただ今日買ったというような具体的な過去の一点に関する動作では、不完了体過去形はほぼ使いません。不完了体は過去に動作があったということを示すだけで、具体的ないつかということには関心がないのです。不完了体過去形にこのような時間を示す副詞が一緒に使われるとしたら、その前の文脈ですでに同じ動詞の完了体が使われて、刺身のつまのような用法(動作の名指し)で使われることはありますが、非常に稀です。日常会話ではまずないと考えてよいでしょう。仮に使われていたとしても、その動詞を省略しても意味が通じるような場合です。ですから過去を示す副詞がある場合、なくとも話者が過去の一点を意識していることが明らかな場合は、完了体過去形を使わないと間違いとなります。第302回の設問の「いつスケートをお始めになったのですか?」は過去を示す副詞はありませんが、だれしも物事を最初にするのは過去の一点です。ですから完了体過去形を用いる必要があります。
ところが、「スケートを滑ったことがありますか?」という文では、スケートで滑ったのが過去の一点とは限りませんし、動作があったことすら不明なわけです。このようなときにはВы катались на коньках?というように不完了体過去形を用います。この答えの「滑ったことがあります」という文でも、滑ってのは過去1回か、それ以上かであることは分かりますが、過去のいつかということだけで、滑った回数も時期も不明です。つまりこのような場合にこそ不完了体の過去形は使われるわけです。もっというと、「昨日売ったことがある」という文はおかしな日本語ですが、「1年前に売ったことがある」という文は可能です。このように{~したことがある}という一見動作の名指しに見えるような文でも、1年前という過去の一点を示している以上、完了体過去形を使わないとロシア語にする場合はおかしいということになります。これはこういう日本語の構文にはロシア語ではこういう構文(体)をという公式的なアプローチが万能ではないということを意味します。そのため体の用法においては文自体をイメージ化することが非常に重要です。
それと、露文解釈に慣れている人は、体を所与のものとして見る癖がついていますが、和文露訳の場合、日本語主体ですから、話者が日本語でどういう気持ちで動詞を使うのかを理解しないと使うべき体が決まらないという事になります。つまり露文解釈では体の用法は受け身的な解釈でよかったものが、会話での和文露訳では自ら主体となって積極的に体の用法を判断しなければならない立場に置かれるわけで、その頭の切り替えといういうのは簡単なことではありません。露文解釈用の文法書をそのまま表面的に理解しただけでは、ロシア語の会話で使えるのは完了と繰り返しの区別ぐらいだというのはそういう点にあります。ただそういう人は基礎はできているわけですから、第300回の表で、体の用法の本質とそこから派生する、その人にとって理解しにくい用法をいくつか会得すれば、後は語彙や慣用的な言い回しを覚えるだけで、会話は比較的短時間(やり方にもよるでしょうが、1カ月ぐらい)でスムーズなものになると思います。
設問)「うちの部屋にも70センチぐらいまで水が来た」をロシア語にせよ。
Вода залилась и за наши комнаты глубиной примерно до 70 сантиметров.
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залитьсяでは水は主語にならないでしょう。Наши комнаты залились водойというのならまだ分かります。私の答えは、И у меня также было в комнатах почти на семьдесят сантиметров воды.
この場合一定の容積の水ということで部分生格が来ており、наが来ているのは床からの差を示している。
① Вода проникла и в комнату моего дома и поднялась до сантиметров 70.
② У нас и в комнате вода поднялась до сантиметров 70.
①は完了体の順次的用法、②は前後の文脈がある場合にはこのほうがシンプルかなと考えました。
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正解です。ただдо自体に「およそ」という意味があるので、до 70 сантиметровとすべきです。それと前置詞を含めておよそという意味を出そうとするときには、ひっくり返して、その上でминут через десять(およそ10分後)のように前置詞を間にはさみます。
ありがとうございました。доに「およそ」という意味があるのを知りませんでした。辞書に、…まで;約(около, приблизительно)となっていました。基本が抜けていました。