2012年11月24日

●和文解釈入門 第555回

(249) 「犬が星見た」、武田百合子(1925~1993)、中公文庫、1982年
1969年に夫で作家の武田泰淳(1912~76)、友人の中国文学者竹内好(1910~77)とともに、行きはナホトカまで船で、その後飛行機で、イルクーツク、ハバロフスク、ノヴォシビールスク、アルマ・アタ、タシケント、サマルカンド、ブハラ、再度タシケント、レニングラード、モスクワ、ストックホルム、コペンハーゲンを回り帰国した。夫婦の最初の海外旅行である。きどりや衒いのない文体だが、時折少女のようなおずおずとした、それでいて生のままの印象が語られる。一緒に旅した夫や竹内好、80過ぎの銭高老人などの横顔についてもよく描かれ、著者の温かい人柄がしのばれる。片言のロシア語も旅先で臆することなく使っている。帰りの飛行機で竹内がポルノ持ちこみをしり込みしたときも、代わりに著者がカバンに入れて日本まで持って帰るというなど、男どもよりよほど度胸がある。毎度の食事についても細かく記述し、ビールらしきもの、色だけビールで味は違うとか、「女子トイレで、立ったまま用を足している人もいる。太り過ぎてしゃがめないのかもしれない。その勢いのよさ。めいめいの湯気が立ち上っている。扉も衝立もない」とあるのは書いた方もすごい。私がソ連を初めて訪れたのは1979年だから、ナホトカまでの船旅も知らないし、トビリシなどは行ったことはない。自分の全く知らない40年以上の前のソ連にタイムスリップしたようでとても楽しい。表題は夫の泰淳が「百合子はイヌだよ。どこへ行っても、臆面もなく、ワン、なんていっているんだ。何も分からんくせにな」と言ったことから取ったものらしい。今までいろいろな人が書いたロシアやソ連見聞記を読んだが、私が思うにはこれがベストである。

 「モスクワ特派員報告」(今井博、岩波新書、1985年)はこの後の1978年から1983年までモスクワに毎日新聞社の特派員として駐在した経験を物語っていて、私が駐在する直前のモスクワのことなので、なおさら興味深い。元秘書の母マリヤ・ポポーワМария Поповаがチャパーエフ第25師団最後の生き残りで機関銃手アーンカАнка пулеметчицаのモデルだったとは知らなかった。

設問)「痛くなったらこの薬を飲んでください」をロシア語にせよ。

Posted by SATOH at 2012年11月24日 08:06
コメント

Когда вам будет
больно, принимайте
это лекарство.
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未来における繰り返しということで絶対に間違いとは言えませんが、ロシア語らしくないように思います。考えられるのは、未来において発話者にしばしば痛くなるという確信があるときです。私の答えは、Если будет болеть, примите это лекарство.
これも痛くならなかったら飲まなくてもよいと考えれば、命令法の例示的用法の出番だと分かる。未来の繰り返しの意味で、「痛いときはこの薬を飲んでください」なら、主文に不完了体命令形が来る。ただその時は従属文を不完了体の現在形か未来形(未来形にする例は少ないと思う)にして、現在か未来の繰り返しの意味を出すか、実際的にはв случае необходимости(必要なら)、при температуре(熱が出たときには)というような動詞を使わない構文にすることが多い。このように完了体を使う事で文章が、より具体的な感じを帯び、平板ではなく、生き生きとした感じが出る。

Posted by ブーチャン at 2012年11月24日 09:15

Эсли у вас быть болеть,дайте пожалуйста пить это лекарство,

Эсли вы почувствуете болеть,давайте ,пожалуйста пить это лекарства.
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эслиはеслиのタイプミス。薬を飲むは、薬と服用する(錠剤を飲み込むであって、日本語の飲むには液体を飲む以外の意味があり、питьと完全には対応していないことが分かります)ということで、ロシア語ではпринять/прнимать лекарствоという語結合になります。最初の文を直訳すると、「(あなたの体のどこかが)痛くなるべきならば」となり、不自然な感じで、未来時制の使い方に自信がないような感じを受けます。二つ目のчувствоватьという動詞は不定形を取らないと思います。

Posted by ヨタロウ at 2012年11月24日 11:44

Когда возникнет боль, принимайте это лекарство.
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従属文に完了体が来れば、主文も完了体にした方が順次的用法ということで自然です。ただその場合には、「~するとすぐ~する」というニュアンスですから、設問とは違うように思います。従属文に完了体が来て、主文に不完了体が来る場合もありますが、そういう場合は主文の不完了体の動詞は、идтиなどの不完了体で使われる場合が多い動詞ですし、文脈的にもそのような感じの場合が多いと思われます。従属文を不完了体現在形(反復)にすれば、文法的には正しくなりますが、平板な感じとなります。そのような文は広告などで使うコピー文には使わないでしょう。アピール性がないからです。
 Когда будет болеть, приходи.(痛い時は、来てください)というのは、強制はしないけれど(来るかどうか決めるのはあなたです)というニュアンスがありますから、このように不完了体命令形が来てもいいのですが、「痛くなったら薬を」と言った場合、絶対に飲んでもらわなければ、困るわけです。つまり飲むか飲まないか相手の選択に任すということはないわけで、そういう意味でも不完了体命令形は来ないと思います。

Posted by メイ at 2012年11月24日 19:50

Когда болит, принимайте это лекарство, пожалуйста,
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これだと、「痛いときはいつでもこの薬を飲んでください」ということで、現在の繰り返しを意味し、設問は、「痛くなったら」ですから、今は(治療のおかげかどうか知りませんが)痛くない、これから痛くなったらという未来の時制のニュアンスがあると思います。

Posted by ゴ at 2012年11月25日 23:02

すみません再投稿です
Если у вас будет боль,давайте,пожалуйста, приняем это декарство,
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第551回でも説明したように、あるかどうか分からない場合は、痛みは複数になります。ですからУ вас будут боли,となります。「薬を飲みましょう」なら、давайте примем это лекарство.ですが、設問は「飲みなさい」であって、「飲みましょう」ではありません。
 第536回にも関連するのですが、人称の転用というのがあって、医者は、特に子供に対しては、命令形でмыを使うことがあります。これは同情や憐みを表現するもので、日本語でも、医者が、「お嬢ちゃん(ボク)どこが痛いの?」などと聞くのに似ています。これをдокторское "мы"と言い、У нас болит живот.(ボク、おなかが痛いよね)などと使います。ですから、давайтеを使いたいという気持ちも分からないわけではありませんが、薬は患者一人が飲むものだと考えるとおかしいように思います。

Posted by ヨタロウ at 2012年11月26日 09:35

ありがとうございました。ご説明でしっかり納得できました。痛くなったら飲んでください、の場合、痛みの程度は自分で判断するのだから飲む飲まないは患者に任せようという意識が働いて不完了体にしてしまいました。また、больを単数にしたのは、すでに痛み止めの薬を出すくらいだから、患者と医者の間で特定の痛みだということがわかっていると思ったためです。判断を謝ると50%の確率で間違うのは痛いですね。

Posted by メイ at 2012年11月26日 16:44

すみません、複数についての質問です。
Жаль. поели бы свежей рыбы.
残念。新鮮な魚が食べられたのに。
でどうしてсвежие рыбыとならないのでしょうか。
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Жальの後はカンマでしょうね。二つご質問があるようなので、お答えします。一つはрыбаは普通は集合名詞で、複数形にはなりませんし、魚肉という意味では単数しかありません。複数形になるのは魚の種類を意識した時だけです。例えば、виды рыб(魚種)、аквариум для рыб(〔いろいろな種類の〕魚の〔入る〕水槽)などです。もう一つの質問については、поесть/поедатьというのは、いくつか意味がありますが、ご提示のように少し(一部)食べるという意味では、попитьと同様、部分生格を取ります。全部を食べる(飲む)という動詞の時は、具体的なものが補語に明示されている場合は、対格が、それ以外では部分生格が来ます。
выпить воды.
выпить стакан воды.
コップの水は飲み干せるが、世界の全部の水を飲むわけではない、つまり一部の水を飲んでいるからという考え方もできます。
単に水を飲むなら、пить водуと対格が来ます。繰り返しとか、一般的にということで、一気に全部の水を飲むというような具体的な動作を考えていないということでしょう。
 ご承知のようにロシアは肉食中心で、魚については川や湖、沼の魚で、魚についての語彙も日本語に比べれば貧弱です。ですから魚も個々の魚というよりは集合的に見るということが起こるのでしょう。これは日本語では牧畜関係の語彙が貧弱なのと同様です。魚のように、通常は単数を使いますが、種類を意識するときに複数が出てくる名詞には、оборудование, масло, лакなどがあります。

Posted by ヨタロウ at 2012年11月30日 18:49
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