2014年12月03日
●和文露訳指南第113回
『和文露訳指南』6-2-7項は「語義的に、不可避・必然を示しているために、具体的な1回の動作の頻度が高く、そのため完了体のприйтисьの使用のほうがはるかに多い。一方不完了体のприходитьсяは反復、習慣、慣用や否定で用いられる。」と訂正します。この場合の動作の継続は不定形の役割の一つであって、приходитьсяそのものとは関係ないと判断したからです。その理由はприходитьが反復を示し、過程や状態を示す事ができないということにあります。
出題)「娘は狂言自殺を図った」をロシア語にせよ。
(お題)
娘は狂言自殺を図った
(コーシカ訳)
Моя дочь кончала притворным самоубийством.
動作の未完了の不完了体過去です。
続和文解釈入門の第151回を流用しました。
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考え方は間違いないと思いますが、притворное самоубийствоという語結合は聞いたことがありません。私の答えは、Девушка симулировала самоубийство.
Девушка инсценировала попытку самоубийства. ともに完了体・不完了体同形だが、完了体過去形のアオリスト的用法。自殺はやらせ、自作自演とも訳せる。
Девушка инсценировала своё самоубийство.
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正解です。
Дочь попыталась провести мнимое самоубийство.
アオリスト的用法でсвとしました。よろしくお願いします。
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мнимое самоубийствоはともかく、провести убийствоという語結合は聞いたことがありません。
Девушка совершал самоубийство для показа.
死んでないからнесов。オフ会行きたい、先生にお会いしたい。でも、関西からその日は無理です。Очень жаль!
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経験の用法と解されるので、もっと具体的な1回の行為というふウにした方がよいと思います。
オフ会については、今回が初めての試みなので、またいつか機会があるでしょう。
Дочь попыталась инсценировать самоубийство.
アオリスト的用法の完了体過去形を選びました。
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正解ですが、попыталасьは不要です。
1) Девушка покусилась на инсценированное самоубийство.
アオリスト的用法(完了体動詞過去形)
2) Девушка совершала фальшивое самоубийство.
動作の未完了(不完了体動詞過去形)
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1)は語結合的にинсценировка самоубийстваであり、2)は未完了ですが、経験の用法とも重なり、回数や時期が不定となります。この場合はアオリスト的用法を使うべきだと思います。
以前ロシア人の家庭教師からも、прийти- приходитьは過程を示すことはできないと説明を受けたことがあります。偶然見つけたのですが、城田俊著『現代ロシア語文法』(中・上級編)第1課の練習問題に以下のような露文を和訳せよという問題がありました。
問)Радости короткого северного лета приходили к концу, впереди грозно надвигалась бесконечная осень.
巻末に記載の解答)北国の短い夏の様々な魅力はだんだん失われていき、長い長い秋がおぞましき姿で目前に迫ってきたのである。
これを見ると、приходилиが「近づいていた」という、過程の意味で使われているように読めるのですが、まれにこういう使い方もあるのでしょうか。подходили к концуであれば特に疑問はわかないのですが。
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『ロシア語動詞の体の用法』(原求作、水声社、1996年)の137ページに、приходить к концу (в себя, в выводу)など抽象的な意味を示す時には過程の意味で用いられるとあります。これについては、拙著『和文露訳指南』2-1-8-9項や3-1-5-3項にも書きましたが、繰り返しますと、「приходить в себя(意識が戻る、気がつく)など抽象的な意味で使われている時には、過程の意味で使えると書かれている。
(彼は意識が戻り始めた)Он начал приходить в себя.
これは語義の体の用法に対する影響の問題であって、体そのものとは関係ないとも書いてあるから、この場合とは違うと考えられる。ただ似たような文例で、3-1-5-3項にも書いたように、Я начинаю думать ...は意向の過程(~と考え始めつつある)というよりは、「もうそういう考えになった」というニュアンスであるから、これを過程と考えるのはどうかなという気もする。
意識が戻るというのは、一直線で戻るのだろうか?つまり過程として捉えられるのだろうか?気がつくというのは、意識が戻ったり、戻らなかったり、そういう意味で意識と無意識の境を往復しながらという風に理解して、ロシア語ではприходитьが用いられているのではなかろうか」
原先生が挙げられている、それ以外の下記の二つの例文にしても、一見過程のようですが、意識は反復しているように見えます。
Третья зима его жизни приходила к концу. <3回目の冬ということは、季節は巡ってくるというニュアンスがある>
Чем больще я обдумываю, тем больше я прихожу к выводу. <何度も考えて、ある一つの結論にたどりつく>
ただご指摘の例文はрадостиと複数ですから、いろいろな喜びがそれぞれ終わりに近づくということで、多くの場合(例えばчасто)に起こる事柄には反復の用法として不完了体が用いられるというような気がします。
ご回答ありがとうございます。抽象的な意味のときは過程も表せるのですね。また文脈によっては反復の意味も読み取れるなど、なかなかきれいに割り切れるものでもないんですね。勉強になりました。
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私個人はприходитьは過程を示すことができないと思っています。приходить в себя (к концу)なども含めて、すべて反復で説明がつくと考えており、そこが原先生との考えの違いです。