2014年06月19日
●続和文解釈入門第483回
『三訂和文露訳入門』に下記のように追記願う。
10-20 否定生格(二重否定は20-21に訂正)
否定生格というのは、人やものが存在しない場合は、存在しないものが生格になるというもので、主語にも適用される。否定文で主語に否定生格が来るのは、動詞の語義に無の状態が含まれるものや、状態の動詞、知覚の対象(出現)を示す動詞、主語が不定の意味の複数の場合などである。しかし、動詞すべてに適用されるわけではなく、そのような動詞(仮に否定生格動詞としようか)はパードゥチェヴァ先生によると300超あるという。ただ「一般的なものの無」→「具体的なものの無」→「特定のものの無」の順に否定生格の使用が制限されているように見える。具体性が高まるにつれて、完全な意味での存在の無から離れていると考えられるからだろう。場所も具体性を暗示する。そのため具体性を強くイメージするような動詞(иметь место, исчезнуть, находиться, начаться, присутствовать, потерпеть аварию, размещаться, располагаться, участововатьなど)は否定生格動詞ではなく、主語は否定文でも主格である。また文が計画性、動作を示すもの、動作の様態を示す状況語と共起する場合も具体性が強まるという観点から、主語が否定生格にならないと言える。また主語が活動体や単数(全体を示す単数を除く)を示す場合も、具体性を示す事が多くなるという事で、主語が否定生格にならない場合が多い。
否定文の主語に主格と否定生格の二つが来る可能性がある動詞もある。「手紙は来ていない」を露訳すると、二つの文が考えられるが、そのニュアンスはだいぶ違う。主語を否定生格に置くと、主語そのものはこの世に、ないしは知覚の上で存在しないということになり、主格に置くと、ものは存在するが、動作を否定するということになる。どの動詞にもこのような用法があるわけではない。次の二つの文はいずれも結果の存続の意味で完了体過去形を使っているので、手紙一般ではなく、具体的な(特定の)その手紙を示していることになる。
Письма не пришло. <その手紙自体が存在しない>
Письмо не пришло. <その手紙自体は存在するが、他の場所へ配達された可能性がある>
それゆえ、Ответа не пришло. という文では、その答え自体が存在しないと考えてよい。
不完了体現在形を用いると、不完了体は普遍性を示すから次のようになる。
(我々の駅にはこのような電車は来ていない〔運行していない〕)Не приходит на нашу станцию таких поездов.
「マーシャの姿が見えない」の露訳も同様である。
Маши не видно. <マーシャはここにはいない>
Маша не видна. <マーシャはここのどこかにいるが、隠れていて姿が見えない>
出題)「頼まれれば行くよ」をロシア語にせよ。
Я буду идти, если меня
просят.
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何度か書いたと思いますが、Я буду идти...という文は、いきなりは使えないのです。これは私個人はидтиに始発の意味がないからだと思います。『三訂和文露訳入門』4-1-1-5項参照ください。理屈はともかく、文法的には間違いです。それとесли以下が不完了体現在形になっていますが、これも反復の意味でしか理解できないと思います。私の答えは、Если попросишь, приду.
順次的用法と、例示的用法の組み合わせ。
Если попросят, я приду.
偶発的反復、順次的用法で二つともСВとしました。ただ、出題文が「嫌だけれど頼まれれば行く」という意味だとすると、順次的用法は不適切でしょうか。
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正解です。ただ従属文が三人称複数なので、不定人称文のような感じがします。私の答えは、おまえに頼まれたらという感じです。
心の中はいやいやであろうと、動作上は、連続して起こるわけですから問題ないと思います。
相手に具体的な頼み事があり、「お願いというのならそっちに行ってやってもいいよ」というニュアンスです。具体的一回なので完了体にしました。
Если попросишь, приду.
「頼まれるようなことがあれば、いつでも行くよ」と解しても、例示的用法による完了体を使うので、結局は同様の訳になっていまうと思うのですが。
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正解です。もっと言うと、動作が次々起こるので、順次的用法で完了体未来形が来る、いずれにせよ完了体未来形が来るわけです。お答えのような発想ができれば、感覚として体の使いわけができることになります。通訳の現場では理屈を考えている時間はなく、与えられる日本語と文脈で体を決めなければならないと思うので、理屈を極めて得られる、そのような感覚は通訳に取って非常に大事だと思いますし、それは結局のところ、体の用法を体感して会得したロシア語が母国語のロシア人が体を運用している使い分けと似てくると思います。
Если меня попросят, то я пойду.
例示でсов。
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正解です。ただ論理的に言えば、頼まれれば、頼まれた人のところではなく、だれにでも、所定の(言われた)場所に出発するという感じです。
Писмьмо не пришло. のПисмьмоはタイプミスでしょうか?
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すみません。タイプミスです。直しておきます。