2014年05月04日

●続和文解釈入門第438回

トルストイと小西増太郎共訳の老子道徳経を読んだが、至高の存在はあるのだろうかとか、宗教が不幸の元とか、万物は混沌から成るなど、興味深い。その中で、大学の中の一文「見れども見えず、聞けども聞こえず」に似ている文を見つけた。老子道徳経原典の邦訳は読んだことも読む気もないので、どうなっているのかは知らないが、露訳はПредмет, на котором мы смотрим, но не видим, называется бесцветным. (Звук, который) мы слушаем, но не слышим – беззвучным.(見れども見えぬものを無色と言い、聞けども聞こえぬ〔音を〕無音と言う)とある。訳についてはともかく、видетьとсмотреть、слушатьとслышатьの違いがよく分かる文ではある。

出題)「5分後に開始だ」をロシア語にせよ。

Posted by SATOH at 2014年05月04日 06:48
コメント

Начнём через 5 минут.
「開始する」という長い時間継続しない動作を未来において完遂するということからсвとしました。
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絶対間違いとは言いませんが、普通はこのように完了体未来形を使うことはないと思います。完了体を使うというのは、新規の動作(場独立型)とか前後の文脈に依存しない場合に用いられます。「始めましょう」であれば、両方の体が可能です(そうはいっても不完了体Начинаем!が普通でしょうが)。5分後とあるので、「始める」という動作はすでに周知の事柄であるという理解をするのが普通です。つまり文の焦点は5分後にあり、動詞にはないと考えるべきです。そういう意味で、Начинаем через пять минут!とした方が自然です。このНачинаемは予定の用法です。完了体は聞き手にとって新規の動作だと話し手が考える場合に用いられますから、聞き手にとって意外(寝耳に水)というような動作と考えていただいても結構です。私の答えは、Через пять минут начало.
時制の転用。このначалоは名詞。次回の本文で詳しく説明する。

Posted by yama at 2014年05月04日 21:14

Мы начнем через
пять минут.
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間違いではないでしょうが、自然と言うか一般的ではないように思います。

Posted by ブーチャン at 2014年05月04日 21:36

Через пять митут начнём.
着手が5分後だからсов。ところで、"слышим, но не слушаем"ではないのですか?!耳には入っているけど理解してないという意味で。(私の露語聴解能力みたく)
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お答えは他のお二方と同じです。слушатьというのは、英語のlistenで、耳を傾ける(聞こうとして)ですが、聞こえるかどうかは厳密に言えば分かりません。ところがслышатьは耳を傾けていなくても、「聞こえる」という意味です。ですから第438回の本文は、「耳を傾けて聞こうとしているが、耳には聞こえない」という意味ですから、間違ってはおりません。

Posted by ゴ at 2014年05月04日 23:42
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