2013年12月01日
●続和文解釈入門第292回
説明は別にして、和露辞典ではまずお目にかかれない単語というものがあり、孫の手などもそうである。説明は簡単でロシア人もすぐに理解してくれるが、1語でというならけっこう難しい。試しにザルービンの和露辞典で引いて見たら、палка с наконечником в виде руки для чесания спиныとあった。先日観光案内の仕事のときに鎌倉のお土産屋で、ある年配のロシア人のご婦人(会社の重役らしかった)に目の前の孫の手を示して用途の説明をしていたら、спиночёсでしょうと言われた。それまでは別のロシア人(これは男性)から聞いたчесалка一本やりだったから、少しはバリエーションが増えたことになる。孫の手に関しては一般人であるこのご婦人や別の男の人の方が、学者のザルービンより語の選択が適切だということになる。
出題)「はたから見れば、いつも同じことが起こっているかのよう見えるのかもしれなかった」をロシア語にせよ。
Видя со стороны,
возможно было, что
кажется как будто
всегда происходит
одно и тоже.
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見るというのは視線を向けるであって、見えるとは違います。その点については『三訂和文露訳入門』の10-8項にて説明しています。それとкажется как будтоと冗語になっています。またスペルミスでしょうが、одно и то жеとすべきです。私の答えは、Стороннему глазу могло показаться, что происходит всё то же самое.
Если посмотреть со стороны, ничего особенного в этом не было.(はたから見れば、これには特別なことは何もなかった)
Внешне могло показываться, что всегда те же самые дела происходятся.
новыйを使えばよかったんですねぇ...
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同じことが起こるは反復ですが、思うというのは具体的な1回の動作です。внешне = наружно, по наружному видуということで、外見上ということですが、第三者の目から見てという意味にはなりません。
(お題)
はたから見れば、いつも同じことが起こっているかのよう見えるのかもしれなかった
(コーシカ訳)
Со стороны могут показаться, что всегда происходит одно и то же дело.
「(見えるの)かも」は状態と考えてмогутを使っております。
показатьсяと完了体なのは
・могутが完了体と結びつきやすいこと
・特定の事件の周囲への映り方という具体的な話であること
などが関係していると思われます。
「起こる」は繰り返しですので不完了体現在происходитです。
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体の用法は正確です。ただ出題の時制は過去ですので、моглиとすべきです。それとсо стороныを副詞句として用いるのであれば、意味はизвнеということですが、この場合はсмотреть, наблюдатьとの語結合が一般的です。
>孫の手
ヤンデックスでも調べてみました。
間を取って? спиночесалкаが多かったです。
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このように好奇心を持って調べることがロシア語の上達の王道です。語学は人に言われてやるものではありません。やる気になれば奥義は極められます。コーシカさんは凡ミスをなくせば、ロシア語の蘊奥に達していると言っていいでしょう。ロシア語を楽しめる段階ですから、後ほんの少し体の用法で思い込みをなくすことです。一番怖いのは、第290回のご回答のように、完了体は新規の事柄を扱うということで、自動的に処理しようとすることです。新規というのはまったくの新規であり、『三訂和文露訳入門』の2-2-1-2項の踏み台の説明が不定法にもあてはまる、不完了体の本質だということに得心されるでしょう。