2013年06月05日
●続和文解釈入門第113回
体の用法が気になりだしたのは、大学の時で、なぜСадитесь.(おかけなさい)と不完了体命令形を使うのかという疑問を持ったのが最初だと書いたことがある。就職してしばらくしてから、『ロシア語動詞 体の用法』、(О. П. Рассудова、磯谷孝訳編、吾妻書房、1975年)と『演習ロシア語動詞の体』(磯谷孝編著、吾妻書房、1977年)が出て、一読してみたが、その時はロシア語のレベルが低く、よく理解できなかった。両書はそれ以降現在に至るまで私の座右の書であり、ほぼ毎日気になるところを眺めたりしている。体の用法について言えば、それ以前も、それ以降も会話で役に立つ表現や語彙は、なぜそうなるかを考えずに丸暗記していたので、商社の仕事で技術通訳や商談通訳をするのに何の支障を感じたことはなかった。体を真剣にやろうと考えたのは、『ロシア語の体の用法』(原求作、水声社、1996年)を精読してからである。これらの3冊の本は良書ではあるが、露文解釈用の参考書であり、隔靴掻痒の感があり、自分に必要な会話における和文露訳でどう活用するかは自分なりに考えなければならないと考えた。自分でも和露の例文付語彙集(その頃は1万項目ぐらいだったが、現在では9万3千項目を越えた)を作っていたので、その例文をもとに体の用法について検証していったわけである。そのためには質の高い例文が必要なことは言うまでもない。(次回に続く)
出題)「思い出すと、むかつく」をロシア語にせよ。
Сержусь из-за
вспоминания.
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сердиться = быть в гневеですから、基本的な意味は「怒っている」(激怒ほどではないが)という状態の動詞です。もちろん繰り返しにも使えると思います。お答えを和訳すると、「その思い出のせいで<こういうロシア語の語結合があるかは知りませんが>(いつも)腹を立てている」というふうになりそうです。私の答えは、Как вспомню - так тошнота подкатывает. <ダッシュの使い方は第112回本文を参照ください>
出題を「思い出すたびにむかつく」と言いかえれば、この場合「むかつく」のは繰り返しだから、不完了体であり、しかし、いつもではなく、「思い出すならば」という条件付きである、ここから例示的用法が出てくる。それゆえ主文に繰り返しという動作を担わせ、従属文は例示的用法を用いることになる。それに従属文にも繰り返しという用法なら、文がくどくなってしまう恐れもある。『和文露訳入門』6-2-6項参照。
お久しぶりです。
Как вспомню, меня раздражают.
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構文自体は正しいのですが、不定人称文を誤解されているようです。不定人称文というのは、『新ロシア語文典』(プーリキナ・ザハーワ=ニェクラーソワ、稲垣兼一・初瀬和彦共訳、吾妻書房、1972)によれば、主語がなく、述語が不定の人によって行われる行為を意味する文です。つまり主語は明示されないが、人を含意し、事物が主語ということではありません。この点については、『現代ロシア語文法』(城田俊、東洋書店)や、『ロシア語文法便覧』(宇多文雄、東洋書店)では触れられていませんが、例文を見る限り主語が不定の人を示しているのは明らかです。こういう点が日本で出ているロシア語参考書が和文露訳の勉強を前提にしていないと私が考える理由でもあります。раздражать/радражить(イライラさせる)の主語はイライラの原因となる特定の人か事物です。主語を明示したくないか、できないなら、
Когда их вижу на улице, я раздражаюсь.(奴らを通りで見かけると、〔いつも〕イライラする <вижуと不完了体が来ているのは、通勤や通学でいつも見かけるというニュアンスです>)というように、ся動詞を使うべきだと思います。
動作の主体が不定であって、人でなければ、無人称文を使う事もできますし、動作の主体と主語が別にできるなら上述のように自動詞も使えます。
念のため、ソ連科学アカデミー版ロシア文法Русская грамматика, Наука, 1980の第2巻356ページ不定人称文のところに、主体の定義として、Специфика субъекта здесь состоит в том , что это или «вообще всякий, любой», или «кто-то (некто), или «некоторые».(ここにおける主体の特質は、それが「各人全般、どの人でも全般に」、ないしは「だれか」、ないしは「ある人々」であるということにある)とあります。всякий, всякая, всякиеは単独で各人(男、女、複数の人)という意味で、当然ながら人でвсякоеというのはないし、「どんなものでも」という意味では、ものを意味する中性名詞が必要です。любойもлюбой, любая, любыеも単独で「どの(男、女、複数)人でも」という意味があり、любоеは単独で「どれでも」という意味になれますが、この場合はлюбойで違います。これから判断して、主体は人を指していることが明らかです。
(お題)
思い出すと、むかつく
(コーシカ訳)
1) Я раздражаюсь, когда вспоминаю об этом.
2) Мне горько, когда я вспоминаю об этом.
…するといつも、という意味の不完了体が使えると思います。
2)は苦々しく思うという雰囲気で書いてみました。
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「~するといつも」はおっしゃるように不完了体ですが、思い出すのはいつもでしょうか?「思い出すと」というのは、いつも定期的に(繰り返し)思い出しているわけではなく、いつ思い出すのか分からないが、思い出す時にはという意味で、例示的用法です。
Когда это мне вспоминаюсь, то возмущаюсь.
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これもコーシカさんと同じで、いつも思い出している(定期的な繰り返し、ないしは頻繁に、多くの回数)ということになりますが、出題は、思い出す時にはということで例示的用法です。それと、かりに不完了体だとしてもмне вспоминаетсяかя вспоминаюとしないと、文法的におかしいと思います。