2013年03月04日

●続和文解釈入門 第24回

前回のнайдётсяは完了体未来形だが、用法的には現在の時制であることは明確である。そのためこれを完了体現在形とする学者も多い。その場合は過程や繰り返しには、つまり今現在のこの一瞬という意味で完了体現在形は使わないなどの注を入れる必要があるし、Завтра я уеду.(明日出かける)という文では、未来への時制の転用ということになろう。もっというと完了体現在・未来(非過去形)形と唱える学者もいるわけで、そうなると、「明日出かける」の方は、完了体現在・未来形の未来の用法ということになる。個人的には、大学のときに完了体未来形と習ったからという理由と、時制的には分かりやすいと思うので、完了体未来形というふうに使っているが、別に強制しているわけではない。

出題)「彼がその会合に現れる確率は五分五分だった」をロシア語にせよ。

Posted by SATOH at 2013年03月04日 07:19
コメント

Вероятность его
участия в этом
собрании была
половина на половину.
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половина на поровинаはподелить улов половина на половину(釣果を半分こする)というように、口語で = поровну, ровно на две частиということですが、確率にも使う例もそれほど多くはないようですが、あるようなので正解とします。私の答えは、Вероятность того что он явится на эту встречу, была пятьдесят на пятьдесят.
この構文は「半々である」と同義で、Шансы были примерно пятьдесят на пятьдесят.(チャンスはほぼ半分だった)も使える。
なお、серединка на половинкуは「可もなく不可もなし」、「どっちつかず」という意味で使います。

Posted by ブーチャン at 2013年03月04日 09:28

(お題)
彼がその会合に現れる確率は五分五分だった
(コーシカ訳)
1) Появился ли он во встрече - вероятность была почти половиной.
2) Вероятность его появления во встрече была фифти-фифти.

1)は研究社和露辞典の例文から作りました。
過去における具体的な動作なので完了体過去だと考えます。
2)は堅いのか砕けているのかよくわからない言い方ですね、微妙…
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(1)はこういう例がないとはいいませんが、日本語でも「確率は半分です」ということですから、意味が取りにくいと思います。私の答えとか、ブーチャンさんのようにするほうが一般的です。通訳は相手に意味がより明確にすべきであって、簡潔がよいということはありません。100%理解してもらうためなら、冗語も必要な場合があります。人によって単に通じればよいのではなく、すべての人に100%通じなければ困るのです。それとна встречеの間違いです。
(2)は英語のできるロシア人から聞いたことがありますが、聞いて分かればいいというだけで、通訳が使うべき語彙だとは思いません。通訳は英語のできるロシア人を相手にするというよりは、英語ができないロシア人も多いので、そういうのを想定すべきです。
日本の商社や輸出関係のメーカーの営業の人たちの間では、「この案件がうまくいくかどうかはフィフティー・フィフティーだな」などというのを聞きますが、同じ日本人でも年配の方々に正しく意味が伝わるかは疑問です。ロシアも日本同様それほど英語会話が普及しているとは思えません。こういう外来語の使用は、通訳としては厳に慎むべきだと思います。技術通訳や観光ガイドで年配のロシア人相手と考えると、なおさらその感を強くします。

Posted by コーシカ at 2013年03月04日 19:55

Возможность того, что он появится на собрании или нет, была почти одинакова.
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厳密に考えると可能性возможностьと確率(蓋然性)вероятностьは違います。私の記憶では、夏目漱石が教師時代に、英語のpossibility(可能性)とprobability(蓋然性)の違いを説明して、逆立ちができるかどうかというのは可能性であり、自分は逆立ちができる。ところが教師である自分が教壇で逆立ちをするかどうかというのは蓋然性(確率)であり、そういう蓋然性はないという逸話を聞いたことがあります。物事は0.1%でも可能性はある場合でも、確率的にはどうかというのを日常では判断の材料にするのです。

Posted by ゴ at 2013年03月04日 22:56
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