2011年04月13日
●日本の心 第25回
(120) *「ホジソン長崎函館滞在記」、多田實訳、雄松堂出版、1984年
1859~1860年ホジソンHodgson(1821~1865)はアイルランド人で、1859年3ヶ月長崎で、また1860年1年間箱館(現函館)でイギリスの領事を家族(妻と娘とともに)勤めた。ただ内容的には長崎滞在中のホジソン夫人の母への手紙の方が面白い。蛇やムカデに悩まされたが、寺が領事館だったということもあって(当時の日本人は特に)日本人がそれらを殺さなかったと言ってカンカンのご様子。朝起きたらベッドのそばにマムシを見たり、自分の服の上をムカデが這っているのを見たら夫人の言うのもごもっともと思う。家主の和尚や尼僧などからもよくしてもらい、特に娘は多くの日本人から可愛がられたようである。このように当時外国人の中で家族で赴任した人は珍しく、しかも女性の目からの日本の印象というのは大いに参考になる。箱館では奉行夫人と夫人同士の付き合いもあった。ホジソンは函館で競馬(1時間の耐久レース)と打毬(日本式ポロ)を見ている。4回箱館奥地旅行をしているが、2回は家族も含めてである。1回目はフランスのイエズス会のカション神父、4回目はロシア領事官のナジーモフも同行した。ギリシャ神話や聖書からの引用が多く知識のひけらかしという憾みもあるが、非常に日本に好意的な筆致である。払子をmosquito whip蚊叩きと称している。これで悪霊を寺から追い出すのだと説明を受けたとのことである。また日本には死人の死後硬直を解く土砂というものがあり、葬式の時棺桶に入れれば死体を好きな姿勢に変える(当時は屈葬だった)ことができると日本人(坊主)から言われたという。これは密教の土砂加持に関係があるのかもしれない。こういう土砂のことを書いている当時日本に滞在していた外国人は多い。「ご機嫌いかがですか」の挨拶の後、イギリスと同様いつも天気の話で始まるのは奇妙であるとも書いている。彼は日本に好意的で挙げくにはノアの箱舟日本漂流説なども述べている。ただ本書では分からないが、ホジソンは酒乱で、朝から泥酔し、酔って日本人を鞭で殴るなど乱暴が続き、とうとう箱館のイギリス人商人3人から領事の義務を果たしていないと告訴され、病気休暇願を出し、後に外務省を辞める羽目になった。いわゆる「ホジソン氏事件」である。後任はモリソン。詩人肌で早世したのも酒によるものだろう。本書は1861年出版された。
(121) 「東方にてНа Востоке」、マクシーモフСергей Максимов, Книжный клуб Книговек, 2010
セルゲイ・マクシーモフ(1831~1901)はロシアの旅行家・民俗研究家で、1860~61年東シベリア、東洋を旅行し、1860年日本(第5章)にも立ち寄った。日本と言っても箱館(後の函館)だけで当初4日の滞在予定だったが、興味がわいて結局10日間見聞することになった。当時函館は商業の町で人口が6000人で、彼の推定によると遊女が600人いたという。彼の驚いたのは遊女が午前中読み書きや踊りを習い、4年の年季があけた後普通に結婚もでき、遊女を特にさげすむ風もなかったことと、女性の地位が他の東洋諸国に比べて高く、女性が自ら自発的に商売をし、自宅に客を招きいれたりすることだった。また障子を開ければ家の中全部が見渡せることなどプライバシーもないことに一驚している。混浴についても書いているが、当時ペテルブルグやモスクワは別にして、ロシアの田舎では混浴は当然だったので、アメリカ人やその他のヨーロッパ人ほど驚いてはいない。当時奉行所で開催された日本のポロである打毬(だきゅう、うちまり)についても記してあるが、退屈だとある。放火で火刑になった若い男の処刑の模様も描いている。じたばたせず潔い最後だったようで、火刑というのは火であぶられて死ぬのではなく、窒息死するのだと書いている。