2011年03月20日
●日本の心 第22回
(109) *「ペリー艦隊日本遠征記」(2巻)、オフィス宮崎編訳、万来舎、2009年
ペリー艦隊の正式報告書3巻のうち第1巻の新訳(第2巻は動植物、第3巻は黄道光に関したもの)。一般大衆をも対象にしているようで、読みやすくしかも徹底している。シーボルトとの確執が面白い。本書を読む限り、ペリー提督(1794~1858、正確には代将)はプチャーチンなどと比べても戦略的に抜きんでていたといえる。すべては結果がその戦略(一種の砲艦外交)の正しさを証明している。ただその高圧的態度から日本側が親近感を持ったとは思われず、後に英国が幕末の日本の外交を主導してゆくことになるのである。日本への遠征目的を、表面上は捕鯨船保護・物資補給としつつ、水面下では海軍省所管の郵船長官として蒸気郵船の太平洋航路開発と、その燃料(石炭)確保をもくろんだのみならず、訪れる各地の生活や自然、なかでも鎖国日本の実情などを広く政界に伝えることを構想したと本書にあるのは興味深い。このほかにもペリー側の交渉の内情など興味は尽きない。外国人が日本の事を「日出ずる国」とする表現は、このペリー艦隊日本遠征記の「日出ずる王国」から広まったといえるのではないか。
(110) *「フリゲート艦パラーダ号」(6巻本全集の第2巻および第3巻)Фрегат «Паллада», Гончаров, Правда, 1972
「オブローモフ」という小説で有名な作家ゴンチャローフ(1812~1891)がプチャーチン提督の秘書官として1852~55年に航海した時の印象記。ケンぺル、ツュンベリー(彼の作った辞書も持参した)やシーボルトの著作他をすでに読んでいたことが分かる。文化的な後進国において形式主義ばかりで物事が進まない、彩のない日本に嫌気がさしているのがよくわかる。日本女性のことを、「みな色黒で、不美人であり、鉄漿をつけていて、じろじろロシア船の方を見て、笑いさざめいている」と書いている。鉄漿(多分そのうえ眉をぬいていたろう)というのだから年配者であろう。戦前の白黒の時代劇の映画には鉄漿の女性が見られるが、やはりかなり気色悪い。鉄漿なしだったらとか、若い娘だったらもっと印象はよかったろう。内容的に特に面白いのは幕府全権で正使の一人だった川路聖謨から招待された日本式会食の様子である。ゴンチャローフは刺身も含めてすべて平らげたが、オランダ語の通訳を務めたポシエート大尉(既存の訳書で彼の姓をポシェットとするのは力点が違うというほかに、婦人の小物入れみたいな感じがする)が、刺身と知らずに半分食べ、後でゴンチャローフから生の魚だと告げられた時に苦い顔をしたとあるのは、現代のロシア人の寿司好きを考えると面白い。当時の日本では食事が終わった後に白湯を飲む(口をすすぐためだろう)とか、燗酒はうまいが、気の抜けたラム酒のような味がすると書いている。鯛も抹茶も味わったが、日本料理は美しいとはいえ、ミニチュア的で量も少なく、料理が目を楽しますというのは料理の本道ではないと述べている。ロシア側が接待したときには、羊肉(牛肉がなかったので)やハムのピラフや、酒に対抗してグリントウェイン(ドイツ起源の赤ワインにクローブ、砂糖、シロップなどをいれたホットワイン)を供したことが述べられている。日本については内戦をせずに、軍事技術をヨーロッパから学び、港の防備を固めれば発展してゆくだろうとも書いている。幕府の代表者であった川路聖謨については洞察力、機知、経験に富むと高い評価を下している。ちなみに川路はロシア側に自分の佩刀を贈ったが、そのとき後述の長崎日記に、「この刀にて、ためしに人を切りみるに、三人並べてこころよく胴切りにし、車骨(骨が固くて切りにくい部分)を瓜の如くに切りたり」と述べ、処刑された罪人で試し切りすること説明した。川路は文武の達人であり、特に柳生新陰流をよくした川路がこう言ったのは日本人をなめるなよという気概からだったのかもしれない。一方ゴンチャローフも川路から贈られた刀は、通訳曰く、3人の罪人の首(?)を切ったと書いている。邦訳には「日本渡行記」井上満訳、岩波文庫(昭和16年、昭和34年)があるが、筆者未見。
琉球については下巻150ページに1853~54年長崎や琉球の首里(那覇)に来航したときの著述が参考になる。その島民はまるで子供の夢にいるような、穏やかだが、発展がそこで止まったような印象を受けると書いている。島でベッテルハイムという宣教師に会うが、宣教師曰く琉球人は殺伐としている、その証拠に自分は殴られ、ペリーの船で帰郷するというくだりがある。シュワルツの「薩摩国滞在記」によれば、彼はハンガリー系のユダヤ人で1846年琉球に来たが、当時はキリスト教が禁教であり、しかも布教の仕方がかなり強引だったようで、住民と敵対関係に陥っていたようである。この点は「ペリー艦隊日本遠征記にも記載がある。
(111) 「長崎日記・下田日記」、川路聖謨、藤井貞文・川田貞夫校注、東洋文庫、平凡社、1968年
プチャーチン一行が長崎および下田に来航したときに、幕府を代表して応接し、下田にて日露和親条約を締結した勘定奉行川路聖謨(1801~1868)の家族に宛てた日記で、長崎と下田時代に関したもの。プチャーチンについて、「この人、(使節の)第一の人にて眼差しただならず、よほどの者なり」と評し、「妻はイギリスの女なりと承り候」とあり、ゴンチャローフについては、この人、無官なれど、セキレターリス(秘書)のことをなす。公用方取扱というがごとし。常に使節の脇に居て、口出しする者なり。謀主という体に見ゆ」と長崎日記に書き、軍師とも記している。会食事には、「軍師はよほどのシャレものというがごとき風なる男なるが、いささか酒きけし体にて、夥しく頂戴という手真似をしたり。そのさまのどのところへ手やり、又頭へ手やり、やがて頭上へ高く手を差し上げて、うなずきたり」とあり、ゴンチャローフがひょうきんだった様子を伝えている。大通詞の森山栄之助(後、多吉郎、1820~71年)については、「死を決して申し談じをもなしたるとのことなり(この者別段なるものにて、左もあるべし)」とほめているが、ゴンチャローフは、何度か会談してその終わりごろ、「態度が最悪なのは栄之助である。川路の通訳、つまり一番重要な通訳をしているため、つけ上がって、川路がいないと椅子にどかっとすわり、シャンパンを飲ませろと無心したり、中村為弥(川路随行員の筆頭)のいる前で4杯シャンパンを続けて飲み、通訳せずに、自分で論じようとして、そんなことなら通訳を代えるぞと言われたことがあった」と評判が悪い。上司へのごますりがうまかったわけだ。そのおかげか下田での交渉のときには御普請役に出世している。しかしその後の外国のとの交渉には通訳として関わっており、ペリーや英国公使のオールコックの評判も良く、当時は若気の至りだったのだろう。中村の評価は非常に良い。中村は後に下田で下田奉行としてプチャーチンと再会を果たしている。ゴンチャローフの本と長崎日記を読み比べると日ロ交渉への臨場感が増すのみならず、下田日記もそうだが読み物としても非常に面白いし、家族への思いやりなど心温まる感じがする。
1955年下田での第1回和親条約交渉の翌日下田は安政の大地震(マグニチュード8.8、死者下田で85人)に見舞われ、ロシア人が日本人3名を救助したことを川路は感謝しており、結局プチャーチンのヂアーナ号は沈没するに至るのだが、それに屈せず新船建造を決意したプチャーチンに対して、日頃は布恬廷(プチャーチン)を布廷奴(フテイヤツ)などと陰口を言ったりしたが、「実に左衛門尉(川路のこと)などに引き競ぶれば、真の豪傑である」とプチャーチンを誉めている。下田日記では、このほかにもう1か所プチャーチンを豪傑なりと書いている。よほど感心したのであろう。川路は1868年江戸城開城の知らせを聞いて切腹の後ピストルで(2年前に中風で半身不随だったので)自害した。真の武士といえよう。