2011年03月17日
●日本の心 第21回
(105) 「日本風俗備考」(2巻)、フィッセル、庄司三男・沼田次郎訳、東洋文庫、1978年
1820~29年まで長崎の出島に勤務したオランダ人事務官フィッセル(1800~48)の日本見聞記。1822年ブロンホッフ商館長と共に江戸参府。ジーボルト(シーボルトともいう)とほぼ同じ時期に出島に勤務した。間宮林蔵が隠密として長崎に来ていたなどその後ジーボルト事件について密告する下地があったようである。当時死者は桶に入れられたので、死者を折り曲げるための死後硬直を解く砒石やネコイラズに触れている。
(106) *「江戸参府紀行」、ジーボルト、斎藤信訳、東洋文庫、平凡社、1967年
ジーボルト(1796~1866)とはいわゆるシーボルトのことでドイツ人の植物学者。1823~29年、1859~62年の2度にわたって訪日。本書は1826年の江戸参府の記録。ここの通詞がどんな人物だったか簡潔に記載されているのが興味を引く。11代将軍家斉に拝謁した。シーボルトはオランダ語読みで、ドイツ語の発音ではジーボルトだが、彼の生まれた南ドイツのバイエルン州ではシーボルトと発音したというからややこしい。
(107) 「ジーボルト最後の日本旅行」、A・ジーボルト、斎藤信訳、東洋文庫、平凡社、1981年
ジーボルトの長男アレクサンダー(1846~1911)が1859年13歳のとき63歳の父とともに訪日し、1862年父が離日するまでを記したもの。彼は1887年ドイツに居を定めるまで日本の外交に尽くした。漢字については部首を先に覚えたが、結局わずかな数しか習得できなかったと述べ、「日本の文学は漢字が使われるようになって駄目になった」とやけくそになって書いているが、体罰については「私たちの国でよくやる鞭打ちを私は一度も見たことはなかった。お灸が体罰の代わりで、子供には痛いのでそれを恐れて悪さをせず、また灸をすえられたとしても身体にもよいし、道徳的見地からもよい」とも述べている。日本の義理の姉や母に対する記述はない。日本では果物が未熟のままで食用に供するので味がないと書かれている。特に梨がまずかったらしい。柿やビワは評判が良かったようだ。
(108) 「無酔独言」、勝小吉、勝部真長編、東洋文庫、平凡社、1969年
勝海舟の父で御家人の勝小吉(1802~50)が1843年これまでの人生を振り返って書いた半生伝。従兄弟は直心影流の達人男谷精一郎信友で自身も剣をよく使った。無学だが当時の御家人の言葉遣いがよく表されており、現代の口語とあまり変わらない。剣の師は平山行蔵。平山は雷電と胸押しをして勝ったという。小吉は14歳で出奔、ゴマのはえに身ぐるみはがれるなどしたが、4カ月乞食をして伊勢の方を回り江戸に戻った。21~24歳まで座敷牢に押し込められ、37歳で隠居。八方破れの生き方だが、世に受けられないのをすねていたようである。「気は長く、心は広く、色薄く、勤めは固く、身をばもつべし」や「学べただ、夕べに習ふ道のへの、梅雨の命の明日消ゆるとも」が座右の銘のようである。幕末の日本人の心情がよく分かる。