2011年03月24日

●日本の心 第23回

(112) 「ハイネ世界周航日本の旅」、中井晶夫訳、雄松堂書店、1983年
 ペリー艦隊に画家として同行したドイツ人ヴィルヘルム・ハイネ(1827~85)の日本紀行。原文はドイツ語。ハイネの父は大音楽家ワグナーの幼友達。アメリカに帰化し、ペリー提督の船で1853年、54年訪日。ペリーの遠征記録と似たようなものだが、箱館では流砂に腰まではまり死にかけたとか、クマ狩り(熊には出会わなかった)をしたとか現在の函館とは想像もできないことが分かる。ペリー艦隊が水や燃料の基地を琉球においたが、1854年残留した米兵の3人が那覇で民家に押し入り泥酔し、しかもその中の一人が別の民家で50歳の女性を強姦し、そのため親族や村人に石で打たれ、溺死したという事件があった。殺人事件としてペリーは犯人の処罰を求めたが、事件の内容が分かるにつれて、犯人の引き渡しではなく、琉球での処罰(流罪)で合意した。現在の基地問題の原点である。これについて本書ではある事件が起きたぐらいの記述だが、原因はその頃立ち寄ったプチャーチン率いるロシア船の船員たちがこれら米兵を甘やかした(酒を飲ますことを覚えさせた)事に原因があると書いているのには驚く。アメリカの水兵がお歯黒を自分で試してみて、8日の間口がパンケーキのように腫れ、歯茎が侵されほとんど歯がなくなったと書いており、鉄漿の使い方を聞かなかったものらしい。しかしこの何でも試してやろうという気構えには感心する。ハイネはオイレンブルクの訪日にも乞われて参加したが、アメリカに帰化したという事で使節団中では浮いていたらしくオイレンブルクとの関係も冷ややかなものだった。

(113) 「グレタ号日本通商記」、リュードルフ、中井赳訳、小西四朗校訂、雄松堂書店、1984年
 アメリカに用船されたドイツの帆船グレタ号の荷物上乗人(代理人)リュードルフの函館及び下田の日記。1857年初出。グレタ号(船長はタウロフ)は1855年日米和親条約直後箱館に5週間滞在、後に死も他6カ月滞在した。通商条約が結ばれていないために貿易はできないはずだったが、身の回りに必要なものであるとか、下田の地震で沈んだヂアーナ号の乗組員の残り270名をロシアに運んでほしいという日本側の要望につけこんで、積んでいた荷物を引き取ってもらう条件をつけるなど、なかなかの商人ぶりを発揮する。リュードルフは英語、オランダ語に堪能であり、日本に対しても偏見を持っていない。函館には犬が多く、スピッツに似ているとか、若い娘はほうとうにきれいな外貌をしていて、抜けんばかりの白い顔をしているとか、日本人の皮膚は明褐色とか、既婚婦人は鉄漿や眉を剃っており、ひどく嫌らしい感じがするなどと記している。本書ではイギリスのジェームズ・スターリング提督の和親条約を結ぶための長崎や箱館訪問についても触れている。日本側は交易品として武器を欲しがったことが分かる。ヂアーナ号のロシア人(最初のグループ)を運んだカロライン・フート号のリードやドハティの夫人同士の軋轢などについても触れているのは面白い。下田で船長とともにドイツにも和親条約締結について進言しているのは愛国的行為である。奉行の答はドイツからしかるべき使節が来ればドイツとも条約が結ばれるだろうとのことだった。祭りや盆についても実見したと記載している。日本の葬式も見ており、死後硬直を解く土砂について書いてある。土砂を手に入れようとしたが果たせなかったと言い、その効き目については疑問をもっている。日本の葬式は秩序もなく、結構騒がしいと書いている。グレタ号には樽に隠した橘耕斎を運び入れた。これをタウロフ船長は見たと書いている。ロシア人をのせたグレタ号はオホーツク海で英国の軍艦バラクータ号に拿捕され、ロシア人は香港に連れ去られた。リュードルフは日本に小銃を売り、日本の商品を買うため日本に残っていたため難を逃れた。日本人は知識欲の強い国民だとしている。末尾に独和語彙集がついていて、日本語の単語にアクセントがふられているのはご愛嬌。

(114) 「ハリス日本滞在記」、タウンゼンド・ハリス、坂田精一訳、岩波文庫、1944年および1954年
 1856~62年日本に滞在した初代駐日アメリカ総領事タウンゼンド・ハリス(1804~78)の日記(1856~58年)。ハリスは散歩の好きな人で日本および日本人を非常に注意深く観察している。ハリスは13代将軍徳川家定に謁見した。日記を読む限り滞日中は体調不良が続いたようで、ハリスが重篤なチフスで重体に陥った時にヒュースケンの依頼で下田の芸者唐人お吉(1841~1890)がハリスの世話をしたというが、ハリスの年齢(当時52歳)、病気であったこと、ハリスは生涯独身で厳格なキリスト教徒(プロテスタント監督派であり、日曜は公務を断り祈祷書を読んで過ごした)であったことから、性的関係はなかったと思われる。もっともヒュースケンの日記にもヒュースケン自身の愛人の記載はないが、3人日本女性の愛人がいたことが分かっている。まあ普通下半身の事柄については自分の後世読まれるだろうという日記には書かないだろうけど。

(115) 「ヒュースケン日本日記」、ヒュースケン、青木枝朗訳、岩波文庫、1989年
アメリカ側全権使節ハリスの通訳兼書記オランダ人ヒュースケンの1855~1961年の日記(1856~61年滞日)。彼は1961年浪士の襲撃に遭い虐殺された。最初の通商条約交渉についての外交上の苦心が主で、観光案内の類は非常に少ない。おおざっぱな人柄のようだ。

Posted by SATOH at 2011年03月24日 13:55
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