2010年12月15日
●日本の心 第17回
(78) 「ザビエルの見た日本」ピーター・ミルワード、松本たま訳、講談社学術文庫、1998年
1549年日本に初めてカソリック教を伝えたイエズス会のバスク人宣教師フランシスコ・ザビエル(1506~52、バスク語ではシャヴィエルで、かれが離日したのは1551年)の書簡を中心にした日本とのかかわりについての好著。イエズス会の創始者ロヨラもまたバスク人である。鹿児島上陸後、山口、京都を訪問したが、日本人を改宗するという強い意志のためか、当時の日本の外面的な文化に関しては何も述べられていない。高く評価したのは、日本人が我慢強さ、清貧、好奇心(知識欲)の強さ、合理的な話を好むという点である。洗礼を受けずに死んだ人はキリストが創立した教会には入れず、永久の呪を受けるというザビエルの無慈悲な教えに、当時の日本人は先祖が救われないと大いに嘆いたという。当時の日本の僧侶はデウスのことをダイウソ(大嘘)と非難したなど面白い話もある。
(79) 「日本巡察記」、ヴァリニャーノ、松田毅一他訳、東洋書店、1973年
ヴァリニャーノ(1539~1606)はイタリア人でイエズス会の司祭であり、巡察師として1579~82年、1590~92年、1597年から1603年訪日した。本書は当時の日本人について、清潔で、廉恥の気持ちが強いが、胸中をなかなか表に出さないなどの指摘もある。基本的にローマの上司に関する日本のイエズス会の実情、今後の提案について述べたものである。本書においては訳者による解題(アレシャンドゥロ・ヴァリニャーノの生涯、ヴァリニャーノの第一次日本巡察)が非常に優れている。これによって当時のキリスト教布教における内部事情(日本におけるイエズス会内部、日本人修道士とイエズス会修道士、およびスペイン人とポルトガル人との反目など)も俯瞰的に見ることができる。
(80) 「デ・サンデ天正遣欧使節記」、泉井久之助・三谷昇二・長澤信壽・角南一郎訳、雄松堂出版、1969年
1590年マカオで出版された天正遣欧使節との欧州見聞録に関するラテン語の質疑応答録の和訳。主に千々石ミゲルが日本に残った近親者に答え、残りの三人が補足する形で話は進む。著者はポルトガル人ドゥアルテ・デ・サンデ。実質的にはヴァリニャーノを中心にイエズス会が総力を挙げて書き上げたものとされる。正使節主席伊東マンショ(1569~1612、後に司祭、日本で死す)、正使節千々石ミゲル(?~1633、後に棄教したという)、副使中浦ジュリアン(1569~1633、後に司祭、長崎にて殉教。その際我こそはローマに使いした中浦ジュリアンなりと叫んだという)、原マルチノ(?~1629、後に司祭、マカオに追放)、メスキータ師、ジョルジュ・ロヨラ(日本人イルマンで本書の和訳の途中で死去したという)、他に巡察使ヴァリャーノはゴアまで自らが引率し、ゴアからはロドリゲス師が加わった。1582年出発、途中セントヘレナ島に立ち寄り、1584年ポルトガルのリスボン着。マドリード、ローマ(1585年法王グレゴリオ13世とシスト5世に拝謁)、ベニス、ミラノなど各地で大歓迎を受け1590年に帰国した。なぜ白人黒人の区別があるのかは聖書には触れられていないとか、なぜポルトガルは植民地を持つのかなど、天皇が合法的な本当の日本国主であるとか面白い指摘、質問もある。特に漢字についてはラテン字母の学習の容易さを挙げつつも、いくつか漢字にも効用があるとして、我が国の語詞はおおむね音がたがいに類似しているために紛らわしいのであるが、これらを漢字にすれば便利に何の紛らわしさもなく示しうる。ただこれとてラテン字母にパードレが種々のアクセント符や記号を使って表すことに成功なさるだろうとも書いている。日本人は西洋の学問やキリスト教がないのに高尚、都雅の程度と品位の高さでは大したもんだと宣伝もしてくれている。本書の日本語訳が完成していたら、当時の日本に大いに寄与していたと思うと非常に残念である。
(81) 「セーリス日本渡航記」、村川堅固訳、岩生成一校訂、
「ヴィルマン日本滞在記」、尾崎義、岩生成一校訂、雄松堂出版、1970年
「セーリス日本渡航記」アーネスト・サトウ校訂(1900年)、和訳は1644年初出。
ジェームズ1世の親書を携えてイギリス東インド会社貿易船隊司令官セーリスCaptain John Saris(1579または1580~1643)は1613年条約締結のため来航。主目的はインドのスーラトだったが、それが達せられず日本に向かった。途中および日本国内で砲手エヴァンスなどの反抗に手を焼いていることがよく分かる。船員虐待もあったらしい。ウィリアム・アダムズ(三浦按針)の案内により一行70名は平戸から駿府(静岡)で家康に、江戸で秀忠に謁見し、商館設立と関税免除の許可を得た。この頃から切支丹弾圧が強まったことが本書から窺える。家康は宗教と貿易を切り離し、外国貿易は富国の良策と考えていたようである。駿府から江戸の途中で鎌倉の大仏を見学した。一行の中には大仏の胎内に入って大声を出したりしたのもいるし、すでに大仏にいたずら書きがあり、自分たちの従者が書き加えたと書いている。京都も訪れた。セーリスとアダムズは相性が合わないのか(アダムズの使用人がセーリスの船の物品購入で何度か賄賂をもらったことなど)、アダムズは家康から帰国の許可を得ているのにもかかわらず、セーリスの船では帰国しないとした。その後も死ぬまで機会がありながら帰国しなかったのは日本に家族もできたし、待遇もよかったからだとサトウは書いている。初代商館長にはリチャード・コックスが任じられ、アダムズも東インド会社に雇われることになった。セーリスの江戸行きのときにコックスが留守を任されたのだが、船員が勝手に陸に上がって酔っ払うは、互いにケンカや決闘をするは、脱走をするはで大変な様子がよく分かる。1623年イギリス商館閉鎖。
「ヴィルマン日本滞在記」
スウェーデン人ヴィルマン(1623?~1673?)は1651~52年オランダ東インド会社に勤務し、従僕長として来航、オランダ使節アドリアーン・ファン・デル・ブルフに従って、大坂から乗物で、箱根経由江戸にて4代家綱に拝謁した。箸で刺身も食べた。スウェーデン人で初めて来日した。
(82) 「日本大王国志」、フランソア・カロン、幸田成友訳、東洋文庫、1967年
フランソア・カロン(1600~73)は1619年来日し、1634年家光にも謁見した。第8代商館長として1641年帰任。日本語も堪能であり、日本女性を妻とし、6子もある。本書には訳者による「フランソア・カロンの生涯」が載せられており、鎖国前後の日本を知る上で大いに参考になる。本書は日本の鎖国直後1645年に発表された。きびきびした訳者の文体には感嘆するほかない。