2010年10月02日
●日本の心 第7回
日本人や日本の美については数多くの本がこれまで出版されているし、ある意味で埋もれている本も多いと思う。ガイドをする上で参考になる本で、図書館で読むことのできるような本を自分の経験から紹介しようとするのがこの企画である。
(29) 「古寺巡礼」、和辻哲朗、岩波新書、1979年
仏寺、仏像を美術や芸術の観点で見るならば、この書がベストであろう。亀井勝一郎「大和古寺風物詩」(新潮文庫、1953年)のように仏像とは拝むものだというという観点は説得力があるが、意を尽くしているとは言い難い。これについてはやはり亀井の「日本人の精神史」第1部「古代知識階級の形成」を読むべきである。堀辰夫の「大和路・信濃路」(新潮社、1955)もよい。これは1941年ごろの随筆で、浄瑠璃寺のところの文章が特に好きだ。ただ全体を俯瞰したものではない。
(30) 「風土」、和辻哲郎、岩波文庫、1979年
1935年補筆とあるので、時代がら仕方がないと思うが、著者の対象とした国はせいぜいエジプト、ドイツとインドと中国、日本である。そのため現代の目で見れば、アフリカも南北アメリカも、インドや中国以外のアジア、ロシアなども抜けている。ピラミッドにしてもその起源からすればナイル川の辺に建設されたわけで、砂漠云々だけを取り上げるのはどうかなという気はする。ただ注目すべきは日本に関する項であり、男女や家族の間柄を全然隔てなき結合と喝破しているのはさすがである。内と外の区別などは今でも十分に感心させられる。これだけでも本書を読む価値はある。
(31) 「日本精神史研究」、和辻哲郎、岩波文庫、1992年
1926年初出。ここでいう精神とはその時代の風潮を指しているというが、他の著者の精神史もそういう意味で取るのが正しいのだろう。竹取物語、枕草紙、源氏物語についての評論がよい。もののあはれ(ああと感嘆されるもの、永久を慕う無限の感情)、禅の悟り(道元を通じて)についても参考となるが、一番感心したのは、伝統という事で歌舞伎の演目自体が固まってしまったことは(無論戯曲の筋が人間の心情とかけはなれたものは、省略されるなり、上演されなくなったのだろうけど)、舞踊という面ではよかったかもしれないが、劇としては醜悪なものもあるという点を具体的に指摘していることである。伝統芸能にこのような見方があるという事に新鮮な驚きを覚えた。昨今中村勘三郎などが歌舞伎に新風を吹き込もうとしているのもこの辺の批判に応えてのことだろうと気がついた。
(32) *「日本人の人生観」、山本七平、講談社学術文庫、1978年
質のよい記憶の量を増やせばふやすほどその人間の発想の量は増えて行く、記憶の量がその人の発想の範囲を決めてしまう、人は言葉で生きる、人間の発想というのは自分の持っているその記憶と記憶をどのようにつないで新しい回答を見つけるかにある、などなるほどと感心した。日本人の宗教は個人ではなく家に関わる概念であり、宗教は何ですかと日本人に問えば、私はともかく、両親は真宗ですなどといい、これが日本人が無宗教であると外国人に思われる理由であると述べている。
(33) 「空気の研究」、山本七平、文春文庫、1983年
KYというのは空気が読めないということで、今の若者が使う言葉だが、その空気を日本人の特徴の一つとして論じている。日本は西洋の一神教的ではなく、伝統的に汎神論的であり、絶対化の対象があらゆるところにあるという意識に慣れており、水(自由なる思想)をさすという意識の切り替えで絶対化の対象を変えることをやってきた。その前提は一君万民でという一種の平等思想である。自由なる思想というのには、自分で考える頭が必要で、多くの人は考えるのを嫌がる。だれかに考えてほしいのだ。これは日本人に限らない。ロシアでも、庶民に結論の身を聞きたがる人は多い。白黒はっきりつくことないという事が理解できないという事ではなく、根気をもって考えるのが嫌なのか、そういう習慣がないからだ。考える癖というのは本を読むことでしかつかないが、その読書を嫌がる人がこの娯楽の多い(ゲームなどの)時代には多い。この空気は物事は理屈ではないとて、感情移入の絶対化で、対立概念で対象を把握することの排除であり、切除的否定(切り捨て)とある。「言必言、行必果、コレ小人」(やると言ったから必ずやるさ、やった以上はどこまでも)というのが日本人の特性であるというのにはなるほどと思った。物事は白黒つくのはあまりないわけで、それを白か黒かと即断するのを決断する(責任を取る)のをエライと日本人は考えるわけで、日本では途中で立場を変えるのが男らしくないと見なされるから、優柔不断であり、付和雷同ということになるのだろう。ほかに差別の道徳(知っている者には手助けをするのに、知らない者にはしらんぷり)、他者と自己の区別がつかなくなった状態(著者はそう言ってないが、甘やかされた子供やペットも含まれるだろう)など面白かった。もうひとつ面白かったのは、「天皇家は仏教となりや?」という問いかけである。仏教の最初の信者の一人は聖徳太子であり、奈良の大仏を作るよう命令したのは聖武天皇であるし、神仏習合ということもあり、答えは明らかなはずだが、著者によれば、1871年までは宮中の黒戸の間に仏壇があり、歴代天皇の位牌があったが、これ以降千年続いた仏式の行事はすべて停止されることになった。天皇家の菩提寺は京都の泉涌寺だったが、1873年宮中の仏像その他一切はこの寺に移され、天皇家とは縁切りとなった。皇族には熱心な仏教徒もいたが、その葬式すら仏式で行う事は禁じられたという。