2010年09月23日

●日本の心 第5回

(14) *「陰翳礼讃」、谷崎純一郎、中公文庫、1975年
 1933年に書かれた60ページほどの名文である。蒔絵というものが暗い所で見てもらうように作られており、能の衣装も金銀が多く使われているのはそのためであり、きらびやかな歌舞伎の衣装を現代の照明で見ると何か違和感があるとか、鉄漿や眉を剃ることも女性の顔を際立てる手段という主張も始めて聞くものであり、日本の美という観点からは拝聴に値する説である。鉄漿(お歯黒)は現代の時代劇では見られないが、明治大正の活動映画で見ることが出来る。非常に不気味な感じがするものである。暗いところで見ればよく見えるのかもしれない。鉄漿をしたのは歯の衛生のためという説もあるが、三田村鳶魚曰く享保8年に大岡越前守が当時非人の火付け(放火)多く、非人とそうでない人を区別するために、非人には頭をざん切りにさせ、非人の女には眉もそらせず、鉄漿もさせないようにした。これから判断すると鉄漿をしなければ非人に見られ、それを庶民が嫌ったことからではないかと思う。ちなみに鉄漿は結納を取り交わした時点で女性がつける。縁づけば島田を髷に替え、眉を剃り落とし、これが女性の元服というと矢田挿雲は述べている。日本文化を理解するのには必読の書であり、幽玄とは何かについて示唆に富む文章である。

(15) *「「いき」の構造」、九鬼周造、藤田正勝全注釈、勁草書房、2003年
 いき(粋、意気)について哲学的分析的解釈を行った名著。いきは媚態を基調として、意気地と諦めの上になっているという。二元性の平行線がいきであり、無目的性、無関心性でもある。つまり複雑な模様、絵画的模様、曲線、雑多な色どり、派手な色どりはいきではない、いきな色というのは黒味を帯びたもので、鼠色、褐色、青色系であり、茶室建築の間接照明や半透明のガラスがいきであると述べている。

(16) 「しぐさの日本文化」、多田道太郎、筑摩書房、1972年
「生け花は初対面などで目のやり場のないことを避けるためであり、対話の強制を避け、自然をクッションとして主人と客は気持ちが通い合うのを知る」とか、「目立った身振りのないというのが、日本人の身振りの一特徴である」、「身のこなしはなるべく目立たず、控えめがよいとされる、つまり美を誇示するのははしたない」、「家族間の呼び名は生まれたばかりの赤ん坊を基準にする、自己を相手の立場から規定しているとする」など日本文化の特性に触れている。家族化の呼び名は子供中心というのはロシア語にもある。子供のいる家庭では、Подожди, мать.(お母さん、ちょっと待てよ)などと亭主が妻に呼びかけることも多いし、старуха(婆さん)などと同じ亭主が30代の妻に呼びかけることも珍しくない。他に、「遊びと日本人」、埼玉福祉会、2006年や「身辺の日本文化」、講談社学術文庫、1988年があるが、雑学的。

(17) 「武士道」、新渡戸稲造、岩波文庫、1938年
 1899年初出。グリフィスの緒言がある。武士道とは何かを西洋の木指導などと対比させて説明したもの。「我が国民の笑いは逆境によって乱されし時、心のバランスを恢復せんとする努力を隠す幕であり、悲しみもしくは怒りの平衡錘である」とか、「夫もしくは妻が他人に対し、その半身(妻ないしは夫)のことを愛らしいとか、聡明だとか、親切だとか何だとかというのは我が国民の耳には極めて不合理に響く」など興味深い指摘もある。武士の意地(意気地、いき)を説明している

(18) 「茶の本」、岡倉覚三、岩波文庫、1929年
 1906年初出。人は独立の家を持つべきである、茶室は個人的趣味に適するように建てられている、いずれの家も家長が死ぬと引き払うことになっているなど、神道との関連であろう。均斉と言うことは完成を表すのみならず、重複を表すものとしてことさら避けていたというのは参考になる。他に「東洋の理想」、講談社学術文庫、1986年(1903年初出)がある。侘び寂びとは何かについて教えてくれる。

(19) *「茶道の歴史」、桑田忠親、講談社学術文庫、1979年
 茶道の歴史を軽みのある文章で詳述。各流派の関係がよく分かるし、現代の茶道が第二芸術化している(筆者は必ずしもそうはいっていないが)についての建設的な批判もある。

(20) 「茶器と懐石」、桑田忠親、講談社学術文庫、1980年
 茶器と懐石について分かりやすく解説した書。茶道の基本を理解するには必読の書。

(21) *「禅と日本文化」「続禅と日本文化」(鈴木大拙全集第11巻)、鈴木大拙、北川桃雄訳、岩波書店、1970年
1938年英文で出版されたものを本人が和文で著したもの。比喩や寓話の多用は禅が直感でしか理解できないという著者の主張を裏付けるものである。禅と日本文化を学ぶ人の必読の書。不立文字を文字で説明しているわけで、説明は分かりやすいとはいえ、禅自体が相互に矛盾し、その矛盾を止揚するわけであり、座禅を組まないと理解の端緒にも就けないであろう。でも禅には端緒というものはない。禅は分かるか分からないかの世界であるとされるからだ。禅と武士道の項を読むといわゆる剣豪小説の剣の奥義の説明はここが出所と知れる。

Posted by SATOH at 2010年09月23日 16:17
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