2007年05月22日
●帯研(第84回)OB-Ken
小話はкраткость/компактность(簡潔さ、コンパクトさ)とинтонация(イントネーション)やмимика(表情や身振り手振り)で成り立っているが、書いた小話はイントネーションと表情や身振り手振りを欠いている。だから実際にロシア人の話す小話のほうが理解しやすいと思いがちだが、そうではない。やはりベースにあるロシアの大衆文化への理解がないと聞き取れてもオチが分からないということになる。イントネーションや身振り手振りも助けにはなるが、これはある程度想像で補えるものだが、大衆文化は別個に広く浅く自分で勉強しなければならないし、時代(18世紀頃から現在まで)や場所(ロシアだけでなく旧ソ連諸国)など範囲も広範なものだ。個人では無理だということがお分かりだろう。何度もいうが集合知によって、いろいろな人が自分の関心ある分野についてのみでも調べて発表するような場が持てれば、大衆文化について広範囲な成果があがるのではないかと思う。今回の課題は、
設問1)次の動詞句で正しいものを訳せ。
a) гулять в лесуとгулять по лесу
b) глядеть в небоとглядеть на небо
設問2)Письмо материを訳せ。
確かに大衆文化と一口に言ってもつかみどころがないですね。私が今収集しているコンピュータ関連のアネクドートはGeek(オタク)がらみのオチが多いですし、そういう点では万国共通のものが多いのかもしれませんが、その中でロシア独特のメンタリティがあるものをできるだけチェックしようと思っています。
回答です。
設問1)
a) どちらも正しい。訳は「森を散歩する」
гулять в лесуのвは英語のinと同じように「限り・区切り」の概念が働き、森の中のある場所を歩いているというような限定されたイメージで、一方、гулять по лесуのпоは運動が行われる空間の表面を意識し、なおかつその運動はlinearなものに限定されないであちこちぶらぶらするという意味合いがありそうです。
b) どちらも正しい。
глядеть в небоは「その雲に目をとめる」といった感じで、ある雲の中心部に意識が向かうような雰囲気があり、глядеть на небоは「雲を眺める」という感じで、наのもつ表面・平面への視線の動きを示しているということでしょうか。
以上、Розентальの参考書を確認して書きました。
設問2)「母(から)の手紙」
письмо от материの意味で取ればいいと思いました。письмо к материが「母への手紙」で、このкは省略しないのだろうと思います。「母が保管している手紙」もписьмо материとしてもおかしくないような気もしますが、この場合はуを使いますか?
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設問1の答えは正しいですが、設問2は間違いです。私の回答は、
解説)設問1)в лесуは「小さな森を散歩する」というニュアンスであり、по лесу(力点はпо)は「広い森林のどこかで散歩する」というニュアンスが出る。во двореでは「塀や家々で囲まれた中庭」というニュアンスが、(играть) на двореでは「外で遊ぶ」という意味である。глядеть в небоは「空の一点を見つめる」というニュアンスが、глядеть на небоでは「空全体を見る」という感じになる。
設問2)писимо материは「母の手紙」と「母への手紙」の両方の解釈が可能である。それゆえ「母への手紙」のときは、письмо к материの方がよい。このように意味をはっきりさせるために動詞由来名詞句で前置詞が出てくることがある。ただこれもある程度は読書を通じて語感を養わなければ理屈では分からないことが多い。ただエセーニンの詩Письмо материは内容から判断して「母への手紙」である。
生格による修飾表現は文脈次第なんですね。曖昧さがあるから表現の奥行きも増すのでしょうか。небоは「空」ですよね。なんで「雲」と訳したんでしょうか、クモッたもんです。失礼しました。
前置詞も細かい違いになると難しいですね。かつて文法で習ったような大雑把な違いでは役にたちません。ここまで正確な文法の知識はありがたいです。とても勉強になっています。takahashiさん、Розентальも買われたのですね。すごい!そのやる気を見習わなければ。そういえば、次の85回もtakahashiさんの分野のようですが…(笑)。
設問2)は、難しいですね。相手にはっきりわかってもらうためにはотやкなど前置詞をつけて表現するほうがいいということでしょうか。письмо материがエセーニンの例にあるように「母への手紙」ととれるとすると、城田先生の『中・上級編』84pのлюбовь к матери「母への愛」(любовь материは「母の愛」)となっていますが、любовь материでも文脈によっては「母への愛」ととれないこともないということでしょうか。
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一般的にはその通りですが、ただлюбовьのように次に来るのが生格(意味的主格)かк + 与格(愛の対象)で、意味がはっきり別れているものもあり、これは結局いかに多くの単語に接し、勘を養うのではなく、具体例を覚えるかだろうと思います。