2007年03月07日
●庭のシャンピニオン(1991年9月号掲載)
モスクワで3度目の春(1986年)、雨上がり。アパートの庭で3歳の娘が舌足らずの声で呼ぶ声がする。「パパァ、にわにボーゥがうまってぇよ」。行って見ると、地面に白く見えるものがある。小枝を拾って掘ってみる。周りからそーっとまるで遺跡の発掘調査のように少しずつ土を掻い出すと白いキノコだ。おお、これは外貨のスーパーマーケットでよく買うマッシュルームじゃないか。急いで妻に玩具のスコップとバケツを取りに行かす。我が家にはこれしかなかったのだ。そのうち人が集まって黒山の人だかり、とはならず、庭に出てきた管理人のミーシャにグリブィ、グリブィГрибы, грибы(キノコだ、キノコだ)とわめいても、ダー・イェスチДа, есть.(そうね、あるんだよね)と軽くいなされてしまった。感動の分かち合い、コミュニケーションが成立しなかったのは一体なぜなんだと一瞬考える。ロシア語に問題があるのか?そんなはずはない。単語が二つで文章ですらない。キノコを見せて、かつ力強く、まったく誤解のない言い方だ。キノコ好きだと聞いているロシア人の中でも、こいつは天邪鬼なのだろうかと考え込もうとしたが、ともかくあるだけ掘ることに決めた。
白いかさが出ているのは結構大きいもので、少し茶色になってアリの巣になっているものもある。土の上にひびが入っているところをスコップで掻き分けてゆくと、小さくて真っ白いキノコの赤ちゃんみたいなのが出てきた。これはまだ早いと埋め戻した。考えてみれば日本でキノコ狩りなどしたためしなく、10階の我が家からエレベーターで2分。何という幸せ。今日はこれで家族サービス終わりじゃ、終わり。ヴォート・イフショーВот и всё.(これでおしまい)。
小さなバケツにいっぱい取って、妻が「食べてみるぅ?」と聞くので、トライしてみようと言おうとしたとたん、「近くのワンワンが庭でよくオシッコしているし、やめましょ、やめましょ」と最終決定が下された。この庭は広くはないが、滑り台、ブランコ、ソリ滑りの坂、砂場もいちおうそろっている。キノコが見つかるのは、トーパリтополь(見た目では分からないがポプラの一種)の根元で、どういうわけかマロニエкаштан конскийのそばには一つも見当たらない。キノコにも好き嫌いがあるのだろう。トーパリはモスクワでよく見かける木で、南のアルメニアでピラミダーリヌィ・トーパリпирамидальный топольといって札幌のポプラ並木のポプラに似ているものを見たことがある。非常に早く育つので終戦後大量に街路樹として植えられたが、今じゃ公害の源である。6月になると吹雪のようにフワフワとポプラの綿毛が空を舞う。車にうっすらと汚らしくつもるが、これが杉の花粉症みたいなアレルギーを引き起こすらしく、駐在して2、3年でかかる人が結構いる。見上げると木にびっしり綿毛がついている。何か見苦しい。これを集めて綿の代わりに使えないものか?
カシュターンкаштанというのは栗だと思っていたので、庭の木がカシュターンというのには最初びっくりした。だって秋に落ちている緑色の実を見ると、イガイガのつきかたがまばらで、昔マンガで見た鬼の金棒のイガイガみたいだからだ。こういう話がある。キエフもカシュターンが多いので有名だが、あるお客さんがカシュターンの街路樹を見て、「この木は何か」と尋ねたのを、カシュターンは栗という思い込みから、即座に「栗です」と答えたところ、そのお客さんは、「栗のはずがない、だいたいイガの形も違うし、栗なら食えるはずだ。食えるかどうかロシア人に聞いてみろ」という。これはマロニエで薬用にはするが、食用にはしない。通訳だって植物でも動物でも覚えなくちゃならないから大変だ。こういう話を聞くと単語も頭に焼きつくというもの。ロシアでカシュターンと出たら、まずマロニエと訳したほうが無難である。キエフの外貨店の名はモスクワのベリョースカБерёзка(白樺)と違い、カシュターンという。ソ連に栗がないかというとそんなことはなく、南のほうでは栽培されていて、5年間の駐在期間中2度ほど街で小さな栗を買って食べたことがある。味はまさしく栗だった。
さて話がそれたが、このキノコをロシア人はシャンピニオーンшампиньонと言っていたが、昨年まではわが外国人アパートの庭にはついぞ見かけず、きっと庭の木の根元にまいた堆肥の中に胞子がくっついていたに違いない。雨の降るたびに、それこそカーク・グリブィ・ポースリェ・ダジジャーкак грибы после дождя(「雨後の竹の子」をロシア語では「雨後のキノコのように」という)で、いっぱいできたが、初めは面白がっていたアパートの子供たちも飽きてきて、放っておかれるようになった。しかし、僕は地主が地所を見回るが如く、週に1回はキノコを1本でも2本でも収穫し続けたのである。結局6月から9月まで楽しませてもらったことになる。
雨というのではないが、水に関する話題を一つ。僕が住んでいたアパートは外国人専用で、アフリカの外交官の家族が多く住んでいた。あるとき、庭を歩いていたところ、目の前の3歩ほど前をボターッと上から落ちてきたものがある。よく見るとビニールの袋に水が入っていて、落ちた衝撃で破れて水が出ている。上を見上げると、20階(我が家は10階だから見当がつく)のベランダで3人ぐらい子供の声がする。管理人のミーシャが寄ってきて、アフリカのガキだという。警官に言っても外交官の家族だし、証拠もないから埒が明かないという話だ。直径15センチのビニールの袋だが、水が入っているのが20階から降ってきて、頭にでも当たったらどうなるのだろう?2、3度こういう目に遭った。当時のモスクワは警察国家で外国人には平和に思えたが、こういう場面もあった。